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人類と社会(1) 09.10.2000




 本日のHP記事は、2発並列である。人類と社会の第一弾。
 本HPを始めた頃、我ながら過激な発想だなあと思うことが多かったが、その後、このHPのお陰でストレスを発散できるという効果もあって、心理的に穏やかだったような気がする。ところが、最近になって、それがいかに極論だと言われようとも、やはりもっと過激な正論(勿論主観的正論)を吐くことが必要なのではないか、と思うようになってしまっている。それは、「社会から隔絶した状態でも生存できる」という思い込みをしている若年層が増えているように思い、それと同時に、これが若年層による凶悪犯罪多発の原因の一つでは無いかと思うようになったからである。

 以下、平成12年9月4日の日刊工業新聞の「私の主張」欄に掲載させていただいた文章である。人材育成という名を借りたやや過激な「命と社会」論である。全体主義的主張であるという批判は甘んじて受けよう。しかし、最近の政権の狙うところと同一方向なのか、と言われれば、恐らく全く違う。それは、「社会における価値観やルールは先験的に存在するのではなく、それらは社会を構成する市民による社会への積極的な関与のなかで決めるべきものだ」、と考えているからである。森首相が選挙の前に漏らした、「選挙の当日寝ていて貰うとありがたい」、などという発想とは全く逆である。「寝ていて何の責任がとれるのだ」、「自分の好みの政策を提案してくれる候補者を探し出して投票すべきである。もしも居ない場合には、自分の発想に少しでも近い候補者を選択すべきである」、という考え方である。


日刊工業新聞 第2回 9月4日掲載分
21世紀における大学の社会的役割−有用な人材の供給は可能か

 日本という国土の状況を考えると、日本列島上に生活する人々は、諸外国に売る何かを用意しておく必要がある。いくら自然エネルギー・バイオマスが主体となる時代がやってきたとしても、恐らくエネルギー自給は困難で、地下金属資源に至っては、ほとんど何も無いに等しい地質学的状況だからである。そこに科学技術立国シナリオの重要性がある。今回は、「社会に対して人材を供給源」としての大学の社会的役割について議論をしたい。
 「社会が求める人材」の供給についてあるが、歴史的な揺れはあるものの、現在では一貫して、「有用な人材」の供給が求められているように思える。有用とは何か。この質問に答えるのは難しいが、「有用でない人材」については、比較的合意があるように思える。順不同で、(1)ある特定の分野だけに興味を示す、(2)新しい技術なり知識に積極的に取り組まない、(3)他人の立場を理解しようとしない、(4)自己都合・自己利益最優先である、(5)社会の動きに鈍感である、(6)自己評価が甘く、危機感が無い、(7)協調性に乏しく、共同プロジェクトなどに貢献できない、(8)自己変革という概念を持たない、(9)そんなことできる訳がないという否定的結論が先にある、(10)仕事を人に押しつける、などといった項目が思い浮かぶ。
 この「社会にとって有用な人」という概念が、初等中等教育からも消えうせているように思える。このところ、若年層が重大な犯罪を起こしていることも、間接的にはそのためではないかと思える。その原因は、「命は地球より重い」、「命ほど貴重なものはない」という言葉で表現される個人主義教育である。この「命至上主義」とでも言える教育を行うと、「自分の命と他人の命を比較したら、どちらが重要か」、というジレンマが起きた時に、「自分の命が最も重要」という個人主義的、いや、自分主義的結論が出て当然だからである。恐らく、初等中等教育においても、「人間は、社会との連携を取れることがもっとも重要なことである」、と教育する方向へ方針を変更しなければならないのだろう。なぜならば、人間が動物社会よりも高度の社会を形成すべきものだとするのならば、猿山の社会ですら、社会秩序が個人を優先することがしばしばあるからである。個の命が最も重要である社会は、それ以下であって、猫属の社会程度である。
 なぜこのような間違った教育方針が是認されてきたのか。全体主義的な臭いがあることに対して、身に染みついた躊躇があるためだろう。また、近年は、それは、オウムのような悪例を見てしまった影響もあるだろう。現在の若者達の親は、第二次世界大戦を経験した親によって育てられている世代である。その世代は、社会全体の流れに対して抗することができなかった苦い経験を持ち、個人主義の方がましだという考え方で育児・教育が行われた可能性が高い。さらに言えば、その世代の宗教的背景もあるだろう。日本人はもともと自然宗教的発想をもってきた。しかし、国家神道という宗教的強制によって自然宗教が否定された帰結として、自ら無宗教であると思いこまざるを得ない世代であって、これも結局個人主義に寄らざるを得なかった理由かもしれない。
 しかし、戦後50数年を経て、間違った個人主義が行き渡り過ぎたことによって歪みがでていることに、十分に考慮した教育が大学において行われるべきである。さて、実状はどうか。まず、初等中等教育の影響を振り払うのは極めて難しい。また、大学の内部を振り返ってみると、上述の10種の特性は、大学教授の特性そのものでもある。大学人の相当な決意に基づく自己改革が無い限り、有用な人材の供給は難しい状況にあるのではないだろうか。それには、まず、大学人が社会との連携の中に自らの存在意義も問い直すという行為が必要不可欠である。そのため、21世紀の大学にとって産学連携をいかに行うか、これが最も重要なテーマの一つなのである。