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「環境の経済化」エコノミスト掲載論文  
08.02.99






「環境の経済化」がいま求められている理由  エコノミスト誌 8.9掲載
                    東京大学
                    国際・産学共同研究センター
                         安井 至

1.はじめに
 最近、環境問題を極めて重要な課題であると判断する人が増加したように思える。地球温暖化のようなグローバルな問題から、ダイオキシンの毒性のようなピコグラム単位の問題まで、次々と報道されるためであると考えられる。このような環境問題は、互いに絡み合った複雑な構造を持っている。そのため、全面的な解決はなかなか困難である。社会システムの変更と技術開発の適正なコンビネーションによって、真の解決を目指す必要がある。
 さて、本稿の意図であるが、そのような解決法として経済学の分野でしばしば主張される「環境の経済化」を、未来の環境予測に基づく自然科学的な考察を基礎として解釈し、異なる専門分野の諸兄からのご批判を賜りたいことにある。
 
2.環境トレンドに対する理解
 被害の発生を極力防止しつつ、環境問題を解決するには、未来を的確に予測しておく必要がある。ただし、予測とは言っても、それが必ず起きるという種のものではなく、現状の人間活動を継続することによって起こり得る事態を予測し、現実には起きないように対処する予測でなければならない。いずれにしても、未来を予測するためには、過去のトレンドをまず理解すべきである。 
 図1は、これまでの環境負荷の推移を記述したものである。横軸には、経済的なスケールを、縦軸には環境負荷をとっている。横軸は、現時点までであれば、時間軸であると考えても間違ではない。さて、経済活動が低レベルである場合には、地球が有する自律的な環境処理能力によって、環境負荷はほぼゼロに保たれる。しかし、人間活動の規模が増大するにしたがって、各種の環境負荷が増大する。便宜的に、環境負荷を3種に分類する。(1)公害型環境汚染、(2)消費型環境負荷、(3)バックグランドである。公害型環境汚染は、ヒトの健康問題などに影響を与える可能性がある負荷である。消費型環境負荷は、資源・エネルギーの消費とそれに伴う二酸化炭素放出増大、固形廃棄物増大の4種からなる。バックグラウンドの意味するところは、必ずしも明確ではないが、ダイオキシン汚染、環境ホルモン問題はいずれもバックグラウンド型であるように思える。すなわち、バックグラウンド汚染とは、消費型環境負荷に比例して蓄積され、ある時点になって、突然顕在化する種類の汚染である。将来、どのようなバックグラウンド汚染が蓄積されつつあるか、見解は専門家によっても様々であるが、常に意識しておく必要がある。
 さて、公害型環境汚染は、日本の場合には、1970年代にピークを迎え、規制の強化と公害対策技術の進歩によって、その後順調に減少傾向にある。ただし、すべての環境負荷が低下傾向にあるかどうか、個々に検証を要する。例えば、NOxは余り低下していない。しかしながら、汚染全体として低下傾向にあることは、たとえダイオキシン汚染であっても、母乳中のダイオキシン濃度が1970年代から現在まで低下傾向を示していることから考えて、事実のようである。一方、消費型環境負荷は、二度にわたる石油ショックにも関わらず、現時点まで一貫して増加傾向にある。1997年の温暖化問題の京都会議(COP3)によって、二酸化炭素の排出量に制限をかけることが世界的に合意されたにも関わらず、日本の二酸化炭素放出の増加速度は極めて大きい。
 
3.環境トレンドの未来像
 図1の右側半分には、現時点から将来における環境負荷のあるべきトレンドを示している。公害型環境汚染も、今後とも継続して減少させる必要があるだろう。ただし、どこまで低下させる必要があるか、それには、自然レベルとの見合い、低減させるのに必要な消費型環境負荷とのトレードオフを考慮する必要がある。
 消費型環境負荷を低下させる必要はあるのか。これは、COP3の合意の有無に関わらず、必要不可欠であると認識している。なぜならば、1990年代以降の地球環境問題とは、地球の能力が人間活動の規模と比較して、総体的に小さくなったことを意味するからである。資源・エネルギーの供給能力は言うにおよばず、地球の二酸化炭素の処理能力も人間活動による毎年毎年の放出量の50%程度でしかないことが明らかである。となると、消費型環境負荷を低下させることは、どのように視点からも必須条件であるように思える。それが実現できれば、同時にバックグラウンド汚染の低下も期待できる。
 
4.持続可能な社会システムと究極の目的
 さて、環境問題に対しては、実に様々な考え方あり、そのため議論が全くかみ合わないことをしばしば経験する。したがって、なんらかの共通目標を設定して、議論を進めることが必要不可欠である。筆者が環境問題の解決のキーワードとしていることが、「持続可能性」という言葉である。92年の地球サミットによって議論された「持続可能な発展」から「発展」を削除したもので、物理的なイメージがより強いかもしれない。
 地球という天体上において、一万年といった超長期の人間活動を考えて、その持続可能性を保証するには、エネルギーの供給を保証することが必要不可欠である。現在、人類が使用しているエネルギー源は、ほとんどすべてが地球の地下資源である。地下資源はウランを含めて必ず枯渇する。海水中のウランにしても、その存在量は無限ではない。結局のところ、太陽エネルギーと、未開発技術である核融合が可能性を持っているに過ぎない。もしも核融合が実現不可能であるとすると、太陽エネルギーだけが持続的に使えるエネルギー源であることになる。となると、資源としては、いわゆる再生可能資源(森林、漁業、自然農業など)が、エネルギーは再生可能エネルギー(水力、風力、太陽光発電など)だけが使用可能となる。これらは共通して再生量の範囲内でしか利用できないという大きな限界がある。
 このように、地球の資源は無限ではない。最低でも今後1000年間に渡って人類が地球という天体を資源として使うのであれば、それらの資源は、今後生まれてくる将来世代と共有せざるを得ないことになる。
 別の表現をすれば地球上の元素にしても、化石燃料にしても、はたまた、地球の環境処理能力にしても、それらは公共財であって、しかも、この公共財は将来世代との共有財産であることを意味する。

5.公共財としての地球の利用と経済的手法
 現在の自由主義経済の枠組みにおける人間活動の最大の問題点は、公共財のコストがほぼゼロと考えられていることにある。そして、これらの公共財は、現在世代が自由に配分できるとの仮定に基づき使用されている。公共財をゼロと見る思想は実は破綻をしているはずである。その例は、包装材のゴミ処理が社会的コストである税金によって行われていることがゴミ問題の根底にあることでも分かる。しかしながら、世界的な傾向として、拡大製造者責任といった枠組みによって、公共財の私企業による利用には制限が掛かる方向にあるように見える。
 公共財の分配を将来世代の権利も考慮して行う仕組みを作り、それを現在の自由経済の枠組み内に取り組むことが可能だろうか。現在の市場メカニズムを観察すると、どうも可能性が低いように思える。そこで、「環境の経済化」といった旗印が登場することになる。
 公共財を利用するには、ある種の権利金が必要であるとの立場をとれば、もっとも素直な方法論は、税制を活用することになる。このような環境税制には多数の種類が存在し、炭素税、エネルギー税、バージン資源税といった各種のものが有り得る。この順番に補足される範囲が増大する。環境税制が将来世代との経済的な調整手段だと考えれば、より補足範囲の広い税制が望ましいことになる。
 勿論、優遇措置によって対処可能といった意見もある。しかし、環境問題の本質として、100人中の99名がきちんとした対処をしたとしても、たった一人が反環境的行為をすることによって、環境破壊が起きることを考えると、環境問題へ対処する経済的手段として、優遇措置だけでは限界があることが明らかである。エネルギー使用量のような、総量だけが問題になるような環境負荷については、優遇措置でも十分な効果がありうる。それ以外の環境負荷には、バッズ課税的な発想が必要不可欠である。
 いずれにしても、「環境の経済化」は「社会システムの持続可能性」を実現し維持するための一つの手段に過ぎず、決してそれ自身が目的ではない。「循環型経済社会」といったキーワードもしばしば使用されるが、実は全く同じことが言えて、それは手段であって目的ではない。

6.自由主義、民主主義と環境問題
 このような環境税制の話を持ち出すと、それは現在の自由主義経済、民主主義社会への挑戦であり、環境ファシズムであるといった非難を受けることもある。本当にそうなのだろうか。自由主義がすべての人間の自由を保証するのであれば、それが理想的であることは認めざるを得ない。しかし、それ以前に大前提があるように思える。すなわち、一人一人の生存が地球環境という公共財に依存している現実を認め、しかも人間活動の総量が質的量的に地球のレベルを超えたと考え、さらに地球そのものが有限であると理解すれば、ある範囲内、すなわち、一人への地球公共財の分配の範囲内でしか自由の保障は無いと考えることもあながち不可能ではない。このように、環境税制は、決して自由市場の否定ではなく、市場に新たなるルールを追加することに過ぎないと考える。
 もう一つの現代の社会制度である民主主義についても、環境問題はある重大な限界を提示する。すなわち、現在に生きている人間だけが選択権を持っているわけではないと考えられ、将来世代を代表するなんらかの権利主体を認めないと、地球限界下の真の民主主義は成立しないと考えられるからである。環境税制とは、将来世代を代弁する方法論を取り込んだ新しい民主主義が実現するまで、その代用をすべき役割を持つと考える。

7.地球本位型・共生型社会への誘導方策
 本稿が目的とする社会システムを、以前、筆者が代表を務めた文部省科学研究費の大型環境研究プロジェクトでは、地球本位型社会と呼んだ。場合によっては、地球共生型社会と呼ぶことも可能である。社会をこのような方向に変更するかどうか、その決定も市民の選択権に委ねられている。となると、市民をよりグリーン化し、そのような選択を行うような社会へ誘導することが、より持続可能性の高い社会を実現する唯一の方法のように思える。
 市民の自主的な選択によって、将来世代の権利が考慮されるような社会を実現するには、どのような方法論があるだろうか。それには、自律的社会の実現が近道だと考える人々が多い。現代のグローバリゼーション、メガコンペティション社会には、地下資源・森林資源の採取といった行為が、隔絶した別世界における行為のように思えてしまうという欠陥がある。自分達の持続可能性が減少しているといったことを体感できない社会である。自分達の比較的狭い世界の中で可能な限りの自給自足を目指すことによって、社会の持続可能性が体感できる、といった主張に、一定程度の合理性があるように思える。筆者自身は、まだ自律的社会の体現といった主張にまでは踏み込めないでいるが、少なくとも、グローバリゼーション、メガコンペティションを継続することが、未来の持続可能性と大きく抵触するであろうという感触は持っている。これらは現代を支配する大原則ではあるが、部分否定を含めた再検討が必要のように思える。
 
8.環境問題の時間依存性と現実的対応
 本稿では、社会システムの持続性を中心に据えた議論を展開し、将来世代の権利を代弁するためにも、「環境の経済化」が必要であると主張した。しかし、どの範囲の将来を考えるかによって、この議論は大幅に異なるものとなる。これまで述べなかったが、日本における現時点の最大の環境問題は、実は、日本という国・地域そのものの持続である。日本という地域をマクロ的に見たときに、資源、エネルギー、食糧といった基本的な生存条件を満たしていない。このような国あるいは地域が、どうやって持続的に存在できるか、これが最大の環境問題である。この古くからの問題への配慮なしに、超長期の将来世代の立場のみを考えて、環境税制などをいきなり導入することは正しいとは言えないだろう。未来予測を的確に行った上で、本当の危機的状況を回避するために、徐々に導入すべきであろうと考える。比較的短期的な環境危機としては、最終処分地不足を根源的問題とするゴミ問題があり、その解決には、当面、拡大製造者責任を具現化するための制度や税制、循環型を優遇し最終処分量を減少させるための埋立税のような税制の検討を至急行うべきように思える。その次が、2008〜2012年のCOP3公約を満足するための炭素税であるかもしれない。

9.おわりに
 「環境の経済化」、「循環型経済社会」は、それ自身が目的・目標ではない。むしろ持続可能性を高めることを目的・目標とすることによって見えてくる、様々な方向性を実現する手段の一つに過ぎない。一方、「経済の環境化」は、それが地球との共生可能な経済社会の実現を目指すものであれば、それは、目的として理解すべきことであるように思える。


図1 環境負荷のトレンド