________________

 

環境問題とはそもそも何か

−−何を解決すれば解決なのか−−

 







21世紀環境予測と解決法−環境問答AB&C

 

第1章

A君:ご無沙汰をしております。もう卒業してから15年近くになってしまいました。今日からしばらく、昔の仲間のB君とC先生と3人で、環境問答が再開できることになって、まあ、喜んでいるといいたいところですが、実際のところ、環境問題は多様性がありすぎて、何が真理であるか分からないところがあって、やり込められるのが怖いという感覚もあります。まあ、環境問題に対するスタンスも人によって全く違う。人によっては、昔の公害問題と同様のスタンスで取り組んでいる方もあれば、全く新しいスタンスの方もおられる。環境問題を語り始めると、その人の人生観までが分かってしまうというところが有りますから。

 

B君:ご無沙汰をしました。A君は相変わらず秀才的コメントですが、人間そうそう変化しないらしくて、自分はやはりややひねくれたものの見方をしてますね。公害問題を別にすれば、真剣に考えなければならない環境問題なんて、本来無いのではないですか。現代人に無関心派がまだまだ多くて、しかし、それはそれで別に困らないということがそれを証明しているような。

 

C先生:やれやれ、卒業後15年もたって全く性格が変わらないどころか、ますます極端になったようだ。それはそれとして、どのような問答になるか分からないけれど、話しの進め方を大体取りまとめておかないといけない。他の学問体系と違って、環境学なるものは間口が広いし、解決に至る手法も様々だから。

 大体、次のようなことではどうだろうか。

(1)環境問題とは何か

(2)21世紀の環境問題

(3)裏付けデータ

(4)持続可能性と環境負荷の評価法

(5)環境問題の解決法とその評価

(6)環境倫理・環境哲学

(7)それでは我々は何ができるのか

まあ、この順番でやろうといっても、どうせ色々な要素が混ざってくるのは仕方が無いことだけど。

 それでは、まず、(1)の環境問題とは何かから行こうか。

 A君は今電機関係の企業にいる訳だけれど、最近の環境問題の動向をちょっとまとめてくれないだろうか。

 

A君:承知しました、と言いたいところですが、環境問題の把握は、かなり個人的な問題を含みますので、誰にでも通用するような動向というものは無いでしょうから、あくまでも自分用のメモということでやります。

 環境問題の歴史は、本当は足尾銅山の鉱毒問題などから記述しなくてはいけないのかも知れませんが、自分としては、日本においては、1960年代の公害問題から考えることにしたいと思います。当時、経済成長のスタートポイントに有った日本は、産業活力の維持のためには、すべてのものを犠牲にして突っ走ったと言えます。その結果として、主として化学産業の廃水、排気、固形廃棄物などが原因となるあらゆる公害問題が発生し、その典型的な例が水俣病、イタイイタイ病などになって、公害病という形で被害者が出たと言う不幸な歴史を作ってしまいました。

 このように公害が大問題であった時代においても、経済発展と公害問題とはどのように整合性をとるべきであるのか、といった議論が有ったようです。その後、日本の環境対策技術が世界のトップクラスになるとともに、加害者としての企業が明確な公害問題は少なくなり、同時に、加害者の特定が困難な公害問題、例えば、自動車排ガスによるNOxなどが原因とされるぜんそく患者の問題などが出てきました。このようなタイプの公害問題は誰が責任をとるべきなのか、必ずしも明らかではないという特性があって、難しい問題になりました。

 その後、地球レベルの環境問題が問題となり、特に1992年にリオデジャネイロで行われた地球環境サミットにおいて、9種類の地球環境問題と、その解決に向けてのアジェンダ21の制定などが行われ、国際的な問題として環境問題が取り上げられることになりました。しかし、環境保全を歌う先進国と経済発展優先の途上国との対立の構図が明確になり、解決に向けての足並みが揃ったという訳ではないというところでしょうか。この時点において特筆すべきことは、それまで環境には無害であるとされてきた二酸化炭素の排出も、地球温暖化に対して悪影響を与えているという、これまでの公害問題とは全くことなった種類の環境問題がでてきたことでしょう。同じようなことは、フロンの排出がオゾン層を破壊し、皮膚ガンなどの原因となる紫外線を増加させるということが分かりました。フロンが直接人体に影響が無い物質であっても、地球という場を考えると、間接的に人体に影響を与えるということでして、二酸化炭素問題と類似した形態の問題でした。

 現時点での環境問題は、1992年からの延長線上にあるといってよいのでは無いでしょうか。

 海外の状況ですが、海外では公害問題から環境問題へという歴史よりも、自然破壊から環境問題へという理解をする方が自然のように思えます。例えば、アメリカへ出張したときなどの印象ですが、まあ、そんなに工場などは無いですよね。しかし、少なくとも平地に関して言えば自然も余り無い。大体は、小麦畑、トウモロコシ畑、さらには、牧場になっていて、森林が少ない。しかし、メイフラワー号が米国に到着したころには、ほとんど森林で覆われていたというではないですか。だから、農業という形で、自然破壊をやりつくした国土であるとも言える訳で、環境問題は、緑の問題から始まったのだとも言えるのでは無いでしょうか。すなわち、自然保護的な色彩が強いといことです。

 

B君:秀才的な取りまとめとしては、それで良いかもしれないが、そもそも環境問題というのは、なぜだめなのか、何が悪いのか、という議論が抜けてないか。例えばフロンの問題にしたところで、確かに地球のサングラスか日焼け止めみたいな機能をもっているオゾン層が破壊されるから大変だ、というが、実際のところは白人の皮膚ガンが増加するから問題だと指摘されているわけだ。要するに、人間の健康に影響があるから問題なものが環境問題なのか、それとも、そうではなくて、9種の地球環境問題の中に含まれている生物多様性の維持のようなものもなにが本当の問題なのか。このあたりの議論が抜けている。だから、環境問題など、実際には存在しないような顔をして生きている人が多いのではないだろうか。

 

C先生:いきなり本質論に入ったようだ。それでは、B君の問題意識をもう一度整理して貰おうか。ところでB君はそんな性格で良くはじき出されないとは思うが、大学で助教授をやっている訳だよね。本質をするどく指摘することを多少とも美点だと思ってくれる教授連がいるのかな。

 

B君:僕自身の環境問題に対する意識というのは、自分の健康とかそんなものが問題だと思っている訳ではなくて、そもそもこの地球上に存在している人類というものが何なのだろうという問題意識なのですよ。人間がなにか活動すれば地球なり自然なりを利用せざるを得ないわけだから、最終的にはなんらかの自然破壊につながり、結果的に生物多様性が失われている。だから、生物多様性の維持が環境問題だと言うのなら、地球上から人類が居なくなれば環境問題は解決する。だから人間の健全性や健康問題が環境問題だとする人と、生物多様性問題を環境問題だとする人が、同じ土俵上で環境問題を議論するなどということは、そもそもおかしいのではないかという意識があって、そもそも人類とは何なのだという議論から始めないと、環境問題の解決などは絶対無理だと思う。問題意識そのものが違うのだから。

 

C先生:この問題は余り議論をする人はいないのだけれど、その通りだと思う。今回の対話の目次の最後の方で、調停問題として見た環境問題というところで、この問題を再度整理してみたいと思う。

 それでは、どんな立場で環境問題を議論するか、共通の問題意識として何を取り上げるかということを決めてしまおう。そうでないと、議論ができないのが事実だろうから。

 実は、平成5年度から5年間の研究プロジェクトで、「人間地球系」という研究チームを作って、文部省科学研究費の重点領域研究で動かしてきた。このチームの問題意識は、「人類の生存」を最終的な目標としたときに、環境問題をどのように解決に向かわせることができるか、特に、日本国内における活動に焦点を絞って考えようというところだった。

 今回の環境問答も、一応この線でやりたいのだけれどどうだろう。

 

A君:私はそれで結構です。

 

B君:一見妥当だとは思うけれど、まだ誤魔化しがあるような気がする。そもそも人類の生存とは何なのですか。全く対策なしにほっといても人類は地球上から消滅しませんよ。

 

C先生:人類の生物的な特徴というのは、知的レベルが高いこと、それによって、本来であれば食糧限界によって決められるある地域の個体の生息数を超えた人口を維持していることだ。要するに、地球からエネルギーを貰って、それによって、本来太陽エネルギーだけを頼りにして生きている生物としての限界を軽々と破ってしまったことだ。

 しかし、食糧の供給には、どのようにエネルギーを使おうが限界がある。その限界に人類はまだ直面したことは無いのだが、このところの人口の爆発的な増加が主たる原因となって、21世紀の初頭には、とうとうその限界にぶちあたるだろう。そのときどうなるか。放って置けば、その時点で地球上の人口は大幅に減少するだろう。人口爆縮という現象が起きるのだ。それ以後、もしも人口が現在の半分から1/3になれば、それはそれなりに人類は地球上に存在できるだろう。太陽エネルギーは結構莫大だからね。これが、B君のいう人類は消滅などしませんよ、という表現になるのだろう。

 「人間地球系」で人類の生存という表現をしているのは、このような急激な人口の減少を起こすことなく、軟着陸を目指すということなのだ。持続可能性ということばで表現されていることは、多分この事なのだ。

 

A君:それでは、妥協案ですが、「人類の健全なる持続」を目的とした環境問答ということではどうでしょうか。

 

B君:表現の秀才的なところが気になるし、「健全」の定義が難しい。健全であるためには、ある程度、その周囲に生態系が存在していることが前提になるだろうが、そこをどのように考えるのだろうか。まあ、とはいっても文句ばかり付けていると議論が進まないことは分かったから、A君の提案を一応受諾したい。

 

C先生:それでは、そういうことにしよう。

 それから、もう一つ。「人類の健全な持続」という問題意識からでも、生態系の維持や、生物多様性の維持のような問題も議論できないわけではない。すなわち、人類といものは、生態系と相互作用を常にもっているわけだから。一定程度以上の質と量をもった生態系が人類を取りまいていることが、より「健全」であると考えることができるからだ。しかし、これを言うと、「人類のエゴ」との批判を免れるのは難しいが。

 ここで、環境問題には他にどのような問題意識が有るかを整理しておいてから、本論に入ろう。環境問題の定義だが、ある目的対象物の健全性維持のための問題であることは良いだろう。だから、何を目的対象物として選択するか、これによって、環境問題の分類が可能なのだ。対象物として考えられるものは、次のようなものがある。

(1) 地球全体の生態系

(2) 広範囲の生態系

(3) ある地域の生態系

(4) ある種の生物

(5) ある個体

 我々がこれから環境問答の対象として選択した「人類の健全なる持続」は、第4の分類で生物として人類を選択した場合になる。すなわち、環境問題の種類全体から見れば、極々限られた問題だということだ。しかし、だからといって、それが不必要なことでもなく、些細な問題だと思っている訳ではない。また、この立場は、ややもすると、「人類のエゴ」的な問題意識であるとも言える。しかし、これから主張したいことは、たとえこのような人類エゴ的な問題意識であっても、解決を目指すには余りにも多くの困難があるということだ。だから、他の生物種との整合性をとるといったことを問題意識に加えると、さらに解決は困難な方向に行かざるを得ないということだ。

 解決という言葉が出てきてしまったので、一言述べたいのだけれど、方法論的からでも、環境問題の分類は可能なのだ。状態がどのように変化するかを観察あるいは予測するタイプの方法と、解決を目指すタイプの方法だ。意外に思うかも知れないが、この両者はときに相入れない。解決を目指すということが、何かを考えると良く分かる。解決という行為は、人類が何かをすることである。ところが環境問題では、人類の活動が境界条件の一つとして与えられており、人類が解決に向かって何か活動すると、境界条件そのものが変わるというジレンマがあって、純粋なサイエンスを指向している人々にとっては、解決を目指す環境科学はサイエンスにはなり得ないとの感覚がある。

 確かに、サイエンスが「学問のための学問」の形態を目指すのであれば、当然このような批判は有って良い。しかし、環境問題は、現時点で人類最大の問題になりつつあり、その解決も多数の人々が共感できる形での解決を目指す、すなわち、「市民のための科学」を目指すべきであって、それもまたサイエンスと呼ばせて欲しいというのが、個人的な主張なんだ。

 

B君:なんだかつらそうですね。

 

C先生:それ程のことではないよ。ただ、環境問題をやっているという人が、自分の問題意識をどの程度自認しているかということについては、問題を感じないこともないけど。

 

A君:最後に一言良いですか。「人類の健全なる持続」が目的とのことですが、人類と言ったて、まさに全人類、ある国の国民、さらには、ある地域の住民、さらに、個人と色々とレベルの違いが有りますよね。その全部を考えるのですか。

 

C先生:すべてに関連することは事実だ。特に生命倫理などが出てくればね。でも、まあ、我々としては、全人類を考慮に入れて、そして本来の検討対象としては日本国民をまず取り上げるべきだろう。