|
週刊SPA 6月20日号(6月13日売)23号 メディア選別正体見たり。だから石原都知事はカワードなのだ
ラジオに関しては東京都内に本社を置く放送局ならばOKなのに、テレビに関しては関東キー局6社並びに“身内”の東京MXテレビに限定。結果、BSもCSもインターネット放送局も地の外。更には驚く勿れ、雑誌は毎号必ず都政情報を掲載すると確約する媒体のみ。加えて通信社には、都政情報を毎日発信する義務を課し、政党・宗教関係の機関紙誌は端から排除。 6月8日付書面を以て、東京都が一方的に通告した、公募に基づく「記者クラブ」の「使用許可方式」は、「傍から眺めて合理的な物にしていこうよ」と5月18日の記者会見で大見得を切っていた石原慎太郎氏の“本性”を、図らずも露呈する結果となりました。これぞ言論封殺、情報操作に他なりません。表現者即ち人間ならば誰もが参加可能な知事会見を既に実施し、同じく誰もが利用可能なプレスセンター改め「表現道場」も8月に開設。市民も予約の上で自由に会見を設定可能な長野県の「『脱・記者クラブ』宣言」とは、180度を三回転したくらい正反対な方向と言えましょう。 「行政財産の無償提供を改め、適正な使用料等を撤収する」との錦の御旗の下、石原都政は「使用許可方式」なる文源に象徴されるが如く、“メディアの選別と監視”を開始しようとしているのです。何を伝えるか、という自由な判断こそは、個々の表現者に保証されるべき権利と義務にも拘らず。 既得権益を今後も保持し得る朝日・産経・東京・日経・毎日・読売の新聞各紙は恐らく唯々諾諾と方針に従い、「取材拠点として一定の専用ブースを供与」して下さい、と「使用許可を受け」るのでしょう。が、それこそは言論機関としての自殺行為です。別けても解せぬのは通告日に当たる8日午後定例記者会見へと臨んだ石原氏が、この件に一言も触れていない点です。“大見得”は切るだけ。だから、彼は臆病者で卑怯者なのよ。 |
|
2チャンで出てこい出てこいと煩く呼ばれているんだが、放っといて良いんじゃないの? こういう時には、そこに書かれた便所の落書きが、多少なりとも読者に届いている、某かの理解や共感を得ているか否かを判断すれば良いのであって、どうもそんなものは無いらしいし、そこに書かれた誤解や嘘(私が高橋亀吉氏の本名やプライバシーを暴露したという事実はどこにも無い)が拡散する恐れすら無しと判断されたなら、あとは、その連中の自壊ぶりを黙って眺めさせて貰えば良いだけの話。わざわざ付き合ってこちらがコストを払う必要も無し。それってのは、2チャンで言うところの「厨房に餌を与える」という以上の意味は持たないから。 あのログは、2チャンがサーバートラブルに見舞われでもしない限りは、しばらくは残る。 何やらわからんが八方手詰まりに陥ってジタバタしている連中がその時期熱心にスレッドを荒らしていた、たまたまそのターゲットに自分がなったという事実が歴史として残るのみ。それは一方的に向こうの独り相撲、醜態であって、いちいち私が関知すべきことではない。 (11時、加筆してアップ) 「カワード大石」ですか、別に良いですよ。かまへん、かまへん。 brave 大石なんて言ったら、明らかに嘘だし、intrepid 大石なんてかっちょ良いけれど、これも明らかに嘘だしねぇ。こっちはこっちで、勝谷さんのことを稀代の腰巾着、K嬢を長野のマハー・ケイマ正大師と扱き下ろしているんですから、自分があれこれマイナスイメージな冠を戴くことに関して、文句の言える筋合いじゃありませんやな。(16時半、加筆してアップ) |
| 矢田 立郎(無・新) | 209,681 | |
| 木村 史暁(無・新) | 118,893 | ←康夫ちゃん応援 |
| 吉田 順一(無・新) | 60,904 | ←杉原元秘書応援 |
| 池上 徹 (無・新) | 38,645 | |
| 上野 泰昭(無・新) | 14,189 |
|
田中知事にあって小泉首相にない政治家としての「覚悟」
テロや狂牛病騒ぎの影に隠れているが、田中康夫長野県知事が誕生してから丸一年が過ぎた。拙著『バカとの闘い』に収録されている当時の『週刊宝島』の私の連載を読み返すと、いかに読者の皆さんの応援に勇気づけられていたかが分かる。何万分の一かもしれないが『週刊宝島』読者も長野革命の成功に寄与していたのだとすれば、ここはひとつこの1年をきっちりと振り返る必要があると思うのですよ。革命とは継続するものであり、田中知事の誕生はその始まりに過ぎないのですから。 記者クラブ室を取り上げられた談合マスコミの皆さんはあいかわらずネチネチと田中さんをいじめている。 曰く「結果が出ていない」「県民と距離が遠くなった」「職員が離反している」。でも朝日新聞がアンケートをしてみると依然として支持率は65%という高水準。イヤイヤ小さな記事で報じていましたがね、論評なしで。論評しようがないだろうよ「民意」がいつも書いていることと違うんだから(笑) 今や田中革命で何が起きているかを知るには、大マスコミでは有害無益です。あらゆる「表現者」に開放された記者クラブからは、ネットを使って発信する素晴らしい市民記者たちが生まれている。毎日それをチェックしていると、改革は確実に進んでいることがわかります。 県外の人でも、たとえばこういうキーワードなら誰もがわかるはずだ。『脱ダム宣言』『脱記者クラブ』『ガラス張り知事室』『車座集会』。 肝心なのは、いずれもが「既にやってのけた」ことであることです。 これは、同様に初めは清新な印象で登場した小泉首相と比べてみれば分かる。言うことはどちらも華やかだ。しかし、結果として残ったのは小泉の場合「ハンセン病控訴せず」くらいではないか。あとは、ただ仮証文を出しているだけ。国民は「改革の前借り」に酔っているんですよ。 この二人の違いは何か。私の言葉で言えば「志」を実行する「覚悟」の問題であり、先日お目にかかり、やはり田中県政への高い評価で意見が一致した小沢一郎氏によれば「リーダーシップ」の有無なのです。 田中さんは堂々と言う。「私には権力がある」と。そして「権威に縋る」ことを最も恥じる。権力という言葉に私達は薄汚いものを感じがちです。それは当たり前でこれまで政治家というものが権力を使って私利私欲を満たしてきたからなのだ。 正しく行使される権力は、改革の速度を早め、守旧派利権野郎どもを粉砕する剣となるのです。 田中県政の1年を否定する人々に伺いたい。ではあの、机に足裏載せて陳情を聞いていたオマル張りの吉村「馬」前知事腰巾着氏が知事に当選していたらどうなっていたのかね。タリバン支配真っ青の土建屋原理主義支配に、今頃周辺都県に難民が流出していたんじゃないの(笑) |
|
田中知事にあって小泉首相にない政治家としての「覚悟」
テロや狂牛病騒ぎの影に隠れているが、田中康夫長野県知事が誕生してから丸一年が過ぎた。拙著『バカとの闘い』に収録されている当時の『週刊宝島』の私の連載を読み返すと、いかに読者の皆さんの応援に勇気づけられていたかが分かる。 うーん、今はその読者の応援は無いってことでしょうな。 何万分の一かもしれないが『週刊宝島』読者も長野革命の成功に寄与していたのだとすれば(革命はアナーキスト共の幻想であったと思はれ)、ここはひとつこの1年をきっちりと振り返る必要があると思うのですよ。革命とは継続するものであり(それって共産主義のプロパガンダでしょう。革命が継続しているから、その革命の間は、個人が豊かになる暇は無いのだと嘯く何処かの国々と一緒です)、田中知事の誕生はその始まりに過ぎないのですから。 記者クラブ室を取り上げられた談合マスコミの皆さんはあいかわらずネチネチと田中さんをいじめている。 曰く「結果が出ていない」(←事実だと思はれ)「県民と距離が遠くなった」(在長野のメディアが書いていることは、市町村、つまりは市町村の行政と県庁が遠くなったという意味であり文章であり、「県民と距離が開いた」と書いているメディアに私はお目に掛かったことは一度もありません)「職員が離反している」(最初から離反していたと思はれ……。いや、焦点だった土木部を除けば、職員はある時点、誕生直後から年末に掛けて歩み寄りの姿勢を示したのだが、年末年始の予算編成とミラノお買い物ツアーへと至る過程ですっかり冷めたというのがまま客観的な見方でしょう)。でも朝日新聞がアンケートをしてみると依然として支持率は65%という高水準。イヤイヤ小さな記事で報じていましたがね、論評なしで。論評しようがないだろうよ「民意」がいつも書いていることと違うんだから(笑) 65%というのは、地方自治体の首長の支持率としては、特に高くもなく低くも無くアベレージな部分でしょう。ところで、小泉総理は未だに8割前後の支持率があるのだが、その小泉総理を批判したら、「民意」がいつも書いていることと違うんだから(笑)、ということになるのであろうか? だったら、ここで小泉総理を批判している勝谷さんの言論はだいぶ民意と外れている? という壮大な自己矛盾に陥るということに気付いて欲しいですが。 今や田中革命で何が起きているかを知るには、大マスコミでは有害無益です。(たとえば、こう言ったらどうだろう。「今や小泉革命で何が起きているかを知るには、大マスコミでは有害無益です」。←結構滑稽だと思うけれど。選挙時には、さんざ蝶よ花よと持ち上げてくれた大マスコミが、為政者に対してメディアとして当然の姿勢を示すようになった途端、今度は「有害無益だ」と……。お笑いですな) あらゆる「表現者」に開放された記者クラブからは、ネットを使って発信する素晴らしい市民記者たちが生まれている(うーんとね、私が知る限り、この場に出入りして、まま毎日情報発信しているのは、長野のマハー・ケイマ正大師、あるいは康夫ちゃん原理主義者ことK嬢と、メールマガジン【田中知事365日】を発行している青年の二人だけ。後者に関しては、記事中に論評が入ることは滅多にない)。毎日それをチェックしていると、改革は確実に進んでいることがわかります。(そんなわけで、後者のメルマガで流されるものは、基本的には長野県庁が公表している康夫ちゃんの日々の動静記に過ぎない。K嬢に関しては、そこに平壌放送的、「信じれば救われる」幻想社会が広がっているだけです。それをして改革が進んでいることがわかるなどいうのは、ただのカルト宗教です) 県外の人でも、たとえばこういうキーワードなら誰もがわかるはずだ。『脱ダム宣言』(止まったか止まってないのか判然としない)『脱記者クラブ』(結局官製メディアの垂れ流しを加速しただけだった)『ガラス張り知事室』(ただの観光名所)『車座集会』(すでに形骸化している)。 肝心なのは、いずれもが「既にやってのけた」ことであることです。(呵々、まさに「やってのけた」だけ。手段が目的で終わったことを勝谷先生自らお認めになるとは) これは、同様に初めは清新な印象で登場した小泉首相と比べてみれば分かる。言うことはどちらも華やかだ。しかし、結果として残ったのは小泉の場合「ハンセン病控訴せず」くらいではないか(康夫ちゃんもたいして残ってないね。何か残った?)。あとは、ただ仮証文を出しているだけ(仮証文なら、それを誰より乱発しているのは、康夫ちゃんの方でしょう)。国民は「改革の前借り」に酔っているんですよ。(これとて、康夫ちゃんにも同様に言える。県民は、「改革の前借り」に酔っているんですよ) この二人の違いは何か。私の言葉で言えば「志」を実行する「覚悟」の問題であり(そんなもんは康夫ちゃんには無いでしょう。あれほど入れ込んだ「しなの牛」は空中分解しても知らん顔。ダム代替用地の問題からは逃げまくり、責任はいつも他人に押しつけ、どこにも覚悟なんかありゃしない)、先日お目にかかり、やはり田中県政への高い評価で意見が一致した小沢一郎氏によれば「リーダーシップ」の有無なのです。(本当に小沢一郎も終わったね) 田中さんは堂々と言う。「私には権力がある」と。そして「権威に縋る」ことを最も恥じる(何言ってんだか。未だにマスコミという権威に縋って腰巾着どもを使って権威情報を操作することにご熱心な男じゃありませんか)。権力という言葉に私達は薄汚いものを感じがちです。それは当たり前でこれまで政治家というものが権力を使って私利私欲を満たしてきたからなのだ。 正しく行使される権力は、改革の速度を早め、守旧派利権野郎どもを粉砕する剣となるのです。 (いつの時代にも、権力者とそれを利用する勢力は、自分たちの権力の正当性を主張するが、そんなものは何処にもありはしない。この世の中に「正しく行使される権力」などというものは断じてあり得ない。それは、せいぜいマジョリティにとって居心地が良い権力が存在するだけだ) 田中県政の1年を否定する人々に伺いたい。ではあの、机に足裏載せて陳情を聞いていたオマル張りの吉村「馬」前知事腰巾着氏が知事に当選していたらどうなっていたのかね。(呵々、当選1年も経ちながら、未だに、都合が悪くなると「誰それが当選してりゃどうなったか?」と小姑話を持ち出すセンスの無さよ。それを言うのであれば、政治家が今の政治の現状をして、あの軍国主義が続いていた方が良かったのか? とナンセンスな弁解をするのと同レベル)タリバン支配真っ青の土建屋原理主義支配に、今頃周辺都県に難民が流出していたんじゃないの(笑) 救いがたいワンパターンですな。特定の業種に敵意を剥き出しにしたからと言って、状況が好転するわけではない。 |
|
民主主義の成果はね、相対的に捉えるべきだよ。2年目に請御期待
奇妙な話です。強権的だ、手続き無視だ、と事ある毎に罵っていたマスメディアの皆様方は、長野県知事就任から1年が経過した僕に対して一転、以下の如き咆哮を繰り広げています。県政は停滞し、成果は見えずと。(この話の何処が「奇妙」なのかの論証が、れいによって、「昔はどうだった?」、のワンパターンなのは嘆かわしい)呵々。従来の県政は進捗し、成果は見えていたのでしょうか?(昔がどうあったにせよ、それで田中県政の諸々の問題が許されるわけではない。そもそも昔が酷かったから県民は貴方を選んだのでしょう? だったら、貴方は自分の不作為の弁解に前政権の所業を持ち出すべきではない。貴方は前政権を上回る業績を出せば良いだけのこと) 成る程、日本最大の広告代理店が物した「企画書」の類に対して太っ腹にも7千万円を既に支払っていた長野県は、僕が当選していなければ今頃、総額62億円の県単独事業「子ども未来センター」建設に取り掛かっていたでしょう。驚く勿れ、入場に際して有料か無料かも議論せぬ儘に。それは進捗とも成果とも異なるのです。 1兆6千億円に上る起債残高の中には、同様の「成果」も少なからず含まれているのです。「何をするかではなく、どうあるべきかの議論」(どうあるべきか? の書生論に時間を取られすぎていると思はれ) という“種蒔き”を僕が行ってきた所以です(改革はスピードだと吠えていた男が、明日にでも収穫できそうな幻覚に一人浸り、いざそれは無理だという現実の前に「実は種撒きだったんだよ」と、開き直る。ただそれだけのことでしょう) 。「行政の継続」なる惹句を掲げ、公共事業の見直しを批判する向きも県議や首長の中には見受けられます。が、継続すべきは福祉や教育の領域であり、「有利な起債」とやらを用いての公共事業ではないのです。(この財政状況厳しきおり、福祉や教育だって継続できるか怪しいものだと思うが、それはさておき、福祉や教育とて広義の公共事業であり、福祉や教育は継続すべきだが、公共事業はさにあらずという論は、いささか乱暴だと思う) 治水、廃棄物等の再検討を行う委員会には何れも、地域住民が参加しています。正にプロセスを踏んでの新たな方向性は順次、半年から1年後に明らかとなる予定です。現在は孵化期なのです(種まきと言ったり孵化期と言ったり、どうした? スピードの康夫ちゃんは。これじゃ時代遅れの改革モデムだぞ) 。性急なる成果を求めるマスメディアの諸姉諸兄は1年を経て今度は、手続き無視の強権的県政を望み始めたのでしょうか。(←本件、後述) それにつけても、長野県民の民度の高さには改めて感服しています。ああ言えばこう言うかの如き、凡そ「説明責任」とは無縁なお気楽家業の皆々様が田中批判を繰り広げようとも(呵々、今の貴方は説明責任など全く果たしていない。ダム代替地問題などその典型。少なくとも、「お気楽稼業」の私は、貴方以上に説明責任を果たしているね) 、浅薄なる行間を読み抜く勘性を持ち合わせて、その7割前後は僕を支持し続けて下さるのですから。ってな訳で、NHKと並んで批判のための田中批判を続ける読売新聞の驚愕社長発言紹介は次号でね。
|