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加藤尚武先生の国環研シンポ講演
   06.10.99






 
 本ホームページでも御紹介しましたが、国立環境研の一般市民向けシンポジウムが6月8日にイイノホールで、多数の参加者を得て行われました。午前の部の最後を締めたのが、京都大学の加藤尚武先生の講演でした。哲学者で、また、「環境倫理学のすすめ」丸善ライブラリーの著者でもある加藤先生のお話しは、実に示唆に富んでいました。著作権に問題があるかもしれませんが、また、正確にメモが取れているとは限りませんが、ここにご紹介させていただきます。


加藤尚武先生の講演概要「21世紀の文化―環境倫理の視点から」

     6月8日 イイノホール 

 生命倫理の話。クローン人間をどうするか。これまで、法律が技術を規制する理由としては、「安全性」が中心であった。しかし、クローン人間問題で規制ができれば、それは倫理が技術を規制する始めての例だ。

 安全性。原子力の高レベル廃棄物の場合も安全性。ガラス固化体を2kmぐらいの地下の部屋に1000年間貯蔵。実験的に1000年間の実証をした訳ではない。1000年間の安全というが、人間の寿命を考えると責任をもつことができない程の長時間。

 環境の問題でも1000年間といった話題がでる。ものの考え方を変えよう、主観と客観との対立、今後は東洋型のパラダイムで環境を考えようとよく言われる。中国では、東洋では環境破壊は起きないといった多数の論文が書かれている。デカルト的な二元論が環境破壊のパラダイムであるという種の論文が多数作られている。全く役に立たない論文である。大体、デカルトの場合、まだ産業革命が起きていない。デカルトの技術といえば、高々「めがねの作り方」が技術であった。オプティックスという著作。デカルトの方法序説。我思う故に我有り。ドイツのフィヒテが大きな勢力をもったからだ。後から自我哲学が出たとき、その張本人になった。デカルト張本人説を作った人が居る。

 アメリカの環境論文:権利の拡大説がある。73年に自然開放が行われた。これは、公民権開放などの流れである。ヤンバルクイナの保護の告発に、自然にも権利があるとして、ヤンバルクイナを告発人に加えた。この考え方も役に立たないと考える。法律家の間での遊びごごろの一つ程度。動植物に権利を与えるべきだというのは、ベンサムの第17章の注にかいてある。犬の飼育に条件反射が必要で、人間も同じだ。ピローンという人、古代アレクサンダー時代の一人、インドで裸の聖者の話を聞いてびっくりした。犬と人間が同じものを見ても、違うものを見ている。どちらが正しいかは判定をすることは不可能。モンテーヌにも同様の趣旨がでる。元の文章は、動物と人間の優劣判定することは難しいというものだったが、これを動物と人間は同一だといった。裸の聖者は、懐疑主義の一派である。動物保護。これが、近代のベジタリアン思想にまで広がった。間違ったトレンド。動物に見られる記号体系、ローレンスの動物行動学以来明らかになっている。

 技術論の無意味さ。かつてエネルギー問題の心配は無いという主張があった。なぜならば、核融合がある。エルステッドが電流の原理を発見してから、モーターが発明されるまで60年。トランジスタは原理発明から3年。だんだん実用化までの時間が短くなる。核融合も1985年までに実用化ができる、といった。

 19世紀の半ばまでは、ミクロコスモス、マクロコスモス論が盛んだった。中世は、天体の占いと血液中の要因。エルステッドには、ロマン派の自然観が有った。自然哲学。ヘーゲルの自然哲学が加藤先生の本当のご専門。

 科学的議論ではないものの、様子は変わってきている。生命倫理、卵子不足、男女の産み分け、人口妊娠中絶をした卵胞細胞を使って、卵子を作る。安全性以外の基準を持たざるを得ない。「母親は生まれませんでしがた、子供はできました。」という事態が起きかねない。

 個人は国家の中に包括されていて、国家は何をやってもよいことになっていた。日本の国家によって戦争責任があるからといって、韓国の個人に対する補償はない。これがこれまでの枠組み。見舞金は有り得る。国家が国民を抹殺しはじめる。コソボの例。国家が国民の利益を守るという前提で国家があった。すべての国民は国家に帰属し、国家は国民を保護する、これがその立場。状況が変わるとどうなるのか。

 環境問題だと国家という枠組みを超えている。自由主義とは、個人の行動が他の個人に影響を与えない限り、何をやってもよい。自由主義の原則から言えば、クローンといった生命倫理も許容すべきだ。個人がどのぐらい環境を破壊できるか、これを過小評価するわけには行かなくなった。消滅する法人があって、それが有毒物質のドラム缶を埋めると、200億円といった被害を与える可能性がある。二酸化炭素の影響が何年ぐらい続くのか。サンクションというシステム、サンクションの同時性、これが罰則の原理だったが、今後果たして有効か。

 世代間倫理。この思想はユダヤ人ゲットーから出てきている。ゲットーの中で子供を産むか生まないか。子供を産むかどうか、相当に深刻な問題だった。そうしないとユダヤ民族が途絶えるからではなく、そうしないと人類が絶滅する、という議論だった。ゲットーの中でも、子供は生むべきだ。

 環境ホルモンが原因で精子が不足するとなると、人類全体で心配をしなければならない。19世紀の考え方であった、国家と個人の考え方は、1970年ごろから違う状況になった。20世紀の後半、核兵器、原子力、臓器移植、遺伝子操作、二酸化炭素などなどで。

 フランシスベーコンがこれを聞いたらなんと言うか。彼の思想は、自然は服従することによって征服される。宇宙を司っている神の秩序に服従せざるを得ない。核エネルギーは神はこれに触るなよといった技術かも知れない。臓器移植も同様。遺伝子操作、二酸化炭素も同様。1970年代には、これをすべて壊してしまった。自然そのものに含まれている平衡維持機構までいじるようになったのが、20世紀の技術である。

 人間は自然の平衡を破壊することまで可能なのだから、人工的に自然の平衡を回復することまで人類の責任の中に入ったと考えるべきだ。

 技術全体を今後どのように発展させるべきか、人間の判断能力を考えると、これは難しい問題だ。 すべての評価が可能となるような特別な評価主体を確立せよという声もある。子供の頃から、科学技術をすべて分かるような知能を作らなければならない。自由主義がもう使い物にならない。自然全体のバランスは、なんとか取れているので、もしも非合理的なことをやれば、サンクションが来るだろう。自由主義、自然主義は役に立たない。民主主義で決めても、技術が分からない人が半分いたら、本当の民主主義なのか。ターザン主義者(自然科学をやめなければ自然に戻れない)がでてきた。

 温暖化の問題について、科学的な認識をして、科学的なコントロールを考える。このような科学技術について意思決定が困難になっている。この社会の中で、どのように合意を形成するのか、20世紀は、19世紀までの考え方を引きついだが、21世紀は、反対側に向かうような文化が形成された。20世紀前半までは、力任せでやった。21世紀は、力任せではなくて、ぎりぎりのところで舵取りをするといった新しい概念が必要だろう。

 成長から成熟へ、成長から配分へ。マルクス主義。20世紀は配分の方式を議論する変わりに、パイ全体を大きくしてしまおうという方針だった。21世紀は、配分を適正にしなくてはならないだろう。これが、環境問題からみた21世紀のイメージである。


C先生: 哲学者というと、全く世間からかけ離れたところの住人という気もするが、加藤先生の話しは、非常に分かりやすい。我々がもっている環境問題への考え方感じ方が、キレイに整理されるような気がする。

B君:われわれの主張でも、21世紀の環境問題の解決を考えると、自由主義的な経済では限界があって、ある種の枠組みの中での自由競争にしないと色々と困ることがでるとしてきましたよね。
 例えば、リサイクルを考えたら、単純に性能が良いからという理由で材料の選択をする訳にはいかないで、リサイクル性を優先して、他のメーカーが使っている材料と同じものを選択せざるを得ないとか。また、市民レベルで完全分別を行うことが決定されたら、1%の人が自分勝手にいい加減な分別を行えば、資源として価値を失ってしまうとか。

A君:さらに1万年近い寿命を持っている化合物で温暖化ガスであるPFC類にしても、現在の人類の判断でそう言った長寿命物質を放出することは過ちである可能性が強いから、それを自由だといってやることは許されないとか。

C先生:自由主義と環境との問題について、加藤先生は特に、これが解決策だというものを示されなかったが、ある種の限界を被せざるをえないということだと判断した。
 最近講演会では、私自身、市民10の義務というのを述べている。ときどきその10個が変わるものだから、顰蹙ものだったりするのだが、その中に、「科学技術を理解するよう努力して欲しい」 というものがある。それは、加藤先生の御指摘の民主主義的な決定によって科学技術の有り方を決めようとしたときに、市民がどのまで科学技術を理解しているのか、これが問題だからだ。もしも全く誤解している人が多数派であれば、民主主義が成立しないという考え方も有りうる。別に、なんであろうが、民主主義的手続きは有効という考え方もあるが。というわけで、科学技術を理解して欲しいと望んでいる次第。

A君:そんなことを言ったて、科学者側が正しい情報を流さなければ、理解できない。

B君:はいはい。左様です。

C先生:国環研シンポのコメンテーターとして、科学者は、自分の研究結果についても、どこまで不確実性があるのかを含めて市民に結果を示すべきだと述べてしまったが、これは、温暖化の計算結果などを意識したものだ。温暖化の計算は現時点では、まだまだメッシュサイズが500kmもあって、荒すぎる。また、使っている物理現象を記述しているパラメータもかなり自由に変更できるから、計算結果があるからといって、それをどこまで信頼すべきか、全く別途議論をする必要がある。今出ている計算結果、1〜3℃の温暖化というのは、そのような結果が出るように計算を行ったという面がある。

A君:加藤先生は、科学技術の進歩と市民社会の理解との乖離状況について、どのような対策を取るべきか、どのような市民社会としての意思決定法を採用すべきか、おっしゃらなかったですが。

B君:まあ、我々がやっているような実験がその一つの鍵なのではないだろうか。専門家連中が集まって、環境の総体について議論をしている姿を公開する。ビデオでも良いし、また、このホームページのような形式でもよい。それをみて、市民はどの専門家の言うことなら信用できそうか、どの専門家は怪しいか、視野が狭いか、判断力があるかないか、などなどの判断は直感的に可能だろうと考える。

C先生:そう。まず、環境問題は、一人の人の頭に入るような問題ではないから、複数の専門家が議論をする必要がある。それを合議制と呼ぶが、科学技術に関する意思の決定については、合議制をとるべきだ。しかも、合議を公開して、市民も参加できるようにする。すなわち、公開合議制によって、科学技術の高度専門化による市民社会との乖離をいささかでも防止する方策を考える必要があるだろう。

A君:合議に参加する常識的市民の存在も必須ですよね。

B君:科学者側も相当覚悟を決めて、研究予算獲得のために、不確実な部分を隠すといった態度は改めないと、合議制も成立しない。

C先生:われわれ3名も、ここで小さな合議制の実験中ということにしよう。