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未来社会の持続可能性 05.28.99






以下の文章は、本ホームページですでに終了した東京大学生産技術研究所創立50周年記念講演会における安井の発表用レジメです。
御批判をいただければ幸いです。



1.はじめに
 環境問題は、公害汚染といった狭義の問題から、人類の持続可能性を対象とした広義の問題まで、そのスペクトルは極めて広い。しかし、1992年の地球環境サミット以来、すべての環境問題は、地球レベルの視野をもって考察をする必要がでてきた。それは、地球の有限性を考えると、汚染型環境負荷とはいっても、その汚染除去には相当量の資源・エネルギーの消費、さらには二酸化炭素の放出や固形廃棄物の発生を伴うことから、汚染のリスクだけを完全にリスクをゼロにすることが真の解決法ではなく、すべてのバランスを考えた上で、トータルリスクミニマムを目指した戦略が必須となったからである。
 そのためには、これからどのような危機が生じる可能性があるのか。その対策として現時点から何を考えておく必要があるのか、環境問題とは何か、その歴史的考察から始めて、記述してみたい。

2.いまさら「環境問題」とは何か
 環境問題とは何か、もう一度基本から考え直したい。人間活動による環境負荷が、生態系に影響を与え、最終的には生態系の頂点に君臨しているヒトの健康にも影響を与える、という構図が環境問題の実像である。しかし、環境問題に対する意識は、時代と共に変遷していると言わざるを得ない。まず、若干の歴史的な考察から始めよう。

2−1.歴史的考察
 日本の環境問題は、公害問題からスタートしたと言える。この状況は、現在の発展途上国においても同様である。公害問題は、産業活動による環境汚染が原因であるが、経済活動の規模がゼロから徐々に大きくなる過程では、経済第一主義的な国家戦略が採られることが多く、言いかえれば、公害型環境汚染は、現実に被害が出る状況になるまで、意図的に意識の外に置かれることが多かった。日本における環境問題は、不幸にして水俣病のような典型的な企業公害によって顕在化し、そして、その後の経済成長に伴う環境意識の向上によって、各企業が環境設備を導入し、多大なエネルギーを消費することによって、なんとか汚染を低減することができた。非常にラフな表現をすれば、1970年代に日本の公害型汚染は最大値を示し、その後、順調に低下をしており、現在に至っている。(以下、文末の図1参照)
 しかしながら、公害型汚染だけが環境問題の構成要素ではない。近年の地球環境問題とは、人間活動の規模の増大によって、地球の環境処理能力に限界が見えてきたこと、さらには、資源・エネルギーなどの供給限界、食糧の供給限界などが同時に見えてきたことを意識すべきことを教えている。すなわち、公害型汚染に加えて、消費型環境負荷を考慮すべきことを意味している。消費型環境負荷の内容は、まず、資源・エネルギーの消費であるが、それに伴う二酸化炭素の放出や固形廃棄物量の増大を含む概念である。公害型汚染が1970年にピークを示し、それ以後順調に低下しているのに対し、消費型環境負荷は、2回の石油ショックによって若干の低下を見たものの、その後、日本におけるバブル経済の影響もあって、ほぼ直線的に伸びてきた。現時点で経済的に不況にあるにも関わらず、まだ伸びが止まらない。
 これら2種に加えて、バックグラウンドと呼べる環境負荷が存在する。ここ2〜3年、ダイオキシン汚染や環境ホルモン問題がクローズアップされたが、このような汚染も、大規模な人間活動、すなわち、大量生産・大量消費・大量廃棄社会のツケとして、バックグラウンド汚染として存在していたものが、突然姿をあらわすといった形だと理解すべきだろう。
 21世紀において、今後、これらの環境負荷をどのように取り扱うべきだろうか。消費型負荷がこれ以上増大することは、まず、1997年の温暖化防止京都会議における合意を満足させるためにも、不可能である。それ以前に、地球は有限であって、消費型負荷を無限に増やすことはあり得ない。バックグラウンド汚染として、現時点で何が進行しているか、必ずしも明らかではないが、人間活動の規模が増大する限り、なにか新しい問題が出てくるだろう。消費型環境負荷を低下させると同時に、バックグラウンド汚染も同時に低下させることが、今後の環境対策のターゲットとなるだろう。勿論公害型汚染の低下傾向も継続させなければならない。
 さて、そのような上手いやり方があるのだろうか。1970年頃をピークとして、公害型汚染を低下させることができたのも、大量の資源とエネルギーを公害対策に注ぎ込んだ結果である。すなわち、公害型汚染は、消費型環境負荷を増大させるというトレードオフによって実現されているのである。今後、両者を平行して低下させることは、経済活動の低下を意味しないのだろうか。短期的な経済活動の低下が、交通量の減少につながって、大気汚染が減少するといった効果はある。しかし、長期に渡る経済活動の低下が、必ずしも環境負荷減少につながらないと予測される結果が出ているように思える。日本の場合には、特に、資源・エネルギーの自給は不可能、食糧の自給もかなり困難という国家的状況だからこそ、ある程度の経済力の維持が、環境の維持につながるものと考えられる。
 しかし、経済力・経済規模の拡大だけを目的としていては、21世紀の環境を良好に保つことが難しいかもしれない。新しい価値観の創造が不可欠のように思える。

2−2.環境問題の目的意識
 環境を維持しようとする意識は、ある目的物の健全性を保全しようとする意識だと言える。持続可能性は人間活動の健全性を維持することを意味している。地球温暖化防止という意識は、人間社会への影響を問題にしているようにも思えるが、それ以外にも地球そのものの環境を維持することを目的と考える意識があるように思える。ある地域の生態系の維持を目的とする考え方も、かなり一般的な目的意識のひとつである。希少生物種の維持も、環境問題の一つの典型的な目的意識である。日本における環境問題の意識は、かなりの部分が健康問題である。すなわち、現在生存しているヒトの健全性を維持することが目的であるように見える。
 このように考えると、環境問題において健全性を維持しようとする対象物としては、その規模の大きい方から、いくつかの分類が可能である。
 1.地球そのもの
 2.地球上の生態系全体
 3.広域の生態系
 4.地域の生態系
 5.特定の生物種
 6.生物の個体
 7.その他、人間社会、景観など
 このように、維持すべき対象物が、個人個人の価値観によって様々であることから、環境問題というものの多様性と困難さがある。

2−3.「人間地球系」における環境目的意識
 筆者は、平成5〜9年、文部省の科学研究費補助金重点領域研究における「人間地球系」と呼ばれた環境研究の総括代表を務めた。この研究プロジェクトの環境目的意識は、人間活動を地球本位型に変更することによって、日本列島を中心とした人間活動の持続性を確保しようとするものであった。上記分類から言えば、その他に属するやや特異なものかもしれない。
 持続可能性とは何か。これも十分には理解されているとは言えない。その定義を考えるには、究極の持続可能性を考察することが有効であろう。
 人間社会が健全に持続可能であるためには、ヒトの生存が保証されなければならない。それには、食糧、水、空気、それに体温の維持が不可欠な4つの要素である。食糧の生産には、自然農業による方法であれば、健全な土壌と十分の太陽が必須である。水、空気は、質的な問題があるものの、日本のような状況では、一応確保が可能である。体温の維持は、資源・エネルギーの確保を意味する。すなわち、住居と衣料の確保である。持続可能性という観点から最も問題になるのは、資源・エネルギーの確保である。現時点では、資源・エネルギーともに地下資源を利用しているが、地下資源が有限であることは、厳然たる事実だからである。
 しかしながら、太陽エネルギーがある。太陽エネルギーは、少なくとも人類の時間スケールから言えば、無限に利用可能である。地球に到達している太陽エネルギー量は、実際のところ莫大であって、いかに肥大した人間活動だとはいっても、人類が現在1年間で使用する全エネルギー量は、地球に到達する太陽エネルギーのたった1時間分程度に過ぎない。しかし、どのようにこれを利用するか、これが大問題である。現時点で、太陽エネルギーを利用しようとすると、
 1.森林資源
 2.植物資源
 3.自然農業
 4.水産資源
 5.放牧
 6.再生可能電力(水力、太陽光、風力、波力、その他)
程度が可能なだけであり、これだけで現在の人間活動を支えるのは全く不可能である。しかし、科学技術の進歩によって、エネルギーの供給が十分に行えれば、金属資源に関しては、リサイクルを行うことによって持続性の確保が可能である。
 一方、地球の環境容量にも限界が見え始めている。その典型が、地球温暖化、オゾン層破壊であろう。地球温暖化ガスで最大の寄与率があるとされている二酸化炭素であるが、地球を循環している二酸化炭素の総量は、炭素換算で200ギガトンを超す。しかし、そこに人為起源の6ギガトン余が追加されると、地球は、その程度の量の処理が不可能なのである。人為起源の50%程度が大気中に残存し、気中濃度を高くし、赤外線が吸収されるために温暖化するとされている。オゾン層破壊の場合には、難分解性のフロン類を放出したために、光分解されず成層圏にまで上昇し、そこでやっと化学反応が起きてオゾン層を破壊する。いずれにしても、地球が持っている自律的能力を超した負荷を人間活動が掛けていることになる。
 この環境処理の自律的能力の起源を考えると、やはり太陽光エネルギーがその能力を付与していることに気付く。有機系廃棄物が地表で分解されるのも、やはり微生物に太陽がエネルギーを与えているためであり、このように考えると、地球の有するすべての環境処理能力は太陽起源であるとも言える。
 このように、太陽系第3惑星である地球は、その表面上に太陽によって生態系を形成している。そのため、太陽エネルギーだけですべてのエネルギー供給を行うことができれば、それこそ太陽の寿命が続く限り数億年に渡る持続可能性が実現できる。しかしながら、現在人類が行っている経済活動は、地下資源にほぼ全面的に依存したものであって、持続可能からは程遠いものである。
 いかにして、持続可能性を目標とする社会を実現するか、これが「人間地球系」全体としての問題意識であった。

2−4.現在の消費社会の環境観と21世紀の環境観
 社会システムを変えることは、基本的には行政の役割である。しかしながら、その後押しをするのは、市民社会の意識である。現時点における市民社会の環境観はどのようなものだろうか。
 日本における最近のもっともホットな環境の話題は、ダイオキシン問題、環境ホルモン問題であった。市民社会の環境観がどのようなプロセスで形成されるかを考えると、環境情報を主としてテレビ、新聞などから得て、それによって相当の影響を受ける。現時点におけるマスコミの環境観が、市民の環境観に反映するものと考えられる。マスコミの環境観とは何か、それは市民の健康第一主義に訴えて、いかにセンセーショナルに取り扱うかといった報道主導型の環境観であって、現時点において、環境の総体がどのような状態にあるかといった状況判断は、少なくともマスコミの報道中では、ほぼ欠落した状態である。
 市民社会の環境観が健康第一主義であることは、恐らく万人の認めるところだろう。このような考え方によれば、健康リスクゼロを環境に求めることになる。果たしてリスクゼロは、正しい考え方なのだろうか。その検証を行うには、人為的な努力によってリスクゼロが達成できるかどうかを検討する必要がある。
 まず、自然が人類に与えている環境がリスクゼロなのだろうか。これがゼロであれば、人為的努力によってそれをゼロにする価値がある。現時点で自然、というと、国立公園のようなかなり人手の入った自然を想定しがちであるが、本当の意味での自然の人類に対するリスクは大きい。まず、動物に襲われる、昆虫に刺される、植物にかぶれるなどといったリスクがある。完全なる自然の中で食糧を確保することも相当困難である。農業のような人為的な作業によって、人類は食糧を確保している。エネルギーの確保も難しい。薪炭程度が得られるに過ぎない。現時点で多くの市民が自然回帰指向をしているように思えるが、少なくとも健康第一主義的な発想から自然回帰を言う場合には、それは人工的に管理された安全な自然への回帰であって、本当の意味での自然回帰を指向している訳ではない。
 次に、人工的社会のリスクをゼロにすることが可能であろうか。現時点における日本の環境の状況が、ダイオキシン問題の存在や、環境ホルモン問題の存在にも関わらず、ほぼ最善の状況であることは、環境を研究している専門家すべてが認めるところである。現時点におけるバックグラウンド汚染が、これからも未知汚染として浮き上がってくる可能性は高いものの、環境総体としての動向、すなわち、1970年代をピークとして、環境は改善され続けているという状況は、日本の産業活力が一定程度確保される限り、今後も継続できると思われる。リスクゼロを目指すことは、現時点に存在するわずかなリスクをゼロにすることによって達成されなければならない。それには、相当量の資源・エネルギーの消費を伴うことになる。リスクが大きい段階におけるリスクの減少は、比較的簡単に行えるが、非常に少なくなったリスクをさらに低下されることは、熱力学的考察からも明らかなように、相当のエネルギーの投入が必要だからである。
 地球環境問題の意味するところは、すでに議論した。すなわち、地球のあらゆる意味での限界が顕在化したことである。資源・エネルギーの供給能力や、食糧供給能力、さらには、環境処理能力の限界などが健在化した訳である。このように限界が見えてきた地球上に、人類が今後最低でも数100年、場合によっては数千年生存をしつづけるのであれば、地球上の資源をその期間に生存する人類に平等に分配する必要がある。すなわち、有限である地球資源を現在地球上に存在している人類だけで公平に分配するのでは十分ではないのである。未来世代を含めて、公平に、平等に分配する必要がある。このような考え方を持てば、リスクゼロを達成することは、将来世代へ残すべき資源・エネルギーを浪費することと同義であって、とても許されることではない。すなわち、"リスクゼロ"は、地球が無限であり、かつ、環境問題が現存しているヒトの生存に相当のリスクを与えている期間における標語にはなり得るが、現時点から21世紀前半の期間内のように、かなりゼロに近くなったリスクをさらにゼロに近づけなければならない時代には、むしろ誤った標語と認識すべきように思える。
 それでは、リスクゼロに変わる環境標語は何か。それは、トータルリスクミニマムであることはほぼ自明だろう。しかし、リスクゼロに比べると、その評価をどのように行うべきか、極めて困難である。トータルとは何か、ミニマムとは何か、を議論する必要がある。ゼロは簡単な目標である。若干でも非ゼロのものがあれば、それを標的にしてゼロ化する方法論を考えれば良いからである。ところが、トータルとなると、どの環境負荷項目を考慮するか、どの範囲で加算をするかといった範囲を設定する必要がある。さらにミニマムとなると、いくつもの要素間のトレードオフを考慮する必要がある。あるリスクを減少させようとすると、一般には資源・エネルギー消費のリスクが増大するからである。場合によっては、別の環境負荷項目でもリスクの増大が現れ出でることもあるだろう。
 ここでは、トータルリスクミニマムをどのような方法論によって検討すべきであるかといった議論は行わない。筆者は、これをライフサイクルアセスメントの延長線上で解決策を見出そうと考えているが、未だに社会的合意が得られている解決方法ではない。
 もう一つの環境対策の基本原則として、予防原則というものが公害時代から言われつづけている。すなわち、完全に犯人であるかどうかが判明する以前から、「疑わしきものは罰すべし」という原則である。歴史的に見れば、この原則は、水俣病公害問題において、水銀が真犯人であることが判明する前に、いろいろな可能性が検討され、その結果として水銀の対策が遅れたことから生じた教訓的基本原則である。
 環境問題が複雑化した現代においても、この予防原則が、多くの環境専門家によって金科玉条のごとく語られることも多い。最近では、環境ホルモン問題のときにも、可能性のあるすべての化学物質を使用禁止にすべきだという議論が行われた。しかし、現代のように複雑な製品が数多く出回っている状況であると、現実的対策だとは言いにくい部分がある。予防原則に変わって、なんらかの実効的な原則を作ること、これが21世紀の環境科学の重要な課題である。筆者の提案であるが、例えば「予測原則」といったものはどうなのだろうか。
 予測原則が可能になりそうな状況が、最近の科学の進歩によって徐々に見えてきている。一つは、遺伝子科学の進歩である。これまで、環境の生物影響は試験動物を使用した研究によって評価されてきた。しかしながら、ダイオキシンのような物質では、その代謝速度や毒性が、生物種によって余りにも違いすぎるといった疑問があって、ヒトという生物種に対して、どのような規制値を適用すべきか、なかなか難しいという困難がある。このような違いを明かにできる可能性があるのが環境分子生物学といった学問だろう。現時点で、分子生物学は、医学、特にガン・遺伝の分野で進んでいるものの、環境分野における有力な研究者が存在しない状況である。その理由は、まだまだ環境の重要性が理解されていないからであろう。リスクが極限まで低い分野、例えば電磁波の人体への健康影響といった部分も、遺伝子科学が進展すればきっちりした結論を出すことができるようになるだろう。そして、多くの物質の分子構造とそれによる生物影響について、精度高く予測できるような学問体系が構築されれば、しっかりとした予測によって、的確な対策が取れるようになるだろう。これが21世紀における環 境科学の役割である。
 現時点の環境は、何回も述べているように、緊急対策を要するような事項は、それほど多いとは思えない。着実に問題解決を目指せば良い。唯一、例外的に緊急に対策と研究を必要とすると考えられるのが、環境要因の胎児に対する影響の部分だろう。この部分も、遺伝子科学的な手法を十分に活用することによって、真実が明らかになるだろう。

2−5.環境未来予測を行う必要性。
 21世紀の環境科学は、トータルリスクミニマムと予測原則を標語として進めるべきことを主張してきた。そのためにどのような準備が必要であろうか。まず、現時点の人間活動を継続したときに、21世紀前半にどのような危機的状況が予測されるか、といった議論から始めることが重要だろう。未来を見通した環境科学を構築するために、このような作業が必須だと思われる。
 さて、どのような予測が有りうるか、その意味は何か、その詳細については、「人間地球系」の一般図書としての市民向け報告書、「市民のための環境学入門」丸善ライブラリー、276をご参照いただきたい。ここでは、記述の重複を避けるために、その年表だけを記述する。

3.21世紀の環境未来予測年表

2005年 地球温暖化の一つの原因とされている二酸化炭素の放出規制は、結局国際的な取り決めが無効のままとなる。
2005年 日本国内において、廃棄物の最終処分地不足が顕在化。
2005年 ごみ焼却制限された。完全分別した単品の焼却のみ許可。
2010年 世界的な食糧供給危機が到来。温暖化のためではなく、むしろ、米国、中国、ロシア、オーストラリアが同時に低温になったため。異常気象かもしれない。
2010年 紫外線は確実に強くなっている。皮膚ガンなどの影響が白人種を中心に見えている。
2010年 ダイオキシンなどの化学物質によるものと見られる遺伝子異常が多発。
2020年 原油価格が急騰する。エネルギー危機再来。しかし、第一次石油ショックほどではないが、着実にエネルギーの価格が上昇。
2020年 海外出張が大幅に制限された。一つは、エネルギー価格が上昇したため。もう一つは、日本産業界の活力が大幅に低下したため。
2020年 企業の生産活動中止に伴う、昔の公害型環境問題が増加。倒産した企業からの残留物質の処理ができないため。
2020年 米国、月面基地の建設を開始。太陽発電衛星を打ち上げて、将来のエネルギーを確保する戦略。
2025年 エネルギー源を石炭に依存し始めたために、酸性化が進む。同時に、バナジウム、マンガンなどの排出量が増加している。
2030年 先端電子機器による土壌汚染が問題に。ガリウム砒素やその製造装置からでる廃棄物などの不適切な処置が問題。
2030年 リンの価格が高騰した。化学肥料としてのリン酸肥料は実質上製造中止に。
2030年 やっとのことで鉛が完全回収以外は使用禁止に。鉛に付随して産出する金属が不足。水銀もやっと完全回収義務化。
2040年 人口の増加はやはり止まらない。
2050年 原油の生産量は、最盛期であった2030年の半分に減った。その減少量は、やはり原子力に依存せざるを得ない。
2050年 太陽発電衛星がいよいよ軌道を周回し始めた。宇宙居住人口が4000人になった。しかし、宇宙線の影響が心配。
2050年 地球温暖化が目に見えるようになってきた。海水面も50cm程度上昇したようだ。モルジブなどの島国では被害が出ている。
2050年 世界人口が100億人になりそうだ。

 さて、この予測はどのぐらい当たるのだろうか。その答えは、「絶対に当たらない」、いや「当たるべきではない」、である。なぜか。もしも予測が正しければ、その兆候が現れてきたところで、対策が取られるだろう。そして、多くの場合には、危機は回避されるだろう。非常に回避しにくい種類の危機だけが実際に起きる可能性が高い。それは、食糧供給、温暖化、といったところに限定されるだろう。そして、もしも予測そのものが間違っていたら、それは外れる。従って、このような予測は当たらないことが当然であり、そうあるべきなのである。
 それならば、予測をすることの意味は無いのだろうか。そんなことは無いだろう。やはり意味のある行為だと考える。それは、食料供給、温暖化といった回避しにくい危機を十分に予測し、警鐘を鳴らしつづけることによって、いささかでも回避される確率を高めることが、現在の我々にとって義務だと考えるからである。

4.まとめ
 現時点では、すべての環境問題は地球レベルの視点をもって考察すべきであることを述べた。しかしながら、そのような視点を持つことは、実際に我が身に起きることを考えると、なかなか困難である。多少ともそのような視点に近づけるためには、自らの二代先の子孫を考える世代間調停と言われるような考えかたを身につけるべきなのだろう。そのためにも、未来社会がどのようなものになるか、常に頭の片隅では考察を続けたい。



     図1 経済規模と環境負荷とのトレンド。 現在までと今後のあり方。

参考図書など
[1]環境未来予測について
「市民のための環境学入門」 安井 至、丸善ライブラリー、(1998)
「エコマテリアル革命」 山本良一、徳間書房
「われわれに何ができるか−トリレンマに挑む知恵」 新田義孝、日本電気協会(1997)
「気候変動−21世紀の地球とその後」 T.E.グレーデル他、日経サイエンス(1997)
[2]リスクの考え方、倫理など
「環境リスク論」 中西準子、 岩波書店(1998)
「環境倫理学のすすめ」 加藤尚武、 丸善ライブラリー、(1991)
[3]資源・エネルギー関係
「グローバルエネルギー戦略」 山地憲治、藤井康正 電力新報社(1995)
「資源経済学のすすめ」 西山 孝、 中公新書 (1993)