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  環境報告書談義 10.05.2002




  秋になって、各社の環境報告書がほぼ揃ってきたところである。なかなかの力作がある一方で、パンフレットとしか言えないような「お手軽」な作品もある。
 
 当研究室では、数社と内々の研究会(といっても(財)生産技術研究奨励会なるところから正式に募集している(現時点でも)、やや高額な年間参加費を取った研究会)を開催しており、10月4日には、これまた仲間内であるが、エコマネジメント研究所代表の森下研氏を講師に招聘して、「環境報告書のあり方と今後」についての議論を行った。

 本HPはその検討会のエッセンスを元にして作り上げたものである。

 なお、この研究会にご参加ご希望の方は、メールにてご連絡下さい。


C先生:本日の話題は、環境報告書。森下氏の講演によれば、今年、環境報告書なるものを作成する企業の総数は、1000社程度になったのではないだろうか、とのこと。

A君:もう、環境報告書を作らないと、一人前ではないという雰囲気ですね。

B君:ISO14000のときもそうだが、日本というところは、すぐそうなるから困る。ISOにしたって、欧州系のコンサルが自分の仕事が無くなるので、仕掛けたという側面があって、無条件に14000を取ることに意味があるわけではない。

C先生:まあ、ISOも環境報告書も、環境経営の運転免許証みたいなものではあるが、このジャンル、実は無免許運転も合法的に可能。ISOがあるから、環境報告書を出しているから、運転が旨いという訳ではないし、企業経営はレースのようなものだから、免許無しでも運転が極端に上手という場合もあり得る。

A君:環境省が環境報告書のガイドラインを出していますが、日本の企業は、相変わらず「お上」のご威光に弱いですね。自分で決定できないというか、自分の価値観を持てないというか、なんとなく環境報告書が似てきたような。

C先生:そのあたりがポイントの一つ。日本人の悪いところでもある。独自性を重視しない。
 環境報告書を離れて、一般論としてだが、過去の日本の企業経営者の悪いところとして、「法律は破っても良いが、村の掟には従うという」、ところがあった。そして、「お上」も「村の論理」の最上位に存在していて、その「お上」がお墨付きを与えれば、法律を破っていても許されるという考え方を引きずっているのかもしれない。

A君:しかし、「村の掟」は、徐々に消える運命にありまして、自民党の「村の掟」あたりが、日本における最後の村の掟になるのでは、という感じがしますが。

B君:そういう意味なら、民主党だって変わらない。

C先生:グローバリゼーションというものにも一つ効用があるとするのならば、「村の掟」の上位に、別の価値観があることを認識させられるということかもしれない。要するに、「法律の遵守」とか、あるいは、さらに上位にある「フェアネス」とか。

A君:環境報告書も、「村の掟」からの離脱には有効なのではないですか。企業が、「村民であると同時に、市民社会の一員」だということを認識せざるを得ないので。

B君:特に、最近の傾向として、環境報告書という名称ではなくて、企業活動全般の報告書への拡張をしているところも見られるようだ。

C先生:企業が社会からの信頼を失うと、「退場」を余儀なくされることが、事実としていくつもでているから、そのような拡張も当然なのかもしれない。

A君:となると、このような報告書は、企業が自ら「法律の遵守」をしていることも主張するようになっているということですか。

C先生:昨日の森下氏の発表によれば、企業の環境コミュニケーションの基本になる条件というものがあって、
 *嘘をつかない
 *隠さない (これを完全にやっている企業は少ないが)
 *問い合わせに誠実に対応する
このような最低限の活動をしているという証拠を、社会に伝達することなしに、各論でのコミュニケーションは不可能ということ。

A君:企業が自主的な情報公開を始めると、最低限でも「嘘はつかない」とするならば、企業行動そのものもかなり変わるという実証例が、PRTR法でしょうか。PRTR法対象物質の放出は本当に減っているようですから。

B君:「嘘をつくとバレる」、「内部告発によってバレる」ということが、段々と認識されるようになってきているから、内部告発を推奨するシステムを持っていることを公表すれば、市民社会も信頼を寄せるようになる。

C先生:その件については、「東京電力をはじめとする電力各社の原発損傷隠しの件」で、いささか問題ある経験をしてしまった。「各社に、内部告発を行うような体制があるかどうか」、を技術者倫理の側面から検証して、電力会社の大体の所は大丈夫だろうと感じたが、実際には、もっと深層まで解明をしないと本当ところは分からないという勉強をさせられた。

A君:例のパンフレットの問題ですね。
Onagawa.htm

C先生:電力各社の損傷隠しには、実際もっと構造的な問題があって、担当者として、そうせざるを得なかったのかもしれない。これは想像だから、話半分以下で聞いて欲しいが、国のエネルギー政策から言えば、その直接の担当は資源エネルギー庁になるのだろうが、長年に渡る自然科学の法則を無視した原則がある。、第一原則=「原子力は絶対に安全」、第二原則=「原発による電力コストは他の方法によるものよりも安い」、という2つの原則のために、電力各社の原子力担当者がつかなければならない嘘だったという側面があると思っている。具体的に言えば、シュラウドが損傷したままで運転を継続している米国の原発などもあって、ある程度の損傷が、即危険だということには繋がらない。一方、それを交換すると100億円かかる。第一法則の「絶対安全」のためには、交換せざるを得ない。そうすると、第二法則が満足されない。そこで、今回の嘘の根本は、第二法則を守ってしまったために、第一法則の「絶対安全」が結果的に無視されたということにある。

B君:原子力など、所詮、人間の業である以上、「絶対安全」は無い。リスクは確実にある。ただし、滅茶苦茶危険だということでもない。コストも「恐らく高い」。しかし、エネルギー安全保障という国策上、原発を継続することになっている。この中で、電力各社がどのように行動するか。現時点で新たに問題が発生すれば、情報開示は行われただろうが、10数年前には、無理だったのかも。

A君:しかし、今、新たな問題が起きたら、本当に情報開示がなされるか、それは別問題ですよね。内部告発が起きる仕組みを確実に整備しておけば別でしょうが。

C先生:環境報告書を読みながら、「嘘は無い」という感触を得ることが可能かどうかをチェックしてみるか。

A君:東京電力の環境報告書「地球と人とエネルギー」2001はWebからも見ることができます。
http://www.tepco.co.jp/plant-sit-env/environment/01pdf-j/menu-j.html 
最後の方に、東京電力の環境顧問委員会の6名の権威が、この環境行動レポートをどのように評価したか、といった記述があります。この6名の権威でも、今回の損傷隠しを見抜くことはできなかったようです。ほめ言葉と原子力擁護ばかりです。

B君:まあ、現在の倫理の状況から言えば、多分、まずまずのレベルである。そんなな思い込みから、長い期間を掛けて固めてしまった嘘の塊があることは見えなかったのだろう。

C先生:まあ、そんな感じで、自分でも同じ体験をしているから、その6名の権威を責める訳にもいかないが、やはり、このような行動はもっと慎重に行うべきだということは、強く感じた。

A君:近年の環境報告書では、第三者検証を行うのが一つの流行になっています。東電のその6名が登場するのも、一つの検証的な効果を狙ったものなんでしょうね。

C先生:今回、もっとも話題になったのが、第三者検証の問題だった。

A君:このところの傾向の一つとして、監査会社に第三者検証を頼むというものがあったが、それが今年からはNGOに依頼するとか、同じ監査会社だけれど海外に頼む、とかいった新しい試みが行われるようになったようですね。

C先生:研究会に参加している企業にも、方針の変更を行ったところがあって、議論になった。問題は、
(1)監査法人に頼んで、データの信頼性は多少なら確保できるだろうが、それで十分だと言えるのか。
(2)NGOが検証をしていても、その発言に妥当性があると言えるか。
(3)東電のような大物の発言を載せる方式は良いのか。
(4)一般人の感想を載せるやり方は、どのような情報を開示したかまで開示しないと、何の意味も無いのではないか。

B君:どの問題も解はなさそう。

A君:結局のところ、環境報告書を作る意義は何か、という問題に行き着きそうですね。

C先生:なぜ環境報告書を書くのか、その議論をしてみるか。

A君:森下さんによれば、環境省のガイドラインでは、環境は公共財だからという記述が有るようです。公共財を使っているのだから、報告するのが当然だ、という理屈になりますが。

C先生:環境は公共財という議論は、確かにもっともらしいのだが、それが現在の経済の原則として認められているとも思えない。
 ちょっと長くなるが、すでに述べたように、日本の経済界は、「村の掟」が中心的論理だった時代があって、その次にグローバリゼーション+市場原理が中心論理になった。経済同友会の牛尾会長が、1997年に、市場原理宣言的なものをやっている。すなわち、「小さな政府」「経済社会の構造改革」「規制緩和」によって、市場を活性化する。そして、市場主義のもたらす結果として強者が高い成果を得る、といった見解を述べている。ところがその直後とも言える1999年には、小林陽太郎氏が、「ステークホルダーは株主だけではない。社員、地域社会、地球環境、人権なども配慮すべきだ。市場主義を超えよう」、といった見解を発表している。やっと、地球環境もステークホルダーの一部だと認められている。しかし、ステークホルダーだということと、「環境が公共財」であるということとは必ずしも、同義ではない。
 一方、先日のHPにも掲載したように、加藤尚武鳥取環境大学学長は、倉吉東高校主催の「高校生フォーラム2002」で曰く、
KatoInKurayoshi.htm 
「温暖化のような問題については、『非排除性』が重要である。すなわち、『自分は関係ない』という態度は倫理的に許されない」。

B君:地球温暖化のように、すべてが大気で繋がっているが、ある特殊な環境負荷を掛けたかどうか、になると、これは排除性がないとも言えない。だから、この議論からは、環境は公共財であるという結論は導けない。

A君:それに、そもそも現在の資本主義のもとでは、お金を出せば、土地のような本来公共財であるものまで私有化できるし、資源・エネルギーも厳密に考えれば公共財的な要素が強いにもかかわらず、それが私有化できる。

C先生:先ほどの議論で、「村の掟」から「市場原理」へ。そして、日本では、自らを投資家だという認識しかない中途半端な経営者達は、いまだに「市場原理主義者」だが、先進的な経営者は、「フェアネス」のようなことを考え始めている。このような経営者のもとでは、環境は公共財だと認識されているだろう。

A君:問題は、経営者が何を考えているのか分からないことですね。

B君:環境報告書の前半部分で、経営者の環境観のようなものが書かれてるが、その文章だって、誰が書いたか分からない。

C先生:そんな経営者の人間性や環境観を見抜くために、第三者検証を行うということは有っても良いと思われる。しかし、環境先進企業として本当に認められている企業は、場合によっては、監査法人よりも環境観が上だったり、あるいは、NGOよりも適切な環境観を持っている場合もあり得る。本当に、自社の正当性に自信がある場合には、むしろ第三者検証を行わない方が良いような気がする。

A君:しかし、まだまだ自らの立場が中途半端であるといった企業は、はやり第三者検証を試みた方が良いのでしょうね。

B君:それが、自社のためになる、と思えば、やれば良い。

C先生:一般市民に情報公開をすることだって、結構勇気が必要。環境報告書に何か意見がでるだけではなくて、この情報化の時代だから、見学した市民がその感想をWebに書くといったこともあるかもしれない。そのために、最低限「嘘をつかない」、「環境重視のポリシーを自信を持って語る」、といったことを実施するためにも、なんでもよいから、第三者を入れるという意義はあるだろう。

A君:就職先として考えたときでも、第三者検証を行っていない企業で、環境報告書のできも悪い企業には、就職をすべきでない。環境優良企業は、やはり、就職先としても良いと思われますね。「フェアネス」のようなキーワードが、トップの意見の中に出てきているかどうか、それで、どのような経営ポリシーであるかも分かりますね。

B君:学生への話に急に切り替わったようだ。本当のところ、「株主の利益を尊重する」などと環境報告書に堂々と書かれていたら要警戒。

C先生:学生諸君、日経ビジネス誌が実施した『第2回 機関投資家が選ぶベストボードランキング』というものがあるが、1位/ソニー、2位/HOYA、3位/花王、4位/トヨタの順だ。この四社の環境報告書を比較して、どの企業に就職すべきか、考えてみよう。