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東京地下鉄 大江戸線 スケッチ散歩

スケッチブックと写真を持って「落合 南長崎」駅へやってきました

         地名の由来
     落合
 この辺りに流れる「神田川(善福寺川)」と「妙正寺川」の合流点であることが地名の由来となっている。元豊多摩郡落合町が昭和十年に東京市に編入され、その後板橋区を経て現在新宿区となる。大江戸線のこの駅の他に東西線落合駅や西武新宿線には下落合駅もある。
 神田川を挟んで低地には染色関連産業をはじめとする工場がおおく、高台は住宅地として発展してきたようであります。
 また、高台には右の絵の東京都水道局の「水の塔」があります。
     長崎
 山手通りと目白通りに囲まれる地域で、地名の由来は鎌倉時代の北条氏の家臣長崎氏の領土であった事であるようです。
関東大震災後に住宅地として発展し現在に至っているが、当時からの長崎神社の獅子舞は有名だそうです。


    水の塔の歴史
 水道の給水場につくられた配水塔です。大正十二年(1923) の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応えるために、豊多摩・北豊島両郡にある十三の町々が連合して建設したそうです。
着工は昭和2年(1927)で完成は昭和5年です。この野方配水塔の設計は、現在の新宿西口の高層ビル群や新宿中央公園に造られてあった、近代水道の父と言われる、中島鋭冶博士(安政5年生まれの大正14年没)によってなされました。博士の死後、設計は、西大條覚氏が引き継ぎ、野方配水管は昭和5年に完成の時を迎え、昭和四十一年まで使われていました。その後、解体計画もあったようですが、現在では、災害用給水槽になっています。
中野「水り塔」
スケッチ 水の塔

哲学堂公園
スケッチ 哲学堂公園「六賢臺」
   哲 学 堂 公 園
            (案内パンフレットによる)
  哲学者で東洋大学の創設者である井上円了博1858-1919)
によつて哲学や社会教育の場として創設されました。(1904)
孔子、釈迦、ソクラテス、カント、の四聖を祀る「四聖堂」にはじまり
六賢臺」「哲理門」「三学亭」「宇宙館」などが建てられました。
その後1944年昭和十九年に東京都に寄贈され、文化的修養公園として公開されました。
  1975年昭和五十年中野区立公園に
  1984昭和五十九年中野区の文化財に指定されました。

    哲学に由来する、歴史を有した建物。
      四季の彩りを感じる、花々や木樹。
  殺伐とした現代の世の中、何よりも自分自身を考え直す
           時間をこの公園で過ごす人も多いようです。
大江戸線スケッチ散歩の目次

大江戸線マップ


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「六賢臺」を巡る
哲学堂公園
哲学堂公園入り口
菖蒲池が先ず出迎えてくれる。
哲学の真理を少しでも触れさせてくれる予感がある
認識路

よく物事を知覚し推理して落ち着いて登りたいならば、この路を選ぶべし
絶対城

万巻の書物を読み尽くす事は妙境への道程であり、哲学界の万象はこの図書室にあり
宇宙館

哲学とは宇宙の真理を追究する学問であり、その講話を開かんとするための講義室である




三学亭

我国古来の神、儒、佛、三道の中、最も著述の多い平田篤胤、林羅山、釈凝然の三硯学の石額が奉崇してある
六賢臺

東洋の六賢人として日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、印度の龍樹、迦毘羅を祀ってある
無尽蔵

万象あまねく、持ち尽くす蔵。階上を向上楼、階下を万象庫と名付けて、井上円了博士が内外周遊の折の記念物を展示していた
常識門

正面の「哲理門」と対照として、普通の出入り口としての意味で与えられた名称の門である




四聖堂

 世界の哲学聖人である東洋の孔子、と釈迦、西洋のソクラテスとカントの四哲人を祀ってある
鬼神窟(霊明閣)

この前にある髑髏庵からこの屋に至れば精神は俗界かを離れて霊化するとしてこの名を付けられた
哲理門(妖怪門)

本堂の正面にあたり、左右にある天狗と幽霊は前者を物質界、後者を精神界に存在する不可思議の象徴とみなした物なり
直覚徑

唯心庭より丘上の論理域に達する近道を選ぶならば、この直覚徑を選ぶと良い





熊谷守一美術館
熊谷守一美術館

〒171-0044   東京都豊島区千早2-27-6
TEL 03-3957-3779
休館日 月曜日
夏休み、冬休み各三週間
開館時間 10:30〜17:30
金のみ20:00まで

熊谷守一(くまがい もりかず、
1880年4月2日 - 1977年8月1日)は岐阜県中津川市付知町(旧:恵那郡付知)出身の画家。孤高の画家であり「画壇の仙人」と称される程であった、写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で『熊谷様式』ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で多くの子をもうけたが、赤貧からその多くを失った。4歳で死んだ息子の死に顔を描いたもの、戦後、結核の病で失った長女の野辺の送りの帰りといった作品も残している。自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家である。また、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。 自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家。作曲家の信時潔とは30代からの友人で、後に信時の娘と守一の息子が結婚するほど親しい間柄だった。一頃は絵を描くことをせず信時の資料を元に音の周波数の計算に熱中していた。 後年、文化勲章を辞退したことでも知られた。



私の好きな熊谷守一画伯の作品

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