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環境情報に適切に対処する方法  02.28.99 追加 03.04.99



 所沢ダイオキシン報道不適正事件のおかげで、環境への関心がまた高まったようだ。昨年の6月頃の環境ホルモン問題もすごかったが、それ以来の高まりとも言えそうだ。しかし、真に望ましい姿で高まったと言えるのだろうか。いささか疑問。
 今回の事件の特徴は、マスコミがいかに報道し、市民がそれをいかに受け取るべきかといった「環境情報の伝達の適性・不適正」に関することまで、若干の議論がなされたことかもしれない。これは進歩である。ここでは、AB&Cが環境問題を考えるときにどのような原理原則に基づいて議論をしているか、その検証を試みると同時に、「環境情報に適切に対処する方法論」を探る。

最後にまとめを追加しました。


C先生:今回の所沢ダイオキシン報道事件で、当事者である久米さんと菅沼さんの主張は、「情報開示」にあった。これまで「情報非開示=実態を隠す」ことを主たる方針としてきた自治体・JAなどが、その態度を変えるきっかけを作ったようでもある。この点は評価しよう。しかしながら、情報を受け取る側が同時に変わらないといけない。そうでないと、またまたスーパーなどが仕入れ拒否行動に出る可能性がある。
 さて、どのように情報を理解すれば良いのだろう。本日は、様々な環境情報をどのように理解するか、また環境問題をどのように考えるべきか、といった問題が起きた際に、何か思考原理や原則のようなものがあるかどうか、若干の議論をしてみよう。もしも、共通の原則が提示できれば、それを使って環境情報に対して適切に対処できるようになるだろう。
 やや逆説的アプローチだが、まずは、環境報道や環境保護活動など全般を含めて、何か妙だなと思うものの指摘から始めよう。なぜ妙だと思うかについて議論をする過程で原則を抽出するという方針。

A君:まず、今回のダイオキシンの報道ですが、それだけでも、ポイントはいくつもありますね。まず、3.8pg/gという数字が一人歩きをしたこと。ホウレンソウだとすると、全国平均値の10倍だからこれは大変という見方だったと思うのです。もっとも3.8pg/gが煎茶だったということで収まりましたが。
 確かに情報が不確実であったことは事実。しかし、3.8pg/gという数値がなぜあれほど一人歩きしたか。

B君:1日あたりの許容摂取量(TDI)というものが有りながら、その説明が十分に行われていないためではないだろうか。さらに、それが信用されていないのが現状だからかもね。厚生省の10pg/kg/day、環境庁の推奨値5pg/kg/day。しかし、WHOは1〜4pg/kg/dayだと言っている。WHOの値が絶対的に正しいという保証はどこにもないが。
 まず、このような値の使い方を徹底的に示すことが必須。さらに、市民が信用する値を採用するという立場はある程度重要だろう。

C先生:さて、諸君らの発言を原理原則的記述に変えると、要するにこんなことか、「シナリオ必須の原則」。TDIはある仮定(シナリオ)に基づいている。ダイオキシンは急性毒性が出るほどの量を摂取する可能性はほとんどない。あのセべソ事件を含めて、ダイオキシンの急性毒性で死んだ人はいない(4名いるという説もあるが)。ダイオキシンは体内での代謝速度が遅いため、徐々に蓄積されていく。それを考慮したとき、毎日一定量のダイオキシンが人体に摂取されても、悪影響を与えないという値を許容量としている。だから、瞬間的にこの値を超す日があっても、問題ではない。毎日超すと問題だという値なのだから。このようなシナリオをきちんと提示するべきである。市民側は、これを知識として持っておくべきである。
 もっとも、今回のダイオキシン事件の場合にも、3.8pg/gの値を使って、体重10kgの子供だとわずか10gのホウレンソウでもWHOの基準を超すといった報道が、ニュースステーションの第1回目所沢ダイオキシンの放映中(2月1日)になされたと思う。だから報道も、脅かす場合には「シナリオ」を提示するのかもしれないが。そのときには、1日でもTDIを超すと危ないという報道のように思えたが。

A君:そういうと怒られるかもしれないですが、そもそもpg(ピコグラム)などという量は、ダイオキシンでも取り扱わないと出てこない量ですよね。実験だって、mg(ミリグラム)までで、ng(ナノグラム)になるとまあ取り扱わない。そのまだ3桁下ですからね。余りなじみの無い量だということもあって、一般市民が自分で判断をすることができない。だけど、マスコミも誰もが計算できるはずだ、という前提で普段は知らん顔、そして、脅かす場合にはもっともらしい「シナリオ」が示されるのでは。しかも、そのシナリオを肝心なところを変形したりして。

B君:確かに。
 かなり違った「シナリオ」の話だが、環境保護団体も悪用していた歴史がある。石鹸と中性洗剤のどちらが良いかという比較論が盛んに行われていたとき、石鹸水と中性洗剤溶液でカイワレかなにかの種子を育てて、中性洗剤だと発芽阻害が起きるという主張があったようだ。中性洗剤を入れた水で植物を育てるといった、実際には起きない状況を対象として、意図的あり得ない「シナリオ」を作成し、それに基づいて告発・反論するという方法論で、これが結構通用していたらしい。下水処理施設がまったく無くて、そのあたりの小川に自分の家の汚水が直接流れ込むような状況なら、中性洗剤よりも石鹸の方が良い、という主張にこの実験結果を使うのなら妥当だけどね。

C先生:ライフサイクルアセスメント(LCA)を用いて、どちらが環境負荷が低いかを見極めるときに、もっとも重要な作業が適切なシナリオを書くということだ。まあ、環境を議論するときに、必須だということにして置こう。一応原則に採用。

A君:今回のダイオキシン事件のときの妙なことのひとつですが、報道すべき情報が欠けていた。すなわち、母乳のダイオキシン汚染問題のときに語られていたことが、今回報道されなかったことではないでしょうか。要するに、日本のダイオキシン汚染は、焼却炉が主力になったのは、実は比較的最近のことで、それ以前は、農薬が主な汚染源だったということです。

B君:ニュースステーション等では、現時点が、今がダイオキシン汚染のピークであるがごとき報道が行われているが、それは事実では無いだろう。全体的なトレンドとしては、日本のダイオキシン汚染も1970年代をピークとして、全日本というレベルで見れば改善の方向にあるだろう。摂取するダイオキシンも依然として魚からが多いが、これは、水田除草剤として使われていたPCP、CNPといった農薬の不純物としてダイオキシンが含まれていたからで、これが河に流れ、そして海を汚染したことが原因なのだろう。

C先生:中西先生の推論では、所沢の農家の家族が自分の畑で取れる緑黄色野菜を毎日食べていると、魚から摂取するダイオキシンとほぼ同量になる可能性ありとのこと。だから、他の地方で作られた野菜を食べている都会人にとっては、たとえ所沢産のホウレンソウを月に数回食べたところで、まったくといって良い程影響は無い。スーパーなどが、所沢産のホウレンソウの仕入れを止めたのは、消費者が買わないだろうという「営業政策上の読みから止めた」のが本音であって、「市民へのダイオキシンの影響を考えたのではない」ことが明らか。もっとも、こんな議論のやり方も知らない人が、仕入れ中止を決めた可能性は大きい。
 重要な点がもうひとつ。だからといって、所沢地域のダイオキシン汚染がローカルに問題を発生させる可能性が無いとは言えない点。全日本あるいは全世界といった視点とローカルな視点を複眼的に持つ必要がある。
 まず、前半の議論が原則ができそうだ。「全体トレンドの原則」。大きなトレンドを理解した上で、個々の環境問題を解釈すべきである。
 そして、最後に追加した点を原則にすれば、「グローバル/ローカルの原則」。問題の大きさを考えて、複眼的な思考をすべきということ。

A君:これは妙ということとは違う違和感なのですが、今回のダイオキシンの議論で、テレビ朝日の論説委員のような人が、ダイオキシンには環境ホルモン性があるから、将来世代のためを考えると無視すべきではない重要な問題だと言っていましたね。

B君:環境ホルモン性にしても、先程の「全体トレンドの原則」で見るべきだ。ダイオキシンの環境ホルモン性については、確かに未確定の部分は多いだろうが、全体的トレンドを見ると、環境ホルモンとしてのダイオキシンも改善の方向に向かっているのだろう。しかし、「グローバル/ローカルの原則」を考えれば、ローカルに見たときの生態系への影響は無視できないかもしれない。モルモットはダイオキシンに弱いというし。他の生物でもダイオキシンに弱ければ、所沢あたりでは種が絶滅をしているかもしれない。

A君:モルモットといえば、モルモットが自然生態系の中にはもはや存在しない生物であることを、先日初めて知りました。人間の手の中だけで生きている生物だとすると、もともと持っていたダイオキシン耐性遺伝子を今は失っている生物である故に、ダイオキシンに極端に弱いのかも知れないですね。

B君:可能性としては有り。ただし、ダイオキシン耐性遺伝子の解析が必要ということか。

C先生:さてさて、環境ホルモンというと、必ず次の世代のためにという議論がなされる。これは当然だ。そこで、「将来世代/現世代の原則」。現在生存している我々への環境影響だけを考えても不十分。例えば、二酸化炭素の温暖化影響など、現在生存している人のほとんどすべての人は影響を受けるとは考えられない。まさに、将来世代の利益を考えることから発している。これも複眼的「両にらみ」が必要。
 さて、環境ホルモンに戻るが、これが世代の再生産に影響を与えて、ヒトならヒトという種が絶滅すると立花さんなどは主張しているが、これは妙だ。というか、これはまったく別問題だ。結論的には、精子数が減少することによって、ヒトが絶滅することは考えられない。なぜならば、精子数もまさに個人的なばらつきが大きくて、全体が均一に減る訳ではなく、ある人の精子数が減るが、ある人はまったく減らないということになるだろう。減らない人が子供を多数作るようなことになれば、種は絶滅しない。精子の減少は、ある夫婦に子供ができないといった、むしろ個人の問題だと言えるだろう。
 というところで、「種/個体の原則」というものも、環境ホルモンを考える上で必要だ。個体の生命の維持も重要、しかし、種の存続も重要、という話。しかし、そのための最適条件がときに矛盾をするから、これも複眼的な視野が必要。この話は、生命倫理に関わるもので、余り議論をしないのが、本HPの方針。
 もう一つ関連して、「統計的バラツキの原則」。これは環境問題に限らないが、すべての測定には、必ずバラツキがあるということ。精子減少もそんな例のひとつだが、別の例として、ダイオキシンの血液中濃度を調べたとして、検査を行った人の特性によって、多い人と少ない人が必ず居るということ。多い人の値だけをことさら取り上げて議論をしても一面的な意味しかない。全体と個体の両方を見る必要がある。

A君:ダイオキシンの発生を抑えるときに、どの程度まで抑えるべきかという議論ですが、ややもすると、完全にゼロにするという議論がなされることが多いですよね。しかし、完全にゼロというのは原理的には有りうるかもしれないが、現実には、他のリスクとのバランスで適切な値を採用するということが現実的ですね。

B君:このあたりの話は、住民にはなかなか理解しにくい話なのだ。すぐ近く煙突がある状況だと、感情的には、「危険性を完全にゼロにしろ」、と言いたくなるからね。これは妙なことでは無いですがね。

C先生:ダイオキシン問題は、水道水の質の問題に比べても複雑だ。なぜならば、「グローバル/ローカルの原則」をどのように考えるかが絡んでくる。ある地域にリスクを被せて、そこから離れている地域ではリスクを下げている。要するに不公平をどのように補填するかが問題。焼却の場合も、原子力発電所の場合も、地域の住民に対して、直接的な補填が必要だと思う。補填としては、エネルギーの無償提供といったものが現実的だ。危険性をどこまで下げるべきか、さらに、どの程度の補填をすべきか、といった議論の基礎になるものが、トレードオフ論とリスク論だ。
 まず、トレードオフ論だが、環境負荷を下げようとすると、それには、装置とその運転のためのエネルギーが必要。言いかえれば、汚染をという環境負荷を、消費型環境負荷に置きかえるという操作が、環境処理技術の実体だ。トレードオフとは、何か環境負荷を低減しようとすると、必ずどこかで別の環境負荷が生まれる。そこで、「トレードオフ必在の原則」ができる。
 どちらの環境負荷が低いかを比較するには、リスク論が必要だが、そこで、考えなければならないことが、例えダイオキシンがゼロであっても、野菜そのものの発ガンリスクはゼロではないことだ。レタス、オレンジなどには結構高い発ガンリスクがある。発ガンリスクがゼロでなくても、野菜を食べれば、それを超えるプラスがあるから、我々は野菜を食べている。ダイオキシンそのものが人工物かどうか疑問だが、人工物だとしてそのリスクをゼロにしても、天然物として野菜のリスクはゼロでない値として残ることを認識する必要がある。
 天然物のリスクはゼロだと思っている人が多いこと、これはこれまで化学物質の定義の議論などで明らかになってきたが、それは明らかに誤解。ただし、多くの人々が指摘しているように、利便性と収益性のために作られた人工物で命を失ったら、それは「無念」だということは理解できる。これらを含めて「リスク非ゼロの原則」ができる。

A君:この間、IHIの綾部さんにビデオを貸してもらったのですが、それが、NHKのBSの放送で、「どうなるダイオキシン対策〜夢の焼却炉の波紋」というものでした。これを見て、対策技術の選択には、まず「科学的視点」が必要だと痛感しました。NHK製にしては妙です。

B君:プラズマを使った新技術がどれほど画期的かどうか知らないが、焼却して残存体積がほぼゼロになるというのは非現実的。現存の溶融炉による体積減少を上回る値がでたら、それは妙だ。何も外に出していないとしたら、それは「元素を消している」ことを意味する。元素を消せるか? 核融合か? 環境技術には、そのような「まやかし」がまだ非常に多い。

C先生:そのビデオの話は次回にする。確かにその手の話は多い。磁気水とか、プラスチック油化に酵素水を使うとか。植物性の洗剤だと環境にやさしいといったことは、単なる消費者の思い込みの利用だから若干違うが、本質は同じようなものだ。
 だからという訳でもないが、今度、環境広告や技術を集めて、その妥当性を検討し、公表するという調査研究を行う予定だ。そこでのキーワードは、「科学的根拠」だ。最後の原則、「環境問題にも科学必須の原則」。ただ、この原則は、他の原則よりも上位概念のようだし、当たり前すぎる。だから第0原則とする。

以上まとめると、
第0原則=基本原則:「環境問題にも科学必須の原則」
 大前提だ。健康商品にも「まやかし」が多い。科学知識でウソを見破れ。

第1原則:「全体トレンドの原則」
 日本全体、世界全体の環境のトレンドを理解し、現在問題になっている環境問題がどのような位置付けにあるか理解し、その流れの中で個別問題を理解するように努める。

第2原則:「トレードオフ必在の原則」
 すべての環境問題は、様々な相互作用を持っている。そのため、ある一つの環境負荷を完全にゼロにしようとすると、他の環境負荷が必ず増加する。この相互作用を理解する必要がある。多くの場合には、汚染型環境負荷と消費型環境負荷とのトレードオフである。

第3原則:「グローバル/ローカルの原則」
 地球全体、日本全体という視点とローカルな視点を同時に。ある特定の生物種やだけを考えることも、「ローカル」に含まれる。複眼的理解とバランス感覚が必要。

第4原則:「リスク非ゼロの原則」
 自然が人類に提供している環境はリスクがゼロではない。先進国では、人工的な環境を構築し得たために、現時点ではかなりリスクゼロに近い状態が作られているに過ぎない。したがって、人工物を排除してもリスクはゼロにならない。勿論、人工物にもリスク非ゼロの原則は成立する。

第5原則:「将来世代/現世代の原則」
 現世代の利益か、それとも将来世代の利益確保か。複眼的理解とバランス感覚が必要。この原則をきちんと議論できると、結果的に、かなり他の原則も議論ができていることが多い。

第6原則:「種/個体の原則」
 生物の種の保存が重要か、それとも個々の生命が重要なのか。複眼的理解とバランス感覚が必要。

第7原則:「シナリオ必須の原則」
 実際に行われていないシナリオを用いて環境負荷を議論しても無意味。いまだに、この原則に抵触する場合も多いようだ。

追加基本原則:「統計的バラツキの原則」
 測定値にはバラツキが大きい。1点だけの測定値で議論はできない。
これは、科学全体の原則だから、番号は付けないで追加とする。

以上、7原則+2基本原則を、当面、「環境ABC原則」と命名する。


C先生:いやいや参った。E秘書が、「そんなに7つも9つも原則が有ったって、誰も覚えられないですよ。一つにすべきです。」 だって。
 そこで、考え直しました。
 以上要するに、それほど自信が有るわけではないが、どうも環境問題においては、「全体と部分を複眼的に見ること」、これが原則の全体的まとめになりそうです。
 第1原則は時間的に、第2原則は環境負荷的に、第3原則は地域的に、第4原則は人体影響的に、第5原則は世代的に、第6原則は生物的に、第7原則はシナリオ的に、全体と部分を良く見て、バランスの良い解を求めなさいということを言いたいみたいです。