地上最大の成功者
あるクリスチャン実業家の証し
デモス・シャカリアン
(FGBMFI創設者) 述
ジョン・シェリル 記録
はじめに
第1章 山のかなたからのメッセージ
第2章 ユニオン・パシフィック通り
第3章 時限爆弾
第4章 気が変わった男
第5章 天国の手がかり
第6章 ハリウッドボウル
第7章 試練の時
第8章 クリフトンズ・カフェテリア
第9章 テーブルにかけた足
第10章 世界が変わり始めた
第11章 黄金の鎖
はじめに
アトランチック市のプレジデント・ホテルの前にある駐車場の端から二番目に、私たちがステーション・ワゴンを止めたのは、一九六〇年の陰うつな十二月のことでした。
数秒して、カリフォルニア・ナンバーの、使い古したキャデラックが、私たちの隣りに停車し、中からつばの広いカウボーイ・ハットの大男がおりて来ました。その人はささくれた大きな手を差し出して、「私がデモス・シャカリアンです。」と言いました。
彼は車の反対側に回り、美しい、黒髪の婦人のためにドアをあけて、「こちらが妻のローズです。」と言ったのです。
私たちは、自分たちが異言について調査するためにやって来た、ガイド・ポスト誌の記者であることを説明し、「ただちょっと見るために」来たものであることを、急いでつけ加えました。
それはなかなか大したことでした。プレジデント・ホテルは、その週間、デモスが創立者であり、会長である、国際純福音事業家親交会と呼ばれる団体の地区大会が開かれる会場となっていました。何千人もの人々が東部沿岸の各地からアトランチック市にやって来ました。カウボーイ・ハットをかぶり、農場で日やけしたこの男に会いに来た人々、聖霊が自分たちの生涯にどのようなことをして下さっているかお互いに語り合うために来た人々、また私たちと同じように少しビクビクしながら、そして多少懐疑心以上のものを持って、ちょっと見るために来た人々もいました。
感情主義に警戒せよ――私たちは互いに注意し合いました――叫ぶ、手をあげる、熱烈な証しをする、これらはみな、大群集を熱狂させるために使い古されたテクニックだからね、と。
私たちはじっと見守っていました。が、そんなことは何も起こりませんでした。ホテルの広間の前方から、デモスは、私たちには聞えない声に耳を傾ける人の持つ冷静さで、集会を指導していました。想像していたような混乱ではなく、控え目な秩序ある喜びが大会をおおっていました。猛攻撃を予想して身構えていましたが、そんなものもなく、むしろ思いもかけなかった愛にひたされ、私たちはその週間、他の幾百人もの人々と共に、聖霊による歩みを始めることになったのです。
あの十二月以来十五年間、私たちは、世界各地のペンテコステ運動を追って来ました。そこにこそ素晴らしい物語――興奮、生活の変化、現代教会の現実――のあることを発見したからです。そして、面白いことに気づき始めました。男の人や女の人、子供たちや老人、ローマカトリックやメノナイトであれ、生き生きした信仰を持っている人たちに私たちが話しかける度に、必ずこの風変りな実事家のグループと、デモス・シャカリアンというカリフォルニヤ出身の酪農家の話から話が始まりました。
このようないつもにこにこして笑みを絶やさない、それでいて恥かしがりやでロベたの男、そして決して急がず、明日がどうなるのかもわかっていないようにみえるこの男が、何百万人という人々に、あれほどの強い影響を与えることが、一体どうしてできるのか、私たちは自らに問いかけ続けました。そこでその理由を知ろうと、デモスにインタビューをしてみることにしたのです。
決めるのは簡単でしたが、やってみると困難でした。デモスは、ボストンにいるのか、バンコクにいるのか、あるいはベルリンにいるのかわかりませんでしたし、手紙の返事もくれませんでした。しかし、過去四年余りに、どうにか何回か訪問することができました。デモスとローズも私たちに会うため、東部に来てくれましたし、後にはスイスにある友人の山荘で会いまレた。モナコやパーム・スプリングで合流したり、車の中や飛行場で、そしてアルメニヤ風レストランでも話し合ったりしました。一番素晴らしかったのは、ダウニイにある彼らの家――最初の子供が生まれた一九三四年に建てた、同じ小さな家――で、デモスとローズと共に過した時でした。デモスのお父さんの家は隣りにありましたが本人が亡くなってからは空家になっていました。そちらの方が部屋数も多く、豪勢ですがデモスとローズは、あの小さな家の方に、ある思い出があるようです。
そして、だんだん私たちは、デモスの秘密を理解するようになりました。
その一部は、デモスの家族がアルメニアから携えてきたものでした。この最古のキリスト教団はまた、その信仰のゆえに最も苦しんだ国でした。そして、その苦難の中から洞察力が生まれました。
その洞察力はどんな人種や民族よりも優れたものです。それこそ、私たちがみな知らなければならない神秘であり、それを知るとき、デモスがいうように、「周囲の世界の情況がどうであれ、私たちは、地上で最も幸福な者となるのです。」
一九七五年十一月
バージニア州リンコルンにて
ジョン及びエリザベス・シェリル
第一章 山のかなたからのメッセージ
先日の夜、ローズと私は、ロサンゼルスを通って車で帰宅する途中、急に高速道路を下りて、私の祖父デモスが最初アメリカに来た時住んだ家を通り越してみたくなりました。四十二年間の結婚生活の後、ローズはこのような不意の衝動に慣れているので、夜中の一時だというのに、かつてロサンゼルス・フラットと呼ばれていた地域に、私が車を向けて下りて行っても、何も言いませんでした。しっくいでできた四角な家はもうボストン通り九一九には建っていなかったので、車の中に座ったまま、その附近のこわれかけた古い建物の代りに建てられた、新しい公営住宅をしばらく見回していました。それから車の方向を変えて、高速道路に向かいました。
しかし私には、暖かいカリフォルニアの夜のためか祖父の思い出がよぎり、その夜、なぜこの回り道をする必要があったか、私にはわかっていました。それはその晩、ローズと私が聞いたばかりの預言のためだったのです。私たちは、ベバリイ・ヒルでもたれた、純福音事業家親交会の集会に出席していましたが、そこである人が、神ご自身のみ声であると主張し、アメリカを含む世界各地に間もなく、クリスチャンに対する大きな迫害が起こる、と預言したのです。
そのような言葉をどう解釈したものでしょうか。一世紀前に、同じような警告が与えられたら私の家族はどのような態度をとったことでしょう。その頃も、このような預言がなされ、以来、祖父と父と私の生涯に起こってきたことは何もかも、その預言を本気で受け取った結果だったのです。
ダウニーの家に着いたのは、月明りがとても美しくて、寝るにしのびないような、午前二時のことでした。私は、妻のローズもとっくにあきらめているほどの宵っ張りです。私が古椅子を窓のところへ引っ張っていって暗闇の中に座り、過去の記憶に思いを馳せている間に、妻はベッドに行ってしまいました。
私は、祖父デモスをぜんぜん知りません。――私が生まれる前に亡くなりました。――しかし、彼の話は千回も聞かされたに違いありません。私はそれらの細かなことまでよく覚えていたので、今腰かけて、月光の中で銀色に輝くオレンジの木を眺めていると、はるかかなた、遠い昔の別な風景を見ているように思われました。アルメニア人にとって、これは難しいことではありません。私たちは旧約聖書の民であり、記憶の中に、過去と現在が一緒に織りなされており、百年、千年、あるいは二千年前の出来事もカレンダーの日付けのように、現実に思われるのです。
私は、聖書がノアの箱舟のとどまった山と記しているアララテ山の、岩がごつごつしたふもとにある、カラカラの小さな村を実際に目に浮かべることができるくらい、何回も繰り返して聞かされました。目を閉じると、石造りの建物、小屋、納屋、そして、祖父デモスが住んでいた一部屋だけの百姓家が見えるのです。その家で、祖父の五人の娘が生まれたのですが、息子はいませんでした。それは古代のイスラエル人にとって恥辱であったように、アルメニア人の間でも不名誉なことでした。
私は、日曜日毎に、五人の小さな娘たちを連れて、家の教会へ歩いて行く祖父を思い描くことができます。アルメニア人の大部分は、ロシヤ正教ではあったものの、祖父と多くのカラカラの人々は長老派でした。私は、祖父が無言の非難の目が集中している中を、しっかりと顔を上げて、その日曜日に礼拝の持たれる家に向かって、村の中を行進していくのが見えました。
祖父は、非常な必要に迫られていたにもかかわらず、五十年近くもの間、山をこえて少しずつもれて来る不思議なメッセージを、すぐに受け入れようとしなかったことは、私にとって、いつも驚きでした。そのメッセージは、ロシア人によってもたらされたものです。祖父がロシア人を好きであったことは間違いないのですが、彼らの奇跡の物語を受け入れるには、余りに冷静な頭を持ち過ぎていただけなのです。ロシア人たちは、幌馬車の長い隊列を組んでやってきました。ロシア人たちは、我が民族のように、襟のつまった長い上着を着、腰を房のついたヒモで結び、結婚している男性は、あごひげを延ばしていました。ほとんどのアルメニア人もまた、ロシア語を話したので、お互いの意志の疎通に困難はありませんでした。アルメニア人たちは、ロシア人がロシヤ正教会の何十万というクリスチャンに起こった、「聖霊の傾注」と呼ぶ話に耳を傾けました。ロシア人たちは、贈り物を携えて来た人々のように、彼らが分け与えたいと願っていた聖霊の賜物を持って来たのです。私は、そのロシア人たちの訪問の後で、祖父母が夜遅くまで話し合っているのを聞くことができるような気がします。あのロシア人の言っていることは、すべてが聖書に基づいていると認めざるを得ない、と祖父は言ったことでしょう。
「わしの言う意味は、病気のいやしは聖書の中にあるということだ。異言を話すことも、預言もだ。ただ、こういうもの全部が、アルメニア人らしくないんだな。」彼がこういうのは、アルメニア人は、信頼できる、実際的、具体的なものしか信じないのだ、ということを意味しているのです。
そして祖母は、長い間重い気持のまま、「ねえ、あなたが預言とか病気のいやしという時は、奇跡のことを話しているのでしょう。」と言ったのかもしれません。
「そうだよ。」
「もし、私たちがそんなふうに『聖霊を受ける』ならば私たちもまた、奇跡を求めることができるとお思いになりますか?」
「息子が与えられるというようなことかね?」
それから、祖母は泣き始めたのかも知れません。一八九一年五月の、太陽がサンサンと輝くある朝、祖母は泣き悲しんでいた事実を私は知っているのです。
何年かの間に、カラカラに住んでいた数家族が、ロシア・ペンテコステ派のメッセージを受け入れ始めました。祖父の義兄、マガーディッチ・ムシェギアンは、その一人でした。彼は聖霊のパブテスマを受け、シャカリアンの農場をひんぱんに訪れては、人生に新しく見出した喜びをよく話したものでした。
この特別な日―― 一九八一年五月二十五日――祖母と数人の婦人たちは、一部屋だけの農場の片隅で縫い物をしていました。祖母は縫い物をしようとしていたのですが、涙が膝の上の縫い物の上にとめどなく流れ続けていたのです。
部屋の反対側にある、光がよく入る窓辺には、マガーディッチ・ムシェギアンが腰かけて、膝の上に広げた聖書を読んでいました。
突然、マガーディッチは聖書をパタンと閉じて立ち上がり、部屋の反対側に歩いていくと、興奮の余り濃い黒のあごひげを上下にピクピク動かしながら、祖母の前に立ちました。「グーリサ−、主はたった今、わしに語られたぞ!」とマガーディッチが言いました。 祖母は背すじをピンとのばしました。「はあ? マガーディッチ。」
「主はあなたへのメッセージを下さったのだ、グーリサー。今日からきっかり一年後に、男の子が生まれますぞ。」とマガーディッチは言いました。
祖父が畑から帰って来ると、祖母は戸口まで出迎え、素晴らしい預言のニュースを伝えました。祖父は嬉しくて、信じたくもあるが、まだ信じられずに黙っていました。ただ、ニコッと笑って、少し肩をすくませ、カレンダーの日付に印を付けました。
何か月かが過ぎ、祖母は再び妊娠しました。その頃には、カラカラの人々はみなこの預言を知って、村中が気をもみながら待っていました。すると、一八九二年五月二十五日、預言の与えられた日からきっかり一年目に、祖母は男の子を生みました。
私たちの家族が、このような個人的な方法で聖霊に出会ったのは、初めてのことでした。カラカラの人はだれでもが、小さな男の子の名前を選ぶにあたっては完全に一致しました。その子はイサクと呼ばれ、アブラハムが長い間待ち望んでいた息子のように約束の子でした。
イサクが生まれてからは、祖父は大いばりで、一家を連れて毎週日曜日毎に教会へ通う幸福な者となったことは間違いありません。しかし、祖父はすべてのアルメニア人がそうであったように、頑固者の傾向がありました。彼は、自分は余りにも一徹者で、まのあたりにしたばかりの、聖書に書かれているような超自然の預言を、無条件で受け入れることはできないと考えていました。マガーディッチの予言は、あるいは運のいい偶然の出来事に過ぎなかったのかもしれません。
しかし、それから、祖父の疑いがたった一日のうちに完全に、しかも永遠に消え去るような出来事が起こったのです。
一九〇〇年、イサクが八歳、妹のハマスが四歳の時、百人のロシア人のクリスチャンが幌馬車で山を越えてこちらに向かっているという知らせが入りました。みな喜びました。クリスチャンが訪れる時には、到着したらいつでも祝宴を開いてもてなすのが、カラカラの習わしでした。ロシア人が伝えている「純福音」に賛成していなかったにもかかわらず祖父は、彼らの来訪は神がもうけて下さった機会と考え、自分の家の広い平らな前庭で歓迎の祝宴を開くように、強く主張しました。
さて、祖父は自分の立派な牛がご自慢でした。ロシア人たちがこちらに向かっているという知らせを聞くと、出かけて行って牛の群れを見渡しました。そして、この特別な祝宴のために、一番立派で太った牛を選ぶつもりだったのです。
ところがあいにく、群れの中で一番太った牛は、調べてみると傷ものでした。片目がつぶれていたのです。
どうしたらいいのでしょう。祖父は、自分の聖書をよくわきまえていましたから、欠陥のある動物を主に捧げるべきではないということくらい知っていました。レビ記二十二章二十節では、「欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。」と言ってはいないでしょうか。
何という窮地でしょう。群れの中には、百人の客にふるまうに十分な大きさの牛はいなかったのです。祖父はあたりを見回しました。だれも見てはいませんでした。その大きな牛を殺して、ただ問題の頭を隠してしまったとしましょう。そうです、それこそ祖父がしようとしていたことでした。祖父は片目のつぶれた牛を納屋に連れて行き、自分で殺してからすぐに頭を袋に入れ、うす暗いすみっこの脱穀して小高く積まれた麦わらの下に隠しました。
カラカラに入ってくるガタゴトという幌馬車の音を聞いた時、牛肉の下準備もすっかり終っていました。何と喜ばしい光景でしょう。ほこりっぽい道をやって来たのは、それぞれ、四頭の汗まみれの馬に引かれた、見覚えのある幌馬車の一隊でした。先頭の一群の 者の脇には、その集団の指導者であり、預言者でもある白ひげの長老が、背筋をピンと伸ばして堂々と座っていました。祖父と小さなイサクは、客を迎えようと道を走っていきました。
町中で、祝宴の準備が行なわれておりました。やがて、カンカンにおきた途方もなく大きな炭火の上で、串ざしにした牛肉が焼かれました。その晩、長い厚板のテーブルのまわりには、お腹をすかせて待っていた人々が集まりました。けれども、食事の前に、祝福の祈りをしなければなりません。
これら年配のロシア人のクリスチャンたちは 食前の祈りであろうと、彼らが「油注ぎ」と呼ぶものを受けるまで、一言も祈ろうとはしません。彼らの言葉でいう、「聖霊が下る」まで主の御前で待っているのです。祖父は少々面白がったのですが、彼らは神の臨在が下るのを感じられると主張しました。それが起こると、彼らは手を上げて喜び、踊ったものでした。
この時もいつものように、ロシア人たちは御霊の油注ぎを待ち望みました。みんなが見守っていると、やはり次々にその場で踊り始めました。何もかもいつものように行なわれました。やがて、食前の祈りがあり、祝宴が始まるはずでした。
ところが、突然、長老が祝福のしるしではなく、すべてを止めさせる合図として手を上げたので、祖父はろうばいしました。そして、人の心の底まで見抜くような目つきで祖父を見ながら、長身で白髪のその人は、一言も言わずにテーブルから離れて歩いて行きました。
庭を横切って、納屋へ大股で歩いて行く白髪の老預言者の一挙一動を祖父の目が追っていました。間もなく彼が出て来た時、手には祖父が山積みの麦藁の下に隠した袋が握られていたのです。
祖父はふるえだしました。どうしてあの人にわかってしまったのでしょう。自分を見ていた者は誰もいなかったのに。あの牛の頭を隠した時には、ロシア人たちは村に到着してさえいなかったのです。さて、その長老は、祖父の前に言いのがれのできないその袋を置いて、乳白色の目玉のついた頭をとり出してみなに見せたのです。
「デモス兄弟、何か告白すべきことがあるのではないかね。」とロシア人は尋ねました。
「はい。あります。でもどうしてご存知でしたか。」と、祖父は震えながら言いました。
「神がお教え下さったのじゃ。」と老人はいとも簡単に答えました。「そなたは、神がご自分の民には、昔のように今も語られるということを、まだ信じておらんのじゃ。御霊は、特別な理由があって、この知識の言葉をわしにお与えになった。それはそなたとご一家が信じるようになるためなのじゃ。そなたは御霊の力にずっと抵抗してきたが、今日からはもうそんなことをしなくなるじゃろう。」
隣人と客たちの前で、その晩祖父は、自分がごまかそうとしていたことを告白しました。濃いあごひげの中に、涙を流れしたたらせながら、祖父は人々のゆるしを乞いました。「どうしたら私も神の御霊を受けることができるか教えて下さい。」と祖父は預言者に言いました。
祖父がひざまずくと、その年取ったロシア人は、労働で節くれだった手を彼の頭の上に置きました。とたんに、祖父は、自分にもまたまわりの者にもわからない言葉で、喜びに満ちた祈りをどっとあふれ出させました。ロシア人たちは、このように我を忘れて発する言葉を「異言」と呼び、聖霊がそれを語る人々と共にいることのしるしとみなしていました。その晩、祖母もまた、この「聖霊のバプテスマ」を受けました。
これは私たち一家に起きた、生活の大変化の始まりでした。その第一は、カラカラの最も有名な住民に対する態度が変ったことでした。この人は、その地方で「少年預言者」として知られていたのですが、牛の頭の事件当時は、その少年預言者は五十八歳になっていました。
その人の本当の名前は、エフィム・ゲラセモヴィッチ・クラブニケンで、特筆すべき経歴の持ち主でした。彼はロシア系で、その家族は、国境を越えてカラカラに永住した最初のペンテコステの群に属していました。幼少時代からエフィムは、祈りの賜物を現わし、しばしば長い断食を続け、四六時中祈っていました。
カラカラの誰もが知っているのですが、エフィムが十一歳の時、再び主が、徹夜の祈りに召しておられるのを聞きました。今度は七日七晩続けましたが、その間に彼は幻を見ました。
それ自体は何も珍しいことではありませんでした。事実、祖父はよく、そんなに長い間食べることも眠ることもしなければ、誰だって何か見え始めたりするものだ、とぶつぶつ言っておりました。しかし、エフィムが七日間になし得たことは、そう簡単に説明できないことです。
エフィムは読み書きができませんでした。にもかかわらず、彼がカラカラの小さな石造りの家の中に座っている時、自分の前に、図表と美しい手書きの文字で書かれたメッセージの幻を見たのです。エフィムは紙とペンを求めました。そして、七日間、家族が食事をするための荒削りの板のテーブルのそばに座って、目の前を通り過ぎていく文字の形や図を苦心して写したのです。
それが終ると、写したものを、村で字の読める人たちのところへ持って行きました。すると、この文盲の子供が、ロシア文字で一連の教えや警告を書き上げていたことがわかりました。いつとははっきり指定されていないが、将来カラカラのクリスチャンはみな、恐ろしい危険に出会うようになる、と少年は書いていました。その辺一帯に、筆舌に尽しがたい悲劇が襲ってくる時を預言したのです。その時には、幾千万の老若男女が虐殺されるというのです。その地方の人々はみな逃げ出さなければならない時が来る、と少年は警告しました。人々は海の向こうの国へ行かなければならないというのです。今まで地理の本を見たこともないというのに、少年預言者は、脱出するクリスチャンたちが行くべき所をはっきり示した地図を描きました。大人たちが驚いたことには、非常に精密に描き出された海は近くの黒海やカスピ海、あるいは遠く離れた地中海でさえもなく、なんと、はるかかなたの想像も及ばない大西洋だったのです。それについて疑問の余地はなく、海の向こうの大陸がどこかもはっきりしていました。地図にはアメリカの東海岸が明白に描かれていました。
しかし、避難民たちはそこに安住してはいけない、と預言は続いていました。新大陸の西海岸に達するまで、旅を続けなければならない。そこで神は彼らを祝福し繁栄させ、子孫たちを諸国民に対する祝福とする、と少年は書いたのです。
しばらくして、エフィムはまた第二の預言を書き出しました。しかし、皆に知らされたことは、さらにもっと遠い将来についての預言で、人々はもう一度逃れなければならない時が来るということでした。エフィムは両親に頼んで、この預言を封筒に入れて封をしてもらい、預言について与えられた指示を繰り返しました。幻の中で彼は、将来の預言者――この仕事のために主に選ばれた者――のみが封筒を開けて、教会のためにその預言を読むことができ、時が満ちないうちにそれを開ける者は死ぬであろう、と告げられたのです。
さて、カラカラの多くの人々は、この少年の空想物語を微笑して聞いていました。確かに「奇跡的な」筆記については、何か納得のいく説明がなければなりません。ひょっとしたら、村全体にいたずらをするつもりで、密かに読み書きを習ったのかもしれません。
しかし、他の人々はエフィムを少年預言者と呼び慣れており、メッセージが本物でないなどとは思ってもいませんでした。新しい政治問題のニュースが、アララテの周囲の平穏な丘陵地帯に届く度ごとに、人々は、もう黄ばんでいるページを取り出しては、またしても読みなおしていました。マホメット教のトルコ人とキリスト教のアルメニア人との間の問題は、緊張の度合いを強めているようでした。一八九六年八月――祖父が片目のつぶれた牛をほふるより四年も前のこと――トルコ人の群れが、コンスタンチノープルの路上で六千人以上ものアルメニア人を殺害したではありませんか?
しかし、コンスタンチノープルは遠い所ではあったし、あの預言が与えられてから何年も経過していました。聖書の預言は、その出来事の何十年も、時には何百年も昔に与えられたことは事実です。しかし、祖父を含めてカラカラの大多数の人々は、聖書が完成したことによってそのような本物の預言の賜物は終ったもの、と信じていました。
ところが、今世紀に入って少したった頃、エフィムは、五十年近くも前に書いた預言の言葉が成就する時は近づいている、と発表したのです。「アメリカヘ逃れなければならない。ここに残る者はみな滅ぼされてしまうだろう。」
カラカラのあちらこちらで、ペンテコステ派の家族たちは荷造りをし、ずっと昔からの先祖の財産を後に残しました。エフィムとその家族は最初に出発する群れの中にいました。ペンテコステ派の群れがアルメニアを出発する度に残留した人々はあざ笑いました。懐疑的で、不信仰な人々は――多くのクリスチャンたちも含めて――神は現代においても、現代の人々に詳細で、適確な指示を与えることができることを信じようとはしなかったのです。
しかし、その指示の正しいことが証明されました。一九一四年、想像を絶する恐怖の時期がアルメニアを襲ったのです。トルコ人は、情容赦のない強引さで、住民の三分の二をメソポタミヤの砂漠に追い出す血なまぐさい仕事に取りかかったのです。カラカラの全住民を含めて百万人以上もの老若男女が死の行進の最中に死んでいきました。他の五十万人は自分たちの村で虐殺されました。これは後で、ヒットラーにユダヤ人絶滅の青写真をあてがうことになりました。「トルコがアルメニア人を根絶したとき、世界は干渉しなかった。今度も干渉しないだろう。」と彼は部下に話したのです。
包囲されていた地域をやっと逃れてきた少数のアルメニア人たちは、偉大な英雄の話を伝えてきました。時々、トルコ人たちは、クリスチャンたちに、信仰を否むなら代りに命は助けるという機会を与えたというのです。好んで用いられた方法は、一群のクリスチャンを納屋に閉じ込め、それに火を放つことでした。「キリストの代りに、モハメッドを受け入れるなら、ドアを開けてやろう。」というのでした。幾度も幾度も、クリスチャンたちは炎に包まれながらも、讃美歌を歌いながら自ら死を選んでいきました。
少年預言者の警告を受け入れて、アメリカに避難した人々は、非常なショックをもってこの知らせを聞きました。
祖父デモスは、避難した者の一人でした。ロシア人の長老との体験があってからは、祖父はもう預言の確実性を疑ったりはしませんでした。一九〇五年、祖父は先祖伝来の農地を、ごくわずかの金額で売り払いました。それから、家族が背中にしょっていく荷物を選び出し、自分の荷物には、木を燃やして使う、重い真鍮のサモワール(ロシアの湯沸し)を加えました。そして、妻と六人の娘たち、シュシャン、エスター、サイルーン、マッガ、イヤチャン、ハマス、それに、自分の生涯の誇り、十三歳になるイサクを連れて、アメリカヘ出発しました。
家族は無事にニューヨークに着きましたが、預言が念頭にあったので、そこに定着しませんでした。書き記された指示に従って、とまどってしまうほど広大な新大陸を横断してロサンゼルスに到着するまで旅を続けました。うれしいことに、そこには、カラカラから来た何組かの友人たちがすでに住みついていて、小さいながらも、成長しつつあるアルメニア人地区がありました。その友人達の援助で、祖父は家を捜しに出かけました。「フラッツ(共同住宅)」と呼ばれる所が、ロサンゼルスで一番安い所でしたが、それでも新しく到着した二家族と共同で借りることにより、やっとボストン通り九一九番地の、四角なしっくいの家に引っ越すことができました。
船旅とアメリカ大陸横断の旅行、それに新しい家を借りるための分担金で、先祖からの農場を売って得たお金はみな使ってしまいました。祖父はすぐに仕事を捜しに出かけましたが成功しませんでした。一八〇〇年代後半の大不景気は、カリフォルニア地方にまだ影を残していました。特にその国の言葉が一言も話せない新参者には、仕事は全然ありませんでした。毎朝祖父は、職業案内所へ出かけて行き、夕方には前日よりも更に重い足取りで帰って来るのでした。
しかし、毎週一回はすべての心配ごとを忘れる時がありました。日曜礼拝です。ボストン通りの家の中には前面に大きな客間があり、そこがすぐに地域集会所に早変りしました。集会はカラカラ当時の家の教会の習慣に従いました。開かれた聖書が置かれている大きなテーブルが中心にありました。そのどちらか一方の側に、年齢順に、まず年配者が最も近い所で、その後に若者、最後に少年たちが座っていました。部屋の反対側には、昔からの慣例どおりに婦人たちが、これも年齢順に着席していました。長老たちは、真っ黒のあごひげを伸ばし続けており、時には若者が、ただ口ひげだけはやして、みんなをぎくりとさせたりしました。たとえ週日にはそうでなかったとしても特に教会では男の人は色あざやかなチュニックを着て、婦人は、伝統的に続いてきた縫い取りのある長いドレスを着、鉤針編みのスカーフをかぶっていました。
祖父にとって、このクリスチャンの群れから霊的支援を受けていたことは、何という慰めであったことでしょう。これらのクリスチャンは神が今でも聖書から直接語ることができるということを久しく学んできていました。祖父は自分の就職の必要を覚えつつ、故国から持って来た、小さな東洋の敷物の上にひざまずいて、「みことば」を求めたことでしょう。それから全会衆が祈り始め、よく異言と呼ばれる未知の、こうこつとさせるような言葉で、静かに祈ったことでしょう。ついに長老の一人が、聖書に歩み寄り、無造作に一節の上に指を置きました。みことばはいつも、必要のある問題に直接あてはまっていたようです。時には、それは主の真実さ、あるいは少年預言者が予見したように、乳と蜜との流れる日が来ることについてだったかも知れません。いずれにせよ、小さなアルメニア人の教会は、その日が来るのを待っていましたが、少なくともそれを待つ間、美しい交わりの時がありました。
ある日、もう一つ励まされることが起きました。祖父と祖父の義兄、マガーディッチ・ムシェギアン(イサクの誕生を予言した人)が、馬小屋での仕事口を捜しながらロサンゼルスのサンペドロ通りを歩いていました。アズサ街と呼ばれる横道を通り過ぎようとしたとき、彼らは急に立ち止まりました。馬や馬具のなめし皮のにおいに混って、間違いなく異言で神を賛美している声を聞いたのです。米国に、自分たちと同じように、神を礼拝する人々がいるということを、彼らは知りませんでした。声が響いてくる改造した馬小屋の方へ走って行き、ドアをたたきました。それまでには、祖父は多少の英語を知っていました。
「中に……入れる?」と祖父は尋ねました。「もちろんですよ。」とドアはパッと開かれました。そこには抱擁、感謝して神に向かって挙げられた両手、歌と、主への賛美がありました。祖父とマガーディッチは、海を越えてこの遠い国にさえもペンテコステがやって来た、というニュースをもってボストン通りに帰って行きました。当時、このアズサ街が有名になろうとは、だれも知りませんでした。全世界の各地に、カリスマ的刷新をもたらす発火点となるリバイバルが、その古びた馬小屋の中に起こっていたのです。その当時、祖父はこの信者の群れをカリフォルニアにおいて、何か新しく、素晴らしいことをなさる神の約束の、単なる喜ばしい確証として見ていました。
この新しいことが何であるかを知ることもなく、祖父は亡くなりました。長らく待ち望んでいた安定した仕事をやっと手に入れたところ、それは悲劇に終りました。
一九〇六年のある日、祖父は軽い足どりで家に帰って来ました。「仕事が見つかったのですね。」と祖母がいいました。「おお、そうだとも。」
家族全部が祖父のまわりに集まり、素晴らしいニュースのことを聞きました。ネバダで(それはカリフォルニアに隣接する別な州なのだと祖父は説明しました。)鉄道が人を雇っているというのでした。
祖母の顔が曇りました。祖母はネバダのことを聞いていたのです。そこは砂漠で、気温摂氏四十四・五度にも上昇し、そのような熱さの中で、鉄道工事のような重労働のため倒れて死ぬ人々がいたのです。「しかし、わたしは農夫だということを忘れたのかね。太陽のもとで働くことには慣れておる。それに、(私の)息子の母親グーリサルよ、我々には選択の余地があるだろうか。」と祖父は言い返しました。
そこで、祖父は教会の長老たちを呼び集め、旅立つ前の、伝統的な祝福の祈りをしてもらいました。それから着替えを毛布にくるんで、砂漠に向かって出かけて行きました。やがて、郵便配達夫が、毎週、ボストン通りの家に郵便替為を配達してくるようになりました。
それから、ある夏の夕方、祖母がいつも恐れていた電報が届いたのです。ある猛烈に暑い日、祖父は鉄道で働いている時に倒れたのです。遺体は列車で送り返されてきました。
祖父の死によって、私の父イサクは、まだ年端もいかない十四歳で今や一家の柱となったのです。
数か月間、父はロサンゼルスの下町の街角に立って、新聞を売り、一か月におよそ十ドルくらいを得ていました。祖父の生存中なら、これは大きな助けとなる額でしたが、今では母と六人の姉たちを養うには、とても足りないものでした。一九〇六年のサンフランシスコ地震のような大きなニュースがあって、一時間以内に六束の号外が売れた時でも、いつもより何本か余分の牛乳がテーブルの上に並べられるだけでした。
しかも父は、働いて得たお金でなければ、受け取りませんでした。今世紀の初め頃には金貨がまだ流通していました――五ドル金貨は五セント硬貨とおおよそ同じ大きさでした。ある日、客が父の手に大急ぎで硬貨を握らせて、三セントのおつりを受け取り、道をかけ出して行きました。父は「ロサンゼルス・タイムズ」と書いてある、青い前掛けの中に硬貨を入れようとして、ふと見ると、「五セント」と思って持っていたのは、五ドル金貨であることがわかりました。「ミスター!」と父は叫びましたが、客はもう何十メートルも離れていました。父は新聞の上に重しをのせると、男の人の後を追いかけました。市電が、チンチン音をたてながら通り過ぎました。父は、ためらうことなく、電車に乗り込み貴重なもうけの中から電車賃を払って男の後を追いかけました。やっと追いついてから父は市電から飛びおりました。「ミスター!」男はやっとふり返りました。「ミスター、これ……五セント……ないです。」父は片言の英語で言い、手を差し出すと、金貨が日の光に輝きました。
私は、ただ「うん」と言っただけで金貨を受け取ったその男のことを、しばしば考えます。もしその人が、ボストン通り九一九番地の家の戸口で、毎晩お腹を空かせて待っている者たちの顔を見ることができたなら、新聞売りの少年に、ぜんぶ取っておけと言ったであろうと考えたいのです。
一か月十ドルでは、家族には足りませんでした。以前祖父がしていたように、毎夕、父も仕事の後で、職業案内所に出かけて行きました。しかし、大の男の仕事口が少なかったのですから、少年の仕事口はそれ以上少ないものでした。やっと、馬具工場に仕事の口があることを知りました。賃金は安く、月に十五ドルでしたが、新聞売りよりは収入がよいので父はその仕事につきました。
一九〇八年のある日、父が十六歳の時、工場から帰って来ると、祖母からびっくりさせられるような言葉を聞きました。「イサク、素晴らしいニュースがあるのよ。」と祖母が言いました。「よい話なら聞きたいですね。」と父は口にあてがっていたハンカチごしに言いました。馬具工場の微細な革のほこりが肺に入り父は絶えず咳をしていたのです。「私に仕事口があったのよ。」と祖母が言いました。父は自分の耳を疑いました。アルメニアの婦人で、賃金のために働く者はいません。祖国では、男が自分の家族を養ったものでした。父は、台所で頭髪についた革のほこりを洗い落しながら、祖母にそれを思い出すように話しました。「でもイサク、この重荷を一人で負っていることによって、お前がどうなっているかおわかりじゃないのかね。お前は串ざしの串のようにやせ細っているじゃないの。昨日、お前がハマスにきつい言葉で話しているのも聞きましたよ。」
父は赤くなりましたが、自分の立場を固執しました。「お母さん、仕事を引き受けてはいけませんよ。」「もう、引き受けたのよ。ホーレンベック・パークの親切な家庭なの。洗濯、アイロンがけとほんのわずかのお掃除だけなのよ。」「それじゃ私は荷造りします。」父は穏やかに言って、台所を出て行きました。
彼は自分の部屋へ上がって行くと、祖母は後からついて行きました。父が何枚か着替えをまとめている間、祖母は戸口に立って見ていました。「お母さんが働くのなら、私はここにいる必要はないでしょう。」
翌日、祖母は、ホーレンベック・パークの家族に、結局は洗濯しに行かないと伝えました。
しかし、馬具工場で、父の咳はひどくなる一方でした。その翌年は、職工長になって時々現場を離れることができるようになったにもかかわらず、好転しませんでした。祖母は父が一晩中咳こんでいるのを聞いて、眠れずに目をさましたまま横になっていたと、よく私に話したものでした。祖母に説得されてついに父が医者に見てもらったところ、医者が確認したのは家族の者たちがすでに承知していたことでした。もし父が馬具工場を止めなければ、十代を生きながらえることはできないというのでした。
問題は、彼が今以外の方法で、どうしたら母や姉たちを養っていけるかということでした。そこで、家族が困った時にいつもするように、父は教会へ行きました。
ペンテコステ派のアルメニア人たちは、もはや、ボストン通りの家の客間では礼拝しなくなっていました。男の人たちが、あちらこちらに仕事を見つけて最初にしたことは、教会堂の建築でした。グレス通りにあるのは、多分二十メートルに十メートル四方の、小さな木造建築で、主の喜びが会衆を動かして、御霊によって踊る時は、壁に押しつけることができるような、背もたれのない簡易ベンチが置いてあり、会堂の前方には、伝統的なテーブルが置いてありました。
私は、祖父が幾度もしたと同じように、そのテーブルに向かって歩いていく父の姿を描き出すことができます。父は小さな、濃い栗色の敷物にひざまずき、必要を満たしてくれるよう祈っている間、背後には、マガーディッチとその息子のアラム・ムシェギアンを含む長老たちが集まっていました。アラム・ムシェギアンは非常に頑固なので、車輪を修理する間馬車を持ち上げることができるほどだといわれていました。今、聖書の箇所を指で差し示し、大声で不思議な美しいみことばを読んだのはアラムでした。
「あなたは、町の内でも祝福され、畑でも祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も……。」
土地? 父は不思議に思いました。家畜? 申命記二十八章のみことばは続きます。
「主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。」
それを聞いている間、父は、自分が今まで本当にしたかったこと――日中裁断機のそばで夢見ていたことは、世界中でたった一つしかないと気がつきました。牛や新鮮な青物が成長している野外で働きたかったのです。
しかし、土地を買うには莫大な資金が必要だというので、そんな考えが浮かぶと、現実の厳しさを思い出して否定していたのです。しかし今や、聖書の約束が耳に響くのを聞いて、決心しました。父は馬具工場に知らせて二週間以内に仕事をやめました。
そして、ほとんど同時に、あることに気づきました。町の店先に並べられている果物や野菜は、父の家族のような人々には、値段が高すぎるばかりではなく、まだ未熟なうちにもがれたかのように、小さくてしなびていました。もし、田舎から、本当に新鮮な野菜を集めて、町まで持って来て、一軒一軒売って歩いたらどうか、と考えてみました。
そこで、青果事業に着手したのは父でした。ロサンゼルスの南部と東部は小農場地域で多くがアルメニア人によって所有されており、そこでは、世界でも最も品質のよい、果物や野菜が生産されていました。父は姉たちの持参金のために、毎月ほんのすこしずつ積み立てていたお金で、二つのものを買いました。一つは平底の荷馬車であり、もう一つは、ジャックという名の、二歳になる赤銅色の馬を買ったのです。
翌日、父はジャックと馬車を走らせて、小さな鉄道の連絡駅のあるダウニーという田舎町に行きました。当時はまだ市の郊外にすらなっておらず、二十五キロほど離れた田舎にある小さな町でした。片道三時間近くかかりましたが、父は道中を心から楽しんでいました。新餅な空気で、おかされていた肺はいやされ、父の心の中には夢がふくらみ始めていました。いつの日か、自分も農業をし、牛さえも所有するようになりたい。自分は酪農家――全国一の酪農家になるのだと。
しかし、それまでには、しなくてはならない仕事がありました。その日ダウニーで、父は各農場をまわり、こちらでレタス、あちらでグレープ・フルーツとオレンジ、どこか他の所で人参をと、最盛期の野菜や果物を買い集めました。
それから、馬車に最高の商品を山積みして、ロサンゼルスに帰って来ました。町の通りをパカパカと通りながら、父は大声で叫びました。「よくうれたイチゴ! 甘いオレンジ! とれたてのホーレン草!」商品はよいし、値段も悪くないので、次の時に父が通りかかると、主婦が待っているようになりました。
さらに一年が経ちました。父は今や十九歳になり、粋な口ひげを生やしていました。借りた持参金は、もっと付け加えられて返されました。健康は回復したし、商売は繁盛しているし、父は、自分自身の家庭を持つことを考え始める時が来たと思いました。
彼はすでに、妻として迎えたい少女――黒い瞳と黒髪の十五歳になるザロウヒ・エッサイアンを見つけ出していました。しかし、個人的には、ザロウヒを知りませんでした。アルメニア人の習慣によると、家族が結婚に賛成するまでは、男女が互いに話しすることはありませんでした。父が知っていることはただ、六番街とグレス通りの角にある、エッサイアンの家の前を通ると、胸の中で心臓がはげしく打ったということだけでした。
父の父が亡くなっていましたので、教会の長老がザウヒロ側に正式の申込みをしました。エッサイアン家に対して、父は、自分の将来の計画を話しました。つまり、必要な頭金を集め次第、彼は現在の仕事をやめて、酪農場を買うつもりでした。その後は、カリフォルニア全土に拡張するのだと、この青年は主張したのです。
こうして、父は結婚しました。やがて、父と母は、ダウニーの中心地に、十エーカー(四ヘクタール)のとうもろこし畑と、ユーカリの林、それに牧場を買うことができました。そのうち最も素晴らしかったのは、三頭の乳牛でした。父と母は、自分たちの手で、荒けずりの板で小さな家を建てました。三十センチ幅の各床板のすき間がとても大きかったので、床磨きした水は難なくすき間を通って、床下の地面に流れ落ちたので掃除が簡単な家だったと、母がよく言っていました。
ふと気がつくと、客間の古椅子に座って思い出にふけっている間に、オレンジの木の背後の空はもう、薄明るくなっていました。それでもなお、私はまだ過去の思い出にふけっていました。一九一三年七月二十一日、父と母がダウニーの小さな、板ばりの家を完成しないうちに、もう最初の子供が生まれました。息子が生まれるのを、長い間待ち望んでいた祖父と違って、最初から男の子でした。それが私で、デモスと名付けられました。
私のそばのテーブルの上には、祖父がカラカラから背負って来た、大きな真鍮のサモワール(ロシアで使われるお茶用の湯わかし)が早朝の日の光を反射していました。私はふり返ってそれを見ると、よく磨かれ、朝日を受けて金色に輝いていました。両親が私に祖父の名をとって名付けたのは、私の生涯にも、預言が、不思議で、遠大な役割を果すようになると想像したからかも知れないと思いました。
第二章 ユニオン・パシフィック通り
私が生後八か月の時、両親はダウニーに引っ越して来たのですが、彼らはグレス通りにある小さな教会に出席し続けていました。父は、アルメニア人が力を受けるところは、この教会であると言いました。同じ頃、父は私に二つの技術を教えてくれました。私の手が十分大きくなるや、乳しぼりを教えてくれ、背丈が、オレンジを入れる木の箱の上に立って、馬のジャックの頭に届くほどに伸びると、馬具のつけ方を示してくれました。私の幼少の頃の一番古い思い出は、その頃にはルースとルーシーという二人の妹がいましたが、家族と一緒に教会に行くために馬車にジャックをつけたことです。その道中は、片道三時間も要し、しかも昼食を含めて、集会は五時間も続きました。私はそれを何から何まで楽しみました。聖霊の流れが押し寄せてくると、あの筋骨たくましい農夫や、日雇労働者たちが、空中に手を挙げて、長いあごひげをテーブルの表面と平行になるまで突き出して、顔を天に向けているのを見つめるのが、私は好きでした。また、昔のアルメニアの詩篇を歌う彼らの深みがある豊かな声を聞くのも好きでした。
説教さえも面白くてたまりませんでした。というのは、グレス通りにある木造建築の小さな家の中に、過去がよみがえってくるからなのでした。説教者がよく思い起こさせてくれたのですが、アルメニアは世界最古のキリスト教国であり、また、その信仰の故に最も苦しんだ国なのです。近代トルコによる虐殺は、頑強な小国を全滅させようとする、隣国からの残忍な襲撃としては、最も新しいものとして記録されています。――私たちの国の歴史は、繰り返し語り告げられたことにより、我々の骨となり性格となりました。「紀元二八七年のことです。若い聖グレゴリーは、愛する祖国アルメニアに、思いきって帰るかどうか、迷っています。」と説教者は始めたものでした。グレゴリーは、王の愛顧を失い国を追放されてしまったのですが、国外追放中に、キリスト教のメッセージを聞きました。ついに、危険を覚悟の上で、彼は自分の同胞に福音を伝えるために、国へ帰る決心をしました。
王は、間もなく彼の帰国を知り、彼を逮捕し、飢え死にさせようと、城でも一番奥深い土牢に投げ込んでしまいました。しかし、王の妹がそれ以前に、グレゴリーの説教をきいて、信者になっていました。彼女は、衣ずれの音のするマントの下に、一塊りのパンかひしゃく一杯ほどの山羊の乳を隠して、じめじめした石段を下り、いやな匂いのただよう土牢へおしのびで行きました。こうして十四年もの間、彼女は、なんとかその聖徒を生き永らえさせたのでした。
その頃、王は恐ろしい病気にとりつかれます。動物のようにうなり声をあげながら、床に身を投げ出すというような、変な精神障害だったのです。正気のときには、自分の病気をなおしてくれる医者を捜すのですが、なおせる者は一人もいません。「グレゴリーというお方なら、王をお助けできましょう。」と妹がほのめかします。「グレゴリーはとうの昔に死んだ。骨は、この城の下で腐っていることだろうよ。」と王は言い返します。「彼は生きております。」彼女は穏やかに言い、自分の十四年間にわたる、夜のおしのびを打ち明けます。
そこで、グレゴリーは、髪はアララテ山上の雪のように白くなっていましたが、その霊と心は健全なままで土牢から連れ出されました。イエス・キリストの御名によって、彼が王を苦しめている悪霊を叱りつけた瞬間、王はいやされました。紀元三〇一年に、王と聖グレゴリーは共同して、全アルメニア人の回心を達成するための仕事を開始しました。
家への遠い道中、私は相次ぐ歳月の間、暗い土牢の中に閉じ込められたまま、決して信仰を失わず、希望も失わず、ただ、神の完全な時を待っていたしんぼう強い人の話を再現してみたものでした。
六人の娘のうち、最後の娘が結婚すると、私たちの小さな板張りの家に、祖母が同居するようになりました。私はよく覚えているのですが、小柄な白髪の婦人は、一人息子がご自慢で、濃い色の目を輝かせていました。彼女にとってただ一つ心残りなのは、シャカリアン一族が再び自分の所有する土地に住めるようになったことを見ないうちに、祖父デモスが亡くなってしまったことでした。
グーリサーは、あの小さな板小屋で、しあわせな、満ち足りた婦人として亡くなりました。
私が十歳になる頃までには、すでに酪農場は繁栄していました。三頭だった乳牛は、三十頭になり、それから百頭になり、更に五百頭になりました。そして、はじめ十エーカー(四ヘクタール)だった土地は二百エーカー(八十ヘクタール)に増えました。今や、父はカリフォルニア最大の、最も立派な酪農場を持ちたいという、夢を描くようになりました。勤勉によってそれを実現させることができるとしたら、簡単にそうなったかもしれません。父は自分でどうやって働くかを知っていましたし、また家族をどうやって働かせるかをも心得ておりました。
私自身の他に、今や飯場は、納屋で私たちのそばで働くメキシコ系アメリカ人で一杯になり、父と私はもうその頃にはスペイン語を話すことができるようになっていました。お互いに語り合った彼らのメキシコの話と、アルメニアの生活を回想する父の話と、どちらが相手の話をより楽しんで聞いたことか、私にはどちらとも言えません。人々は少年預言者エフィムのこと、あるいはマガーディッチ・ムシェギアンがどのようにして父の誕生を予言したかを何度聞いても聞きたりませんでした。新しく働き手が加わる度毎に、父は物語をはじめから全部やり直さなければなりませんでした。その後、父はいつも、かつてロサンゼルスのフラットと呼ばれているこの地域で行なわれた最大の葬式を説明したものでした。それは一九一五年のエフィムの葬式です。エフィムはグレス通りの教会(集会がアルメニア語で行なわれていた。)ではなく、数ブロック離れたところにある、ロシア語を話す教会に出席していました。あの大規模な葬式の日、それら二つの教会の会衆が一緒に集まったばかりではなく、正教会のアルメニア人やロシア人も「狂気じみたペンテコステ運動」への反感をぐっと押えて、集会に出席しました。それは、彼らの中にも、エフィムの預言を信じてアメリカヘ来た人々が大勢いたからでした。「それで、まだ開けてない方の第二の預言はどうなりましたか?」とメキシコ系アメリカ人が尋ねました。「それはまだ、エフィムの息子が保管していますよ。」「もし、あんたがそれを開ければ、あんたは死ぬのかね。」「主が指名された者でない限りはな。」「そりや、いったい誰だというのかね。」
もちろん、それは誰にもわかりません。
私が、いろいろの問題の原因となった怪我をしたのは、ちょうど、その少年預言者が亡くなった頃でした。
私はどんなふうに鼻を折ったかさえ知りませんでした。農場のまわりで働いていた十歳の少年はあちこちにたくさんのコブをつくりました。五年生の時、私はいつも他の子供のようによく聞こえないことに気づき始め、母は私を医者へ連れて行きました。「問題は何か言いましょう。だが、ザロウヒ、処方はわかりません。デモスは鼻を折って、なおり方がいけなかったのです。鼻の穴と耳の管がつまっているのです。手術はできるが、普通は余り成功しません。」と医者が言いました。
私の場合も成功しませんでした。毎年、私は更に手術をしてもらうために病院へ行き、その度に耳の管は、またふさがってしまうようでした。学校では、先生のいうことがよく聞こえるように、最前列に座らなければなりませんでした。
私にとって、イエスさまが身近な友でないなどという時は決してなかったのですが、私の耳が悪くなっていった期間中は、以前にも増して、イエスさまはもっと身近な存在となっているように思えました。放課後、他の少年達がチームを組んで試合をするとき、私には何の役割も与えられませんでした。(「デモスを選ぶなよ。耳が余りよく聞こえないんだから」)そこで、一人取り残される時が多くなりました。だからといって、特に気にもしませんでした。農場で私が好きだった雑用は、とうもろこし畑の雑草を取ることでした。というのは、その時は、農場のはるかかなたまで行って、大声で主に語りかけることができたからです。十二歳と十三歳の時のふた夏、長く薄暗いあぜ道は、縞のある大きな葉が頭上にアーチのようにかぶさっていて、緑の大聖堂のようでした。そこで、私は、大人たちが教会でしているように、空中に高く手を挙げたものでした。「イエスさま!もう一度、耳が聞こえるようにして下さい。よくならないという、医者のいうことに耳を貸さないで下さい。」
私が十三歳だった、一九二六年のある日曜日のことは、こまごましたことまで、何とよく覚えていることでしょう。新しい家の二階の部屋で、起き上がり、身仕度していたことを思い出します。その時、父は一千頭の乳牛を所有し、白いしっくいの壁と、赤いタイル屋根のある、スペイン風二階屋を建てたのです。
私が教会へ行くために、身仕度をしているとき、妙な感じを覚えました。よい意味で変だったのですが、まるでからだ全体がある種の特別な霊の気持よさを感じました。私は、長く曲りくねった階段を下りて、朝食時の合唱に加わりました。両親と妹たちは、すでにテーブルについておりました。その頃までには、あと三人の妹が家族に加わっていました。一番年下のフローレンスは、まだ二歳の赤ん妨でしたが、上の四人の娘たちは、毎週町へ行くことについて興奮気味にしゃべっていました。私も話の仲間に入ろうとしましたが、すぐにやめてしまいました。もぐもぐ口ごもる人にだれが話かけてくれるでしょう。
老いた馬ジャックはもはや日曜日毎に、二十四キロも離れた教会へ私たち家族の馬車を引いて行くようなことはしなくなりました。その前の年にジャックが十六歳に達した時、父は、ジャックがよく働いた報酬として引退させ、余生を送るため牧場に放してやりました。その頃はジャックの代りに、でこぼこの畑道を往復するために、キャンバスのおおいと、後座席の下に替えの心棒の箱を装備した、長くて黒いステュードベイカーのほろ型自動車を持っていました。
その日曜日、小さな教会は興奮して活気づいていました。部屋には、先週起こったことを覚えていない人は一人もいませんでした。会衆の中にいた一人の婦人の母親が、二か月前にアルメニアを去って、アメリカにいる娘と落ち合うことになっていました。ところがそれからずっと、何の便りもないので、その娘は気も狂わんばかりになっていました。教会がその状況について祈り始めた時、エスター伯母さんの夫、ジョージ・ステパニアン伯父さんは、突然立ち上がって戸口の方へ大股で歩いて行きました。しばらくの間、はるか地平線のかなたを見るかのように、じっと立って通りを見つめていました。ついに口をきって、「あなたの母上はお元気ですぞ。三日のうちにロサンゼルスヘ到着なさるだろう。」といいました。
三日後、その老婦人が到着しました。
そこで、今日は、期待感が高まり、それぞれが次にはどんな形で主の祝福が与えられるか、思い巡らしていました。恐らく誰かがいやされるか誰かが導きを得るかするでしょう。
私がこう考えていた時でさえも、奇妙なことが起こり始めました。誰か他の人ではなく私にでした。私が他の少年たちと後のベンチに座っているとき、私の肩に重いウールの毛布が掛けられたような感じがしました。はっとしてあたりを見回しましたが、だれも私に触れた者はありません。腕を動かそうとしてみましたが、水の中で引っ張っているような抵抗感がありました。
突然、「毛布」は暖かく思われたのに、あごが寒さでがくがくするように、震え始めました。のどの奥の筋肉が、ピンと張ったように緊張しました。私はイエスさまに「愛しています。」と急に言いたいような気持に襲われたので、口を開いてそう言おうとすると、わけのわからない言葉が飛び出してきました。アルメニア語やスペイン語、あるいは英語でさえもないことはわかったのですが、それらはまるで、私の生涯ずっと話してきた言葉であるかのように、飛び出してくるのでした。隣の少年の方を向くと、彼はにっこり笑いました。「デモスが御霊に満たされた。」とその少年が叫ぶと、教会中の人々がこちらの方を振り向きました。だれかが私に質問すると、完全に理解できるのですが、答える段になると、何かぶつぶつと、喜ばしげな耳新しい声音しか出てきませんでした。私が新しい言葉で主を礼拝している間、教会全体が喜びのうちに神をほめたたえ始めました。何時間か過ぎて、車で家へ帰る道中でさえ、話しかけてくる人に異言で応えているのでした。私は階上の自分の部屋に入り、扉を閉めた後でもなお、こうこつとした、わけのわからない音節が口から飛び出してきました。私はパジャマを着て電気を消しました。するとその瞬間、主の臨在感が今までにも増して強く私に臨みました。それはあたかも、夕方ずっと私の肩に残っていた目に見えないマントが、不快な感じはないけれども、抵抗できないほど重くなってきたかのようでした。
私は床にかがみこんでしまい、起き上がってベッドに入る気力もないほど、完全に無力でした。それは恐ろしい経験ではなく、健全で、しかも新たにされる経験でした。それはちょうど深い眠りにおちいる直前の、特別な瞬間のようでした。
私が部屋の床に横たわっているとき、時は無限に続くように思えてきました。その永遠の時の中で、私は一つの声を聞きました。それはとうもろこし畑の、私の緑の大聖堂でよく耳にした、聞き覚えのある声でした。「デモス、起き上がって座ることができますか。」とそれは尋ねました。
私はやってみました。しかし、無駄でした。何か驚くほど強力で、しかも無限にやさしい力が、その場で私をおさえていました。私は自分が強靭な少年だということを自認していました。アラム・ムシェギアンほどではなかったにしても、十三歳の少年としては確かに頑強でした。それなのに、その時の私の筋肉には、生まれたばかりの仔牛ほどの力もありませんでした。
声は再び語りかけました。「デモス、あなたは、私の力を疑いますか?」「いいえ、主イエスさま。」
質問は三回繰り返されました。私も三回答えました。すると、私をすっかりとり巻いていた力が、一度にどっと、内側にもあふれるように思われました。超人的な精力が、波のように押し寄せてくるのを感じました。まるで、家の真只中から浮かび上って、天上を、神の力によって航海しているかのようでした。私は神の視野から地上を見下して、神の立場から人類の必要すべてを見るかのように感じました。その間中、神は、私の霊に語りかけていました。「デモス、力はすべてのクリスチャンのクリスチャンになった時からの権利です。力を受けなさい、デモス。」
突然、夜明けとなり、窓の外でものまね鳥の鳴くのが聞こえました。私は急に立ち上がりました。何が聞こえたというのでしょう。鳥が鳴くのを聞いたのは、何年ぷりかのことでした。
私は素晴らしく健康で、元気一杯に感じて飛び上がり、あたふたと衣服を着込みました。午前五時を過ぎていました。私と父とは五時半までには乳しぼりの小屋へ行かなければなりませんでした。その驚くべき朝、私が扉を開けると、台所では、じゅうじゅうと卵の焼ける音が聞こえました。
カチャカチャというお皿の音、鳥の鳴き声、私が赤いタイルの階段を走り下りる時のパタパタという足音――ちょっとしたそういう物音を、知らないうちに聞き逃していたのです。私は台所へ飛び込みました。「パパ、ママ、ぼくは聞こえるんだよ。」
いやしは完全ではありませんでした。母と私が医者に診せに行くと、九〇パーセント正常であることがわかりました。なぜ一〇パーセント損なったままにされたのか私にはわかりませんが、私は心配していません。その月曜日の朝、乳しぼりの終った後、一人であの緑の大聖堂へ行くことを思い立ちました。とうもろこしは大きくなって、収穫するばかりになっていました。私は畝に座り、とうもろこしをもぎ取って皮をはぎ、はじけて乳白色の汁がでている白いつぶをかじりました。「主よ。あなたが人をいやされるとき、その人に、なすべき仕事があるからだということを知っています。」と私は言いました。「主よ私のなすべき仕事をお示し下さい。」
はじめ、クラスの少年たちが野球の選手になる夢を描いていた頃、私は預言者になることを夢見ていました。ちょうどあの少年預言者が幻を見た頃より、すこし年齢がいっていました。
しかし、歳月が流れても、私はこの素晴らしい賜物を受けませんでした。「預言はあなたの生涯で大きな役割を果すことになるが、あなたが預言者になることはないであろう。」と主が言われているようでした。
それからある日私は、自分がいやす者になるべきかどうか、考えさせられる経験をしました。妹のフローレンスは、六歳の時、家畜小屋の仕切り棒にぶつかってころび、右肘をこなごなに折ってしまいました。外科医と整骨医が処置を終る時までに、医師たちは、フローレンスの手の機能は失われないが、肘はいつまでも曲って動かないようになるだろうと信じるようになりました。「ギブスが取れれば、治療を始められます。辛抱すれば、一〇ないし二〇パーセントぐらいまで、関節は回復するかも知れませんが、望んでもせいぜいそのぐらいでしょう。」
この通知があってから間もないある日曜日、再び私は教会で、暖かくて重い毛布を肩にかけられるような感覚に見舞われました。それが「誰か」を尋ねる必要はもうなかったばかりか、どうすべきかをきくこともしませんでした。部屋の向こうへ行って、フローレンスの腕がなおるように祈るべきだったのです。そこで、みんなが聖歌を歌っている間に、自分の席を静かに立って、婦人たちの席の方へ歩いて行きました。私は、右腕を大きな石膏のギブスに包まれて一番後のベンチに腰掛けているフローレンスの方へかがみました。毛布の暖かさが、私の腕と手に広がりました。「フローレンス、これから肘のために祈るよ。」と私は囁きました。彼女の大きな黒い目が私を見つめました。私は手をギブスの上に置きました。実際は、ほとんど少しも祈りませんでしたが、熱い火が腕から手の方に下ってゆき、フローレンスの肘を取り巻いていた石膏の中に、どっと流れ込んでいくかのように感じて、ただそこに立っていました。
「感じるわ。熱い感じがするわ。」とフローレンスが囁きました。
そして、それだけでした。一瞬の間に、マントの感覚は去り、私は席に戻りました。私たちに注意を払った人は、五、六人ではなかったでしょうか。
二、三週間後、ギブスがとれました。夕食の時、母はどのようにして専門医が、フローレンスの肘の白いしわくちゃになった肌に一方の手を置き、もう一方の手で彼女の手首を取り、極めて慎重に、怪我をした腕を、三、四センチ、真っすぐに伸ばそうとしたか、話してくれました。前腕を大きく後へ、それから前へと振り、それから、肘でゆったりと円を描くように回したとき、専門医の顔には、信じられないような笑みが浮かびました。 「おや……!まあ!期待以上だ。ずっとよくなっている。まるで、今まで骨折したことなどないような腕だ。」
そこで、その年の夏、とうもろこし畑で、私に望まれる主のお仕事はいやしなのかどうか尋ねてみました。再び、主からの答をいただいているように思われました。「もちろんです。私の教会全部がこの働きをするように望みます。あなたは多くの素晴らしいいやしを見るでしょう。そのうちのあるものは、あなたの手によっていやされるでしょう。しかし、デモス、これもあなたのための特別な仕事ではありません。」
私は十七歳になり、高校二年生でした――四年にいるべきでしたが、耳が聞こえなかったため二年遅れていたのです。その頃、父は第二の農場を買いました。私たちは自分たちのサイロを建てる余裕があったし、自動乳搾機を設置するに十分な資金もありました。同時に父は、他の事業にも手を出し始めていました。私たちや、近所の酪農家たちの大きな頭痛の種はいつもしぼった乳を、農場から、ビン詰工場にまで持っていくことでした。そこで父は、ミルクの運搬事業を始めました。それから、ロサンゼルスのハムの値段が高いことに気がついたので、養豚業も始め、また、肉の包装もすることにしました。「主はあなたの行なうことに、ことごとく祝福を命ぜられる。」約束の子、イサクが手がけることは何でも、繁栄するように定められているかのようでした。
父の成功はどれも、著しいという以上のものでした。というのは、その頃は、三十年代初期の不況下にあったからでした。その時までには、父は私が自分で管理するようにと、牛の小さな群れをくれました。簿記の記帳を始めるのを手伝ってくれた先生は、三十頭の牛で私の方がダウニー高校のどの先生よりも、もっとお金を儲けている、と物欲しそうに知らせてくれたのを思い出します。
今や、私たちの家には、政治家、事業家、地域社会の指導者たちが引き寄せられてきました。――母といえば、アルメニアから移住して来た恥かしがりやの小柄な婦人ですが、有力者や著名人たちのために、毎週ディナー・パーティーの接待役をしていました。彼女は全く驚くほどの料理の名人でした。彼女が作るドルマス・カフタス・カタスの料理は、南カリフォルニア中で有名になりました。
母の料理で私がよく覚えていることは、客がだれであろうとわけへだてなく苦心を払って料理を作っていたことでした。トランプ家は、その頃ひんばんに来る客でしたが、ダウニーの市長と同じ待遇を受けました。上等の瀬戸物、銀のナイフとフォーク、テーブルにはクロスがかけられました。温かい食事の準備のないときには、肉と野菜それに自家製の菓子パンを整え、限られた英語で、「おかけなさい! おかけなさい! 食事、あわてなくていい。」としきりにすすめるのでした。
その頃、私の心はだんだん、他の場所に引に寄せられていきました。農場の仕事で、東ロサンゼルスヘ行く時はいつも、口実をつくっては、ユニオン・パシフィック通り四三一一番地にある、シラカン・ガブリエリアンのだだっ広いクリーム色の邸宅の前を通りすぎるのでした。突然庭に、娘が現われてくれないかなあと思ったからです。アルメニアの共同社会では、婚約でもしていない限り、男女の会話は許されていませんでしたから、よしんば娘が現われたとしても、私にはとても話しかけることはできませんでした。しかし、彼女のすぐ近くにいるということを知るだけで、私はいいようもないはどの幸福感に浸るのでした。
そして、いつも待ちこがれる日曜日になります――日曜日は、ローズ・ガブリエリアンが教会の婦人席に、他の少女たちと座っている日であり、中でもローズは一番美しい少女でしたから、どの少年も、こっそりと目で追うのでした。
ローズの父親の名前は、シラカンといい、アルメニア語では愛する人という意味があります。私はそれが好きです。私の父と同じように、シラカン・ガブリエリアンは何もないところから出発し、ついには父と同じように、百ドルをかき集めて、馬と馬車を買いました。しかし、果物や野菜を運ぶ代りに、シラカンはゴミ収集の事業を始めました。ちょうど新しい世紀に入ったばかりで、ロサンゼルスではとても必要とされていた仕事ですからすぐに第二の馬と馬車、それから第三のを、という具合に買うことができるようになりました。
シラカンとその家族は、正教会のアルメニア人でした。グレス通り教会の近くに居を構えていたので、週毎に、開け放たれた窓から流れ出てくる喜ばしい音響を聞きながら、それを詳しく調べてみる決心をしました。間もなく彼は会衆に加わりましたが、そのためにもうすこしで死ぬばかりの思いをしました。多くの、正教会のアルメニア人にとって、ペンテコステの人々は、昔からの信仰を裏切った人々のように思われていました。自分たちの一人がこの憎いグループに加わるのを見ることは、その人が死ぬのを見ることと同じでした。
そこで、これらの人々は彼を葬る決心をしました。ある日シラカンがゴミの荷を持って町のゴミ捨て場に行くと、正教徒の一団が待ち伏せていて、シラカンの腕と足をはがい締めにし、砂地に掘った穴まで運んで来ました。そして本当に、その穴の中に投げこんで、一メートル以上の土砂をかぶせてしまったのです。ペンテコステの人々が運転する荷車が着いてから起こった乱闘の最中に、シラカンは、何とかはい出して来ました。
私は彼から、その話を聞くのが好きでした。また、彼の結婚の話を聞くのも好きでした。母親が亡くなってから数年後、シラカンが二十一歳の時、彼の父は妻を捜しに、アルメニアに戻る決心をしました。シラカンのゴミ収集事業は、その頃までには繁盛していたので、彼は自分の花嫁も一緒に連れて来てくれるように頼みました。
シラカンの父親は両方の探索に成功しました。息子のためには、十三歳の美しいタイルーン・マーデロシアンを選びました。米国への入国を容易にするため、代理人により結婚式をして、今まで見たこともない夫に会うための長い旅に出発しました。その時期がどれほど神の摂理によるものであったか後になってわかりました。ほんの二、三週間後に、トルコがアルメニアのその地域を攻略して、この二人の花嫁は、その村から生きて逃れた最後の者となったのです。
ロサンゼルスヘ着いたタイルーンの歓迎ぶりは、若い妻の彼女が体験した内でも、最も奇妙な歓迎の一つでした。シラカンは、その日の翌日までは父と二人の婦人が到着するとは期待しておりませんでした。
町のゴミ棄却場から戻ってみると、居間には、おびえた様子の子供が立っていました。ちょっと驚きはしたものの、これが自分の妻になる娘に違いない――と同時に自分自身が頭から足のつま先まで、ゴミとほこりにまみれていることに気がつきました。「そこにいて。」彼はまるで、この哀れな少女にどこか行く先があるかのように、「そのまま、そ
こに待っていて!」と叫びました。彼は家の裏の方へ駆け出して行き、三十分後には、ゴシゴシ洗って磨きたて、香水をふりかけてから、シラカン(愛する人)・ガブリエリアンは、やっと安心した若い婦人に正式にあいさつの言葉をかけたのです。
これがローズの両親であり、やがていつの日か娘のために、夫を選ぽうとしていた人々でした。しかし、私はその娘と結婚したいと思って、直接彼らに接近することはできませんでした。私の場合、彼女の方もそうですが、行動をとらなければならないのは家族でした。私がその話を持ち出した夜は、何と気のもめたことでしょう。それは一九三二年六月の夕方でした。ポーチのドアは風を入れるために開けてありました。私たちはみな、食堂のテーブルを囲んで座っておりました。「お父さん、ぼくが十九歳になっているのをご承知でしょう。」と私はきり出しました。
父は、口ひげをふき、牛肉をもう一きれ切りました。「そして私は高校を卒業するところなんです。農場ももうかるようにしているんだし、第一お父さんが結婚したのも十九歳の時だったでしょう。」と私はつっ込んでいきました。
私の妹たち五人は、一せいに食べるのをやめました。母は、フォークを置きました。特定の女の子でもいるの、と母が尋ねました。「はい。」「その人はアルメニア人? そう。それで、その人はクリスチャン?」「ええ、そうですとも。」「それは……その人は……それはローズ・ガブリエリアンです。」私は言い出しました 「あ−あ……」母が言いました。「そうか……」父が言いました。「あ−ら……」五人の姉妹たちが、一せいに言いました。
そして、結婚の申し込みをするために、昔からの念入りな手続が始まりました。家族同志教会で毎週会って、懇意にしてはいても、まず第一に、「正式の面会」が準備されなければなりませんでした。
このデリケイトな事柄は、選ばれた仲人が、いつも慎重に扱わなければなりません。相互間でいろいろ討議された後(むろん、私は相談を受けませんでした。)父と母は、このデリケイトな仕事にふさわしい人物として、父の姉サイルーンの夫、ラファエル・ヤノイアンということで合意しました。幸先がいい!とひとり言を言いました。父の六人の姉たちと結婚した六人の男たちの中で、ヤノイアン伯父は私のお気に入りだったのです。伯父は大きな廃品置場を所有しており、私が十四歳の頃、そこで自動車の古い部品を捜させてくれたので、かき集めた部品で、私にとってはじめての自分の自動車を組み立てたのでした。この廃品置場のおかげで、伯父はガブリエリアンのゴミ運搬会社と、毎日接触を持つことができたのです。
シラカン・ガブリエリアンを正式に訪問してから、伯父の車が家の車道に入って来たとき、私がどんなふうに走り寄って行ったかよく覚えています。ヤノイアン伯父さんは、軽率に信用を失うようなことはしませんでした。伯父はとても慎重に居間に向かって歩いて行き、甘くて濃いめの紅茶が入ったカップを受けとり、お茶を長い間かき回しました。
「さあ、ラファエル」と父は促しました。「さて、イサク、日は決ったよ。ガブリエリアン家は来月の二十日に、シャカリアン家の訪問を喜んで受けるそうだ。」とヤノイアン伯父は答えました。
訪問が決まったって! それじゃ、少なくとも、ぼくの願いを自動的に拒否したりはしなかったんだ。それはローズが……いずれにしても、彼女はぼくのことを考慮してくれる気持があるということだ。それを思うと、私の頭はくらくらしました。
ついに、七月二十日がきました。私は納屋での自分の仕事を、記録的に早く済ませ、身仕度に取りかかりました。風呂に入ってからシャワーを浴び、また風呂に入りました。歯のエナメル質がはげそうになるまで念入りに歯を磨きました。口臭をふせぐためにリステリンとラボリスを両方とも使い、仕事で汚れた爪はブラシの毛が抜けるほど念を入れてこすりました。 私は父がパッカード(注、車の名前)を車庫からバックで出している音を聞きました。最後に、靴のすりへった跡をとるために、タイルの階段を一気にかけ上がり、三回目のひげそりの時につけた傷口に、止血剤も軽く塗りました。「デモス!」父は、車道からどなりました。「何をしているんだ。ローズよりもきれいになろうというのかい。」
後部座席の妹たちの間に割り込んで座った私は、ダウニーと東ロサンゼルス間の十七マイルがこんなに長い距離に思われたことはありませんでした。とうとう、ユニオン・パシフィック四三一一番地にたどりつきました。私たちは、じゃり道をぞろぞろ歩いて、タイルーン・ガブリエリアンの、よく手入れされたメボウキやパセリやその他の香味用植物の植込みを通り過ぎました。玄関の扉が大きく開き、そこには家人が勢ぞろいしていました。シラカンとタイルーン、ローズの兄のエドワード、伯父と大伯母と数えきれないほど大勢のいとこたち、そしてこれら全員の背後には、その名の通りバラ色の夏服を着たローズが立っていました。
彼女をゆっくり見つめているわけにはいきませんでした。すぐにアルメニアのやり方で男たちは大きな居間の一方に、女たちは他方に、とそれぞれ分けられてしまったからでした。時々私は、ローズが私の妹たちと座っている辺りを見ては、何を話しているのかしらと思いました。ローズは私の妹のルーシーと同じ年でした。私は今後自分がルーシーほど自然に、気楽にローズと話せるようになるかしらと考えました。
私は詰めものを入れすぎてふくらんでいる二つの椅子を近く寄せて、厳しゅくな話合いを続けていた父とシラカン・ガブリエリアンとの間にも加わりませんでした。どんな話が交されていたにせよ、二人は満足そうに見えました。
戸口で「あなたの伝言をローズに取りついでおきますよ。」とガブリエリアンは父に言った。
二週間後、ヤノイアン伯父は重要な解答を持って来ました。ローズは私と結婚するのです。
さて、「イエス」という正式の返答として、花嫁の家で行なわれる五日間の、伝統的な祝宴の夜がやって来ました。それは、歌って、食べて、祝辞を述べ合い、互いに祝い合う楽しいタベでした。なぜなら、アルメニア人の結婚は、二人個人の間ではなく、二つの家族が結ばれるのです。
ある夜、ローズは私たちのために、ピアノを演奏してくれました。私の心は、鍵盤の上を飛ぶようにすべっていく指を見て、誇らしい気持で一杯になりました。かつて私は、バイオリンのレッスンを受けていたことがありますが、先生と私、それに練習の音色が聞える範囲にいる人々と合意した上で、それを止めてしまいました。フローレンスが、バイオリンとレッスンの両方を私から引き継いでいたので、八歳でしたが、彼女も柔軟な右腕をかわいらしく曲げて、磨きのかかった楽器を握って、集合した家族のために、演奏しました。
男性の側から女性に、新しい関係を象徴するものとして、記念品を贈る夜が来ました。この場合は、ダイヤモンドをはめ込んだ腕時計でした。これも両親によって選ばれた贈り物でしたが、部屋を横ぎって婦人たちの座席の方へ行き、ローズの手首に腕時計をはめてあげるという困難な仕事は、私がすることになりました。急にし−んとして、部屋中の目が私に向けられた時、私の指は硬直してしまいました。まず第一に小さな留め金を開けることができず、そして次に開けた留め金を閉めることもできませんでした。トラクター置場だったならばなあ、あそこなら、機械の一部分を分解して再び組み立てることなど頭も使わず、いとも簡単にできるのにと痛切に感じました。とうとうローズが右手を伸ばして黙って私のためにそれを留めてくれました。
もちろん、年配者たちは、結婚式をいつ、どこで挙げるかというような決定をしなければなりませんでした。グレス通りの教会は、何百人という客を収容するには小さすぎる、とみなの意見が一致しました。それに、正教会の友人や家族たちは、そこへ入るくらいなら死んだ方がましだと思っていました。そこで、結婚式は花婿の家で、古風な田舎のやり方で行なわれることになり、続く披露宴は(もちろん、アルメニアのどんな画期的な出来事の中でも、中心的な行事なのですが)裏庭にある大きな二面のテニスコートで行なわれることになりました。
日時については、ガブリエリアン家は少なくとも、一年待つことをゆずりませんでした。私の母が十五歳、ローズの母は十三歳で結婚した頃とは、時代が違うというのが彼らの説明でした。その当時、婦人は家族を育てあげるだけの成熟を要求されました。私たちはローズが十六歳になるまで、待たなければなりませんでした。
私たちのことが話し合われ、将来についての決定が行なわれている間、私とローズは、まだ二人の間で言葉を交したことがありませんでした。しきたりによると、その瞬間は、もっと大勢の遠い親戚やら友人などを招いて開かれる正式の婚約パーティーの後に来るはずでした。というのは、今までのは家族間の準備段階だったからです。
しかし、四日目の晩までには、私はもはや待ちきれなくなってしまいました。しきたりをかなぐり捨てて、私はつっと立ちあがりました。多勢の人々の頭越しに私は「ガブリエリアン夫人、ローズに話しかけてもよろしいですか。」と尋ねました。
一瞬、あきれ返って、タイルーン・ガブリエリアンは押し黙ったまま私を見つめました。それから、一体若い世代はどういうことになるのだろうと、かぶりを振りながらも、ローズと私を背もたれの真っ直ぐな椅子が二脚、中央に置いてある別の部屋に連れてゆき、私たちだけを残して立ち去りました。
私たちの生涯で、初めてのことでした。突然、私が練習しておいた素晴らしい言葉は、みなどこかへ消えてしまいました。私は、感動的で表現豊かな傑作を、自分にとって最高のアルメニア語で準備していたのです。それというのも、シラカン・ガブリエリアンが、都会の、新しい「ハリウッド狂」を警戒して、自分の家の屋根の下では、英語を話すことを許さなかったからなのでした。私は、ローズが世界中で最も美しい少女であり、生涯をかけて彼女を幸福にすると言うつもりでした。しかし、何一つ言葉を思い出せず、舌足らずの痴呆のように、そこに座っていたのです。とうとう――自分でもびっくりするように思わず言葉が口をついて出てきました。「ローズ、神は私たちが一緒になることを望んでおられる。」 驚いたことに、ローズのきらきら輝いていた茶色い目に涙がいっぱいたまりました。 「デモス、私が結婚する人は、まず初めにそういうことを言って下さる人でありますように、とずっと祈っていました。」
三週間後、花嫁が指輪を受け取る、正式な婚約のパーティーがありました。私たちは、指輪を選ぷため、一緒にダイヤモンドの問屋へ行きました。もちろん、大勢の家族に伴われて……。未だに忘れないのですが、その女店員の名前は、エアハルト夫人でした。私たちは、彼女の娘で、大西洋の単独飛行をなしとげたアメリヤのことを話しました。私は、ローズが一つの浅い箱の中に置いてあった、愛らしい小さなダイヤモンドを、もの欲しそうに見ているのに気がつきましたが、私の母は違うものを選びました。私たち二人にとって母の決定に疑いを差しはさむようなことは、思いもよらないことでした。
婚約のパーティーは、ガブリエリアンが所有する食料品店で、三百人が座って食事をするという形式で行なわれました。それが終ってからは、好きなだけローズを訪ねることが許されました、ということは、仕事をしない夜は、いつも母のこしらえたバターを含んだダイヤモンド型のパクラバとシャカー・ロックームを持ってでかけたのです。
長い一年が過ぎ、母とローズ、それに妹たちは、だんだん足繁く買い物に行くようになりました。しきたりによれば、花婿の家族が、花嫁のための衣装を買うことになっておりハンドバッグや帽子一つを選ぶのに、六回も買い物に行ったりしました。ローズが買ったもので、お気に入りだったのは、靴と色を合わせた地味なエンジ色の洋服でした。アルメニア人の社会では、既婚夫人だけが、地味な色を着ました。ローズは、自分がそれを着た瞬間、五歳はふけてみえる、と自信を持っていました。
結婚式は一九三三年八月六日に行なわれました。その朝、シャカリアン一族全部が「花嫁を家に迎える」ために、車で東ロサンゼルスヘ行きました。その日の主な食事は夕方になるはずでしたので、ガブリエリアンは、アルメニア人の基準によればほんのスナックでしかない、五コースだけの昼食を出しました。それから、双方の家族が、花で飾られた二十五台の車を連ねて、ダウニーヘ繰り出しました。
家では、テニスコートのまわりにめぐらされた塀が磨かれ、バラの花でおおわれていました。今ではその日の他の出来事は、断片的にしか思い起こせません。ペルミアン牧師の長い薄茶色のあごひげが、古代アルメニア人の結婚式辞を読みあげているとき、上下に動いていました。電球のコードが、シュロの木の間に巻きつけられ、白い上着を着たウェイターは、母がその日のために何日もかかって用意した、シシカバブや、なつめやしとアーモンドの、昔から伝わっているウェディング・ピラフが、大量に盛り付けられた大皿のもとで苦闘していました。
今でも思い出せるのは、五百人の客がいて、一人ずつ、アルメニア語で書いた詩を、集まったすべての人に聞かせては喝采を浴びるといったことが続いておりました。午後十一時頃には、私は疲れて目まいがしてき、朝からきつ目の白い靴をはきっぱなしだったローズの目には涙が浮かんでいました。
しかし、私たちが果てしなく長い列に並んだ友人や家族に別れのあいさつのために立っていたとき、一つだけ確実なことがありました。とうとう、ローズと私は結婚したと――それも最も、アルメニア人的な言葉の意味で、完全にそして取り消しようもなく、永久に結婚した、ということでした。
第三章 時限爆弾
花嫁と花婿が、結婚したはじめの一、二年は、花婿の家族と暮すことがしきたりでした。
そこで私たちも当然のこととして、そのようにしました。この期間に、大きなスペイン風の家を覆っていた心配事は、私の妹ルーシーの健康でした。十一歳の時、スクールバスの事故で怪我をした胸のために苦しんでいました。その頃、ルーシーはますます呼吸困難を訴えるようになっていました。手術によっても、祈りによっても、恒久的ないやしをもたらすことはできそうに思えませんでした。「神さま、どうしてですか。フローレンスの肘をいやして下さったのに、ルーシーの胸をいやして下さらないのはなぜですか。」と私は幾度も尋ねました。
一九三四年十月に息子のリチャードが生まれた時、ローズと私は私の家族と共に住んでいましたが、すぐに、隣りに自分たちの家を建て始めました。続く数年間は酪農でやりがいのある数年でした。大不況の時でさえも、事業は、馬具工場で革のほこりにまみれて働いていた頃や、ジャックに野菜を積んで運ばせていた頃に父が夢に描いていたより、ずっと大きく成長していました。私たちはすでに、カリフォルニアで一番大きな酪農場を持つようになっており、父は世界で最大になるという新たな夢を持つようになりました。三千頭の乳牛の乳をしぼる酪農場は、世界のどこにもないということを聞いてからは、それが私たちの目標となりました。
この夢と同時に、他の夢もありました。牛乳運搬車の数を増やしたいということでした。すでに三百台のトラックがあって、五百台になれば、州全体に供給できるはずでした。また、貯蔵飼料を運ぶためにも使うことができるはずでした。それに、豚や食用の牛を、精肉工場へ持って行くためにも。向こう見ずの野心は、ますます高じていきました。何といっても、アメリカでは、実地経験があり、しかも勤勉なアルメニア人なら、達成できることに限度がありません。
そして、恐らくそれ以上の成功を治めることでしょう。私は自分の特別計画として、牛の収容数を三千頭まで上げるために第三の酪農場――リライアンスNo3の設置に着手しました。十七ヘクタールの土地を購入し、囲いとサイロ、それに近代的な納屋と、全然人手を触れずに牛乳を絞り、絞った牛乳をビンヘと流し込むことのできる工場の建設に着手しました。
折にふれては子供の頃確かに感じた、私の人生に対するあのご計画を、神は今なお持っておられるのかしら、と思いました。しかし実際は、私の人生の中心にはもはや、明確に神は存在していませんでした。もちろん、今まで通り、日曜日毎に、後部座席の小さなリチャードをゆらせながら、車をグレス通りへ乗り入れてはいました。正直にいって、私の考えと精力は、事業にぴったり焦点が合わせられていることを、自分で承知していました。朝七時に仕事を開始して、夜十一時に終るなどということは、少しも珍しいことではありませんでした。
一九三六年、私は新しい企業――肥料工場――に着手しました。それからというものは夜通し机の前に腰かけていることもしばしばでした。
祈る時でも、祈りは、アルファルファの値段や、一ガロンのガソリンにつき、トラックの走行距離がどのくらいになるかといったことになりがちでした。例えば、種牛を正確に選ぶという、酪農家のだれもが直面する最も重大な決定があります。良質の雄牛は三十年代半ばの大不況時代でも、一頭一万五千ドル(約三百三十万円)もの値段が付けられていました。しかし、そのような優良賞の血統書付き正札にもかかわらず、雄牛を買うことはまるでギャンブルでした。その雄牛が、はたして子孫に望ましい、よい素質を伝えるかどうかは、わからなかったからです。その度毎にそうできる雄牛は、千頭のうち一頭しかありません。
そこで私は、競売場の騒音とほこりの中で、「主よ、あなたがこれらの動物を造られ、あらゆる細胞と性質をご存知です。どの雄牛を買ったらいいかお示し下さい。」と祈ったものでした。多くの場合、私は、囲いの中で一番やせこけた、小さな雄の仔牛を選び、最優秀な繁殖用雄牛に成長するのを目のあたりに見ました。
そして私は、絶えず牛舎にペンテコステの信仰を持ち込んでいました。熱のある牛や、難産の牛に手を置いた夜が幾度もあり、獣医は、自分にはできないことを祈りが成すので、驚きの余りあっけに取られているのを見ました。
そうです。私はまだ、確かに信じていました。「リライアンス」という、私の会社の名前は、神への信頼を意味し、私たちは、毎日神に信頼しました。しかし、捧げることは、ほんのわずかで、いつも受けとるばかりでした。
そんなわけで、ローズと私に語られた預言を聞いたときは当惑しました。
ミルトン・ハンセンはペンキ塗り職人でした――当時は自分の家にペンキを塗る者などありませんでした。背が高く、やせた、金髪のノルウェー人で、耐えられない悲しみがあったにもかかわらず、それまでに私が出会ったことのある人々の中で、最も喜びに満ちた人でした。福音聖歌を腹の底から大声で歌う声が、通りのずっと向こうから聞えて来るので、彼の訪ねて来るときはいつもそれとわかりました。
ある晩、ローズとミルトンと私が、我が家の小さな居間に座っていると、ミルトンは急に長い腕を上げました。それから彼は震え始めました。ミルトンは、ペンテコステ派の中でも、特殊な伝統に属していました。聖霊が彼の上に臨むと、目を閉じ、手を上に挙げ、演説調の大声で語ったものでした。ローズと私は、「選ばれた器」で、「一歩ずつ導かれている」のだと大声で語りました。「神のことを思い続けなさい。」とミルトンは演説調で言いました。「あなたがたは町の門を通って入り、あなたがたに敵対してそれを閉じる者はだれもいないであろう。あなたがたは世界中の国の元首に対して、聖なることを語るであろう。」私がローズの方を見ると、彼女も私と同じくらいびっくりしていました。要職にある政治家たちに? 世界を旅行するだって? ローズも私も、カリフォルニアの外へ出たことは一度もありませんでした。三歳の子供と、やがて生まれてくる赤ん坊と共に私たちの夢と希望は、私たち自身の小さな家族を中心に、きっかりと築き上げられていました。
ミルトンは私たちの顔を見たに違いありません。「お二人とも私を責めないで下さい。私はただ、主が言われたことを繰り返したに過ぎないのですから、私にもわからないのです。」と彼はいつもの親切な調子で言いました。
私は、第二の驚くべき経験がなかったら、ミルトンの預言のことなど、きっとすぐに忘れてしまったことでしょう。数日後、私は衝動的に、今まで行ったことのない、町の一角にある教会の、週半ばにある集会へ立ち寄りました。説教の終りになった頃、祭壇への招きがありました。多分、自分の霊的生活があるべき姿ではないことを知っていたので、私は前にすすみ出て、手すりのところにひざまずきました。牧師は、ひざまずいて並んでいる人々に、次々と手を置きながら近づいて来ました。私の所に来ると、教会中に響き渡るような声で言ったのです。「わが子よ、あなたは特別な仕事のために選ばれた器です。私はあなたを導いています。あなたは主の御名によって、世界各地の、政府の高官たちを歴訪するでしょう。あなたが町に着くと門は開かれ、だれもそれを閉じることができないでしょう。」
私は、少しふるえながら立ち上りました。何と驚くべき一致でしょう。この牧師は、恐らく、私やミルトン・ハンセンを知っているはずがありませんでした。神は本当に、私にメッセージを与えているのでしょうか。しかも、こんな不可解なメッセージをです。「神の事柄に心を留めなさい。」とミルトンはいいました。それは健全な神学だということは知っていました。そして、どんなに努力しても、私の思いはシャカリアンの家族のことに留まりがちであることもわかっていました。
翌年は、その家族に二つの画期的な事件がありました。まず、一九三八年十月に、娘のジェラルディンが生まれたこと、第二に、その翌年の春、妹のルーシーが二十二歳で亡くなったことでした。ルーシーはローズと同い年で、私の妹たちの中でも一番美しく感受性が強く聡明な少女であり、彼女の夢は――その当時アルメニア人の少女としては異常な夢でしたが――学校の教師になることでした。葬儀の日、彼女が通っていたホイティア大学は、休校になりました。前代未聞の敬意の表明でした。この数年の間で初めてのことでしたが、私はまた、大きな疑問を自分に問いかけていました。我々は何のために存在するのか? 死は何を意味するのか? 命とは?
私は、慣例的な葬儀の会食の時、グレス教会に集まった友人や家族を見回し、そんなことを思いめぐらしていました。アルメニア人の間では、死とは、近い親戚から一番遠縁のいとこの孫たちまで、親戚中が集まる合図でした。埋葬の後は、しきたりによって、正式の晩餐会が定まっていました。アルメニアでは百六十キロもあるでこぼこの山道を帰って行く親戚があっても、この晩餐は必須のものでした。ここカリフォルニアでは、葬儀の後の晩餐は、家族が結束するためのしるしになりました。
私は、聖堂にしつらわれた、長テーブルの一方の端に、父と隣り合って座り、他方に座っている母の方を見ました。母の隣りには、ローズが膝に赤ん坊のジェリーをのせて座りその傍らには、四歳のリチャードがいました。マガーディッチ・ムシェギアン伯父は数年前に亡くなっていましたが、リチャードの隣りに、マガーディッチの息子アラムが、それからアラムの息子ハリーが座っていました。そして父の六人の姉たちとその夫たち、私自身の残っている四人の妹たちもいました。妹のルース、グレース、ロクサーンは、それぞれ夫やその家族と共に座っていました。私は一瞬はっとして眺めたのですが、フローレンスでさえアルメニアの標準からすると十五歳の立派な婦人でした。そして、部屋中の他のテーブルには、姪やいとこたち、とその姻戚が果てしなく並んでいました。
私たちはみな繁栄していました。これらはみな、頑強で、誇り高い人々、丈夫で、でっぷりと太った男たち、上等の黒絹を着た婦人たちでした。私はここにいるこれらの人々をこの豊かな国へ連れて来ることになった、預言のことを考えていました。「私はあなたを祝福し、繁栄させよう。」あのカラカラで、神は約束して下さったのですが、私の周囲を眺めたとき、神がそれを果たして下さったのを見ることができました。
しかし、預言には別な部分がありました。「私は、あなたの子孫が諸国民への祝福となるようにしよう。」その部分も、私たちは成就しているのでしょうか。私たちは、誰かの祝福になっているのでしょうか。もちろん、ある意味ではそうです。これらの人々はみなよき隣人であり、よき労働者、よき雇用者でした。しかし……それがすべてでしょうか。「これで全部というはずはない。神はきっと、私たちが他の人のために、何かするよう願っておられるのだ。ただ、何をしたらいいかわからないのだよ。」私はダウニーヘの帰路車を運転しながらローズに言いました。
それから数か月余り、私は、毎日一緒に働いている人々によく注意し始めました。単に私の農場で働く人ばかりではなく、穀類の商人、トラックの運転手、ビンを運んで来る人人など大勢いました。そして私は、驚くべき発見をしたのです。
これらの人々は、決して神について話しませんでした。
この事実を会得するには、いくらか時間がかかりました。私にとって神は、ローズや子供たちがいることと同様に現実のことでした。一瞬一瞬神は私の一部として存在していました。もちろん、観念的に、神を知らない人々がいることを承知していました。そのために、宣教献金が太平洋のどこかの島へ送られるのですから。
しかし、このロサンゼルスのまっただ中で、しかも街角のいたるところに教会があるという所で、信じない大人がいるなどとは、今まで私には思い浮かびもしないことでした。それがわかった今、私がすべきこととは何なのでしょうか。
ある夜、このことについて祈っていたとき、実に驚くべき光景が目に浮かんできました。背景は、私たちが度々、ピクニックに行ったダウニーから十六キロの所にある、リンカーン・パークで、草木のよく茂っている大きな広場でした。夏の日曜日の午後には、四千人からの人々が、あたり一帯に毛布をしいて座っていました。しかし、突然私の心の目に現われた光景の中で、私はどのようにしてか、その人々の真中にある壇に登り、人々にイエスさまのことを話していたのです。そのばかげた考えは、安らかな眠りとともに消えてしまうどころか、翌朝も依然そのまま残っていました。私はネクタイを結びながら、ローズにそのことを言ってみました。「ねえローズ、私は壇上に立って群集に話しかけているというような途方もない場面を想像し続けているのだが……。」「リンカーン・パークでね……。」と彼女が付け加えました。
私はネクタイを親指にかけたまま、鏡から向きなおりました。「私も全く同じことを考えていましたのよ。どうしてもそのことを払いのけることができなくて……。あんまりばかばかしくて、あなたにお話しする気にもなりませんでしたの。」とローズは言いました。
私たちは、今後、幾度もこんな変なことを体験することになろうとは少しも考えず、ただ互いに目をぱちくりさせて、日当りのよい寝室に立っていました。その時は、単に偶然の一致であって、さしあたっては何の意味もないように思われました。「ローズ、君も知っているとおり、一度に二人以上の人々の前で話さなければならないとすると、自分の名前も思い出せないくらい、口ごもってしまうのだよ。」私は酪農家であり、考えるのも、話すのも鈍いのでした。イエスさまが私に言おうとすることを、言葉で言い表わすなど、とうていできないことを知っていました。
その考えを捨てなかったのはローズでした。「私たちは、何をしたらいいか、神さまにお尋ねしていたということを忘れないで下さいね。これが主のお答えでしたらどうなさいます? でなかったら、どうして二人が同時に、そんな変な考えを持つことがありましょう。」
さて、私は市の法規を調べて、リンカーン・パークは公衆の娯楽のために指定されており、どう解釈しても、私的なことのためには使えないことがわかって、ほっと胸をなでおろしました。
しかし、ローズが自分で探しに行って、通りの向こう側に公園全体を見渡せる、何もない一区画の土地を見つけました。そこは、公園の客を引きつけることに望みをかけて建設された、ダチョウ農園の所有者のものでした。事業は余りはかばかしくなかったので、持ち主は喜んで、毎日曜の午後、公園のそばの空地を貸してくれることになるだろうと思いました。
そして突然、どんなふうにして起こったのかよくわからないのですが、自分で気がついた時には、この気違いじみたことを実際に始めていたのです。はじめは、しなければならない、実際的なこまごましたことがあったので、おじけづいているどころではありませんでした。警察から許可をもらったり、説教者の立つ壇を選んだり、拡声装置を借りたりすることなどがありました。ローズは、教会から来て歌ってもらう少女数人を手配できると考えました。
話すことについては、今までの生涯で、多くの説教を聞いていたので、確かにいくらかりゅうちょうさに欠けていたとしても、大部分音楽でうめることができる、と自ら慰めていました。
しかし、最初の日曜日が近づいて来るにつれ、私は夜中に寝汗をかいて、目を覚ますようになりました。夢はいつも同じでした。私は、途方もなく高い壇上で声を張り上げ、腕を振り回していました。そうしている間、その日のうちに仕事の上で取り引きのあった人があきれて見物しておりました。
それが実際に起こった、と仮定してみて下さい。公園の中に、買い手やセールスマンが本当にいた、と考えてみて下さい。その人はどう思うでしょう。私は成功している若い事業家として、健全な市民団体から入会を要請され始め、良識があるという名声を得始めていました。私がある種の宗教的狂信者だといううわさが広まったらどうでしょう。私個人の評判ばかりか、父が長年働いて築き上げてきたものすべてをぶちこわしてしまうかもしれません。
私たちが、始めることになったのは、一九四〇年六月の第一日曜日でした。教会での朝の礼拝後、ダチョウ農園のそばにある空地へ出かけて行き、拡声器の装置を組み立てました。暖かく、雲一つない日でした。通りをへだてたリンカーン・パークは人でいっぱいでした。私はローズが天気がよいのをほめちぎっているとき、なぜ雨が降らなかったのだろうと、考え続けていました。さて、ローズは、教会から連れて来た三人の少女を指導してよく知られている聖歌「いつくしみ深き友なるイエス」を歌っていました。歌が終りました。私は手造りの階段を三段上がって、演壇に立ち、マイクをしっかりと握って咳ばらいをしました。恐ろしいことに、その音は、拡声器からあたりに響き渡りました。私はちょっとしりごみしました。「みなさん……。」と始めますと、また、その音が私のまわりに轟き渡りました。私は、自分の声の大きな反響音ばかりが気になって、わずか二、三の文章をいうのにつっかえてばかりいたので、もう一度歌うように、必死になって少女たちに合図しました。
リンカーン・パークにいた人々は、あちらこちらで敷物を片付け始めたので、きっと私たちが人々を公園から追い出しているのだと思いました。ところが、驚いたことに、そのうちの大半は私たちがもっとよく見える所に移動して来たのです。聴衆を実際にこの目で見ると、私に勇気がわいてきました。私はマイクに戻り、黄色いポロシャツを着た貧相な男を選んで見つめ、直接彼に向けて説教したのです。
するとその時、私は「あなた、あれはデモス・シャカリアンではありませんか。」という、はっきりとよく通る婦人の声を聞きました。
目で群衆を追って行くと、ピクニック用のバスケットの向こう側から、私を指している人がいるではありませんか。その傍らに、近眼らしく目を細めているのは、以前に電流の通った柵の取引きをしたことのある男でした。「シャカリアンであろうはずがないじゃないか。」と男はにわかの静寂の中で答え、ポケットを探って、めがねを取り出しました。「あれまあ、あれは確かにシャカリアンだ。」
私の服の衿がのどに喰い込んで来ました。手が汗ばみ、マイクロフォンは今にもすべり落ちそうでした。その時私は、すすり泣きの声を聞き、自分が泣いているかのような錯覚を起こしました。私が見下ろすと、小さな演壇の脇に、黄色いポロシャツを着た男が、両方のほほに涙を流しながら立っていたのです。「ああ、兄弟、その通り。君のいう通りだ。神はずっと、このわたしによくしていて下さった。」
私はあきれて彼を見つめました。幸い、ローズが気転をきかせて、彼を壇上に上るよう招きました。彼は、汗まみれのマイクロフォンを私から受け取ると、物質的繁栄と個人的失敗の長い話を、注ぎ出すかのように語り出しました。人々が流れるように、通りを横ぎって演壇のまわりに寄り集まって来ました。「そりゃあわしの物語でもある。」と別の男が言い、彼も階段を三段上って演壇に立ちました。私は拡声器のことも、柵を売ってくれた男のことも忘れてしまい、神がリンカーン・パークで働いておられる不思議なことだけしか考えませんでした。午後も遅くなって、装置を取り片付けたときには、六人の人が主に生涯を捧げました。
一九四〇年六、七、八月の三か月間、私たちは日曜日毎に、午後二時頃、きまったように公園の向かい側に到着し、五時か六時まで集会を続け、間もなく、それが集会の形式となりました。たいがい、やじを飛ばす者が何人かいると思えば、やじを静めてくれる支援者も数人いました。それに、毎週きまって飲酒癖から解放された老人もいました。演壇に来る人の数は決して多くはなく、四人、十人、十二人くらいのものでした。たまには、これらの人たちと連絡をとっていたけれど、ほとんどの場合は、その生活に真の変化が伴っているのかどうか、知るすべは何もありませんでした。
けれども、たといこのような日曜日の午後の及ぼす外面的な効果は計り難くても、私に及ぶ内的影響は、大変明らかでした。私は自分の体面を気にしながら集会に出て行っても帰って来る時は自分の体面など何もないのだということがわかったのです。誰か知っている人に会うのではないか、という恐れに対する神の答えは、私が以前取り引きしたことのある人たちのすべてを神が日曜日毎に、一人ずつ公園へ連れて来たことでした。「ほら、あなたは、この人の前で自分を笑い者とした。これで、体面に気を使わなければならな
い人が、もう一人少なくなった。」と、主は語っておられるようでした。
後で、ライオンズ・クラブの会合や、キワニスの仕事で人に出くわすと、たいていきまりの悪い沈黙があるか、時によると大笑いされたりはしたものの、それ以上にはなりませんでした。私がなんとなく予想していた、事業上の災難は、何一つ起こりませんでした。夏が終る頃までには、私は決して忘れることのできない教訓を学びました。すなわち「人がどう思うか」は、たいてい私たち自身の、自己中心という幽霊だということでした。
しかしながら、その夏は別な種類の反対がローズと私が予想もしていなかった方面、すなわち、グレス通りの教会からやって来ました。最初、この教会の長老たちは、これら日曜日の午後の「遠足」を、若者の夏の気まぐれぐらいに考えていたようでした。しかし、集会が毎週毎週続くのを見て、年配者たちが反対し始めました。ある老人は、リンカーン・パークで続けることに対して、私たちを警告するために、前列の席を立って、八月のある日曜日の午前中ずっとしゃべりまくりました。「これは、間違っている。」長いあごひげを、激しい感情で大きくゆり動かしながら、彼は言い放ちました。「それは……それは非アルメニア的である。」
そして突然、彼が正しい、とわかったのです。歴史を通じて、常により大きな、より強い、不信の国々に取り囲まれ、繰り返される征服と大虐殺を通し、内的に向かうことにより力を得ながら、孤立して真理を守り抜き、闘争してきた小国アルメニアの姿を描いてみました。
今、ローズと私が外側に向きを変えるように告げられているのだとしたら、大部分は自分たちでしなければなりませんでした。私たちは、生まれてはじめて、両親たちの世代との衝突に出くわしたのです。その夏、リンカーン・パークの敷物の上で、私たちがよくよく見た通り、世界は想像以上に大きかったのです。そして、もっとずっと、寂漠としたものでした。
九月になると、日中はぐっと涼しくなり、公園の群集の数もだんだん減ってきたので、私たちは集会を止めました。とにかく、新しいやり方の、乳製品販売方式発足の準備が整うにつれ、酪農の方により多くの時間がかかるようになりました。高速道路に面しているリライアンスNo3で、ドライブイン・ミルクスタンドを始めたら、と私は自問しました。 私たちは、製品を家へ配達したり、店で買ったりするよりも、一リットルにつき、いくらか安く売れるはずでした。
この思いつきを広く宣伝するために、ファンファーレつきの一大オープニングを催しました。新聞に折り込み広告を入れ、ラジオで宣伝し、ちらしを郵送したりしました。ミルクスタンドの方は、宣伝文句を書いた幕をはり、音楽を鳴らし、有名な芸能人を呼びました。商売は威勢よく始まり、順調に続いていきました。すぐに私は、カリフォルニア中にそのようなチェーン店をゆき渡らせる夢を抱き始めました。私たちは金持になるでしょう。
ところが、シャカリアン家の運命にとって、将来起こる何よりも無謀なことが、新しい製粉事業にかかっていたのでした。
私は、その事態が、時限爆弾だということを、ほとんど悟っていませんでした。
製粉事業に乗り出していくことは、酪農業の自然の結果のようにみえました。乳牛一頭は、一日九キロの 穀物プラス十三・五キロの干し草を食べます。これを、やがていつか所有したいと思っている乳牛の数三千頭で掛けると、毎日の干し草と穀類は六七・五トンという信じ難い数字になるのです。
何年もの間、地方の製粉工場から飼料を買っていましたが、その後、非常に濃いミルクを生産するために、独自で開発した方式に従って、自分たちで穀類を混合していきました。
その結果は、実際とても好調で、近隣の酪農家たちは、父に質問し始めました。「イサク、君のところの特別な混合飼料を少し我々に売ってもらえないかね。」「できない理由はないんだがね。」と父が答えました。
それは、事実上、理屈にかなった次の段階のように見えました。こうして、穀類を大量に購入したならば、自分たちの乳牛にかかる費用をもっと削減できるようになる。量が増加すれば、自分たちで製粉することができ、そうすれば、なおさら、自分たちの費用を削減できるし、他の酪農場に売る穀物で、少なくても堅実な収益を上げることができます。 そこで、大きな期待を抱きつつ、新しい拡張を始めました。うちの農場の一つの近くにある製粉工場を、飼料とうもろこしの貯蔵に使われていた十八メートルもの円筒状穀物倉庫三つを含めて買い取りました。それを空っぽにして、よく洗い、新しくセメントを塗って、補強しました。
私は、新たな投機に対して、素晴らしい見通しを立てていました。サザン・パシフィック鉄道の線路がこの穀物倉庫のすぐ横を通っていました。それまでは、いつも鉄道の貨車から穀物を大倉庫に移すのに、トラック、アーガーズ、それから手でシャベルを使って、というような複雑な手順で行なわれていました。
製粉を手がけた最初の一年間に、私は、穀類を、巨大な真空装置を使うことによって、穀物倉庫に移す機構を完成しました。従来の方法だと、四十トンの鉄道貨車を空にするには、大の男三人で一日がかりでしたが、新しい方法だと、男一人が二時間三十分で同じ仕事をこなすことができました。私たちは、この仕事のコストを八十パーセントまで削減したので、業界内にかなりのセンセーションを巻き起こしました。
私は製粉工場へ出かけて行くのが好きでした。機械が盛んに動く音、真空装置がうなりをあげて回転する音、貨車がすぐ脇をがたごと通り過ぎていく音、鈍く輝く黒塗りの真新しいキャデラックの上にふりかかる細かいちりさえも――何もかもが私を夢中にさせました。
それなのに、私が述べたように、全工場の建設は驚くべきわなとなりました。
それは、商品の性質によるものでした。商品の価格は、激しく変動しました。オート麦小麦、大麦に投機する人々は、数時間の間に、巨額の財を築くか、反対に全く失うこともあり得たのです。ウォール街には、そのような投機ばかりをしている専門家がいます。しかし、現場で実際に目に見える穀類を扱う農夫もまた、好むと好まざるとにかかわらず、投機家なのです。
それは、次のように行なわれるのです。仮に私が、秋に配達してもらうよう七月一日に穀類を買います。秋までには、商品の価格が多分変動するということを承知の上、七月の相場で支払いをします。七月に、五十キロニドルで穀類を買い入れ、秋に相場が一ドル五十セントに下がれば、私は損をしたことになります。しかし、二ドル五十セントに高騰すれば、私はもうけたことになります。有能な製粉業経営者の資格の一つは、相場が上がると予想されるときには大量に買い、下がると予想したら買い控えることなのです。
あの一九四〇年から四一年にかけての冬、理論的にはそれをわきまえていたのですが、実際にこのことを体験するとはどんなことなのかは、この先、学ばなければならなかったのです。
第四章 気が変わった男
翌年の春、気候が暖かくなって、人々が公園に繰り出し始めたので、ローズと私は、集会のことを相談し始めました。「でも、日曜日の午後だけでは……。」とローズが言いました。「人々が興味をそそられてくる頃、私たちが荷造りして家に帰って来るのでは、一週間の間に何も起こりゃしません。」
もし、夕方に集会をするとしたら? 毎日、夕暮時に。もしどこかに天幕を張ることができたら、雨が降っても、日が照っても集会はできるはずです。「教会の所有地では!」二人が同時に叫び、またあの偶然の一致が起こったことで笑い出しました。グレス通りの建物は、今では、増え続けるアルメニア人の社会には小さすぎるようになり、
教会は、東ロサンゼルスのグッドリッチ・ブルバードとカロリーナ・プレイスの角の空地を建設予定地として最近購入したところでした。
そこで、私たちは長老の許可を得ようとしました。昨年の夏の疑念と狼狽が、あの、しわに刻まれた褐色の顔に現われました。私たちがそんなに関心をひかれる、ゆきずりの人々とはいったい誰だと言うのか、なぜ、アルメニア人のペンテコステ教会がかかわりを持たなければならないのか、と言うのです。
私たちの教会ばかりではない、私たちの考えは、この地域のペンテコステ教会全部が、集会の後援者になるべきだ、というのでした。私たちの教会は、テントの敷地を提供できるはずですし、他の教会が、音楽家や会場係を提供できるでしょう。私たちは、共に働くべきだと、説明しました。
しかし、一緒に、という言葉で、顔の警戒色は一層濃くなりました。一緒にだって? フォースクウェアの教会、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、ペンテコステ系ホーリネスの人々と一緒に、彼らの怪しげな教義と一緒にだって? それにまあ、それらのいわゆるクリスチャン団体といわれているものの中には、実際、男と女が隣り合って座っているものもあるというじゃないか。老人たちは、ローズと私が黙って座っている間、夏の計画のことなどそっちのけで、二義的と思えるようなことを話し合っていました。
というのは、ペンテコステの風は、ほぼ一世紀ほど前にロシアからアルメニアに吹き込んできたのですが、今では、他の教派と同じように、凝り固まった一教派になり下がっていたのです。いつもこういうふうになるのでした。いつの時代でも、新たな聖霊の油注ぎはどれも、やがて人間の手で、新しい正統的教派になってしまうのです。例えば、アズサ通りの大リバイバルは、まさにこの町で、自由と喜びを持って障害を破ることから始まったのですが、一九四〇年代までには、外の世界はおろか、お互いの間の意志疎通さえもできない幾つかの孤立した教会に凝り固まってしまいました。
ローズと私が見たところでは、悲劇は、彼らは与えることのできるものをたくさん持っていたということでした。一方で、この力を極度に必要としている世界があるというのにこれらの小さなグループは、それぞれ、自分たちの壁の背後で、備え、いやし、導く神の力を、毎週経験していました。私が毎週、六日の間取り引きしていた人たちは、そんな世界があることさえも知りませんでした。「それでは、みなさんは全くかかわりを持って下さらなくて結構です。天幕のこと、清掃のこと一切は、私が手配しますから、ただ土地だけを使用させて下さい。」と私は長老たちに頼みました。
最後に彼らを動かしたのは、私が語ったことではなく、父がこの計画を弁護した事実でした。イサク・シャカリアンの名前は、教会内で重みを持っていたのです。もし、イサクが賛成するのなら、危険にも聞えるが、まあ、いいだろう、というわけです。
このようにして、私たちは許可を得たものの、その直後、もう少しで後悔するところでした。天幕を張ることは、講壇を組み立てることとは全く異なる仕事だということを学びました。天幕その物を借りてくることは、非常に簡単なことですが、天幕は、「公の収容設備」なので、永久的な建物と同じように、従うべき規制がたくさんありました。私は、区画整理部、消防署、警察署、公衆衛生局、電力委員会に出頭し、どこへ行ってもそのつど、私が企画していることとその理由を、はじめから全部説明しなければなりませんでした。
この一連の許可をとった後はじめて、私は、天幕の組み立てを実際に始めることができたのでした。さて、電気の配線は全部検査され、通路や出口は特定の基準に従い、ゴミ容器や移動できるトイレが設置され、ほこりを静めるための水まきトラックが雇われました。それから、人々に知らせる仕事がありました。ラジオや新聞での宣伝、店の窓にはるポスター、私は、ドライブインのミルクスタンド開店の時したことを、何もかも思い出そうとしました。
これらすべてに、お金がかかりましたし、時間もかかりました。ついに、父さえも、がまんできなくなってきました。父は、私が、何週間も、ほとんど事務所に出ていなかったことを思い出させようとしました。私たち二人にとって、最初に胸に浮かぶことが何であるか、父が言う必要はありませんでした。私が初めて独立して手がけた事業である肥料工場が、損失を招いていたのです。五年の間、なんとかして、黒字になるようにと、苦闘しました。この事業を存続させるには、自分の全時間と、全精力を、それも今すぐに投じなければなりません。それなのになお、この天幕集会も重要であるという感じを動かすことができませんでした。
夕方の集会は七月から始まり、六週間にわたり、毎晩行なわれました。前年の夏に、私は自分がよい説教者でないことを、確実に知りました。心は神の不思議と現実で満たされていましたが、語る言葉が出てこないのでした。若いまたいとこのハリー・ムシェギアンは違いました。父親のアラムや祖父のマガーディッチのように、堂々たる物腰と、響きのよい言葉づかいを身につけていましたので、人々にエリを正させ、注意をひくのでした。彼は若冠二十歳でしたが、私よりずっと優れた語り手でしたから、説教は彼に依頼しました。
人々は一度来ると、また来ました。週が過ぎるにつれて、群集は増してきました。天幕集会を
後援するために、極めて慎重に協力した五つのペンテコステ系の各派は、だんだん活気づいてきました。牧師たちは、演壇の上に座り、ローズのピアノで聖歌隊が歌を導いていました。
聖歌隊の来ない夜は、フローレンスが、専門的に訓練された、高音の美しいソプラノで歌いました。フローレンスは、六月に高校を卒業し、秋にはホイティア大学に入学するのを楽しみに待っていました。私は、自分のできる所で手伝いました。集会を導き、電話をかけ、送り迎えの手配をし、帳簿をつけました。
みなにとってちょっとした驚きは、これらの帳簿は、今や支出と同じように収入の項目も記入されていたことです。毎晩遅く、牧師で構成された委員会が献金を数えると、その合計は、前の晩より多かったのです。大々的な献金集めをしなかったにしては驚きでしたし、皮肉なことでもありました。肥料工場の簿記係と帳簿をチェックすると、工場の勘定は悪くなるばかりだったのですから。
献金の中から、新聞やラジオの広告代と天幕の使用料を支払ってもまだお金が残っていました。その他の大部分の出費については、私は記録をとりませんでしたし、それを取り戻すことも期待しませんでした。さて、私には考えがありました。もし、献金の残額を、この五教会が連帯して管理している銀行の特別口座に入れたとしたらどうかということでした。
八月半ばに、天幕をたたみ、奉仕者たちが、その場所を清掃しました。何百人もの人々が、神は現存するお方だ、というメッセージを初めて聞きました。クリスチャンになる決心をした人もいました。ダウニーの肥料工場の事業は、とうとう閉ざしてしまいました。 しかし、最大の影響は――それは偶然に起きたことなのですが――あのわずかな銀行の口座から起こったのです。それを決定するために、フォースクウェア教会の牧師は、ペンテコステ系チャーチ・オブ・ゴッドの牧師に電話をしましたし、またアッセンプリーズ・オブ・ゴッドの長老の一人と、アルメニア人のペンテコステ教会の長老の一人が昼食を共にしている姿が見受けられました。さらにこの二人は、通りをすこし行ったところにあるペンテコステ系ホーリネスの会衆と礼拝を捧げるために、実際に一緒にドアを入って行って座ったのでした。
それは、九月も終りに近い火曜日の朝のことでした。私は机の前に腰を下ろし、財政の混乱を少しでも秩序あるものにしようとしていました。はじめ、私の肘のところで鳴っている電話が、ほとんど聞えませんでした。受話器を取り上げて、数秒してから、電話の向こうで泣いているのはローズだとわかりました。「……ダウニー病院ですの。できるだけ早く……。」と彼女が言っているのに、「何だって? 誰なのかね?」と私は愚かにも尋ねたのです。「フローレンスが……」彼女は繰り返しました。「今朝、ホイティアヘ車で行った時、どんなに霧がかかっていたか、覚えていらっしゃるでしょう。ああ、デモス、あの子には、トラックが全然見えなかったに違いありませんわ。」
まだはっきり事態がのみこめないまま、車まで走り、ダウニー病院までの数百メートルを、ぼおっとした状態で車をとばしました。すでに家族の大部分は、小さな木造平屋の建物に到着しており、父が私に、医者はほとんど手の施しようがない、と話してくれました。父は、あまり話もできない様子だったので、私に詳細を説明してくれたのは、私の妹ルースの夫でした。
事故は七時三十分、秋の朝、太平洋からはうようにして入り込んで来る、濃い灰色の霧の中で起こりました。明らかに、フローレンスは一時停車のサインを見損ない、何トンもの沸き返ったタールを道路に流していた、路面補繕トラックに彼女の車が衝突したのでした。トラックの運転手は無傷でしたが、フローレンスは、焼けつくようなタールの上に、放り出されてしまったのでした。通りがかりの人が、彼女を引き上げ、自分のコートで包みましたが、一瞬の間に、背中全体に危篤状態になるほどの火傷を負ってしまったのでした。
医者が骨折の治療をするのを妨げていたのは、この広範囲に及ぶ火傷でした。とうとうフローレンスは、集中治療に移され、私たちは一人ずつ、戸口に立って中を見ることが許されました。私たちと同じように、恥も外聞もかまわず泣きながら、私たちを廊下へ案内してくれたのは、ハイグッド博士でした。十七年前に、フローレンスをこの世に取り上げ幼児期のはしかや百日咳の時に治療をしてくれたのも、この熟練した人物でした。今や、彼にできることは、幾度も幾度も母の手を取って、慰めることだけでした。「ザロウヒ、あの子は丈夫で若い。あの子には驚くべき生命力がある。」と彼は言い続けました。
私が戸口ヘ歩み寄る番になった時、病院の高いベッドに乗せられているのが、フローレンスだとは、ほとんど信じられませんでした。小さな妖精のような顔つきと、天使のような声の持ち主、そして家中で一番若くて才能豊かなフローレンスが、軟膏薬のベッドの上で、滑車とおもりに引っぱられているのです。目は閉され、継続的にうめき声がもれていました。「主なる神さま、彼女を痛い目に合わせないで下さい。苦痛を取り除いて下さい。」と私は祈りました。
私の想像でしょうか、それとも本当に、一瞬、うめき声が止ったのでしょうか?「痛みを取り除いて下さい。」と私はまた祈りました。
ローズと私は、リチャードとジェリーに昼食を与えるため、家へ帰りました。その日の午後、私が病院に戻って来ると、フローレンスは、他のものに対して何も意識がないのに痛みのために泣いていました。私はまた戸口に立って祈ると、泣くのがおさまるようでした。その日は、昼も夜も痛みがひどくなる時はいつも、私の祈りが助けとなるようでした。医者や看護婦さえもそれに気づきました。「デモス、入りたいときはいつでも、この部屋に入ってもいいですよ。静脈に栄養補給の注射をするときでさえ、君がここにいてくれた方がうまくいくようだ。」とハイグッド博士は私に言いました。
そこで私は、白衣やマスクや手術用のキャプで身を固めました。ベッドの脇には、私のために椅子が置かれました。その後の五日間というもの、私は寸暇を惜しんで、この部屋にいました。意識が回復すると、痛みはさらに激しくなりました。どんな薬も、どんな量の注射も、何の役にも立たないようでした。フローレンスが眠るのは、私が見舞っている間だけだと、看護婦が報告してくれました。
どうしてそうなのか、私にはわかりませんでした。そこに座っている間、十一年前、彼女が肘を折った時のことを、度々思い起こしました。あの朝、教会で、彼女がいやされたということを私は知っていました。フローレンスと私の間には何か不思議なつながりがあるように思えました。それなのに、今度は私の祈りによってはいやされなかったのです。一時的には痛みから解放されたのですが、彼女が陥っている危険は去りませんでした。
今や、本当の危機に直面しました。事故の直後に撮られたレントゲン写真は、左の腰と骨盤が舗装道路にぶつかった衝撃で、砕けてしまったことを示していました。それから、新しい]線写真は、砕けた骨の破片が、腹部の、生命にかかわる器管の方へ移行しているのを示していました。毎日新しい写真が撮られ、毎日そのスライドを医師と共に見ていると、針のようにとがった破片が、腹部の奥に深く入り込んでいくのがわかりました。
事故から六日後、火傷のためにまだ手術できないので、教会は一日中の断食を布告しました。日曜日の夜半から始めて、全会衆は、食物にも水にも手を触れませんでした。月曜日の夕方七時、断食をしたまま、人々は東ロサンゼルスのグッドリッチ・ブルバードにある、仕上げが終ったばかりの教会に集まりました。使徒行伝(二章一節)のように、「みなが一つの所に一致して……」フローレンスのいやしのために、二十四時間の連鎖祈祷を達成するためでした。
私だけはそこにいませんでした。その夜、私には、ダウニーから八キロ離れたメイウッドの町で、特別な使命があったのです。今までに何か月間も、私たちはチャールス・プライスという名前の人物について聞き及んでいました。何年か前、プライス博士は、カリフォルニアのロディにある、大きな組合教会の牧師をしていました。――ボーリング場を誇りにさえしている、超モダーンな教会施設を備えた、超モダーンな教役者でした。それから、伝道者、エイミー・センプル、マクファーソンがその地域を訪れました。プライス博士は紙と鉛筆を持って、彼女の天幕集会に出かけて行きました。自分の教会の会衆に彼女のことを警告できるように、マクファーソン女史がとうとうとまくし立てている、ばかばかしいペンテコステの信条をすべて記録するためでした。集会が中ほどまで進んだ頃には紙と鉛筆はポケットに戻され、プライス博士はひざまずいて、両ほほに涙を流しながら、両手を上にあげ、未知の言葉で神をほめたたえていました。
その夜から、チャールス・プライスの務めは根本的に変えられました。彼は新しいメッセージを「純福音」と称し、それによって、これからは新約聖書のメッセージを、余すところなく説教するつもりでした。プライス博士は、殊に、聖書に記録されているようないやしは、いつの時代の教会でも、普通の経験の一部であるはずだという意味の主張をするので知られるようになりました。
そして今、プライス博士は、メイウッドの近くで自分自身の天幕集会をしていたのです。その場所に近づくにつれ、私の心は沈んでいきました。車は八百メートルも離れた所までも駐車されて、私がやっと巨大な天幕に着いた時には、座席はいっぱいで、しかも大勢の人々が外の芝生に立っているありさまでした。
プライス博士は、頭上のスポットライトでキラキラ光っている縁なしのめがねをかけた髪が砂色の中年の人でしたが、紅白のまん幕をたらした講壇から話していました。説教が終り、いやしの必要がある人は誰でも、前へ出て祈ってもらうよう招きがなされました。何百人もの人々が、通路に殺到しました。時計を見ると九時でしたから、今夜はとうてい彼に近づけないだろうと思いました。しかし、私の教会では全会衆が神の前にひざまずいて祈っていることを思い、そこに留まりました。長い列は、ゆっくりと少しずつではありましたが、前に進んでいきました。十時、十時半、会場係は、集会を閉じようとしていました。「姉妹!プライス博士は、明晩もおいでになりますよ。」「兄弟!プライス博士は喜んであなたとご一緒にお祈り下さいますよ。」
プライス博士は、聖書と、病人に注ぐ油のビンをまとめ始めました。「先生!」私は叫びました。彼はふり返り、まぶしい電気のかなたを見ようと、目を細めました。
私はすばやく身をかわして、会場係をすりぬけました。「プライス博士、私はデモス・シャカリアンという者ですが、妹が自動車事故に遭い、ダウニー病院の医師たちは、妹は見込みがないと言っています。それで私たちは、もしや博士にお越し願えないかと思っているのですが。」私は一気に全部はき出すかのように言いました。プライス博士は、目を閉じましたが、その顔には疲れがみえました。彼はちょっとの間、そのまま立っていましたが、急に目を開けました。「行きましょう。」と彼は言ったのです。
私はゆっくりと散って行く群集をかき分けて、足早に先頭に立って進み、だれかが彼をひき止める度にやきもきしていました。博士は私のいらだちに気がつきました。「若者よ心配なさるな。あなたの妹さんは今晩いやされます。」と彼は言いました。
私はその人をじっと見つめました。どうして、この人はそのように平然と、確実に言いきることができるのでしょうか。だがもちろん、彼はレントゲン写真を見ていないのだから、事態の深刻さが全然わかっていないのだ、と自分に思い起こさせました。
私の懐疑心が顔に現われていたに違いありません。私が車を発車させると、「若者よ。なぜ私が君の妹さんのいやしを確信しているか、理由を話そう。」と彼は言うのでした。何年も前、一九二四年に逆のぼるのですが、マクファーソン女史の集会での経験のすぐ後自動車でカナダを通過中、オンタリオ州パリという小さな町にさしかかりました。車で村を通り抜けようとしたところ、彼は右に曲がるようにという妙な衝動を覚えたので、そうしました。それから、左に曲がるようにという、抗しがたい衝動を覚えました。こんなふうに、プライス博士は、町を通り抜けて、メソジスト教会の脇に至るまで尊かれたのでした。そこまで来ると、「止まれ。」という命令を受けたように思われました。
なぜそうしているのか、理由もわからないまま、チャールス・プライスは隣りの牧師館の呼鈴を鳴らし、自己紹介をしました。そして突然、この教会で、連続した集会が持てるかどうか聞いてしまったのです。ところが、プライス博士が仰天してしまったのは、牧師が承諾したことでした。
集会に出て来た人々の中でも、プライス博士は、見るも痛ましいほどの不具の若い女性に、殊更注意をひかれました。その女性の夫は、毎晩彼女を運んで来ては、前方のベンチの一つに置いてあるクッションの上に横たえるのでした。聞いたところによると、その人たちは、ルイスおよびエヴァ・ジョンストンといい、オンタリオのロウレルから来たことエヴァ・ジョンストンは、リュウマチ熱にかかってから後十年以上、寝たきりで、絶えず痛んでいるということでした。プライス博士は、機能を失なって、曲がったままの両足をずっと見下ろしていました。右足は、左足の後に醜く引っぱられていました。その夫婦はトロントの、二十人もの異なる医師のところへ行き、電気治療、レントゲン、手術、温熱マッサージなどやってみたのですが、奇形は年々悪化するばかりだったということでした。それでも、プライス博士は、説教の通りその晩、エヴァ・ジョンストンはいやされつつあるということを知っていました。その理由は、博士がエヴァの方を見るたびに、両肩に重い毛布がかぶさっているかのような、自分を包み込む、体の暖かみを感じたからなのでした。
フローレンスの肘で、私も全く等しい経験をしたことを思い出した時、背筋に戦慄が走り抜けました。困難を覚えながら、私は目を前方に止め続けました。
プライス博士は、重みと暖かさの感覚を、神の臨在と解しました。彼は、これから会衆が特別な奇跡をまのあたりに見ることになると話し、講壇を下りて、手を婦人の頭に置いて祈り始めました。全会衆の面前でこの婦人の背はまっすぐに伸び、湾曲していた両足がまっすぐになり、目に見えて長くなり、十年以上歩いたことがなかったのに、エヴァ・ジョンストンは自分の足で立ち、通路の端から端まで――ほとんど踊り出さんばかりに――歩いたのです。プライス博士は、未だにジョンストン家と連絡を取っていますが、いやしは恒久的なものでした。「そして、今晩、もう一つ奇跡を見ることになろう。君が私に話しかけた瞬間、
"あの毛布" が再び肩に置かれたからだ。毛布は今ここにある。神はこの事態の中においでになる。」とチャールス・プライスは続けました。
私は自分が何を言い出すか不安で、一瞬激しくこらえました。私自身の経験以来十一年間、それに似たようなことを聞いたことがなかったのです。
私たちがダウニーに着いた時は、十一時半を回っていました。ベッド数三十三の小さな病院の玄関には鍵がかかっており、呼鈴を鳴らさなければなりませんでした。やっと看護婦が出て来て、「まあ、お帰りなさいませ。今晩は、フローレンスの容態が悪いのです。」と私に言いました。
プライス博士が私と一緒に病室に入ってよいかと尋ねると、博士も味気ない上着とマスクを身につけさせられました。それから二人は、フローレンスの部屋に入ったのです。
彼女は、軟膏薬のベッドに、横たわり、茂みのようにたくさんのチューブと滑車の針金で、半分うずまっていました。私がチャールスを紹介すると、弱々しくうなずきました。 プライス博士は、ポケットから油のビンを取り出すと、自分の手に少し注ぎました。それから、ベッドを取り巻いている装置をかき分けて手を差し伸べ、フローレンスの額に指先で解れました。「主イエスよ。ここにおいで下さることを感謝します。私たちの姉妹をいやして下さることを感謝します。」と祈りました。
彼は強くやさしい声で祈り続けていましたが、私はもう言葉を聞いてはいませんでした。部屋の雰囲気が、非常に変化し、どういうわけか、もっと……もっと濃くなるようでした。空気そのものが濃くなったようで、私たちは、ほとんど水中に立っているかのようでした。
すると急に、高いベッドの上で、フローレンスが身をよじりました。プライス博士が後に飛びのくと同時に、重い鋼鉄の牽引用おもりがゆれて、博士の頭のすぐそばを通り過ぎました。フローレンスは、針金が許す限度まで、一方に、また他方にと寝返りを打ちました。彼女がゆれ動く度に、おもりが部屋中にゆれ動き、輪を描いていました。私は彼女を止めるべきだと思いました。医者は、砕けた腰を動かしてはならない、としつこく言っていたからです。しかし私は、あの躍動的な雰囲気に包まれ、浸されたまま、自分のいる所を動きませんでした。
うめき声がフ刀−レンスののどの奥からもれてきましたが、痛みのためなのか、言葉には尽くしがたいある種の歓喜のためなのか、私にはわかりませんでした。驚異の二十分間プライス博士と私が、大ゆれしているおもりから身をかわしている間、フローレンスは針金の牢屋で、ごろごろ寝返りを打っていました。私は、看護婦が今にも戸口から飛び込んで来て、私たちがしていることを知ってくれたらいいと思っていました。十分おきに部屋は点検されることは知っていましたが、だれも来ませんでした。それは、ちょうど、私たち三人だけが普通の時間や空間のすべてから移されて、あの暖かな、ただ押し寄せてくる神の臨在だけの世界に住んでいるようでした。
一瞬のうちに、また、いつもの病室に戻りました。フローレンスは、ベッドの上で静かになり、輪を描いていたおもりのゆれも、徐々におさまってきました。しばらく、彼女は私をじっと見つめて言ました。「デモス、イエスさまは私をいやして下さったわ。」と彼女がささやきました。
私は彼女の方に身をかがめて、「知っているよ。」と言いました。
数分後、看護婦が部屋に足を踏み入れた時、フローレンスがぐっすり眠っているのを見て喜びました。
翌朝、プライス博士をパサディナのお宅へ車で送り届けた後、私がまだ眠っているうちに、ハイグッド博士から電話がかかってきました。「この]写真を見に来てほしいんだが……。」彼はそれしか言いませんでした。
私が着いた時、レントゲン室は、医師、看護婦、放射線技士たちが、みな見に押し寄せていました。明るくされたスクリーンに、ピンで止められていたのは、八枚の]線用プレートでした。はじめの七枚は、押しつぶされて砕かれた左の腰と骨盤を示していました。砕かれた骨の破片は、そこら中に散らばっていて、次々に撮ったどの写真の中でも、だんだん広く分散していました。八番目のスライドは、その朝撮られたものですが、あらゆる角度から見て、正常な骨盤を示していました。写真の中の両側は、全く同じでした。左の腰骨は、右と同じように形成されていました。ただ、何本か、髪の毛ほどの線が入っていて、確かにずっと昔、この堅い骨が損傷したことがあることを示しているだけでした。
フローレンスは、背中の火傷がなおるまで、もう一か月病院に留まりました。退院する前の晩、彼女は不思議な夢を見ました。夢の中で、彼女が飲むようにと、二十五のコップに入った水がテーブルの上に置いてありました。「それは、私が地上で経なければならない年数のことだと信じます。」と彼女は、翌日、ローズと私が退院する彼女を迎えに行った時に言いました。「神さまは、私が神に仕えるために、あと二十五年を与えて下さったのだと信じます。」
それはどうかわかりませんでしたが、私は自分の目で神の御力を拝したことだけは知っていました。
私がまだ学ばなければならなかったのは、自分の弱さでした。
第五章 天国の手がかり
一九四一年十二月、合衆国は戦時中でした。真珠湾攻撃で、ロサンゼルスは一夜にして二十四時間連続の防衛活動の中心となりました。昼は、高速道路はカーキ色の軍用トラックでひしめき、夜は、灯火管制下の恐ろしい闇の中で、市民はせわしく仕事をしました。私たちは、窓に暗幕を釘づけして、畜舎の中で夜明け前に乳をしぼりました。ダウニーの私たちの近くのノースアメリカン航空機の工場は、急速にばら線で囲まれた巨大な工場に成長し、四六時中、自動車やトラックを門からはき出していました。ローズはがっかりし七歳のリチャードは喜んだのですが、対航空機の軍事施設が、家のほとんど前庭の位置に建ち上がりました。
酪農は必需産事と格付けされたので、要員たちは徴兵されませんでした。しかし、早晩うちの雇人や補給取り引きをしていた人たちは、軍務についたり軍需工場に行くことになりました。私は自分の時間を仔牛の囲いと雌牛の小屋、あとはどこでも一番人手の足りない所に分配して、経営を続けていくために必要な燃料や穀物、タイヤやトラックの部品などを求めて、いろいろな物資の割当、配給関係の役所をかけまわりました。
一番やっかいな問題は、家畜の健康でした。薬品と獣医は、ますます足りなくなる一方でした。父と私はいつも、病気が家畜の群れを脅かすときは、まず祈ることにしていました。今や祈りは、しばしば最初で、最後の防衛となりました。
戦時中を通じて、ローズと私は東ロサンゼルスでしてきたパターンに従って、夏の天幕集会を支援し続けました。賜物を与えられた説教者を捜し、私たちに与えられていると思われる賜物を生かして、ある地域の教会を共に働かせ、備品を借りたり、こまごました雑用の処理などをしました。それから、いくつかの主要な費用がまかなわれた後、献金の残りはどんなものでも、関係教会が合同で管理している銀行口座に入れました。ですから、集会が終っても、協力関係は終りませんでした。
私たちの教会では、「この無謀な行為全体」から何を得ようとしているのか、まだ、ひどく不思議がっている長老たちが何人かいました。しかし、一九四二年七月、フローレンスが、少しもびっこをひかずに、会衆の前へ歩いて行き、輝かしい開会賛歌を歌った時、ローズと私は、生涯かけてあらゆる努力を尽くしても、神への感謝を十分表わしきれないということを知ったのです。
チャールス・プライスとの交遊を深めることは、その頃の何年間か、別な喜びの源でした。私は、彼が、ウィリアム・ジェニング・ブライアンの膝下で完成された、優雅なスタイルで説教するのを聞くのが好きでした。一対一の個人的な訪問は、それ以上素晴らしいことでした。一九四一年から一九四六年にかけて、彼はほとんど毎週ダウニーヘ来て、私たちは、彼のお気に入りのイタリア料理のレストランヘ行きました。そして、奥の方の仕切り席をとって、私は午後中、かつて知った人々の中で一番賢い人の話に耳を傾けて過ごしました。
ある時私は「プライス博士、あなたがなさっておられるようなことをするのは、世界中で一番素晴らしいことですね。あなたの言葉で何千という人々がゆり動かされ、人々が救われ、いやされ、あなたを通して働かれる神のみ力を見るということは!」といいました。
プライス博士は、フォークにスパゲッティを巻き付けるのを止めて、予想外の、少ししかめ顔で、私を見つめました。「そうではない。それは……それはこの戦争みたいなものだ。」とついに口を切りました。彼は部屋中、腕をふり回しました。私たちはこの場所にいる、ほとんど唯一の民間人のようでした。「兵隊はどこで殺される? 前戦で、敵に最も近い所でなのだよ。」「デモス、それは伝道と同じなのだ。それは、ガダルカナルで起こっているのと同様、命がけの戦いなのだ。敵陣に攻撃を仕かける説教者は、傷を負う。我々のうちの何人かはやられてしまうことになる。」博士はそのきわだった特徴の、幾分自分を軽べつしたような笑いを浮かべました。「時に人々は、私が流暢に話すといってほめそやすが、私には何の意味もない。だが昨晩、ある婦人は私に、彼女の家庭では毎日私のために祈っているといってくれた。デモス、それこそ、どんな説教者にとっても、聞いて一番うれしいことなのだ。」
私は彼の真剣さに打たれて、うなずきました。しかし、四〇年代当時は、彼の言ったことの実体を本当には全く理解していませんでした。
それは戦時中のお役所風と窮乏の圧迫の下でほとんど気づかないうちに起こりました。父の最初の三頭の雌牛が三千頭になり、私たちは世界最大の私営酪農場となりました。そして、こちらに役立つ牛乳ビンがある、あちらに酪農場の床に敷くセメントがある、といううわさをたどって、幾時間も電話をかけながら、頭痛の方も世界最大の頭痛をかかえていると思われました。それだけの数の牛に十分なえさを手に入れることだけでさえますます困難になってきたのです。今や私は、インペリアル・バレーまで車を運転して、干草を買いに行く始末でした。
この道中はほとんど砂漠を通って行くもので、一九四三年、汗だくになる七月から、さらに暑い八月になるにつれて、かつて寂漠とした道路が驚くべき変化をとげました。前に通った時は、太陽で干からびた二、三のあばら屋があった所に、次に行くと、にぎやかな天幕の町があり、車は、軍の護送隊の後をゆるゆる進むというありさまでした。そういった状況の中で変らなかったナツメヤシの農園やほこりっぽい村落も、急に兵隊であふれてきました。もちろん、誰も何も言いませんでした。誰も何も知らなかったのです。しかし、砂漠の一大軍事行動と同じものが紛争のある地球上のどこかで起こされていたことは明らかでした。
家に帰ると、私はローズにそのことを話しました。「ずい分多くの若者たちがいて、暑くて退屈しているようだったよ、ローズ。」
パーム・スプリングから四十キロ東にあるインディオの町が、特に私の思いにまつわりついていました。道は勤務時間外の兵隊たちでごった返しており、通り抜けるだけで一時間かかりました。私は交通渋滞した車の中に座ったまま、気温四十八・八度の中でわずかな日陰を求めながら、三、四軒ある小さなレストランやたった一軒しかない劇場の所で待っている長蛇の列を見守っていました。何もすることがなく、どこにも行く所がないのです。
そして、私は考えました。もしここで、天幕集会をしたらどうだろう!「もっと集会かい、デモス。」と父が尋ねました。ローズと私は、オレンジ郡の六週間にわたるリバイバル集会の支援を終ったばかりでした。
ローズも疑わしそうでした。「デモス、あなたは農場で一日六時間働いているんですよ。リバイバル集会の期間中、あなたはほとんで寝なかったではありませんか。自分を殺して、何を立証するおつもりですの。」「だが、この考えが私ではなく、神から出たものだとしたら?」
ローズは、アイロンをかけていた夏服から目を上げて、「それならしますわ。」と答えました。
私はソファーから飛び上がり、「今すぐ、チャールス・プライスに電話するよ。彼の予定はかなり先まで詰まっているが、一週間か二週間の余裕はあるだろうから。」
ローズは霧をふいた山積みの衣類の中から、ジェリーの別な遊び着を取り上げました。彼女は決して口数の多い方ではないにしても無口というわけでもありませんでした。その彼女が全然何も言わない時こそ、話したいことを一番持っているということを私は心得ていました。「ローズ」
無言が続きました。「何か間違っているかい。」「デモス、私はプライス博士を愛し尊敬しているけれど、博士が兵隊たちに話するのは不適当だと思いますわ。誰か若い人……誰か……私にはわかりませんけど、必要です。誰かギターを弾ける人です。」
私は、ローズが間違っていると確信していました。「プライス博士が引き寄せた人々の群れを見てごらん。起こった奇跡やフローレンスのことを考えてごらん。」と私は言いました。
ローズは再び黙りこくってしまいました。そこで私は、リンカーン・パークで集会を持ち始めた頃学んだ、最初の教訓のことを忘れて、チャールス・プライスに電話をかけました。ローズと私にとって、神のみこころを見出す鍵は一致だったのです。
プライス博士は、砂漠の兵士たちの状態に同情的で、彼の予定を調整しなおしてみようと言いました。ちょうどその頃、私たちのミルクの割当分担量が増えて、私はしばらくそれに気を取られていたのですが、プライス博士は予定を組んでくれました。ところが、彼が流行性感冒にかかってしまったのです。一方私はそのような集会を開く許可を与えてくれる、軍の権威者を捜すのに難儀していました。プライス博士の医師が、集会を開くことは絶対にできないといった時には、あの状況で私が感じていた緊迫感は、消えてしまっていました。私は神の機会あるいは、この特定の仕事のための神の人を失ってしまったのです。誰かほかに集会を導く人がいないかと、二、三回捜したのですが、あまり本気でなかったので、結局は、何もしないで終りました。
その秋の新聞は、戦争の話でもちきりでした。アメリカの戦死者の数は増え続けました。新しく数字が発表される度に、心を苦しめる問いが戻ってきました。あのカリフォルニアの砂漠で、私が車で通り過ぎた時にいた若者のうち何人が戦死者の中に含まれていたかしら? インディオで集会が開かれていたら、来たかもしれない若者は何人いたかしら?彼らにとってすべてとなる真理を、見出したかもしれない若者は何人くらいいたかしら?
話は変り、一方では別な心配がありました。南カリフォルニア中の酪農家たちが、危機に直面したのです。たくさんの獣医が軍務につくため去って行くと、牛の間で結核が増加していきました。三十日毎に、州と郡の保健局から、群れを検査するために役人がやって来ました。牛のしっぽのつけ根で、毛のないなめらかな皮膚の部分に注射が施されました。三日たっても皮膚がなめらかならば、その動物には感染していないのですが、消しゴム大の腫れが現われた時は「反応のあったもの」として分類されました。腫れが余り大きくない時は、「疑似症」とされました。群れの中で、反応のあったものと疑わしいものの発生がある程度に達すると、法令により、感染していない動物も病気のものと同じように、全部殺されました。
うちの牛にはじめて病気が発生した頃、隣りの郡のいくつかの群れが、すでに屠殺されていました。もちろん、父と私は、牛について祈りました。九歳のリチャードも、学校から帰って、牛舎に手伝いに来て、牛のために祈りました。問題があったのは、うちの模範酪農場、リライアンス、No3でした。検査の結果、ほとんど百頭近くの牛が感染しており他の二百頭は疑似症とみなされました。次の検査のとき、この数字がいくらかでも増加すると――必然とみられたのですが―― 一千頭全部が殺されなければなりません。
この知らせを受けた日、父と私は夕方の乳しぼりを終った後、向かい合った机の前にがっかりして腰を下ろし、長い間No3に残っていました。病気がここまで広がってから、群れを救ったという酪農場のことは聞いたことがありませんでした。
私たちを励ますため、父はアンジェラス・テンプルからの夜間放送のスイッチを入れました。憂うつな気分でいっぱいの部屋の中に、ケルソー・グルーバー博士の暖かみあふれる声が響きました。その晩博士は、どんな病気でも全部いやす神の力について話しました。机の向こうの父の目が、私の目と合いました。
翌日早く、私はグルーバー博士に電話しました。「先生、あなたがどんな病気でもとおっしゃったとき、牛の病気も含んで言われたのですか?」
パークレイ仕込みの神学者は、それを熟考しているかのように、電話の向こう側には長い沈黙が続きました。「どんな病気でも、動物でも、人間でも。」とついに彼は繰り返して言いました。「それでは先生、一千頭のホルスタイン種のために祈って下さいますか?今日。」そして私は、リライアンスNo3の状況を説明しました。
博士は午前十一時三十分に到着し、私たち二人は囲いに向かいました。それぞれの柵には六十頭の牛がいました。そのうち大部分は、向こうの隅の方のかいばおけの中に頭をつっこんで、草をはんでいましたが、グルーバー博士と私が最初の門に足を踏み入れると、食べるのをやめました。そして、牛がいつもするように、ゆっくりと押し合いながら、私たちのまわりを取り囲みました。
太陽は私たちの頭上に照っていたにもかかわらず、グルーバー博士は帽子を取りました。私も同じように、さっと帽子を取りました。「主イエスよ。幾千もの丘の上の牛はあなたのものです。主よ、あなたの御名によって、あなたの創造物をおそってきたすべての結核菌に対して、権威を持って臨みます。」と彼は叫びました。
牛の耳がピンと立ち、そのうるんだ黒い幾つもの目が、じつと博士を見つめました。
囲いを一つ残らず行き巡るには、三時間かかりました。グルーバー博士は若者ではなかったので、私は日射しを心配しましたが、長い祈りの間中、彼は帽子をかぶろうともしませんでした。そして実際、サイロや水桶のあたりの雰囲気が、妙に静まり返ってきたのです。
従業員たちもそれを感じました。働く人々はほとんどが古参者でした。軍隊や工場で働くには年を取り過ぎた人々で、父や私と長年働いていたので、ペンテコステ的なできことには慣れていましたけれども、彼らが、グルーバーの態度に感動しているのがわかりました。博士が病気を叱りつけたとき、細菌が向きを変えて逃げていくのがほとんど見えるようでした。
今や私は、次回の検査が待ち遠しくてなりませんでした。しかし、時間はいつもの通りに過ぎて行き、保健係の役人は、雌牛の列をあちこち歩きながら、しかつめらしい顔をして、検査に夢中でした。牛を仕切り棒の内側に入れておいて、乳しぼりをする畜舎では、注射するたびにアルコールで注射器を消毒するときだけ小休止しながら、検査が行なわれました。検査員たちは、国の、特に子供たちの健康がどれほど酪農産業に依存しているか今はやっている伝染病がどれほど破壊的なものか、だれよりもよく承知している人たちでした
三日後最も重要な反応を全部調べるために、州から二人の医師と郡の長官が来ました。ゴム長靴をはくとき、黙りがちで多くを語りませんでした。彼らにとって、農夫に家畜の群れを処分するように宣告することは、彼らの仕事の中でも一番つらいことだったのです。
私たちは、リライアンスNo3の三十か所の仕切りの列の中で、一度に百二十頭の牛の乳しぼりをしました。最初の二列の終り頃、州からの役人二人に出会いました。私は搾乳機のかちかち鳴る音の合間からもれてくる二人の会話を聞くために、近くに歩み寄りました。「変った事態だ。あの列全部には一頭も感染したものはなかった疑わしいのもいない。」とそのうちの一人が言いました。
別な人が、ちょっと目をしばたいて、「私が検査した列にもなかったです。」
あの畜舎の百二十頭全部の中に、一頭として病気の痕跡を残しているものはいませんでした。第二交替の搾乳が終る頃までには、二百四十頭の牛がツベルクリン反応は陰性と判定され、従業員たちも畜舎の中に集まり始めました。第三交替も同じ結果でした。
昼頃までには、一千頭以上もの牛の搾乳が終り、結核にかかっているもの――あるいは疑わしいもの――は一頭も見つかりませんでした。前には、病気が進行していると言われた牛の中にさえもです。政府の役人たちは、医学的な説明もできず、こんなことが起こった前例はないと言いました。今では畜舎いっぱいに集まった人たちに私が分かち合える唯一の答は、グルーバー博士が祈り、神が答えて下さったということだけでした。
神が答えて下さったのは、この戦争中の緊急事態だけではありませんでした。その後も二十年以上、この場所で酪農を経営し、ダウニーの町に建物が増え、酪農場全体をロサンゼルス北部に移動しなければならなくなるまで、リライアンスNo3では結核や疑似結核のケースは一つもありませんでした。
ローズと私の間に、一九四四年十一月に、もう一人の赤ん坊が生まれるとわかった時、みなの中で一番興奮したのは、私の母だったと思います。ジュリーは幼稚園に通い始め、敷地の中に隣り合せに建てた二軒の家は、静かすぎて母には向いていませんでした。もちろん、他にも孫がいましたが、私の妹たちの家族はみな一・六キロかそれより遠い所に住んでいました。――アルメニア人の基準によると、便利に往き来でせる範囲を越えていました。
母がこの知らせを喜んだのには特別な理由がありました。四十七歳の時、母は手術のできないガンにかかりました。酪農場ではあれほど効を奏した祈りも、ここ家庭では無力でした。「私はお前の二番目の娘に会うつもりですよ、デモス。」と母はしあわせそうに言いました。家族の間では、単純に、今度生まれるのは女児だとみなされていました。記録をできる限りたどってみると、シャカリアンの各世代には、息子が一人しかなかったという理由からでした。母はすぐに小さなピンク色の洋服とフリルの付いたボンネットを縫い始めました。
その年、一九四四年の夏、それまで私の心の奥底でたえずつぶやいていたのが何であるかをつきとめたのは、ある集会でのことでした。伝道者が、天幕につめかけた人々を見渡しながら語っていた時、私は講壇に座っていました。淡い色彩の服、花柄の服が見かけられ、男性の多くは制服で、女性も中には制服を着ていました。婦人たちは……。
私は自分の心が説教から離れてさまよい出しているのがわかったのでそれを何とかして引き戻そうとしました。次の聖歌が歌われている間、もう一度聴衆をちらっと見ました。それは私の想像だったのでしょうか。それとも男性一人に対して十人の婦人が出席していたのでしょうか。翌晩、ローズは私と一緒に数えてくれました。ロサンゼルス郡の消防規則に従って、一列に十四席あり、それから通路がとってありました。私は一番右のはじの方に席をとりました。最初の列は、女性八人、男性二人と子供四人で、次の列には、女性十二人と男性二人、三列目は十四人の女性がいました。
その後三晩続けて、ローズと私は天幕の中をふた手に分けて、人数を数えました。確かに婦人たちの数は、十対一以上のわりで男性をしのいでいました。
私は本当に驚きました。アルメニア人のペンテコステ教会では、一家族全員が出席しているので、男女の数はいつもだいたい同じでした。ここ天幕の中では、性別や年齢による区分もなく、だれでも交り合って座っていたので、今までこの現象に焦点を合わせることをしませんでした。それでは、この人たちの夫、兄弟、父たちはどこにいるのでしょうか。「このあたりには、こんなにわずかな男たちしか残っていなかったとは知らなかった。みな海外に出たらしいね」と、その週、ラザニヤを食べながら、私はチャールス・プライスに言いました。プライス博士は、丸いふちなし目がねの向こうから、じっと私を見つめました。「デモス、今までロサンゼルスはこれほど男たちでいっぱいになることはなかった。兵隊は合衆国の各州の出身者だ。何万という男たちが防衛のために働いている。」
「それでは――それではなぜ、私たちの天幕には、あれほど多くの婦人たちがいるのだろう。」
プライス博士は、通路の向こう側の仕切り席にいる、一群の海兵隊員が振り返って見るほど、頭をのけぞらせて笑いました。「君の純真なアルメニア人の心が祝福されますように。こういう種類のことには、いつも婦人が多くいるものなのだ。たいていのアメリカの男は、宗教というと……わけはわからないけれど……めめしいことと考えている。女、子供のものと思っているのだよ。君は、男性宣教師協会のことを聞いたことがあるかね。男の聖書クラブはどうかね。アメリカでは、婦人たちが教会なんだよ、デモス。もちろん、私のような職業的な聖職者を除けばだがね。しかし、奉仕の働きをする者、熱心な人、命がけの人はみな婦人たちなのだ。」
幾晩もの間、チャールスの言葉で、私の目が冴えて眠れず、ベッドの中で寝返りを打ち続けました。ちょうどその頃、特別に睡眠を必要としていたローズは、私に、居間のソファーに移るよう頼む始末でした。私と同じようにあの婦人たちも、神を愛し、神に仕えるべきです。アルメニアの教会には、いつも女預言者がいました。しかし、男たちが主導者で、長老、聖書学者、教師、子供たちの宗教教育の責任者なのです。他の分野ではあれほど活発で、成功者であるのに、すべての中でも最も高尚な使命を放棄してしまうとは、一体どうしたことなのでしょう。どう考えても私には理解できませんでした。
一九四四年十一月一日、私たちに二番目の女児が生まれました。黒髪で、ほほに触れるほど長いカールしたまつ毛のある、小さな愛らしい赤ん坊でした。もちろんどの赤ん坊も特別ですが、この児には、ダウニー病院でも最も無関心な看護婦たちさえもが新生児室の窓のあたりをうろうろするほど、何かがあったのでした。
私たちはその児をキャロラインと名づけました。グッドリッチ・ブルバードにある教会で、ローズと私は、かたわらにリチャードとジェリーを伴って、彼女を前方に連れて行き伝統的な幼児祝福のための小さな敷物の上にひざまずいた時は、家族を誇りに思う気持ではちきれそうでした。
もちろん、はじめからキャロラインは、母にとって特別な赤ん坊でした。母はますます歩行が困難になり、自分の家と私たちの家の間を数歩歩くことさえ大変でした。そこで、ローズは一日に何度か、キャロラインを母の家の方へ連れて行きました。早くも笑ったとか、寝返りを打ったとか、どんなに早く座るようになったとかいった彼女のなみはずれた才能を一つずつ発見していったのは母でした。母は、キャロラインが四か月を過ぎた頃から、はっきりと「ザロウヒ」と言ったといってゆずりませんでしたが、他のだれもこの驚異的なことを聞き分けた者はありませんでした。
その年の冬、私たちの毎週の会合で、チャールス・プライスと私は、彼に教えられて知った現象――アメリカ人男性の宗教に対する反発――について、たびたび語り合いました。私は、自分たちの教会で他に気づいたことをプライス博士に話しました。「人が事業に成功し始めると、その人は教会に来なくなってしまうのですよ、博士。私はそれを幾度も見てきました。」
店の抵当の支払いがせまっている時や、誰かが銀行からの貸付を必要としている時には全会衆がひざまずくのをたびたび見てきたけれども、その同じ人が一担事業に成功し始めると、突然、困難な時期を共にしてくれた教会に姿を見せなくなってしまう、ということを彼に語りました。「一体、なぜそうなるのでしょう。」
プライス博士は、木製の仕切り壁に背をもたせかけました。「私は、教会が与える解答を知っている。世俗的な成功と、霊的な命とは対立するものだ。神と富――といったことなんだ。だが、私はそれだけでは満足しない。」彼は薄くなった砂色の髪を、手ですきました。「教会は現在の事業の実にものすごい複雑さに直面している男たち――女たちにも――に、どんな解答を与えるのだろうか。何百という仕事がこの人たちの下す決定次第であるといった、膨大な責任を担っている人々、そのような人々が私のところに来たことがあるのだ。だがデモス、率直に言って、私には彼らの尋ねていることがわからなかった。労働契約やら価格凍結のことが私にわかるはずがない。事業の経験が全然ないのだから。」「確かに、我々聖職者たちは、すっかり落ちぶれた人を慰めたり、相談に乗ってやったりすることはできるのだが、事業がうまく行っている人にはどうであろうか。そういう人にも、同じように神が必要なのに、私のような教役者たちはその用語さえ知らないのだ。」
時には、私たちの会話は、もっと楽しくなりました。ある日、プライス博士は「デモス君は聖書に預言されている、主要な出来事の一つを証明するようになる。『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。』それは、君の生存中に起こるだろう。デモス、君はその役割の一部を担うのだ。」と私に言いました。
私はいつも、プライス博士が預言を述べる方法に、はっとさせられていました。私の教会の伝統では、預言的な発言は非常に特別な神の働きとされており、語る人はいずまいを正し、声をあげて語り、厳かな静けさが聞く人のすべてに広がったものでした。プライス博士の場合は、塩を下さい、と言うのと同じ調子の声で、人を仰天させるような驚くべき声明を述べました。「私が果たしたい唯一の役割は、プライス博士、あなたのような伝道者を支援することなのです。」
彼は頭を振りました。「それは、そんなふうにしては起こるまい。専門家の説教者によってではない。『すべての人』イザヤが言ったのはそれだ。これは、自発的に世界中で、普通の男女に――商店や事務所や工場にいる人々の中で起こるのだ。それを見るまで私は長生きすまいが、君は見るだろう。デモス、君がそれを見るときは、イエスの再臨の時が非常に近いのがわかるだろう。」
この頃プライス博士は、イエスの再臨があると、たびたび話しました。たった六十二歳でしかなかったのに、彼は近づきつつある自分の死についても語りました。私は異議をとなえ始めましたが、博士は手を挙げて私を黙らせました。「感傷的にならないようにしよう、よき友よ。簡単なことを私は知っておる。私には、多かれ少なかれ、もう一年がある。それから、デモス、主のみ許に行くということは、クリスチャンにとって何たる特権だろう。」
あの一九四五年三月、ロサンゼルスに流行性感冒がまん延したということを除けば、キャロラインがどうしてそれをしょい込んだのか、見当もつきませんでした。
ヘイウッド博士はもはや在世してはいませんでした。スティーア博士がその業務を譲り受けたのですが、戦時中のことで、スタッフや設備が不足しているので、キャロラインは病院でよりも、家の方が優れた看護を受けられる、と彼は保証しました。
けれども、一日二十四時間の看護でも、何の進展も見せませんでした。伝染病は胸に定着してしまったようで、彼女はあえぐような呼吸をし始めました。三月二十一日の夕刻、入院が認められた時には、診断は恐ろしいものでした。
肺炎だったのです。しかも両肺とも。
それからの十二時間、ローズは全然病室を離れませんでした。人々に祈ってもらう必要があったので、私は電話をかけるためにだけ去りました。家族が祈りました。教会も祈りました。チャールス・プライスは病室に来てくれました。私たちはこの同じ廊下の幾部屋もはなれてない所で、フローレンスのために神がして下さったことを思い出して、信仰を奪い立たせようとしました。しかし、今回の博士は、肩に来る暖かい感じについても話さず、部屋を去るときの顔つきは暗いものでした。
それはすべて、肝をつぶすほど急速に起こりました。三月二十二日午前七時、電話が鳴ったとき、私は家でシャワーを浴びていました。看護婦からでした。私が病院に戻って来られるかだって? 私は、病院に着く前に、赤ん坊が亡くなったことを知っていました。 また、別な方法でも、数週間前、いや数か月前から私は知っていました。キャロラインは、ほぼ五か月間、元気いっぱい生きていたのに、それほどの明るさや生気が、どうして簡単に消されたのでしょう。葬儀所で、最後に彼女を見たとき、小さな白い棺の中にまさかと思われるほど静かに横たわり、長いまつ毛は丸ぽちゃの小さなほほに、カールしてかかっていました。
もちろん、家には既に家族が到着して、私たちの家と大きな隣りの家とにあふれ、長いタベを共に座し、家族が一致し存続していくため、昔ながらの誓いをしていました。墓地から帰って来ると、教会で、着席して晩さんが行なわれ、頭で会得できるまで、胸の内にしまっておくような、通り一ペんの哀悼の辞が述べられました。
ところが、全く驚いたことに、第一週目に最大の援助が二人の見知らぬ人から与えられました。パサデナに住む、三十代半ばの婦人たちで、チャールス・プライスと共に、ある日の午後、車で私たちの家に来たのです。表の車の中で待ちたいと言ったのですが、ローズはしきりに中に入るようすすめました。しばらくして、プライス博士は私を玄関へ引っぱって行きました。「私はこの婦人たちを、よく知っている。聖書にいわれている、目に見えない天使の群れが、時には地上を訪れるのを感じとることのできる能力を持った、まれに見る素晴らしい方々なのだ。」と博士が言いました。家に入るや、二人の女の人は、プライス博士によると、ドロシイ・ドーンとアリーン・プランバックというそうですが、膨大な天使の一団に気づいたと言いました。それは、今までに出会ったうちで、これほど多く、一か所に集まっているのは見たことがないほど大勢に出会ったと言うのです。「空中は、天使たちで混み合っているそうだ。」
多くの悲しい瞬間をきり抜けてこられたのは、その賜物でした。悲しい瞬間というのが大変急に来たのです! 日曜日のある日、ローズは教会で、婦人席の座席から飛び上がり後の戸口から勢いよく走り出して行きました。歩道で追いついた時、ローズはすすり泣いていました。「あの小さな赤ちゃん!」とだけ言いました。
その時、ローズの隣りに座っていた娘が、キャロラインの年頃の赤ん坊を抱いていたのを思い出しました。教会の四人の若い女の人に、キャロラインと同じ頃、赤ん坊が生まれました。何か月間か、これらの赤ん坊を見るたびに、空しさが洪水のように押し寄せて来るのでした。
それなのに……時間がたつにつれ、自分たちの中に変化が生まれたことに気づき始めました。周囲の、目に見える物質の世界を、どういうわけか、今までほど自覚しなくなって行くかのようでした。戦争が終結し、新しい生活を始める時が来たはずでした。幾年間か建築資材が再び入手できるようになったら、大きな家を建てようと計画していました。私は仕事場を欲しかったし、ローズは大きな台所を欲しがっていました。続けて数週間滞在して下さる伝道者たちのためには、確かに客間が必要でした。現状のままでは、リチャードかジェリーのどちらかが、ソファーに移動しなければならなかったのです。
でもどういうわけか、暗黙のうちに、ローズも私も、その家を決して建てないということを知っていました。一部には、この小さな家は、キャロラインの思い出がいっぱいつまっているという理由がありました。ベビーベッドの置いてあった部屋の隅とか、風呂場を出てすぐの廊下の、ゆりかごの置いてあったところとか。それに書斎、すてきな小ぎれいな客間、何もかも新しい台所や、家庭機具などを持つということが、もうどうでもよくなってしまったのです。私たちの一部が天国に行ってしまった時以来、地上は余り差し迫ったこともなくなり、異なってみえるようになったのです。
別なことにも気づきました。朝、リチャードとジェリーが学校へ行ったあと、ローズと私はいつも、朝の祈りのために小食堂の食卓に残って頭をたれ、その日にかかわることを神に話すのが常でした。
ところが突然、食卓ではいけないような気がして来ました。また暗黙のうちに、二人共神に語る時はひざまずきたいと願っていることがわかりました。ある朝、私たちは一緒に居間に入って行き、ローズの家族から、結婚十周年のプレゼントとしてもらった東洋風の敷物の上にひざまずきました。その時から、青い花模様のついたこの地味な赤色の敷物は私たちが神と出会う場所となりました。キャロラインの死後、神に恐怖を抱くようになったというのではありません。どういうわけか、神が以前より大きく、より近く、もっと現実になったのでした。神の生き生きした臨在感によって、畏敬の念から自然にひざまずくようになったのです。
私が長い間抵抗していた歩みを踏み出したのは、居間でのある朝のことでした。「主よローズのことはどうか知りませんが、私は今まで本当に、あなたを自分の生活で第一のものとしていなかったことを知っています。ああ、幾度かの天幕集会、いくらかの時間やお金。あなたはご存知であり、私も承知している通り、心の中では、私の家族が第一のものでした。主よ、私はあなたに第一のお方となっていただきたいと思います。」
ローズの手が、私の手の中にあるのを感じました。私に必要だった確証はそれで全部でした。ローズは決して多くを語る人ではなかったのです。
第六章 ハリウッドボール
表面的には、考え方にことさら大きな変化はありませんでした。それは私たちがずっとしてきたことで、ただスケールが大きくなっただけのことでした。ことは非常に順調に運んでこの地域のいろいろなペンテコステ教会が、一堂に会しました。そこで、ロサンゼルス地方全体のペンテコステ全部――三百何がしかの教会――が、一大集会のためにハリウッド野外円形劇場を借りるとしたらどうかということが話し合われたのです。円形劇場は大変よく知られているので、近くの天幕集会へは行かない人でも、そのような大会には来るかも知れないと思われました。
牧師たちと私がそれを検討し始めると、いつものようにお金が問題になりました。月曜日の夜一晩だけ円形劇場を予約するのに、敷金は二千五百ドル(約五十五万円)でした。ラジオの宣伝、印刷物、ポスターなどの前渡し金は、計算すると三千ドル(約六十六万円)となり、照明、駐車場係、その他残りの費用を加えず、ただ始めるだけで五千五百ドル(約百二十一万円)になるのです。どこからそんな高額なお金が来るでしょう。給料を十分支払われていない牧師たちからでないことは確かでした。
では――会衆の中にいる事業家たちはどうかという純粋なアルメニア人的な考えがひらめきました。「もし私が鶏肉のごちそうを用意したら、百人の事業家が来るよう手配してくれますか。」と牧師たちに聞きました。アルメニア人なら誰でも、人生で一番大切なことは会食の席上で起こるということを知っているのですが、そこにいたたいていの人々はその実現を疑わしく感じたようでした。「デモス、我々の集会には、そんなに大勢の男性は、いないのだよ。成功している男性は、どうしても、少ないのだよ。」私がよく承知していることがはね返って来ました。
それでもついに、百人の人々の名前が浮かび上がり、それらの人々が夫人同伴で、ナッツ・べリー・ファームのチキンディナーに招待されました。
夕方になると、農場のレストランはいっぱいになりました。ローズと私は、他の人々を見渡せる先頭のテーブルに座りました。ととたんに驚くべき考えがひらめきました。この中の何人か、例えば、五、六人が前に出て、大多数の男性が、ことに成功している実事家が、教会へ行かないのに、なぜ自分たちは行くのかを、集った人たちに話したらどんなものだろうか。イエスの何が、この人たちをして、休養のための一日をつぶしてもいいと思わせるのか、個々の生活の中で、聖霊はどんな意味があるのでしょうか。それは、私たち皆にとって非常な励ましになることでしょう。
次の瞬間、私はまばたきました。テーブルを三つほど隔てた所で、突然、細じま模様のスーツを着た背の高い中年の男性の顔が、まるでスポットライトを当てたかのように輝いたのです。ローズの方を見ましたが、明らかに彼女には見えなかったようでした。どうして見そこなったりしたのでしょう。見たこともないまばゆいばかりの輝きが、混み合った部屋の中の、その人の回りを飛び交わし、きらきら光っていました。この人こそ、一番最初に前に来てもらう人だということがわかりました。
さて、私は食事の終るのが、待ち遠しくてなりませんでした。あの人が知っているに違いないことを、どうしても聞きたいという気持がいっぱいで、コーヒーや、ボイズンベリーパイは、私をいらいらさせるばかりでした。
ついに皆の間を回っていたコーヒーポットも回らなくなり、ウェイトレスがお皿を持ち去り、椅子は後に押され、みな、私がお金を懇願するのを聞こうと、腰を落ちつけていました。それなのに、私は細じまのスーツを着た人の方を向きました。「そこの方……そう……青いタイに、神から賜ったほほえみを浮かべておられるあなたです。こちらに来て下さいませんか。」その人は、はっとしたようでしたが、テーブルの間を少しずつ進んで、私のかたわらに立ちました。「主があなたのためにして下さった素晴らしいことを、私たちみなに、分かち合って下さいませんか。」と言いますと、その人は困ったように首を振りました。「誰があなたに言ったのか知りませんが……そう、妻と私には感謝すべきことがたくさんあるんですよ。」と言うのでした。続いて、妻の父親がどのようにして、祈りにより医者が末期と宣告したガンからいやされたか話してくれました。その後の、電気に打たれたような静けさの中で、私はまた会場を見回しました。窓の近くにいるもう一人の顔が明るく輝いていました。「そこの方、みなに見えるように、こちらに来て下さいませんか。」
そのようにして、一時間の間、大きな会場の中で、次々と立ち上がる人々には、ある種の目に見える力がみなぎっているようでした。結婚生活の問題が解決した人、アルコール中毒に打ち勝った人、事業仲間と和解した人の話を聞きました。私は、チャールス・プライスの言葉「純福音」を考え続けていました――というのは、福音のあらゆる面が、その晩、実際の経験という見地に結びつけられたからでした。大まかな、力強い事実に基づいた、実地経験のある男性からの言葉でした。だれも説教したり、凝った言葉を使ったりしませんでしたが、結集してみると、私が今まで聞いたどんな説教よりも力強く、効果的でした。
十人か十一人の人が話し終った時、再び私はマイクロフォンを手にして言いました。「みなさん、私たちはたった今、何人かの実事家の方々が、純福音を詳しく語って下さったのを聞きました。」純福音……実事家。その言葉の何かが、私の心を打ちました。「ロサンゼルス地域の男性方が、もっとこういう話をしてくれたら、とお思いになりませんか。カリフォルニアのすべての男女、子供たちが、この人たちのような方法で、神の力を知ってほしいとはお思いになりませんか。主のことをお話しするのに、ハリウッド円形劇場よりふさわしい場所が、他にあるでしょうか。」と続けて言いました。
誇張なしに、私が話す時間はそれしかありませんでした。会場のいたる所で、人々は、ポケットに手をつっこみ、テーブルにお金を置くために前に出て来ようと、立ち上がり始めました。人々は紙幣――十ドル紙幣、二十ドル紙幣――や小切手を持って来ました。テーブルのところで、あわてて書かれた小切手、会場の前の方に出て来るのを待つ、長蛇の列に並んでいる間に書かれた小切手がありました。夕方、最終的にお金を合計してみると全部で驚くなかれ何と六千二百ドル(約百三十六万四千円)ありました。
そのような数字が印象的であったよりも、何かもっと重大なことがその晩起こったことを知りました。関連性はまだつかんではいなかったのですが、私にある考えが生まれ、型が示されました。「世の中には、説教者より実業家のほうがたくさんいるということを、ちょっと考えてみてごらん。もし、実業家が福音を伝え始めたとしたら……。」車でダウニーの家に帰る道すがら、ローズに言いました。
後に、職員が言うには、ハリウッドの野外円形劇場が、月曜日の晩一杯になったことはかつてなかったということでした。私たちの純福音の大会では、二万席全部が占められ、回りに二千五百人の人々が立っていました。キャンドル・ライトの儀式をしたのは、初日の夜でした。たった一本のろうそくでは、闇の中でわずかに見えるだけですが、みなが自分のあかりをともせば――おのおの神が与えられたものを用いる時――その輝きは、夜を昼に変えるという発想でした。
私にとって、確かにそれは、あかりがともされた瞬間だということが明らかになりました。それは、十三歳の少年の頃、主よ、あなたの望まれる特別な私の仕事とは何ですか、と尋ねた問いに、ついに答えられた瞬間だったのです。イルミネーションが消え、大きな野外劇場が闇に沈む頃、前にもたびたびしたように、私はそれを思い巡らしていました。私は説教者にはなりませんでした――相変らず聴衆の前で気がきかず、もたもたしていました。チャールス・プライスのような預言者でもありません。教師、伝道者、いやしを行なう者でもありませんでした。
どこか上の方で、トランペットが吹き鳴らされ、身の毛がよだつような音が反響し、暗くなった丘にこだましました。小さな炎の輝きが、隣席から次々に広がって行きました。そして突然、円形劇場は幾千もの小さな火が一つに燃えるあかりに変りました。
助ける者、その言葉は、まばたく光の中に書かれていたかのようでした。一人が持っているものを次の人に渡していく者。ろうそくが一か所で一緒になるように、時や場所や機会を用意する者、小さな火花が、世界に火をつけることができるまで励ます者。
興奮のあまり、目に涙が浮かんできました。その晩遅く、家で、聖書のTコリント十二章二十八節を熱心に調べました。何度、この聖なる任命のリストを熟考し、それについて祈ったことでしょう。「第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者……。」そうです。あったのです。「助ける者……」残りの節の中に立派に据えられているこの言葉を、どうして見過していたのでしょう。「いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、いろいろの異った言葉を語る者などです。」
ここに私の仕事――神ご自身によって課せられた働き――が、連なるハリウッドの丘の間で、ぱっと輝やいた光の中に示されたのです。私を!――神が私を!――助ける者として召して下さったその瞬間から、奇しき任命は、決して私から離れませんでした。
このように励まされたのはよいことでした。というのは、その後間もなく、もし励まされていなかったら、助ける者としての喜びを、永遠に不愉快なものにしてしまうような経験を、味わったからです。私たちが主催したたくさんの集会の一つに、説教者として来たのは、東部からの伝道者でした。その男は、一見、最高の推薦を受けた者のようにして来ました。けれども伝道者として、その姿は一風変わっていて、しらがの髪を肩まで届くほどもじゃもじゃにはやし、何と片方に義足をつけていました。はじめから、彼は他の所では、集まったお金は、直接自分のところへ来たものとして扱っていると言い、献金に異常な関心を寄せているようでした。「ここでも、そうなるでしょう。もし、あなたが自分で集会を開いているのでしたら。」と言ってやりました。伝道者が自分の組織を持っている時は、支払わなければならない働き人のサラリーや宣伝費、旅費や宿泊費のことは伝道者の責任であり、もちろん伝道者はそれが全部払えるように、献金をあてにしました。このような場合、土地を借り、建築作業員たちを雇うのは、伝道者自身なのです。
一方、私たちが集会を主催する時は、伝道者はこういうことには一切、自分の生活費についてさえ、かかわりませんでした。私たちの家庭に滞在し、おいしい、ローズの手料理を食べてもらうからです。ローズと私は、大集会毎に、戻って来るなど決して期待も望みもしない、多額のお金を使ったことをその伝道者に話しまた。主な経費がまかなわれた後に残った献金はすべて、諸教会へ行きました。
一つ例外がありました。週に一回、伝道者自身の必要のため「愛の献金」と呼ぶものを募ったことです。六週間の大集会の終りに、伝道者が自分でこの後で開く、一連の集会の財政を充分にまかなえるためにする献金がある、という経験をして来ました。
すでに言ったように、私は、この伝道者とそこまでも詳細にわたって話し合いました。そのことが、彼の心にあるとみたからです。ところが、このように説明した後でも、集会が終る毎に、収入がいくらだったか、聞き続けるのです。「あんたは、それよりもっと集められるはずだ。うまく調子を決めてないのだよ。人々にもっと出させたいと思ったら、心の琴線を強く引っ張らなくてはな。」と言ったものでした。「私たちは、人々に与えさせたい、なんと思っちゃいません。」三回目のミートボールの向こう側から、ローズが言いました。「私たちが頼むからではありません。聖霊が与えるようにお語りになるのならそれは別な話です。聖霊は金額をはっきり指示して下さるでしょう。」
この人物についておかしなことは、金銭に対して意識過剰でありながら、油注がれ、神の霊感を受けた説教者だったことです。その夏、群衆はかつてないほど多く、講壇に進み出た人も、素晴らしいいやしの数も今まで以上でした。ある晩、耳の聞こえない子供が、生まれて初めて聞えるようになりました。その週末に、子供の主治医が壇上から、子供のいやされたことをあかししました。別の晩には、一人の婦人が恐ろしい、醜い甲状腺腫から解放されました。
とうとう、最終日曜日の午後になりました。一万人以上もの人々が、ボブ・スミス(仮名)の感動的な終りの説教を聞きに、巨大な天幕につめかけました。スミスは本当に才能豊かな説教者だ、と私は思いました。おかげで集会は、経済的にも成功したことを喜びました。あわれな男は、そのことを大層心配しているようでしたから。東部か、あるいはどこへ行こうと、次に催すいくつかの大会をまかなうに十分な愛の献金を受け取ることでしょう。
私の目は聴衆の列を、どことはなしに見回していました。依然、圧倒的に女性ばかりが目立ちます。今日、男性たちのためにも、神の現実の生きたお方とするには、どうしたらよいのでしょう。「……神の最も豊かな祝福。」とスミスは言っていました。私の心が急に、説教に引き戻されました。「まず、神に与えるのでなければ、神はあなたに与えることはできません。友よ、あなたの財布を空にしなさい。神が、あらゆる天上の富で、あなたを満たして下さるようにするために!」
何でまた、財布のことを話しているのでしょう。この最後の集会では、献金を募るつもりは全くないはずなのに。「与える方はだれでしょうか。犠牲的にお献げなさい。神の御手が、あなたに与えようと開かれるまで与えなさい。」とあくまで要求しました。
ピンクの服を着た婦人が、通路を通って講壇の方にやって来ました。スミスは講壇の後から歩み出て釆て、その婦人が差し出したものを受け取るために、鉢植の植物の間から、身をかがめました。「姉妹よ、祝福がありますように。この愛の行為のゆえに、神が大いに祝福して下さるように。」と大声で言いました。巨大な天幕のあちこちから、他の人々も通路を通って、前に来始めました。私は舞台の後部の席を立って、そこを降りて行きました。ステージの背後では、会場係や地方教会の牧師たちが、小さな群れをなして集まっていました。「スミスは、自分のしていることを何と思っとるのかね。」とローズの兄のエドワード・ガブリエルがききました。(ローズの家族は、その頃、ガブリエリアンという名前を、ガブリエルと短くしました。)「こんなことをする権利はないのに!」「やめさせなければならない!」と私は同意しました。
ですが、どのようにして……。人々は、説教者がその気でなくても、感情的に本気で反応していました。今や、スミスは献金を集めながら泣いていました。「兄弟! ありがとう。」「姉妹! 神があなたに報いて下さるでしょう。」「神があなたを祝福して下さるように……あなたを……あなたを……そしてあなたを……を。」
私たちに、一体何ができたでしょう。この人々は、数週間にわたって、この男の説教する神の言葉を聞き、ここで行なわれたいやしを見て来たのです。その結果、多くの人々がキリストにその命を捧げました。彼のことを暴露すれば、人々の信仰をそこなってしまうのです。「だが、この人々の献金を持ったまま、スミスをここから立ち去らせたりしないぞ。」とエドワードが言いました。エドワードは、集会の会場係でした。
恥知らずな呼びかけが続きました。ジェリーは、長い間座っていて、だんだん落ち着きがなくなったので、ローズは車の鍵を手にし、車で家に連れて帰りました。往復五十キロ余りの道のりでしたがローズが戻って来たとき、信じられないことですが、まだやっていました。「すべての人が見ている所で」前に進み出ることを、公の証しとして重要視し、神を愛する人と「みなし」ました。二度あるいは三度と戻って来ることは、より素晴らしい献身の表われとさえしました。
信じ難い二時間半の間、集会の終了予定時間をはるかに過ぎた後も献金集めは続きました。聴衆のあちこちに、私が感じたように困惑した顔が見られました。恐らく四百人くらいの人々は、去って行きました。しかし、大多数の会衆は、スミスの行為にすっかり有頂天になっているようでした。伝道者の足もとの献金箱にお金を入れようと、前に殺到してテント全体が総立ちになる時もありました。
とうとう、人々のポケットや財布にはほとんど一枚もドル紙幣がなくなった頃、スミスは頭をたれて終りの祈りをしました。陸軍の機動演習のごときすばやさで、エドワードと会場係のチームは、舞台に近づきました。スミスが抵抗しないうちに、献金の入れものをさっと取り上げ、舞台の後に回ろうとしました。
「お前たちーああ、いや、兄弟たち! 私はこの贈物を祝福している……いたんですよ!」スミスはどもりました。「アーメン!」会場係はこだまのように応じ、舞台裏の事務所として使っている、幕の向こうの場所に消えました。
数分後、私たちはこの事務所の奥まった一角にいました。お金を数えていると、激しい怒りでこめかみの血管をぴくぴく震わせたスミスが、仕切りから飛び込んできました。
「それは、わしのものだ。全部わしのものだ!」と言いました。 ■
スミスは、古い裏革の小型手吊げカバンを持っており、それをどさりとテーブルの上に置きました。今まで見なかったものでした。スミスとローズと私が、今日午後、ダウニーから車で来た時には、確か、そんなものは持っていなかったはずです。すごい勢いで、そのカバンを開けたと思ったら、テーブルの上に積まれた札束をつめ込み始めました。
エドワードは、他の男がスミスの腕をつかんでいる間に、小型カバンのとっ手を握りました。「その男に触れてはならん。」
そう言ったのは、私自身の声でした。「その男に、指一本触れてはならん。」
会場係は、わけがわからないというように、私を見つめました。私も会場係の人々と同じように、ただあぜんとしていました。突然、私は、ひどく真っ赤になって、大層怒っている説教者ではなく、イスラエルの王、サウルを見て、聖書から来た言葉を聞いているように思われました。「……主に油注がれた方に手を下して、誰が無罪でおられよう。」
(Tサムエル二十六章九節)
これらはダビデの言葉で、サウルが神から離れた後、神に逆らい、神に向かって積極的に戦いを挑んでいたサウルについて言ったものだったことを思い出しました。サウルは、ダビデの目には、神の力と祝福に満ちた人物として残っていました。そのように、ボブ・スミスにもそれらのものがあふれるのを、私は見ていたのです。
スミスは、できるだけ素早く手を動かして、バッグの中に札束をつめ込んでいました。「デモス、あいつのしていることを見ているのかい!」とエドワードが言いました。
「見ているとも。」「あの金を持たせたまま、行かせるつもりかい。」「どうして、そうしちゃいけないんだね。おれのものじゃないのかね。」とスミスが言いました。彼は今や小型手吊げカバンをテーブルの下に据えて、腕でお金をカバンの中にかき込んでいました。「そうだ、ボブ、それは君のものだ。」と同意しながら、それが自分の声とは信じられませんでした。「神はご自分の金銭を、そんな手段で備えたりはなさらない。」「手段だって!」スミスは叱りつけるように、浴びせ返してきました。「あんたは手段について
何も知っちゃいないんだ。あんたはばか者だよ、シャカリアン。あんた方はみんなばか者だよ!」パチンとカバンをしめると、取り囲んでいた平信徒の働き人や牧師たちを、立ってにらみつけました。「ここに起こっていた素晴らしい出来事を経験したというのに、あんた方はそれがわかっちゃいないんだ!」
スミスは、背後に幕の分かれ目を手探りしながら、ドアの方へ後ずさりし、次の瞬間、行ってしまいました。
私は、後を追いかけようとするエドワードをさえぎるために、両手で彼の肩をおさえなければならない始末でした。「放っておきなさい!」私は繰り返しました。「あのお金でどんなことができよう。あれは神から出たものじゃない。神が祝福されるとは思わんね。」
もう一度、自分から発したのではない言葉を、しゃべっている感じがしました。それからひと時が過ぎて、非常な疲労感が私を襲ってきました――群衆に、集会に、天幕に、舞台に、拡声機に疲れてしまったのです。私たちは、巨大な天幕の会場を出ました。群衆は未だに出口に向かって、通路をわずかずつ進んでいました。諸教会からの奉仕チームが、折りたたみ椅子を積み上げていました。ボブ・スミスは影も形もありません。
私はローズを見つけて、家へ帰るように促しました。その晩、全部終るにはまだ時間がかかりそうだったからです。きちんと整頓するための片づけがあり、町から車で帰る取り壊し作業員たちがいました。私は明日、整地を始めるために戻って来るつもりでした。私はといえば、とてもうんざりしていました。もういいかげんいやになっていたのです。
家でも、リチャードの部屋に六週間生活した人の跡かたは何も残っていませんでした。その男の衣類は戸だなからなくなっており、二つのスーツケースも消えていました。歯ブラシさえ、洗面所の棚からなくなっていました。その男がいつ荷造りしたのか、私たちはだれも知りませんでした。もちろん、家族のだれにもさよなら一つ、数週間に及ぶローズのもてなしに対し、ありがとうの一つもありませんでした。
ボブ・スミスについてのうわさを耳にしたのは、その後六年もたってからでした。それからある朝、スミス自身が、やせこけてひげもそらず、みすぼらしい格好で、その上どう見ても一文なしの様子で、リライアンスNo3の本社に入って来ました。そして長い厳しい不運な身の上話をして聞かせ、デトロイトまでの旅費をせがみました。私は与えてやりました。それから三年経って、スミスが死んだということを聞きました。
他の人のためには、驚くべき神からの務めを持ちながら、個人生活は荒廃しきっているという、異常な現象を呈している人に、ローズと私が出くわしたのは、これがはじめてでしたが、決して最後ではありませんでした。
スミスのように、問題が金銭である時もあれば、飲酒の時もあり、女性、麻薬、性的倒錯の場合もありました。
どうして神は、このような人の務めを尊ばれたのでしょうか。それは、みことばを引用する人物とは関係なく働く、神の力だったのでしょうか。それとも、聞く人々の信仰だったのでしょうか、私には見当がつきません。
二つだけ確かなことがあります。あのような集会で心や財布を神に渡した人々は、仲介者が間違っていたからといって、報いを失うことはないということ。それと、私が理解せずに人々に語った言葉は未だに真理として変っていないということです。「その男に触れてはならん。」
これらの人々は神の御手の中にあり、このようなことについて、あれこれと詮索することさえ許されてはいない、ということがわかりました。ただ、「前戦にいる人々が傷つく」と、苦痛な面持で語ったチャールス・プライスの言葉をたびたび思い出しました。このような聖職者が直面している、危険や誘惑を思っては、ボブ・スミスのために充分祈っていたかどうか自問してみました。
チャールス・プライスは亡くなりました。チャールス自ら承知していた通り、一九四六年に死にました。ところが、私の母は、ほとんど絶え間なく襲う痛みにもかかわらず、まだ生きていました。キャロラインの死後、母はすぐ亡くなると、家族の者は考えていましたが、やせて老いぼれた母の手を握っていた、キャロラインの丸ぽっちゃの手が、母に生き続ける力を与えていたようでした。
しかし、まだ終っていない仕事が一つありました。二十一歳のフローレンスはまだ未婚でしたのでアルメニア人の母にとって、地上の仕事をし残していくことは耐え難いことでした。ですから、フローレンスが、数年前母親を亡くしたばかりの若いハンサムなアルメニア人と婚約した時、母は婚礼を一手に引き受けました。
母が歩けるということさえ信じられなかった主治医にとって、この何か月間かの母の張り切りようは不可解の種でした。母は買物をし、縫物をし、結婚式に続いて行なわれる、念入りな披露宴のごちそうの大部分を料理したのです。
そして、晴れの若夫婦がハネムーンに出発してしまうと、床についたのです。ガンは、薬で痛みを緩和できないところまで進行していましたが、母が一言でも愚痴をこぼすのを私は聞いたことがなく、母はただ、家族に対する自分の義務を果すことができたといって感謝するのみでした。
医師のジョン・レアリーは、母の最後の数か月を診療した専門医ですが、「一日を正しく始めるために」と言って、毎朝早く、大きなスペイン風の家にやって来たものでした。この医師は、母ほど重い病でもないのに、彼をすっかり疲労させてしまう患者を何人もかかえていると言っていました。「だが、デモス、一日のはじめに十五分間、あなたの母上と過せたらば、その日はどんなことにでも直面できるのだよ。」
母が一九四七年十一月、五十歳で亡くなったとき、いかに多くの人々が母から勇気を与えられていたかを知りました。それは、ダウニーでもかつてなかったほど大きな葬儀でした。この地域の指導者から、家のない流れ者までみな、葬儀に参列しました。母のもてなしがどんなに広範囲に及んでいたか、私はその時知ったのです。
しかし、いろいろな意味で、最も重要な人物は、ローズの腕の中で無心に眠っている、最年少でまだ四か月のスティーブンでもありました。
私たちにもう一人赤ん坊が授かる、ということを知った時、その時期は母のため、つまり、母は亡くなる前にその子を抱くであろうということが、どういうわけか私たちには分かっていました。事実、母はその子を抱きました。レアリー医師が見舞客の面会を謝絶してからずっと後に、私たちはスティーブを母の寝室へ連れて行きました。母は赤ん坊の柔らかな、黒い巻き毛をやさしくなぜながら――ともすると母のいうことを聞くのに身をかがめなければならない時がありましたが、「二番目の男の子だって! そんなことは、今まで、決して、決して起こらなかったことですよ。神さまが二番目の男の子を与えて下さったなんて……。」
第七章 試練の時
父が事務所に戻ってきました。母が亡くなる間際の数週間、父は毎日、大部分を母の部屋で過ごしました。今や、父はまたリライアンスNo3の、私のと向かい合せた机に戻ったのですが、季刊の報告書を読んでいくにつれ、むずかしい顔になり眉をひそめました。
「デモス、ちょっと貯え過ぎだなあ。」当面の需要より多い、穀物の在庫を表わした数字を指しながら、父が言いました。父は、価格の変動が激しい製粉工場に、決して安心したことがありませんでした。
しかし、父の異議は、戦後、にわかに景気の勢いを増している時には、あてはまらないように思えました。一九四七年から四八年のあの冬、みなの意見が一致して、商品の取り引きが行なわれていました。穀類の価格が低迷していたのは、政府が最高価格を統制していたからです。オート麦、大麦、とうもろこし、綿の種のあらびき粉、大豆の粉はどれもみな、何か月間まるで今にも最高限度価格を突き抜けるかのように、適正価格を維持していました。最高限度が引き上げられた瞬間、価格は上昇しましたから、それが続いている間は、大量に貯蔵しておくことも、私にとって間違いのないビジネスでした。
数字を調べているうち、父の鋭いアルメニア人の目が捕えたのはこのことでした。何百万ドルにも値する穀物を、今の相場価格で次の秋に引き渡すという取り引きの約束をしたのに気づいたとき、父のむずかしい顔つきは深刻になりました。
この約束をしたことにより、私は爆弾の導火線に火をつけてしまったのです。
* * * * *
その名前は、思いもかけない時に、私の心に絶えず浮かび上がってきました。
フレズノ。
どうして、フレズノのことを考え続けることになったのでしょう。フレズノというのは私が車で何度か通り過ぎたことのある、ロサンゼルスの北、約三百二十キロのところの町でした。しかし、そこにはだれも知り合いがいませんでしたし、その町との特別な関係も何もありませんでした。一体どうして、フレズノが私の心に思い浮んだのでしょう。
ボブ・スミスのことで痛い目にあったのでローズと私は、次の夏の計画については余り話し合っていませんでした。もう一度ロサンゼルスで集会をしたらどうか、と勧めてくれた人がいて、それはけっこうな考えのようでした。
ある晩、私が家に着くとローズは、寝室にいて、小さなスティーブをベビーベッドに入れているところでした。「ねえローズ、今夜車で家に向かう道すがら、ある特定な町の名前が、しつこく私につきまとっていたんだ。考えるのはよそうとしても、やめられないのだ。」
ローズは身を起こして、私を見ました。「その名前をおっしゃらないで! 同じことが私にも起こっていましたのよ。」ローズは部屋の明りを消し、私たちは、つま先立ちで一緒に部屋を出ました。廊下で、ローズは私の方を向きました。「それは、フレズノではありませんの。」
私は驚嘆の余り、頭を振りました。「フレズノなのだ。」
しかし、神が私たちに望まれる働きの場が分かっても、次の問題は、どのようにして、ということになりました。そこには、何のつてもありませんでしたし、その町の知識もありませんでした。
最終的には、ロスのある牧師から、フレズノにあるアッセンブリーズ・オヴ・ゴッドの牧師の名前を手に入れました。その人に電話をかけて、その年の夏、フレズノで集会することについての考えを探ってみました。電話の向こうでは、非常に長い沈黙が続きました。やっと最後に、その牧師は私に電話をかけなおすと言いました。そして二、三週間後には、その人と他の地域牧師三十三人に、フレズノにあるカリフォルニア・ホテルで、ステーキをごちそうしていることになったのです。疑いもなく、この計画に対する熱意からではなく、心と共に身体を養うという、長い年月その効果が試された、アルメニアの方法が多分よい出席数をもたらしたのでした。私が立ち上がって話し始めたとき向けられた、疑い深そうな顔つきたるや今までお目にかかったことのないものでした。
私は、今まで七回の夏、ロサンゼルスで開いた天幕集会のことや、それぞれの集会で神を知るに至った幾千とも推測される人々のことを説明しました。沈黙、敵意に満ちたまなざし。ついに一人が立ち上がり、ぐっとズボンを引き上げ、明らかにみなの意中を声にして言いました。「シャカリアンさん、あなたは、この仕事場から、どんな儲けがあるのですか。何を秘かにたくらんでいるんですか。」
私は自分の頭に血がのぼってくるのを感じましたが自分を抑えました。この人たちは、どうして初対面の人間を、額面通り受け入れようとしないのでしょう。私はボブ・スミスのことを思い出し、はじめて、あの時の経験をありがたいと思いました。神は、私の頭の回転が鈍いのをご存知でした。私に何か数えるとしたら、たった一つの方法は、多分実際の体験だということなのでしょう。牧師は疑うべきであったし、牧している人々の幸福を配慮していたならば、質問をしなければならないはずでした。
そこで、この三十三人に対して、私自身は俸給なしで、自分の費用は全部自分持ち、という私のやり方を説明しました。このフレズノでは、ローズと私は、集会期間中この町に引っ込して来なければならないので、その費用はいつもよりかさむことになるはずでした。宣伝、天幕の組み立てというような、主要な費用の支払いがすんだ後、集会で受け取った金銭の残りは全部、参加諸教会に連帯的に属することになるはずでした。反対に、もし赤字になったならば、私は自分のふところをはたいて払うつもりでした。 「私にどんな儲けがあるのですか?」おうむ返しに聞きました。ポケットから新約聖書を引っぱり出して、私にとって非常に意味深いものとなった、第一コリント十二章のみことばを声を出して読みました。「みなさん、神は各々の僕の一人びとりに、御国のために用いるべき独特の賜物を与えて下さいました。その賜物を見出して用いるなら、私たちは、世界中でいちばん幸いな人々になると信じます。もしそれを見失うなら、どんなに優れたことをしたとしても、全くみじめなものとなるでしょう。」「私は、自分の仕事を見つけたのですから果報者です。ちょうどここにかいてあるように、私は助ける者なのです。私の賜物とは、他の人々が最高の仕事をすることができるように援助することなのです。私は、みなさんが、一つになるのを助け、集会の場所を用意し、説教者を捜す援助をしましょう。私が得る儲けとは、神が与えて下さった賜物を用いる喜びです。」と言いました。
私は、左腕を折り曲げて、コートの袖口をのぞき込み「いや、ここには何もない……。」と言いました。
続いて起こった、あいそのいい爆笑の渦の中で、緊張がほぐれました。会場のいたる所に、フレズノ集会提案の声がもち上がりました。
この牧師が、その地方のラジオ放送局に関係があるといえば、あの牧師は、印刷会社の支配人に知り合いがあるといった具合でした。みなの意見が一致したところによると、ここフレズノでは、夏よりも秋の方がよく、ぷどうの収穫が終る十月が最適ということでした。町の中央には大きな公会堂があり、それは天幕よりもいごこちがよさそうでした。
「デモス、何か月か忙しくなりそうだね。」と牧師の一人、フロイド・ホーキンズは、私が自動車の方へ出て行くのを見て言いました。「あなたは、事務所を留守にすることが多くなるのでしょう。事業の方もうまくいくように、心から願っていますよ。」
私は頼もし気に笑みを返し「うまくいかないというはずがあろうか、フロイド。きっとうまくいくはずだよ。」と言いました。フレズノ記念講堂から、ほんの五、六百メートルぐらいのG通りに、家具なしの木造の借家がみつかりました。家具を入れることなど、問題ではありませんでした。その時になったら、必要なものを自家用の大きな、干草を運ぶジーゼルトラックに、椅子やテーブル、ベッド、それにローズが忘れないように注意してくれた「洗濯機」などをただ積め込めばいいのです。「洗濯機がなかったら、おしめがやりきれませんわ。」
家の大きさも十分で、これならダウニーでしたように、いろいろな伝道者たちが一緒に滞在できるでしょう。今回は、毎週違う人が説教することになっていました。
五週間に及ぶ集会でしたから、ローズと私は一週間早めにそこへ行きたいと思いました。その後、雑務を整理するためには、少なくともいつも、十日間ほど仕事がありました。その期間中、九歳のジュリーがフレズノの学校へ通うのは、何も支障がありませんでしたが、八年生(中二)になったリチャードは、普段の授業を欠席しないほうがよいと判断しました。誰も口に出して言いはしなかったものの、衆知の一番よい解決法というのは、全部出かけないで父が残ることでした。しかし母が亡くなってからというもの、父の寂しさは何か人が、手で触れることができそうなほどになっていました。そこで、リチャードはおじいさんと留まり、二人共週末には私たちに合流するということに、事がおさまりました。
ローズが集会でピアノを弾けるように、ニューマン夫人が私たちに加わる、というニュースによって、最後の祝福がその計画に加えられたようでした。ニューマン夫人というのは、うちの子供たちが生まれて病院から家に帰って来た時、いつも家に来てくれた、実地経験豊かな看護婦でした。
このように、本当にこの計画には神がおられると感じながら、翌日フレズノヘ出発するという前日、最後の業務を処理するために、十月のある月曜日の朝、私は、製粉工場に出かけました。
驚いたことに、簿記係のモーリス・ブルナックが表口に立っていました。その顔は、工場の何もかもをおおう細かな粉末にまみれてまっ白でした。「デモス、起こったんだよ。」彼は手に書類を持っていました。「何が?」「最高限度価格だよ。今朝シカゴで、商品市場が、最高限度価格なしで始まったのさ。」「そりゃあ、すごいぞ、モーリス! それは我々が……。」ブルナックの顔に浮んだ何かが、先を言わせませんでした。ブルナックのあとについて、黙って事務所に入り、椅子に腰かけました――腰をかけておいてよかったのです。「デモス、残念だが、そうじゃないんだよ。」「値段が変らなかった、というのかい。」「値段は確かに変った。けれども下落したのさ。」モーリスは持っていた書類を調べました。「うちの現在の在庫で、一万五千ドル(約三百三十万円)の損失だ。だが今毎日どんどん品物が配達されているので、そんなにたくさんの穀物を貯蔵する場所がないほどなのだ。どんどん売り続けなければならんのに、今ではどれを売っても、売る度に損をしているときている。」
私はモーリスの手から書類を受け取りました。商品市場の規則は、開会中いつでも、最高価格が下落するのを許しています。その日開幕して数分のうちに、穀物が最大の損失をこうむるのを見ました。もちろん、私たちは数か月前契約した最高限度価格で、支払いを続けなければなりませんでした。「この、値段の下落は、まだ終っちゃいないんだよ、デモス。市場が続けて、落ち込んでいくなら、君は……一掃されてしまう。破産してしまう。」
茫然として、私は工場から出てきました。狂気の沙汰です。筋が通りません。それなのに、現に起こりかけているのです。自動車に乗り込んだ時にも、飼料を積んだ貨車がもう一台待避線に入ってきていました。むっつりしたまま、あの貨車一台の積荷が、どのくらいの値段になるものか、私は計算しました。
翌朝、火曜日、私は、ローズの洗濯機と家具を少し、干草用のトラックに積み込んで送り出しました。家の中に戻ると、電話が鳴っていました。
モーリス・ブルナックでした。「デモス、また下がったよ。」というのでした。シカゴで市場が開かれると、もう一度、あらゆる予想に反して、穀類は、相場の取引所で許す極限にまでまっすぐに落ち込みました。一時間足らずの間に、一万ドル(約二百二十万円)以上も損失をこうむりました。「フレズノヘ行くのは、実にまずいですな。その大会が、君にとってどんなに大切だったか、ぼくにはわかっているが……。」とモーリスは続けました。「大切だった、とは?」「だって、今のままでは出発できないでしょうが……。もしもし、デモス、そこにいますか?」
私はそこにいましたが、心は三年半前の約束に戻っていました。神の仕事がまず第一に来るべきでした。家族の前に、酪農場の前に、世界中の他の何よりも前に。「モーリス、私はやっぱり行かなけりゃならない。この価格の下落はほんの気まぐれさ。まっすぐになるはずだ。電話で連絡をとり続けよう。」
ところが、フレズノヘの道中ずっと、小さな声がタイヤの音と共に、ぐるぐるゆきめぐっていました。「お前は破産してしまう。破産してしまう。工場を失い、破産してしまう。」
その日の午後遅く、G通りの家で、私は、スティーブのベビーベッドを据えていた時、ローズとニューマン夫人が皿をかたずけていた台所から、かすかな泣き声が聞えてきました。「あら! 時計が腕にないわ。」ローズが踏み台のてっペんから、悲し気な声を出しました。
私は部屋に飛び込んでゆき、あの夜、ガブリエル家の居間で、腕にかけてやり、なんとか止めようと苦闘したのを思い出しながら、ローズを見つめました。「はめていたのは確かなのかい。」「もちろん、確かですわ。車をおりる時見ていたんですもの。」
さて、私たちは台所をひっくり返したり、車の所まで出て行って、そこから家までの間の舗道を捜したりもしました。ローズはジュリーの部屋でも何かほどいたのを思い出しましたが、そこを捜し始める前に、スティーブにパジャマを着せていたニューマン夫人が、私たち二人を呼びました。「スティープの額をさわってみて。今日はどうも、いつもと違うようでした。車の中でずっとぐずっていましたの。体温を計ってみますわ。」
ニューマン夫人が、体温計を青いかさのついた電気の方にかざしたとき、私たち三人は慣れない小さな部屋で、無言のまま立ち尽していました。夫人は大きく目を見張りました。 「百四度半……(摂氏で約四十度)」
フレズノの牧師の一人から、医者の名前を教えてもらいました。医者が来ても、ニューマン夫人の読んだ体温を確認し、夫人がすでに始めていたアルコール浴を続けるようにと言っただけでした。
海綿浴、氷のう、アスピリン、どれも熱を下げる役には立ちません。朝までには、スティーブの目はどんよりと曇り、皮膚は、触るとかさかさでした。医者が再びやって来て一束の処方箋を書き出しました。私はローズに、しばらく休むよう懇願しましたが、ローズは私の言うことなど、ほとんど聞いていないようでした。
スティープは、夕方になっても一向によくならないので、私は家に電話して父と連絡をとり、教会で祈ってもらうことにしました――そして、株式取引所では、穀類が再び悲惨な目にあったことを知りました。とうとうローズは疲れきって眠りにつき、ニューマン夫人と私が、順番にベビーベッドのそばに座って起きていることにしました。
火曜日の朝、会場係やカウンセラーとの計画会議が始まりましたが、どうしても、気が散って仕事に集中することができませんでした。何度もこっそりと抜け出してはG通りの家へ電話をしても、その度に、「変化なし。」「顔が紅潮しています。」「飲み込むことができないようです。」といった返事ばかりでした。
それから三日間、同じことが続きました。あの活発な男の子が、じっと静かに横たわり必死で呼吸しようとして、胸を震わせているのを見るのは、恐ろしいことでした。幾時間もの間、ローズかニューマン夫人が、ベビーベッドにかぶさるように立って乾ききった小さな口びるの間から、スプーンで水を飲ませました。
金曜日の午後、モーリス・ブルナックが、その週のうちに五万ドル(約千百万円)以上も損をした、と電話で知らせてきた時には、製粉工場のことをほとんど忘れかけていました。土曜日が来ました。集会は翌日始まるはずでしたが、スティーブは全然よくなりませんでした。この町のある商店が、講堂の前方のステージの下に敷くために、明るい青の敷物を寄贈してくれました。それは幅十六フィート(約四・八メートル)、長さ百フィート(約三キロメートル)もの並はずれた大きなものでした。土曜日の午後、取付け作業を監督していたのですが、突然、もしそこを逃れなければ、私は泣き出しそうになりました。「私がいる必要はないでしょう。」ジョセフィン家具店から来た男に、口ごもりながら言ってから、私はそそくさと車の方へ歩いて行き、無造作に車を発車させました。町を通り抜け、サン・ホーキン・バレーにさしかかりました。ぶどう畑の、黄褐色になったぶどうの葉が、十月の風に吹かれて、杭にぶつかってバタバタと音を立てていました。「主イエスさま、あなたはぶどうの木で、私たちはただの小枝か枝に過ぎません。あなたなしでは、私たちは何もできません。確かに今週は何もできませんでした。それはこの大会にあなたがおられないからでしょうか。私はあなたなしで、複雑な仕事全部の運営を始めてしまったのでしょうか。」
私がこのように話している最中でさえ、一つの声が私に聞こえました。内側の声、それでいてまるで自分の耳で聞きでもしたかのように、聞えてきました。「デモス、このフレズノ大会はあきらめるべきです。そうすれば自分の子供に適切な看護ができ、事業も顧みることのできる、ロサンゼルスヘ戻るべきです。あなたは、この病気と、損失で、私の名前に恥をかかせています。」
私は車を道路脇に引き寄せ、震える手でエンジンをピッタリ止めました。どういうわけか、恐れと不安のただ中にいてさえ、私はこういう答を予期していませんでした。それでは、今までのすべての励ましは、それに、今までに答えられた祈りのすべては、みな、私の想像にしか過ぎなかったのでしょうか。
だけど、私に今何ができるでしょう。ここまで来た計画をやめることは、確かに手遅れでした。
「デモス、それはあなたの高慢です。それは自分がばか者に見えはしないか、という恐れにしか過ぎません。」
ついに、私は車のエンジンをかけて、G通りの家へ帰って来ました。スティーブの熱は依然百四度(約摂氏四十度)でした。ニューマン夫人が知らせてくれたのですが、ロサンゼルスから、ソングリーダーのビリー・アダムスが到着し、講堂を見に行ったということでした。ローズはビリーの部屋で眠っていました。私は、はじめて自分が疲れきっていることを知り、横になりましたが、眠れそうにありませんでした。
「あなたは大会をあきらめて、ロサンゼルスヘ戻るべきです。」
一晩中私は、スティーブのこわばって乾いたような、かすかな咳こみを聞きながら、床の上で落ち着きなく寝返りをうっていました。ビリー・アダムスが家に入って来たのが聞こえ、台所ではローズが氷のうを作る音が聞こえていました。
「お前の高慢……お前の高慢……。」
戸外では空が白み始めました。スティーブが、か弱い大儀そうな小さな鼻声で泣き始めました。ただ私に謙遜を教えるためだけで、いたいけない子供を攻撃するなどということを、神はなさるはずはありません。しかし、訴える者の声は続きました。
「大会をあきらめなさい。ロサンゼルスヘ帰りなさい。お前は破産してしまうから……。」
私は体をまっすぐにして、ベッドに座りました。私はそれが誰の声か聞き分けました!火曜日に、車を運転していた時、ささやいてきた声でした。そしてまた昨日はぷどう畑で……。恐れ、疑い、混乱、自己嫌悪、これらのものは神の臨在のしるしではありません。大偽り者の道具なのです。
もし偽り者がそれほどこの集会に敵対してくるなら、なおさら、神は味方して下さるに違いありません。「ローズ! ビリー!」
ローズがスティープを抱いて歩き回っている居間に、私はあわてて走って行きました。ビリー・アダムスが、入れたてのコーヒーの入ったポットを持って、台所から出て来ました。「サタンだ。何もかも中止させようとしたのはサタンだったのだ! 神は、私たちがこの集会をするのを望んでおられる。」
ビリーは、表面にガラスが張ってあるテーブルの上に、コーヒー・ポットを置きました。「デモス、君は今までそれを疑っていたのかい。」
攻撃は余りにもこうかつで破壊的だったので、私は疑ってしまったことを告白しなければなりませんでした。「だけど、もう疑ってはいない。今日の午後、行って神をほめたたえ、悪魔の顔の前で笑ってやろう。」
外観的には、全く何の変化も見られなかったのですが、私たちは神の勝利を断言して、そのようにしました。講堂の方へ五、六百メートル車で行く間、繰り返し、スティーブはニューマン夫人の手中で、なし得る最善の状態の中にあるのだと聞かされながらも、ローズは、スティーブを離れることで泣いていました。
しかし、高い幕が開いて、ピアノの前でローズが、喜びにあふれた開会聖歌の出だしのコードを弾いた時、大市営公会堂にほとんど一杯につめかけた群集の一体だれが、ローズに心配事があるなどと想像したことでしょう。それから、ビリーが立ち上がり、マイクロフォンに歩み寄り、全会衆がスティーブのいやしのために起立して祈るよう、依頼しました。私たちは祈り、歌い、神をほめたたえました。その集会には、聖霊が強く臨んでいましたので、午後から夕方にかけての時間の合間に、夕食をとるため家に帰った時、スティーブが自分でよちよち歩いて私たちを迎えてくれる、と三人共期待したほどでした。
しかし、何の変化もありませんでした。ニューマン夫人は、汗ですっかり湿ったスティーブのパジャマを着換えさせているところでした。その間に、ジュリーが、ベビーベッドのシーツを新しいのととり替えていました。
その日の集会が終って、真夜中に、家へ帰って来た時も同じでした。しかし、その小さな木造の家は何か違っていました。それなのに――それなのに熱は依然として高く、目はどんよりしてうつろでした。この夜はじめて、家に帰り着くとすぐに、頭が枕についたとたんに眠りつきました。
私は、ニューマン夫人が扉を叩く音に、目を覚ましました。「熱が下がりましたわ! 体温は正常です! ああ、来てごらんになって!」
ニューマン夫人、ローズ、ジュリーと私は、一緒にベビーベッドを取り囲みました。スティーブはまだ頭を横たえたまま、青白く疲れてみえましたが、茶色の大きな目は、以前の生気をかすかに取り戻していました。「クッキーをちょうだい。」とスティーブが言いました。
午後の集会のために、私たちが出て行ってから、スティーブは床の上に座り、薄焼きパンを一箱全部、むさぼるように平らげました。翌朝までには病気のかげもなく、すべてはまるでうそのようでした。 スティーブが病気の間、私たちは事業の危機をほとんど忘れていました。なくなった腕時計と同じように、ささいなこととして放ってあったからです。水曜日の朝、「さあ、もう一度あの腕時計を捜してみますわ。デモス、すべてのこういう問題の背後に誰がいたのか、初めからわかっていたはずなのに。サタンがやりそうな、意地の悪い、取るに足らないささいな策略だったのですから。」とローズが言いました。
私たちみなが、捜しものに加わりました。どの引き出しも、押し入れも、ポケットも、全部の衣服のカフスの中まで、くまなく捜しました。
腕時計はありませんでした。
製粉工場からも、それ以上励みになるニュースは何もありませんでした。穀物価格の下落は、市場の単なる気まぐれではありませんでした。それは、一般的、全国的な規模の、商品購売力の不振を示していました。製粉工場は毎日、何千ドルも失っていました。
父は、その週の終りにリチャードを連れてやって来た時、あきらかに心配していました。「デモス、このままではやって行けない。今週みたいなことが何週間も続いたら、我々の事業はすぐにおしまいだ。」
土曜日の朝でした。私は、父とリチャードをフレズノ郡の博覧会に、車で連れて行きました。酪農夫にとって、立派な牛を見ることほどうれしいことはありません。それによって、父と私が数時間だけでも、経済的な災難を、忘れることができたらと思いました。
早くも家へ帰って、午後の集会の準備をする時間になりました。博覧会場の出口で、リチャードは、小さな、緑や茶のトカゲを一ぴき一ドル(二百二十円ぐらい)で売っている男にすっかり心を奪われて、立ち止まりました。「父さん! 買ってくれる。」
「ばかなことを言うんじゃないよ! 家の中にそんないやらしいものを持ち込んで、母さんを怒らせるつもりかい。」「ねえ! 父さん! お願い! あれはいやらしいものなんかじゃないよ!」リチャードは生き物を一ぴきつまみあげ、人差し指で、そっとつつきました。「ねえ、父さん、お願いだよ!」
私は驚きあきれて、リチャードを見つめました。自分の我を押し通そうとするのは、全くこの子らしくありませんでした。もっと驚いたのは、父が自分のポケットから一ドルを取り出して、リチヤードに与えたことでした。「子供にトカゲを持たしてやりなさい。」と父は私を叱りました。
私はため息をついて、車に乗りこみました。私が子供の頃、父は決してそんなふうな優しさを示してはくれませんでした。G通りに着くと、私はリチャードの方を向いて言いました。「さあ、リチャード、それを草の中に放してやらなくちゃいけないよ。家中、女の人の金切り声でいっぱいにはしたくないからね。」「オーケー、父さん。だけど、ちょっとジュリーに見せてやってもいい? ジュリーに外へ出ておいでって、言ってやってね。」
ところが困ったことに、ニューマン夫人が出て来ました。「カメレオン! まあ、かわいらしくてきれいだこと! それを飼う箱をみつけてきましょう。」ニューマン夫人は、リチャードの手の中をちらっと見ながら、叫びました。そして、土曜日の午後、ゴミ取りが来るまで道路のわきに放ってあるゴミの山の方へ、足早に走って行きました。
カメレオン。そう、それはカメレオンだったのです。ニューマン夫人は、捨ててあったいくつかのボール箱をひっくり返しました。「あれは大き過ぎるし……。いや、これはもっと側面が高くなくっちゃ……。ここにあるわ! これがちょうどいいわ。」
夫人は、靴箱を取り上げて、蓋をあけました。あと一時間もすれば、ゴミ収集車の後部に投げ込まれてしまうはずでした。ダイヤモンドの腕時計は、そこにあったのです。
このように、その日、我家には、一ぴきの大変人気のあるトカゲを得たばかりでなく、神が、私たちの毎日の生活の細部にわたって、何もかも配慮して下さることを悟りました。
集会は、第三の注目すべき週を迎えました。毎晩、群衆は数を増し、青い敷物の上で奇跡が起こっていました。私は、もしや神が製粉工場も救ってくれはしまいかと考えました。確かに神にとっては、あがき苦しむ製粉工場も、なくした記念品以上の大きな問題ではありません。神の助けがなくては、それを失っていたことは確かです。毎日、穀類を減らすために売る一方、依然、前の冬の高値で、穀類の支払いをしていました。
ところが日が経っても、悪化する以外何の変化もありません――それは異常な時期でした。毎日、教理の学びの時に、幾百人もの新しいクリスチャンが、新たな信仰に確立されていきました。毎晩、数百人以上の人々が、生涯をキリストに捧げるため、いやされるため、あるいは聖霊のバプテスマを受けるために、前に出て来ました。私は毎朝、穀物のセールスマンや買手と電話で話して、何千ドルもの損失を抑えようとしていました。
それは、グッドリッチ・ブルバードで一番最初にした天幕集会を思い起こさせました。その時も伝道は成功したのですが、肥料工場は失敗しました。「主よ、もしあなたが、フレズノの人々は、飼料工場よりも大事だと仰せなのでしたら、私が議論したりしないことは、あなたがご存知です。ただ――私がこの穀物を注文する前に、あなたが語って下さっていたらと思います。」
私はG通りの家の台所に座っていました。十月も終り頃の美しい朝、他の人たちはみな用事で出かけていました。仲間としてはただ冷蔵庫のうなる音だけという静かな家の中で私は、疲れたようでいていくらかからかい気味の声を聞いたように思いました。「私は言ったよ、デモス。」
私は堅い木の椅子の上で、もぞもぞと座る位置を変えました。本当でしょうか。初めから、私の父を通じて、神はこの事態を警告して下さっていたのでしょうか。
そのことについて、工場それ自体……私が神から、これはシャカリアン一族に対する神のご計画であるということを、はっきり聞いたことがあったでしょうか。それとも、それは単に私のうまい考えに過ぎなかったのでしょうか。一部は道理にかない、一部はどん欲からの――多分神からすでに十分与えられた人による、小さな帝国建設なのでしょうか。さて、初めて私が、意識して、よく考えた上、製粉工場について神に尋ねた時、答は大声ではっきりきました。「それはあなたのためではない、デモス。投機的な事業は全時間を要する仕事であって、わたしは、どんな事業であっても、あなたに全時間を使わせない。」
それからそこで、私は木製の椅子に腕をもたせて、ひざまずきました。「主イエスさまあなたより先走って、あなたがお召しにならなかった事業に、飛び込んでいたことをお許し下さい。主よ、この仕事のために、あなたがお選びになった人がどこかにいます。この事業を引き受けて、繁栄させることのできる人です。今、主よ、その人を私たちのところにお送り下さい。そして主よ……。」私はいくらか心にとがめを覚えながら、あたりを見回しましたが、私は全く一人ぼっちでした。そして、心にあることを神から隠そうとしても、それは無益なことでした――主はよごれた、心のすみずみまですべてお見通しなのですから。「主よ。その人に、適切な値段を呈示できますように。」
私は、工場を売り払うという決定を、父が喜んでくれるとばかり思っていました。ところが次の週にそのことを告げると、父はただ首を振っただけでした。「このような時期にどうやって買い手を捜すんだね。今時、穀類の事業を買って手出しするようなものは、どこにもいやしないよ。そうさ、一日経てばそれだけ、製粉工場の価値下がるんだから。しなければならんのは、ただ破産を待って、税金を払うことだけさ。」「お父さん、売れますよ。」私は父のために、自信ありげに言いました。「しかも相当な値段をいってくるでしょうよ。」
フレズノ集会の三週目が、満席満員の日曜集会で終りました。ウィリアム・ブラナムがその週の伝道者でした。そして聾唖の双子――五歳くらいの小さな男の子たち――が突然聞こえるようになり、わけのわからない音でしゃべりだしたとき(本当の言葉を聞いたことがなかった)、今までみたこともないような喜びで、会場はわき返りました。
第四週の水曜日に、父がロサンゼルスから電話をしてきました。「デモス、お前は信じまいが、たった今、アドルフ・ウェインバーグから電話を受け取ったところだ。我々の製粉工場を買いたいそうだ。」
私たちと同様、ウェインバーグは南カリフォルニアの農場主でした。彼はユダヤ人で、その朝三時頃、神のものと認められる声で目を覚ましても、さして驚きもしなかった敬虔な人物でした。
アドルフ、イサクに電話して、製粉工場を買うという申し出をしなさい。ウェインバーグ氏は声が告げたことを話してくれました。
従順に、ウェインバーグ氏は父に電話をかけきて、ぜひ会って、値段を話し合いたいとのことでした。「わしには、さっぱりわからん。他の時ならともかくも今、この時期というのは。我々が売ろうとしたのが、どうして分かったんだろう。わし以外のだれかに話したりしたのかね。」と父が言い続けていました。「いいえ、お父さん。」「とにかく、彼は出かけるばかりになっている。お前はいつこっちへ来られるのかね。」「お父さん、私が今ここを離れられないことをご承知でしょう。」「一体全体、どうしてだめなんだい。」「集会はあと二週間続くんですよ。それにプラス、あと片づけがあります。」「だが、お前がいなくても、一日や二日集会はやっていけるだろうに。そこにお前がいるのが、さして重要とも思われんがね。」「集会のためではなくて、私のためなのです。神がわたしに何かを示しておられるのです。お父さん、この集会が始まって以来何か変ったことが起こっているのです。何か理由があって、私にとっては、今まで通ってきた以上の試練の時なのです。だれが第一なのかと神は私に聞いておられるのです。お父さん、私は主に正しい答をお返ししたいのです。」「それじゃ、ウェインバーグの気が変ったとしたら……。」「もし彼が、神から送られた買い手なら、気が変るなどということはないでしょう。」
それから、十日間ほとんど毎日、アドルフ・ウェインバーグは、父に電話をかけてきました。毎日、サイロの在庫の価格が下がっていくというのに、現金を手にした買い手を、待たせ続けておくなどとは、ウェインバーグにとって信じ難いことのようでした。私にもわかりませんでした。ただ、フレズノはこの瞬間、私のために、神が定められた場所ということしかわかりませんでした。
五週間の大会最終日が来ました。日曜日の午後の集会は、二時半に始まる予定でした。しかし、十二時半までには、公会堂の三千五百席はどれも一杯になったので、私たちは開会しました。二時までには、壁に沿って、千五百の人々が立ち、何百人もが外で待っていました。午後の集会の終了時間の五時になりました。ところが大きな会場で、賛美の霊が余りに力強くて、私が願ったところで、集会を散会することはできませんでした。
六時がすぎ、七時になりました。それでもまだ、ほとんど一人も、建物を去ろうとはしませんでした。大部分の人々は、昼前からここにおり、一たん出たら二度とは入って来られないのではないかと心配して、だれ一人夕食を食べに行きたがらないのでした。
夜のために計画していた予定は放棄され、聖霊が集会を導いていました。最後の週の説教者は、ケルソー・グルーバーでしたが、その晩、指導権は完全に自分の手を離れていたと言っていました。「水のようでした。力が水のように、あの敷物の上を流れているようでした。そこへ踏み出すと、膝まで全く水につかっているように感じます。」とケルソーは私に話してくれました。
人々は前に出て来始め、通路でいやされました。一人の若者が、傷のため目に、激しい痛みを覚えながら、集会に到着しました。前日、桃の木の下の地面を掘っているとき、彼の運転するトラクターの、排気管筒が物干し綱にからまり、それを知らずに運転を続けたため、針金綱はピンピンに張って、しまいに切れてはね返り、彼の左目をしたたかに打ちました。医者が大きな、空気の通らない包帯で傷をおおいましたが、左の目がもう一度見えるようになるかどうかについては、何も言いませんでした。
オカ・タサムは前に出てきましたが、痛みのため気絶しそうだった、と後で言いました。ケルソー・グルーバーの手が彼の額に触れた途端、痛みは跡かたもなく消え、驚くほどの幸福感が傷ついた目にみなぎりました。
五千人の人々の目の前で、タサムは包帯をとき始めました。頭にぐるぐる巻かれていた布が少しずつ取り去られ、足もとには、白いガーゼの小高い山ができ上りました。いちばん奥の包帯は、粘着テープで止めてあり、彼は自分でそれをはがしました。
二つの全く健全な青い目が、まだ信じられないというように、ケルソーから私にじっと向けられました。傷も傷あとすらもありませんでした。タサムの左目は充血さえしていませんでした。
驚くべき集会が終ったのは、真夜中近くでした。十一時間半も続いたのですが、G通りの家へ車で帰る時、私はその日の朝よりももっと新鮮な気分でした。ローズとグルーバー博士も同じだと言いました。私は、肉薄した戦闘中に、突然敵が退散していくのを見た人のように、目がくらむほど、意気揚々とした気持でした。もう一度、チャールス・プライスの言葉を思い出しました。「デモス、我々は戦闘中なのだ。」
多分、勝利の規模と戦闘の激しさには、関連があるのでしょう。敵は最も恐れおののく場所で、最も激しく攻撃して来るでしょう。
今や、経済の収支としめくくり、事後の予定に着手し、家をかたづけることだけが残っていました。ウェインバーグが再び電話をかけてきました。「来週の月曜日には家に戻りますよ、ウェインバーグさん。時期が遅れたことは喜ばなければいけませんよ。一日待てば、それだけあなたの値段が下がるわけですから。」「私は損し続けている会社に、現金で五十万ドル(約一億一千万円)払おうというのに、あなたはそれを延ばし続けているのですぞ。シャカリアンさん、私にはあなたの考え方が分かりません。」「月曜日の午後。」と私は約束しました。そして月曜日の午後二時、父とアドルフ・ウェインバーグと私は座って、圧延工場、大穀物倉庫、在庫のややこしい譲渡にとりかかりました。第一回目の話し合いでは、二万五千ドル(五百五十万円ぐらい)の開きがありました。
「それが私の最終的な申し出です。それ以上は払えませんな。」とアドルフ・ウェインバーグが言いました。
私が、テーブルの向こうの父を見ると、父は、だめだと首を振りました。「我々もそこまでです、ウェインバーグさん。」
そこで交渉は行きづまってしまいました、と私たちは思いました。ところが、まさに翌朝六時に電話が鳴りました。「シャカリアンさん? ウェインバーグです。朝食においでになりませんか。」
父と私はウェインバーグ氏の家へ車で行きました。いり卵を食べながら、ウェインバーグ氏は、昨夜真夜中にまた、神に呼び起こされて、今回もまた指示を与えられたことを語りました。「明日朝早くシャカリアンに電話して、彼らが言う値段に応じなさい。」というのでした。「ここにいる私は、買い手ですが、あなたの値段に応じます。私と握手して下さい。イサクとデモス、私は、再び夜はぐっすり眠れるようになりたいですよ。」
そこで、私たちの生涯の最も困難な時期をくぐり抜けさせて下さったのは主でした。攻撃がサタンから来ても、実際に損害をこうむらないように神はみとどけて下さいます。スティーブは無傷で、病気を克服しました。私たちは、もともと自分たちのものではなかった事業から手を引きました。ウェインバーグの経営の下で、製粉工場は繁栄していました。
神がこれらすべてのことを許されたのは、神が私にするように願われる何か新しい仕事のための準備なのだという、強い感じを持ちました。その仕事が何なのか、私の考えの及ばないところですが、私の上に起こった終ったばかりの訓練が、本当につらいものだったことからすれば、それはかなり厳しいものであることは間違いありません。
第八章 クリフトンズ・カフェテリア
ごく普通の男女。商店や事務所や工場にいる人々……。
私は、チャールス・プライスが食堂のテーブルの向かい側に座っているかのように、はっきりと、彼の声を聞くことができました。「デモス、君は聖書に預言されている、主な出来事の一つを目撃するようになる。イエスが地上に戻って来られる直前に、神の御霊がすべての人に注がれるのだ。」
そしてレイマン(平信徒)が神の最も大切なチャンネルとなるだろう――聖職者や神学者、あるいは賜物に恵まれた偉い説教者ではなく、普通の社会で普通の仕事に携わる男や女たちが――とプライスは主張しました。
プライス博士がこういうことを言い始めたのは、五、六年あるいは七年前の戦時中でしたが、私はほとんど耳を貸しませんでした。訓練されていない人々が、チャールス・プライス自身のような偉大な伝道者と同じ影響をもたらすなど、不可能のように思えたのです。
しかし一九四〇年代の終りが近づくにつれて、私は彼の言葉をもっと頻繁に考えるようになりました。また他のことも考えました。ナッツ・べリー・ファームの食堂で、人の顔が次々と、神の栄光で輝き出したように思われた人々の体験談を聞いて受けた衝撃。もしそのような人々が、何百人、何千人と結束し、世界中にこういう類のよきおとずれを広めるとしたら、何という素晴らしいことで、それは有無を言わさぬ力となるのでは……。
それから私は、自分の思いを再び目の前にある、酪農生産の数字の中に、ねじ込もうとしました。
しかし、私ははその考えに捕えられていました。夜中には目を覚ませられ、事務所へ行ってもつきまとっていました。グッドリッチ・ブルバードで、古いアルメニアの旋律を歌っている時も、その考えは私の内側で燃えていました。
もちろん、ローズと私が毎年夏、伝道者たちを援助し続けている間もでした。夏の集会は、年々、前の年よりも成功しているように見えました。どうして、私は集会について、妙な落ち着きのなさを覚えたのでしょう。それはもはや、私に対する神の仕事ではないという感覚でした。一九五二年の秋、オーラル・ロバーツのロサンゼルス大会の実施を支援しました。それまで、その町で行なわれた最大のものであり、十六日間に出席した人々は二十万人以上にものぼりました。それなのに……。
「それなのに、主が何か別なものを私に示しておられるという感じが、ずっと続いているのです。」とある晩の集会後、昼夜食堂でパイとコーヒーをとっている時、オーラルに言いました。「それは何だね、デモス。」「それは、グループ、男性のグループですよ。例外的な人々ではない。ただ、主を知っていて愛している人々、でもそれをどうやって説明していいか、わからないでいる平均的な実業家たちなのです。」「それで、このグループが何をするのだね。」「オーラル、彼らが他の人々に打ち明けて話すのですよ。たとえ、説教者の言うことは聞かなくても、自分と同じような他人――鉛管工や、歯科医師や、セールスマンには耳を貸す人々に神学でない、自分が実際に体験した神のことを語るのです。というのは、自分たちも鉛管工であり、歯科医師であり、セールスマンだから、同じ生活体験を通して語ることができるのです。」
オーラルは、勢いよくコーヒーを置いたので、コーヒーが少し受け皿にはね返りました。「デモス、分かった、分かったぞ、兄弟! 君たちは自分たちのことを何と呼ぶつもりだい。」
私にはそれを知ってさえいたのです。「国際純福音実業家親交会。」
オーラルは、プラスチックのテーブルの表面越しに、私を見つめました。「ちょっと長いね。」「そう。ですが、どの言葉一つとっても、みな必要だということが、お分かりですか。」
純福音。それは私たちの集会には避けられない主題を意味しています。いやし、異言、解放、その人の経験が何であれ、それが起こった通りに、そのまま語ることができるために。
事業家。平信徒。普通の人。
親交会。それは、交わりを感ずるべきです。一緒に集まるのが好きな人々の群れ、規則や委員会や、秩序だてるための会議ではない。
そして、一番上の、国際……「その部分はばかげて聞えるのはわかっている。」と私は認めました。「だがオーラル、神は私にそう言い続けているのです。国際とね。全世界、すべての人というわけです。」チャールス・プライスのようなことを言っている自分がおかしくて笑ってしまいました。しかし、オーラルは笑っていませんでした。「デモス、これは本物だ。これには神が介入しておられる。発足にあたって、私に手伝えることが何かあるかね。」とオーラルが言いました。
ありますとも! 説教者としてオーラル・ロバーツがいれば、初回の集会に何百人というクリスチャン実業家が出かけて来るでしょう。「オーラル、もし私が土曜日の朝、ロサンゼルス中から事業家を招いたとしたら、来て、これを始めるのを手伝ってもらえるだろうか。」
そして、そのように決まりました。集会場としては、ブロードウェイと七番街にある、クリフトンズ・カフェテリアの二階を選びました。そこは、週日のピークの時間帯には一杯の人であふれていますが、土曜日の朝はいつも人気が少ないのでした。それから、私の知っている、聖霊に満たされた実業家みなに電話し、新しい交わりの第一回集会は、特別説教者としてオーラル・ロバーツを迎えて行なわれることを知らせ、それを広め、友人を連れて来、威勢よくスタートするのを助けてほしいと頼みました。私がすでにピアノのことを考えていたので、「屋上の間」の一隅に、一台置いてあったピアノで、ローズは何曲か聖歌を弾くことに同意してくれました。
素晴らしい日の当日になりました。十月の土曜日の朝、ロサンゼルス市街の交通は渋滞していて、オーラルとローズと私が駐車場を捜すには、長時間かかりました。すこし遅れて、やっとクリフトンズ・カフェテリアに到着し、広い中央の階段を上る時、少しどころか大変興奮していました。階上には何人くらいの人が待ってくれているでしょうか。三百人? 四百人?
階段の一番上に着きました。ざっと数えて十九、二十、二十一人でした。私たち三人を入れてです。他の十八人の人たちは、姿を現わす、新しい組織のことでまた、人を引くために呼んだ世界的に有名な伝道者のことでも、十分興奮していました。
ローズは、音のはずれた小さなピアノで、聖歌をいくつか弾きましたが、熱意に欠けた歌が部屋に響きました。来ている人々を見渡しますと、そのうちの大部分は昔の友人たちでした。献身的な人々、はっきりと言明しているクリスチャンたちでした――その中の大部分はすでに、委員会や奉仕クラブや市民組織の要職にある人々でした。なすべき仕事がある時には、自発的に申し出るような種類の人々、しかしまた同時に実現不可能なことがらには、一瞬たりとも時間を無駄にしないという人々です。
ローズがピアノを弾き終ったところで、私は立ち上がりました。これからの十年間に、神の御霊が働く新しいチャンネルを求めているという信念が、どのように私のうちに育っていったか、説明しました。あちらこちらで、腕時計を見ている人が目に映りました。オルガンはなし、ステンドグラスはなし、人々が
"宗教的" だと認められるものは何もありません。ただ一人の人が他の人にイエスを伝えているに過ぎません。
私には、思想を言葉にする能力がありませんでしたので、自分の言っていることが分かってもらえなかったことを知って、腰を下ろしました。
オーラル・ロバーツが立ち上がり、数少ない出席者を神に感謝し始めました。「人間的な専門知識に感謝することなく、この小数のからし種に芽をはえさせ、はじめから、これがあなたの団体となりますように。」オーラルは多分二十分も話したでしょうか。それから祈って閉会しました。「立ちましょうか。」と彼は言いました。
一握りほどの少数の男性は、ばらばら立ち上がりました。「主イエスよ、この親交会をあなたの御力のみによって成長させて下さい。あなたの御力によって、国々を巡って行進するよう送り出して下さい。世界中に。主イエスよ、食堂でわずかな人々の群れにお会いしましたが、あなたが一千もの地方支部をご覧になっておられることを、ただ今感謝申し上げます。」
それと共に、驚くべきことが起こりました。つい先刻まで垣の上の作男たちのように座っていた、あの小さな群れが、にわかに活気づいてきました。雰囲気を変えたのは、一千というオーラルの夢でした。突然、私たちには、この空っぽとしかいいようのない部屋に聖霊が、一千もの異なる部隊から成る、世界的な規模の軍隊を設立して下さるのを見ることが、何たる冒険かということがわかったのです。だれかが歌い始めました。「進め、主イエスの兵士らよ……。」
みながそれに続きました。「……見よ、十字架は前に行く……。」私は隣りの人に手を差し出してつなぎ、やがてみなが手をつないで円をつくり、歌いながらその場を行進しました。日曜学校のような単純さの中に、風変りな力がありました。歌いながら行進することが、ずっと続きました。法律的には、国際純福音事業家親交会は、数週間後法人団体の条項を唱えて、五人の理事が記名することによって発足しました。しかし、霊的には、オーラル・ロバーツと他の二十人が一千人という夢を分かち合い、子供のように手をつないで、戦いの歌を歌いながら行進した時に始まりました。「ローズ、一年以内に私たちは驚くべきことを見るようになるぞ。」とその日の昼、車で家へ帰るとき、私は言いました。
それから十二か月間、未だかつて経験したことのないような、信じられないほどの挫折が続きました。クリフトンズ・カフェテリアを後にした時の勢いは、すぐに、ただの惰性や強い抵抗に出会いました。
私たちは、毎週土曜日の朝、クリフトンズで朝食会を始めました。階下で、並んでいる食物をお盆にのせて、自分で階上のテーブルに運び、二時間ほど祈ったり、分かち合いの時を持ちました。有名な説教者が来ることもありましたが、たいてい、我々、実業家仲間をあてにしていました。嬉しいことに、ナッツ・べリー・ファームで経験した現象が、再現されました。その度毎に、私が部屋を見回すと、分かち合う経験の持ち主がわかりました。
そうです。この集会こそ私の願いのすべてでした。集会はそこで行なわれていましたが影響力も成長もありませんでした。三十人あるいは四十人も人のいる週があるかと思うと次は十五人だったりしました。
それから、反対が始まりました。シャカリアンは何をしようとしているのか、新しい宗派でも始めるのか、と牧師たちが講壇から尋ねるようになりました。その親交会から身を引きなさい。教会から、人々や金を流出させようとしているのだから。
苦痛だったのは、攻撃が不当だったことでした。当初から、ローズと私は、支援するどんな集会においても、二つの原則を強調してきました。「第一に、自分の教会に留りなさい。自分の教会が御霊の力をわきまえているなら、帰って行き、前にも増して決心して、一生懸命仕えるようにしなさい。もしそうでなければ、宣教師として自分の教会へ戻りなさい。」「そして第二に、どこか他の所に属するものは、一銭たりとも献金箱に入れてはなりません。ここは、あなたの什一を納める所ではありません。什一はあなたの母教会に属するものです。この集会で与えるものは何であれ、母教会に属する什一を上回ったものでなければなりません。」
長年の経験から、人々はこれらのことを肝に銘じていたはずです。私たちの集会に来る人々は、いつも決まって熱心な働き人、母教会では一番多く与える者となりました。しかしそれでも、諸教会は親交会に、疑いのまなざしを投げかけていました。
金銭の非難は特に皮肉でした。その年一年間は、わずかの寄附も受けませんでした。その間、私は毎週知らせの手紙を出したり、仕事でロサンゼルスに来る時があったら、集会に加わるようにという招きの電話を、国中にかけたりしていました。実際のところ、たいがい私が朝食の支払いをするはめになりました。
しかし、朝食がただというだけでは、明らかに十分な呼び物とはいえませんでした。私のしたことはどれも十分ではありませんでした。ですからもっとやってみました。もっと広く呼びかけようと、毎週土曜日の朝、ラジオの時間帯を三十分買い、集会の一部を放送しました。私はカリフォルニア州を隅なく巡り、それから他の西部各州へ、しまいには東海岸一帯を行き巡りました。人々が私たちの所へ来ないなら、私たちが出かけて行って、我々のやっていることを説明し、それぞれの町に純福音事業家のグループを始めるよう勧めました。
六月までには、私はほとほと疲れきってしまいました。酪農場で一日中働いたあと、毎晩親交会で過し、流れに逆らって泳いでいた人のように疲れきって、午前三時から四時に寝床の中に倒れ込むのです。
そして、ついに救命索が投げられたようでした。クリフトンズ・カフェテリアに招いた説教者の一人に、世界ペンテコステ大会の役員デイビッド・デュプレシスがいました。集会の後、一緒にダウニーヘ帰る時、デイビッドはほとんど興奮を押えることができませんでした。「デモス、本当にここで何かが起こっている。夢のようだ! 聖霊に満たされた普通の実業家たちの世界的規模の交わりとは! 一人一人がまわりの人々への宣教師として、毎日働いている!」「ありがとう。デイビッド。だけど、どうもたいていの人々は、あなたと同じように考えていないようなのだが……。」と私は憂うつそうに言いました。「君は、このことを我々に知らせるため、来月ロンドンに来るべきだと思うね。大会は自分たちのプログラムとして受け入れるはずだ。」とデイビッドは、私の気分などそっちのけで続けました。
突然私は注目しました。おぼれかかった企画の上にぶら下がった命の綱が、ここにある。ペンテコステの大会は、世界に広がる一万からの教会を代表している、もし私たちがそれに結びつけられれば、もはや自分たちだけで苦闘している、小さな群れではなくなります。私たちは後援され、公認されます。デイビッドはローズに提案を繰り返し、私たちは行くことを切に願って同意しました。
そしてすぐに、家族の反対にぶつかりました。大会に参加することではなく、途中、飛行機で旅行することに対してでした。「ただ、どのようにしてロンドンに着く計画だね。」要点をきり出すと、父は聞くのでした。教会が終ったある日曜日の夜、私たちはみな、ガブリエル家の居間にまるく座りました。私は、心配そうなアルメニア人たちの顔がいならぶ円陣を眺めました。一九五二年のことでしたが、それまで空を飛んだことがあるのは部屋の中で私ただ一人でした――それはしかも、小さな飛行機による短距離飛行に過ぎませんでした。「だってお父さん、鉄道で大陸を横断してそれから船ですって――それじゃいつまでたっても着かないですよ。ローズが子供たちと離れるのは、悪い時期ですし。」リチャードは十七歳、ジェリーは十三歳、小さなスティーブはほとんど五歳でしたが、ローズが子供たちから離れるのはこれが初めてでした――それも、ニューマン夫人が泊まりに来てくれることになってからのことです。「飛行機で行くことを考えているんだね。」しばらく考えてから、父は推測して言いました。
部屋のあちこちに、不快な表情が濃くなりました。「一体何があんなものを空中に上げておくのか、私にはどうしたってわかりやしない。」サイルーン伯母が言いました。
「あれは恐ろしい速さで進むのじゃ。」心配そうにシラカン・ガブリエルが言いました。「しかも、海の上をですよ。」タイルーンが付け加えました。
結局、私たちが別々に飛び、飛行機の最後部の座席に座ることに同意するなら、旅行はしぶしぶながらも、承認されることになりました。私が最初に飛ぶことになり、グッドリッチ・ブルバードの全会衆が、ロサンゼルス空港に現われたように思えました。まるで絞首台に昇る男への別れのようなあいさつと抱擁がありました。祈る約束をしてくれ、最後のまぎわの忠告がありました。「何も食べちゃいけないよ。」「安全ベルトを締めておくんですよ。」「座席はできるだけ、一杯に後へ倒しておきなさいよ。」
プロペラが回り始めても、ヤノイヤン伯父が、両手をメガフォンのようにして口にあてまだ警告の言葉を叫んでいるのが見えました。
翌日私は、ローズに会うため、ニューヨークのラ・グアディア空港にいました。ローズはほほ笑みながらステップを下りて来ました。初めての飛行が大層気に入り、今度は地下鉄に乗ってみたいとのことでした。私たちはホテルの近くに地下鉄の入口を見つけたので地下鉄を乗り回して、紙袋の中に酒ビンを入れて持っていた老人以外は全部下車するまで街の下を往ったり来たりしました。
翌日、家族との約束通り、別々の飛行機に乗りイギリスヘ向かいました。
けれども、ロンドンで再会した私たちの喜びは、デイビッド・デュプレシスに会ったとき幾分消されました。「いいにくいんだが、ここの人々との交渉は余り進展していないのだ。君が牧師じゃなくて、酪農家だというのがひっかかっているらしいのでね。」といかにもきまりわるそうに言いました。「彼らは私たちを支援しないというわけですか。」
「続けて働きかけてみますがね。」デイビッドに言えるのは、それだけでした。
ローズと私は、大会の一般集会に参加して感動的な説教を聞き、生き生きと聖歌を歌う声に唱和しました。ついに、デイビッドは敗北を認めました。デイビッドは、ペンテコステ派の指導者一人にさえも、私の考えを聞かせるのに成功しなかったのです。
ローズと私は、憂うつな気持でドイツのハンブルグヘ――別々に――飛びました。「主よ、私には分かりません。この長い旅――この時間と費用――は何の益にもならなかったのでしょうか。あるいは、ドイツで何かを示して下さるのでしょうか。」私は機上で祈りました。
私たちは友人のハル・ハーマンの勧めで、ハンブルグヘ行くところでした。ハルは、合衆国政府による広島爆撃の初の公式写真を撮った写真家でした。日本でハルが見たものは彼に、生涯かかっても、世界に対する神の解答を捜し出そうと、決心させるものでした。私たちは、ハルが大きな天幕をハンブルグヘ船積みする手伝いをしたのですが、今度は、ハルの集会に出席して欲しいとの要請があったのです。
私は、ハンブルグ空港で、私たちを接待してくれるはずのドイツ人教役者、ロビー牧師に迎えられました。「ようこそ、この町へおいで下さいました!」ロビー牧師は流暢な英語で言いました。「私たちの主は、依然奇跡の神だということをお見せしたい。」私の心ははやりました。これを見せるため、神は私をはるばるとここへ来させたのでしょうか。 一九五二年も七月だというのに、未だにハンブルグが荒廃しているさまに、私は驚きました。空港から車を走らせていく時、セメントのかけらやこわれたレンガや歪んだ運搬用のトラックなど、次から次へ通り過ぎました。そのような破壊の中で、魂が生き抜くことができるとは思えませんでした。やっと、ロビー牧師は他の廃虚と余り違わない山積みの瓦礫の前で、車を止めました。「これが、私たちの教会でした。」と言いました。
レンガやガラスのかけらをのけて歩みを進めながら、「奇跡が起こったのはここなのです。」と付け加えました。
ロビー牧師は、かつて地下へ通ずる一組の鋼鉄の扉だったけれど、火で歪められてしまった残骸の前で止まり、そこにあった防空壕を示しました。「ある日曜日、私たちは礼拝の最中でした。サイレンが鳴り……。」彼は手でかつて教会だったあたりをぐるっと描きました。
空襲警報には慣れっこになっていたロビー牧師や、人々は教会から、庭の向こうの防空壕へぞろぞろと出て行きました。鋼鉄のドアが開かれ、三百人の人々は地下へ流れ込んでいきました。
それから扉が閉されました。
間もなく、爆弾地獄があたりに展開されました。あたり一帯の建物を破壊し――教会はその一角にありました――焼夷弾が残ったものを燃やしながら、襲撃はずっと続きました。防空壕の中で、人々は炎がぱちぱちと音を立てるのを聞くことができました。空襲警報解除のサイレンが鳴ったのは、地下室の息づまるような空気の中で、何時間もたってからのようだったとロビー牧師が話してくれました。牧師は階段を上って、扉をさっと開けようとした途端、あわてて後ずさりしました。金属製の扉は余り熱くて手を触れることができなかったのです。木片をみつけてそれで押してみましたが、扉はびくともしません。そこで他の男の人たちが、五十センチぐらいの角材をつかみ、がんじょうな鋼鉄の塊を打ったり叩いたりしました。
何の役にも立ちませんでした。嵐のような炎の熱が重金属を溶け合わせてしまったのです。扉を続けざまに打つのは、貴重な酸素を消費するだけでした。
空気をできるだけ長時間保存するために、ロビー牧師は、代りにひざまずいて祈るように人々にすすめました。「主よ、あなたは死の力よりも強いお方です。父よ、私たちは、あなたに奇跡をお願いいたします。」と大声で始めました。
ひざまずいたまま、男女、子供たちは待ちました。
しばらくすると、はるか頭上に、別な飛行機の恐ろしい音が聞えました。破壊された街の上空を、旋回しながら飛んでいました。それから、爆弾の落ちる音が聞えました。いつものように本能的に、人々はひょっと身をかくしました。爆弾は近くに――すぐ近くに落ちました。地下に閉じこめられた人々に危害が及ぶほど近くはなかったけれど、溶けて一つになった鋼鉄のドアがぱっと開くほど近くでした。ほこりがおさまってから、ロビー牧師と会衆は防空壕を出て、地上の、まだ煙っている廃墟に、ぞろぞろと出て行ったのです。三百人の勇者たちは、町が燃えるあかりの中に立って、神に感謝を捧げました。
その晩、ロビーの客間で、この素晴らしい事の次第をローズに語って聞かせました。私たちが直面した親交会の問題に対するメッセージがある、ということを確かに感じました。ただ、それが何なのか、私にはわかりませんでした。
また、私たちの状況とハルの天幕集会には何のつながりがあるのかも、わかりませんでした。語られている言葉が全然分からない集会に座って、人々の顔を見ている経験は魅力のあるものでした。上品で礼儀正しく、堅苦しいこの人々は、今までにローズと私が会ったことのあるどの聴衆より、ずっと手ごわいことは確かでした。ドイツ人の親しみのなさを破るものは何もない、とほとんど決めてかかっていた時――いつものように――事態を変えたのはいやしでした。町中に知れ渡っていたかなつんぼの男の人が聞こえるようになり、その集会は熱狂してきました。人々は叫び、抱き合い、天に向かって手を差し延べ、ちょうど、アメリカのペンテコステ派の集まりのようでした。
それでも私は、主よ、あなたはどうして私をここへ連れてこられたのですか、と不思議に思っていました。私は何にも貢献していませんでしたし、何か学んでいるのかどうかも確かではありませんでした。その頃には、ローズは子供たちの所へしきりに帰りたがりました。けれども第一に、ローズには実現しなければならない一生の夢がありました。いつもヴェニスを見たがっていたのです。そしてたぶん、二度と再びヨーロッパに来ることはないと互いに感じていたのです。
そこで、続いてイタリアヘ、今度は列車で行きました。窓外を通り過ぎていく世界は、広大な、カリフォルニアの農場とは何という違いでしょう。小さく仕切られた土地が、古風な石造りの農家を取り囲み、一方豚やガチョウやにわとりが、庭先で遊んでいるのでした。「カラカラのようだ。お父さんが話してくれる農場みたいだ。」と私はローズに言いました。
ドイツで、私はカメラを買いました。さて、窓に寄りかかってはならないと、乗客に警告している四か国語の標識をものともせず、私は、コンパートメントの窓を引っ張り下ろし、少しでもよい写真を撮ろうと、頭と肩をつき出しました。
焼けるような痛みが、右目に走りました。
私は中に体を引っ込め、ほとんどカメラを落してしまうばかりでした。「ローズ!」
ローズは私を座らせ、むりやり私の手を顔から引き離しました。目はこきざみに震えており、開けられませんでした。ローズは注意深くまぶたを引っぱり上げました。「見えるわ! 燃えかすのようなものよ。ひとみのすぐわきに。」
ローズはハンカチを取り出して、燃えかすをとり除こうとしましたがとても深くくっついてしまっていました。痛みはつらいものでした。私は流れ落ちる涙をぬぐおうと、顔にハンカチを押しあてました。ヴェニスまでは、まだ一時間ぐらいありました――生涯で最も耐え難い苦しみの時でした。
駅からは、計画していたロマンティックなゴンドラ下りの代りに、ホテルまで高速モーターボートに乗りました。受付に座っていた男の人が状況をちらっと見てとり、数分後には、私は部屋のベッドに横たわり、ホテルの医者が私の上にかがみ込んでいました。医者はまぶたを裏返し、目の上に懐中電灯を照らし、それから、まっすぐに立ち上りました。「残念だが、とても危険です。この石は大きくて手ごわいときてる。」「取り除けませんか。」「ここでだって? いや、あなた。病院へ行かにゃなりますまい。すぐに電話をかけましょう。」
医者がダイヤルを回して、早口のイタリア語で話している間、ローズは私の傍に腰かけ私の手を取りました。「デモス、このことについて祈りましょう。」ひどい痛みにすべてを奪われ、また自分にあいそをつかし、ただぼう然として私はこの大切な一事を忘れていたのです。
ローズは、ハンブルグで目のあたりに見たいやしの奇跡を、神に感謝し始めました。「主よ、あなたはドイツのあの天幕の中におられたように、イタリアのこの部屋にもおいで下さることを、あなたに感謝いたします。イエスの御名によって、あなたが燃えかすを取り去って下さるようお願いいたします。」
ローズが語っている間でさえ、暖かさが私の目を洪水のようにつき抜けていきました。「ローズ、何かが感じられる。何かが起こっているのだ!」
私はまばたきしました。何も感じません。痛みも障害物もありません。「ローズ、私の目を見ておくれ!」
ローズは、私の上に身をかがめました。「デモス、ないわ! 燃えかすがなくなっています!」彼女は、わっと泣き出しました。
医者が受話器を置きました。「病院は受け入れてくれます。急救室へ行きましょう。」「先生、私の目をもう一度見て下さいますか。」 医者は、バッグから懐中電灯を取り出し、もう一度目を照らしました。まぶたを放し、もう一方の目を調べ、それからまた、右目を調べました。「あり得ないことだ。」と言いました。「家内が、燃えかすを取って下さるよう、神にお願いしたのです。」と私が言いました。「あり得ない、この石は、自然には出てきっこないのだから。」「自然になんかじゃないのです、先生。神が取り除いて下さったのです。」「あなたは物分かりが悪い。傷があるに違いありません。燃えかすがついた組織の傷ですよ。だが何もない。傷も傷跡もないとは。」医者は戸口の方へ戻っていきました。「請求書は差し上げませんよ、あなた。こんなことはあり得ないことだ。」 ローズと私は、イタリアで楽しく過しました。
それにしても――これらすべては親交会とどんな関係があったのでしょうか。七月の終りにロサンゼルスヘ戻った頃、前途は前と同じように明らかではありませんでした。
八月が過ぎ九月になりました。毎週土曜日の朝、クリフトンズ・カフェテリアに、他の何よりも私に対する忠誠からだと思うのですが、同じ少数の人々が集まり続けていました。国際純福音事業家親交会の第一回記念日が十月にありました。過去十二か月間、国の各地で親交会について話してきました。他の市から来た人々が朝食会に参加しました。しかし、非常に「驚くべきこと」を見るはずだったその年の間に、別の町に第二の支部を始めるほど感動した人は、一人もいませんでした。
ローズは、去年の秋の、確信に満ちた私の預言を思い出させないように、と親切に心を配っていましたが、私には、毎週土曜日毎に続行することを、余り賢明だと思わなくなってきているローズを見ることができました。「デモス、私たちは、ただ人々に朝食をふるまっているだけですのね。天幕集会ではずっとうまくいってましたわ。毎年夏には何千人という人々の心を動かすことができたけれども、このやり方では、せいぜいよくても二、三十人ですもの。」とローズが言いました。
ローズが正しいのはわかっていました、が……「来月どんなことが起こるか見てみようじゃないか。」と私は言いました。
十一月が来て、そして過ぎて行き、集会は相変らず細々と続けられていました。いやそれだけでなく実際、出席者は減りました。「十二月は違うだろう。人々は、クリスマスの時期にはもっと開放的だから。」と私は請け合いました。
しかし、クリスマスの時期で何か影響があったとしたら、人々は忙し過ぎて、出席できなくなったことでした。「デモス、妻を、買い物に連れていかなければならんので。」
「教会にバザーがあるんでね。」「子供たちに、サンタクロースを見せに連れていくつもりなんだよ。」
十二月二十日、土曜日の朝、私たち十五人はクリフトンの二階に集まりました――十四か月前始めた時より六人少なくなっていました。陰気な集会も終る頃、友人のマイナー・アーガンブライトが率直に語りました。マイナーは、大規模な、商工業関係の仕事をする石造建築の請負業者であり、親交会の五人の理事の一人でした。
「デモス、クリスマスが来ることや他のことで否定的になりたくないんだが、親交会のアイデア全体は役に立たないものだと思う。率直にいってこの会全体に、五セントすらも出したくない気持だ。」とマイナーは言うのでした。
余りの衝撃に、私は彼を見つめたまま返す言葉がありませんでした。
マイナーは手を差し出し「これは実験だと君はよく言ったが、そうだろう?」「その通りだ。」「まあ、多くの場合、実験というのは失敗するものだ。別に恥かしいことではない。」
私は、まだ何と言っていいか分かりませんでした。「デモス、私が言おうとしていることは、今から来週の土曜日までの間に奇跡が起こらない限り、私のことは忘れたほうがいいということだ。」「よろしい。その通りだ、マイナー。分かったよ。」
ローズと私は、無言のまま、階下へ下りて行きました。大きな中央の部屋には、クリスマスツリーのあかりがついたり消えたりしていました。「マイナーのいう通りだわ。もし神様がその中におられたらば、祝福して下さるでしょう? 親交会が祝福されていたとはどうしても言えませんものね。」とローズは静かに言いました。
私はぼう然として、ローズのあとについて歩道に出ました。色々な努力、電話連絡、旅行、来てくれる人々への事実上の贈物――何もかも無駄でした。一九四〇年代から私が学んだことが一つあるとしたら、ローズと私の間で、何か意見の一致がないときには、神は私たちに届くことがなかった、ということでした。もしローズがそれほど、親交会は間違っていると確信しているのだったら――この会の前途は明らかでした。できるだけ早く忘れてしまった方がいいのです。
ただ……私はそれを忘れることができませんでした。一週間中ずっと、私の目には涙があふれて来るのでした。仕事へ行くために車を運転しているとき、突如泣き始めてしまうのです。自分が神経衰弱にかかっているのかと思ったくらいでした。
子供たちのために、クリスマスには明るい顔をしていようと努めました。翌日二十六日の金曜日には、客を迎えることになっていたのを、私は喜びました。私たちの友人、トミー・ヒックスという才能豊かな伝道者で、霊的に低迷している時そばにいるにはもってこいの人物だったのです。「なぜって、トミー、わかるかい。明日の朝は国際純福音事業家親交会最後の集会なのだよ。」金曜日の夕食の席で、私は言い、少し顔をしかめました。私は、会のみんなが同じように感じていることは、かなり明らかで、マイナーのように口に出して、正直に言わないだけであること、だから、たった一つすべきことは、何か発表のようなことをして、会を公式に終らせることだとトミーに説明しました。「たぶん、来年の夏は、天幕集会を支援して、みんな一緒に働ける方法を考え出せるかも知れんね。」
私は平生を装おうとしていたのですが、トミーは私の心の動揺を察知したに違いありません。というのは、トミーが 「デモス、このことは、もっと、話し続けるべきだと思う。」 と言ったからです。
そこで、私たちはテーブルを去りかねて、私たちの望みや落胆を思い起こしながら、語り合いました。しばらくすると、ジェリーが寝ました――スティーブはずっと前に寝ていましたし、リチャードは、その週末、若者の修養会を指導していました。しかし、トミーとローズと私は起きていて、クリフトンズ・カフェテリアに来た人々のことを彼らがグループに分かち合ってくれた話を思い出しながら、話していました。「土曜日でなかったら私はあることを学びませんでした。その日は、神と人とをもっとよく愛する一助となったのです。」と私はトミーに言いました。
ローズが腕時計を見たときは、ほとんど真夜中でした。「時間をごらん下さいな、デモス。まあ、私はテーブルも片づけてないのですよ。休まなければなりませんわ。さもないと、私たち自身が、朝クリフトンに着かないことになってしまいますわ。」 「あんたは先に寝るがいいよ、ローズ。このことがとても気にかかって、私には眠れそうもないからね。」と私は言いました。一年前、私は非常に確信があったのです!「居間へ行って、このことについて主からお言葉があるまで、私はひざまずいて祈る。」「ご立派なお人だ。私はローズの皿洗いを手伝うことにし、それから自分の部屋へ行って君を背後で応援しよう。だが根本的には、デモス、これは君と神との間のことだよ。」とトミーが言いました。
トミーとローズは、山積みの食器を台所に運びました。私は小さな入口の間を横ぎって居間に足を踏み入れました――とそのとき、起こったのです。
私が十三歳の頃と全く同じように、私を取り巻く空気が突然重くのしかかってきて、私をむりやり床に押しつけるようでした。私は膝をついてしまい、それから顔を、更に体全体を模様のついた敷物の上に伸ばしました。二十七年前、隣りの大きなスペイン風の家の寝室の時と同じように、立つことができないありさまでした。ですから、立ち上がろうともしませんでした。私は、部屋中にほとばしる力、限りない神の霊の迫りを感じながら、ただ、神のあふれる愛の中にくつろいでいました。時は止り、所は消滅しました。今は英語で、次には異言で主をほめたたえながら、そこに横たわっている時、神がずっと以前に語られたあの言葉を今また、語られるのを聞いたのです。
デモス、あなたは私の力を疑うつもりですか。
突然、私は過去何か月間も、主を見上げるべきであった自分自身を悟りました。もがき苦しみ、努力し、忙しいアリのようにあちらこちらあわてて走り、「公式な」グループの応援を得ようとヨーロッパヘ飛んでいったり、主の力に頼る代りに、いたる所で自分の力に頼っていたのです。
悲痛とともに、私は親交会の一番最初の集会で、オーラル・ロバーツがした祈りを思い出しました。二十一人の人々を立たせ、勝利の聖歌に合わせて、私たちを行進させた祈りでした。「この組織を、あなたの御力だけで成長させて下さいますように……。」
私は、あたかも、重要なのは私の力であるかのように――オーラルが見た幾千もの支部を、私が個人で始めなければならないかのように、行動してきたのでした。もちろん、たった一つさえも、私が始めることはできなかったのです。「主イエスよ、私をお赦し下さい。」
次に主は、私がヨーロッパで見たこと――見はしたものの理解していなかったこと――を思い出させて下さいました。ハンブルグにあった防空壕の鋼鉄の扉のこと、ヴェニスのグランドホテルでの、私の目にはまり込んでいた燃えかすのことでした。「デモス、扉を開けることができるのは、わたしである。見えない目から、はりを取り除くのは、わたしなのだ。」「主イエスよ、わかりました。私はあなたに感謝いたします。」「今やわたしは、お前が、ほんとうに見えるようにしてあげよう。」
それとともに、主は私が膝で立つことを許して下さいました。
私を床に圧倒していた力が、今や私を支えているかのように、私はほとんど持ち上げられたのでした。そのとたん、ローズが居間に入って来たのです。ローズは私の脇を回って隅に置いてあるハモンド・オルガンの方へ歩いて行き、一言も言わずに腰かけて、弾き始めました。
音楽が、小さな部屋いっぱいにもり上がり、雰囲気がずっと明るくなりました。驚いたことに、部屋の天井が消えてしまったように思えました。クリーム色の石こうや天井のあかり――それらはなくなってしまい、代りに空を、外はまっくらに違いないのに、昼間のように明るい空を、くい入るようにじっと見上げる自分に気づいたのです。私が、その無限のかなたに見入っている間、ローズはどのくらい演奏したでしょうか、私は知りません。けれども、急にローズは止めて、指を鍵盤にのせたまま、美しく軽快な、あふれ出るようなメッセージを、異言で声高らかに語り出したのです。
ちょっと止まったかと思うと、今度は、同じ叙情的なリズムで、英語で語りました。「わが子よ、わたしはあなたを生まれる前から知っています。あなたのすべての歩みを導きました。今、わたしはあなたの人生の目的を示そうとしています。」
それは異言とその解き明かしの御霊の賜物が同時に与えられたものでした。ローズが話すにつれ、めざましいことが起こったのです。私はひざまずいたままだったのですが、あたかも引き上げられたかのように感じたのです。体を残したまま、居間から離れて、高く上がっていました。私の下の方に、ダウニーの家々の屋根の先端を見ることができました。サン・バーナーディノ山があり、向こうの方は太平洋沿岸でした。今や私は地上はるか高い所におり国土全体を西から東まで見渡すことができました。
そんなに遠くまで見えたにもかかわらず、地上の人々――肩と肩を突き合わせて立っている、何百万という人々をも見ることができたのです。それは、ちょうどフットボールの試合で、カメラがまず競技場に、次に選手に、それからフットボールの試合そのものに焦点を合わせていくように、私の幻はそれら何百万もの人々に移っていきました。何千人もの人々の顔のこまかい点までも見えました。
自分が見たもので、私は驚愕しました。表情はすわって、生気がなく、みじめでした。人々は肩を突き合わせて、非常に密に立っているのに、互いの間には真の触れ合いはありませんでした。人々は、まばたき一つせず、何を見るともなしに、前方をじっと見つめていました。恐怖に身震いしながら私は、その人たちが死んでいることを知ったのです。
すると、幻が変りました。世界が回っていたのか、私が世界中を旅していたのかわかりませんでしたが、今や私の真下は、南アメリカ大陸でした。それからアフリカ、ヨーロッパ、アジア。もう一度、驚くべき大写しが出て来た時、どこでも人々は同じ状態でした。茶色の顔、黒い色の顔、白い顔――どの人も硬直して、みじめで、それぞれが自分の個人的な死に閉じ込められていました。「主よ、この人たちは一体どうしたのですか! 主よあの人たちを助けて下さい。」
あとになって、私が何も言わなかった、とローズは言いましたが、幻の中では、私は大声で泣いて懇願したと、私には思えたのです。
突然、ローズが話し始めました。もちろん人間的にいえば、私が見ていたものを彼女が知る手だては、全然ありませんでした。ところが彼女が言ったのはこうでした。「わが子よ、お前が次に見ることは、やがて間もなく起ころうとしています。」
二回目に、地球が回っていたのでしょうか――それとも私が地を巡っていたのでしょうか。再び私の下の方に、幾百万という人々がいました。けれども、何という違いでしょう。今度は、頭は上げられ、目は喜びで輝いていました。手は天に向けて上げられていました。みんな孤立して、それぞれ自己という獄に捕われていた人々が、愛と礼拝の社会に結び合わされたのです。アジア、アフリカ、アメリカと、いたる所で、死は命に変っていたのです。
これで幻は終りました。私は自分が地上に戻っていくように感じました。私の下には、カリフォルニアのダウニーがありました。私たちの家がありました。私にはひざまずいている自分とオルガンの前に座っているローズが見えました。それから、部屋の中の見慣れた物体が私の回りを囲み、私は膝の痛みと首の凝りを意識しました。私は、ゆっくりと立ち上がり腕時計を見ました。早朝の三時三十分でした。「何事が起こったんですの、デモス。主から何かをお聞きになりましたの?」とローズが聞きました。「ローズ、聞いたどころか見たのだよ。」そして幻を説明しました。ローズは、目に涙を光らせながら聞いていました。「ああデモス、主は親交会を続けるべきだと示しておられるのですね!」
ローズはオルガンの前から立ち上がり、自分の手を私の手の中にすべり込ませました。「デモス、覚えていらっしゃいません? ほとんど八年前、私たちがひざまずいて、主を第一としたのは、この部屋でしたのよ。」
私たちが寝室へ向かったとき、トミーが泊まっているリチャードの部屋の、扉の下からあかりがもれていました。扉を叩くとトミーは「お入りなさい!」と叫びました。彼は床にひれ伏していて、まだ灰色のスーツを着たままでした。応援の祈りを約束して、それを果していたのです。「デモス、君が聞いたことを話してくれたまえ。今晩感じたような力を感じたことは、これまでの生涯になかったことだ――この家中に波が次から次へとかぶさって来るようだった。」
その夜一晩中、私たちは床につきませんでした。トミーに幻を説明し終った頃には、クリフトンズ・カフェテリアヘ車で出かける時間になっていたのです。
階上の部屋に着くと、二人の人が私たちを待って、そこにいました。一人はマイナー・アーガンブライトで、彼に会おうとは驚きました。もう一人は、ほんのかすかに顔なじみの人でした。「デモス、君にあげたいものがあるんだ。」マイナーはいって、ポケットに手を延ばし、一通の封筒を取り出しました。まぎれもなく彼の辞表です。ああ残念だ、と思った時――
それは辞表ではなく、一枚の小切手でした。私の目が、言葉をさっと読みました。「受取人、国際純福音事業家親交会……。」「一千ドル!」と私は叫びました。「しかし、マイナー、先週君は、この組織が五セントにも値しない、と考えていたのではなかったのかい。」「先週は先週さ。デモス、私は今朝早く目を覚ましてね、一つの声を聞いたのだ。それは神だった――私には分かる、神だった。そして言った、『この働きは世界中に届くべきだから、お前が最初の資金を献げなさい。』とね。」
他の人々が上がって来たとき、私はまだマイナーを見つめていました。「シャカリアンさん、私はトーマス・ニッケルという名の者です。昨晩、私にあることが起こり、あなたが興味をお持ちになるのではないかと思いまして……。」
ニッケル氏が、彼も真夜中に主からメッセージをいただいたと話している間に、私は自分の盆を彼の方に移動し、卵に塩をふりました。ニッケル氏は、サンフランシスコの近くの、カリフォルニア州ワトソンビルにある自分の印刷会社で、夜遅くまで働いていました。週の半ばに、クリスマスの注文がどっと入り、仕事が遅れていたからでした。突然聖霊がはっきりとこう言うのを聞きました。「車に乗って、一度出席したことがあるあのグループの土曜日の朝の集会をめざして、ロサンゼルスヘ行きなさい。」
時計を見ると、真夜中でした――思い返してみると、祈るために私が居間へ入っていったその時間です。
ニッケル氏は、内側にしつこく迫る声と争いました。ワトソンビルは、ロサンゼルスの北約六百四十キロにあり、そうするには、一晩中車を走らせなければならなかったのです。しかし、言葉は語り続けていました。あの集会に出席しなさい、と。彼は自分が教えているモンテ・ビスタ・クリスチャン・スクールに伝言を残して、南へ出発しました。「そこで、私は、印刷所と奉仕を提供しようと思いまして、ここに来たのです。」とニッケルは結びました。
ローズもマイナーも私も、一心に聞いていました。「あなたの印刷所ですって?」トミーが聞きました。「雑誌を発行するためにです。ご存知の通り、聖霊が私に語り続けていたことは、『この親交会は世界中に届かなければならない。』ということでしたから……。けれどもその始まりのためには、この一声が必要であると……。」「声……実業家たちの声。」ローズがこだまのように繰り返しました。
その朝の集会は、たいして大きなものではありませんでしたが、今まで開いたうちで一番素晴らしいものでした。集会が終る前に、国際純福音事業家の声と呼ばれる、新しい雑誌の、編集者並びに出版社を、トーマス・R・ニッケルに任命しました。「ちょっと考えてもごらんよ。ゆうべこの時間に、親交会はおしまいのように見えたのに、今や、一千ドルもの基金と雑誌があるのだ。主が次に何をして下さるか、見るのが待ちきれんよ。」
第九章 テーブルにかけた足
解答が与えられるまでには、余り時間はかかりませんでした。新年が過ぎると間もなく南ダコタ州スー・フォールから電話がありました。今話し終ったばかりの講堂の後方からトミー・ヒックスが電話をしてきたのでした。「デモス、君は第二の支部を持つことになったよ。」と言ったのです。
その晩、トミーは親交会と親交会の持っている夢について語ったところ、話が終ってから、会衆の中から一人の人が立ち上がり、スー・フォールでそのようなグループを持てないものかと尋ねました。「『できるとも。』と言ってから、関心のある方はどなたでも、前においで下さい、と言ったら、なんと、デモス、部屋中の人が前に出て来たようだった。君は、南ダコタにグループNo2を持つことになったのだ。」
それはほんの始まりでした。その年、トミーはどこへ行っても親交会のことを話してきました。彼の通った道跡には、熱意ある人が残され、一九五三年の夏までには、九つの支部ができ、十月には全国大会を計画するまでになっていました。クリフトンズ・カフェテリヤでの第一回集会から、ちょうど二年目でした。
六百人の人々が、その秋の週末、ロサンゼルスのクラーク・ホテルにやって来ました。今日、大会の時には二万人集まることからすれば、最初の全国集会はほんとうに小さいものでした。けれども、その時の私たちにとっては莫大なものだったのです。会員の熱心さは大変なものでしたが、多くの問題もあったのです。
例えば、予算の問題です。専任の職員フロイド・ハイフィールドが国中の人々の問い合わせに返答し、互いの間の連絡を密にし、支部を組織する手助けをしました。そのうちにフロイドは秘書が必要になってきました。それから雑誌がありました。トム・ニッケルは時間と設備を献げていましたが、誰かが紙とインクの費用を払わなければなりませんでした。すでに、最初の月から五千部以上を印刷しなければならないことがわかっていました。一九五四年には一万ドル内外(約二百二十万円)が必要だと見積られました。
そこで、大会最終日の夜、説教者の一人、ジャック・コウが立って、今まで聞いたことのある中で最も簡単な、金銭のアピールをしました。ジャックは、まっすぐ核心に達するコツを心得た体の大きな人でした。
「我々は一万ドルが必要だ。百人の人が前に出て来て一人につき百ドル(約二万二千円)ずつ寄附すると約束してもらいたいと思います。」と言って腰掛けました。
人々はすぐに、説教者のテーブルに集まってきました。ジャックは、紙に名前と住所を書いてくれるよう、一人一人に頼みました。集会の終りに、名前を数えてみると、ちょうど百人の人々が約束してくれました。予算の額がぴったり集まりました。
その間、土曜日のクリフトンズでの集会は、別の問題が持ち上がっていました。一年目は頼んでも来てくれる人を集めることができなかったのに、今では、人々が集まり過ぎて困っていました。「屋上の間」の収容員数は四百人なのに、毎週五、六百人を詰め込んでいました。ともすると、七百人ほども集まって、壁際に立ったり、階段で身動きがとれなくなったりしました。六週間続けて、消防署が係官を送り、レストラン全部を閉じるよう厳しく警告しました。
そこで私たちは――今後の方針を決める必要が起きて、少々おののきながら、事態を検討するために理事会を招集しました。例えば、もっと大きな集会場、クラーク舞踊会場を借りることもできましたし、クリフトンズに来ていた人々が、自分の家の近くに新しい支部を始めるよう励ますこともできました。ロングビーチ、グレンデール、パサデナーそれぞれが自分たちの「クリフトンズ」、各自の地域に霊の命を送り込む力の中心地を持ってはならないはずがありません。
私は大きな中央集権的組織を望みません。それは、聖霊が与えておられると思われるメッセージでした。「もちろん、互いに鼓舞し励まし合い、多くの人々が見えるように明るく火をともすために、時々一緒に集まることは結構である。
だが、毎日、毎年の仕事としては、あなた方が、小さく、地方的で、わたしに対して敏感であってほしい。わたしは皆が一様一画であることを望まない。わたしは決して二人の人、あるいは二か所に全く同じようには訪れない。わたしが限りなく多様に働くことができる突破口を設けなさい。」
そこで、土曜日の朝のクリフトンズでの集会は四つのグループに、それから五つに、そして十のグループになりました。あるグループは週一回、あるいは一週おきに、他のグループは月一回集まるといった具合でした。続けて土曜日の朝集まっているグループもあれば、週日の夜を選ぶグループもありました。これらが順々に余り大きくなり過ぎて、一回の集会に、三、四百人以上になると、またそこから支部を形成し、今日までにロサンゼルス地域には四十二の支部ができました。それぞれ、みな独自の趣きがあり、誇示的なのがあるかと思えば控え目なのもあり、教えを強調するのもあれば、いやし、伝道、青年の活動を強調するものもありました。
しかし、最初の一年間、あの望みを絶たれそうになる苦闘なしで、今も続いている支部は一つもありません。ですからこの親交会が広まる所どこでも、最初の一年は一番てごわいように思われました。
ミネアポリスを例にとると、一九五五年レストランの所有者が親交会から私たち十三人を、ミネソタ支部開始の宴会に来るよう招きました。吹雪の中を国中から人々が集まってきました。私はデンバーの建築家、C・C・フォードと共に、四人乗りのセスナ機で現地に向かいました。私の母教会の人がだれも、小さな単発エンジンの飛行機が、空中を狂ったように飛ぶのを見なくてよかったと思います。
ミネアポリス空港で私たちを待っていたのは、クレイトン・サンモアでした。彼は嵐の中に光明をもたらしました。「私たちはここミネアポリスの雪には慣れています。今晩、二百五十人の主要な実業家たちが来るでしょう。」
サンモアが、自分のレストランに、大勢出席するのを、なぜそれほどまで確信していたかわかりました。フライドチキン、自家製のパン、できたてのアップルパイ等、ウェイターは、長いビュッフェ・テーブルの上に、食欲をそそられる食事をすでに並べていたのです。親交会からの十三人がみな、悪天候にもかかわらず、無事に到着しているのを見て、ほっとしました。サンモアが、到着し始めた、この地方からの人々に挨拶している間、私たちは旅行の様子を比べ合いました。
七時、宴会の始まる時間になりました。二十八人の人々が食堂に集まっていました。私たち十三人を除くと――ミネアポリスからはクレイトン、サンモアを含めて十五人の人々でした。
七時半、空腹の二十八人は、ごちそうの載ったビュッフェ・テーブルの方をじっと見つめていました。「この天候で、人々は家にじっとしているようですな。」とだれかがそれとなく言いました。
けれども、きちんと除雪された通りを、間断なく交通が流れているのを、窓から聞きとることができました。
八時に、大きな部屋に置かれた幾つものテーブルに比べ、ずっと少ない人数でしたが、私たち二十八人は座って食事を始めました。サンモアの顔は見ものでした。私には、彼がどう思っているのかよく分っていました。が私は他のことも知っておりました。というのは、これには一つのパターンがあったのです。神のパターンです。私はがっかりしていたレストランの所有者に、ロサンゼルスでの私たちの経験を語りました。彼が夕食をふるまうことができなかった以上に、私たちは朝食をふるまってあげたくても、受ける者がなかったことを。「しかし、神はご自分の働きを始めるにあたって、多人数を必要としてはおられません。神は各地にほんの数人を必要としておられます。二百三十六の空席を見てはなりませんよ。」と私は言いました。「やって来た十四人が大切なのです。この十四人で、神はこの町をひっくり返してしまうことができるのです。」
それは素晴らしい集会になりました。主な説教者はカンサス州、ハッチンソン市からの工場主で、親交会理事会の司会者、ヘンリー・クラウスでした。ヘンリーは立ち上がり、部屋が満員ででもあるかのような熱意を込めて、ほとんど空っぽに近い部屋に顔を向けたのです。説教はせず、私たちみなと同じように、簡単に自分のことを話しただけでした。ある日、小麦畑を耕す手を休めて、たった一人、トラクターの上で祈った時、どのように神が新しい種類の鋤を示して下さったかというものでした。
ヘンリー・クラウスは、特に機械に精通した人ではありませんでしたが、目の前に示された機械は、細部に致るまで完成されたものでした。家に戻って、この鋤を描きました。それを見れば見るほど、この鋤を、もし完成して取りつけたならば、同じ時間に同じトラクターで、三倍もの土地を耕すことができると感じました。
ヘンリーはもっと正確に絵を描き、それを持っていくつかの工場へ行ったのですが、どこでも技術の専門家の反応は同じで、それはだめだ、というのでした。
ヘンリーは専門家でも技術家でもありませんでしたが、自分の設計は神から来たと信じていましたし、神は専門家であり熟練した技術家でもあることを知っていました。
そこで自分の納屋でヘンリーは、廃品金属や中古部品から、一本一本打ち叩いて刀を作り、自分で鋤を組み立て始めました。自分で作った鍛治の仕事場で、何回もやり直しながら、彼は見たのと同じ鋤を完成するまでには、何か月もかかりました。完成すると、それをトラクターに取り付け、畑に乗り入れました。
その鋤はうまい具合に動いたのです。
クラウスの鋤は今、世界中で使われ、ヘンリー・クラウスは国中で一番大きな農耕具の工場主の一人であり、自分の時間半分と心全部を神への奉仕に献げた事業家です。
電気のような力が部屋に満ちました。ヘンリーが話し出すと、集会に臨む御霊を文字通り感じるのでした。ミネアポリスから来た三人の人々はテーブルの前に腰かけたままで、誰も手を置いたり、一言の祈りもしなかったのに、聖霊に満たされました。私たちがみなその人たちの回りに集まって喜んでいるところへ、勢いよくドアを開けて、ウェイターが台所から飛び込んできました。「サンモアさん! すぐにおいでいただけませんか。」
地下で、管理人の男の一人が何か発作を起こしたようでした。ウェイターには、心臓まひなのか、てんかんの発作なのかわかりませんでした。
私たち何人かが階段をかけ下りてみると、暖房炉の部屋の外に、男たちが一かたまりになって別な男を椅子にかけさせ、支えていました。私は、突然笑い出してしまいました。この男は病気などではなく、ただ、アルメニアの教会の昔ながらの人々が「罪を自覚させられている」と呼ぶものだったのです。「兄弟、神を賛美しましょう。神があなたを捜して、今晩見出して下さったことを感謝しましょう。」
男は目を開けました。びっくり仰天しているように見えました――無理もありません。何の警告もなく、あのセメントの廊下をすっと通っていく神の力を感じることは、大変なことだったに違いないのです。その男は、レストランの階上で祈祷会が行なわれていることすら知りませんでしたから。
さて、その人は私たちと一緒に階上に来たのですが、その人ほど完全に回心した人を今まで見たことがありません。まず、告白したいことが生活の中にたくさんあり、それからどれほど神を愛するか、十分に語りきれなかったのです。
そのエピソードは、この集会を失敗だったとする人間的な測り方に対する神の判決のようでした。神はこう語っておられるかのようでした。「人数を心配してはならない。わたしは自分の望む人々を、たとえどこにいても、見出してあなたの所へ連れて行く。あなたの分を忠実に果し、わたしにまかせておきなさい。」
あのミネアポリスで、人々はそうしたのです。ボイラー室の技術者を含む、あの初めての小さなグループは、六か月の間、何の成長も見ず、目に見える効果もなかったのに、絶えず、規則的に集まり続けました。それから、突然人々が来始め、二百人、五百人、一千人となり、またもロサンゼルスの時と同じことが繰り返されました。
ミネアポリス地域で、このように活気があったので、事実、あの吹雪の晩から一年半後年一回行なわれる全国大会がここミネアポリスで開かれました。一九五六年秋のその大会で、ペンテコステと主流宗派の教会との間にあった障壁が、初めて、本当に破られるのを見たのです。
もちろん、幾年間もあらゆる宗派出身の人々が聖霊の満たしを受けていました。その場合人々は、普通二つの選択を迫られました。元の教会に留まって、この新しい次元に関しては沈黙を守るか、去って、ペンテコステの群れに加わるかでした。しかし、ペンテコステの信者は、歴史的な教会で歓迎され、養い育てられたでしょうか。
大会の初日、リーミントン・ホテルの舞踊会場の後部座席に、いつでも飛び出せる用意をしているかのような五人のルーテル派牧師が座っているのを見ました。彼らが聞いたことは明らかにあまり警告を要するほどのことはなかったようでした。というのは次の晩もやって来て、すこし前の方に座っていたからです。三日目、水曜日の朝食会に、五人の人々はまたもそこに現われ、私たちに述べたように、「キリストがわれわれのために持っておられるものは何でも」受けようという熱意にあふれていました。
親交会から来た一群の私たちは、彼らのテーブルに行き、イエスが聖霊で五人を満たして下さるようにと祈りました。その後五人は、礼儀正しく感謝して去って行きました。すべてが大変静かで穏やかで、ルーテル派的で、後になるまで、祈りが聞かれたのかどうかわかりませんでした。
それは聞かれたのです。一人の牧師は家へ向かって車を運転している間に聖霊の満しを受け、別の人は翌朝、ひげをそっている時にという具合でした。三番目の人は、大会の説教者の一人が神からの賜物を受けるのは私たちが緊張していたり、激しく努力している時ではなく、最もくつろいでいる時である、と言っていたのを思い出して、「私が一番ゆっくりできるのはどこか?」と自問しました。それから間もなく、暖かいシャワーを浴びている時、天上の言葉で神をほめたたえ始めたのです。
これが米大陸中で、ルーテル派会衆にどっと押し寄せた変化の始まりでした。ルーテル派の、伝統的な力を拒むのではなく、むしろその反対でした。聖霊の力は、ルーテル派に牧師も一般信徒も同じように、その信仰箇条を日々生きたものとする力を与えることとなったのです。
以来、同じ力が、長老派、バプテスト派、メソジスト派、ローマ・カトリック、聖公会等、多数の教派に流れ込んでいくのを見ました。いつも初めは、一握りの、半分敵意を抱いていた人々が、好奇心から集会に来、それから御霊の風が教会全体に及ぶのでした。親交会南べンド支部長、レイ・ブラードの家で、たった七人のノートルダムの学生が異言を語り始めたのは、一九六七年三月のある月曜日の夜のことでした。ところが地下の一室で彼らが見出した喜びと力は、非常に大きかったので、多くの人をして、まるで、レイが、ノートルダムに端を発した今日の、世界的規模のカトリック・ペンテコステの霊的教父ででもあるかのように思わせるほどのものでした。
そこでも再び鍵は、小さな地方的な支部が、規則的に集まり、落胆することがあっても南ペンドのために祈り、聖グレゴリーがしたと同じように、神の完全な時を待望していたことでした。
もちろん、誰一人時刻表全体を見ることのできる者はなく、あちらこちらで断片を垣間見るに過ぎません。一九七四年十月、ローマ・カトリックの信徒、「何百万人」にも届いたという親交会の役割の故に、公式な感謝を受けるため、私がバチカンに招かれた時、一断片が私に与えられました。「何百万人?」色彩豊かなスイス衛兵の列を通り過ぎて出て行きながら、私はぼんやりと考えました。何百万人……。
人数のことに煩わされてはならない。それこそ、初めから私たちに与えられていた神の言葉です。御霊が支配している時は、人数は想像以上に多くなることでしょう。
そして御霊が支配していない時は……。
南部にある十二支部を二週間で訪問するために、C・C・フォードが私を乗せて自家用飛行機で飛んでくれたのは、一九五七年のことでした。私たちは特にテキサス州ヒューストンのグループに印象づけられました。六百人以上の人々が、土曜日の朝食に出かけて来ました。
会の後、私たち何人かが、てんでに座って話していると、「私にはわからない」と、一人の男が元気なさそうに言いました。「我々は単に数百人ばかりではなくて、数千人に届くべきだ。」「だが、数か月前に始まったばかりじゃないか。時間がかかるものだよ……。」「テキサスでは違う! テキサスでは物事を大きく、急いでするのだ。」彼は飛び上りました。やせて手足のひょろ長い不動産セールスマンである彼は、自分の経歴を、その言葉で完璧に証明しました。「会館を借りよう。拡声器つきの宣伝カーを雇おうじゃないか。ラジオ放送局全部に出かけよう。この町の目を覚させようじゃないか。」
支部長のアンディ・ソレルは、疑わし気に首を振りましたが、別の人がこれを無視して「市立公会堂を借りよう! 六千六百席。デモス・シャカリアンが町に来てると聞けば、場所はいっぱいになることだろう。」と言うのでした。
ぎょっとして私はその男を見ました。「私がだって? いったい誰が私の話を聞くものかね。私は説教者ではないし、それに、干し草の買い付けのために帰らなきゃならないし……。」
しかし、その男は理由など聞こうともしませんでした。C・Cと私は、次の週はルイジアナとミシシッピーの支部を訪れるはずでした。「帰りにまたヒューストンを通っていけばいい。テキサスで伝道するのは、一週間もあれば十分だから。」
その男の神への愛もまた大きく、テキサス・サイズだったので、私は自分を納得させたというより、もう少しで納得させられるところでした。次の十日間中、ヒューストン大会は間違いであるという考えをむりに押えつけました。過去六年間に、親交会で学んだことが一つあるとしたら、キリストの体と呼ばれる神秘的な現実の中で、各個人に特別な機能があるということでした。生れつき組織家もいれば、油注がれた説教者もあり、カウンセルできる者もいるのです。自分のものでない働きをしようとすると、それはその人にとって、二流の仕事をすることになるばかりでなく、その仕事の持ち主に流れ込む力を妨げてしまうのです。
私の仕事はというと――ハリウッドの丘でトランペットが鳴り響いて以来、確信していましたが、私は助ける者です。私の賜物は、他の人が輝くために場所と時と方法を備えることなのです。それは他の人のものより劣っていなければ優れてもいません。単純に私のものなのです。
けれども、この大会では私の名前が会場で光を浴びるのでしょうか。集会の焦点を私に合せているのでしょうか。それは間違いであって、話の準備をするのに苦しめば苦しむほど、その思いは大きくなっていたのです。「いったいどうしたというのだね。君にはたくさんの話があるではないか。」ノートを何頁も、くしゃくしゃにしては屑かごに投げ込んでいるとき、C・Cが言いました。
しかし、それは適切ではありません。私は決して演説しませんでした。私は立ち上がり他の人を紹介し、人々の可能性を示しました。私に召された仕事をしている限り、私には話すことがあったのです。今、多勢の人々が指導権を私に仰ぐことを考えると、私の心はうつろになってしまいました。
ヒューストンに戻る頃までには、私は今にもいわれのない恐怖に陥りそうな状態でした。アンディとマクシン・ソレルは、あらかじめ私たちを夕食に招いていたのですが、私は興奮していて食事がのどを通りませんでした。料理をしてくれたロッティ・ジェファーソンの気持を傷つける恐れがあったのですが、料理にはちょっと手をつけただけでした。
マクシンは来れなかったので、ロッティ・ジェファーソン、アンディ、それにC・Cと私は、六時四十五分頃、二台の車で、市立公会堂へ向かって出発しました。ずっと遠くから、会堂の灯が見えていて、裁きの火のように大きく見えてきました。制服を着た駐車場係が車のドアをさっと開けてくれました。
広々とした駐車場には、他にちょうど五台の自動車がありました。
腕時計を見ると、七時十五分でした。大会は七時半から始まる予定です。脇の入口から私たちは、無気味に明るく静まり返った講堂――はるか後方に用務員が一人いた――へ入りました。「お望みのように場所を用意しました!」不動産仲介者がいるのを見つけて、用務員が叫びました。私たちは中央の通路をゆっくり歩いていくと、ほら穴のような講堂の中に足音がこだましました。五台の自動車は、用務員と駐車場係のものに違いありません。
スポットライトのついた舞台の上に、椅子が一列並べてありましたが、誰もそこへ上って行く気になりませんでした。私たちは前に近い七つの座席に座り――一列の半分も占めませんでした――私がまた腕時計を見ますと七時二十五分でした。
さあ、私は気も狂いそうな有項天の喜びに満され始めました。もしかすると誰も来ないかも知れない! 全然、誰も! もしかすると、神が足を踏み入れて、私自身の不従順から護って下さったのかもしれません。「案内の用紙には、正しい日付けを入れたはずだが……。」と不動産屋の男が言いました。
七時半になるとその男も、全然誰も現われないようにと、祈りはじめました。人々に何と言ったらいいのでしょう。誰も来ない「マンモス大会」をどう説明したらいいのでしょう。
八時までには、神が不可能なことをなし遂げられたことがはっきりしました。土曜日の早朝には、六百人の人々が出かけて来る町に、神の祝福に欠けた集会を覆う見えない幕を神が引いて下さったのです。心がテキサスと同じように広い不動産屋の男は、まずそれを大声で言い表わし、神に感謝すべきでした。「だけど、今どうしましょうか。今晩は、この大きな場所を借りてあるのだから、私たちと七人だけでも、とにかく集会をしましょうか。」とアンディが尋ねました。「デモス、君は何か書いてきたのだろう。」とC・Cが言ったのですが、あのたくさん走り書きした紙を、ポケットから引っぱり出す気は毛頭ありませんでした。「まあ、それでは私が話しますわ!」それはロッティ・ジェファーソンでした。「私はいつも、こんな素晴らしい場所で話してみたいと思ってましたの!」
ロッティは席を立って、講堂の前方へ歩いてゆき、話し始めました。ロッティはとても小柄で体重が四十五キロにみたないほどでしたが、イエスについて話す時、声は六千六百席の会場に満ちわたりました。まるでその場所のどの席も一杯であるかのように、三十五分間、ロッティが説教しました。どの言葉にも、神の愛と真実がこもっていましたので、私は過去一週間の緊張一切からとかれたような気持がしました。
ただ解せなかったのは、最後に講壇への招きがあったことでした。聴衆の私たち六人はロッティが求めていたように、「心をイエスに献げること」をずっと以前にしていたからでした。
それにしても、素晴らしい話でした。私には決して忘れられないものの一つです。足音がしました。長い人気のない通路を、用務員が顔に涙を流しながら、舞台の前にひざまずくために歩いてきて、イエスに心を献げました。ロッティ・ジェファーソンは、毎日何百人もの人々を神の国へ受け入れている伝道者のように、その人の頭に手を置いて一緒に祈り出しました。
誰に分かるでしょう。もしかしたら結局何の間違いでもなくて、その晩の市立公会堂は私たちのために神が備えて下さった場所であり、神が捜しておられたのはこの人だったのかも知れません。ただはっきりしていることは、人々をイエスに引き寄せることができるのは御霊だけであるということを、もう一度思い出させてくれたことです。私と同じように、他の人々もそれを繰り返し思い起こす必要があるのではないでしょうか。
そして、この仕事のために神が用いることができるのは、御霊の賜物だけです。神は伝道する賜物を、私に与えては下さいませんでした。もちろん、私は証し人であるべきです。クリスチャンはみなそうです。ただ、私がイエスについて話すべき場所は、舞台よりも家畜小舎の方が適していたのです。結局それが神の私に与えて下さった本来の夢でした。ワシントンD・Cのリンウッド・サフォードのような自動車のセールスマンは、他の販売業者に神のことを語り、ジョージア州アトランタのカーミット・ブラッドフォードのような弁護士は、他の弁護士に話します。
酪農家は、他の牧畜業者に語るというふうに共通の用語で、共通の関心事から始めるととても自然に話ができました。
例えば、どんな酪農家も、家畜の繁殖に関心があります。私たちにとっては、それは世界中で一番魅力的な話題です。いつも決まって、よい質を次の代に渡すことのできる、なかなか見つからない完全な牛を捜すことです。毎月、血統一覧表を見ながら、ホルスタイン・フリジアン協会の刊行物を熟読しました。私はその都度、ウィスコンシンのパプスト農場で改良してきたバークの血統に新しく深い感銘を受けました。
この血統をうちの牛の群れにもたらすために仔牛を捜しに、はじめてあのよごれ一つない仔牛小舎を歩き回ったことを覚えています。感心して私が最初に足を止めた牛は、二万五千ドル(五百五十万円)で、私の払える金額の何倍という値段でした。これら生後二、三か月の仔牛の中には、五万ドル(千百万円)で売られているのもあれば、同じぐらいでも千ドルで取り引きされている仔牛もありました。
そして、突然、私は見つけました。家畜小舎の南側の壁に沿った囲いの中に。それは、ちょうど一条の光がその一頭を照らし出したかのように、他のものからひときわ目立つ、たくましく小さなやつでした。それは、親交会の集会で、四百人の人々が一杯の部屋でも次に呼ぶべき人が突然私に見えるという、いつも私を驚かし続けていた現象と同じものでした。今、この二百ポンド(約百キロ)の仔牛が同じようにとりわけ傑出して見えたのです。
私はその牛がいる囲いへ行きました。名前は、パプスト・リーダーで値段は五千ドル (百十万円)でした。私は、その牛の特徴を読み好感を持ちました。母牛はE(秀れた乳を出すもの)と格付され、父牛はEの雌牛五十頭以上もの親となっていました。けれどもこれらは、その牛が生れるまでに起こったことでしかありません。「パプスト・リーダーを買います。」農場の支配人が私に近づいてきたとき、私は言いました。
シルヴェスター氏は不思議そうに私を見ました。畜産家は、決してすぐには腹を決めることをしません――助言者たちと広範にわたる相談をしたあとにのみ決めます。「確かですか、次の小舎にいる牛を何頭かお見せしようと思っていましたが。パプスト・リーダーにあなたがこんなに興味をお持ちになるとは……。」「大丈夫。確実です。シルヴェスターさん。」
さて、牛は、木枠に入れられ、三百五十ドルの付加金で送り出され、私はリーダーの取り引きに当って、五千三百五十ドル(約百十七万七千円)を支払いました。一般的に、一匹の雄牛から生まれる最初の十頭の雌牛で、その雄牛のできばえをほぼ正確に想像できます。リーダーの最初の十頭はどれも、外見、病気に対する抵抗力、この血統である良質の乳を出すことなど、父牛の優れた資質を受け継ぎました。一番やせっぽちで小さな牛でさえ、生まれる仔牛はどれも何一つ欠点のないものばかりでした。十五年余りの間に繁殖させて生ませた五千頭以上もの雌牛は、どれもみな紛れもなく父牛の資質を受け継ぎました。パプスト・リーダーは、ただ一度の例外もなしに、自分の似姿を伝える能力を持った、百万に一頭の牛だったのです。
その間に、シルヴェスター氏は、同じ時期に五万ドルで売られた牛があてになる父牛ではなかったことがわかった、と悲しそうに知らせてくれました。「あの仔牛は五千ドルの価値もなかった。あなたが選んだちびは、五万ドルの倍の価値がありました。」
それは単に一回きりの経験ではありませんでした。パプスト農場から購入した牛はどれも最高の投資となりました。その秘訣ですって? 私のせいではなかったのです。
私はシルヴェスター氏がとてもまじめな深刻な面持で、農場食堂のテーブルの向こうに体を持たせかけていた日のことを覚えています。「さあ、シャカリアンさん、あなたはああいう選択を、その場でしたように振まっておられたが、そうじゃありますまい。助言者がいるんでしょう。だれかがあなたより一足先に来て、推薦するんでしょう。」「まあね実のところ、そうなのですよ。シルヴェスターさん。」
彼はテーブルの回りを、勝ち誇ったようにざっと見回しました。「だろうと思った。誰なのですか。さあ、早く。見ていた人がわかったからって、値段を上げたりなんぞしませんから。」「あなたは、私の助言者がだれだか、本当に知らないと言われるのですか。」「ええ、本当にです。ここにはいつも、買い手や売り手が十人以上いますからな。あなたがおかかえの人は、あきらかにプロですな。」「この部屋の人全部を一緒にしたよりも、もっと動物のことに明るいのです。」「古株の方ですな。」「どんな人よりも、長く事業に携わっているのです。」「ホルスタインが専門かね。」「ええ、まったくその通り。」 もちろん私はできるだけ話を長びかせたのですが、私の世話人の名前を告げた時に、それ以上かたずをのんだ聴衆は今までないほどでした。「主イエスはこれらの動物を創造なさった方です。あなたやわたしは血統を見るだけです。イエスさまは動物の中にあるものをご覧になるのです――人の内側もです。」と私は言いました。
それは人々の心と思いに入る完璧なスタートでした。その人が知っている世界に生きている神を示すチャンス――それこそ親交会についてのすべてなのです。「人が知っている世界」――ペンシルバニア州ランカスターの支部が、あの保守的な農耕社会に受け入れられるのに困難を極めていた頃のことを思い出します。一番の反対は、親交会が「外部」からのものということのようでした。
そこで、ローズと私がランカスターにいたある時、支部は四、五十人の田舎農場主を晩さんに招待しました。私は仲間の農夫として立ち上がり、人々を意見の交換へ引き込もうとしたのです。
石のような沈黙。
どんなふうかおわかりでしょう。努力すればするほど事態は悪化するのです。確信が薄れるにつれて、私のゼスチャーは一層大きくなりました。両腕を広げ、それを自分の方へ引き寄せました。「親交会は私たち全員の参加にかかっているのです!」しかし、私の腕にかきこんだのは、テーブルの中央にあったミルク入れだけでした。
ミルク入れは倒れて、ミルクが私のベストスーツの前を流れ下り、靴の中まで入ってしまいました。自分のしていたことがわかり、恥しさとくやしさのあまり、私は片足をテーブルにかけて、白いテーブルクロスで靴をぬぐい始めました。
ローズが一瞬息をのみ、「デモス、一体何をしてらっしゃるの!」と尋ね、テーブルを見おろしているのを私は見ました。私はあわてて足を下へおろし、顔が真赤になるのを感じながら、私の体も全部テーブルの下に消えてしまえたらと願ったのでした。「みなさん私はつい、自分が家畜小屋にいたつもりだったのでしょう。」と謝まりました。「みなさん方の中には乳しぼりをしていて、突然牛にミルクの入ったバケツを蹴とばされた、なんてことに出くわした方もおいででしょう。」
部屋の後の方のどこかで、くすくす笑う声が聞えたかと思ったら、突然爆笑に変りました。部屋は、数分間爆笑に揺れました――集会は変ってしまいました。しらがまじりの老農夫が立ち上がり、神が冬の大ふぶきや夏の日照りに、どのように助けて下さったかを語り、その晩の終りの頃までには、ランカスター支部には、新しいメンバーが大勢加わりました。「我々の気持を変えたのは何だかわかりますか。」あとで、人々が私に尋ねました。「あなたが足をテーブルにかけた時ですよ。その時、あなたは確かに我々と同じような農夫だということが、わかったのです。
第十章 世界が変わり始めた
一九五六年、カナダで最初の支部がトロントに設立され、その時から、タイトルの国際という語がもっと意味を持つようになりました。それでも、カナダとアメリカは、世界全体のほんの小さな断片です。一九五二年のあの夜、私の前に回っていた地球のことを考え続けていました。あらゆる大陸の何百万という人々が、愛によって生かされ、上を仰いで主のご再臨を待っていました。
一九五〇年代はほとんど終りかけているのに、私はそれが起こるのを見ることができませんでした。それから機会が到来しました――私はもう少しで逃してしまうところでした。
一九五九年、招待が来たのです。CARE(米国援助物資発送協会)を通じて、親交会はハイティ共和国のききん被災者に救揚物資を送ったことがありました。今や、大統領フランソワ・デュヴァリエから、その国で三週間の集会をするようにとの招聘を受けたのです。「私の知っているどの面から見ても、デュヴァリエは、世界中で一番専制的な独裁者の一人なのだ。」とその土曜日、クリフトン・カフェテリアで私は人々に語りました。拷問、秘密警察――そこに居合わせた人はどの人も、「パパ・ドック」のいろいろな話を聞いたことがありました。その政府の招聘に応じることは、そのようなこと全部に同調したことにならないでしょうか。
これに対してローズが問いかけました。「デモス、あなたの幻の中では、その国の政府のゆえに取り残されたという場所が世界にありましたの?」
私は思い出そうとしました。
否――すべての大陸、あらゆる島は、はじめは命がなく希望もなかったのに、次には生かされて嬉々とした人々が、肩と肩をつき合せていっぱいに満ちていました。「政治的な分製は入り込んでいなかった。」「そうでしたら、今になってそれを入り込ませてはいけませんわ。政治的な状態が悪ければ悪いほど、人々は御霊に頼らなければなりません。」 もちろん、ローズは正しかった。そこで、一九六〇年二月、親交会から二十五人の人々がハイティに向かう飛行機に搭乗することになりました。この最初の空輸が、続く十五年間のパターンになろうとは、誰も知るよしもありませんでした。ただ、それぞれがどうにかして、航空運賃を工面して、冬期休暇をとるための調整をしたのです――「私の妻はこの冬の旅行を期待していたのです!」――そして地元の支部の祈りに支えられて来たのです。飛行機はかろうじて滑走し、ポート・オブ・プリンス空港に停止し、前方の扉が開くと、メダルをつけ、リボンをつけた軍の将校の一団が入って来ました。「シャカリアン博士はここにおられますか。」中で明らかに通訳と見られる一人が言いました。 「シャカリアンは私だが、単なる酪農家でして……。」 「ようこそハイティヘ、シャカリアン博士。あなたのバッグはホテルに届けておきます。どうぞ、私共と一緒においで下さい。」
他の乗客があっ気にとられている前で、私たちは飛行機を出、気をつけの体勢のまま動かない兵隊の二重の列を通って行きました。黒いリムジンの長い列が私たちを待ち構えていました。税関を通るために機上でいろいろな書類に書き込んだのですが、税関の近くへも行きませんでした。オートバイに護衛されて、音を立てて町を通り、リヴィエラホテルに到着しました。そこでは、上院指導者、アーサー・ボンオーム議員の出迎えを受けました。「今晩の集会の万端は整っております。」と素晴らしい英語で話しました。
私が酪農家だということが分かると、彼は地方の牛の市場を、見に連れて行ってくれました。途中通りすぎる人々――牛や山羊を引き連れた人々や、パイナップルやメロン、それにチキンさえも入れた深いバスケットを楽々と頭に乗せて釣合をとっている婦人たちに私は心を奪われました。しかし驚いたことに、市場に着いてみると、牛は屠殺されている最中で、はえが群がる広場の真只中で売られていたのです。「日照りのためなのです。私が覚えているうちでも一番ひどいものです。食べさせる草がないので屠殺しなければならないのです。」とボンオーム氏議員が説明してくれました。「ポート・オブ・プリンスのシルヴィオ・カト競技場には二万三千人を収容でき、その晩七時半に私たちの一行二十五人が到着したときには、ほとんどいっぱいでした。私たちのために幅六メートル、長さ十八メートルの大きな木造の舞台が競技場の中央にしつらえてありました。舞台の上に大勢の制服を着た軍人が私たちとともに、いなくても満足だったのですが、ボンホメ議員は、陸軍の将官たちが出席することにより、人々の目に権威ある集会となるのだと誇らしげに説明したのです。
いくつかの聖歌で開会しようとしたのですが、すぐに共通のものが何もないことに気づきました。そこで、すべての親交会の集会で共通な項目である個人の経験を話すことに戻りました。この時もまた、事業家からの接近はその真価を発揮したのです。神学、政治、民族の違いなど取り上げられることなく、我々のグループのメンバーは万人の共通の体験――友人間の誤解、家族の病気、生計を立てるための苦闘――について、通訳を介して話しました。
次の晩には競技場の座席は全部占められ、何千人もの人々が競技場内の芝生に座っていました。三日目の晩、ボンオーム議員は、群衆の数を三万五千人と見積りました。
しかし、全員が祈りに来たわけではありません。
アール・プリケットが話している最中に、問題が生じました。アールはニュージャージー州で工業用水槽営繕と公害制御を経営しているのですが、その晩話したことは、個人的な飲酒との戦いでした。この聴衆に適切な話だったはずでした。ボンオーム議員が、この島の大きな問題は飲酒であると話してくれたのです。
アールはどのように客と酒を飲むようになったかを述べました。「もし飲まなかったならば、事業は成り立たなくなるから。」と説明しました。しかし、アールは、一度飲み始めたら、やめられない部類の男だったのです。妻は去り、医者はアールが自分の命を危険にさらしていると告げたのですが、この飲酒の習慣を負かす力がありませんでした。競技場内が騒然としてきて、アールの話が聞きにくくなるまでになりました。私の肺と腎臓のどちらもひどく悪化したので、医者は私が六か月しか生きられないと宣言したのです。その頃、ある友人が、フィラデルフィアのブロードウッドホテルで行なわれている親交会の朝食会に、自分を招いていたことを、アールは思い出したのです。「その前の水曜日の晩バーテンが私を店から出して、二度とそこに顔を見せるなといった、まさにそのホテルだったのです。」
私は、物音がだんだん騒々しくなってきたため、必死で聞き耳を立てて、体を前にのり出しました。その朝食会には私も出ており、一点のしみもない白いスーツを着て、神にあわれみを乞うて床に身をなげ伏せていたアールをよく覚えていました。
通訳者の一人が私に向かって「シャカリアン博士、あの男たちをご存知ですか。」
指さす方を眺めると、赤い服を着て、赤い頭布をかぶった男たちの縦隊を、はじめて見たのです。恐らく三百人ほどもいたでしょうか。競技場を取り巻く、石炭殻を敷いた競争路の回りをゆっくり行進しており、普通の服を着た人々も大勢後に続いて来ました。「ブーズー教の坊主たちです。集会をぶちこわそうとしているのです。」と通訳者が言いました。
今や、私には、妙なスタッカートの単調な吟唱の声が群衆のざわめきよりも高まってきたのが分かりました。数百人が無気味な行進に加わろうと、特別観覧席からなだれ込んでいました。
私の右にいた陸軍将校が大声で命令を発すると、背後にいた兵隊が立ち上がり、舞台を去っていきました。「何と言ったのですか。」と通訳に聞くと、「兵たちに待機するように命じたのです。彼らはこれを処理できるでしょう。」「いや、いや、それはだめです!兵隊を招集しないで下さい! お願いです!」
通訳を介して陸軍将校は説明しました。「あれを止めさせないと、何が起こるか言いましょう。大群衆になるまで回り続け、それから叫び声を上げ始めるのです。あなたは今晩集会などできなくなってしまいます。」
私は支援を求めて、ボンオーム議員を見ましたが、彼は肩をすくめて「他に何ができるというのですか。」と言うのでした。ボンオームが競技場の人々のことばかりではなく、島中の村や山間部の、ラジオで聞いている数万――数十万――の人々のことも考えているのだということが、私には分かりました。その日の午後、山間の村落に車で出かけた時に民衆にとって長く暗い夜の唯一の楽しみである、ラジオの拡声機が、樹木や家の前にかけてあるのをいくつか見かけたのです。
アールは、あの土曜日の朝自分に始まった奇跡的な変化――妻との和解、医学的には「不可能な」体のいやし――を言葉で描写しようとしていましたが、無益でした。アールは話すのを止め、指示を求めて私の方を見ました。頭布を被った坊主たちに続く蛇のようにくねった行列は、その時には千人かそれ以上にもふくれ上がり、瞬間毎に数を増していました。それで、もし集会を守るために、ハイチ独自の腕力を用いる手段をとれば、私たちが来た目的を台無しにしてしまったことでしょう。私たちがここにいるのは、銃の力ではなく、主のみ力を現わすためなのです。「将官、どうかお待ち下さい。もっとよい方法があるのです。」
しかし、親交会からの私たち二十五人が、舞台の後方に大急ぎで集まった時、私たちが何をしようとしているかを人々がわかってくれたらと願いました。何千という人々が、私たちのすることを見守っている前で、円陣をつくり、肩を組んで祈り始めたのです。
しばらくして私は目をあけ、ちらっと競技場を盗み見しました。情況は悪化していました。今や行進する者は二千人くらいに達したに違いありません。彼等はさらに手を打ち始めていました。座席にいるまばらになった群衆も、醜いさまで、リズムに合わせて前後に体を揺すりながら、手を叩き始めました。「止めさせなければならん。」陸軍将校が言いました。「いや、いやまだです。」と私が言いました。
私はもう一度頭をたれ、「主よ、これはあなたの時間です! 主よ、あなたの集会を救って下さい!」
私たちの背後の観客席のどこかから、悲鳴が聞えました。だれかがナイフでもさされたのかと思い、私はふり返りました。兵隊たちは場内を横ぎって、声のした方へ走って行きました。それから、私たちはみな一組の男女が、男は腕に子供を抱きかかえ、芝生を横ぎって舞台の方に急いで来るのを見ました。
場内の反対側では、行進がリズミカルな踊りに変っていきました。この一組の男女は舞台に着きました。すると突然、ボンオーム議員がこの男女に大股で近づき、彼らの上に身をかがめました。
次の瞬間、深くくぽんだ茶色い目をぼんやりと見開いた、年の頃八、九歳の少年を腕に抱いて戻って来たのです。「この子は、私の知っている子だ!
私の地方出身で、この子の家族をずっと知っているのだ。」
議員は興奮のあまり、まだ文字通り震えながら、私たちを一人ずつ見ていました。「見えるんだ! あなたが話をしている間だった! この子の目が開いた! この子は見えるのだ!」とアールに言いました。
私にはまだわかりませんでした。「この子が目くらだった……とおっしゃるのですか。」と聞くと、議員は、まるでおこったように私の方に向き直って、「生まれつきの目くらなんだ!」と言ったのです。「生まれてからずっと――この瞬間まで――目が見えなかったのだ。」
腕に子供を抱きかかえたまま、マイクの所へかけ寄るように近づきました。はじめのうちは唱え声や手拍子が騒々しくて、声が届かなかったのですが、子供を抱いてマイクの所に立っている議員の、背の高い見慣れた姿を見て、だんだんに静まる人々もでてきました。通訳者は明らかに、この出来事でびっくり仰天してしまい、議員が群集に語っていることを一言も通訳できないようでした。しかし間もなく私たちはみな、競技場の雰囲気が変化したことに気がつきました。行進は続いていましたが、騒々しさは確かに下火になっていきました。手拍子はずっとまばらになり、すべての人の目が今や、議員にしっかりと注がれていました。
電気に打たれたような反応が、観客席にぱっと広がりました。人々は泣き始め、あちらこちらに両手を天にかざす人々がみられました。赤い服を着た坊主たちでさえも、唱えるような単調な歌を止めて、茫然自失してあちこちに立っていました。
みなの感謝の只中にいる少年は、議員にしっかり抱かれてすこし体をもぞもぞさせながら、ゆっくりと自分の回りを見渡しました。その少年が世界でまず最初に何を目にしたのか、私には分かりませんでしたが、明らかに見ていたのです。少年の目はまずある物にすえられ、それから他のものへ移り、ことに陸軍将校たちの制服についた鮮かなリボンに戻るのでした。時々、頭上の場内照明を見上げ、どうにもまぶしくて、目に涙がたまってしまうまでじっとそれに見入っているのでした。
少年の両親が舞台脇の階段を上り、議員の傍に立ちました。議員は向きを変え、両親の間に少年をおろしました。
私は、礼拝している人々のその群れをじっと見続けていました。肩と肩をつき合せ、礼拝のため頭を上に上げていました――以前どこかで見たことのある光景、もちろん私は思い出しました。
議員がマイクの前を立ち去ると、通訳者に代ってもらい、簡単な招きをしました。このいつくしみのイエスを知りたい人々はみな、競技場に下りて来るようにと招きました。
席を出て、何百人も何百人もどんどん出て来始めました。ブーズー教の行進に加わっていた多くの人々も、競技場の中央に急いで来ました。すぐに群衆が、舞台の足もとから至る方向に広がりました。二十五分間で五千人の人々がそこにつめかけました。
翌日、競技場は、午後も半ば頃までに一杯になり、招きが与えられると、再び何千人もがフィールドに群がり集まりました。いやされたものも多くある人は壇上の私たちの目の前で、他の人々は、広い競技場のどこか他の所でいやされました。盲目の少年がいやされてから三日目の晩、イエスを知りたくて招きに応えた人々を、およそ一万人と見積りました。
舞台にずっと近づくことのできた多くの人々は、殊に、魔術や悪霊礼拝の罪を、泣き泣き告白しました。あらゆる種類のものが舞台の前方に差し出され、そこに置き去りにされました。髪の毛の玉、彫刻のしてある木片、骨や羽を入れた小さな袋などでした。醜い山積のものの中でも、最も喜ばしい光景は、たくさんの赤い頭布のついた服でした。
最後から二番目の集会が終りました。私はホテルの部屋の窓辺に立って、月に照らされた湾を眺めていました。疲れ果ててはいたけれど気分が愉快で眠れませんでした。陽気な気持でした……が心配でした。この集会で本当に何か起こったのでしょうか。ある種の集団ヒステリーでしょぅか。一瞬前はブーズー教の吟唱に、次の瞬間には、クリスチャンの伝道に応ずることができるという群集心理だとしたら、同じように、こともなげにまた他の道に向きを変えてしまうのでしょうか? 三週間にわたる集会の後、これら何千人もの人々は、キリストの現実について何を知り得たのでしょう。今、人々はどうなるのでしょう。
理論的には、私たちはこれらの人々を、神の全能の御手に委ねるのだということは分かっていました。しかし実際は、これで十分だと信ずるほど、私の信仰は強くなかったのです。「主よ、それが現実なものであることを、示して下さい。何かが実際に起こったのだということを、私に見せて下さい。」
翌朝、テラスの真向かいの人に気づきました。私たちは、リヴィエラホテルの屋外の広いベランダで朝食をとっていました。親交会からの私たち一行、ボンオーム議員、他の政府高官それに数多くの軍人、毎日朝食祈祷会に集まっていた同じ顔ぶれでした。私はボンオーム議員、他の六人の人々と、テーブルの前に座していたのですが、給仕がほほえみながら近づいてきました。「ボンジュール(おはようございます)、だんな方!」コーヒーをカップに注ぎながら給仕が言いました。
その男が話すのを聞いたのははじめてでした。今までは毎朝むっつりした顔で、一言もしゃべらずに給仕をしていました。ボンオーム議員の傍に来たとき、空いた方の手を幾度も胸に押し当てながら、再び話し始めました。ボンオーム氏は残りの私たちの方を向いて「あの男は今朝目を覚ました時、今までずっと重くのしかかっていた重荷が、まるでなくなってしまったかのようだと言っているのです。」と伝えてくれました。
前の晩、この給仕は集会に来て、前には出なかったのですが、私たちが人々のために祈っている間に心の中で「イエスよ、もしあなたが、この人々の言うようなお方なら、あなたにお従いしたいと思います。」と言ったと議員が通訳してくれました。
皆の目が彼に注がれていると知って、彼はコーヒーポットをおろしました。議員は、通訳を続けました。「今までの生涯、ずっと、この重荷がありました。考え、恐ろしい悪に染まった考えでした。自分が恐ろしく、そんな考えのために、眠ることがこわかったのです。」
その時、給仕はすすり泣いていました。議員は彼の言葉を通訳しました。「今朝私が目を覚ますと、重荷がないんです。私は光でできているように、ベッドの真上に浮べそうでした。内側には何の重荷もなかったのです。」
誰か他の人が泣いていました。振り返ってみると、二番目の給仕も頬を涙でぬらしていました。議員が通訳しました。「ぼくもその光を知っている! ぼくもそういう悪い考えがあったが四日前の晩、新しい命を願う者を舞台に招いた時出て行きました。それ以来、そういう考えが戻って来はしないかと待っていたが戻って来なかったのです。私の心は獣ではなく人間の心なのです。」「主イエスさま、私をお赦し下さい! あなたの十分な力を疑っていた私をお赦し下さい!」とささやきながら、今度は私が目頭を押える番でした。
同じ朝、あとで、デュヴァリエー博士は私たちのうち三人を、大統領官邸に招待するという言葉がありました。ピカピカ光るリムジンが、私たちを迎えに釆ました。「大統領との謁見は通常五分間でございます。」門で出迎えた係官が言いました。「大統領がいつお会いになるか分かりませんが、お待ちいただく部屋がございます。」
大きな控え室では、五十人くらいの人々がそこここに座っており、多くは足もとにアタッシュケースをおいていました。私たちは長期戦の構えで座ったのですが、驚いたことに大統領のオフィスに通ずる扉がすぐに開かれ、私たちは招き入れられたのです。独裁者とはどんな格好をしているのか、予想もしませんでした。まさか、ばかでかい丸型のメガネをかけた、この頑強な小男ではないと思いました。しかしその人は机の向こうで立ち上がり、私たちに挨拶をしたのです。流暢な英語で、気持よく滞在しているかどうか尋ねました。私たちは集会のこと、大変な人出だったこと、この国のブーズー教の支配力について話しました。
五分間が十分間になり、更に二十分になりました。デュヴァリエー博士は、合衆国における牛の飼育と搾乳工程について、数々の質問をしました。三十分経過すると、博士は腕時計を見て「この話を続けたいが、待っている人が大勢いるので……。」と言いました。「お暇いたします前に、ここで閣下のお国とその人々のために、祈ってもよろしゅうございましょうか。」と口走りました。
デュヴァリエー博士と閣僚たちを含め、私たちは皆頭をたれました。親交会からの私たち三人は、集会に個人としてあるいはラジオで出席した何千という人々に、またそこで始まった新しい命に神の祝福を願い、声を出して祈りました。それからだれかが、デュヴァリエー博士に、私たちに祈って欲しい特別な要望があるかどうかを尋ねました。
即座に「雨、雨を与えて下さるよう神に願ってくれるよう。」との答がありました。
多少戸惑いの面持で、互いに顔を見合わせましたが、再び頭をたれました。「主なる神様、あなたは、渇いた心に御霊を注いで下さったお方、渇いた地にも同じく雨をお与え下さるよう、切にお願いいたします。」
その晩、最後の集会は、全期間中最も参加者が少ないものでした。
理由はいとも簡単です。
どしゃ降りの中を出ていきたいと思うものはだれもいなかったのです。
第十一章 黄金の鎖
一九七五年五月二十四日のことでした。ローズと私はもう一度、ロサンゼルス国際空港で、飛行機に搭乗していました。
今回は見送る群集はいなくて、車で送ってくれたスティーブと妻のデボラだけでした。アルメニア人教会の心配顔の長老たちもいなければ、不安そうな面持の人々もいませんでした。いないはずです! 初めて飛行機で旅行してから二十四年間に、ローズと私は三百三十万キロ以上も、何事もなく飛行していたからです。
スティーブと私は、私たちが留守の間に、オレゴン州、ポートランド市にある親交会のために、スティーブが撮影するテレビ番組について、少し言葉を交わしました。ローズはデビィに別れの抱擁をしました。それから、ローズと私は、搭乗口を通って機内に歩いていきました。その夜、私たちはオークランドヘの途上、ホノルルに向かって飛んでいました。そこには第十六番目のニュージーランド支部が後援する「イエス一九七五年」という一週間にわたる行事があるのです。最新の情報によると、親交会がアレクサンドラ公園と呼ばれる競馬場を七晩借りなければならないほど、大勢の人々が来るということでした。 飛行機が離陸した後、食事が出され、その後ローズは頭を窓辺にもたせ掛けて、いつものように機上の昼寝を始めました。私にとっては、「親交会とは何か」という、何千人もの人々から最初に飛び出す質問の答を準備するよい機会でした。
そのような質問に、どう答えるべきでしょうか。統計的な見地から語るとすれば、まあ確かに興味深いことでしょう。私は手帳と鉛筆を取り出しちょっと書き留めました。
●存続年限・二十四年
●支部のある州の数 五十州
●支部のある国の数 五十二か国
●支部の総数 一千六百五十支部
●全支部の月平均出席者数 五十万人以上
●成長率 毎日、一つ新しい支部
かつて、とても不可能のように見えた、オーラル・ロバーツの一千支部の夢を思い出して、私は一人ほほえみました。その数はすぐに二倍になるでしょう。私は書き続けました。
●雑誌「声」の月間発行部数 八十万冊
●親交会の番組「よきおとずれ」を放映するTV局 一五〇局
●週間視聴者数 四百万人
●飛行機旅行 一九六五年以来、年間三回
鉛筆を座席の前の小テーブルに置きました。人数を数え、出来事を書き出すこと、これで本当に親交会を説明していることになるのでしょうか。そうではありません。
さてそれでは、いろいろ果した務めについてはどうでしょうか。
その一つとして、いやし。親交会では、いやしを余り強調してきませんでした。というのは、すべての関心をすぐさま引き寄せてしまうからでした。けれどもいやしは、いつも同じように起こるのです。特別集会を開くために、聖霊のいやしの賜物を持つ人を招くこともありますが、より多くの場合、普通の仕事をする普通の人が、特定の瞬間神に用いられるのでした。
例えば、私の賜物は助ける者であって、いやしではありません。それにもかかわらず……。
一九六一年五月親交会は、その年エルサレムに集まった「世界ペンテコステ大会」に、大勢の代表団を派遣しました。今までの生涯に聖書でなじみのある地を巡り歩くのは、何という感激だったことでしょう。オリーブ山、美しの門、シロアムの池――講堂に行く時間になったときはとても残念でした。その大会はとても人気があったので、代表者たちは、会場へ入るために、バッジをつけなければならないほどでした。私たちが講堂に近づいたとき、三千人以上の参加者が、同時に無理矢理講堂に入ろうと入口ホールに詰めかけているように、ローズと私には思えました。
ペンシルバニア州、パーカスバーグ市の親交会の代表で、友人のジム・ブラウンを見つけ、私たちは一緒に後の方に立って、群衆がまばらになるのを待ちました。「デモス・シャカーリーアン?」ロシア語かポーランド語の訛りのある婦人の声がしました。いったい誰が呼んでいるのかと思い、辺りを見回しました。「あそこですよ。」
ジムが指さしました。一人の男と女が、群集をかき分けて、私たちの方へやって来るところでした。女の方は、背がひくくて小太りの、たぶん五十代も後半らしく、男の方は、今まで見たこともないはどひどい片輪の人でした。男は体が数字の7のように曲っていて胴体は床に平行になるような格好で、両手でしっかり杖にしがみつきながら歩いていました。「私を捜しているのはあなた方ですか。」と婦人に尋ねました。私は男の顔を見ることさえもできませんでした。「そうです。シャカーリーアンさん。この人は助けが必要なのです。」その人が街の郊外の差し掛け小屋に住んでいるのを見つけたのだと、婦人は説明しました。男の人は、イエスがこの講堂で人々をいやしていると聞いて、自分も連れて行って来れるように、その婦人に頼んだのでした。座席が一杯だということが分かった時だれかが私の所へ行って話してみるようにと言ったというのです。
私の心は、ぼろを身にまとった小さな男に引かれました。この婦人によると、二人共ユダヤ人だということでした。今までは、神ご自身の契約の民に対して、特別な愛を持っておられることを知るには、私は親交会のユダヤ人――ベバリー・ヒルズ支部会長、デイビッド・ロスチャイルドのような人々のことを考えさえすればよかったのです。が、ここで一体私に何ができるでしょうか。私は、この大会での特別な手づるなどありませんでした。
ふと、ある考えを思いつきました。この男に、この午後の集会のための私自身の信任状を与えるとしたら……。ジム・ブラウンは今日の説教者の一人でしたが、私は……。「さあ、これをつければ、中に入れますよ。」バッジをはずしながら私は言いました。
私は、小さな男のコートの襟に届くように、入口ホールにひざまずき、体を後にそり返しました。やっとバッジをつけ終り、立ち上がろうとすると、まぎれもない声を聞きました。
いいえ、デモス、この男から離れてはならない。あなたがこの人のいやしのために祈るべきです。この場で。
私は面くらってしまいました。ここですって? しかも今? 世界中から来ている、有力なペンテコステの指専者たちが大勢いる、この入口ホールでですって? 私はジム・ブラウンをちらりと見上げました。ジムはいやしに関しては、私よりはるかに豊富な経験の持ち主でした。その彼も私に言いました。「あなたが、デモス。この場で、」
そこで、私はひざまずいたまま、男の耳もとで話しかけました。「あなたのために、今すぐ祈らせてくれますか。」
返事の代りに小さな男は、頭を杖の上にのせて目を閉じました。「愛するイエスさま、あなたは、ここでまさにこの丘の上で、足なえを喜び踊らせて下さったことを感謝します。今日主よ、別の足のなえた人があなたのもとに来ております――あなたがお選びになった民の一人です。」と私は言いました。
涙が節くれ曲った指の関節を伝って、床にポトポトと流れ落ちました。人々が群れをなして私たちを取り囲み始めました。「イエス・キリストの御名によって、真っすぐに立ちなさい!」と私は彼に言いました。
何か、ポキッという音が聞こえました。
初め、私は虚弱な小さい男が、何か折ってしまったのかと心配しました。しかし頭をもたげ、六、七センチそり返ったときにその男からもれたうめきは、痛みのためではなく解放のためでした。のどの筋肉をふくれ上がらせるほどの努力をして、男はもう二、三センチ体を伸ばしました。またポキッと音がしました。再びもがき、男はまるで目に見えない鎖と格闘しているかのようでした。一段と背が高くなりました。入口ホールで、その出来事に気づかなかった人々も、女の金切り声を聞いて、みなの顔は一せいにこちらに向けられました。「奇跡! これは奇―跡―ですよ!」と女は叫び続けました。
小さな男は、ついに体全体をまっすぐに伸ばし、意気陽々と私の顔をみつめました。私たちの周囲から、十か国以上の言葉で賛美と感謝の声が上がりました。
私も立ち上がりました。手を伸ばして男の杖を取り上げ、「ただ主の御力によって!」と命じました。はじめはすこし足を引きずっていましたが、次第に大胆にしっかりとした足取りになり、背すじを伸ばし肩をはって、あちらこちら歩き始めました。
ジム・ブラウンはその午後予定していた話の代りに、入口ホールで起こった出来事を一部始終話しました。今やこの二人が会場に入るのは問題なく、バルコニーの一番前列にその二人と私たちのための席が用意されました。ジムが話しているとき、この男は時々椅子から飛び上がり「それは私なのです。」「私がその者です。」と叫びました。
その男は飛び回り、踊り、通路をあちこちはね回り、余りの興奮ぶりにまた片輪になって家へ帰ることになりはしないかと、私をはらはらさせました。
そうです、今私はアレクサンドラ公園で、そのいやしの話をすることができます――当時私に説明できる以上に。しかし私が当時以上に今できるというわけではないけれども――。特別ないやしの賜物を持った人々とは違い、私はその経験を求めませんでしたし、何時間も何日も断食して、自分を整えるというようなことはしませんでした。その大会の残りの間、必要のある人々が急いで私の所に来ましたが、その不思議な力は、それっきりで私のもとに留りませんでした。
オークランドで人々に伝えることのできた最善のことは、いやしとは、キリストの体の中で正常な働きの一つであること、その体のどんな肢体も、時により、いやしをするように召されるかも知れないということです。その召しが来てその働きがなされる鍵は、従順のようです。
私は、ダウニーでのある夜のことを思い出して、機内備えつけの毛布にくるまって気持よさそうなローズを、罪を犯した者のように一べつしました。
私たちは床の中に入っていました――真夜中のことで、明かりを消す時間でした。ところがなぜかローズには落ち着きがありませんでした。起き上がったり、窓辺に歩いて行ったり、ベッドの脇に座ってみたりし続けていました。
私は不思議に思いました。普通、私が夜更しで、すぐ寝入ってしまうのはローズでした。「どうしたんだね、お前。」「ヴィヴィアン・フラーに電話しようと思うのだけど。」「ヴィヴィアン・フラーだって!」フラー家はニュージャージー州の南部に住んでいました。ハーブ・フラーはフィラデルフィア支部の会長であり、この前私たちがそこを訪ねた時、確かハーブの妻が目の病気にかかっていたのを思い出しました。それにしても、夜のこんな時間に……。「ローズ、ニュージャージーでは今何時か知っているのかね。朝の三時なのだよ。」
ローズは溜息をつき「わかっていますわ。」といった。夜明けまで待った方がよいということに、しぶしぷローズは同意しました。けれども神の御霊がそれほどまでに人を動揺させるというのを見たことがありませんでした。ローズはくつろぐことができませんでした。再び起き上がって髪にブラシをかけ、ベッドに戻り、ストープの火が消えているかを調べに起き上がっては、またベッドに戻り、扉に鍵がかかっているかを確めるために起きるのでした。「ああ本当に、お前、お願いだ。カーペットを擦り切らして穴をこしらえる前に電話をかけなさい。」
ローズはまさに電話に飛びつきました。私は相手が何と速かに応答したのかに驚きました。
ローズはしばらく聞き入ってから、私の方を向いて「デモス、別の電話口に出て下さいな。」というので、私は居間に入って行き、内線電話をとり上げました。「ヴィヴィアンあなたは今私に言ったことを、デモスに繰り返して聞かせてあげて。」とローズが言いました。
少しも眠そうにも、迷惑そうにも聞こえず、ヴィヴィアン・フラーは、目の状態が重症の緑内症と診断され、治療のききめもないと私に語りました。彼女は目が見えなくなるということが分かったので、家具にぶつかったりしないで家の中を歩けるように、訓練するのに多くの時間をかけ、勇気を持って事態に直面しようとしていました。しかしだんだんに、恐れや落胆に打ち負かされてしまい、特にその晩は、耐え難いほど気が沈んでしまいました。ヴィヴィアンは、神に棄てられ、すべての人に棄てられたような思いで、目を覚ましたまま横になっていました。とうとう「どうぞ神さま、もしあなたが私を愛して下さるのなら、この真夜中、今すぐ誰かに私のところへ電話をかけさせることによってその愛を示して下さい。」と祈りました。
しばらく、長距離電話の雑音しか聞えませんでした。「ヴィヴィアン、神さまは、私に電話をかけるように言われたばかりでなく、他のことも言われましたよ。あなたがいやされますとおっしゃったのです。しかも完全にですって!」とローズが言いました。
私がごくっとつばを呑み込む音が、はるばるニュージャージーに聞えなければいいがと思いました。ローズは、長年にわたって親交会で一緒に見てきた神のみ力の素晴らしいしるしを、ヴィヴィアンに思い出させながら、話し続けました。その後で、私たち三人はヴィヴィアンの完全ないやしが、その瞬間から始まるように祈りました。祈り終った時、ダウニーでは一時三十分、ニュージャージーでは四時三十分でした。
数日後、ヴィヴィアンは電話をかけ返してきて言うのでした。「実際にお知らせする具体的なことは何もないのですが、この間の夜、私たちが話してから一時間後、私の頭の中で何かパチンという音がしたように思えました。そう言うより他に説明のしようがないのです。翌日専門医のところへ参りますと、この前行った時から、何にも悪化していないというだけでした。
二、三週間して、ヴィヴィアンから二度目の電話がかかってきました。症状が悪化しなくなったばかりか、両眼はずっとよくなっているようでした。
何か月かが過ぎ、私たちはみな、地方大会でニューヨーク市のスタトラーヒルトンホテルに集まりました。私は大入り満員の舞踊場で、ヴィヴィアンの話をしました。東部の一番優秀な医師たちの何人かが、緑内症は回復の見込みがないと診断した経緯を述べたのです。「ところが、今では……。」
ヴィヴィアンは階段を上って、マイクのところへ歩いて行きました。そして、どのように毎日毎日、ハーブの顔を見るのはこれが最期かも知れない、と自分に言い聞かせたかなど、病気が悪化していく苦悩を説明しました。それから朝方三時に、ベッドに横になりながら、だれかに電話をかけさせて下さいと祈っていた、意気消沈して最もふさぎ込んでいた時のことを話しました。ローズが電話をかけたこと、続いて専門医を訪ねたこと、初めからずっと用いていたのと全く同じ治療に対して、目は不可解な反応を示し始めたという医師の嬉しい知らせについて話しました。
「私の素晴らしい視力を毎日神に感謝しています。」
ローズの従順は用いられ続けました。ヴィヴィアンが話している時でさえも、人々は席を立って舞台の方に来始め、緑内症で苦しんでいる人々が二十六人も舞台に立ちました。信仰が充満した雰囲気の中で、舞踊場にいる全員がその人々のために祈りました。六か月後、この二十六人のうち七人がワシントン・D・Cの大会に出席しました。他の十九人については今でも分かりませんが、これら七人は全員完全にいやされました。
どの大会でも似たような経験が伝えられました――それよりもはるかに素晴らしいことが――末期のガンが即座にいやされました。心臓病の患者には、新しい心臓(いやされたものではなく、以前の外科手術によって差し込まれたプラスチックの管や弁の痕跡もないもの。)が与えられ、三十八口径のピストルで打たれた弾丸の傷で死んだ青年が、親交会の指導者の一人が祈ったあと、ジャックソンビル病院で起き上がり水を求めていました。南アフリカでは、医師から死亡診断を下された別の人が、親交会からの人々が祈ったとき生き返り、今日も、自分の胸のポケットに死亡証明書を意気陽々と携帯して歩いています。どの場合にも、その当座はどんなに見込みがなく、馬鹿馬鹿しく見えても、誰かが快く従うときに起こりました。
さて、全世界に広がる私たちの務めは……
昨年十二月に、神が私たちの祈りのグループに示された数字―― 一九七五年内に、十二億五千万の人々に届くこと――は余りにも天文学的な数字で、非現実的に思えました。しかし以前、私にとっては電子時代全体が非現実的に思われたものですが、今や八月中には、この未曽有の群衆に届こうとしているのが電子なのでした。
今までに、親交会のラジオ番組は、ヨーロッパ、南アメリカそしてアジアの至る所に、毎週二十一か国語で放送されていました。本国アメリカでは「よきおとずれ」という、毎週三十分間の連続テレビ番組が、そして今年はカナダ、バミューダ、オーストラリア、日本に新たに門戸が開かれて、世界的に四年目に入っていました。この事態で重要な役割を果したのは、息子のスティーブで、今私たちの実行製作者です。マイクロフォン、回転目盛板、テープの全フィート数などは、私からは身をかわして避けていくように自然に、彼のところへ行くようでした。私は、初めてカメラの前に立った日のことを思い出して身震いしました。「よきおとずれ」の催し物の意図は、ちょうど私が親交会の集会でしたように、他の男の人たちにその体験を話してもらうということでした。それはいたって簡単なように聞えますが、スタジオ使用時間が余りにも高価なので、三十分番組の最初の十三回分を一週間のうちに撮影したいと思いました。
ところが、私が音響舞台へ昇ったとき、ケーブル線、たくさんのカメラ、ストップウォッチを手にした人々を見て、私はちょうど自分のものでない畜舎の前に立った雌牛のように、急に立ち止まってしまいました。台本の指示は私をあわてさせました。「ここに立って」「そこに座って」「今、頭の向きを変えて」と言うのです。午前七時に熱い照明がつくと私は汗ばみ始め、昼までには、まるで湯舟の中で撮影していたかのようにみえました。
中でも一番ひどい思い出は、カメラに取り付けられた小さい箱に、私の台詞をはっきり見せるテレプロンプター(テレビ出演者がせりふを忘れた時など、それが出演者の前方に表われる。)でした。私は言葉を間違ったり、文をひっくり返したりで、気の毒なことに私をインタビューしていた相手まで、同じようにまごついてしまったのです。二週間の撮影が終った時には、私は、体重約十キロと全企画に対する熱意とを失ってしまいました。絶望したまま、私はそのシリーズものの原文の製作者である、ディック・マンのもとに行きました。「台本を使わないことにしよう。人々にただ話しかけさせてくれないか。」と私は嘆願しました。テレビではそういうことができないのだ、とディックは根気よく説明してくれました。時間は秒まで算定されなければならないこと、カメラマンはある画面がいつ現われるかわきまえていなければならないこと、そして、もちろん、ディックの専門知識の方が勝っていました――焼付けが戻って来るまでは。焼付けは、無表情な顔にガラス玉のような目付きの機械的な人間がうつっていました。
次のシリーズは、素人のやり方でしました。台本も、リハーサルもなしで、ただあらかじめ祈り、撮影中に祈り、終ってからも祈りました。私は製作技術者たちのことを忘れてそばにいる人に思いを集中させました。私たちはみな、即座に変化を感じました――神の御霊がスタジオに流れ込んで来たのです。カメラが故障して動かなくなることもなくなり人々は時間通り現われ、それぞれ三十分区切りの四組のインタビューは完全な調和をかもし出していました。ディック・マンには、さっぱり合点がいきませんでした。「あと一分だ!」と合図が出る度に、私はきちっと、六十秒後に終っていたと、ディックが言うのでした。
もっと説明し難いことさえも起こりました。ある時、プエルトリコで、そこの支部が選んだ十八種の話を撮影していたときでした。撮影は全部日の光で行なわれなければならなかったのに雨が降り続いていたので、きつい日程となりました。
午後、私はらい病がいやされたという人をインタビューするはずだったところ、滝のような大雨が降り出しました。撮影隊はタール塗りの防水布で装置をおおい、降りしきる雨を眺めながら、私たちは、そこここに座っていました。ロゲリオ・パリラが到着し、彼が差し出した、切断して残った手の端と握って挨拶しました。最初、彼の目に宿る喜びが、その日を一段と明るくしたのだと思ったのですが、一条の太陽光線が雲間から洩れて来たのだということに気がつきました。一行は雨よけを急いで取り除け、ロゲリオと、通訳をするためにやって来た婦人を、カメラの前に迎えたのです。
サリー・オールソンの通訳によって、ロゲリオは、九歳の時にらい病だということが分かった時、どんな様子であったかを説明しました。病気の肉体的な苦しみは、家族から引き離されて隔離キャンプに閉じ込められるよりは、はるかに耐え易いものでした。その時まで、らい病患者を見たこともなかったロゲリオが、突然、見るも恐ろしい人々の中に生活することになったのです。もっとひどいことが起こりました。ほんの二、三年の間に、だれよりも一番醜くなってしまい、胸が悪くなるような腫物でおおわれていたので、他のらい病患者さえも寄りつかなくなったばかりか、一人ぼっちで食事をさせられたのでした。
それから、ある日ロゲリオが二十二歳の時、クリスチャンの一行がらい園を訪れ、初めてイエスのメッセージを聞きました。ロゲリオは、その時から、みじめで絶望しきった男から、喜びと愛に満ちた者に一変させられたのでした。その頃までには、病気は声帯をも蝕んでおり、ロゲリオは、見出した新しい命を他の人に話すことができるように、声を回復させて下さい、と神に求め始めました。
しばらくして、近くのリオ・ピエドラスのペンテコステ教会で、いやしの集会が催されることを聞きました。言い表わし難い希望がうちに湧き上がってきました。当局を悩ませて、園からの外出許可を手に入れると、その集会に出席し、他の礼拝者たちからずっと離れた、後部席に座りました。
いやしのために祈ってもらう人の列ができると、再び他の人々がみな終るのを待って、さらにあとまで残っていました。その間、ロゲリオは絶望のふちに沈んでゆきました。見ると、いやしは手を置くことによって行なわれており、らい病人に快く手を置いてくれる人などないでしょうから。
とうとう、祭壇の欄干が空いたので、ロゲリオは急いで前に進み、ひざまずきました。トレス牧師が近づいて来て、頭に両手を置いてくれました。それから顔に、肩に、背に、そして、両腕を回して抱きしめました――その途端にロゲリオは、自分がいやされたことを知りました。
医者は、自分たちの検査の結果を信じるまでには、幾週間もかかりました。ロゲリオ・パリラの症状はもはや活動的なものではなかったのです。とうとう、解放されて、今までの二十五年間、プエルトリコ中を説教して回りました。神は話をする美しい声ばかりではなく、歌う声も与えて下さいました。一緒にやって来た音楽家たちが前に進み出て、陽気で快活な調子のカリプソのリズムと共に、ロゲリオは神の栄光のために歌いました。
最後の音色が静まり、太陽が隠れました。撮影隊と音楽家たちは、本格的なまたどしゃ降りになる前に、かろうじて装置におおいをかけました。
その夜、サン・ファン支部の集会でその経験を分かち合いました。「あの豪雨の合間は全く申し分なく撮影に拍子が合ったではありませんか。」合点がいかないといった顔が、私たちを見つめていました。サン・ファン中どこへ行っても、ほんのわずかの間も雨が上がった所はありませんでした。
この三年間というもの、こうして台本もリハーサルもなく、御霊により頼んで、テレビ番組を製作してきました。演技は巧みではないのですが、人々を感動させる真実味という特色がありました。
どのテレビ局も、番組の終りにその地域の電話番号を示し、番組を見て新しい歩みを始めたいと願う人が、近くの支部のだれかと連絡を取れるようにしました。私はどこかに、全国からかかってくるたくさんの電話を示して数字を持っていたので、書類カバンを探そうと前の座席の下を手探りしました。
ローズはもう目を覚まして、私がざっと書き留めた数字の列を好奇心に満ちて見ながら「TV13―3て何ですの?」と聞きました。「三日間で十三回のショウということだ。それが今のところ撮影に要する標準時間なのだ。その通りだろう? 今まで一度だって撮影し直すことなどありはしなかった。」私は報告書をほじくり返しました。「各番組のあとで何人くらいの人が電話をかけてくるか知ろうとしているんだが……。」と言いました。「何人くらいの人々というのは、何が起こったかということほど大切ではないと思いますわ、デモス。大切なのは一人の人が、どのように変ったか、ということですわ。」ローズはしばらくしてから言いました。
ただ一人の人――幾千もの話の中から、何を語るべきでしょうか。私は、プエルトリコから西方の国々、東部海岸、中西部、ロッキー山脈を横切ってカリフォルニアまで、その向こう――米国の反対の端ハワイにまで思いを馳せ、ハロルド・白木のことを思い出しました。
ハロルドは、一九七二年九月、ホノルルのテレビ番組が放映され始めた時、一番初めに電話をかけてきた人でした。その日曜日の朝、その番組にチャンネルを合せるつもりはなく、全く別のことをしようと思っていました。 ハロルドは、ハワイ島のコナの小さなコーヒー農園で生まれ、十六人の子供たちの中で六番目でした。徹底した日本の伝統の中で、勤勉に働き、他の人を思いやり、権威を敬うように育まれました。
ハロルドの父親はパーキンソン氏病でした。病気がひどくなって働けなくなったとき、年上の子供たちが家族を養うために学校を辞め、焼けつくような太陽のもとで、毎日余分な時間働いてくれたので、ハロルドは教育を受け続けることができ、家族の中で最初に高校を卒業する者となったのでした。
それ以来、ハロルドは、下の子供たちも同じ機会が持てるように気を配って働きました。毎朝四時には起きて、灯油のあかりで身仕度をし、どのコーヒー農園で雇われようとも長い道のりを歩いて出かけました。弟や妹がみな高校を卒業した時やっと、結婚して自分の家族を持とうと考えたのでした。
その頃までには、ハロルドはホノルルに居を移し、最初は波止場の荷役作業員として働き、次には食料品店の店員として、しまいには自分で事業を始めました。ハロルドの一生懸命働く習慣はよい結果を生み、一九七〇年頃には、相当な金額をなんとか蓄えました。 ところが、その大部分を、もっともらしいやり方で取られてしまったのです。自分が信じていた人に。しかもそれはほほえみのうちに行なわれました。出来事が分かったとき、ハロルドの人生を築き上げた信念がくじけてしまいました。
それは神に対するものではなく、人間的な努力や礼儀を信じてきたからなのでした。名目上はハロルドの家族は仏教徒でしたが、島の多くの人々と同じように、実際は種々の神々や霊なども信じていました。「お大師さん」という神は特に影響力を持っていました。決定するときはなんでも、家族が相談をかけに行くという、コナにある日本人の神社にはその小さな石像がありました。その神が賛成しているときには、像は易々と持ち上がり、答が「否」のときはほとんどわずかも動かすことができませんでした。
長年にわたってハロルドは、自分の家族が縛られてきた束縛を見たとき、これら伝統的な信心に幻滅を感ずるようになりました。年老いた母親は、今は未亡人ですが、あれやこれやの悪霊を怒らせているのではないかという、恐怖の中に生活してきました。
ホノルルに引っ越してきたとき、聖公会の教会はそのような恐れを解き放ってくれるのではないかと思い、そこに加わりました。ハロルドは、母もクリスチャンになるように話してみたのですが、当の母はイエスは自分が祈る神の一つではあるが、イエスの一番の関心は白人に対してであると説明するのでした。イエスの絵を指差して、どの絵にもあごひげがある――それは東洋人に余り関心が持てない証拠だというのでした。
さて、金銭を損失したので、ハロルドは牧師を頼って行きました。その牧師は、不正行為が行なわれたという点で同感し、同情的に耳を傾けてくれましたが、訴訟を起こすことには反対の忠告をしました。「こういうことは、実業界ではしょっちゅう起こることですし、あなたや私ではどうすることもできやしません。私だったら忘れてしまおうとしますな。」
ところが、ハロルドはそれだけはできないということが分かりました。自分の中に憎しみが広がっていくのを感じながら、食事を断ち、友達に会うことをやめ、窓の日除けを下ろしてたった一人居間に腰かけました。正直、犠牲、長時間の営業――もしこれらがみな何もならないのなら、人生の目的は何なのでしょうか。死んだ方がましです。死人は眠ることができるし欺かれて強奪されることもないのです。
ハロルドは銃を持っている友人を知っていましたが、自分一人で死ぬ気はありませんでした。自ら射殺する前に、他の二人の男を射殺しようと思ったのです。止めさせられる前に全員連れて来ることができるなら、三人。
その考えは、頭につきまとって離れないほど大きくなっていきました――その計画だけ考えるようになったほどでした。ある日曜日でした。日曜日でなければならないわけでした。友達に狩猟に行きたいというつもりでしたから。九月のある日曜日、猟が解禁になるや否や……。
ハロルドが選んだ日曜日が来ました。妻がもう一度、教会へ行くように懇願しました
――牧師と話をして以来、礼拝に全然出席していなかったのです。ハロルドは頭を振るだけでした。「少なくとも、テレビぐらいつけて、球技試合でもご覧になって下さいな。」と頼むのでした。ハロルドの妙なすべてのことに対する無関心が、妻を驚き心配させました。
ハロルドはもう一度頭を振ってから、油断のない目つきで妻をちらりと見ました。夫が企てていることに、全然感づいていないに違いありません。確かでした。彼女はテレビのスイッチを入れ、心配がおさまるまで球技試合を見てから教会へ行きました。ハロルドが腕時計を見ると、十時三十五分でした。米国の本土では、午後の試合が始まったことでしょう。テレビのスイッチを「チャンネル4」(キリスト教の番組だけを放映するテレビのチャンネル)に切り替えました。
二人の人が一緒に歩いていました。一方は白人、他方は定かではありませんでした。多分、ポリネシア人だったでしょうか。(私は回想して、一人悦に入りました。アルメニア人の奇抜な特徴のあるこの顔を、幾度神に感謝したことでしょう。ユダヤ人は、私をユダヤ人だと思い、アラブ人は私をアラブ人と間違えました。南アメリカではスペイン語で話しかけられ、東洋ではインド人と思われ、そして今やホノルルでは、ハワイ人と間違えられたのです!)
ハロルドは、心を取り乱していたために、二人の男が何を言っているのかさっぱりついていかれませんでした。テレビをつけようとしていたかのように、まだ椅子に前かがみになって座ったまま、ただ二人の男の顔を眺めていました。二人は、今までハロルドが見たこともない幸福そうな人々でした。
言葉に注意を集中しようとしたのですが、思考力は混乱し過ぎていました。そこで、じっと画面を見つめているうちに、いい知れない平安が閉めきって日除けをかけた部屋全体をおおいました。愛、調和、希望――これらのものが、ほとんどテレビそのものから、流れ出ているかのようでした。
番組が終ると、画面に電話番号が写し出されました。映像が画面にはっきり写し出された瞬間から、ずっと椅子の前の方に浅く腰掛けていたハロルドは番号を繰り返し言ってみました。
数分後、親交会ホノルル支部のロイ・ヒッチコックと話をし、信じられないほど素晴らしい言葉を聞いていました。「イエスさまは、あなたの事情をすべてご存知です……イエスさまが解答です……イエスさまはあなたを愛しておられます。」
今日、ハロルドは自分の属する聖公会ばかりではなく、島中にある親交会の予定行事の指導者でもあります。金銭は返ってきませんでしたが、親交会の助けで、敵意と憤怒の重荷を捨てて、勝利者となったのです。ハロルドは新しい出発をしたばかりではなく、更に何百人という人々をも新しい始まりを見出すように助けたのでした。
まっさきに救われた人々の中には、八十一歳になる自分の母親がいました。息子の変化を見て、自分が長い間なだめようとしていた悪霊の力よりも、はるかに大きな力があることを悟ったのでした。母親と家族の他のメンバーは、家の中に祭ってきたいろいろな像や社を山ほど積んで、教会の庭で焼き払いました。ハロルドの母親は一九七三年に、穏やかな輝くクリスチャンとして亡くなりました。
世界中の人々が命に目覚めるという、私の見た幻の中で、テレビに役割があると確信させたのは、これらの経験でした。
現代の驚異であるジェット機による旅行もその役割を担いました。「よきおとずれの空輸」で訪れた国々をリストにあげ始めました。英国、スウェーデン、ノールウェイ、フランス、イタリア、日本、フィリピン諸島、ベトナム、インド――五十か国以上でした。ほとんどの場合、何週間かの集会と大会の後には、何かもっと大切なものが背後に残されました。平信徒活動の永続的な中心として地方支部――時によると複数の支部――ができたのです。
他の国々、例えばフィンランド、エストニア、ユーゴスラビアでは、長期的な効果がどんなものか知りたいと思い、祈るのがせきの山でした。共産主義の国をはじめて訪れた時のことと、その時私のうちに生れた決意を思い起こしました。
それは、カストロが権力を握った後の、キューバでのことでした。私たちの小さなグループは昔のハバナ・ヒルトン、今ではキューバ、リブレと改命されたホテルに泊っていました。カストロはそのホテルを、自分の司令部とし、そこには武装した兵隊が大勢いたのですが、私たちは一度も本人の姿を垣間見たことすらありませんでした。それからある朝二時頃、ベッドに入ろうとした時、私が身仕度を整えて、エレベーターで階下の食堂へいけば、フィデル・カストロに対面するということが、突然分かったのです。私はその時までには御霊との経験を、数多く重ねていましたので、そのように不可解なわずかばかりの知識を疑いもせず、できるだけ速やかに洋服を着直しました。
ローズが目を覚まし、「どこへおいでになるの?」と尋ねました。「カストロに会うために、階下へだよ。」
ローズも、このような御霊による促しに慣れていましたので「いいわね!」と眠た気に答えました。
階下の食堂では、客といえば兵隊たち――十五、六歳だったでしょう――がオレンジジュースを飲みながら、カウンターの前に座っているだけでした。給仕の話によると、数年前だったら、この時間にはカジノからおりて来るアメリカ人で一っぱいだったということでした。彼はなつかしそうに語り、中二階の今はさびれた賭博場のある上の方を指差す身振りをしました。「彼らは使う金にいとめをつけやしませんでした。」
給仕は、私が注文したアイスクリーム一皿を書きとめると、ため息をついて台所へ立ち去りました。が、それを持って戻って来ると話す機会を喜んでいるとみえて、テーブルのそばをなかなか離れようとしませんでした。キューバのスペイン語は、私が使いながら育ったメキシコ的に変化したものとは異なりましたが、互いに意志を疎通するのに苦労はありませんでした。「今晩、カストロ首相がおいでになったら、私がカリフォルニアから来た酪農主で、お話し申し上げたいと思っている、ということを伝えてくれるかね。」「今晩ですって? 今晩はここにはお見えにはなりませんですよ。こんなに遅くには決してお出ましにはなりゃしません。」と給仕は答えました。
私は、アイスクリームを食べ終って「今晩おいでになるよ。」と言いました。
給仕はまじまじと私を見つめました。「誰か、首相がここにおいでになると、あなたに言ったのですか。」
一瞬考えてから「そうだ。私に伝えた方があるのだよ。」と私は同意したのです。
男は頭を振り、「とてもありえない。首相は十時以降は決しておいでになったりはしないのだ。」と言うのでした。
果して、給仕が正しいように思え始めました。また五分過ぎました。十分。若い兵隊たちが去り、私は自分の伝票を取り上げ、レジスターの方へ行きました。出納係が私の折りを数え出している、その時でした。廊下を編み上げ靴で歩いて来る足音が、ドタドタと聞えてきました。黄緑色の制服を着た十八人から二十人ぐらいのあごひげをはやした男たちが、戸口から入って来たのです。ライフル銃を携えた者もいれば米国製の機関銃を持っている者もいました。その一団の中心にフィデル・カストロがいたのです。護衛兵が部屋の回りに、守備を固めて位置についている間に、カストロはテーブルの前に座り、ステーキを注文しました。護衛兵たちは他に見る人もいなかったので――私を見ました。給仕が身をかがめてカストロに話しかけているのを見たと思うや、カストロも、ちょっと私を見てから、側に来るように手まねきをしたのです。
部屋の向こう側から、銃口が私を追って来るのを意識しながら、私はカストロの右側に座りました。カストロはカリフォルニアの酪農について、数々の質問をし、私にもステーキをすすめたのですが断ったため、がっかりしたようでした。「私があなたを訪ねて行ったら、一ガロン(約二升)の牛乳を飲みますよ。」と言うのでした。
あごひげをはやした男たちが、部屋中でどっと吹き出しました。すると銃口は下げられ巻きタバコに火をつける者もあって、私はほっと胸をなでおろしました。
私は、ラジオで聴いた、ぶっつづけの演説を通じてしか、この革命の指導者を、知らなかったのですが、注意深くよく話に耳を傾ける人であることを、自ら親しく知って驚きました。「何の用事でキューバヘ来たのかね。」しばらくして彼は尋ねました。
私たち一団は、私たちと同じ仕事の分野に携わっている、キューバの人々と親しくなり他の国々でそのような人たちの間に、聖霊がなしている御業を知らせるために来たということを告げました。
再び驚いたことに、カストロは真実耳を傾けているようでした。かつて、テキサス州ブラウンズビルの病院に入院していたことがある、とカストロは言いました。「毎週二人の人がテレビに出ていたが、一人はビリー・グラハム、もう一人はオーラル・ロバーツだった。正直な人々だし、言うことも正直だと私は思った。」と。
私たちは三十五分間にわたって語り合いました。とその時、ひどく酔っ払って非常に怒ったアメリカ人が、テーブルに現われました。「あんた方、手紙に返事も書かないのかね。私は三か月も、このいわゆる政府というものから返事を待っているんだ。」と詰問しました。
彼の言うことはあまりよく分からなかったのですが、察するところ、その男は、革命政府によって閉鎖されてしまった、ナイトクラブの所有者のようでした。その部屋一杯に兵隊たちがいる中での、男の大胆不敵さには、驚きあきれてしまったのですが、明らかにその男は、自分の問題にすっかり夢中になって、兵隊たちに気づかなかったようです。「あんたがたも金を損しているんだ。それを忘れるなよ!うまい商売をここへ持って来てやったのに。」
カストロの顔は、自分の軍服と同じように、灰がかった緑色に変わりました。「うまい商売だって。ばくちと売春を、お前はそう呼ぶのか。お前たちがこの国に望むのは、それだけか。」とカストロが言いました。
私は、ナイトクラブの所有者の目を捕えようとしました。確かに、その男はカストロの質問の中にある叫びに気づくことができないほど、酔っぱらい、自分の利益に夢中になってしまっていたのです。「今まで我々のことを心にかけたことがあるのか。」「我々を理解したことがあるのか?」
しかし、その男は聞くどころではありませんでした。「偉そうな道徳のせりふはいらん。キューバ人だって、たっぷりもうけているんだ。なあに、いつだって……。」
カストロは、食事を残したまま、立ち上がりました。兵隊たちをあとに従えて、戸口ヘ途中まで行き、踵を返して戻って来て、手を差し出しました。「よく来て下さいました。私の望むところは……。」
顔はまだ灰色がかっており、カストロは言葉を終らせず、一瞬の間に、人々はみな行ってしまいました。ナイトクラブの所有者も、まだブツブツ言いながら、後について行きました。私はぽつんとテーブルに取り残されました。腕時計を見ると三時五分過ぎでした。「私の望むところは……。」
私の望むところは、あなたの国から、もっとたくさんの人たちが、ばくちをする代りに祈るために、キューバに来てくれること?
エレベーターで階上へ戻る間、もし人々がそうしていたらどうなっていたか、と私は考えました。何百万というアメリカ人旅行者が行く先の人々に、神の愛を携えていっていたとしたら、今日世界はどうなっていたでしょうか。
もし、今行なったらどうでしょう。
その晩から、親交会の人々に出会うところどこでも、これが私の嘆願となりました。出かけなさい! よきおとずれを伝えなさい! 神のために旅行しなさい! 世界でしばしば見かける、別な種類の旅行者たちの埋め合わせをする手助けをしなさい。
親交会の人々は出かけて行きました。別な場所、別な世代の忠実な信者から聖霊を受けた者として出かけて行き、私たちの負債をいくらかでも返済して帰って来ました。
私は、一九六六年、モスクワでのある九月のタベを思い出しました。キューバ訪問から七年後で、その時私は、ロシア人ペンテコステ派の人々が、幌馬車に乗って、山を越えてアルメニアに来たことを、二千二百人集まったバプテスト教会で話すことができました。御霊がその集会を吹くままに、二千二百人の人々は席を立ち、両手を天に上げ、喜びの余り涙を流していました。
その翌日、モスクワ放送のために、同じ話を録音する機会を得ました。いい尽し難い神の賜物を持ってきてくれたロシア人に、心の底から感謝するためでした。
私は自分の座席の背を、五、六センチ低くして、目を閉じました。全世界の人々が、死から命に目覚めること――そうです、それが親交会なのです。
私はそれを、ダウニーの居間で見たのです。幻は地に何を示していたでしょうか。人々は神に対してばかりでなく、お互い同士に対しても生き返ることを示していました。孤立していた人々が一緒に集まり、互いに理解し合うこと、それも、親交会でした。
大集会の開会で、今では挙手を願うことを好んでいます。「今晩ここには、聖公会の人は何人いますか。」「長老派の人は何人でしょうか。」「バプテスト派の人は何人ですか。」私にとって最良の部分は、質問の度毎に応答を得ることではなく、その度に部屋中で手が挙がることでした。カトリック教徒がメソジスト派の人々と一緒に座り、クウェーカー教徒がセブンスデー・アドヴェンチストの人々と共におり、御霊が集会に下ると、十七列目の席で互いに抱擁し合っている二人の人は、幾世紀にわたって、話をしたこともないそれぞれの教会に属しているかも知れないのです。
人種が一つに集まり、今や事態は変りつつあるのですが、一九五〇年代に遡ると、人種差別は依然、米国各地で問題でした。アトランタで世界大会の準備をしていたことを思い出しました。市街のホテルに舞踊場を借りてあり、一千以上もの部屋が五日間、予約されラジオの時間も取り決められ、登録用紙が印刷され、大きな群れが一緒に集まることに伴う細部にわたる組合せも、万端整っていました。
それから、大会前の一か月かそこら前に、ホテル側は、恒例のごとく、黒人実事家も一緒に集まるはずだということが分かると、名目上は全く同じような宿泊施設を近くに用意しようとしました。しかし、もちろん当初の計画は変更されません。集会の様子は、豪華な社交室で、クローズド・サーキットで見ることができました。この大会の準備段階で私は、珍しいことに気づいたのです。黒人出席者が大勢どころか、私たちの期待をはるかに上まわるほどだったということです。アトランタの衣料品店の主人が、その理由を明らかにしてくれました。「私の友人たちは、何か月間も、なぜ私が白人の朝食祈祷会に行くのか聞き続けていました。だけど、友人たちがホテルの出来事を聞いたら――いやはや、一緒にここへ来たいという人々をみな連れて来るために、バス一台貸り切らなければならなかったのですわ。」(ついでながら、一九七三年夏、アトランタのハイヤット・ホテルで地方大会を催したところ、毎晩、黒人白人の差別なく一緒に、千五百人も集まったのでした。)
色々な世代が一つに集まり、リチャードと美しい妻エヴァンジェリンの指導の下に、今や、どの大会にも、盛りだくさんの青年向けのプログラムがありました。ホテルの廊下で長髪の若者と背広を着た中年の男が、互いの肩に和解の涙を流しているところを、たびたび通り過ぎました。
あらゆる背景を持った人々が一堂に会しました。百に及ぶ南アフリカ支部の多くでは、黒人も白人も一緒に集まりました。アイルランドのベルファスト市にある私たちの支部では、新教徒と旧教徒とが互いに赦しを求め合い、喜びを持って抱擁し合いました。
人々は、自分と他の人々との間に立つ壁をことごとく砕いていました。
自分と他の世界との間に、文字通り壁を設けなければ、くつろいだ気持にならないという、一人の婦人を覚えています。
サラ・エリアスはニューヨークのジュリアード音楽院でピアノを学び、レオポルド・ストコウスキイのもとで歌った音楽家でした。背が高く印象的な婦人サラは、世界で何一つ問題を持たない人のように見えました。ですから、インディアナポリスの地方大会で、「一人用の部屋」を条件として明記したとき、その要求の背後に長年にわたって悩んできた、拒絶の恐れが潜んでいようとは、誰一人夢にも思いつきませんでした。たまたまそうなったのですが、一九七二年、ある五月の週末に、出席を望んだ大勢の人々を宿泊させるために、インディアナポリス中のホテルのベッドがことごとく必要でした。「申しわけありませんが、二人部屋にお入りいただかなければなりません。」とロビーの登録係がサラに言ってリストを調べ、「もう一人の方は、ノートルダム修道女スクールのフランシス・クレア姉妹です。きっとご一緒に楽しく過ごせますよ。」と言いました。
サラ・エリアスはそうなると確信できませんでした。ペンシルバニア州西部の小さな町で、ホーリネス系の人々の手で育てられ、一般的に修道女たちを信用しないように教え込まれていました。しかし、本当の問題は、悲劇的な幼児期にありました。サラがごく幼い頃、父が母を射殺してから、孤児院での歳月を通じまた、自分を養子にしてくれた家族に勘当された日に至るまで、人々は自分を拒絶するということを学んだのでした。そこで今度はサラが、自分の生活から人々を閉め出し、働いていない時はいつでも、自分自身と世間との間に文字通り壁を築き上げ、人々を拒否したのです。
空っぽであることを願って急いで駆け上がっていった部屋に別な婦人がいるとサラが知った時の彼女の当惑をその婦人が知るまで、だれ一人これらのことに気づきませんでした。フランシス・クレア姉妹は、記憶のいやしをする特別な務めを持った、賢くやさしいクリスチャンでしたから、サラのために祈っていいかどうか尋ねました。その後何時間もたってサラから恐怖、敵意、憎しみがすべて去ってゆき、愛と神に受け入れられた確信が流れ込んできたのです。
その晩、私がサラに会った時、顔つきが非常に変えられていたので、マイクの所に出て来るように頼むと、出来事一切を話してくれました。その後、ピアノの前に座って弾き始め、それが終ると全会衆が総立ちになり、サラが再びピアノを弾くまで拍手かっさいが続きました。熱烈な大かっさいが四回起立して行なわれ、私たちはみな、その晩、聖霊ご自身が私たちのために弾いて下さったのだということを知ったのです。
サラ・エリアスは今や、親交会によって助けられたいろいろな分野の人々の一人でした。事業や専門職に従事する婦人たちです。初め私は、人生において素晴らしいものを受け損なっている男たちに関心を寄せていましたので、婦人たちの誰をも意識していませんでした。親交会の初期の頃の婦人といえば、大勢いましたが、一般的にはそういう男たちの妻であり、彼女ら自身クリスチャンで、夫に届く方法を探している人々でした。
その後、親交会がよりよく知られてくるにつれ、新しいグループの婦人たちが表面に出てきました。既婚の人、未婚の人、若い人、老年の人、これらの婦人たちは、仕事に従事しており、伝統的な教会のプログラムから取り残されたように感じていました。洋裁のサークル、がらくた市、朝のコーヒーの集まりなど、私にとってもそうであるように、これらの医師、教師、事務員にとって、問題外の行事でした。今では、婦人弁護士、女優、婦人労働者もいるし、女性販売員、看護婦、婦人新聞記者、と、私は紙に書き留めました。「デモス?」
ローズが私の注意を促しました。目を上げると、サンドイッチをのせた盆を持って、ステュワーデスがかたわらに立っていました。あと一時間とちょっとでホノルル入りという頃でした。「ステュワーデス」と目の前のノートに書き足しました。前の大会では五、六人ステュワーデスがいました。もう一度、自分で書いた頁を読みました。世界中至る所にいろいろな方法で、あらゆる種類の人々に届くこと、それが、親交会を生き生きと描写したことにならないでしょうか。
ローズが言ったことは何だったでしょう。一個人について、その人がどう変ったかを語りなさい。その通りでした。世界のあらゆる統計も、御霊によって生まれ変った一個の命の素晴らしさを、伝えることはできませんでした。
けれども、どこから始め、どこで終ったらいいのでしょう。ジョージ・オーティス、ウォルター・ブラック、ラルフ・ヘインズ将軍の驚くべき話をするや、時間がなくなってしまい、同じように素晴らしいジム・ワット、オットー・カンダート、ダン・ロックの話を省かなければなりません。
親交会には今や無数に多くの話がありますが、どれもこれも素晴らしく、独特で、それでいてどれもみな他のものと黄金の鎖につながっています。
それぞれ連結している……。
そのようなつながりの一つを話したらどうでしょうか。国際純福音事業家親交会という果てしない連鎖反応の中にある一つの環です。
オクラホマの親交会の集会で私に会ったという青年から、電話の呼出しを受けたのは、一九六〇年代初期のある金曜日でした。「シャカリアンさん、私の伯父に話していただきたいのです。伯父は主を知る用意ができていると思うのです。」「君のおじさんとは、どなただね。」「シャノン・バンドラフです。」
なんとなく聞き覚えのある名前でした。「どこにお住いなのかね。」
青年は、ダウニーでも非常に派手な地域の地名を言いました。「職業は何かね。」少しそわそわして聞きました。「建築家です。シンデレラ・ホームというのをお聞きになったことがありますか。それは伯父の会社です。」
さて、私の最初の考えは、決して彼には話ができないということでした。その地方ではシンデレラ・ホームのことはだれだって知っていました――大きな、大きな事業でした。 しかし、少なくとも、シャノン・バンドラフに電話すると約束し、翌日、土曜日に電話しました。シャノンは、高圧的なタイプの人とはおよそかけ離れた、気さくで話に打ち解ける人だということがわかりました。甥のいう通り、シャノンはイエスのよい知らせを聞く準備ができていました。シャノンとその妻ヴェダは、早速その晩、ゴルフ・コースの隣りにある大邸宅に、ローズと私を招待してくれました。その後私たちと一緒に、アリゾナ州フィニックスで催された、親交会の大会に出席し、二人そろって聖霊のバプテスマを受けました。
今や、連鎖反応に新しい名前が加わりました。レイ・チャールス・ジャアマン博士は、カリフォルニア州サウスゲイトにある大きな教会の牧師で、バンドラフ家はこの教会に十四年間出席していました。ジャアマン博士の優れた説教のもとで、教会は革張りの椅子、厚いじゅうたん、冷暖房装置を施し、輸入した大理石の彫像がある百万ドルの施設に成長しました。ジャアマン博士も、毎日連続のラジオ番組を持ち、南カリフォルニアの知識人社会における一つの勢力となっていました。
説教の中で、バンドラフ一家が一度も聞いたことのない唯一のことは、キリストでした。多くの高い教育を受けた説教者のように、イエスの神聖、奇跡その他「非科学的」な概念を信じることは、とうの昔に止めてしまっていたのです。ところが、博士は自分の会衆に何か現実的なものを与えたいと、誠実に考えていた良心的な牧師でした。
そして五十年間、この捕え難い実体を求めてきたのでした。宗教科学、新思想、クリスチャンユニティ、クリスチャンサイエンスに首をつっこみました。ますます、自分の生活に虚しさを覚えて、東洋の宗教に向きを変えて、パテマハンサ、ヨガナンダその他の師のもとで三年間学びました。ロシクルシアニズムにも進み、その後、見神論もやってみました。
一九六一年、LSDが非合法と宣言される以前に、サンフランシスコの病院に入り、実験中、自分と一緒にいてくれるように、看護婦、医師、精禅病理学者に料金を払って、二十四時間にわたるLSDの実験もしました。
それは、神の啓示を与えるどころか、何か月も繰り返し襲ってくる悪夢を与えたのです。
一方、シャノン・バンドラフは、自分の信仰的回心の後、ジャアマンを親交会の集会に参加させるための、静かな運動を続けていました。博識な牧師は、断固として関心を示しませんでした。ほとんど四年近くシャノンは、たゆまず彼に勧めました。ジャアマンはその男がやって来るのを見るのも嫌うようになりました。
とうとう、双方を知っている友人が、バンドラフ家で催された「クリスチャンの音楽と交わり」のタベに、ジャアマンを招きました。
両肩をすくめて、ジャアマン博士は同意しました。行ったところで、何も失うものもないし、まあ、一つの実験になるだろう。
このようないきさつで、一九六五年八月、レイ・チャールス・ジャアマンは、自分の教会から三人の人を伴ってシャノンの家へ、車で出かけて行きました。バンドラフ家のとてつもなく大きい居間は、人が大勢つめかけていて、座る場所を見つけるのも困難でした。集っている人々の表情は、輝くように明るく、まるでカクテルパーティにでも来ているかのようで、彼はとまどい、いらだってきました。他人を連れて来ていなければ、すぐに立ち去ったことでしょう。
時間がたつにつれて、ますます居心地が悪くなりました。歌い、祈り、「主を賛えます。」という叫びを伴うあかしがありました。大学時代の友人が何と思うだろうか、と考え続けていました。
その後、会が半分ほど過ぎた頃、玄関のドアが開いたかと思うと、そこには両脇を二人の男たちによって支えられ、かつて見たこともないほどやせ衰えた婦人が立っていました。目のまわりは探く隅取られ、衣服はかかっているだけで、その下には体がないかのようでした。
それは私の妹のフローレンスでした。
ジャアマンがぞっとして見守るうちに、男たちは、半ば運ぶような格好で、部屋を横切り彼女を椅子に座らせました。フローレンスの自動車事故があってから二十五年たっていました。それはまた、何という奉仕の四分の一世紀だったことでしょう。よくローズのピアノ、あるいはオルガンの伴奏で、フローレンスは米国中至る所の教会や親交会の集会で歌ってきました。今、夢で時期を予告された通り、死に近づいていました――珍しい型のガンのために。「フローレンス・シャカリアン・ラライアン、私たちのために歌うだけの十分な力がありますか。」とシャノンが言いました。
フローレンスはほほえみながら「やってみますわ。」と答えました。頭を持ち上げるだけの力がなかったので、両手を額に当てて後に押し返しました。それから歌い始めたのです。
レイ・ジャアマンは、長い間求めていた現実に直面した自分に気づきました。ジャアマンはオペラを愛好し、現代の優れた歌声はたいてい聴いたことがありました。「しかし、このような歌声を私は聴いたことがありません。彼女が歌うと、まるで部屋の中に天使が立っているかのように思えました。」と後でジャアマンが私に言ったのでした。フローレンスは「輝く日を仰ぐとき」という歌のコーラス「わが魂、いざたたえよ、大いなるみ神を、」という部分を一緒に歌うよう、皆に頼みました。人々が歌うと彼女の声はそれを上回り、野ひばりのように高く高く舞い上り、ジャアマンは天国の門に立っているように感じました。
それは、フローレンスの最後の歌でした。レイ・チャールス・ジャアマンは、生まれて初めて、公の前で泣いたのでした。
しかし、何事にも知性を働かす習慣が余りに根深かったため、彼が霊でわきまえたことを、知性では拒み続けていました。自分の理性の及ぶ領域を越えて飛び上る、恐ろしい歩みを取ったのは、数か月も経ってからでした。自分の男やもめのアパートで、証人としてのシャノン・バンドラフと共に、ジャアマンはひざまずき――それも今まで一度もしたことのないことでした――イエスに自分の生涯をあけ渡しました。かつて、空虚で恐れていただけに、今は満たされ喜んで立ち上がりました。世界中の親交会の集会で、何十万という人々が聞いたのは、この新しいレイ・ジャアマンです。「イエスを知る前に、五十二年間説教してきました。」とジャアマンは言うでしょう。しかし、その後の九年間にレイ・ジャアマンが何人の人々に届いたか、またその人たちの幾人が順々に、他の人々に届いていったか、いったい誰が知るでしょう。私たち一人一人をお互いに結んでいる黄金の鎖はどこで終るのでしょうか。
それはどこで始まるのでしょうか。
私が生まれる前に鍛えて作られた長い環を思い出しました。マガーディッチ・ムシェギアンがはるか、カラカラで預言したことです。「今日から一年目に、息子が生まれます。」その息子が、ジャックという名前の馬の後に、荷馬車いっぱいに野菜を積んで運んだことを覚えています。シャカリアン家とムシェギアン家の命を結びつけた環とは、何と強力だったことでしょう。一九五五年の日曜日、グッドリッチ・ブルバードのアルメニア・ペンテコステ教会で幻をいただいたのは、マガーディッチの孫息子、ハリーでした。聖堂に光が満ち、イサク・シャカリアンの上に、天から注がれる油が流れしたたっているのを見ました。それは、私たちの教会が認める唯一の種類の牧師任命式でした。そこで、およそ十年間にわたって、教会の平信徒牧師として仕えました。もちろん俸給を受けずに、アルメニア人の伝統の中で、冠婚葬祭を司る許可を州から得、毎週日曜日には説教し、人々の必要を世話したのです。
その後、一九六四年秋の金曜日の夕方、ハリー・ムシェギアンは別な幻を見ました。十一月六日のあの夕刻、私は三日間の地方大会の初日にサンディエゴのちょうど南側にあるコロナド・ホテルにおりました。娘のジェリーとその夫ジーン・スカルフも、そこに居合わせました。この二人は親交会が好きでしたが、幼い娘が二人いたので余り集会には出られませんでした。二人揃って集会に出るために、どんなに多く繰り合せをしなければならなかったか、私には分かっていました。ですから、ジェリーが私のところに釆て、私たち全員ただちにダウニーヘ引き返さなければならない、と言ったときは驚いてしまいました。「おじいさまのことなの。今、病院にいらっしゃるのよ。」「病院? まさか病気ではあるまい! 今日の午後、私が事務所を出た時は、元気だったのに。」
病院のフロントで、父は通りの向かい側の建物にいると言われ、行って小さな平屋の建物に足を踏み入れた時、私はおかしいと思いました。こんな暗い、人気のない所に父が入れられるとは……看護婦はどこにいるのだろうか。そしてやっと、この小さな建物は、死体置場であることが分かりました。
父は、高い白いテーブルの上に横たえられていました。どうりで誰一人私に何も言えなかったのも無理がありません。これほど親密だった父と子はありませんでした。世界のどこかで、イエスのことを人々に告げる機会が開かれる度に「デモス、行って来なさい。事業の方はわしが引き受けるから。」と長年にわたって、何百回となく言ってくれた、父の声を聞くかのように、何もない小さな部屋の中に立ちつくしていました。
家には、ドナルド・グリッグス医師が私たちを待っていました。私が言った通り、父は病気ではありませんでした。「彼は、昔のイスラエルの族長、アブラハムやイサクやヤコブのように、亡くなりました。」とグリッグス医師が言いました。「病気などではなく、頑丈でした。夕刊を読んでいて、眠りについたのです。」
グリッグス医師と近親者以外は誰も知らなかったのに、今牧会しているジョージア州アトランタから、ハリー・ムシェギアンが電話をかけてきたときは驚いてしまいました。
「たった今、みなに、老人たちに会ったんです。私の祖父や父、子供の頃覚えていた老人たちにみな、それに私が会ったこともない人たちもいました。一時間ほど前、長いあごひげを生やしたこれらの人たちがみな、笑いながら走ってきて、だれかを歓迎しているかのように、両手を広げて差し出しているのを見たのですよ。それから、イサクじいさんがそちらへ向かって走っていくのを見たのです。」
電話の向こうで、ちょっと声がとぎれました。「イサクじいさんは、亡くなったのでしょう。」
着陸のため、シートベルトのサインがつきました。飛行機は傾き、降下が始まりました。
デモス、行って来なさい……
それは、神が私たち一人一人に言っておられることなのではないでしょうか。「ジム、ジョン、ビル、メアリー、行って来なさい。」神は、いつも旅の始めに行く先を告げられるわけではありません。私は、その昔、少年預言者に与えられ、未だに封じられたまま開かれていない、第二のメッセージを思い出しました。それは、主の再臨の直前、アメリカのクリスチャンたちを襲う大迫害を予告しているのでしょうか。個人的には、私はそう思っています。その時に備えて、御霊が私たちに今注がれているのだと思うのです。キリストの体全体に益になるために、主の体にしっかり結び合わせ、その体の中で、その人にしかできない仕事を、各人に割り当てるために。いったい誰が、あのメッセージを開いて教会のために読むことを仰せつかるのか、たびたびいぶかるのです。
しかし、それは大事なことではありません。大事なことは、神が私たち一人一人に行きなさいと言われることなのです。何であれ、神が与えて下さった賜物を携えて行きなさい――自分に与えられた賜物を見出して使うとき、周囲の世界の情況がどうあっても、私たちは世界で最もしあわせな者となることを承知して――行きなさい。
飛行機は、幾らか震動を伴って着陸し、ターミナルに向かって滑走しました。ローズは座席の下の携帯品を手探りしました。「デモス、用意はできて?」「できているよ、ローズ。」
私たちは通路に足を踏み出し、次の冒険に向かって一緒に出発しました。
オリジナル
Demos Shakarian (as told to John and Elizabeth
Sherill). The Happiest People on Earth. Steward
Press: Chappaqua, NY, 1975.
日本語訳著作権:FGBジャパン
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