2007年4月

2007年4月26日(木曜) 佐賀編

駅弁膝栗毛、4月は「駅弁早慶戦」!
後攻は、我らが早稲田大学の創始者・大隈重信の故郷、佐賀。
JR長崎本線・佐賀駅の駅弁を取り上げる。



JR佐賀駅は、博多から長崎行の特急「かもめ」で35分。
佐世保行の特急「みどり」と合わせて、毎時2本運行されており、
隣県・福岡との関係が非常に深い。
博多〜肥前山口間で特急「かもめ・みどり・ハウステンボス」を
併結する列車では、最大13両編成で運転され、
短編成化が目立つ地方の特急の中では、珍しい存在である。
このほか、2駅隣の久保田駅から分岐する唐津線の列車も、
県都・佐賀駅まで直通運転している。



佐賀駅の駅弁は「あら玉」が販売している。
売店(営業時間:7時〜21時、遅い時間は品薄)は改札を出て直進、
駅バスセンターへ向かう通路の左手にあるほか、
さらに進むと「あら玉」が経営する「とんかつ屋」さんがあり、
この店頭でも販売がある。
もちろん事前に伝えておけば、取り置きも可能である。



佐賀の名物…、首都圏に居ながら、パッと浮かぶ人間は少ないだろう。
せいぜい、出てきても焼き物の「有田焼」である。
実は佐賀の駅弁においても、名物は食べ物よりも「容器」!
「佐賀名産・特製ちらし寿司」(1260円)のウリは、有田焼を使った丼なのだ。
中味は普通のちらし寿司だが、容器は高級絵付けが施された
ホンモノの「有田焼」。しかも季節によって絵柄が変わるという。
1260円という高めの価格も、この容器の存在が大きいが、
中味も捨てたもんじゃなく、14種類というバリエーション豊富な具が嬉しい。
もちろん、持ち帰れば記念になるので、初めて来た人なら買い求めておきたい駅弁だ。



「有田焼は荷物になってちょっと…」という人にお薦めなのが、
「かにちらしずし」(630円)である。
“有明海でカニ?”と思われるかもしれないが、使用しているのは北海道産。
なんだかなぁ…と思った方、気を落とすのはまだ早い。
この駅弁を味わうポイントは「かに」じゃなくて「酢」なのだ。
訊けば「ちらしずし」に使われる酢の調合は、
「あら玉」上層部のみが知るトップシークレット。
売店の方も「我々には判らないことなのよ…」と答えるのみだ。
全国各地を見回しても「酢」がウリという駅弁は、佐賀だけ!
しっかり効いた「酢飯」を味わうには、価値ある駅弁ではないか。



昨今、各地域のブランド肉がブームとなっているが、佐賀とて例外ではない。
「あら玉」が去年夏、満を持して登場させた「佐賀みつせ鶏 とりトロ弁当」(730円)は、
佐賀県産の「みつせ鶏」のかしわめしと、鶏の胸と手羽の間からわずかに取れる肉を使って、
オリジナルたれで照焼きに仕上げた逸品。
「みつせ鶏」とは、佐賀北部、福岡と接する三瀬峠で育てられた鶏とのことである。
やや甘めの味付けで、口当たりがとてもいい駅弁である。



多分にもれず、昭和後期に高架化されたとみられる佐賀駅。
駅自体は、ホームに売場があるわけでもなく、
無機質、ビジネスライクな感じがして、あまりいただけないのだが
駅弁はしっかりいただける。
佐賀駅を使う人には、ビジネスの用務客が多いと思われるが、
佐賀〜博多間の30分あまりの移動、特急列車に駅弁を買って乗り込めば、
仕事で来たとしても“プチ旅行気分”が味わえるに違いない。
佐賀の駅弁には、人の気持ちをホッとさせてくれる
“がばいばあちゃん”のような存在になりうる可能性も秘めている。

■旅のワンポイント〜駅弁早慶戦A「大隈重信の故郷・佐賀」

はなわの「佐賀県」や「佐賀のがばいばあちゃん」などで話題の佐賀県。
振り返ってみれば、佐賀は維新を担った“薩長土肥”の一角。
鍋島藩の中心地として栄えてきた歴史があるのだ。
実際、降りてみると、意外と見どころが多いことに気づく。



佐賀が生んだ人物の代表格といえば、早稲田大学の創始者・大隈重信である。
今年はハンカチ王子に、卓球の愛ちゃん、個人的には“ポスト荒川”と名高い
フィギュアスケートの武田奈也ちゃんも入学して大いに期待の高まる早稲田。
ここまで話題づくりに躍起になるのも、今年は早稲田大学創立125周年。
大隈自身も「人生125年説」を唱えた、ある意味“とんでもない”人物である。
佐賀城跡近くには、今も生家が残り、記念館が建てられている。



早稲田OBの中には、慶応の福沢が「1万円札」になって、
大隈がお札の肖像画にならないことを不満に思っている人もいるかもしれないが、
大隈には、意外と知られていない大きな業績がある。
それは、日本の通貨を「円」としたことである。
肖像は時代と共に変わっても「円」という単位は変わることが無いのだ。

そもそも、通貨としての「円」には、植民地時代の香港に起源があるという。
「丸いこと」を表す「円」、中国語読みをすると「ゲン」となり、
韓国語読みすると「ウォン」となる。
つまり東アジアで使われている、円も元もウォンも、もとは同じということになる。
実際に行われるまでは、長い道のりだろうが、東アジアにおいて
ヨーロッパの「ユーロ」のような通貨統合が行われるとすれば…!?
「円」という言葉の重みは、格段に大きくなるに違いない。
ひょっとすれば、アジア通貨として、大隈の肖像画の可能性もゼロじゃない。
少なくとも「脱亜入欧」を唱えたような人物よりは、はるかに可能性があるのだ。
ま、大隈内閣時代には「対華二十一か条」もあるから、チャチャが入るとは思うのだが…。



大隈もまた「屋根裏部屋」で勉強をして、世に出て行った人間である。
生家の勉強部屋には、眠くなると頭をぶつけ、目を覚ましたとされる梁も残る。
大学全入時代の今、早稲田大学に入る人は、どのくらい勉強をして入るのか?

私はというと…、早稲田に行こうと思い出したのは、中学生の頃だろうか。
校内放送で、ラジオっぽい台本書いたり、ディレクターもどきなことをして、
「マスコミ関係へ行ってみたい」と言ってたら、中学の先生は気楽なもんで、
「じゃあ、早稲田か慶応にでも行かなきゃダメだな」等と言い出す。
真に受けて、高校1年で最初に受けた模擬テストに
第一志望「早稲田大学・社会科学部」なんて書いてみた。
とはいえ、高校時代はほとんど勉強もせず、
原秀則の「冬物語」なんかを読んで、浪人も面白いなぁと思い出し、
終いには、保護者面談で「キミは三年浪人しても行く大学が無い」などと言われる始末。
母親は号泣して、面談が終わるのを待たずに、席を立って帰ってしまった。
当然のように浪人、深い根拠もなく「慶応=金持ちが行く学校」と思い込んでたから、
河合塾の千駄ヶ谷校にあった「早大特別文系コース」なんてのに通いだした。
結局、早稲田4学部を含む13校の試験を受け、最後の試験が「社会科学部」。
終わったらすることが無いもんだから、毎日、護国寺の大隈の墓に手を合わせてたら、
本人もびっくり、まさかの合格。
以来「早稲田合格の秘訣は?」と訊かれたら「大隈の墓にお参りに行くこと」と
答えるようにしているのだが、この時、下宿先にテレビが無くラジオ中心の生活に。
一方、潜って受けていた小論文の森永という講師が面白くて、文章書きの楽しさを知る。
で、ラジオで物書きになってしまったのだから、世の中というのは判らない。

結局、7年通って、改めて思うに、早稲田は「何もしてくれない」大学。
自分で何かをしようとすれば、いろんな可能性がある。
でも、今の18〜9歳じゃ、よほど志が高くないと大変か?
ま、面白い人間も多いから、いい意味で“出会い系”の大学とも言えるかも!?



前回の中津では、福沢についてほとんど書かなかったのに対し
大隈についてはツラツラ書いてる…、何だかんだ“早稲田びいき”だと
再認識させられてしまったわけだが、佐賀市内中心部には、
鍋島氏三十六万石の居城だった佐賀城址が残っている。
面白いのは、史料館が「午後8時」までやっていることだ。
普通、歴史資料館といえば、5時前後で終わってしまう所が多いのだが、
8時までやっていれば、ビジネスついでの観光でも行きやすい。
しかもボランティアが充実しており、気さくに話しかけてくる。
そういや、大学のサークルで一緒だった博多近郊の姉ちゃんが、
「九州の人はすぐに話しかけてくる」なんて言ってたことも思い出した。



せっかく佐賀へ来たのなら「旧長崎街道」も歩きたい。
夕どきなら、家々から夕飯の香りが漂う旧街道。
道端では、一時代前のように、子供同士が遊ぶ姿が見られる。
この雰囲気は、誠にいい!
で、注目するのは「鋸の刃状」の独特の町並み。
街道に対して家が出っ張って立てられて、わざとデッドスペースが設けられている。
理由は「敵が攻めてきた時、その窪みに隠れ、不意を突いて攻撃できるため」なんだとか。
城下町ならではといえよう。



今回はじっくり回れなかったのだが、佐賀の街は実に370体もの「恵比寿像」がある、
「えびす様」の街でもある。
付近に優れた石工の人が多かったことと、街道沿いで
商売繁盛を願う人が多かったことが「恵比寿像」が増えた理由なんだとか。
もちろん佐賀駅のホームにも、恵比寿さまが居る。

初めてなのに、なぜか懐かしい「佐賀」の街。
失われてしまったはずの風景が、当たり前のように残る「佐賀」の街。
ただ、通過してしまうには、勿体無い街である。

●入れて嬉しいの「嬉野温泉」






JR佐賀駅から、佐世保線直通の特急「みどり」で30分弱。
列車は、武雄温泉駅に到着する。
この駅からは、真っ赤なボディをしたJR九州バスが発着していて、
長崎街道沿いの名湯・嬉野(うれしの)温泉へ行くことができる。
嬉野温泉では、大村線の彼杵方面へも、乗換えることが出来るが、
ここはやはり、嬉野温泉のお湯を味わいたい。







今回、私がお世話になったのは「嬉泉館」という旅館。
ここは、昭和58年開業という比較的新しい小さい宿ながら、
自家源泉を持ち、掛け流しのお湯がすばらしい宿。
嬉野のお湯の雰囲気は、首都圏では湯河原に近いものがあるが、
ヌルヌル感は日本随一!
まるでローションに包まれているかのようなヌルヌル感だ。
こりゃ、たまらん!「嬉泉館」では特にあつ湯がいい。
ある入浴剤メーカーの研究でも、嬉野温泉は日本一の「美肌の湯」とのこと。
女性はもちろん、男性でもヌルヌル感と、肌スベスベ感を味わう価値は高い。
九州新幹線長崎ルート開業の折には、嬉野温泉駅が出来ることが決まっており、
これから、ますます知名度上昇が予想される温泉である。

「佐賀」、なかなか侮れない!



2007年4月23日(月曜) 行橋編

“ハンカチ王子”加入で、この春、話題の「東京六大学野球」。
六大学の華といえば、何と言っても「早慶戦」。
そこで「駅弁膝栗毛」も人気に便乗して“駅弁早慶戦”を…。
てことで、今回はJR日豊本線・行橋駅の“駅弁”をご紹介。



行橋(ゆくはし)というと、東京ではなじみのない地名だが、
小倉から大分方面へ特急で15分、普通列車でも30分ほどの所にある。
博多行の特急「ソニック」は30分間隔、普通も日中はほぼ20分間隔。
下関方面へ直通する列車も多く、高架化された近郊の小奇麗な駅である。
また、筑豊地方へ第3セクターの「平成筑豊鉄道」も発着。
北九州都市圏の一角を担う街である。



行橋の“駅弁”を紹介したい所だが、残念ながら駅では売られていない。
実は、去年(2006年)9月末で撤退してしまったのだ。
ただ、駅弁屋さんの「小松商店」は、駅前商店街の一角で、
街の弁当屋さんとして営業している。
(営業時間:朝8時半頃〜夕方6時頃まで)
駅正面の道をまっすぐ向かうと、2〜3分で右手に見えてきたお店は、
土間が今も残る、昔ながらの日本商家。
こんな昔ながらの手作りの駅弁屋さんが、全国各地で減っている現状は、
ほとんど広く伝えられることのない寂しい話。
現在、昔の駅弁では「かしわめし」と「幕の内弁当」だけを作ってくれる。



北九州定番の「かしわめし」(550円)は、もちろん手作り。
しかも注文を受けてから作るため、温かいものをいただくことができる。
かしわのパーツが、比較的大きいのが特徴。
どの駅の「かしわめし」よりも、家庭的な味を堪能できる。



「上幕の内弁当」(840円)も、かなりのボリューム。
この価格で、これ程多くの種類を盛り込んだ幕の内はないだろう。
特急列車への積み込みも行われていたようだが、それも過去の話である。



首都圏では、常磐線で見られた「白電」(415系電車)。
こちらは春のダイヤ改正ですべて引退してしまったが、
北九州ではまだまだ健在。
関門トンネルをくぐって、直流電化の下関へ乗り入れる電車は、
基本的に「白電」となる。
日豊本線を走る白電には、ボックスシートも多いので、
昔ながらの駅弁旅が楽しめそうである。

■旅のワンポイント〜駅弁早慶戦@「福沢諭吉の故郷・中津」

再び脚光を浴び始めた「東京六大学野球」
その花形は、何と言っても「早稲田×慶応」、早慶戦である。
特に「春の早慶戦」は、新入生にとっての一大イベントになっている。
そこで、今回・次回は、駅弁を食べながら、
早稲田・慶応の創始者のふるさとを訪ねてみることにした。
私自身が早稲田出身(ホーム)なので、まずは慶応先攻。
今回は、大分・中津の街を歩く。



中津は、博多〜大分を結ぶ、振子特急「ソニック」もすべて停車する
大分県北部を代表する都市である。
現在、大分県に属してはいるが、明治の初めには、
福岡と大分の間を行ったり来たりしたことのある場所。
どちらかといえば、福岡・北九州生活圏の一部といった雰囲気がある。
昭和後期に高架化された様子の中津駅から、改札を出て右側、北口へ。
「福沢諭吉・旧居」へと続く、石畳の寺町通りへと歩みを進めていく。
訊けば、13もの古刹が軒を連ねるという。
しばらく行くと、真っ赤な壁が現れた。
通称・赤壁寺の「合元寺(ごうがんじ)」。
境内には福沢諭吉が学業祈願をした「お願い地蔵尊」なるものもある。






寺町通りで日向ぼっこしている子猫をからかいながら歩いていくと、
程なく、年間5万人を集める観光名所「福沢諭吉・旧居」が見えてくる。
正面にそそり立つのは、1万円札でおなじみ、福沢諭吉の銅像。
奥に旧居と土蔵が見えてきたが、残念ながらこの時は改修中であった。
諭吉の勉強部屋は、窓が一つしかない土蔵の2階にあったそうだが、
実のところ、15歳の頃までは勉強は嫌いだったと言われている。
このほか資料館には、1万円札の最初の一枚なども展示されている。



中津は10万石の城下町だった。
そのシンボル・中津城の天守閣からは、豊後水道を眺めることが出来る。
築城は安土桃山時代の1588年。
藩主は、黒田家、細川家、小笠原家、奥平家と続き、
豊前・豊後の中心地として発展していくことになる。
実は今の中津市街地、築城当時の町割りのままなんだとか。
道理で入り組んだ道が多いわけだ。



今回、中津を歩いて最も意外だったのは、
中津は「医学」の街でもあったということだ。
特に「村上医家史料館」と「大江医家資料館」は見応えがある。
江戸時代、藩主が前野良沢を助けたことから、
「解体新書」が江戸時代のまま、よく保存されているほか、
華岡青洲の世界初の麻酔を使った手術が描かれた絵など、
日本の西洋医学草創期の資料が充実している。
また、史料館のボランティアの方が、
気さくに解説してくれることもあって、訊く方も興味津々になってしまう。

この中津からは、外科医のパイオニア、整形外科医の開祖、
日本初の洋式歯科医などなど、日本の医療に大きな足跡を残した人が出た。
訊くところでは、歴代中津藩主が「蘭学」を重視したことと、
世界への玄関・長崎に近い土地柄で、新しい情報が入りやすかったことが、
中津で「医療」というものが発達した理由だという。
「医療」にまつわる様々な問題が噴出する昨今、
「医師」を志す人なら、一度は訪れておいたほうがいい街かもしれない。



中津は、意外に「街歩き」が面白い街である。
しかも半日あれば、見どころをほとんど網羅出来るのがうれしい。
福沢の旧居だけ見て帰るのはもったいない。
街中を歩いて、なぜこの街から、福沢が生まれたのか?
なぜ、この街から、日本の医療をリードする人物が輩出されたのか?
じっくり考えてみてはどうだろうか?



再び駅に戻って、博多行の特急「ソニック」を待っていたら、
ひと足早く、東京行の寝台特急「富士」がやってきた。
この中津で鈍足の客車列車は、俊足の電車に抜かれてしまうのだ。
さあ、私はひとまず博多へ向かって、次回は佐賀へ。
「駅弁早慶戦」第二弾、早稲田の創始者・大隈重信の生家を訪ねることにする。



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