今上映している映画の話をしていて、
「ビデオが出たら観るよ」
などと言われるのが好きではない。
とりあえず聞き流してはいるが、内心ではちょっとだけムッとしている。
おいしいレストランの料理でも、その店で食べるのと、お持ち帰りで家
で食べるのとではやはり味が違う。
その料理に最適な環境で準備され飲食するのと、利便性は高くても、そ
れを自宅で再現努力するのとでは、それはもはや似て非なるものと言って
いいだろう。
映画も同じで、ビデオで観る映画は、映画館で観る行為の代替品でしか
ない。
例えば黒澤明監督の作品は、大きなスクリーンで観るとずいぶん印象が
違う。
ビデオで観ても、よくできた作品ということはわかるが、劇場で観ると、
私は今までどこを観てきたのだろう、と思うくらい、映像や迫力が断然良
くなっている。
まるで狭い水槽の中で飼われていた魚が、広い大海に放たれたかのよう
に、活き活きしてくるのだ。
いや、むしろ逆である。大スクリーンが本来の黒澤映画を、無理矢理小
さなビデオサイズに押し込めてしまっていたのであろう。
これは1つの例に過ぎない。およそどんな映画でも(それが本当にいい
映画ならば)、映画館で観て、初めて<観た>ことになるのだ。
誰にも邪魔されない真っ暗な空間で、最良の映像と音でフィルムは映写
され、大勢の観客と喜びや悲しみを共有する。映画とは、本来そういう場
で、つまり映画館で上映するために作られたものなのである。
ビデオでは映画を<知る>ことはできても、本当の意味で<観る>こと
にはならないのである。
だが、多くの人々は、残念ながらなかなか映画館に足を向けることをし
ない。たまに、流行っている映画を、友人なり恋人なりと観に行くぐらい
である。これなどは、<映画を>観に行くというよりも、<友達と>映画
を観に行くという、作品内容よりもレジャーが先に立った行為である。
かくして、巷で苦しいながらも頑張っている小さな映画館が、1つまた
1つと消えて行ってしまう。
新作封切劇場ももちろんだが、過去の日本映画の名作・佳作を上映する
名画座的映画館がなくなっていくことは、本当に文化の危機なのである。
貴重なプリントがジャンクされる風潮を生み、また日本映画の良さを知
られる機会が減り、旧作で勉強する敏腕映画監督がますます出なくなって
いく。
「邦画が好きだ」なんて言うと「変わってますね」などと言われること
も多い。
中には「日本映画なんてつまらないのに」としたり顔で言う人もいる。
しかし、そういう人に限って、日本映画の名作を1本たりとも観ていな
い。黒澤映画ですら観ていないのである。
ただ現実には、こういう人たちが主流派なのであり、それによって日本
映画はさらなる窮地に追い込まれていく。
日本映画は、苦しい状況で作品を作り続ける製作者と、同じ状況下で上
映し続ける映画館と、そして自らの足で優れた作品を選び足を運び続ける
ファンの、熱意と良心で必死に踏ん張っている。
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