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私が主催する喜久謡会社中有志で、今年も謡曲史跡巡りの旅が企画された。
今年の行き先は、奥州平泉と松島、安達原を訪ねる「みちのく」への旅となった。私もオブザーバーとして同行した。 この旅行の目的は史跡を訪ねるだけでなく、その場所に因んだ謡曲の一節を現地で謡うのだ。 一行は新幹線で一関に行き、そこからからバスを仕立てて平泉に向かう。ここは奥州藤原家三代の栄華を今に伝えると共に、源義経最後の地であり、一度は行きたい場所であった。
華々しく平家一門を西海に沈めた義経だったが、その戦功も虚しく頼朝に狙われる事になり、都から逃げ尼崎から船に乗る
も暴風雨に見舞われ難破する。 やがて吉野山中を抜け、安宅の関を抜け、平泉の藤原秀衡のもとに行くのは謡曲でもご存知の通りだ。 その義経をかくまい奥州の次の王にしようとまで入れ込んだ秀衡だったが、一年と経たずに秀衡は亡くなり、頼朝の圧力は増して、ついに息子の藤原泰衡は義経討伐の兵をあげる。 ここに戦の天才といわれた義経は、あっけなくその人生の幕を、衣川の館にて下ろす事になる。 その後、頼朝を恐れ義経を裏切った泰衡も半年と経たず鎌倉軍に攻め滅ぼされ、平泉は炎上し、奥州の覇者、藤原家の栄華は終わりを告げたのであった。
我々一行は、藤原家の栄華を今日に伝える中尊寺金色堂を後回しにして、敷地内にある白山神社能舞台に向かった。
実は、せっかく行くのだから、舞台の上で謡いを謡って奉納出来ないかとの参加者の希望があり、事前に幹事さんが中尊寺及 び、こちらで演能される喜多流の先生と関係各位にご相談をした。 すると、我々の主旨をご理解して頂き、舞台に上がる事が許された。 神社の舞台に上がるとなれば、立派な奉納である。 こうなれば、こちらもちゃんと参加者の稽古をして伺おうということになり、着物も用意しての参上であった。
着くと社殿内陣で玉串を捧げるように指示され、参加者はいきなり緊張する。
皆出来る限り恭しく拝礼して、一同、身を引き 締めて舞台に上がる事になった。
義経に因み屋島の謡いを全員で謡い、仕舞を代表者が四番ほど勤めて奉納は終わった。
皆精一杯勤め、居合わせた観光客に拍手を頂いて退場した。 ご理解ご協力頂いた関係各位に心からの御礼を申し上げたい。 短い時間であったが、参加者は一生の思い出になったと胸を熱くした。
さて、それから一行は金色堂に向かい、その重厚感と華麗さに見とれた。
やはり本物はオーラが違う。 中尊寺を出た我々は衣川ほとりの義経堂に向かう。 ここで義経が自刃したという。一行は観光客に見守られながら船弁慶のクセを謡った。 私は記録係宜しくパチパチとカメラのシャッターを切りながら、皆の謡いっぷりに聞き惚れていた。 上手なベテランが初心者を引っ張りなかなかのものだ。 これも立派な供養に違いない。義経も喜んでくれたのではないかと思った。 この後、毛越寺でも謡い、奥州を後にした。 一行は仙台に宿を取り、名産の食事に舌鼓を打って初日の成果を喜びあった。
二日目は、融の大臣が都の邸宅に写したという塩竈、松島巡りである。
塩竃港から快速艇に乗る。島々の松が見事な景色を作り出す。 この壮大な景色を、自分の邸宅に作ろうという融の発想が凄い。 肌寒かったが、デッキから見る海と島と空は、素晴らしかった。 船上で謡えばよかったが、船を追いかける海鳥に餌を投げるのに夢中になってしまい、機会を逃した(笑)。 松島に着くと、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に建立したという五大堂があった。これは予定外だったので、謡わずに やり過ごし、瑞巌寺に向かう。 ここの石窟は有名である。受付けで謡いを謡いたいと申し出たら、門前でお願いしたいとの事。 観光客の多く通る観音様の前で、融の一節を謡い出した。「あれは何?」「謡いじゃないの?」「へー」と観光客が足を止める。皆稽古の甲斐があって、私が音頭を取らなくても朗々と謡う。 なので今回もカメラマンに徹した(笑)。 謡というのは、こうした歴史ある旧跡の中でも違和感なく溶け込んでしまう。 現代のストリートパフォーマンスとは違うのだなと感じた。 この後ゆっくりと観光をして食事にありつく。刺身や牡蠣鍋となかなか豪華であった。
さて、二日間に渡る旅行も終わりが近づき、バスで2時間南下して二本松の安達原に立ち寄った。
ここに伝説の鬼婆の墓である黒塚と鬼婆が住んだ石屈がある。
真弓山観世寺の境内にその石はあるのだが、なんでこんな 巨大な石が積み重なっているのだろうと思うほどの大きさである。聞けば縄文時代からあるらしいとの事。 昔この辺りは、阿武隈川の流れの中にあって、洪水で巨石が流れてきたのかもしれない。そこに鬼といわれる者が住みついて、伝説を生んだのではないか。資料館には、おどろおどろしい伝説を解説した絵図や、包丁が残っている。 寺の承諾を得て、我々は鬼退治する場面の謡いではなく、ロンギの所を謡った 。都暮らしを感じさせる場面である。 見ると謡曲史跡保存会の立て看板があり、あちらの会に参加している父も、ここに来たのかな?と、思わぬ所で親父を思った。最後に黒塚に立ち寄り合掌して、今回の旅程は無事に終了した。我々は郡山に向かうバスで附祝言を謡って旅を締めくくり、楽しい思い出を胸に帰京したのであった。 謡の稽古は難しい。けれどこんな楽しいこともあるのだ。 二日間雲ひとつなく晴れ渡った事、多くの方にお世話になった事を感謝申し上げて筆をおきたい。 ありがとうございました。(遠藤喜久)
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