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   人間回復の経済学 06.02.2002




 「人間回復の経済学」は、神野直彦著、岩波新書782、ISBN4-00430782-1 の新刊である(5月20日発行)。現在、日本の主流となっている「新自由主義」を否定し、スウェーデン型の経済再生を目指すべきだという経済書。
 我々は「環境の立場から」なので、全く議論の基点は違うのだが、日頃主張している社会変革の方向性は、本書のものと全く同じであることが分かった。なんだか無勢に味方を得た感じで、若干元気になった。
 本HPをお読みの方は、是非ともこの新書をお買いいただき、このような社会変革に向かって一緒に元気を出して進んで行きたい。

C先生:神野直彦氏は、東京大学経済学部教授。財政学、特に、地方財政学の一人者と言われている教授のようだ。同業とは言え、面識はない。これまでも、「二兎を得る経済学」などといった著書があるが、今回の「人間回復の経済学」は、経済の本の題名としては、かなり「気恥ずかしい(まえがきより)」とも言えるのかもしれない。それだけ、思い入れが深い本のように思えた。

A君:竹中平蔵経済財政政策担当大臣の名前が直接でてくる訳ではないが、どうみても、竹中批判がメインのように思えますね。

B君:本HPの主張でもあるが、米国型の「グローバリゼーション経済」は、地球の限界を無視した破滅型だ。市場という神の手にすべてを任せるべきだ、ということが、実は人間の尊厳を無視したものになっている。

C先生:それでは、「はじめに」から行くか。本書のすべてが「はじめに」に書かれていて、政治経済学の世界的権威であるコロラド大学のスタインモ教授の話が出てくる。彼は、市場経済至上主義がグローバルスタンダードだというのが、「日本経済界の常識だ」ということを知って驚いたそうだ。そもそもグローバルスタンダードなる言葉は聞いたことがない。そんな言葉が日本にはあるのか、と。このグローバルスタンダードは、実は、アメリカンスタンダードを意味しているのだが、「アメリカンスタンダードとは、格差を拡大し、社会に亀裂が走る」、ことだとスタインモ教授は警告している。

A君:日本の経済学は、現代主流の経済学の理論的前提と現実との相違を無視して、無批判にそれを現実に適用しようとする「俗流経済学」だ、という言葉だけが出てくるのですが、どうみても、竹中経済財政担当相のことを言っているように思いました。多少しつこいか。

B君:本書の結論は、人間の知的能力を必要とする知識集約型の産業に切り替える必要がある。そうなれば、その産業自体が高付加価値であるために、租税負担率が高くても、企業は海外には飛び出さない。

C先生:詩人フランシス・ポンジュの作、ジャンポール・サルトルが好んだという詩の一節、
  「人間は人間の未来である
が、目指すべき目標だという。

A君:それでは、目次の紹介を。
1.経済のための人間か、人間のための経済か
2.「失われた10年」の悲劇
3.行き詰まったケインズ的福祉国家
4.エポックから脱出できるのか
5.ワークフェア国家へ
6.経済の論理から人間の論理へ
7.人間のための未来を作る

B君:それぞれの章が、いくつかの節からできている。

C先生:全部の章を説明する必要はないだろう。そして、節から印象に残る表現を抽出すれば、それで意図は伝わるだろう。

A君:それでは、第1章の「経済のための人間か、人間のための経済か」から。
 最初の節「人間はホモ・エコノミクスか」 いわゆる、「経済人仮説」について。勿論、答えはNo。ホモ・エコノミクスの定義とは、「人間は利己心をもとに快楽と苦痛を一瞬のうちに判断して行動する」。しかし、本当の人間は、喜び、悲しみ、怒りながら生きている。

B君:この節の言葉として、「経済人仮説の経済学は、強者に自由をもたらすに過ぎない」byリスト。

C先生:さて、日本でその自由を享受できるのは誰だ?

A君:次の節「財政社会学の考え方」
 「経済とは自然とホモサピエンスとの壮絶な闘いで、自然を人間にとって有用物に変えるには、自然の因果関係を明らかにして、それを踏まえて有用物を設計した上で変換をする必要がある。その際、人間どおしの協力や人間のきずなが決定的な要素となる。例えば、洋服を仕立てることを考えれば良く分かる」。

B君:この節の言葉では、「自然に働きかける主体である人間が存在するためには、家族やコミュニティーが不可欠になる」。

C先生:人間が正しく行動しないと、自然=環境を破壊する。その防御になるのが、家族、コミュニティーといった人間の絆にある、との指摘だ。

A君:次の節「社会総体を構成する3つのサブシステム」。この節は、ちょっと説明が長くなりますね。
 社会は、「政治システム」「経済システム」「社会システム」の3種のサブシステムからできている。それぞれの「システム」では、人間関係が違う。「政治システム」は、強制力による支配・被支配の人間関係からなり、「社会システム」とは、無償で実施される人間関係から、そして、「経済システム」では、競争原理による金儲けをして良いという人間関係から成り立っている。

B君:人間の行動の動機を利己的動機、共同的動機、慈善的動機に分けても、同じく3種類の社会システムの存在が導かれる。

C先生:ところが、「経済人仮説」では、複雑な存在である現実の人間像から、多くの側面を捨てて純化させたものとして人間を取り扱う。すなわち、「人間は自己利益のみを追求する経済人である」。

A君:この節の言葉として、これが気に入りました。「人間の歴史とともに、生産物市場は古くから存在していた。しかし、神が創造したものを取引しはじめたのは、最近のことである。日本で言えば、土地が市場で取引され、労働市場が成立するのは、明治時代になってからである」。

B君:第1章最後の節が「財政社会学のルネサンス」。
 財政学に社会経済学を取り入れようとする財政社会学が1980年ごろから息を吹き返す。このルネサンス現象は、20世紀後半に危機の時代に突入したことの反映にほかならない。

A君:「人間は人間の経済の創造主であることを前提として本来の創造主になることができる。経済人仮説は人間の行動基準になりえない。人間の行動の基準は、あくまでも人間の夢と希望なのである」。感激的な言葉です。

C先生:これで第2章の「失われた10年の悲劇」に行くが、この章は長い。そこで、いくつかの表現を羅列して、本章を記述しよう。

A君:「私たちはいま、エポックとしての転換期に生きている。エポックに生きる人間は、既存のレールの上をひた走ることが許されない。右にハンドルを切るか、左にハンドルを切るかの選択にせまられている。ハンドルを切り間違えると、破局の道に向かってしまう。新生への道に向かってハンドルを切らなければならない」。

B君:「人間は経済のための存在と位置づけられてしまう。経済人としてふるまおうとする経営者は、人間を単なるコストとみなす。それだからこそ、この構造不況のもので称賛される有能な経営者は、自分の経営する企業からコストのかかる人間を、いかに多く排除したかによって評価される」。

C先生:「構造改革の痛みは、限られた一部の国民に発生する。多くの国民は痛みを感じない。激痛を感じるのが一部の国民に限られている限り、内閣支持率を高く維持することができる」。「これは明らかに『いじめの論理』である。いじめ社会は人間の社会ではない」。

A君:その後、現在の日本の社会を支配している「新自由主義」が、英国のサッチャー政権を元祖・本家とするもので、サッチャーは失敗して退場しているが、「新自由主義」は生き残って、市場経済のグローバル化・ボーダレス化という背景で受容されてきた。

B君:新自由主義は、「失業率の増加」、「自殺者の増加」、「年金財政の破綻」、「未婚」、「出生率の低下」、を必然的に招くのだ、という解説があって、本章の終わりになる。

C先生:第3章「行きづまったケインズ的福祉国家」も省略する。論旨は、人間を機械化するチャップリンのモダンタイムスのような方法=テイラー主義で、生産性は上がるが、人間の欲求には、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、自我欲求&自己実現欲求からできていて、低次欲求がみたされると高次欲求が芽生える。これによって生産性が低下する。賃金が下げられ、人間が追放される。環境によって大量生産・大量消費ができなくなる。という経過を示す。
 これを解決するには、社会システムが必要で、それは自発的な協力が奨励されるような、つまり、「愛情によって結ばれた公的生活がその実体」である。

A君:愛情という言葉が本書ではかなり多く使われているのですが、この言葉は、もともとの日本語ではない上に、かなり多様な概念を含む言葉ですよね。

B君:ギリシャ語では、愛には、エロス、フィロス、アガペがある。

C先生:勿論、エロスではない。家族愛を意味するフィロスと万物に対する神の愛であるアガペの一部を包含する言葉として、本書では「愛情」が使われているように思える。

A君:そして、第3章の最後に、「財政の誕生」なる言葉で、神野先生の専門の財政学が出てくる。

B君:第4章が「エポックから脱出できるか」で、スウェーデンを例として、どのような解決法があるかが記述されている。

A君:解決法は、知識社会の実現。知識社会となると「学ぶ」ことが重要で、スウェーデンの小学校では、「人間が学ぶということは、自分が取得した知識を他者に伝えることだ」と説明しているそうですが、「学ぶ」社会を作ることが必要。しかも、「日本のような試験に通る方法を他人から教えてもらう」ことは学ぶことではなくて、「自分自身で学ぶ」ことが重要だという教育がなされているようです。

C先生:日本の教育にもっとも欠けていることが、そこだ。経済の復興も、やはり教育からか。われわれが、環境問題の解決には「学び」が重要だと言う主張と同じだな。

B君:まず、知識社会にハンドルを切って、それから、自然共生型の社会に変革していくことが、エポックから脱出する方法だという記述になっていて、我々の持続型環境学と同じ結論になっている。

C先生:第5章「ワークフェア国家へ」、第6章「経済の論理から人間の論理へ」は、スウェーデンの話が大部分。ここでは意図的に省略。そして、第7章「人間のための未来をつくる」になる。

A君:ここで、また環境論がでてきますね。「エポックを越えると知識社会という時代が来るが、そこでは、マネーゲームに明け暮れる社会ではない」、とされています。「人間と自然との物質代謝を最適にするために、知恵のある人間が、それぞれのもつかけがえのない能力を発揮し、幸福を追求する社会の黎明である。人間の幸福は、人間と人間とのふれあいのうちにしか見出せない。人間が自然にはたらきかける、ということは、ふれあいのうちに幸福を見出す手段にすぎない」。

B君:そして我々と同じような、「持続型都市」といった考え方が出てくる。もっとも我々は「自律型地域社会」と表現しているのだが。

C先生:EU委員会のものに組織された専門家グループが作った報告書では、「市場メカニズムに依存していたのでは、都市の持続可能な成長は実現できない」というはっきりした市場主義の否定がなされているが、これは、クリントン大統領のもとでまとめられた「サステイナブル」をうたった報告書が、「市場メカニズムの積極的活用を提唱しているのとは対照的」。

A君:本章の後半、「未来に絶望する日本」という節があって、「人間が構想すべき対象である未来に絶望している。未来への使命感に奮い立つのではなく、不安と恐怖におびえている」、と記述されています。

B君:「日本の構造改革で失敗しているのは、経済であることを見誤ってはならない。経済はトータルシステムとしての社会全体の一部にすぎない。トータル社会としての創造主は人間なのである。それゆえに、人間は未来を構想し、創造することができる」。こう述べていて、「人間は経済人ではない。人間は知恵のある人であることを忘れてはならない。人間が協力して知恵を絞れば、未来を人間が創造できるはずである」。

C先生:これが本書の結論だ。我々の環境を基軸とした議論からも、同じ結論に到達する。

A君:しかし、第5章、第6章のスウェーデンの実例の解説を無視したところが、C先生の意図のひとつだったような。

B君:スウェーデンが本当に人間回復の社会を目指しているのか、というところが確かに少々疑問なところがある?

C先生:ヨーロッパ全域について言えるのだが、どうも、人間回復が行きすぎて、「人間至上主義」になっている部分があって、そこまで無害な社会を構築してどうするのだ、という感じがある。もともと、人間の存在に対する自然からのリスクはかなり大きい。たとえば、すべての食物は基本的に毒物を含む。発がん性も、アフラトキシンのような天然毒物の影響が大きい。これに対し、人工的な環境から受ける人間の生存リスクは、先進国ではすでに十分に小さい。この人工環境による小さなリスクをさらに下げようとすると、すべての人を保育器に入れるようなことになって、資源・エネルギーに対する負荷が増加する。むしろ、未来世代に残すべき資産を大切にする方が、トータルなリスクを減らすということになって、かえって良いのではないか。

A君:それは、スウェーデンでも、まだ自然に対する知識が不足しているからではないですかね。

C先生:そうなんだろう。スウェーデンの人工物無害化思想も、本物の知識社会が構築されれば、多少改善されるだろう。

B君:しかし、本書の価値は、スウェーデンを持ち上げすぎという点はあっても極めて高い。

A君:竹中平蔵流の新自由主義からの脱却を早く目指さないと、日本から未来が本当に無くなってしまう。

C先生:日本は京都議定書を批准することで、新自由主義からの訣別を宣言するのだ。本書を、すべての人に推奨だ!!!