最終回感想
毒舌しか書けないわよ?
読後のいやな気分になっても文句言わないでよ?
特にセスファンとヘルガファンは読むの禁止。

言っとくけど他のまんがとかアニメの話ががんがん混じるからね!
それはここがうちの語り場だから。ご了承ね?
くりかえしますが肯定意見が聞きたい人はここ読まないでください。
あと、人の話は50%に聞く癖を心がけてください。
俺は語るときは真剣に語るがまたすぐひっくりかえしたりする人間だからな。

本当の感想とは、その作品ひとつだけを見据えて語られるべきものです。

そして本来作品とは、制作側による補足も
ただそこからのみ受け手に伝えることを試むべきで、
そのために「物語」は機能するべきだと思います。

しかし補完されない場合は他から持ってくるわよ、だめだめだって言うだけじゃ、
じゃあどうすりゃいいの何が足りないのって話になるじゃない、そしたら
できてるとこから持ってくるしか、例の出しようがないじゃない。
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さて「演出」とは、「情報量の調節」だ、と言ったのは押井守監督だったと思うのですが、
すなわち限りあるシリーズ話数・またひと話の尺の中で、
何を見せ、何を見せないか、どれだけ見せ、どれだけ見せないか、ということ。

何を見せることに重点をおき、何を救い、そしてなにを切り離すか。

FC後半は、おそらく物語の舵をとってきたなかむら監督とは、
ここの感覚がまったく俺と合わない。
じゃあなんでおまえFCファンやってんだっつーと、
困ったことに脚本の三井秀樹とは10年以上前からはげしく相性があうんだ…!!!

じゃああのFC内の、なんとも言えないちぐはぐ感や、
最終話見終わったあとのもやもや感はなんでなのか?

それはシリーズ全体を統制しきれなかった監督の手腕不足だと思うので、
すべての責任はリーダーにあるので、なかむら監督が悪い。
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ではまず、
26話Aパートに対する私のツッコミを、再現でお聞きください。

「大丈夫、ヘルガ」「トーマ…」「よかった…」「ティナ…」
「セ、セス…」「セス…」「トーマ…どうして」
「ティナ…許してくれ、許してくれ、ソランを殺したのは、僕なんだ…!」
■(はあ、それで)
「セス…」
「ティナ…僕がソランを殺したんだよ…」
■(2回言わなくてもわかります。だから何)
「そんなの…信じられない」
「本当なんだよティナ…本当の…ことなんだ…」「セス…!」

■(はあ。あそこで僕がソランを殺さなければ、ソランはすぐに君の魂を地球まで探しに行けたと。
まあ内乱で不可能だったろうが。ついでにタイムスケールのちがいから狙った座標にもいなくて、
ソラ男は科学者でもないので人工転生もできずそこで無為にティナを探し続けて死に、
自然転生でめぐりあうのを待つことに?でもそっちのが早くめぐりあえそうだな…。
ベフォール骨折り損のくたびれもうけだな。でも自分がソラン殺しちゃったから
君は何世代も待ち続ける青い鳥人生送らせてごめんなさい?でもいつでもそばで守ってた?
はあ。だけどごめんなさい?…そうか?)


「ぼくはずっとトーマの中で苦しかった…トーマになりきれなかった、
■(また魂とエピソード記憶がごっちゃに…しかも前世の霊が魂をのっとろうとしてるわ…)
ぼくは…ティナ…君にあやまりたかった…君に…あやまりたかった…」
■(「あやまりたい」ってさー、「許して欲しい」の同義語で、すなわち相手に
「許すわ、もういいの、苦しまないで」って言われることで、
自分がラクになりたいだけなんだよねー)
「セス…」
「…君はここにいてはいけない、戻るんだ、ティナ」
「生きてくれティナ、君は、生きるんだ」
■(ティナじゃなくて。その子はヘルガ。だってば)
「生きると強く念じるんだティナ!はやくーーー!!」
「セス!セスーーー!」
「トーマ!」
「ティナ!だめだ、来てはだめだ、ティナ!」
「セス、あなたはトーマなの!あなたが死んだら、トーマは死んでしまう!」
「今生きてるのはトーマなのよ、お願いセス、トーマになって生きて!」
「トーマはぼくだ。ぼくの罪はトーマの罪だ」
■(は?トーマの罪?なんで。トーマ転生して悪いことなにもしてないもーん、したのはおまえー、
そしておまえはもう死んでいるー、なんかよくわかんない自己満足のために今トーマのっとてるだけー


「だから、ソランと君に、死んでつぐなう。生まれ変わって、生きる気はない…」
■(うるせえよこの死人。早く死ねよ。もうおまえ前世で死んでるんだから「死んでつぐなう」じゃねえの。
今はトーマの魂なんだから、死人のおまえがトーマのものでもある魂まで使って
おのが自己満足の贖罪のために魂消費しようとすんな。おこがましい。消えうせろ。
トーマー!でてこーい!トーマー!!)

「セス…」
「セス、死んでもつぐないにはならない。トーマとして生きて、周りの人をしあわせにするの
。それが…本当のつぐない…」
■(←このくだりは完全にTONO先生の勝ちだな…後述。こんなん言葉でただ言ったって伝わらないね!
エピソードで示してこそ受け手に伝わるもんだ…誘導がまったくなってないな…)
(セス首ふってる。相当しつこい霊のようだ。霊媒師よべ)

「ティナ…生まれかわって生きる気はない…」
■(もうトーマに生まれかわってますから。死んでくださいよセスさん、ていうか死ね。
あやまったんだからおまえだけ死ね。
トーマ道連れにすんな。意味のわからない自己犠牲押し付けてくんな。)


「ティナ…早く戻るんだ、ゾーンが近い。早くしないと君が死んでしまう」
「セス…そんなにあなたは、傷ついてしまったのね…
セスはいつも私を守ってくれた…ソランとのことも許してくれた…それが本当のセス…。
やさしいセス、あなたが死ぬというなら、私も死にます」
■(どこにその必要性が!?この女の思考、読めねえ!!!!電波か!?)
(20話で自分の言ったセリフ、読み返してみろや!クーだかセーの人生を、不幸ではなかった人生を、
ムダにしないためにもとかなんとかかんとか?所詮その程度かこの女。
そして今度はこのがんこな死人のためにヘルガの人生まで犠牲にすると。)
おまえほど人生かろんじてる女、見たことねえよ、早く死ね、おまえだけ)


「ティナ…ティナ…、ああ、ぼくのために、ぼくの…ために…ティナ!ティナ…
ティナ!ティナ!ティナ、ぼくは…ぼくはそんなつもりじゃなかったのに…
また君を不幸にしてしまう!死んではだめだ!だめだ!死んではだめだ!ティナ!ティナ!」
■(いや…だからティナは死んでいいんだよおまえもトーマ殺そうとしたから同罪。早く消えてー)
尺ないんだからー。ってこいつティナティナばっか言ってるが、
少年トーマ11歳のことは内心どう思っているのだろう。これは本当にやさしい男だろうか。)

「死んじゃだめだ!ヘルガ!」
■(あ、お帰りトーマ。よしよしいー子だよく戻ってきた。おまえは強い子だね、
しつこい霊にのっとられそうだったけどよくはじきとばしたね。よしよし)

「ヘルガ」
「トーマ…」
「ヘルガ!俺はトーマとして生きるよ!」
■(うん!そうだね!)
「生きようヘルガ、生きるんだ!」
「うん!」
■(除霊しゅ〜りょ〜!はいはい帰りな帰りな、尺ないから!)

モノ(生きるんだ、ヘルガと同じ地球で。同じ時代を、同じ時を)

Aパート終了。

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…というわけでこのやたらあきらめの悪い死霊2人のかけあいが
かなりうざかったカサリギですが…。あの…現世に未練のない死霊のかたは
生まれ変わりであるトーマとヘルガ2人とも11歳が迷惑なので、
早く昇天してほしいわけで…。
まったく24話でトーマ叫び損というか…。なんなんだあの2人。
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なんかさー、根本的にちがうんだよね。転生ものの、

「何かしなきゃいけないんだよ、そうじゃなきゃ、
なんだってこんなつらい記憶を持って生まれたんだ」
(「ぼく地球」:輪8歳)と。


戦災孤児だった紫苑の生まれ変わりである輪が、
紫苑の意識に支配されそうになりながらも
地球上の戦争をなくそうと躍起になるのと、

横恋慕から紫苑を孤独に追い込み、狂わせた秋海棠の生まれかわりである春彦が、
「紫苑の孤独な心を、どうかあの少女に、伝えることができますように」
というせつなる願いでもって、
輪を救いたくて亜梨子を覚醒させようとするのとかと(それがシウの贖罪)

ちなみに転生ではないが、ヘルガの「どこかに私が私でいられる本当の場所が」
と故郷の絵を描き続けるのと、十二国記で高里が、「戻らなきゃいけない場所なんです、
でもぼくにはこの場所がどこだか思い出せない…」とくりかえし
蓬山の絵を描き続けるのとも、まるでちがう。
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あの…もうすこし論理的に脚本書いてもらえませんか…。イミわかんないんですけど…。

ここで私気がついたことがあります。
このAパートの脚本書いたひと、あまり脚本慣れしてるとは言えないと思います。
セリフまわしが、まるでなってないというか。

たとえば3話の、(ここテープ起こししてあった)
ベフォールのここらへんやイアン母のセリフの巧さとは、
明らかに別人の手蹟と思われませんか!
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「この人は苦しみの意味をわかっていたんだ。
ぼくたちも、その場所を見つけることが、できるだろうか」
「この愚鈍な列車のように、ぼくらはたどりつけない
…いつになったら…!」

「絶対帰ってみせる
そのためにもティナを探すんだ!」

「見つからなかったら?
僕たちもパルザのように勲章をもらうかい?」

「ヒースマ!」

「ここ百年たらずのの科学の進歩はめざましい
そう思わないか
この急激な変化は、未来に不幸をもたらすだろうな

「なにが言いたい」

「その進歩に、パルザも加担したのさ。
水面に投げられた小石さ
波紋は広がっていく」
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「イアンは、とてもやさしい子でした。
やさしくて、時々、それがいたいたしく感じることがあったんです。
まだ5歳の、あんなに小さい子が
私たちに尽くそうと、一生懸命だったように思います。
あの子はなにか、そう、家族との時間を、
一時も無駄にしたくないと思い込んでいるような、
そんな大人びたところがありました。」

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そこで!俺の推察として
ヘルガをなぜか主役の聖少女扱いしているなかむら監督が26話Aパート担当で、
上に示した3話の脚本、および俺の愛するベフォール担当が脚本:三井秀樹氏だと!

そう思い込んでいいでしょうか!
そうすると俺の中の萌え発生装置が、またしても脚本家・三井秀樹によって
起動させられたということで、かなり自分的におちつくのですが!!!
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本筋に戻ります。はあ普通に死んだひとと生まれ変わってめぐり合えるんですね、想いがあれば。
それが言いたかったんですか監督。
やっぱりなくていいです。生まれ変わり。

◆ていうかヘルガ、あんな気にかけた弟のことは…。
「施設に戻りましょう、弟?はて勝手にやってくんじゃないかしら?
私より背、高いし、私まだ子どもだし孤児だし、自分のことだけでせいいっぱいだもの」
おそるべき魔性…。どこが聖少女なんですか?
「可哀想な私の弟…。この体で、この子はどうやって生きていけばいいの」(24話)
と弟を哀れんだからには、
「待って。施設に帰る前に、弟のあの子はどうやって生きていくのか、
ちょっと探して聞きに行かなきゃ、気になって仕方ないわ」
それがほんとのおねえさん。まだティナの記憶持ってるんだからね。
そこらへんをこそ描写すべきだったのではないのですか?
「セラフィーヌの人生、クリスティーナの人生、彼女たちの人生を無駄にしないためにも…」
そんなもんよりおろそかにしちゃいけない関係性を、忘れてやしませんか聖少女さま。

◆そんでベフォールか…
自分が自分であることを捨てるのは、そんなためらいもなく苦しみもない描写でいのか?
今まで培ったものや、かかわった人との思い出や関係、そんなあっさりと捨てられるものなの?
あんなに帰りたかった故郷への哀惜は?
アギ、あんたギリシアに産んでくれたかあさんいるだろ。
そのひとへせめて伝言くらい頼まなくていいの?26年も待ってるんじゃないの?切捨てちゃうの?
ここは賢治の銀河鉄道の、「おかあさんは、ぼくを許してくださるだろうか」的な描写はほしい、
この人、実は大人なんだから。

今生きてる自分の意識を、もう混乱も不安も焦燥もなく、おだやかに忘れてしまえるものなの?

ためらいつつも記憶のレコード破壊するくらいの描写で、
今までの自分と決別する、そのいさぎよさを見せてほしかった。

そうでないと、500年も苦しんできた、アギたちベフォールのこどもの生き方が、人生が、
おろそかにされている気がしてならない。

◆クックス刑事
…コール家に電話。
「あの時の刑事さん!うちの子帰ってきましたよ!イアン!探してくれてた刑事さんよ!」
「ごめんなさい、もう帰ってきてます。ご迷惑おかけしました」
「…。あー、うん、よかったね…」

まー私の中でクックスさんは「ポー」のオービンさんなのでこれでよし、と。
(あの白い髪の少年たちはたしかにいたのだ…)アギたちのこと、
忘れないでいてあげてください。
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◆ティナとソランのラストめぐりあえたくだりですが、
よくTONO先生が、
「言いつたえによると少女まんがにはヒロインにはこの世にたった一人運命の人がいて、
その人はヒロインだけしか好きにならないおきてってのがあるらしいが、
現実には運命の人は結構何人もいて真実の恋も何度も訪れる」と言われておりますが、
そっちのがいいかも。
こーゆー物語内の「運命の絆」関係と、それが事件のきっかけとなってるさまは、
エンターテイメントとしては楽しい…ですけどねーメルとパルザの物語に波紋を広げる
くいちがう別離と悲恋のエピソードは大好きですからねー。てここも三井?

それに比べるとラストをおキレイにまとめるためだけにやってきた
ソランの生まれ変わりとヘルガの出会いは、なんだかどうでもいい。正直萌えない。
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セスとティナかー…。正直、興味ねーなー…、
ひと様のすてきなセス同人誌読めればそれでいいやー…と思いながら、
好きな女を救うために、サクリファイス、自分を犠牲にした男っつーと…。
瑠果だろやっぱり。と思って
ウテナ29話「空より淡き瑠璃色の」を見返してしまう。ついでに
ウテナ最終話も。その冒頭の、ジュリさんの話、よかったなー。
脚本は榎戸さんか。出典はカムパネルラかな?
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「そういえばあの少年の名前、忘れてしまったな…」
「幼い頃、溺れた姉さんを助けようと川に飛び込んだ少年がいて、
 その少年のほうが流されてしまったんだ」
「その子…死んじゃったの?」
「その少年の名前を、姉さんはすぐ忘れてしまって、
冷たい人だな、と思ったんだけど…今思い返そうとしてみたら…
私もいつのまにか忘れてしまっている…」

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ここらへんで
◆最後にトーマがでてこなかったことは、補完できるかなー。
そんなもんだよ現実。特にあんなヘルガみたいな
「弟…ま、なんとかやってくでしょ!」みたいに
可哀想な弟のことも探さないような薄情な聖少女様じゃ。

あ、ちなみに「ウテナ」のセリフのこのオチは、
ウテナが犠牲になって消えてしまい、みんな彼女を忘れてしまうんだけど、
彼女の犠牲によって、犠牲から解き放たれたアンシーだけは
ウテナを探しに世界に旅立つというすがすがしいオチで終わります。
そしてサブタイトルが最後にでます。『いつか一緒に輝いて』。さいこうです。

瑠果の言葉を送りたい。
「樹璃。彼女は愚か者だ。自分に降って来た奇跡が、
誰かの犠牲の上に成り立っていることに、気づかないのだからな!
だがそんなやつこそ奇跡を手にする!理不尽だと思わないか!?樹璃!!」
まったくです。さすが細田。←オイばらしてるよ。

ねーなんであの薄情なリアリティのない聖少女ヘルガ様が
なかむら監督の中では主役なのか、さっぱりわからない私はばかですか?
まわりで見てる子も、ヘルガ好きって子、ひとりもいないんですが…。
誰か教えてー。

せめてトーマが寺を継いで人々を幸せに導いてく描写くらいはほしい。
風の便りの誰か、チットとかの口頭でによってでもいいから。

※デュマのピン補完は、このあとのずーっと下のほうにあります。めっさ長いから】

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ファンタジックチルドレン、まー夢見がちなおとぎ話だったな!後半!
ありえないほど命や、輪廻や、情愛や、個としての「自分であること」の意識やそして
「生まれたところへ帰りたい」という望郷の想いが、おろそかにされていたラストだった!

「子どもの人生に影響を与えるような作品をつくりたかった」とはよく言ったもんだ!
「中心に残るものがあればいい」?
さすが選民思想の持ち主は、言うことがちがうね!
ナウシカの原画とかやっていたらしいですが、ジブリ系列にありがちな、
「俺は他よりすぐれているから」という鼻持ちならない感覚があるんじゃないの。

あのな、じゃあどうしてデュマは21話で可哀想な子どもだった描写いれたの。

母親恋しいだけのさみしい孤独な子どもだった、
父親からも道具としてしか見られなかった。本来は、生まれついての悪人じゃなかった、
そこにしか居場所がなかった、それしか生きるすべがわからなかった。
まわりにいる人間が悪かった。

ヘルガ「弟はどうやって生きていけばいいの!」とヘルガは想いをかけた、
それをデュマは受け取った。

そんで、なんだあのラストなんだあのラスト。

トーマが強い健全な子どもに育ち、セスの想いをも昇華できるほどの
たくましいまっすぐな子どもで、
そしてそれは「温かい家庭」で父ちゃん、母ちゃんに育てられたからです。

じゃあさ、FCを見ていた、デュマのように現実に親から愛されない子どもは、
どうやって自分の存在を肯定すればいいの?

ふみつけにされて、それでも友人や姉の手をかりて立ち上がる子どもの姿、
それをこそ夢物語にのせて描くべきではないの?

あんたはそこを切り捨てた。中心に残るものがあればいいと。
あたたかい家庭に育った健全な魂は、愛する少女や、友達を、
自分のことを犠牲にしてまでも助けることができると。

そして彼らしか残らないと。

ゲオルカのような親のもとに生まれてしまった子どもの末路は?
親を殺して自分も死ねとでも?

まったくお笑いだ、とんだ「子どもの人生に影響を与えたい」作品だよ。
「僕たちはあたたかい家庭に育たなかった、父親からも母親からも疎まれた。でも
きっと来世で会えるから。これが、目じるし」と腕に互いの名前でも
彫って心中する子どもたちがでてもおかしくないような内容だったなー!

まあそういうしゃれにならない事態でも起こってから気がついてください。
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そして現在の小中学生が、少子化の中で群れからはぐれないために、
対人関係にどれだけ神経を使って毎日をすごしているかとか、
そういう現状すらまったく知らないと思われる。
また、知る気もないんだろう。
70超えてから、それでも現実の中学生を取材して、物語にリアルをだそうとつとめた、
「子どもたちへの遺言だと思って金八第5シリーズの脚本を書きました」の小山内先生とはえらいちがいだ。
ちなみに金八は、子どもの視聴率高いです。エンターテイメント性に加え、
そこに作り手の、今の子どもを救いたいという、真摯な願いがあるからだ。だから子どもは見る。
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いややっぱおかしいだろバランスが。物語内のスタンスで、
トーマがセスで「許してくれ」で、そこに理不尽に殺されたソランがいないことが。
「いやだってその場にいなかったんだから」じゃなくて
あそこに出現すべきなの、物語上は。
「ソランだってあやまられてもしょうがないんじゃない」
という意見も目にしましたが、

ちがうんだちがうんだよ、贖罪・それがなかったら、
トーマに前世で人を殺した記憶がよみがえる必要性がないんだよ。
何かを為すために自然転生でも
なにか未練が、強い想いがあるからセスの記憶は自然転生でも消えなかった。

でも、セスがティナにしかあやまらないあのAパートは、はっきり言って作りこみが足りない。
意味がよくわからない。やっぱり誰が誰の前世で、生まれ変わりか、
視聴者をまどわせるひっかけがやりたかったんだろうこの監督。

なんかさー、自己犠牲(サクリファイス)の使い方も単純じゃないー?
ワンダーとかさ、哀しみ誘うような音楽使ってごまかしてるよ。
哀しいような演出と演技で使い捨てられてるよ。
ヒースマの死も、うまく使い切れてないもん。ちろっと、あ、ちろっと。
つーかさー、たかしって最終回で始末つけにくいキャラ殺してっただけなんじゃないの。
26話で閻魔にセスがナウシカみたく手ェひろげるのとかもさー、
「はあ?」ってかんじ。なにやってんのこの人?

ていうか音楽とかに頼りすぎだよね。
25・26の絵コンテとか…うまい?うまいかなあ??
自信ありげに言ってた「話づくり」とか…穴だらけだし…。
最終回の原画も、俺レベルの眼力ではどこだかさっぱり…。
俺、原画作画は、
細田山下八島鈴木博文クラスなら画面見るだけでピン!とくるけど…。

ま、ごまかしとひっかけと切り捨て?の監督かなーってかんじ。
いやまるで作りこみが足りてないだろこの話。
長年あたためてきた、ってどこらへんを。
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話をデュマに戻して。
まあ、前述のそういうことに頭がまわらないのなら、
本当に「子ども向け作品」をつくるべきではないな。
ていうか声高に主張すんな。

そもそもインタビューで「子どもの人生に影響を与えるような作品を作りたくて
ファンタジックチルドレンを作りました」って口頭で言っちゃうあたりからどうかしてるんだよ。

は?なにこのおっさん、何様?だって自分それができるもんとか思い込んでるかわいそうな人?
子どもは見ている作品から、影響を受ける作品からは自然に影響を受けていくものだし、
それがクリエイターとして作品づくりのモチベーションとかコンセプトだってどーなの?
つまり自分は子どもの人生に、影響がでるほどのものが作れる自信がある、と。

これ言えちゃうのはねー、よほどの自分の才能に心酔している謙虚さを知らない部類か、
教祖系か、自分を宮崎駿に準ずるくらいの影響力でもあるくらいにカンチガイしてるか、
さもなくばただそう思いこんでるだけのうかつなやつか。
いやこの人、言われたいんだろ、願望だろ、そういう。
ファンタジックチルドレン見た子どもが大人になって、
「僕はこの作品に影響をうけました」とか言われたい夢見がちな人なんだろ?たかし。

本当に子どもに見てほしかったら、フラッパーじゃなくてブレイドの連載枠でもかち取って、
(なぜブレイドかというと、児童文学の荻原規子作品のコミック版が連載されてたりするから)
そしてジュブナイル読む世代とブレイドの読者層は、おそらく一致するから)。

アニメ化情報のページとかで、「僕は君たちに見てもらいたくてこの作品を作りました。
見てくださいね!」とか言うべきなんだよ、そんなら見てみるガキも増えたろうさ。
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ヘルガの名前はノルド語の「神聖な」から?聖少女だ?
そんなもんはなからこの世に存在してねえんだよ!
いいかげん気がつけよ!もうそういう過去の遺物描いて
いちずな女の子を良妻賢母に育成しようみたいな描写やめとけよ!

はっきり言ってあの最終話、この監督はヘルガ以外のキャラの人生をおろそかにしている。

デュマのような弱者にこそ、現実を生き抜く強さを教えないでどうする?!
あとは「ありがとう」と「ごめんなさい」!
そして「あたたかい家庭」でもごはんは残すな!食べれる分だけよそいなさい!
(俺、町の商店の、おばあちゃん子育ち。ところでここはギャグですよ?)

そして「こまかいところにこだわらず、主流のいきおいを大切にする、
中心にのこるものがあればいい・見せなくていいところは見せなくていい」
というのは私の一時期いた小林プロの精神とも一致するが、
それはポイントポイントの急所を押さえている場合のみ有効な手法であって、
押さえるべき急所の位置がずれている場合は意味をなさない。
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この最終話の絵コンテを描いたなかむら監督は、
おそらく、ただうつくしい、よいものだけを提示しておけばよいと考える、
それが子どもによい影響を与えるエンターテイメントの役割だと考える、それだけの人間だ。

でも現実世界はいやおうなく容赦ないんだ。
ファンタジーワールドじゃねえんだ
その個人によって
世界の見えかたは美しくも醜くも変化する、
ならうつくしい世界と、うつくしい心根と、うつくしい関係を提示すればいいか?
そうじゃない、影を描かずして光は描けない。(小林七郎)

救えないのならば、犠牲を強いるのならば、
安易にそのキャラを犠牲(サクリファイス)としてだすべきではなかった。
なぜならこの監督はこの作品を「子どもに見てもらいたい」と表明したからだ。

りりかやおじゃる丸の大地監督が、日々おこる子どもの事件を耳にするにつけ、
「自分は子ども向きの作品をつくっている送り手として、
慎重にならなければならないと思った」という意見は、至極まっとうだ。
子ども向けを心ざす監督として。

そのことの意味をもっと考えてほしい。

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◆ここで煮え切らないデュマ擁護派のために、俺の妄想をひとつ
(ちょっと長くて脱線ぎみなので、興味ないひとは次の◆までとばしていい。)

デュマの最後。

場所:彼のつくった花の庭
そばに:崩れ消え去っていくしかないであろう姉の遺体
セリフ:「僕は、今日かぎり、ぼくの心の時間をとめます、永遠に」


はいこの3つのものから萩尾マニアが連想するのは?!

「ポー」の最終話:「エディス」のラストシーンだろ。
あれポーの主人公、永遠に歳をとらない少年、世界からはじかれた異端児である
エドガーが、生きることをやめたラスト、のオマージュっつーか
都合よく利用されただけなんじゃない、。

そしてあの庭はポーの「はるかな国の花や小鳥」のエルゼリの庭、
世間から隔離された、「現実に直面して悩んだり憎んだり悲しんだりすることのない」
誰かを愛する気持ちだけ存在している小さな箱庭です。別名アンシーの温室。
【「ポーの一族」】-----------------------------------------------------------
吸血鬼の少年エドガー、彼の妹のメリーベル、
そして妹を殺されたのちエドガーが仲間にくわえたアランという少年が、
ヨーロッパの各所を舞台に時代の折々に出現するそのおりおりのエピソードによってつづられる
連作シリーズ。彼ら時をこえて生き続ける不老不死の異種族の少年少女の孤独と哀しみ、そして
彼らに魅了し、追い求める普通の人々の姿がかかれている。

※やっぱねー、FC7話のラドクリフのベフォールを追う顛末の描写だけは、あきらかにあれ、
「ポーの一族」意識してるって。あの描き方、まちがいないって!
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ポーの最終話:「エディス」

自分はエドガーにとって、死んだ妹のメリーベルの身代わりでしかないことを
自覚しているアランは、そこにしか自分の価値がないことに苦しんでいる。
そしてエドガーとメリーベルの遠い子孫である少女、エディスと出会って
彼女を自分たち不死の一族にくわえようと考える。
(アランにとって、エディスは自分自身を見てくれないエドガーの身代わりである)
また、自分たちが殺したシャーロッテの妹でもあるエディスを幸福にすることで、
シャーロッテを殺した罪の意識からも逃れようとする。

エドガーはそれはエディスの幸せではなく、
エディスを幸せにできないもどかしさに
アラン自身が後悔することになると言って反対する。

そして火事からエディスを助けようとして、アランは死んで(消失)してしまう。
そしてふたたびすべてを失い、独りになったエドガーは
「帰ろう帰ろう遠い過去へ もう明日へは行かない」

そしてエドガーがひとり横たわる花の庭(?)のラストシーンにつながります。
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あ、なんか名前をFCキャラに書きかえられそうだぞ!

「自分は父親にとって、死んだ姉のティナの捜索用でしかないことを
自覚しているデュマは、そこにしか自分の価値がないことに苦しんでいる。
そしてティナの生まれかわりである少女、ヘルガと出会って
彼女を自分と同じ(老いの速さが同じ)一族にくわえようと考える。
(デュマにとって、ヘルガは自分自身を見てくれない家族の身代わりである)
ソレトはそれはヘルガの幸せではなく、
ヘルガを幸せにできないもどかしさに
デュマ自身が後悔することになると言って反対する」


あ、なんとなく似たかんじにできた!
偶然の相似は、こうやって生まれるんだね!
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ではなぜデュマはあの最期だったか?
浮かび上がるのは、そこしか生きられない、デュマという個体の弱さだ。

ここでもうひとつやっているジャンル:「チキタ」というまんがからセリフ借りてくる。
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「大きな木が 枯れるとき」
「何千年も生きた大きな木が 枯れるとき」
「どうして枯れるか 知ってる?」
「知らない…。どうして…?」
「木が 思うんだよ『もう充分生きた』『そろそろ死のう』『もういいや』って…」
(俺にとっても長すぎる寿命だ いったいいつになれば 思えるんだろう…?!)

(11話クリップ←この人は300年生きててもう死にたいわけだが。)
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ここは
25話:アギの
「トーマ、ここへ戻るには生きるという意志を強く持つんだ。
生を強く念じろ。そうすれば必ず帰ってこれる」
ともつなげることができる。

デュマにはもうそれがなかった。
強く念じるだけの生への執着が。

だからおしまい、もう生きていけないの。
「時間をとめる」=「自殺」=「輪廻の環にすらはいらない」=「魂の死」
という解釈もできようが。
いやぶっちゃけ始末つけにくい設定だから殺されたんだと思うけどねー。

ここでまたチキタから、ニッケルがクリップに言ったセリフをかりてくる。
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ニッケル:「自分の命が、惜しくないのか?!」
クリップ:「もう 人の何倍も生きたからね」
ニッケル:「そんなんで いいのかよ」
     「生きてるくせに 
      お前からはちっとも生きてる人間の匂いがしないんだ
      自分の命が大切でない人間なんて
      他人の命をおろそかにする人間よりもずっとずっと始末が悪い」
      (19話)

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で、こんな何百年だかを生きてきたデュマは、永遠に停止したわけだが、
でも、ここ、細田さんならおそらく、こうはしなかった。
そしてチキタのTONO先生も、クリップを人間に戻そうとしている。
大量の人間を殺し、『もう一度おまえに会いたい』/その願いはかなったし、
もう、なんの目的もない」
とペトラス皇帝の王宮で花壇の中で眠りについたクリップは、
7年後、花の中からめざめる。
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「ペトラス皇帝編」で、主人公チキタは、
どうして多くの人民のために人民を犠牲にしたしかし善人ペトラス皇帝をさばいて、
オルグを生かすために大量に人を殺して
(「これで 人で なくなったね」「ついに俺は 人で なくなったね」)
人間であることをやめたクリップをさばかないのか、


「なんてことを私は クリップにさせてしまったのだろう」
「だけど なにもかももう元には戻らない」
「そこで私は 密かにとあることを決意しました」
「それはクリップが私のために 人間の命をうばったのならば
今度はそれと同じだけの人間の命を これから私はクリップのために救ってみせよう」

「そうすれば あの子は もう一度人間に戻れるでしょうか?」

(※ここはすごい上のほうのセスティナ斬りで、「セス、死んでもつぐないにはならない。
トーマとして生きて、周りの人をしあわせにするの。それが…本当のつぐない…」と言ったヘルガのセリフと、
言ってる内容がかさなる部分があるのだが、
これをヘルガは、弟のデュマにこそ伝えるべきだったのではないか?
なんにしてもエピソードにのせて伝えようと真摯さでTONO先生のが作家として上)

このオルグの願いを遂げさせるためにチキタはクリップをさばかなかった。
そしてラーに、「俺はやっぱり、どうしても人を殺したおまえを許すことができないんだ…」
と告げる。1巻のチキタは「ならあやまれ!許してもらえるまであやまれ!」
と叫んでいたが、それでは通らないことに、チキタは気がついている。
でもなんかまだオルグもとんちんかんな方向に行かされてるので(作者によりわざと)、
クリップとラーを人間に戻せるのは、
結局両親家族を皆殺しにされた人間である、チキタしかいないのだ。

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細田監督とTONO先生のすごさは、
すべてを救おうとする姿勢だ。この2人はおそらく情が深いのだ。
しかも生半可な救いは描かない。生半可でない犠牲も必ず描く。
そこにこそ、この2人のクリエイターの特別な技量がある。
登場人物を罪におとすのも哀しみや孤独におとすのも、追い詰めるのも、
物語をつくる上では実はカンタンな部類の作業だ。

そういったものを描く作家の真価とは、
そのおとした登場人物を、いかにごまかしなく誠実に救いあげられるか、
その描写を、どこまでできるかにあると思う。
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私…おそらくFCで感じた不満は、すべて、
そのもうひとつやってるジャンル:「チキタGUGU」で補完できるんだよね。
どこをどう脳内で変換すればいいかわかるもん。たぶん私にしか作用しない補完だけど。

チキタを共感できる人にFCは共感できるけど、
FC好きなひとがチキタを読み解くのはかなり難しい。チキタはとかく抽象表現が多いから。

でも、「チキタ」における
「生」と「死」、「不老」「不死」
贖罪・罪・未練・執着・許し・情愛

これらのすべてを物語に乗せて語るとき、
FCよりもチキタのTONO先生のほうが、誠実であることはたしか。
エンターテイメント性ではFCに及ばないかもしれないけど、
なにかを伝えようとする真摯さとセリフのレベルは、チキタのほうが断然、上。
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しかし監督業っていうのは、作家性よりも、
どれだけオール分野のスタッフをかき集められ、
末端にいたるまでの現場の人間から、いかに信頼され信頼し、
(やっぱ監督って、人間的魅力、カリスマがないとだめだよね)
彼ら個々の能力をひきだせるか、あとはどこにだれだけ人材と時間を
配分できるか、ってとこかなー。

あれだけの人間の時間と手間をかけて作ってるんだからさー、
脚本レヴェルの下準備はしっかりと推敲!してほしいよね。
そんで脚本に口はさめるレベルの上部スタッフに、女いれようぜ女ー。
三井秀樹に加えて、面出明美氏なんてどーでしょう。
女がやなら小説家の酒見賢一氏とかとコラボってみては。
女の子に好かれる女の子の描写秀逸だしな。純文学だし哲学系だし
構成もこまかいとこまで目行き届いてるし、アニメ系とのコラボ「ダルク」中断してるし。
なんにしても監督がこの作品作ってくれたおかげで色々あばれられて楽しかったです!
おつかれさまでしたー!
三井さんもほかの演出家さんたちも、作画美術撮影彩色現場のかたたちも
おつかれさまでしたー!
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以上まあすべては毛糸売りのねーちゃんのたわごとですので。
基本的に「俺の好みとあわなかった」という感想でしかありませんからね!
「まあ、自分の思い通りにいかなかったからって、
なにかまわっちゃてる可哀想な人!と思ってくれていいですよ!
ここを読んでる方、で反感を持たれた方は、ご留意なされませんように…。(と逃げてみた)。
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◆補足:セス補完:いちばん最後5行でセス補完。(それまで斬り)(2005.04.05)
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最終回の感想、ぼちぼち読んでまわりはじめたけど、
みんなすげえなー作り手にツッコミもいれずに、
あのシーンだけでよく解釈してるよ…。えらいよ…俺できねー。
ていうかセスファン強いなー。想いが。
投影する自分のなにかがあるのかなー。

私もセス、「君に許されようとは思ってない」だったらまだもうすこし…。
あと、「本当にみんなの幸いのためなら、ぼくの体なんて100遍焼かれても」
(宮沢賢治とかナウシカの)的自己犠牲だったら…。
ティナなのね、とにかくティナだけなのね。まあ人間的かな。

とにかくティナには「許してほしい」で、
自分の罪清算しないと死ぬに死ねないかんじ?
自分がきれいでいたい人?をつらぬきたいひと?
なんか、とにかく我が強いね、ぼっちゃん。
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…実は私、ゾーンの狭間描写で、いちばん気になるのは、
セス個人の想いって…
ティナへの情愛とか、罪の意識って…「ぼくとっても傷ついたんだ」っていう心の傷とかも…
あれで昇華されたの…?

「ティナ…ティナ…、ああ、ぼくのために、ぼくの…ために…ティナ!ティナ…
ティナ!ティナ!ティナ、ぼくは…ぼくはそんなつもりじゃなかったのに…
また君を不幸にしてしまう!死んではだめだ!だめだ!死んではだめだ!ティナ!ティナ!」

…あの人、結局ティナを不幸にしてしまう自分なんて嫌いだーって「ぼくはだめなやつだーー」
「やっぱ消えたほうがいい!自分…しょぼ」(意志の揺らぎ)

で、トーマの「俺は生きるんだってば!」にはじきとばされたんじゃ…。
なんかあの消え方って…もっと納得していさぎよく消えていってほしかったんですけど…。
(※あ、ここ下でひっくりかえします)
なんだろうなあ?俺、男にすごいきびしい人?
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私、他のまんがにもすごい想いが強い人で、
同じような立場にたたされた、似たキャラっているじゃん。
物語内で、同じ役割を課せられてるキャラ。
実は秋海棠よりなによりセスって俺の近似キャラはキサスなんだけど、
(彼女を守ろうとしてついた傷・とにかくその女に一途・
「取り返しのつかないことって、あるんだな…」・罪をおかした人は
どう昇華されるべきかという役を背負わされてる)

まあキサスは俺すんごい長編脚本でマジで考えたことあるので(未発表)
こんなとこで語りきれないので、置いといて。

ラブレスの立夏が、(俺のブログ24話感想参照)
「今より先に進みたくない
大切なのは過去で思い出で
未来には行きたくない

だから今ここに
オレがいても何の意味もない」

って、「自分なんかいっそ消えてしまえ!」って思っても、
それでも未来に向けて立ち向かおうとする立夏が好きなのね。
比べちゃって、セスを認めちゃうと立夏を否定してしまう気がしちゃうのね。
なんか、俺の中で折り合いがつけられないんだな。

はい、全部まぜて考える私が特殊です。認めます。

でもやっぱり、自分がきれいでいようとする人って嫌い。
そのために誰かを犠牲にするひともいや。
なんかその断罪のように消されたね、セスさんて。

俺そこまでひっかけでセスを昇華させなかったんなら、
この監督あなどれないなーって思ったけど。
ていうか俺、そんでさっき宮沢賢治モチーフにしたハガネ本読んでて
ふっと思ったんだけど、
(えーと、FCと『銀河鉄道の夜』(ねこのやつ。アニメ映画)のつながりは、
FC2話で完全に演出パクったシーンがあります。
列車の中のチットの視点切り替え、ベフォールの消えた扉)


トーマは寺の子だろ?仏教だよな。宮沢賢治も実は法華経(仏教のひとつ)
の教えがベースにある作家なんだけど、
仏教って、みんなを幸せにするのね、銀河鉄道でも「あのサソリのように、
本当にみんなの幸いのためなら、ぼくの体なんて百ぺん焼かれてもかまわない」(別役実:訳か?これ)

「トーマの心臓」の贖罪とラストユーリの選ぶ道は神学校で、キリスト教なんだけど
「そして彼を生かすために、ぼくはぼくのからだがうちくずれるのなんか、なんとも思わない」
は上の賢治のセリフほうふつとさせるだろ。トーマ・ヴェルナーの場合は…語ると長いやめとく。

ヘルガもセスに言ってたけど、「トーマとして生きて、まわりの人を幸せにするの
それが本当のつぐない」ていうのは、仏教ぽいとも言えるわけ。

ついでにFC17話でアギが最初さ、「かあさんはね、僕が小さいときから、きっと人のためになる
立派な科学者になれるよって言ってくれてた」ってセリフあるけど、

だからー、FC界で価値がある子は、みんなを幸せにしようとする子なの。

最終回のセスって、はっきり言って自分とティナのことにしかこだわってないよな…。
だからあんな歯切れ悪い消されかた…なのかなー…なんて。

…監督ってセス好きだと思う?
お気に入りなら昇華させるよな、奴を満足させてから消えさせるよな。
でもあれって…。もしかして…ラスボス…。

ははは
実はセスが、言い分では最初トーマを自分と別個人(「トーマになりきれなかった」)
としてとらえてたので、トーマとセスは別人ととらえてた私ですが、

もっと自然に、
セスの「死んではだめだ!」のいちずな願いがトーマの「死ぬな!ヘルガ」の想いと完全に
一致したとき、想いの2重写しがきれいに重なり、そこではじめてセスはトーマになりきれた

ととらえるのが普通でしょうね。
わかったわかった。はいよ。補完終了!
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と思ったらまだでてくるよー、終わらないねー。
このあとの私のセスについての考察は、次のとこに続きますー