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コルボーンとカーソン 08.07.2000補08.16






 シーア・コルボーン(73歳)は、ご存じのように、「奪われし未来」の著者の一人。環境ホルモン問題の存在を指摘し、この度、環境保全活動に対して与えられる旭硝子財団のブループラネット賞を受賞。
 レイチェル・カーソン(1907−64)は、これまたご存じの「沈黙の春」の著者で、DDTなどの農薬による環境破壊の重大性を主張。
 この2名の女性を「似ている」、その業績も「同様である」として礼賛する雰囲気がある。これは本当にそうなのだろうか。AB&Cは、「疑問あり」と考える。将来、ブループラネット賞の傷にならなければ良いがと、逆に心配する次第。特に、日本の化学業界の雄、旭硝子の名を冠した財団からの賞であることによって。

補:旭硝子財団から訂正の要求があった。財団の運営は、旭硝子株式会社から完全に独立で運営されているため、上記表現は不適切とのこと。不詳私も、それは財団というものの特性上当然であり、そのように運営されていることは知っている。しかし、財団の名称を見れば、誤解を招きやすいこともこれまた事実である。そこで、上記文章は、若干訂正し、青字を付加した。08.16.


C先生:シーア・コルボーンがブループラネット賞を受賞。ブループラネット賞は、旭硝子財団が、世界の環境保全に貢献した人に対して与えている賞で、審査員の大部分は日本人であろうと思われる。環境分野では、まあまあ世界的規模の賞だろう。しかし、今回のコルボーンへの授賞決定は、日本のマスコミによる報道のトーンに、相当左右された審査員による選考結果だと思える。「環境ホルモンが、日本だけで危機とされ、他国では無視される」、こんな状況を反映しているのでなければ良いが。ブループラネット賞のそのものの傷にならなければ良いが、と若干心配なのだ。
 その一つのあらわれとして、現在、朝日新聞が連載中の「新世紀を語る」にも、コルボーンが登場した。しかし、これまでの登場人物を見ると、その選択基準がどこにあるのか、極めて不思議な感じで、どうも「朝日新聞的反体制趣味」の人が選ばれているような気がするのだ。言い換えれば、コルボーンへのブループラネット賞授賞決定は、朝日新聞的趣味の審査員による評価だったのではないか。
 コルボーンも、地味な研鑽を積み上げてきたことは恐らく事実だし、「環境ホルモン問題を、人類の生存が野生生物へ与えてしまっている環境影響の一つ」、と見ればまさにその通りで、沈黙の春のカーソンと同様という見方もあり得るのだが、どうも、それだけでもないような気もするのだ。今日はこの話題だ。

A君:08.06の「新世紀を語る」は、立花さんだったですね。立花さんは、朝日新聞的反体制趣味ともちょっと違いますが、昨日(08.05)の、反原子力の名古屋大学の某氏にしたって、将来に対する長期的かつ科学的な見通しなしに、反体制趣味を表明している感じでしたね。

B君:環境屋としては、浦野先生が「新世紀を語っていた」が、最近は、「朝日趣味的」になっていると見られているのだろうか。環境屋、特に、ケミカル屋や環境ホルモン屋は、自分達の研究がどのような意味があるか、誰のための研究なのか、どのような研究成果が期待できるのか、また、行政的な意味が何か、良く自省する必要がある。

C先生:なんだか、論点はどうも「環境と科学」ということになりそうな気がするな。いずれにしても、3名で同じ方向を向いて議論しても仕方がない。今日は、「カーソンvs.コルボーン」という構図で議論をしよう。A君はカーソン擁護、B君はコルボーン擁護でいくか。

B君:自分がコルボーン擁護ということは、「反カーソン」ということですかね。それは無理では。カーソンの業績は、好き嫌いは別として、認めざるを得ない部分がある。だから、A君が、コルボーン擁護、自分が反コルボーン、でやるのが適当だと思う。

C先生:それでもよいが。

A君:それなら、開始する前にカーソンの業績なるものの共通理解が必要なのではないですか。
 個人的に思うことですが、特に重要なことは、カーソンの指摘がどのような状況で行われたか、ということではないでしょうか。農薬散布というものは、人間の生存にとって必要なものである、だからやって当然、という一般社会の考え方の中で、農薬散布が行き過ぎれば生態系を決定的に破壊してしまうという指摘を一人で行ったということ、これが重要なポイントです。経済発展の程度が低い場合にしばしば行われてしまう「経済優先主義+人間中心主義」を否定した行為は、常人には簡単にはできないことで、そのために迫害まで受けたという認識が必要なのでは。

B君:現在の発展途上国でもやや似た事情ではあるのだが、今ならば、一応環境先進国という見本がある。だから、現在の途上国でカーソンと同様の指摘が行われたとしても、高く評価すべきとは言えない。歴史的に見ても、水俣病をはじめとする日本の公害時代には、世界にも見本というものが無かった。当時の日本は、経済発展が無条件に最優先される時代だった。だから、その大きな流れに逆らって、公害時代の市民運動をリードした人々は評価されてしかるべきだ。ただ、そのときの手法を現代でも使おうとする時代錯誤の手合いが未だにいて、それは、「単に、状況判断が全くできず狂っている」、としか言いようがないのだが。

C先生:カーソンによる指摘が、反社会的行為と見なされ迫害された。この理解が、確かにもっとも重要なことなのだろう。それ以外にも、環境ホルモン性に近い記述をも行っているなど、野生生物における異常の観察眼の鋭さや先進性も重要なのだろう。

B君:A君の主張だが、カーソンの業績として、それを出してしまうと、コルボーンを擁護することが難しくなるぜ。

A君:.......

B君:A君の代わりにコルボーン擁護の理論を述べてしまうと、こんな風になる。人類は、汎用ケミカルの環境への放出という手段によって、生態系へ負の影響を与えてしまった、というところまでは恐らく事実。だから、今後、生態系保全を考えて、汎用ケミカルの使用にはきちんとした評価をしましょう。ここまでなら評価しても悪くはないのだ。

A君:でしょう。コルボーン擁護は、生態系保全のため、という発想までならば、十分に意味がある。人類は、生態系に影響を与えるケミカルを、勝手に作って勝手に放出してきた。それに加え、通常の毒性以外に、内分泌攪乱性という毒性があって、野生生物、特に、水生生物に影響を与えてしまった可能性が高い。こんな指摘が初めて行われたことには、意義がある。

B君:その初めてというところも問題かもしれない。「通常の濃度よりも極端に低い濃度でも影響が出る可能性がある」、ことが内分泌撹乱性の定義なら、初めてとも言えるが、通常の濃度のDDTなどが生殖毒性を持っていることは、随分以前から知られている。そもそも内分泌攪乱性に対して、環境ホルモンなる名前を付けたのは、当時横浜市立大学の井口泰泉先生だったが、いまだに環境ホルモン問題というものが、例えば濃度の問題などに関して、何を問題にして、何を問題にしていないのか、さっぱり分からない。
 となると、内分泌攪乱性という新しい観点からの毒性があることを初めて表現した、といっても、一体それが何なのか分かっていない以上、評価不能であることになる。昔から、市民運動のひとつとして石鹸派というものがあって、合成洗剤には水生動物への悪い影響がある、といっているが、そのレベルとどこが違うのか。内分泌攪乱性による影響は、通常の毒性とどこが違うのかよく分からない以上、レベルの差というものも認めがたい。

C先生:これまでも、チラチラと情報をリークしてきてはいるが、先日、21世紀の科学技術に関する日米対話の中で、環境問題としては、やはり内分泌攪乱性を中心とした物質群とのつきあい方をどのように考えるか、これは問題である。すなわち、そもそも何が問題であるのかすら確実では無いが、世の中一般に問題が存在しているという認識を持っている人が多いという状況下で、正しい科学的・政治的な判断を行うには、どのような対処方法がベストなのか、このような検討を行うことが、今後の環境行政にとっても、また環境科学にとっても重要であるという指摘を行ったのだ。

A君:そうですね。日本はそのために税金を200億円ぐらいをすでに使った訳ですから。これもコルボーンの指摘によるわけで、その意味でもコルボーンの業績とも言える。

B君:その200億円でどんな結果が出るか、それが決定的要因。200億円で何も出せないのならば、内分泌攪乱性そのものが実体のないものなのか、あるいは、それを科学として取り扱った研究者が無能なのか。少なくとも、なんらかの結論が出ないと、評価も難しい。しかしだな、もしも内分泌攪乱性というものの実体は無いという結論になったとしたら、コルボーンの評価はどうなるのだ。

A君:いや、実体は無いという結論にはならないのではないですか。少なくとも水生生物に対して何らかの影響はあるという結論にはなるのでは。

B君:それがどうも怪しい。問題は、人工的ケミカル以外の環境影響を、人間生存がもともと与えていることだ。すなわち、本物の女性ホルモンが、下水を経て環境に放出される。しかし、完全にエストロジェン性を失った形にはなっていない。すなわち、ある程度のエストロジェン性が残るが、人為起源の物質による影響が、その影響を上回る影響を与えて居ないので無い限り、環境影響の評価も難しいことになる。

C先生:環境ホルモン性といって新聞などで騒いでいる問題は、生態系への影響が問題にされている訳ではなくて、むしろヒトに対する影響だけを見ている場合が多い。この間本HPに掲載した塩ビの可塑剤であるDEHPにしても、ヒトが摂取するから駄目ということで、厚生省が対策を取った。ただし、DEHPに対する本HPの主張は、塩ビ手袋の使用禁止勧告が出たのは、DEHPの環境ホルモン性が問題になったからではなくて、DEHPの通常毒性が問題になったから。その通常毒性がマウスの場合には、精子の製造を司る細胞に対する毒性だったもので、いささか紛らわしい。しかし、これを環境ホルモン性だというのには、論理的な無理がある、という立場だ。

A君:環境ホルモン問題の一つの現れとして、「精子が減少している」というものがあるようですが、その結論は、簡単そうなのだがなかなか出ないですね。もしも減少しているとして、そのメカニズムが内分泌攪乱性によるものなのか、そうでないのか、という議論もよく分からないですね。

B君:個人的には、前回のHPで示したような基準、すなわち、先にも述べた「通常の毒性では考えられないほどの低濃度でも内分泌攪乱作用を示す物質」が良いと思う。精子減少などといった生殖関係に影響を与えるから、だからすなわち「環境ホルモン」というのは、短絡的に過ぎる。

C先生:これまで問題になってすでに規制がある物質群、PCB、ダイオキシンなどなどの物質が内分泌攪乱作用がある、といっても、だからといって、ヒトにすでに影響がでているかどうか、これを疫学的に調べるべきだと最初考えたが、どうやって調べるのだろうか、これが分からなくなった。新田さん(環境研)に聞いたら、やはり、疫学で何か明確な結果がでるタイプの問題では無いとのこと。

A君:そのような物質については、現在の環境濃度は明らかに30年前よりも低いから、現在30歳の人と、10歳の人との比較をすれば何かでるのでは、と簡単には考えますよね。

C先生:そう。今、30歳の人が何かおかしくなければ、問題はない。環境ホルモンという言葉が悪いために、誤解する人も多いようだが、もしも、なんらかの異常があったとしても、DNAレベルで異常を起こして居るという訳ではないのだから、次の世代にその異常が伝達される訳ではない。でも、何を調べるのだろう。やはり精子数か? どうもそうではない。

A君:勿論、キレるかキレないか、などといった問題でもない。また、知能指数というような問題でもなさそう。今の30歳の知能指数は、低いのだろうか。

C先生:今の50歳以上の日本人は、鉛管を通った水道水を飲んでいたので、もっと知能指数が低いのかもしれないよ。

A君:誰も自分達がおかしいとは思っていないのでしょうね。出生率の低下も、心理的な影響が大きいのであって、肉体的問題ではないだろうし。

C先生:最近、流産が増えているという市民運動家に合ったことがあるが、産婦人科の先生は、そんな認識では無かった。

B君:もっと重大な変化があるから、結論を得るのはいずれにしても難しいだろう。それは、感染症をかなり克服した結果として、30年前の新生児死亡率が1000人中12件ぐらいだったものが、現在では、2件ぐらいに減っている。この違いは、生存しているヒト側の変化が大きいということで、この大きな変化を上回る変化が無いと、なんとも分からない。

C先生:日本子孫基金などといった妙な団体は、相変わらず「ヒトへのビスフェノールAの影響」が興味の対象なんだ。そのビスAだが、これが象徴的に取り扱われてくる可能性がある。すなわち、ビスAの使用制限が行われるかどうかが、勝ち、負けの境目という訳だ。

A君:いずれにしても、ヒトへの影響はありなしの議論が難しい。もともと、内分泌攪乱性は、水生生物などへの影響だという理解で、全解釈をやり直す必要があるのではないでしょうか。

B君:さらに言えば、ヒト=ホモサピエンスという動物の防衛機構は、他の動物に比べても非常によくできている。それが、他の猿人や原人が滅びたにもかかわらず、ホモサピエンスなる種が現在まで生き延びてきた最大の理由なのではないか。環境適合性とともに、防衛機能が優れていた。

A君:そうですねえ。人工的なケミカルの種類が多いといっても、天然のケミカルとなると、同定もされていないものが無数にある訳だし、その中で生存してきたということは、少なくとも、何らかの環境適合性を発揮するメカニズムを持っているということでしょうから。

C先生:いつホモサピエンスが出現したのか、その議論もいずれしたいが、ホモサピエンスなるものが何かといったことを考える中で、環境ホルモンの議論ができるような状態になれば、そんな極端な議論にはならないだろうな。

B君:いずれにしても、コルボーンの評価を下すのは早すぎた。

C先生:環境ホルモンのヒトへの影響を重大だと主張することによって、なんらかの利益を得た人々の存在が、コルボーンの最終的な評価をマイナス側に引っ張る可能性が、まだまだ大きいのかもしれない。このような妙な取り巻きの存在が、カーソンの場合との最大の違いだろう。カーソンは、孤立無援だった。コルボーンには、マスコミを始めとして、しっかり取り巻きが付いている。