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日経ECO21休刊 02.25.2001




 いずれそうなるような気がしていたが、「日経ECO21」(日経ホーム社発行)が休刊になってしまった。環境の時代と呼ばれる21世紀早々のことゆえ、結構ショックな話ではある。そこに、松永さんという本HPの読者から、日経ECO21の休刊についてコメントせよと、下に示すようなメールをいただき、ここに作成した次第。

C先生:なんと、日経ECO21が突然休刊になってしまった。普通だと、若干の予告があって休刊になるものなのだが、今回は余りにも突然だった。実は、休刊のご連絡をいただく前日に、次号のためのインタビューを受けていたのだ。まだまだ頑張りたいということだったので、大丈夫なんだなあ、と思ったが、その翌日に連絡をもらったのだ。

A君:このHPの話題にも、何回か取り上げた雑誌ですが、一時期の女性誌的な環境へのアプローチを抜け出て、かなりまともになってきたなあ、と思った瞬間に休刊という感じです。誰を読者にするか、これが最後まで定まらなかった感じは残りますね。

B君:一般向けの環境雑誌は難しい。なぜならば、「環境」という事象が、その人にとって最大の興味であるような場合はほとんどない。「環境が職業である」、という人は居るが、そのような人は、業務として環境をやっているのであって、「好き」でやっている訳ではないから、自分で雑誌を買うことはない。「会社に経費で一冊」、というタイプ。そのような立場の人の「環境」に対しては、同じ日経の名称が付いているが、別の会社の雑誌「日経エコロジー」(日経BP社発行)がある。こちらも余り楽ではないようだが、まあ、まだ継続できるだろう。

C先生:実は、日経ECO21に限らず、SCiAS(昔の科学朝日)も休刊となってしまった。要するに、科学雑誌は日本では売れないようだ。それはなぜか。

A君:それはまず第一に、日本という国が科学に夢を持たせることに成功していないからでしょうか。日本という国では、「技術」はあるのですが、「科学」があるような無いような国ですから。

B君:「科学」と「技術」の違い、これは、永遠の議論の種ではあるが、日本の科学というものが、なんとなく外国の科学とちょっと異質である感じは無い訳ではない。

C先生:「科学」というものは、恐らく純粋に興味・好奇心で探求するものなのだろう。ところが、日本の科学は、このところ多額のお金を掛けて研究をしないと、研究業績がでないようなものになり下がってしまったという感がある。これは科学というより理学についての話かもしれない。
 社会科学や人文科学はまたちょっと違う。しかし、経済学が現実の経済の動きを説明できないような状況が、こちらにも多発している。

B君:どうも工学者は、ケチというか、実際的というか、どうせ製品を作って誰かに買って貰わないと意味がない。となると、自分の新しい発見に対して、研究費をいくらぐらい掛けるのが妥当かなどという考えになってしまう。ところが理学系の人は強力で、100億円掛けても、自然界の謎が一つ解ければ良いという感じで自己主張ができる。

A君:企業にいると、もっと厳しいのですよ。金については。

C先生:どうも話題がずれているな。繰り返すが、最近の科学はかなり高額の研究費がないとやれないところがあって、そのために通常の興味の対象にはなりにくくなっているようには思うね。これが科学に夢が無いことにも繋がるのかもしれない。

A君:でもですねえ。自分で言い出したので変なんですが、昔の「科学の夢」というものは、本当に「科学の夢」だったのでしょうか。例えば、未来には、空中を自動車みたいなものが飛んでいて、これで便利にどこにでもいけるとか、これって科学だったのでしょうかね。「夢の技術」だったような気もするのですよ。まあ要するに、「利便性の追求」が、「科学の夢」だったのではないですか。

B君:確かにそんなものがあったな。空中を飛んでいる自動車はどうやって浮いているのだろう。反重力装置かなんかか?

C先生:夢として描かれた世界が、実は、新しい技術によって実現される利便性に満ちていたことは事実だろう。ところが、現在という時代は、利便性は行き過ぎたという認識もあって、むしろ技術に不信感を持たれている時代になった。例えば、反原子力がその典型かもしれないが。もっと細かいところでは、反合成洗剤なども含まれるのかもしれない。要するに、技術が行き過ぎたのではないかという批判と反省があって、技術はもう不必要という感触の人も多いのだろう。特に、これ以上もっと便利になれば、それだけ地球への負荷が増えるということを直感的に感じている人が多いようだから。

B君:しかし、一方で、現在のなにげない便利さが、隠れた技術の進歩によってもたらされていることに、気が付いていない点もある。例えば、紙おむつや生理用品に使われている高分子吸収剤などはすごいものなんだが。そのすごさに気付いていない。

A君:しかし、我々だって、現在の意味での便利さとか、現在の意味での健康とかいったものを極限まで追求すると、紙おむつだってそうなんですが、環境に負荷が増えるだろうし、場合によると、バイオ技術で生命というものがほぼ永久になってしまって、なんだから気味の悪い世の中になるような気もしますよね。

B君:バイオ技術と生命の意味の話あたりは、今後の重要課題だな。ES細胞から好みの臓器や肌などを作って、老化するととっかえひっかえしながら永遠に生きる、しかも外見はいつまでも若いなど、これはどう考えてもフランケンシュタインの世界だから。

C先生:確かにそんな気分はある。
 そんなこと以外にも、まだまだ考えるべき要素は多い。例えば、最近の若者は、なぜ切れやすいのか、ということに関して、ミステリー作家の桐野夏生女史は、17歳において厳しい選別が行われることに対する抵抗だと、文芸春秋の最新号で述べて居られる。もともと人間というものは、たった一人では生きていくのは難しい。やはり社会との関連の中で自分の居場所を捜すことで、自分自身の生きる意味を見つけるところがある。自分と社会との関係がきちんと認識できれば、科学というものの意味ももう少し吟味され、評価されるだろう。現在の若者にとっては、科学は社会よりももっと遠い存在にすぎないが、その社会との関係すら認識できていないのだから。

A君:この手の議論をすると、科学の復権とか、科学雑誌の復活とか考えても、かなり悲観的な結論になりそうですよ。

B君:確かにそうなんだが、最近の理科教育の責任がこの件でも非常に大きいと思う。ここで、理科教育とは、学校における理科教育だけではなくて、一般社会を対象としたメディアの理科教育を含めてなんだ。例えば、身近に便利な技術を置きながら、その中身を知らせようとしない。例えば、毎日毎日使っている携帯電話がどんな技術によって支えられているのか、教えられたことが有るのだろうか。

C先生:私が今、他大学で教養系の授業があると教えているのがそんなもの。経験から言えば、理工系の大学生も、全く無知である。携帯電話のスピーカがどんなものかを知っているものはいない。

A君:製品を作っている側からの発言ですが、いかに「難しいもの」を使って貰うかではなくて、いかに「簡単なもの」として使って貰うか、が重要なんですよ。我々は、実際のものの中身に、極限的な工夫が詰まっていても、さらりと「簡単なものなんです、だから使って下さい」、という顔をしたがるのですよ。

B君:その気持ちも分かるが、やはり、次世代の教育を考えると、もっと中身にどんな工夫が詰まっているか、「すごいだろう」という形で見せて欲しいなあ。

C先生:このあたりが、現在の科学ジャーナリズムに欠けているところだろう。例えば、日経サイエンスなどという雑誌にしても、科学らしきものは出てくるのだが、ハイテク製品の解体新書的な解説などは出てこない。なんとなく、工学的な記事は低級なものだと思われるのではないか、という出版社側の思いこみがあるような気がする。

A君:日本という国の今後の生存を考えると、ハイテク製品に興味をもってくれる次の世代を作らないと駄目でしょう。このあたりから、科学ジャーナリズムを再興することを考えることとは、結果的に、我々業界にプラスですね。。

B君:でもそれって、科学ジャーナリズムなのか、工学ジャーナリズムだと言われるのではないかという恐れはある。やはり宇宙だ、天体だ、深海だ、ゲノムだ、ということでないと低級だと言う評論家が多いのではないか。

C先生:日本にはサイエンスライターが居ない。有名どころでは、立花隆氏が唯一かもしれない。彼の興味は、やはり理学的なことだ。脳であり素粒子だ。しかし、立花氏だって、もとはと言えばフランス文学が専門だったはずだし、サイエンスライターとして売り出した訳ではない。科学ジャーナリズム振興のための全く違うアプローチとして、まず工学ジャーナリズムというものを作ることだとすれば、日本だからこそ試みる価値があるかもしれない。評論家は、単なる評論家だから、何を言っても無視すれば良い。

A君:だれが金を出すかですが。

B君:それは、日本の技術の最先端を行っている企業からだろう。

A君:うちの会社は無理かもしれないなあ。やはり、トヨタ、ソニー、松下。

C先生:雑誌だけではない。テレビにしてもそうだ。いくつか科学番組的なものはあるが、「素敵な宇宙船地球号」、「サイエンスアイ」などにしても、もう少々工学ジャーナリズム的色彩があっても良いと思う。番組名を変えなければならないかも知れないが。日本の先端産業が、スポンサーをやればよい。

A君:しかし、テレビ番組を作る側の意識が低いのもの問題ですよね。

C先生:そうそう。それを言うべきだった。先日、某テレビ会社でちょっと話をするチャンスがあったのだが、やはり作る側のレベルが、番組のレベルを決めてしまうようだ。リサイクルの話をする番組だったもので、「容器包装リサイクル法が施行されてから」と言って良いのか、と聞いたら、その言葉は「難しそうだから使いませんでした」、「リサイクルを謳う法律が動き出してから、という表現にしています」、ということ。一般社会の教育を考えたら、その程度の法律用語は使うべきだ、といったら、スタッフの感覚に合わないような言葉は使わないようにしています、ということだった。これでは、良い科学番組が作られる可能性が皆無だ。

B君:是非とも、日本の先端技術企業がスポンサーになって、その発言力で良質な工学番組で良いから始めてほしい。日本が世界でトップである分野をどんどん紹介すべきだ。それが、最終的には社会の科学的認識が高まり、科学雑誌が復権することに繋がると考える。

C先生:そうだろう。日本独自の科学教養を形成することが、まず必要なのかもしれない。ただし、このような意見は、理学系の大反発を招くこと必至。理系という枠内でも、なにかと理学と工学とは角を突き合わせているのだ。これを超えて、ある種の協力関係ができないと、難しいように思う。
 繰り返すが、日本独自の真の科学ジャーナリズムを作るために、工学ジャーナリズムから始めるのは、良い考えだと思うが。




以下:松永さん(科学ジャーナリスト)のご意見:

最初のメール:
 昨年のサイアスの休刊に引き続き、日経ホーム出版社の日経エコ21も3月号をもって休刊となってしまいました。エコ21は環境ブームに乗って一昨年創刊されたばかりの雑誌ですし、サイアスは長い歴史があり、より基礎的な科学研究を重視していた雑誌ですので、同じ土俵に乗せるのはおかしいでしょう。しかし、センセーショナリズムを排して生活と科学を結び付けようとする雑誌が書店からどんどん消えていくことには違いありません。

 実は、私は読者ではなく書き手側です。科学ライターを志して一昨年、10年勤めた新聞社を退職してフリーランスになり、一昨年はサイアスに2本ほど書かせてもらい昨年はずっとエコ21の方で仕事をしていました。現在、科学ライターとしては失業中です。

 個人的な事情はさておき、私は、両雑誌の休刊は共に、ある事象が白か黒か決めつけることで雑誌を売るという出版界のセンセーショナリズムを逃れようとした結果、部数減につながり持ちこたえられなかったと考えています。

 エコ21の編集長は私が初めて会った昨年始めごろ、「白か黒か毒か安全か、ではなくすべてはグレーであり、一人一人がそれぞれ判断しなければいけないことを、きちんと伝えていきたい」と話していました。書き手側は、分かりにくい科学的な問題をかみくだき社会的なメッセージ、問題提起にまで持っていくようにそれなりに努力したはずです。しかし、読者には受け入れられず部数を伸ばすことはできませんでした。

 いや、努力したというのは書き手側、作り手側の思い込みで、努力不足だったのでしょうか。読者には受け入れる素地はあったのに、的確な情報を提供できなかったのでしょうか。

 科学雑誌のもう一つの衰退要因としては、インターネットの影響が大きいでしょう。ある程度の科学知識がある人は、官庁や研究機関などがインターネット上に載せているさまざまな情報を咀嚼して吸収することができます。わざわざ雑誌を買わなくても、最新の情報を入手できるのです。一方、咀嚼できない人は苦手意識が先にたって、店頭に並ぶ科学雑誌に手を伸ばすことはしません。

 一般雑誌に科学記事を入れることも容易ではありません。編集者にとって、部数増につながる魅力ある素材ではないようです。


次のメール:
 私のみるところ、日経ECO21は昨年前半あたりまでは、雰囲気先行の環境雑誌(日経エコロジー以外の自然盲信雑誌)とは一線を画した、一般人に分りやすい科学雑誌を目指していたと思います。ところが、昨年後半から急速にビジネス色を強め日経エコロジーの廉価版のようになっていました。そこで、私は「センセーショナリズムを排した科学雑誌路線が部数増につながらず、読者の反響がよいビジネス紹介を中心にした環境ビジネス誌に転身を図ったが二番手でもうパイが残っていなかった」と推測しているわけです。書き手として読者を引き付ける原稿を書けなかった反省も踏まえたうえでの推測です。

<なぜ、科学ジャーナリズムの質が低いか>
 記者側の単なる勉強不足は、大前提です。さらに付け加えれば、日本のマスメディアで取材し働く人の多くは通常、二次情報や三次、四次情報を基に書くことが当たり前であり、そのことに対して全く無自覚だからです。

 記者クラブ制度にのって、新聞記者やテレビ局の記者は記事を書きます。取材対象の多くは広報担当者であり、出す情報がどのくらいの人の手を経ていてどの程度のバイアスがかかっているか、という情報の質は問題ではなく、だれが責任を持って言ったか、情報を出したか、ということが重要です。

 よくテレビには医者という人が出てきて、健康知識などいい加減なことを言っていますし、だれかの研究を引用していても断定口調で話していて、この人がこの研究者本人かと間違えるほどです。しかし、テレビ番組の制作者にとっては話の中身が重要ではなくて、○○病院の院長が言っている、という事実が大事なのです。

 テレビはひどいですが、その構造は新聞でも変わりません。私は某大新聞社に10年間勤めましたが、そう思います。

 事件や政治などはさまざまな情報が錯綜するので、二次情報であっても三次、四次であってもばれにくく、分かりにくいです。一方、科学ジャーナリズムの場合は、一次情報はまず報文ですので、ほかの取材と同じようないい加減なことしかしていないと結果的に質の低さが簡単に露呈してしまうというわけです。(先生が以前に書かれていたCOP6の議定書を読まずに解説を書いてしまう記者などが、典型例ですね)

<ここで、科学ライターの端くれとしての言い訳>
 さて、こうした報道の現状を反省し、取材を深めようとします。しかし、科学に関する一次情報の入手は意外に困難なのです。
 
 確かにインターネットで公開されている報文も多いのですが、探す手間、経費は結構負担です。私の場合、大学の元指導教官が私の仕事を理解してくれているので、研究室でとっている雑誌をコピーしたり、時々は研究室の研究生のようなふりをして大学の図書館に行き、まとめてコピーして安くあげていますが、限界があります。
 
 かの学科の蔵書をみたいと思って申請したところ、「あなたは何ものですか」から始まって名刺を出してもだめで、結局運転免許証を預けて書庫に入らせてもらうという情けないこともありました。ちなみに、その間免許証は、学科の事務室のカウンターにポンと乗せられっぱなしでした。(こういう形式主義をとっているのは、京都大学農学部です。私は農芸化学で修士まで専攻しました。東大は、こんな実効性のないことはしていないのでしょうね)
 馬鹿馬鹿しい枝葉末節の話に堕ちてしまいました。
 
 このあたりの話は、実際のところはまあ金と努力次第なんです。私自身忙しいと一次情報にあたるという作業がかなりおざなりになります。恥ずかしいです。

 やはり、NHKや新聞など大メディアは、こうしたきちんとした情報にうんとアクセスしやすい。経費だってふんだんに使えるでしょう。ちょっと古い話ですが、文藝春秋に作家の日垣氏が確かダイオキシン報道の虚構とかいうタイトルで、立派なものを書いたことがありました。うろ覚えですが、日垣氏の著書に「編集者と一緒に片っ端から関連論文を集めてから原稿を書いた」というような文章があり、「文藝春秋だから可能なのよね」と思った覚えがあります。

 先生の御指摘の通り、確かにテレビの科学報道はひどいのですが、多くの番組は下請けの会社の制作であり、テレビ局からかなりの圧力を受けて金がない、時間がない、情報にアクセスしにくい、という中で苦労して作っています。フリーランスのライターも同じようなものです。だから間違った情報をたれ流していい、というわけではありませんが。

 結局、新聞社やテレビ局、出版社などがちゃんとお金をかけて科学記者を育てるしかないということでしょうか。良い番組や雑誌だと、企業がスポンサーになることでイメージアップを図れる、従って金を出す、従って質がさらに向上する、というようなものを覚悟して作るしかないのでしょうか。そうなると、日経ECO21はなぜ、そういう雑誌になれなかったか、という一番最初の問題に戻ってしまいますね。

 とりあえず、受け手の読者や視聴者の問題ははずして(センセーショナリズム好き、根強いパターナリズムなど)、取材側の悩み、問題点を書いてみました。なにせ失業中ですので、暇にあかせて長々と書きました。長いメイルは非常識。申し訳ありません。少しでも御参考になれば幸いです。

 先生が現在研究しておられるトレードオフの例の提示は、若者に科学に対する眼を開かせる一つの突破口となるような気がします。中年以上には効き目がないだろうとも思いますが。今の若者は日々、何かをあきらめて別の何かを得る、ということを冷静に行っているような気がするからです。「トレードオフってなんだかかっこいい」という雰囲気ができれば、しめたものですね。