2006年5月

2006年5月30日(火曜) 吉野口編



5/20付日経新聞・土曜別刷りの「NIKKEIプラス1」の一面、
「何でもランキング」は「取り寄せられるすし駅弁」であった。
日経の記者の方が、この連載を読んでくださった様で、
協力の依頼があり、私も微力ながら協力させていただいた。
今回は、そのランキングで6位にランクインした
JR和歌山線・吉野口駅の駅弁を紹介する。



JR和歌山線は、奈良県にあるJR関西本線の王寺と、
県庁所在地・和歌山を結ぶ、およそ88キロの路線。
王寺から途中の高田までは、天王寺から直通の区間快速が
ほぼ20分に1本走る(右)、大阪近郊の路線。
高田〜和歌山間は、30分〜1時間間隔で、紀ノ川沿いを
2両のワンマン列車(左)が走るローカル線である。
どちらの車両も、首都圏ではなじみの無い顔だが、
実は左側のワンマン列車、国鉄時代の25年ほど前は、
常磐線各駅停車〜地下鉄千代田線を直通していた車両。
常磐線に新車を投入したため、余った車両の一部が関西へ移動、
短い編成に小分けにする改造を受けて、
ローカル線で第二の人生を送っていたのである。
ちなみに、車内はそんなに変わっていないので、
常磐線〜千代田線を愛用していた方なら、
ちょっとした郷愁に浸れるかもしれない。



実は吉野口駅、JR和歌山線と近鉄吉野線の乗換駅である。
1・2番線は近鉄吉野線、3・4番線が和歌山線。
売店は、JRと近鉄が共用する2・3番線にある。
(営業時間:8時〜17時)
JRはこれから先が長い和歌山方面、
近鉄もこれから先が長い大阪・阿部野橋方面のホームにあたり、
売店の設置場所はいいが、いかんせん途中駅。
購入は、列車交換がある場合の待ち合わせ時間に限られる。
また、この辺りの和歌山線は、日中は1時間に1本の運行。
しかも、常磐線のお古だから、横に長いロングシート。
駅弁を食べるには、ちょっと辛い。
(これは近鉄の急行も同じ)
敢えて食べられる空間を挙げるとしたら、近鉄特急か。
いずれにせよ、この駅に駅弁が生き残ってきたことが奇跡的。
食べる時は、その奇跡に出会えた喜びをかみ締めたい。



ちなみに、調製元の「柳屋」は駅から歩いて2分ほど。
渋い木造駅舎の1つしかない改札口を抜けて、
駅前の道を真っ直ぐ進み、突き当たりの左角にある。
折角、立ち寄ったのなら、ここまで行ってもいいだろう。
奈良・三重のあたりは“近鉄王国”で、JRは肩身が狭いが、
驚くべきことに、奈良のJRでは吉野口が唯一の駅弁販売駅。
当然、ここが唯一の駅弁調製元である。
数年前までは、奈良駅にも駅弁があったが、いつしか消滅。
今や奈良駅も改築中で、県の代表駅としても寂しいくらいである。



実は奈良の主要駅の多くで「柿の葉寿し」が売られている。
その中で、山間の小駅に「柿の葉寿し」が生き残ってきたのは、
美味しさや、販路拡大はもちろん、
公式な「駅弁」というブランド力も大きいのではないか。
列車が過ぎ去った後の吉野口駅。
鳥のさえずり以外聴こえない静寂を聴覚で感じながら
小さな柿の葉の包みを手にして胸が高まる。
いざ、開封!
鯖の光を視覚で感じた瞬間、鼻腔を通じて、
葉っぱと酢が混ざった香りが嗅覚を刺激。
思い切り頬張れば、米の甘さと〆鯖の酸味を
味覚を感じたところに生まれる心の平安。
鯖の「柿の葉寿し」ほど、また食べたいと思わせるものはない。
ちなみに「柳屋」では、鯖・サーモンの2種類があり、
双方のミックスも可能。
予約の際は「駅弁仕様で」とひとこと添えておけば、
駅弁マーク入りの包装にくるんでくれる。(880円)



「柳屋」の駅弁、もう1つの目玉が「鮎ずし」(800円)。
明治44年創業と記された包装紙が、重厚感を与えている。
戦時中は、一時販売を中止したこともあるそうだが、
昭和25年には復活、半世紀を超える歴史がある。
吉野の鮎ずしは、平安時代の書物・延喜式にも
記述が見られ、京都御所にも奉納されていたという。
昔のご馳走を、1000円に満たない価格で食べられるのは、
ありがたい限り。

「柿の葉寿し」数多くあれど、公式な駅弁となっているのは、
吉野口駅の「柿の葉寿し」。
細かいことは言わない。また食べたい。

■旅のワンポイント〜吉野の桜・飛鳥の石

小泉内閣は、丸5年を超えた。
5年にわたって政権を維持するのは、容易なことではない。
政権維持の秘訣は、何と言っても、時代のニーズに
ちゃんと応えているかどうかが、大きなポイントではないか。
5年前の日本は、不良債権問題が国全体の活力を奪っていた。
この解決を行ったからこそ、小泉内閣は続いている。
格差は生まれたかもしれないが、政治はリアリズムが基本。
理想だけじゃ出来ない。
戦前、国際連盟は、理想主義に陥って失敗した。
戦後、国際連合は、大国中心のリアリズムで何とか続いている。
しかし、時代を無視、理想だけを追いかける政治家が登場したら…
世の中は混乱すること間違いなし。
実は何と、日本にはそんな時代が存在する。
1334〜38年の4年間、建武の親政である。

そんなことを思い浮かべながら、吉野へ向かうことにした。
吉野は、建武の親政の後、およそ50年、南朝が置かれた地。
この南朝の起源が、建武の親政を担った後醍醐天皇である。
よく教科書に書いてある。
「後醍醐天皇は醍醐天皇のような政治を目指しましたが、
上手くいかず、4年ほどで吉野に逃れて南朝を立てました」
この醍醐天皇、歴史を紐解けば、西暦900年ごろの天皇。
つまり、400年も前の政治を復活させようとしたのが
「建武の親政」ということになる。
単純比較で、今、400年も前の政治を復活させるとしたら…。
将軍による軍事政権…、これは無謀である。



東京から吉野に入る場合、京都からとなろうか。
東京〜京都は「のぞみ」で2時間20分。
京都〜吉野は途中、橿原神宮前で乗り換えて
近鉄特急で1時間40分だから、都合、4時間。
「橿原神宮前の乗換えが無ければいいのに…」と思うが、
残念ながら、これは無理な話。
実は近鉄、2つのレールの幅を持っていて、
ほとんどの路線は、新幹線と同じ標準軌(1435mm)。
しかし、大阪阿部野橋から吉野へ向かう「吉野線」は、
JRの在来線と同じ狭軌(1067mm)で出来ているので、
京都からは1本の列車で行くことは出来ないのだ。
ただ、運賃や特急料金は通しで計算してくれるので、
面倒なのは、乗換えだけ。
画像は、吉野線のエース・特急「さくらライナー」。



吉野山のシンボル「金峯山寺(きんぶせんじ)」。
修験道(しゅげんどう)の道場に当たる。
この表玄関にそそり立つのが「仁王門」(国宝)。
まさしく「仁王立ち」状態で、混雑もあって、
綺麗に画像におさめるのは、結構難しい。



本堂に当たる「蔵王堂」(国宝)。
建築は1592年、東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築なんだとか。
訪れた4月中旬は、ちょうど桜が満開。
青空と桜のピンク、そして寺が見事に調和しているのは、
この時期だけの特典である。



かつて、南朝の朝廷が置かれていた方角を望む。
ここまで来るのに、今でも京都から特急で1時間40分。
ロープウェー3分の後、歩いて15分。
まず、2時間はかかるのだ。
当然、昔は歩いたのであろうから、都暮らしをしていた人が、
ここまで来るのは、屈辱的なものだったのではないか。
逆に、隠岐に流された経験を持つ後醍醐天皇だからこそ、
この地でもやっていけた…そんな気持ちにもなった。



上の千本を望む。
200種・3万本、圧巻である。
主に「シロヤマザクラ」という種類ということだが、
近代になって意図的に整備された桜ではなく、
「ご神木」として大切に保護されてきた桜。
間違いなく、日本一の桜。
昔の著名人が、吉野の桜を目指した気持ちがわかる気がする。



「花矢倉(はなやぐら)」が、吉野随一の絶景ポイント。
ここまで、吉野駅から山を登ること、1時間半ほど。
眼下に上の千本、中の千本、蔵王堂。
この景色を眺めたら、山登りの辛さなど吹き飛んだ。
ちなみに、車で登ってこようとする人も多いが、
渋滞に巻き込まれ、時間は結局歩くのと同じくらい。
花見の時期(4月)は、公共交通機関がベスト。



折角、ここまで来たのなら…と、飛鳥へ行きたくなった。
あの蘇我馬子の古墳といわれる「石舞台古墳」を
観てみたくなったのである。
まわるには、橿原神宮前や飛鳥から、
レンタサイクルの利用が好都合。
「石舞台」にちなんで、まわるテーマは「石」。
実は飛鳥には「石造物」が多い。
まずは「猿石」から。
元禄時代に田んぼから掘り出されたものだそうで、
中国の道教の影響で造られたものでは…と言われている。




「鬼の雪隠」である。
つまり「鬼用のトイレ」ということである。
元々は、7世紀に造られた古墳の石室の一部といわれている。
ちなみに、管理は宮内庁。
ある意味「国営・鬼専用トイレ」ということになる。
近くには「鬼の俎(まないた)」もある。



この石、どんな動物に見えるか?
正解は「カメ」、「亀石」と呼ばれている。
一説には、お寺の領域を示す標だったのではといわれている。



橘寺という寺の境内にあるのが「二面石」である。
案内板には「右善面、左悪面と呼ばれ、
我々の心の持ち方を現したもの」とある。
昔も今も、人の心理状態は、そんな変わってないんですな。



昔も今も変わらないという点では、酒好きの存在も同じか。
こちらは「酒船石」。
この石で酒を搾り取っていたというが、
庭園に置かれている石だったのではないかという説もある。



「酒船石」の近くに、数年前に発見されて話題になった
「亀形石造物」がある。
ちょうど、湧き水が湧き出している場所にも当たり、
神事、祭事に使われていたのではと言われている。
現在は、石に特殊コーティングを施して、
発掘された状態を保っているという。



そして、ついにやって来た「石舞台古墳」。
2300トンといわれる巨石は感動的。
実はこれ、古墳の“ヌード”なんだとか。
本来は、周りに覆う土があったが、
後に掘り返されるなどして、
石室のみが残ったと考えられている。
それにしても、美しい“ヌード”!



たいていの人は、石舞台まで来たら帰ってしまうが、
「石」を極めるなら、ちょっと足を伸ばしたい。
自転車で5分ほど、そこに“巨根”がある。
その名も「マラ石」。
子孫繁栄などを願ったものと考えられるが、
先端にはちゃんと裂け目があるリアルっぷり。
昔は垂直に起っていたという説があるが、
経年と共に萎えたとか。
ちなみに、国営公園の中にあるので、
こちらも“国が管理する巨根”ということになろうか。



お口直しといってはなんだが「飛鳥寺」にある、
日本最古の大仏「飛鳥大仏」を拝んでお許しいただこう。
東大寺の大仏より150年ほど前、
7世紀のはじめに建立された大仏。
鎌倉時代に火事に遭ってしまったため、
昔のまま残るのは、頭の上半分と、指の一部という。



飛鳥の地に政権が置かれたのは、6〜7世紀の頃。
こののどかな雰囲気の中で、様々なドラマが生まれたのだろう。
日本の原点、大和。
歩いているだけで、自分も歴史の旅人であることを
自然と認識させられる。



2006年5月21日(日曜) 新大阪編


巨人と阪神、濃口と薄口、背開きと腹開き、マックとマクド…。
日本の両極、東京と大阪。
関東に暮らしている人の中には、
関西のモノ、人に対して拒絶反応を示す人もいる。
逆に関西の人の中にも、関東に対して同じようなことを
感じている人も居るだろう。
何を隠そう、私も昔は関西テイストに抵抗のあった1人。
大阪の放送局のテレビ番組は、好きじゃなかった。
新婚さんいらっしゃい、生活笑百科、チャンネル変えてた。
関西の学校に進学する気もなかった。
阪神?目もくれなかった。
何が何でも、東京バンザイ!

でも、人間の価値観というのは恐ろしいもので、
ある時を境に、コペルニクス的な「革命」が起こる。
今から10年近く前、自分の足で大阪の街を歩いてみた。
梅田、大阪城、通天閣、道頓堀、なんば、鶴橋…。
何か温かい、そして人がアツい。
人のニオイのする街に、一気に魅了された。
さらに、京都・神戸と足を伸ばせば、
大阪とは微妙に、そして確実に異なる空気。
今まで、関西の良さに気づかなかったとは!
1000年以上、日本の中心だった地域をナメてはいけない。
東京と大阪、この2つがなくちゃ日本じゃない。
東京駅の駅弁に続いては、大阪の玄関・新大阪駅の駅弁。



新大阪は、昭和39年の東海道新幹線の開業に
合わせて出来た新しい駅。
まあ、新しいとは言っても40年以上経ってはいるが…。
東海道線の全ての列車が停車するほか、
地下鉄御堂筋線が接続している。



新大阪の駅弁は、JR系の駅弁も販売しているが、
“なにわ”ともあれ「水了軒」を選びたい。
屋号の由来は、昔、大阪駅に井戸があって、
その井戸の水を使って作られた「水」あめを、
「売(了)る(うる)」店にあるそうだ。
売場は新幹線ホームの随所。
在来線コンコースでは、13・14番のりば(東海道線・京都方面)の
京都寄り階段の横にある。
営業時間は概ね、新幹線の始発・朝6時から夜9時〜10時だが、
遅い時間は当然品薄になるし、繁忙期には完売していることも。
東京行の最終「のぞみ」の発車は、21時18分。
どうしても遅い時間に駅弁を食べたい場合は、予約が無難。
これ、駅弁購入の鉄則。



「鮓」という文字は、日本の律令制の原点となった
あの大宝律令にも記されていたという説がある。
以来、なれずしや姿すしなど、様々な発展を遂げてきたが
大阪の「箱すし」というのも1つのスタイル。
この形が確立されたのは江戸時代後半、
11代家斉〜12代家慶の時代と言われている。
その伝統を駅弁という形で今に伝えているのが、
「大阪すし」(750円)。
江戸前全盛の今日、若者は物足りなさを覚えるかもしれないが、
この寿司がなぜ、新大阪の駅の売店に並んでいるのか、
そのバックボーンを知ること、そして手に取ることに意義がある。
今や、世界に誇る日本の食文化・寿司。
日本で暮らしているのであれば、1度は食べておきたい。



大阪は“商人”の街。
この商人を護る神様が“えべっさん”こと「今宮戎神社」である。
商人たちの賑やかな雰囲気を駅弁にギュッと詰め込んだのが、
「大阪戎弁当」(1000円)。
「かやくごはん」で、大阪らしさを出したという。
まあ、見た目も賑々しいが、ボリュームもなかなか。
食べているだけで、大阪の華やかな気分になれるかも。



阪神大震災の時、主に大きな被害を受けた住宅を
「文化住宅」といった。
新時代に相応しい“文化的な”暮らしを送るための住宅。
このネーミングに合い通じるかもしれない
“関西らしい”駅弁といえば「ビジネスランチ」(700円)である。
普通の幕の内に揚物等を混ぜて、サラリーマン受けを狙った感じ。
これ買ったら、食べるのはやっぱり新幹線か。
東京〜大阪をよく移動するタレントさんにもファンが多い様子。



「食遊楽」(1000円)とは“食いだおれ”の街らしいネーミング。
半円型である以外、あまり特徴はないが、はずれでは無い。
「水了軒」は、02年8月に紹介した「八角弁当」という
看板商品の存在もあって、煮ものの味が堅実であると思う。
煮ものがしっかりしていると、弁当はホントに締まる。



このところ多い“昔ながらの”駅弁。
大阪では「汽車弁」(980円)という名前で、
700系のぞみの運行を記念して、
2000年から発売されているという。
「幕の内」系が多い大阪駅弁だが、
その中でもとりわけベーシックな部類に入る。



そして、この春の新作が「大阪弁VS博多弁」(1000円)。
東海道・山陽新幹線の博多直通「のぞみ」が毎時2本に
増発されたことを記念して5月末まで限定発売された。
大阪の上品さと博多の豪快さがよく表れているのでは。
明太子が、見事に食を進ませてくれる。

「水了軒」の駅弁が醸し出す上品な雰囲気。
これぞ、天下の台所、上方のプライドである。
大阪の駅弁を、見た目で判断してはいけない。
五感と頭をフル動員して味わうのが、大阪の駅弁である。


旅のワンポイント〜交通科学博物館で辿る、戦後ニッポン・鉄道歴史の旅

5月14日、東京の交通博物館が閉館した。
鉄道博物館として生まれ変わるのは、来年の10月。
それまで1年半近く、日本の交通の殿堂は大阪に移る。



「交通科学博物館」をご存知だろうか?
大阪をぐるっと回るJR大阪環状線の弁天町駅に併設された、
交通博物館と同じような博物館である。
展示内容は、東京と比べて勝るとも劣らない充実の内容。
戦後の鉄道の進歩が一目瞭然で分かる。



戦後の鉄道は、この電車からスタートしたと言っていい。
「80系」と呼ばれる電車で、昭和25年に
東京〜沼津間の「湘南電車」としてデビューした。
その最初の車両が、今は大阪で展示されている。
というのも国鉄時代、新車の投入は基本として東京。
古い車両は徐々に、西へ追いやられていった。
結果、晩年を広島〜山口の山陽線で過ごすことになり、
西日本で、この車両が保存されるようになったのである。



しかし、戦後の技術革新はめざましく、
昭和30年代から新しいタイプの車両が作られていく。
旗手となったのが、昭和32年に作られた101系電車。
その廉価版として「103系」電車が作られ、
国鉄の標準的な電車として3447両が生産された。
首都圏では、3月で常磐線の快速電車を最後に引退したが、
西日本ではリニューアル工事を受けて、今も現役。
交通科学博物館の隣を走る大阪環状線を中心に、
最後の活躍を続けている。



「101系」で使われた最新技術を使って、
昭和33年に作られた、最初の特急電車が「151系」。
俗に「こだま型」と呼ばれたボンネットタイプの車両で、
当時、東京〜大阪間を6時間50分で結び、
初めて東京・大阪の「日帰り」を実現した。
この「151系」、東海道新幹線開業後は、
山陽線の連絡特急として活躍する一方、東日本でも活躍。
昭和57年、上越線の「とき」で最後を飾った。
実は私、晩年の「とき」に上野〜小出間で乗車した記憶があり、
初めて乗った特急ということもあって、この形には愛着がある。


先の「こだま型」が人気を博したことから、
まだ電化していない所でも、特急への要望が高まり、
ディーゼルカーの特急が作られるようになる。
そこで作られたのが「キハ81形」。
俗に「はつかり型」と呼ばれた特急用ディーゼルカーである。
最初は、上野〜青森間の特急「はつかり」に投入され、
晩年は、天王寺〜名古屋間の紀勢線特急「くろしお」で活躍した。
何とか、スマートな「こだま型」に近づけようとしたが、
付いた愛称は「ブルドッグ」…、残念!



私、野球はライオンズファンで、
長年、ファンクラブにも入っているが、
前身の西鉄時代の中心選手だった解説者の豊田泰光さんが、
先日、新幹線車内誌のコラムで言ってて「へぇ」と思った。
昭和31年から3年間、西鉄は巨人を破って黄金時代を迎える。
俗に「三原マジック」と呼ばれ、今なお語り継がれている
伝説であるが、この陰に鉄道の存在があったというのだ。
当時、プロ野球選手の移動手段といえば、鉄道以外になかった。
福岡に本拠地を置くということは、移動距離も長くなり、
遠征の移動だけで疲労困ぱい。
しかしこの時期、鉄道に新型車両が相次いで導入され、
スピードアップが進んだことが、
移動時の疲れの軽減に一役買ったというのである。
ま、当時の西鉄は野武士軍団、酒豪も多く、
2日酔いで試合なんてこともザラだったはずだから、
100%鉄道のお陰なんてことは無いだろうが、
不思議と黄金時代と重なっているのは興味深い。

同じ頃「20系」と呼ばれる新しい寝台車が登場した。
快適さから、俗に「走るホテル」と呼ばれ、好評を博し、
今は亡き寝台特急「あさかぜ」などに投入され、
ブルートレインという名前もここから生まれた。



交通科学博物館で保存されている「20系」客車は「食堂車」。
休憩所を兼ねており、中では神戸の駅弁屋「淡路屋」の方が
駅弁を販売している。
そんなに風情はないが、食堂車気分で駅弁というのも悪くない。



そして、日本のみならず世界の鉄道に衝撃を与えたのが「新幹線」。
“だんごっ鼻”で愛嬌のある顔立ちをした「0系」は
第一編成の一部が、まるごと保存されている。
既に東海道新幹線では見られなくなったが、
今も山陽新幹線で、短い編成となって活躍している。



「交通科学博物館」の素晴らしい所は、
鉄道の光の部分だけでなく、影の部分にもスポットを当てていること。
画像にある「DD54型」と呼ばれるディーゼル機関車は、
鉄道ファンの間では知らない人の居ない「不遇の車両」。
実働数年で、廃車になったものもあり、
国会の答弁でも「欠陥」が指摘されているという。
そんな車両でも、敢えて遺している姿勢は評価したい。



ただ、この「陰」を直視するには、まだ早すぎるのか。
館内に設置されている運転シュミレーションコーナーは、
「都合により」中止されていた。
よく見てみると、このシュミレーション、
走行区間がJR福知山線の「尼崎〜宝塚間」。
正確には、JR東西線開業前とあるので、
現状とは異なる風景であるが、あの福知山線の事故現場が
映っていたシュミレーションということになる。
中止するのは判るが「都合により」というのはどうか。
きちんと「亡くなった方のご遺族の皆さんに配慮して」と
書いたらいいのに…。



実はこの後、私は尼崎事故現場にある献花台に花を供えてきた。
現場のマンションにはまだ、生々しいえぐれた痕が残っていた。
近くの踏切には、家族の方や近所の方か、
事故で亡くなった方へ手書きのメッセージが多数書かれていた。
同じ区間を走る快速電車にも乗ってみた。
体感では、かなりきついカーブ。
今では、恐る恐るゆっくりと通過していくが、
伝えられるところでは、事故になった電車は、
時速115キロぐらいでカーブに差し掛かったという。

事故原因については解明中だが、
電車がスピードを出さなければならなかった理由の1つに、
「尼崎駅」の存在が、よく指摘されている。
事故が起こったのは、福知山線からJR東西線へと直通する電車。
尼崎駅で大阪・新大阪方面へ向かう、
東海道線の普通列車と接続するダイヤになっていた。
駅に着くと、向かいのホームにサァーっと、
乗換え電車がやってきてスッと乗り換え。
利用者にとっては、便利この上ない。
しかし、どちらか遅れると、接続を取れば遅れが各線に波及。
接続を取らずに目の前で「見送り」なんてことになれば、
乗客の不満が爆発するのは間違いない。
首都圏で言うと、新宿から中央線の赤い電車でやってきて、
御茶ノ水で黄色い電車に乗り換えようとすると、
目の前で行ってしまった…なんてことがよくあるが、
まさにあの時のイライラ感。
乗客の怒りは、全て運転士に向かうだろう。
朝のラッシュ時間帯、23歳の運転士にのしかかる重圧は、
相当なものだっただろうとも思う。

私、学生時代にJR西日本の会社説明会に行ったことがある。
その時、人事担当者が積極的に連呼していた言葉がある。
それは「スピード」。
「スピードこそ、我が社最大のサービス」と言っていた。
私鉄との競合が激しい関西の鉄道。
人事担当者は、こんなことも言っていた。
「仮に、他の私鉄と併走するようなことがあれば、
多少スピード上げてでも、絶対に抜きますよ。
そしたら、先頭でこのデッドヒートを見ていたちびっ子は、
我が社のファンになってくれますから…」
その頃は、素晴らしいサービス精神と好印象を受けたが、
冷静になって考えれば、スピードを出して抜くということは、
速度に関する「ルールを破って」抜くということにもなりかねない。
「スピード」に対する「モラルハザード」の芽が
こんな所にあったかと思うと、ゾッとした。

「安全と高速サービスの両立」。
JR西日本の課題は重い。






堅い話が続いたので、今回ラストは、
4月に行われた「造幣局・桜の通り抜け」の夜桜を…。
毎年、1種類を「今年の花」としてクローズアップするが、
今年は「大手毬(おおてまり)」だった。
1週間にわたって行われたが、仕事帰りの会社員などで混雑。
“通り抜け”の名の通り、造幣局内は一方通行。
華やいだ雰囲気の中、大阪・春の夜は更けていった。





2006年5月12日(金曜) 東京編B



この春、東海道線から「湘南色」の電車が引退した。
ニュースでも伝えられたので、ご存知の方も多いだろう。
「113系」と呼ばれるこの電車、私もよく世話になった。
今でこそ、東京発の東海道線・普通列車のほとんどは、
小田原・熱海止まりであるが、かつては沼津まで毎時1本、
朝夕は静岡行、国鉄時代には浜松行なんてのもあった。
静岡のホームで待っていると、たまに東京から来る列車は、
編成も長いし、車内広告もたくさんある。
昔は「東京〜平塚間・禁煙」といったステッカーもあった。
東京の空気、東京の匂いを感じることが出来るような気がして、
わざと東京始発の列車を選んで乗ることもあった。
そして何より、2両繋がれているグリーン車という存在。
普通車とは違う空気に包まれたその空間が、
その辺の普通列車とは違う品格を与えていたように思う。
これから生まれてくる人たちは、
あの空気を味わえないのかと思うと、寂しくもある。



東京駅の東海道線は、7〜10番線から発車する。
普通は7・8番、あふれた列車と特急は9・10番。
昔はちょっと離れた所に、12番線もあったはず。
東海道線は、東京を出ると「新橋」に停まる。
日中、京浜東北線の快速でさえ通過する新橋に、
東海道線が停まるのは「♪汽笛一声…」新橋のメンツか。
東海道線に乗るたび、新橋に停まると、
「東海道線こそが、日本で最も古い路線である」ということを
実感させられる。
そういや、新橋の発車メロディもなかなか秀逸。



東海道線への思い入れが強くて、駅弁紹介を忘れていたが、
今回は東京駅、久しぶりに「NRE」の駅弁を紹介。
東京駅はたくさん売場があるので、どこで買ってもいいのだが、
駅弁通なら知らない人はいない、おススメの売場は、
八重洲中央口改札を出て右側にある「駅弁屋旨囲門」。
(営業時間:朝7時〜夜9時)
ここでは、普通の駅弁に加えて、
東日本エリアの様々な駅弁が輸送されてきており、
昼間以降なら仙台の「牛たん弁当」など、
かなりの有名駅弁が入手可能。
まだご存じなかった方は、一度足を運んでみては。



2003年に「NRE大増」になってから、
東京駅の駅弁は、格段にクオリティが上がった。
以前、尾久の工場で、社長に話を伺ったことがあるが、
@配送を1日「3回」から「6回」に増やしたこと。
Aご飯の味を“科学的に”判断できる
 「食味計(しょくみけい)」を導入したこと。
これが「駅弁革命」と銘打って行った改革という。
その中で最も人気があるというのが「釜めし弁当」(880円)。
社長も、高そうな釜に入った釜めしより美味いと
自信を持って話す逸品。意外とイケる。



「鳥めし」(780円)も定番。
比較的高めに価格設定されている東京駅弁にあって、
この駅弁でも、廉価の部類に入る。
一時、定番駅弁の価格を下げて、
低価格路線を展開したことがあったが、
さして売り上げは伸びず、失敗だったとのこと。
そこで「美味い駅弁」という原点に回帰する。



「あなご弁当」(880円)は、別添のたれがポイント。
「深川めし」に飽きたら、この辺りを選んでみては。
昔は「江戸前…」と名乗っていたが、いつしか取れちゃった。
まあ、この価格なら、そこまで期待してないから大丈夫。






「中華弁当」(1000円)なんてのもありますな。
結構なボリューム。
食べるなら、体いっぱい動かす昼間がいいかも。
私、寝台列車に買い込んだら、少々辛かった…。



中国だけでなく韓国の弁当も置いて、近隣諸国に配慮。
「牛焼肉弁当」(950円)も、どちらかといえば昼むけ。
無性に肉が食べたくなった時は、こんなのもあり。



東京駅でもなぜか食べられる名古屋料理。
それが「味噌カツ&ひつまぶし風弁当」(1150円)。
元々は、去年の「愛知万博」を記念して出来た弁当で、
去年は、掛け紙の「ひとつで二度おいしい」のところに、
「愛知万博開催記念」という文字が入っていた。
好評で販売継続となったようである。
でも、これ買って東日本の新幹線に乗ると、
向かう方向が違うだけに、あまり気持ちが高まらない。
逆に東日本系の駅弁を買って、東海道新幹線でパクついてると、
車内販売のお姉ちゃんが、冷たい視線を投げかけてくる!?
まあ、小心者でなくて、旅の風情などどうでもよくて、
単純に味噌カツとうなぎを食べたければ、どうぞ。



ヘルシーな雰囲気を醸し出しているのが「幸福弁当」(1300円)。
植物系の食材でまとめられており、竹籠も再利用できる。
東京駅から1泊2日の温泉旅に出かけようとしている
女性グループあたりが食べてそうな雰囲気。。
温泉宿のてんこ盛りの料理の前座にはいいんじゃないか。



「おにぎり弁当」(450円)は、朝食向き。
朝イチの新幹線に飛び乗る時は、
これとペットのお茶1本あれば大丈夫。
素朴な梅干しにぎりが、一日の活力になりそう。






そして、今回の東京駅弁のトリを飾るのが、
今の東京駅弁のフラッグシップ、高級駅弁の代表、
ご存知「極附弁当」(3800円)!
1日限定30食、東京駅中央通路・新幹線乗換口手前にある
「5号売店」限定発売だが、
予約をすれば、ほかのNRE売店でも受け取りは可能。
料亭の味をそのまま弁当にしたようなものなので
間違いなく美味い。ボリュームも相当。
味わって食べていると、東北新幹線なら仙台、
東海道なら名古屋には着いてしまうかも。
よく「弁当に3800円も出すなんて…」というが、
そんな邪念はひとまず封印して、思い切って買うべし。
この駅弁が持つ「凛」とした雰囲気は、
味わった人にしか判らない。

若い世代の中には「駅弁」を知らない者がいると、
嘆く関係者もいる。
確かにホームでの立ち売りは、ほとんどないし、
首都圏では、通勤タイプの車両が増えて、
駅弁を広げるのも、恥ずかしくなるような始末。
特急列車が増え、空調がよくなって、
窓が開かない車両も増えてしまった。
でも、電車の中で、強烈な香りを漂わせて、
ファーストフードをパクついている若者を見ると、
“何か違うなぁ”と思うのは、私だけであろうか。

日本における弁当の歴史は、4〜5世紀にさかのぼるという。
田んぼへ弁当を持って、働きに行ったのが起源だそうだ。
つまり、農耕民族としての歴史を今に伝えるのが、
「弁当」ということになる。
出かけることが多いこの時期。
列車旅の時ぐらいは「駅弁」を選択したい。
そして、日本に脈々と流れる「弁当文化」を味わいたい。

■旅のワンポイント〜さよなら交通博物館



私、幼い頃から、よく東京に遊びに来る機会があり、
最も古い上京の記憶は昭和54年、4歳の時。
10月に行われていた「大銀座まつり」で、
派手なパレードを観ていたと思う。
この時は、再び注目されている東京タワーにも登ったが、
も1つ、忘れられなかったのが、万世橋の「交通博物館」。
電車のドアの開け閉めが出来る装置があって、
ずっと遊んでいたような気がする。
そんな「交通博物館」が5月14日で閉館すると聞き、
私も足を運んでみた。


今や、東京では見られなくなってしまった、
懐かしい「だんごっ鼻」の新幹線にデゴイチ。
昭和の鉄道における、新旧ニ大ヒーローと言ったら言い過ぎか。



大盛況の館内。
特に運転シミュレーターは大行列。
家族連れはもちろん、仕事サボってきたんじゃないかという
サラリーマン風の人も、結構見られた。
大人も童心に帰ってしまうのは、この博物館ならでは。
そういや昔、私も歩き回って疲れ、修学旅行用電車の
ボックスシートで休んだような気がするなぁ。



おっ、今も健在!ドアの開閉装置。
昔は、ホントにドアの所から出入りできたのであるが、
怪我した人がいるのか、クレーム回避か、
プラスチックのボードで覆われて出入禁止。
時代の流れで仕方ないのかもしれないが、少々残念。
一度でも車掌室を覗き込んだことがあれば分かると思うが、
この装置、まさにホンモノ。
ちょっとした車掌さん気分になれる。



最近は、どの駅もすっかり「LED式」の発車案内だが、
ちょっと前までは、どの駅にもあった“パタパタ式”の案内板。
ザ・ベストテンのパタパタは、空港をヒントにしたそうだが、
見ていた世代なら、このパタパタの装置を、規模の差はあっても
いつか操作してみたいを思ったのではないか。
交通博物館にあるのは、岡山駅の新幹線コンコースで
使われていたものという。



最上階には「レストランこだま」なるものがある。
実はここも「NRE」による営業。
昔の「こだま型」電車を模した雰囲気ではあるが、
メニューは、カレーなどの軽食のみ。
補完するように、NREの駅弁も販売されていた。



「万世橋」というのは、実にめでたい名前の橋である。
しかし「万世橋駅」となると「不運の」という形容詞が付きまとう。
「不運の…」という言葉を聴くと、なぜか同情したくなる。
“判官びいき”という、日本特有の美意識があるせいか。
それとも「万世橋駅」が持つ悲劇性か。

「万世橋駅」は1912年、中央線のターミナル駅として開業。
東京駅の赤レンガ駅舎を設計した、辰野金吾によって作られた
見事な駅舎だったという。
しかし、その2年後に「東京駅」が開業。
1919年には、中央線が万世橋から東京まで延伸され、
開業7年でターミナル駅の座を陥落、通過駅になってしまう。
その4年後、1923年には、関東大震災で自慢の駅舎が焼失。
2年後に再び開業、1936年には昔の駅舎の基礎を使って
鉄道博物館を併設しましたが、間もなく戦時体制に。
近くに神田・秋葉原・御茶ノ水の各駅があり、
不要不急の駅として、1943年、静かにその幕を閉じた。
この他、地下鉄銀座線に「万世橋駅」が作られたこともあったが、
こちらも、2年近くで廃止。
名前とは裏腹に「不運の駅」として、知られてきた。



中央線の朱色の電車は、神田駅を出ると左へ大きくカーブする。
暫くすると、極端にきついカーブではないが、
若干、車両が外側に膨らんだような感覚を覚える。
すると、右手にはホームのようなものが見える。
ホームのようなものではない。
まさに「万世橋駅」のホームだったところなのだ。



この「ホーム」に上がる機会が、今年、初めて訪れた。
「万世橋駅」の遺構が「交通博物館」の閉館に伴って、
特別に公開されたのだ。
長年にわたって、封印されてきた都会の「陰」。
そこに足を踏み入れるだけで、
何か、入ってはいけない場所に来てしまった気持ちになる。
今から60年以上前の1943年。
日本軍はガダルカナルを撤退、山本五十六は戦死、
イタリアは先に降伏、上野動物園では動物の毒殺が始まり、
野球用語は「日本語」にされた。
そんな時代、どんな人がどんな気持ちで、
この「万世橋駅」の階段を昇り降りしていたのだろうか?



「交通博物館」は、この5月14日で閉館。
2007年秋に、さいたま市に移転して、
「鉄道博物館」としてオープンすることになっている。
私が訪れた日も、大混雑であった。
もちろん、博物館が持つ魅力も大きい。
でも、私は今は亡き「万世橋駅」の“不運”に対する悲哀、
そして何十年も“秘められていた”という魅力が、
ここまでの盛況をもたらした…。
青空の下、万世橋の上で中央線のレンガのアーチを眺めながら、
ふと、そんな気持ちになった。



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