________________

母乳・ダイオキシン・科学データ
                        04.26.98




環境ホルモンの科学的データ不足

98年4月26日 朝日新聞朝刊

 「ダイオキシン類で汚染された母乳を新生児に与えるべきか、それとも人工栄養で育てるべきか」、に関する記事であったが、結論は「科学的データが不足しているから分からないのだ。早急に研究を進めるべきである」となっている。まさに、その通り。しかしなかなか進まないのには理由があるのだ。今回の補正予算で、予算の確保はできた。結果を期待しよう。



C先生:最近、ダイオキシンだけでなく、環境ホルモンなる言葉が新聞に載らない日はないぐらいだ。マスコミは行政の怠慢をいつも血祭りに挙げるが、それではどうするのかという対策が述べられていない。

B君:対策といっても色々なレベルがあって、(1)現時点で、すでに母親の体内濃度が高いことから、この記事のように母乳を与えるべきかどうかといった現実的な対応、(2)現在でも続いているダイオキシン発生をどのように押さえるかという社会システム変更にかかわる問題、の2種類に分けることができるが、そのいずれを語る場合にも、(3)環境ホルモンとしてのダイオキシンの実態=科学的データが分からない、(4)ダイオキシンの催奇毒性も推測の域をでない、(5)しかし、直接的急性毒性は多分問題ではないが確実そうだと断定できない、というように、良く分からないことだらけ。

A君:それは国の研究所や大学がさぼっているからじゃないの。日本の科学技術の投資は、なんのかんの言っても、実は企業内の研究投資が支えてきたのが現実だから。

C先生:民間人のA君らしい突っ込みだ、などとボケている暇はない。なんで、ダイオキシン、環境ホルモン関係の研究がこれまで十分に行われなかったか、その理由は、2つに分けられるだろう。(1)技術的困難さ、(2)研究者の体質と国の方針。まず、技術的困難さから分析してみよう。

B君:(1)技術的困難さ、といっても、実は一通りではない。まず、(a)分析の困難さ、(b)生体影響実験の困難さ、(c)ダイオキシン発生メカニズムの確定の困難さ、などなどに分けて考える必要がある。
 (a)分析の困難さ:まあ簡単に言えば微量だということが最大の課題。微量だから濃縮しなければならないが、分析試料は普通、土とか煙とか排水なので、それこそありとあらゆる物質を含んでいる。しかも、それらがダイオキシンの数桁以上の濃度で存在している状況でありながら、目的物=ダイオキシンをうまく濃縮しなければならない。しかも、濃縮してくると、もともと毒物だから、取扱いに慎重にならざるを得ない。分析担当者が被害を受けたら、それこそ何をやっているのか分からなくなる。
 さらに、ダイオキシンと一口で言うが、本当は、ダイオキシン類と呼ばれる多種多様な類似化合物を別々に定量して、もっとも毒性が高いとされている、2、3、7、8−テトラクロロジベンゾダイオキシン(TCDD)の毒性を基準にして等価量で表現しなければならない。
 分析装置にしても、GC−MS(ガスクロ−質量分析)や濃縮装置で通常1億円以上かかる。分析室から有毒物質が外部に出ないように、気圧を下げるなどの配慮も必要になるから、全部で2億円と考えた方が良いかもしれない。微量分析には、標準試料が必要だが、ダイオキシンの標準物質は、今は知らないが以前はアメリカから輸入しなければならなかった。
 分析すべき濃度だが、母乳の脂肪1グラム中のダイオキシン類の濃度は、17.4ピコグラムとの結果が引用されているが、ピコグラムは10のマイナス12乗グラムで、濃度の単位にすれば、ppm(マイナス6乗)、ppb(マイナス9乗)、ppt(マイナス12乗)だから、17.4pptということになる。水道水中のヒ素の規制値が、10マイクログラム/リットルで、これが10ppb。要するに、桁が3桁分も低い。しかも、母乳脂肪中ということだから、もともとの母乳にすれば、20倍ぐらいは有ったはずで、さらに1桁違う。
 空気中の場合も同様で、しばらく前までの排煙中のダイオキシン規制値だった80ng/立方メートルと、労働環境としてトルエンに対する推奨値=188mg/立方メートルとを比べると、やはりダイオキシンの場合には、3桁も低い。
 これまでの公害関連の規制値は、大体ppm。この分析でも容易とは言えないが、環境ホルモンが問題だとすると、これよりも、5〜6桁薄い試料を的確に分析しなければならない。しかも、分析の対象が有機塩素化合物だから、どれもこれも、炭素、水素、酸素、塩素からできている訳で、元素分析とは訳が違う。
 まあ、でも最近の技術的な進歩で、なんとか分析が出来るようになったようだ。これまで1検体あたりの分析料も70万円とも言われていたが、多少値段も下がりつつあるようだ。

C先生:とにかく分析技術の進歩のお陰。日本では、成蹊大学の飯田先生とか、摂南大学の樫本先生(故人。宮田秀明先生の前任者)とかいった先駆者がダイオキシン分析の基礎を確立したと言えるだろう。

B君:(b)生体影響実験の困難さ:慢性遅延毒性の研究、発ガン性の研究など、すべてに共通する問題ですが、急性致死量を生体実験で決めるのとは違って難しいのです。多くの規制値は、発ガン性の場合ですと、ある人が一生その濃度に暴露されたとして発ガンする確率を10万分の1程度に抑えようとしていますが、生物という訳の分からないものを相手にして、実験的に本当にこれを証明しようとしたら、1000万匹の実験動物が必要になるでしょう。例えそれをやったとしても、実は結論はそう簡単には出ないのです。すなわち、発ガンの本当の原因が、その実験対象に用いた化学物質であるか、それとも、たまたまその動物が食べていた普通の餌に原因があるのか、この証明は通常対照群という方法でやります。その実験対象の学物質の投与以外は、まったく同じ条件にするのですが、餌も天然物ですと、まったく同じ条件が実現するかどうか、これが問題。
 現実には、1000万匹などというレベルの実験はできない。そこで、数100匹の実験動物を用いて、かなり高濃度の対象物質を含んだ餌を与え、そして、その実験結果を超低濃度に外挿するという方法が採られるのです。ですから、実験結果の解釈には相当の不確実性を伴います。
 発ガンのように、化学物質の濃度と効果の間にまずまず直線的な関係がある場合にはまずまず良いのですが、ある種のホルモンのように、余り高濃度だとむしろ作用がないというものがあるようですので、環境ホルモンの実験をどのような濃度の物質を用いて行うか、これも重大な問題です。

C先生:そう。環境ホルモンの実験には、余りにも様々な困難な障害がある。B君の指摘以外にも、他の物質と共存して初めてなんらかの作用を持つ物質があったら、どうやってその判断をするか、これを相乗効果というが、このような検討を含めて実験をやろうとしたら無限の条件を設定することになって非常に困難だ。
 環境ホルモン研究は、環境庁の国立環境研究所が中心となって、今回の補正予算から多額の研究費を使って実施するようだが、本当に結論が出せるのか、いささか心配になってしまう。やらないわけにはいかない問題なんだけどね。
 ちなみに、国立環境研で責任者になるのは、森田昌敏氏。環境化学物質の権威。実は、学科の先輩に当たる。私が4階、森田氏が真上の5階にいた。

A君:いままで黙ってましたが、たしかに、厄介な研究課題のようですね。これができる人は限られているでしょうし。

C先生:これまでの大学人は、論文が書けることを最大の条件として、研究テーマを選択してきた。困難だけれど、社会的に意義があるという課題は、できれば避けたいというのが大学人の本音だった。だから、ダイオキシン研究も地味でやる人は少なくなった。最近、ダイオキシン研究で著名人になれることも分かってきたので、やる人は少しは増えるだろうが。
 一方、国立研究所だが、その基礎研究志向は、実は大学よりもひどかった。良い学問業績を挙げて、大学にポジションを得たいというのが多くの国立研究所における研究者の本音だったし、レーガン大統領の「日本は欧米の基礎研究の成果に只乗りしている」という指摘を受けて以来、日本の科学技術政策が変になったのが原因。最近、少し変革されつつあるが、基本は変わっていない。

A君:いつのまにか、(2)研究者の体質と国の方針の説明に移ってますね。

B君:残りの検討課題ですが、ダイオキシンなどの発生が、ゴミ焼却からの寄与が大きいことは事実、塩ビも犯人の一人などといった話は、もうかなりやったから、今回は省略しましょう。

A君:ついでにひとこと。英国のデータを見ていたら、コークス炉や火葬場などからもダイオキシンが出ているとのこと。

B君:それなら、タバコの煙にも含まれているとのこと。

C先生:まあまあ、そんなところで。
 ただ、今回の朝日新聞にもでているが、大阪府公衆衛生研究所が73年から保存してあった母乳中のダイオキシンを調べたら、ダイオキシン濃度が74年をピークとして、今は半分に減っているというデータは、ある程度の救いだ。理由は、ベトナムの枯葉剤と同じもの(2,4,5−T)などが日本でも使われていたが、禁止になったため、とのこと。
 それにしても、不思議なのが、汚染された魚からのダイオキシン摂取がいまだに6〜9割と言われていることだ。この時代の農薬が海底にでも蓄積していて、食物連鎖で魚が汚染されるのだろうか。このような問題も、森田氏のプロジェクトで明らかになると良いのだが。