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高木仁三郎氏逝去 10.15.2000




 高木仁三郎氏がお亡くなりになった。まだ62歳であった。ご冥福をお祈り申し上げます。高木氏は、反原発の活動によって数々の賞も受けられている。反原発がどのような理由によるものなのか、その真意をもう一度チェックしたくなって、最新の著書である「原子力神話からの解放」、カッパ・ブックス、ISBN4-334-00687-6、2000年8月30日発行を読んでみた。かなりの部分で同意できるのだが、最終的な結論については、必ずしも同意できるとは言えず、やはり異なった結論になってしまうのはなぜか。


C先生:今回は、高木仁三郎氏の冥福を祈って、著書の勉強。今日は、A君はまたまたお休み。そのかわりにF君が参加。

F君:Fです。さる商社で普通のサラリーマンをやっています。

B君:それなら、私がA君の変わりをやるか。えーーと、この本は、カッパ・ブックスだから、新書のなかでもそんなにも重い読み物ではない。全部で11章からできているが、そのうち9章が、「XXXX」という神話、という題名になっており、原子力がこれまで生き延びてきたのは、様々な神話が有ったからだということになっており、神話から解放されれば、原子力は終わりになる、という主張の本だ。
 その9つの神話を含めて、章立てを紹介すると、


プロローグ−原子力の歴史の総括として
第1章:原子力発電の本質と困難さ
第2章:「原子力は無限のエネルギー源」という神話
第3章:「原子力は石油危機を克服する」という神話
第4章:「原子力の平和利用」という神話
第5章:「原子力は安全」という神話
第6章:「原子力は安い電力を提供する」という神話
第7章:「原子力は地域振興に寄与する」という神話
第8章:「原子力はクリーンなエネルギー」という神話
第9章:「核燃料はリサイクルできる」という神話
第10章:「日本の原子力技術は優秀」という神話
第11章:原子力問題の現在とこれから
パンドラの箱は閉じることができるのか−結びに代えて


となっている。

C先生:ついでだから、プロローグから説明して。

B君:プロローグでは、なぜこの本を書く気になったかが記載されている。それには2つの動機があるということで、一つは、当然ながら1999年9月30日に起きたJCOの臨界事故。二つ目が、丁度2000年であること。この2000年という年は、原子力にとっても様々なターゲット年としての役割を果たしてきたので、その総括をしたい、というのが動機だそうで。

F君:JCOについては、先週、関係者が逮捕されましたよね。まあ、大変な事故だったと思います。関係の無い住民も中性子線に被曝しているのですから。

C先生:まあその通り。日本の原子力史上初めての死者が2名も出ているのだから。

B君:高木氏も本の中で、「数多くの原子力事故に接してきた私にとって、この事故にはなにかしら今までとは本質的に異なる、自分の心を根底から揺さぶられるものがありました」と記述している。
 そして、原子力安全委員会は、その事故調査委員会の報告書を公表したが、そこには数限りない問題点があると指摘。特に、委員長であった吉川弘之氏が、「直接の原因は全て作業者の行為にあり、責められるべきは作業者の逸脱行為である」、所感として述べているところが最大の違和感であるとしている。要するに、作業者個人の逸脱行為にすべての原因を求めているが、本当のところは、大内さんたちは、「もっと大きな逸脱行為、より構造的に、より広い範囲で、言ってみれば原子力産業全体、あるいは政府全体にわたって起こった逸脱行為の犠牲者ではないか」、というのが率直なる感触のようだ。

C先生:その報告書を読んでいないので確実なことは言えないが、吉川先生のような立場だと、逸脱行為を責めざるを得ないのはよく分かる。現時点で日本全体のエネルギー供給を危機的な状況にする訳にはいかない。これは、日本列島上に住むすべての人にとって重要なことである。原子力はもんじゅの事故以来、さまざまな事故のために信頼性が失われている。そこにこんなにも決定的な事故を起こしてくれるとは何事だ。それもJCOなる訳の分からない企業が、自らの利潤を追求するために裏マニュアルを作って、それが原因で前代未聞の事故を起こした。となると、その企業責任を、さらには、作業員の逸脱行為を責めざるを得ない気持ちになるのもある意味で当然。

F君:日本という国は、やはりウェットな国だから、死者をむち打たないですね。市民感情もどちらかと言えば、そんな感じでしょう。

B君:技術者倫理というものが問題になっている。技術者は、企業(組織)内での不正行為に対して感性を高く維持して、不正に対してはそれなりの警鐘を鳴らさなければならない(英語では"Whistle Browing")。これが技術者倫理である、という考え方。今回の、担当者3名をこの技術者倫理の点から見れば、やはり行動が倫理的では無かった。

C先生:原子力産業全体が斜陽化する傾向を見せていて、また、各国の原子力離れからウランが過剰気味になって、核燃料の価格も低下して、利益が確保しにくい状況になった。そんな状況で、頼りになるのは個人の倫理観。これが今回全く機能しないで、むしろ「企業論理」が完全に「個人の倫理」を支配した。これも日本企業が時代遅れであることを意味していて、特に原子力産業のような社会的受容性がもっとも重要な産業は、もっと社員をそのような方向に教育しなければならないのだが。

B君:臨界事故が起きたときに、民放は言うに及ばずNHKの放送ですら、漏洩事故と臨界事故の区別が付いていなかった。恐らく、作業を担当した作業員も、ものの本質を分かっていなかったのでは。

F君:僕も「臨海事故」という言葉は初めて聞きましたから。しかし、一般的市民感覚としても、JCOの社員なら全員専門家で無ければならない。これが当然という気がしますね。

C先生:それが吉川先生の委員会の偽らざる本音なのだろう。やはり作業員がどのような教育を受けていたのか、どこまで物事を理解していたのか、これは追求すべきだ。日本人的ウェットはそこそこにすべきだ。高木氏は、市民の立場から、この事故は日本政府全体に起きた逸脱行為にその原因を求めるべきだという考え方のようだが、そのような要素も皆無ではないが、それ以前にJCOという企業とその社員の責任を、市民の立場からも糾弾すべきでは無いのか。

F君:こんな速度で議論をしていたら、終わらないですよ。

B君:よし。次だ。第1章の「原子力発電の本質と困難さ」。ここで指摘されていることは、原子は不変ではないが、原子核をいじることによって得られるエネルギーは、その変化に関与する物質の量を基準にすれば、通常のエネルギーの100万倍も莫大であるから、困難だ。だからパンドラの箱だということだ。

F君:放射線は遺伝子への影響があるから、ということも指摘されていますね。

C先生:遺伝子への影響があるという話も、最近、少々変わっているように思う。しばらく前までは、放射線はDNAの塩基配列に傷を付けるから、どんなに少ない量でも危険であるという考え方になっていた。しかし、最近の理解では、DNAに傷が付くことは日常的に起きていることで、それでも生物が活きていられるのは、自己修復作用が何重にもあるから、少々の異常は問題にならない、という考え方になっている。その「少々」がどのぐらいか、これは問題だが。

F君:もしもそれが本当なら、原子力に対する考え方も変わってくるのでは無いですか。

B君:大体、体内にも放射線源、これを放射能と呼ぶのだろうが、を持っていることを知らない人が多いのだろうな。カリウム40という原子核がそれだが。

C先生:最近、環境問題について考えるとすぐに気が付くことが、最終処分地にしてもなにしても、「リスクがゼロである」と言わないと受け入れられないということ。リスクゼロが社会的受容性の条件になっている。しかし、「リスクはゼロにできる」、ということが間違いであることはすでに証明されている。となると、どこまでのリスクを受容するか、ということになるが、それは状況によって違う。

B君:諸外国では、リスクを金銭で補うという考え方を最初から受け入れているのですが、日本だと、そのような考え方は「金銭的に汚い」とか「はしたない」とかいう評価になってしまう。最後の最後には、「金で解決」しかないことが分かっていても、だから、当事者はその議論になかなか入れない。これが解決を困難にしているという部分はある。

F君:話を多少変えて、原油価格がまたまた高止まり状態ですが、これって、エネルギー危機につながるのでは無いですか。となると原子力がまたまた復活するのでは。

B君:確かにそのような要素もある。第2章以降の「神話」の間違いの指摘については、かなり同意できるところもあるが、どうもそれらの議論に抜けているのが、「エネルギー供給危機というものをどのように考えるか」、という視点なんだ。現時点のように、原油価格は高くても、それなりになんとか危機的状況にならないのは、やはり他のエネルギー源があるという状況がある。太陽光発電はちょっと難しいところがあるが、風力のような自然エネルギーにも将来可能性があるというところも、原油価格が爆発的に上昇しない理由なのかもしれない。

C先生:いや、原油価格は現在の情勢では30ドル台で止まるだろう。なぜならば、これ以上の価格になると、南米などにあるより低質な化石燃料の開発が始まるからだ。また、EU諸国では、ノルウェーに水力発電を増設して、そこから、100万ボルト送電網を作って、各国に供給するといった動きもあって、もしも40ドル、50ドルという状況にすると、そのような動きが一気に加速する。OPECとしても、石油の相対的地位の低下を招くそのような状況は望ましくない。だから、原油価格が高くなっても、余り恐慌状態にはならない。第1次、第2次と2回の石油危機を経験した学習効果だ。勿論、経済にはじわじわ利くのだが、バブルな米国経済を若干冷やすことは、より持続可能な人類社会を作る意味から言えば、望ましいようにも思える。

F君:現在は、まだまだ天然ガスなどの使いやすい燃料がありますからね。余り石油が高くなれば、天然ガスに一気に転換が進むし、また石炭の復権もあるかもしれないし。

B君:しかし、500年といった長期的視野を持つと、化石燃料供給には限界があることは事実。結構地球も懐が深くて、もっと供給余力があるという話もあるが、しかし、いずれにしても有限であることには間違いはない。そのときに、原子力というエネルギーを使わない手は無い。

C先生:原子力、特に、高速増殖炉という技術の可能性を現時点で捨てることは、やはりあり得ないと思う。勿論、現時点ですぐに実用化をすべきだとは全く思わない。なぜならば、現在のエネルギー供給は、日本全体に大きなリスクを与えるような状況だとは思えない。だから原子力に対する社会的受容性がでるとは思えない。設備価格が高いから経済的にも成立するとも思えない。しかし、将来ともパンドラの箱に蓋をしてしまうのは、余りにももったいなくてあり得ない。可能性は追求すべきだ。
 こんな考え方だと言うと、「科学ですべての問題は解決できると思っているか」、という質問が来ることがある。これに対して、個人的には敢えて「イエス」と答えることにしている。しかし、条件付きだ。それは、「社会全体として科学に対する理解が進むこと」、であって、一般社会が科学を理解しようとしなければ、「科学は問題をこじらせる」だけだろう。

B君:高木氏も、将来のエネルギー供給に対して、多少の見通しを語っている記述が散見される。例えば、
 「石油離れがだんだん進むとすれば、それに替わるものとして天然ガス、それから将来的にはバイオマスのような再生可能なエネルギー源とか、太陽エネルギーとか、風力とか、いろいろな形の水素の利用、最近は燃料電池がさかんに取り上げられていますが、そういうものが中心的なエネルギー源となる方向へ進んで行くでしょう。それに引き換え、原子力は現状以上は進み得ない」。
 「73年のオイルショックの時点でエネルギー開発がたとえば多様化の方向に進んでいたとしたら、もっともっと早く風力や太陽エネルギーや、いま話題になっている燃料電池や、それに関連した水素利用などが可能になっていたかもしれません」。
 どうも、いわゆる環境活動家が持っているエネルギー未来予想図をそのまま信じているように思える。

C先生:困ったことなのだが、そのような「エネルギー未来図」は多分現実のものにはならないだろう。そのようなシナリオの実現を信じていたら、恐らくエネルギー供給のリスクが大きく立ちはだかる、と考えた方が良い。そのリスクと原子力の放射性物質によるリスクの大きさが議論されるようになるとき、そのときに、原子力が復活するだろう。

F君:それがこの記事における最終結論なんでしょうが、神話の中にいくつかの気になる言葉があったのですが。例えば、
「産業的な必然性が無かった原子力利用」
「三菱、東芝、日立のための原子力」
「日本の技術水準はアジアの軍事的脅威」
「工学的な壁では防げない人為ミス」
「原子力事故は必ず起こることを前提に」
「1グラムの二酸化炭素を出すのと、1ベクレルの放射能を出すのはどちらが問題」
「日本の原子力技術は崩壊寸前」
などなどですが。

B君:ほぼどれもが同意できる。原子力発電は設備費は高いというが、原子力村というものが存在して、法外な値段の部品が使用されていたが、実際上、信頼性は汎用品と差が無かったという気がする。政策的な産業化であったから、こんなことになったのだろう。

C先生:「1グラムの二酸化炭素と、1ベクレルの放射能」との比較の話は、なかなか面白い。このような議論が必要不可欠。

F君:ちょっと慣れないのですが、紹介して見ましょうか。「1グラムの二酸化炭素と1ベクレルの放射能」は、火力発電と原子力発電を比較すると、どうもほぼ相当するということのようです。「日本全体で使用されている電力量は、9000億キロワット時ぐらいで、もしもこれをすべて原子力で置き換えるとすると、事故のリスク評価と実際に今起こっている労働者被爆の危険度から、数人から数100人が死ぬ計算になる」、そうです。

B君:実際上、原子力発電による犠牲者は、JCOの事故が日本の歴史上初めてということだとすると、その推定は余りにも大きいのではないか。毎年1人程度でも大きいように思う。

C先生:いや、それは将来大事故が起きることを仮定しているのではないか。
 さて、水力の場合と比較してみようか。黒部第四ダムの記事のところでも書いたが、黒四は、発電量が33.5万キロワット。年間発電量にして、30億キロワット時ぐらいだが、その建設のために171名もの作業員が犠牲になった。黒四ダムの寿命を100年として、この間に3000億キロワット時ぐらいの電力を発電するだろう。そのために、171名が犠牲になった。9000億キロワットに揃えれば、約500名ということになって、原子力発電だと9000億キロワット時で、数人から数100人という高木氏の推論の上限に近いことになる。

F君:なるほど。一般市民を巻き込むかもしれない原子力発電のリスクと、その可能性がほとんど無くて、土木作業員の犠牲に限られる水力発電のリスク、この2つに対する受容性の違いでしょうか。考えてみると、かなり身勝手なリスク受容ですよね。

B君:水力発電だってリスクが全く無い訳ではない。ダムがいつ崩壊するか、これは問題。これが起きれば、一般社会へのリスクだ。火力発電にしたって、リスクは実は大きい。特に、超重質油とか石炭とかを使うと、バナジウムとかマンガンとかいった重金属類を、折角人類から隔離されていた地下から地上に戻しているようなものだ。一般社会へのリスクだってゼロではない。

C先生:そろそろ終わりにしよう。高木氏は、「結びに代えて」で「パンドラの箱を閉じることができるか」について議論をしている。バージョンの異なる2つの神話が引用されて、「見通し」を持つことによって閉じることができるという「希望」がでてくる、という結論になっている。しかし、見通しの持ち方によっては、原子力のリスクを受容するような時代が来る可能性があることをどのように考えて居られたのか。直接お会いする機会が無いままになってしまったが、一度議論してみたかった。非常に残念である。