日本映画ノート



これからの特撮に必要なもの

 その昔、「モスラ2 海底の大決戦」を観に行った。
 本編はがんばっていた作品だと思った。合成の嫌な境界線もほとんどな
く、日本特撮としては水準にある出来だった。                        
 ただ予告篇でついていたアメリカ版「GOZILLA 」(ゴジラ)を観て、ハ
タと考えてしまった。                                             
 予告はこういうものだ。雨の日。桟橋で一人の男が釣りをしている。こ
んな日に何もかかるものか、と仲間はバカにする。ところが大物が引っか
かって、釣り竿が海に引き込まれてしまう。ついで海が盛り上がり、桟橋
が波とともにめくり上がり、男は必死に逃げる。何かがやって来るのだ。
遂にバーンと陸地に波が叩きつけられると、巨大な目が画面を睨みつける
……といったものである。                                         

 ここで私はありがちな日本とアメリカの特撮比較と批判、すなわちアメ
リカは技術が凄い、予算が一杯ある、日本は旧態依然としているなどとい
うことは言いたくない(それも一面の真実ではあるが)。             
 つまりは<見せ方>の巧さなのである。              

 「モスラ2」での怪獣の見せ方は、ピーカンの青空に、大きくアップで
モスラが映っているなど、一言で言えば<くっきり、はっきり>見せ過ぎ
てしまっているのだ。                                             
 対してアメリカ版「GOZILLA 」は、予告篇という事情はあるものの、な
かなか姿を見させない。おまけに雨を降らせて、暗く見えにくい舞台を作
っているのである。
 本編では、ゴジラが通り抜けた後の巨大なビルの穴だけが映っていたシ
ーンもあった。直接でなく、間接的にゴジラの大きさを示して効果があっ
た。

 いかに技術のアメリカがCGを駆使したところで、しょせんは作り物な
のである。それを本物らしく見せるのは、アラが目立たない舞台を作らな
いといけない、かつ、なかなか全身が明解に見えてはいけない、という鉄
則を守っているからである。「ジュラシック・パーク」「ロスト・ワール
ド」を思い出して欲しい。恐竜が暴れ回るシーンは、夜だったり雨が降っ
ていたりしていたことが多くはなかったか。             

 かつての日本特撮でも、実はそういう制約下で絵作りは進められていた。
1954年版の「ゴジラ」は、モノクロ作品に加え、ゴジラによる襲撃シーン
はいずれも夜とされ、ゴジラは見えにくい。だが、日本初の怪獣映画であ
るから技術は最も未熟であったはずなのに、本物らしさはこの作品が一番
なのである。                                                     
 またカラーが主流になってからでも、広大なセットにぽんと怪獣を置い
て、引いたサイズで画面を構成するなど、制約をうまく活かしたショット
は継続していた。
 同時に、多少アラはあろうとも、勢い、迫力、装飾や効果、合成など、
他に傑出した要素がそこにある時は、失敗を恐れず思い切って<くっきり、
はっきり>見せて勝負するショットもあった。    
 謙虚さと大胆さの両立。これこそが、特技監督・円谷英二の巧さではな
いだろうか。要はそれが特撮を<演出>しうるセンスなのだと思う。     

 今最も日本で期待できる特技監督は、平成のガメラシリーズなどを担当
した樋口真嗣監督ではないだろうか。その演出を語るにはあまりにも紙数
が足りないが、「ガメラ 大怪獣空中決戦」での、破壊された東京タワー
を占拠するギャオスの夕景が、あり得ない情景を描いたカタルシスと、人
類の絶望を描写した哀しさを同時に伝え、まさに<演出>できている点。
これは思い切ったショット、円谷英二の実験精神の体現である。    
 もうひとつ、ミニチェアセットをより効果的に配置し、オープンセット
でリアルな光量を取り込み、かつ観客の視点にこだわったカメラ位置でも
って怪獣をとらえる姿勢は、アメリカとは違う意味での脱<くっきり、は
っきり>である。円谷英二の謙虚さもここに生きている。       
 樋口真嗣監督は見せ方こそ違え、円谷英二の2つの才能を、正確に継承
しているのである。                        

 センス・オブ・ワンダーという言葉を知っているだろうか。
 ここでは、一言で表現すれば「画心(えごころ)」とでも言うべきもの
である。特撮監督は技術やその知識と併せて、そういうセンスも問われる
のだ。
 前述の「ガメラ 大怪獣空中決戦」での<夕闇迫る東京タワーに巣食う
ギャオス>はまさにそのいい例である。
 円谷英二が担当した「三大怪獣 地球最大の決戦」でも、<キングギド
ラの光線で吹っ飛ぶ手前の鳥居>という風情のある特撮シーンがあった。
 そういう「画心」が作品には詩情を呼ぶ。

 現在はCGという、素晴らしい技術がある。
 これを使えば、すべてを映像化できそうな気にさえなる。
 しかしCGはしょせん技術に過ぎない。それが単独でそこにあったとす
れば、これほど無粋なものはないのである。
 CGをCGらしくなく、いかに効果的に駆使できるかがこれからの特撮
担当者に問われる技量なのではないだろうか。

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