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ダイオキシン報道のあり方 03.26.99




 テネシー大学から帰りの飛行機の中で記述。アトランタ直行便は長い!!
 例の所沢のダイオキシン報道以来、かなりいろいろな議論が行われ、これまでダイオキシンというと「史上最強の毒物」という形容詞が必ず付いていたのが、やや疑問を呈する記事も出てきた。さらに、報道のやり方に議論が進んだのも特筆に値する。これは明らかに進歩だと考えられる。
 環境問題は真実を知ることがまず第一。「史上最強の毒物」は、ヒトに対しては若干疑問(モルモットに対してはそうかもしれないが)。ここでは、2つの新聞記事を参照しながら、議論を進めたい。
(1)やや古いが朝日新聞のダイオキシンの総括記事
     1999年3月5日(金曜日)朝刊
(2)毎日新聞の2名の記者が対立した視点から語っている記事
     1999年3月23日(火曜日)朝刊



C先生:(1)の記事だが、これまでこのウェブページで何回も述べてきたように、ダイオキシンの環境への放出のピークは現時点ではなく、1970年代にあったということを横浜国立大学の益永先生達が示したグラフが出ているもの。

これまでも説明しているのでくり返しになるが、1960年代には、PCPという水田除草剤、70年代には禁止されたPCPを引き継いだCNPという水田除草剤、さらにはPCBの内のコプラナーPCBの負荷が加わり、その2種類は70年代に大体おさまって、80年代になって、焼却炉起源のものが大部分になった。焼却炉起源のものは、現時点に至るまで着実に増えているという余りうれしくない状況。しかし、絶対値で言えば、といってもあくまでも推定値だけれど、1970年頃の30〜60kg/年が、80年代以降は4〜7kgぐらいと一桁近く放出量が下がっている。
 しかしながら、ダイオキシンという物質は、環境中での半減期が極めて長い。なかなか分解しない。だから濃度として見た場合には、全体としてやや減っているかな、といった状態になっているものと思われる。
 大阪府の母乳中のダイオキシンのデータによれば、ピークはやはり70年から75年頃にあって、現在は半分ぐらいの値になっているが、その理由は、環境からダイオキシンが消えたためではなく、おそらく魚を食べる量が減ったからだろうと言われている。

A君:いずれにしても、この益永先生のデータが新聞上に掲載されたのは画期的なのではと思います。マスコミのこれまでの論調は、あくまでも現時点が最悪、ますます悪くなるといったものだったですから。

B君:同じ朝日新聞に中西準子先生がコメントを書いてますが、リスク全体を考えて、ダイオキシンだけを特別扱いするのではなく、全体としてのリスクを減らすべしという話。これは中西先生のコメントでは毎度のことなのですが、一般の市民あるいは記者には分かりにくい話なのですかね。

A君:ヨーロッパ各国のダイオキシン汚染の状況、すなわち、牧草が汚染されて、肉や乳製品に移行し、そしてヒトが食べるという直接的な暴露機構が主な国と、日本のような魚起源が依然として主である国の違いの指摘もされていて、まあ、この記事自体、中西先生のコメントを載せていることを含めて、極めて中立的なものだと評価できました。

B君:しかし、最後の大阪大学の植村助教授のコメントは、若干気になる。彼はCNPの使用禁止を訴えてきた研究者のようだが、「現在の放出量が昔より少ないという今の状況だけで考えるべきでない。CNPも反対の声が大きくなってやっと使用が止まった。過去に背負い込んだ重荷の上に、少しでも上乗せしない姿勢が不可欠。当面、ダイオキシンを発生させる有機塩素系物質を減らし、焼却場で燃やさないことが肝心だ。」といっている。
 確かにダイオキシンの半減期がはっきりしない、環境中の濃度が大きくは減っていないのは事実だから、今、環境へダイオキシンを上積みすべきでないこと、それは当然なのだが、「CNPも反対の声が大きくなってやっと使用が止まった」とうのは何だ。この文章の中で浮いている。文章を一つ飛ばして、最後の「当面、ダイオキシンを発生させる有機塩素系物質を減らし、焼却場で燃やさないことが肝心だ」に掛かると考えると、塩ビかな。塩ビの使用を止めろと言いたいのかな。それとも農薬かな。日本語というのは、どうにでも解釈が可能な言語なので困るよ。

A君:塩ビだとすると、それは誤解かも。何回もこのウェブページでいっているように、もしも塩ビだけを止めても、ダイオキシンの発生量は大幅には減らない。それは、他に塩素源が結構あって、有機塩素でなくて無機塩素でもダイオキシンの発生原因になるから。再生紙がかなり塩素を含んでいる結果が出てC先生もショックを受けているらしいから。塩ビが焼却炉に入るような状況を避ける方向は正しいだろうが、それだけでは駄目だろう。

C先生:これも塩素の利用というものを総合的に考え直して、全体としてのリスクを減らすことを目指すべきだ。塩ビは勿論そのまま燃やさないシナリオ。塩化ビニリデンも同様。この2種のプラスチックは、別途分別収集して、脱塩化水素処理をきちんと行う。焼却は、素性の分かったものだけにする。再生紙の白度はなるべく低く押さえる。などなどといった総合対策が必要。塩ビが安いコストだけを売り物にして、大量生産する時代はとっくに終わったと思うよ。社会的に処理コストが掛かるのなら、それを新品の塩ビのコストに上乗せすべきなのだ。

B君:塩素を発生させない電解プロセスに転換することも視野に入れるべきだろうか。しかし、それは塩素使用そのもののリスク評価をやりなおす必要があるだろう。塩素は必須元素だから、まったく使わないという訳にはいかない。すべての生物が必要としている元素だからね。
 まあしかし、いずれにしても植村先生のような短絡的な見方は、この際ご遠慮いただきたい。

A君:短絡的という言葉で、次に繋ぎたいのですが、毎日新聞の記事ですが、2名の記者、環境科学部の斗ケ沢秀俊記者と生活家庭部の小島正美記者とが対立した意見を述べる形で構成されています。どうも両者の主張が何故か短絡的なのですね。記事が短いせいもあるにはあるのですが。
 まず斗ケ沢秀俊記者:「これまで恐怖心をあおる報道がなされてきた。危険性に対する適切な評価が必要であり、冷静な報道を心がけたい。」といった趣旨を記者の目に書いたところ、「けしからん」という意見が多く寄せられたということでした。その意見で挙げられているものの一つは、例の「予防原則の話」、要するに公害問題の教訓をどう読むのだという主張。もう一つは「生殖毒性は長期的研究が必要で、動物実験からのデータで策定された規制値そのものも怪しいから安心できない」という主張。当記者はこの2種類の主張を正当な意見だと評価しています。本当に正当ですかね。
 そして、「あえてもう一度問いたい。なぜダイオキシンの毒性だけが特別視されるのか」、その背景には、「ダイオキシンの危険性を強調した報道があるのではないか。ダイオキシンの実態調査と排出規制を進めることに異議はない。世界には10万種を超す化学物質があるが、中には生殖毒性をもつものもある。今後も、できるだけ多面的な報道を心がけたい」と結んでいます。

B君:過激発言をしていいか。「予防原則」の話だが、21世紀には、もはや環境を考える原則にはなりえないのではないだろうか。公害時代だった60〜70年代までは、限定された物質を対象として「予防原則」を言い、また実行することは比較的簡単だったのだが、現在のような状況だと、「予防原則」を厳密に言いだすと、それこそ10万種類もの物質を調べ直すなどということになる。だから「予防原則」が必要だと誰かが主張するのも、「報道された物質だけ」、ということになりがち。環境ホルモン騒ぎが、まさにこれだった。環境庁リストに載っている物質だと報道されて騒がれる。日本子孫基金リストも同様。そう言えば、最近この日本子孫基金の名前が報道されないね。だから、「予防原則」は、報道と深い関係にあるという斗ケ沢秀俊記者の主張は概ね正しいのではないだろうか。

A君:言ってくれますね。まるで「予防原則」は公害時代を引きずった原則だと言いたい見たいですね。それじゃ、21世紀には「予防原則」でなくて何が原則になるのですか。
 
B君:難しいが、敢えて言えば、「予測原則」ではないだろうか。遺伝子に対する影響にしたところで、最近は、かなりいろいろと分かるにようなってきた。だから化合物の作用や電磁波などの物理作用を広範に予測することによって、「予防原則」を置きかえる。こんなアイディアはどうだ。

C先生:まあ本当のところ、「予測原則」ができることが新しい環境科学が生まれるということと同義のように思えるね。過激発言を引き継ぐようだが、すべての人が公害時代の環境感をそろそろ払拭しないと、新しい環境科学の時代に移行できないような気がする。
 動物実験の話も、まあ根元は同じかもしれない。良く言われることだが、マウスを使って電磁波の影響を調べて、人体にも大丈夫ですといったら、「俺はねずみではない」とどなられたという話があって、斗ケ沢記者に文句を付けた2番目の意見もこれに類するやや古い環境感に基づいた話のように思える。動物レベルで見ていたら駄目で、遺伝子レベルで見れば共通のサイエンスになりうる。
 「予測原則」が現実にうまく作用するのはいつの日か。実際のところ、先程の指摘にあったように、環境ホルモン問題が良い試金石になりそうだが。

A君:もう一人の記者の話にいきます。生活家庭部の小島正美記者ですが、「化学物質の健康影響評価・リスク評価は、不思議なことに科学者の中でも異なる。なぜだろうか」と始めていまして、それは、「科学者の価値感、性格、過去の来歴、職業上の立場がリスク評価を左右するからだ」としています。

B君:それって、毎日新聞の記者にありそうな思い込みではないか。それはそれなりに事実だとも言えるが、それ以前に、最近の環境問題における健康影響評価・リスク評価が「まだ科学になっていない」からだという認識が必要だ。完全に科学になっているものについては、科学者の価値感や性格で評価が異なることは無い。

A君:「ダイオキシンの長期的なリスクをしっかりと見すえるべきだ。報道の自己規制こそ要注意」という記事に対し、「まったく同感」、「ジャーナリズムの原点を見た」といった好意的な意見をもらったと自画自賛していますね。

C先生:良く分からないね。「報道は自己規制をすべきだ」と誰がいっているのだろうか。「しっかりと見すえる」のはあたりまえ。それがどうして自己規制に関連するのか。もしかしたら、例のニュースステーションの報道で、農水大臣が何回もいちゃもんをつけたり、郵政大臣が調査するなどと脅したり、これは政府が自己規制を要請する方向だと断定した人が何人かいて、それに対しての意見なら、いかにも有りそうな話だが。
 今回の所沢ダイオキシン事件の重要なポイントは、「自己規制」といった言葉では表現できないと思う。そのレベル以下の問題だからね。現実に起きたことは、科学的な確信無しに、単に「センセーショナルに」という思い込みで報道したことによって、風評被害がでたのが真相だったと理解している。「報道の自己規制」などという高度な政治的レベルの問題とは話が違うと思うんだがね。要するに、「センセーショナル至上主義をやめよ。そして報道するなら、それが正しいことを科学的に良く検証してからやれ」、という極めて単純な基本原則をニュースステーションが破ったことだと思う。報道は、すべからくこの基本原則だけ守ればよい。自己規制など不必要に決まっている。この基本原則も守りたくない、それも「自己規制」に含まれる、というのなら、これはこれで有りうるのかも。もっとも報道のレベルが分かってしまうが。

A君:次の話も良く分からない。「立場を超えてひとつだけ確かなことは、なぜ危険なのか、なぜ危険でないかを報道するに当たっては、科学的な根拠、その時代背景をしっかりと伝えることが重要だ」。当たり前すぎる。なぜこんなことを言うのだろうか。小島記者には、まず「なぜWHOが1〜4pg/kg/dayというTDIを提案しているのか」、その科学的根拠を示して欲しい。これがちゃんと報道されたら、わざわざこのような表現を取ることに意味が出てくるかもしれない。
 そしてまとめが、「霞ヶ関が権力を持っているのは、情報を独占しているからだ。どんな情報でもしっかりと提供してくれる新聞に、読者は信頼を持ってくれると思う。情報の共有が基本的スタンスだ」、だそうですよ。

C先生:「霞ヶ関が権力をもっているのは、情報を独占しているからだ」、という理解のようだが、これも古いね。「大古」かもしれない。ダイオキシン問題に関しては、霞ヶ関が情報を独占していたとは到底思えないね。環境ホルモンでも同様だった。だれも科学的に確実な情報を持っていなかったのが真実。しかも、現時点でいまだに怪しいというのが実像。それは、この問題の科学が完成の域に程遠いからだ。そのぐらい難しい問題なのだ。
 この記者の基本的スタンスは、どうも「霞ヶ関を信用するな」のようだね。話を少々変えて、この間、日経ホーム出版から発行されることになった「日経ECO21」の創刊記念シンポジウムで、市民が環境問題に取り組む場合の10の原則を述べたが、その変形として、「消費者がおちいりそうな誤解」を指摘した。そのときの文脈は、「環境商品ですといって消費者を騙すテクニックの一つとして、消費者が持ちそうな誤解を旨く利用するという方法がありますよ」、ということだったが、その一つ(二つ)に、「霞ヶ関の言うことはすべて嘘だ」「大学教授も同様」というのを挙げた。どうも、この記者は、読者にこのような誤解を与えることによって、読者を自分の都合のよい方向にコントロールしようとするタイプのように思えるね。環境ニュースという商品の売り込みに、この誤解を利用しようとしているどうも古いタイプの反体制的新聞記者のようだ。この記者に同調する古いタイプの読者が多いのも、これまた事実。

A君:B君の出番じゃないの。21世紀型の新聞記者は、反体制的あるいは告発型ではなくてどうなれば良いのか、について何か言いたいのでは。

B君:では、おとなしくいきましょうか。現状では、環境問題に告発型が必要なのは未だに事実。ただし、告発型が解決を生まないのも事実。自分自身の問題だと読みかえることによってのみ、本当の解決を見る。
 その記者の場合にも、自分が読者に与える「記事の中の科学的情報」が「実はすべて嘘かもしれない。だから自分で完全に理解したことしか言わない」という立場にたってみて、初めて真実が見えるだろうよ。

C先生:余りおとなしくは無かった。
 さて、この両記者の主張だが、短絡的というよりも、むしろすれ違っている。その理由の一つは、ダイオキシン問題には、まだ科学的に絶対と言える情報がどうも確立されていないからだろう。
 小島記者は、ダイオキシン問題に「科学的事実」がすでにあると誤解しているようだ。彼が「事実」として引用している赤毛サルへのダイオキシン投与と子宮内膜症の話も、科学的・定量的に解釈するのが困難な話だ。厚生省がこの話を無視し、環境庁がこの赤毛サルの話を重視したというのは嘘ではないだろうか。本当に重視したら、環境庁の主張しているTDIの値(5pg/kg/day)がもっと低くなるのではないだろうか?
 さて結論として、新聞記者としてのスタンスの新しさという点を認めて、斗ケ沢記者を応援してみたい。新聞記事に、何か、新たな変化を生みそうな気がするので。