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「環境は人命よりも重い」論  03.08.2000






 先日の「No!塩ビ」運動に対して批判した記事の追加分(03.02)において、「No!塩ビ」運動は「”環境”は人命よりも重い」から自己矛盾である、と結論した。しかし、それは”環境”の定義次第である。もしも本当の「環境」であったら、「環境は人命よりも重い」のが当然である、と記述し、その意味、というよりも真意を説明しなかった(記述する時間的余裕不足が原因)。ところが、次のようなご質問をいただいたので、その続きの議論を行いたい。
 ただし、まだ自分の中でも未熟成な点は否めない。しかも、話が変な方向にずれた。
 

C先生:やはり、きちんと最後まで議論しないと誤解を生んでしまう。まず、ご意見・ご質問を紹介して。

A君:はいはい。

H様のご意見
 私は”環境”とは何らかの主体(多くは生物)を定義してはじめて意味のあるものになると思います。生物の全くいない環境では、その状態がどのように変化しようが特に問題はありません。ただ状態が変化しているだけです。しかし、生物が存在した場合、その生物にとってその周囲の状態(すなわち環境)は重要な意味を持ちます。環境が変化することによって、その生物の生存が脅かされる可能性があるからです。すなわち、”環境”はその主体となる生物と切り離して考えることはできず、「”環境”と”その主体となる生物の命”のどちらが重いか?」という問いは回答不能です。なぜなら、環境が悪化すれば生物は生存できなくなるし、生物が死んだら環境そのものの意味がなくなるからです。
 そして最適な環境というのは個々の生物によって異なります。全ての生物にとって最適である環境を実現するのは不可能です。しかし、現存する生物にとっては、現在の地球環境というのは最大公約数的に好ましい環境である言えると思います。そうでなければ、その生物は現在地球上に存在していません。そして、人類にとっても現在の地球環境はある程度好ましい環境であると言えます。最近の環境問題は、人間活動によって地球環境が急速に変化し、その変化が人類を含めた多くの生物にとって好ましい方向ではないということにあると思います。それでは、地球環境を守るために人類が集団自殺して地球上から消滅すれば問題は解決するのでしょうか? 残念ながら人類が消滅しても現在の環境が永続するとは思えません。環境は生物の作用や外的要因によりいずれ変化していきます。そして、その変化についていけない生物は滅びます。もしかしたら、隕石が落下して激変してしまうかもしれません。そのため、人類が現存する生物の行く末について心配してあげても、地球史的なレベルで見た場合、あまり意味がないと思います。
 以上のような理由から、人類はとりあえず人類の行く末についての心配をしていればよいと思います。つまり、人類が環境について考える場合には、「人類が存続するのに好ましい環境」について考えればよいのではないかと思います。
 ただし、個々の人間にとって好ましい環境と人類全体の存続のために好ましい環境とは多少異なってくるでしょう。現在生きている人間が多少多く死ぬことがあっても、結果的に見て人類全体の存続にとってはその方がよいこともあると思います。もしかして、「環境は人命よりも重い」というのが真実だというのは、「多少人が死んでも人類が存続していける環境を維持していくことの方が重要だ」ということなのでしょうか?


B君:やはり、「環境」というものをどのように定義するか、これが議論が真正面から噛み合うかどうかのポイントだな。

A君:そうですね。人類が人類のことを考えて環境を見る。これはこれで当然とも言えるし、そうではないという主張する人もいますし。

C先生:まあそのようだ。人によって、価値の置きかたが違う。環境負荷を統合的して一つの指標で表現してしまおうという方法であるインパクトアセスメントは、まさにこの議論をしなくてはならない。最終的な保護対象として何を選択するか。それ自身、さまざまな選択肢があるのだけれど、まあ大体の合意として、次の3つを考える、(1)人体への影響、(2)生態系への影響、(3)社会的資産への影響。

A君:ただ、それぞれの項目、特に生態系への影響といった場合に、どのような空間的な広がりを考えるかが問題ですよね。(1)地球全体、(2)広域、(3)地域、(4)局所的、(5)特定の生物、といろいろなレベルがありますから。

B君:勿論、時間だって問題で、何年間という視野をもって議論するか、これでも議論が大きく違ってくる。2〜3年なのか、20年なのか、100年なのか、500年なのか。

C先生:人体影響にしたところで、急性毒性、亜急性毒性、慢性毒性(発ガン性)、催奇形性、などなどある。ここまでは大体分かるが、環境ホルモン性となるとまだ確実には分からないし、精神的な影響を考慮しはじめると、現代科学では、まだかなりつらいことになる。

A君:社会資産への影響といっても、単に、資源・エネルギーの枯渇だけを考えれば良いのか、それとも、無形の資産、例えば「景観」や「やすらぎ」といったものの価値をどのように考えるか、これが問題。

B君:最近発表されたエコインディケータ99というソフトでは、その人が三種類の保護対象のどれを重視するか、で環境観を三種類に分類しているが、そんなもんなんだろうか。どうも単純すぎるように思う。

C先生:というわけで、環境負荷の行きつく先を考えても、そんなに単純ではない。すなわち、環境を考える際の保護対象は、実は様々だというのがまず結論。これがゴール側の考察。
 次に環境負荷の原因は何かというスタート側の考察が必要。
 
A君:勿論、原因は人間活動にあるとすることで良くて、火山の爆発といった現象も、あるいは、隕石が落下するといった地球外の原因も環境破壊を招くこと事実ですが、別の話ですよね。

B君:それらが環境に影響を与えるのは事実だが、いわゆる環境問題として捕らえるべきではない。むしろ、環境の揺らぎの原因として捕らえるべき問題。

C先生:そういうこと。人間活動が環境負荷の唯一の原因で良いな。とするなら多様性も何も無いはず。
 結論は、原因には多様性は無い、環境負荷の行きつく先には様々な多様性がある。それ以外になにがあるか。
 
A君:当然、原因と影響の行きつく先のの中間の経路ですね。

B君:経路とも言えるが、どのような枠組みで「人間と環境」を考えているか、ここには多様性がある。すなわち、第3の考察要素が、「人類社会−環境系の構造」の認識の枠組み。

C先生:そう言えるだろう。この構造の認識法はそれこそ無限にありそうだが、極端な例として、次の2種類を上げたい。対比型と一体型だ。



A君:図示すれば、全く違った形になりますが、実際にはそんなにも違わないのでは。

B君:そうとも言えない。対比型だと、H様のご意見のように、環境を考える場合には、主体を設定せざるを得ない。人類なら人類、稀少生物なら例えばオオタカという具合に。でも、一体型だと必ずしも主体を設定しなくてもよいことになる。

A君:でも、一体型を考えていたとしても、ある問題への対処法を見つけるという作業をすると、同じ答えになりませんか。

C先生:そういう場合も多いだろう。何か例を考えるか。

A君:そうですね。まず、環境ホルモン問題を議論したい。結果としては、一応、人体影響ということを保護対象として考えてということですが。

B君:この問題に関する我々のスタンスを復習しておこう。それは、以下の通り。
 まず、すでに規制されている物質(ダイオキシン、PCB、有機スズ化合物など)については、(1)生態系(魚、貝類、爬虫類など)への影響はあるだろう、(2)哺乳類への影響も無いとは言えない。
 未規制の物質については(ビスフェノールA、ノニルフェノール、スチレンダイマー、フタル酸エステルなど)、(1)生態系への影響は証明されていないが、「有る」という前提で対処すべき、(2)哺乳類への影響は、まだ、「何が問題なのかが問題」といったレベル、(3)ヒトの排泄物が環境ホルモンのバックグラウンドレベルを形成している可能性が高い。
 要するに、未規制物質の科学的知見は十分ではない。この不充分な知見で、どのように対処するか。特に、社会的不安感に対しての対処法が最大の問題。

A君:さて、この問題に対して、一体型、対比型がどのように適用されるのでしょうか。一体型だと、主体を特に定義する必要はないから、生態系影響が有るという前提で対処するとしたら、影響がありそうな物質は使わないという、いわゆる予防原則、未然予防になりますかね。

B君:それは、一体型の理解が根本から違う。一体型といっても、「環境=生態系だけ」と考えるということと同義ではない。人類社会は明確に意識されてはいる。しかし、人類社会と生態系を一体として考えて、お互いに譲れるところは譲って共存を図る。そして、その両者をできるだけ持続的に維持しようとする。だから、全体としての影響をミニマムにすることが目標。だからこの世に存在する元素・物質・材料は、すべて与えられた選択肢の一つと考え、できるだけ賢く使う。
 そして、人類に影響する可能性が完全にはゼロでないとしても、全体としての共存のために有利ならその影響を受け入れる。ただし、生態系への影響が明らかに重大である場合には、いくら人類社会に利益をもたらすものであっても、その使用を制限する。

A君:なるほど。少し分かってきた。
 一体型と違って、対比型の場合には、人類社会を最優先する思想が論理上構成可能になる。そこで環境からの影響をゼロにできると考えその努力をする。これがまず間違いということですか。そして他方で、ヒトへの「人類が作っている人工環境からの跳ね返りもゼロ」にしようとするから、影響の可能性が完全にはゼロでないものを人類社会内部から排除するという間違いを犯す。

C先生:そうだな。対比型の場合、ヒトを未熟児の保育器みたいな守られた人工環境に入れることが環境への最良の対処法という考えかたをとりがちだ。その延長線上で、ビスフェノールAなどの未規制物質を、リスクゼロの考え方で排除することになる。
 一方、一体型であれば、ある物質による生態系への影響が明らかかどうか、これは単独でその物質使用の可否を判定する基準になる。しかし、ヒトに対するリスクがゼロかゼロでないかは、それ単独では判定基準には成り得ない。なぜならば、一体である環境からのヒトへのリスクは決してゼロでは無いことが、一体型の第一前提だからだ。となると環境全体にとって、その物質の存在が人類に利益を生むかどうか、損害という犠牲はどの程度なのか、その比較において議論をすべきことになる。すなわち、リスクベネフィット議論が最終的な判断を与えるだろう。

B君:このところ、余り過激でなくなったのを反省して、意図的に過激な発言をすれば、ヒトに対するリスクがゼロでないといっても、色々なレベルがある。確かに胎児期になんらかの影響を与えそうなものが本当にあれば、それは止めたい。また、新生児から幼児期に死亡率が高くなる影響も避けたい。だけど、85歳まで生きられるか、82歳までなのか、という程度の影響であれば、まあ、そんなに問題にはならないように思う。微弱な発ガン性なども、したがって、余り問題にはならないように思える。

A君:そんな表現をすれば環境ホルモンは、胎児期になんらかの影響を与えるから駄目ということになりませんか。

B君:その影響というものが、最近では、脳の発達がどうのこうのという主張になってきている。これはその研究が最後の段階を迎えている「危険な兆候」の一つなのだ。現時点でも、脳の発達に外部から取り入れられた化学物質だけが影響するものではないこと、これは分かっている。脳内部で、神経伝達物質が色々作用しており、ヒトの置かれた状況によって、脳の発達に様々な影響を与えている。
 環境ホルモン研究者の一部が「脳の発達に影響あり」、と言い始めたのは、他の分野、例えば催奇形性などといった分野や機能障害といった分野における重要性を主張できなくなったために、絶対証明不能な領域に逃げ込んだとも見えるのだ。
 
C先生:そう言えば、先日、農薬レギュラトリ−研究会というところで、化学物質とLCAの話をさせていただいた。そこに、講演者として、九州医療短期大学の長山先生がきておられた(ブルーバックス「しのびよるダイオキシン汚染」の著者)。彼の発表は、当然「ダイオキシン」と思ったら、なんと環境ホルモンだった。勿論ダイオキシンも含む話ではあったが。今回のもっとも強い主張が、クレチン症という小児の病気が、昔は8000人に1人程度だったのが、最近では2600人に1人になっている。それは、母体が受けている複合的汚染のためではないか、ということだった。
 しかし、同時に、いわゆる環境ホルモン物質の環境中の濃度は、例えばDDT、ディルドリン、ヘプタクロール、クロルデンなどについて、30年前あたりをピークにして、順調に減少していることも報告された。
 そこで、質問した。環境中の汚染濃度が低下しているのに、なぜ、母体中における異変が最近増えていると考えるのか?、と。
 その回答が、現在母親になっている30歳前ぐらいの女性に、30年前の複合汚染による影響が残っているのではないかとのこと。
 どう思う?

B君:それは、大変面白い回答だ。なぜならば、証明が可能だから。もしも、30年前の複合汚染が問題ならば、それ以後のよくなった状況下で生れた人が母親になる今後、クレチン症の数は減少するはずだから。今年あたりがピークで、来年以降、徐々に減少することが証明されれば、確かに、30年前の複合汚染がクレチン症の原因だと言える。

A君:これは、長山先生の今後の発表から目が離せない。

C先生:もう一つ質問した。それは、環境ホルモン問題のある意味での最大の問題は、化合物のスクリーニングである。その際、逆U字型(あるいはベル型)のドーズレスポンスカーブがあると言われているが、本当ならそれがスクリーニングに障害になる。それに対してコメントを!
 答はどうだったと思う。

B君:普通なら否定するでしょう。直線型、あるいは、飽和型にならないとしたら、それなりの理由がある、というのが科学者として普通の回答では。

A君:さて、想像できません。

C先生:なんと、「ノーコメント」だった。科学者が科学者の中に置かれたとき、決して許されない回答だ、これは。これで、長山氏の限界が見えた、と思った。
 などなど、長々述べてきたのは、実は長山氏も認識しているように、ここ30年間で環境ホルモンの環境中の濃度も減っているということを引用したかったから。もしも、環境ホルモンが脳の発達に悪影響を及ぼすのであれば、現在、30歳ぐらいの人は、現在10歳以下の子供に比べて、頭が悪いことになる。さてさて、どうでしょうかね。

A君:僕も頭が悪い年頃かもね。

B君:事実かもしれないから、気をつけるように。

C先生:随分と話がずれたなあ。元に戻そう。要するに、「環境が人命よりも重い」という考え方が有り得るという話をしていた。それは、一体型の環境認識であれば、人類は環境の一部に包含された形で理解される。そして、現世代の人類にある程度のリスクがあっても、それを許容して、人類の生存を含めて環境全体の持続性を目指すといったことが十分に有り得る。すなわち、「環境が人命よりも重い」という基準も無い訳ではないし、この考え方をもう少々発展させることができれば、こんなタイプの理解がより正しい道へ進む鍵のような気がするのだ。
 ただし、これを余り主張すると、誤解を受けて、「ナチズムの再来だ」、「環境ファシズムだ」、という非難を受ける覚悟をする必要があるので注意をするように。本日は以上。