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環境倫理、技術者倫理 07.23.2000




 専門とは全く異なる分野なのだが、ある学会から、なぜか工学倫理・技術者倫理というものを検討する役割を背負わされている。日本の工学部を卒業しても、外国によっては、卒業資格が認定されない可能性がある。なぜならば、技術者としての教育を受けたという認定を国際的に共通なものにしようとすると、カリキュラムをきちんとつくったり、倫理教育をきちんと行わないとならないのだが、日本の大学は、このような面で、まだ、国際的認定を受ける状況にないからである。
 ところで、日本という国だが、どうも倫理というものを全面に押し出すことが「苦手」な国になっている。「宗教性が無い国民性」の故か、それとも、かっての「天皇中心的な規範」がなした罪に対する反発なのか。あるいは「神の国」発言が平然と行われることに対するアレルギーなのか。あるいは、これまでずーっと「企業という組織に守られた生活に慣れすぎ」て、「自立した個人としての認識が不足している」からなのか。
 工学・技術者や環境に限らず、何事につけても倫理に対する議論を避けることは、本来不可能である。倫理に対する議論を避けることなく、比較的若い時期から、そもそも倫理とは何なのか、といった議論に慣らすことが重要だと思う。何故ならば、倫理などというものは、どこか上から与えられる絶対的なものでは無く、むしろ常に変動しているものであって、なおかつ自分達で決めるものなのだから。


C先生:工学・技術者倫理というものを議論する責任があって、ちょっと議論につきあって欲しいのだ。

A君:われわれの分野にも、環境倫理という大変重要なものが有りますからね。

B君:倫理を意識することなしにいかなる行動の決定も不可能。

C先生:環境倫理というものも、あまりはっきりしたものではないが、一応、AB&Cの環境倫理は、大体決まっているから、その記述からやって貰おう。

A君:AB&Cの環境倫理は非常に単純。まず、保護対象というものを考えます。人間が生存することは、環境に何らかの悪影響を与えることとほぼ同義。しかし、環境は保全しなければならない、それでは具体的に何を保全するのか、何を保全する価値があるのか。その答えに相当するものが保護対象になります。
 保護対象は、一般に空間的なサイズで分類します。地球全体、広域生態系、生物多様性、生物種、人類社会、地域の生態系、生物個体などなどです。やや複合的なものとして、景観とかいったものも保護対象に成りうるようです。それらの保護対象を、どのぐらいの期間に渡って守ろうと考えるか。例えば「500年間、人類社会を守ろう」、といった形で、保護対象を決めます。どれを保護対象と考えるか、それは、個人の信条による訳ですが、それを公開しないと、議論にはなりません。
 ところが、この世のしがらみによって「企業利潤を追求しよう」としたり、あるいは、「余りにも快適性などを追い求める」と、保護対象の保全が不可能になります。すなわち、「葛藤」ということが起きる訳です。その際、どのような考え方をもって解を出すのか。これが環境倫理というもので、結局ところ、次のような順位を設定して、これに照らして自らの葛藤を解析し、保護対象のより上位概念を優先し、なおかつ、時間的には将来を考えること、これが環境倫理のもっとも単純な形ではないか、と考えている訳です。
 その順位は、概ね規模の順で、
  個人、家族、親族、所属する組織、顧客、市民、社会、民族、国家、人類、環境、地球
となります。人類の福祉を最上位に置く考え方もあるのですが、環境倫理の場合には、どうも、「それだけで良いのか」という疑問が出るようです。
 
B君:環境倫理というけど、ややストイックな感覚の考え方だな。なぜならば、個人が最下位にあって、自己犠牲の精神を持てと言っているように聞こえるから。

C先生:環境倫理は、「葛藤」が生じた場合に参照することになるが、その「葛藤の構図」は、時代とともに変化するわけだ。

A君:そうですね。1970年までの公害型汚染というものは、「企業の利潤追求と周辺住民の健康」という「葛藤の構図」。それ以後、交通公害などが重要になりますと、「経済的発展と広域住民の健康」に関する「葛藤の構図」ということになります。そして、現代はというと、「個人の快適性の追求と未来世代の生存権」とに関する葛藤が主たるものになっているようです。

B君:でもなあ、葛藤の存在を中心に置いたそういう理解は一般的ではないな。相変わらず「個人の健康リスクの完全ゼロ化」だけが、絶対的善として認識されており、なんら葛藤を持たないのが多くの現代人だから。

A君:そうも言えますね。米国人の頭の中での「環境意識」とは、すなわち「自然保護」を考えることであって、自らの生活の快適性を追い求めることは、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを追求することであって、これは当然のことなんですよ。でかい家に住み、でかい車に乗り、エネルギーはばんばん使うこと、これが人生の目標になっている。そして、この目標が未来世代の生存権に抵触しているとは思わない。フロンティアは無限に広がっているという、19世紀の認識しかない。すなわち、全く葛藤という意識が無い。

C先生:日本について言えば、先の指摘のとおり、現代人の「環境意識」は、「健康リスク完全ゼロ化」だろうな。本当のところは、環境に関してはかなりリスクが低い状態になっているにも拘わらず、そういう状況にあるという認識が少ないものだから、どうも過大の安全を求める傾向が強い。しかも、完全ゼロ化が可能だと誤解している。環境の状況を現状程度に維持しておいても、少数の例外を除いて、まずまずのリスクレベルにあるわけだし、その例外であるディーゼルなどの排ガス対策や化学物質の放出自粛も粛々と行われるだろうから、むしろ、人間側をもっと環境と共生するような形態に戻すことがトータルに見たら健全だというと、「それは間違いだ。幼児死亡率が増える。生命という無限大の価値をもったものを尊重するのが当然で、それが環境との共生でもある」、という反論が来る。

A君:環境と共生すると、リスクがゼロになると思っている人が多いと思うんですよ。

B君:ちなみに環境と共生するというを具体的に言えば、例えば、抗菌剤などは使わない、家庭用殺虫剤なども限定的に使用、洗剤なども使用量を減らし、過度の清潔志向を避けて、幼児が土にまみれて遊ぶような生活に戻す。ゴミをなるべき出さないように、ミネラルウォータなどはできるだけ買わない。同時に地域の自然と親しむ。リサイクルなどに協力し、ゴミはきちんと分別する。要するに、普通の生活を、普通に送ることだ。固定的な観念、例えば、石鹸だけが良いといったことは、現在の世の中では、真理にはなり得ない。

A君:リサイクルをするということだって、ある意味で、リスクは高くなりますよね。例えば、食品に接触する容器だって、バージンであれば、管理が容易だけれど、一旦使用したペットボトルを再使用するとなったら、本当に洗浄できるのか、といった疑問がでてきます。しかし、ヨーロッパ諸国はそれを平然と実行している訳です。だから、未来世代の生存権に関わる環境負荷を避けるということと、現在の自分に対するリスクを減らすことは、多くの場合に、矛盾する。すなわち、トレードオフだということになります。それでも、そのような環境負荷を減らすと言うことが、環境と共生するということだ、となりそうですよね。

C先生:われわれはそう思っているのだが、一般の市民の感覚としては、環境と共生することによって、「人工物が排除できて、天然物が増えるから安全」だという感触。これは明確な間違い。人類の安全を確保することだけが目的ならば、箱庭的、あるいは、保育器的無害環境を作ってその中にこもるのがベスト。ただ、「安全ということ」と「健康ということ」とは、もはや同義ではない。あまりにも安全になりすぎて、感染症を遠ざけた結果として、アレルギー症状を示す人が増えてしまった。過度の安全は、不健康ということでもある。

A君:環境倫理の話に戻りますと、日本の現状は、「個人の過度の安全・快適指向」と「未来世代の生存権」が中心的トレードオフ関係にあって、どのあたりで妥協するのかという問題が、環境倫理ということになりますか。

C先生:まあそれで良い、とも言えないな。「企業利潤追求が環境負荷を増大しているという構図」もまだ多いと思う。些細なことと思うかもしれないが、リサイクルのできない緑色のペットボトル飲料を作っている会社はその実例かもしれない。さて、どんな企業があるでしょうか? 調査して発表しませんか、皆様。 (例:日本コカコーラ、伊藤園、JR、JT.... 一方、緑のペットを使っていない企業は? )
 それでは工学・技術者倫理の話に移ろう。技術者倫理というと、例えば、JCOの臨界事故がまあ典型例だが、企業としての利潤の追求が、一般社会に対して被害を与える結果となった。ステンレスバケツを使うという創意工夫が、コストリダクションだということで評価され、安全性が全く無視されたということ。

A君:最近の雪印の黄色ぶどう状球菌の中毒事件だって、同じようなものでは無いですか。社長の発言を聞いていると、この人、利潤だけしか考えていないというのがすぐ分かるから。技術者もこの発想に毒されていたのだろう、と思いますね。

C先生:事故が起きると、その被害は一般社会に及ぶ。その原因が、過度の利潤追求であったとすると、それが技術者倫理に違反したからだという結論を下される。要するに、技術者にとっても、何か、保護対象とでも言うべきものが存在し、それが自分の身分を置いている社会の利益と矛盾するような対象であって、ある種の葛藤が起きたときに、どちらを優先するのか、これが技術者倫理が問われる場面だ。保護対象としては、どんなものがあるのだろうか。

A君:土木学会の倫理規定をちょっと調べましたが、その結果、2種類の保護対象があると理解すべきではないかと思います。
 まず、一般的な対象、これは、工学の分野によらず、すべての技術者が保護対象として認識している事柄でして、これは、上述の環境の場合の保護対象とほぼ同じです。 
 それ以外に、分野に固有の保護対象のようなものがあって、例えば、「美の構成」、「伝統技術」、「歴史的遺産の保存」、「先端技術の開発研究」などが土木学会では上げられています。

B君:技術者倫理教育などは、これまで日本では必要とされていなかった。なぜならば、多くの個人は「企業という極めて殻の堅い組織に守られた存在」で、「自立した自己としての認識をあまり持たせない」やり方が日本式だったからな。米国では、そのあたりどうなっているんだい。米国ならば、もともと個人の世界だから、厳しいことが書かれているのでは無いだろうか。

A君:米国の技術者倫理の標準は、ABET(Accreditation Board for Engineering and Technology)というところが決めていまして、それには、3つの原則があります。
*自らの知識とスキルを人類の福祉の増進に使用せよ
*正直、公平であり、公衆、雇用者、顧客に対して忠誠であれ
*みずからの所属するプロフェッショナル社会を支援せよ
基本原則は、以上です。

B君:なんだ、割合と簡単だな。葛藤の存在に対して、記述が無いな。「人類の福祉の増進」と「雇用者への忠誠」とで葛藤が生じた場合、どちらが大切なんだ。

A君:よく分かりませんが、米国の場合には、人類福祉の増進が絶対的な保護対象になっているのでは無いか、と思います。もしもそんな葛藤が生じたら、「そんな会社はやめちゃえ」、ということなんでしょう。

B君:その意味では、日本終身雇用という形態は徐々に無くなっているから、米国流の技術者倫理が支配的になるのだろうか。

C先生:それには、すべての大学・高専で技術者倫理の教育が行われる必要がある。ところが、これまで日本の大学には、技術者倫理の講義などは無かったものだから、今後、どうやってこれを実現するのか、これが最大の問題。極少数の大学教官だけが、現在、倫理教育を実践しているだけなのだ。
 この教育に関する最大の問題点は、正解が無いということだろう。要するに、ある葛藤のある状況になったときに、どのようにしてその葛藤を解決するのか、その方法論に正解が無いのだ。正解が無いことをどのように教えるのか、これは難しい。そもそも、倫理教育の目的はなんなのか、その議論を行って、まあその目的に合いそう方法で教育をするしかない。その目的だが、現状では、「自立的・自律的な判断能力を付与する」ことかな、といった議論になっている。
 それには、いくつかの事例教育が必要で、方法としては、ロールプレイが有効だとされている。要するに、その場面に登場する人物になって貰って、疑似体験をすることだ。

A君:企業でもどのような教育をすべきか、問題がありそうですね。少なくとも、技術者の自立的な判断が上司にも評価されるような企業体質を作って置かないと、今後とも雪印的な事件は多発するでしょう。我が会社は大丈夫かな。