その後、阿玲との間柄はそれ以上近しくなることはなく、かと言って疎遠になることもなかった。
彼女の家には度々遊びに行ったし、彼女が私の部屋を訪ねることもあった。また、間もなく私は彼女の自主映画グループに加わって裏方の手伝いをするようになり、
それを結構楽しんでいた。彼女はそんな私を本当に妹のように感じているようで、彼女の友人達も"阿玲の妹分"として私を扱った。
居心地は悪くなかった。好きな人から「妹妹(ムイムイ)」と呼ばれて可愛がられ、私はとろけそうになりながら、
わざとぎこちない小娘のように振舞った。周囲はそんな我々を好ましく見ていた。水のように透明でサラサラの友愛。
それ以上のものを望む資格は、その時の自分には無いように思われた。だが、私の心の底には常に何か沸騰しきれない怒りのようなものが存在した。
それは、今思えば、阿玲を失うのが怖くて正直な感情を伝えられない臆病な自分に向かうべき怒りであった。
だがその時点で私はそれを、「あの晩、愛を告白する機会を私から奪った阿玲に対する」怒りとして転嫁させてしまっていた。
そして不愉快な夏を迎えたばかりのある晩、「ちょっと話すことがあるの」と言って私の部屋を訪れた彼女の目の前で、
それは一気に爆発した。当初、動悸を押し隠し平静を保とうとする私を前に、冷たいお茶を飲みながら彼女が口にした男の名前は、
私もよく知っていた。Peter Wong。彼は、同じ自主映画グループの中では最年少で、比較的新しいメンバーらしかった。
北方民族系の端正な顔立ちをしていたが、いつもどこかボンヤリしており、おとなしく目立たない存在だった。
が、阿玲はそんな彼を褒めちぎった。
「私は、Peterっていい子だと思うよ。おとなしいけど、話してみると博識で面白いし、優しいし・・・
あなたのこと大切にしてくれるだろうと思うの。あなたのこと真剣に好きみたいだし、とにかく、一度デートしてあげてくれない?
私、彼にだったら安心してあなたのこと任せられる・・・」
阿玲の言い方はいつになく強引だった。その口調には「妹妹は私のもの」という驕りと甘えが感じられた。
それが、つい私に自制心を失わせた。
「だったら私の気持はどこへやったらいいんですか?阿玲は、私に好きな人がいるかどうかも確かめないんだね。
まるで私には意思ってものがないみたいに、一方的にあなたが話したいことだけ話して私の答えを求めるの?
あなたが私を妹だと思ってくれるのは嬉しいけど、私はあなたの「物」じゃないんです。
いくらあなたのおメガネにかなう男だからって、勝手に私を売り飛ばさないでよ。
私には好きな人がいます。だからPeterとデートすることはこの先ないだろうと思います。以上。」
私の激しい口調に、阿玲は驚いた表情を隠さなかった。まるで、今まで愛玩の対象でしかなかったペットが突然人間の言葉で飼主に食ってかかるのを目の当たりにしたかのようだった。
事実、彼女に対して私が感情的になったのはこれが最初で最後だった。彼女はしばらく俯いて黙っていたが、やがて顔を上げ、「そう、好きな人がいるのね。
だったらあなたの気持を無視するようなことをしてごめんなさい。でも悪気はなかったの。
Peterには私から断っておくから、これからもグループに顔を出して。それじゃ、またね。」と言い、帰っていった。
私はしばらく呆然と床に転がって壁を見つめていた。阿玲は本当に、私の気持に全く気づいていなかったのだろうか。
ツーショットダイヤルで初めて知り合ったあの日、彼女が電話の向こうで待っていたのは新しい恋人との出逢いではなかったのだろうか。
それともただ寂しまぎれに誰か話し相手を見つけたかっただけなのだろうか。考えれば考えるほどわからなかった。
そう、彼女が私を知らないのと同じくらい、私も彼女を知らなかったのだ。あんなに多くの時間を共有したというのに。
それから後1ヶ月以上、私は独りで過ごした。学校へは真面目に行っていた。バイトもほとんど毎日した。
だが、阿玲達には会わなかった。あの晩以降、どんな顔をして会ったらいいかわからなかったし、
Peterに対しても申し訳ないような、妙な感情があった。
そうこうしているうち、私には男ができた。とある晩夏の午後、兄に送金してもらった数千ドルを銀行で受け取って街へ出た途端、
ひったくり二人組にリュックごとかっさらわれて半狂乱になっていた私に声を掛けてくれたのが彼だった。
男は私を警察に連れて行き、盗難届等書類の記入を手伝い、学校に学生証紛失の届けを出すのに付き合い、
当面の食費を貸してくれた。ギリギリの状況の中で私と男の関係は、急速に発展していった。
だが、そんな中でも私は「あんなことさえなければ、真っ先に阿玲に助けを求めただろうに」と思っていた。
しかし、彼女がこの事を知ったのは、その事件以後の金銭的な事情で私が香港の部屋を引き払う段になってからだった。
私が例の男を伴って彼女の家へ別れの挨拶に出向いた時、彼女は慌てて金銭の援助を申し出ながら、「何故私に相談してくれなかったの。」
と言った。そしてもどかしそうな顔で私を見た後、射るような眼差しを男に向けた。
彼女の母親はその日仕事で家を空けていた。彼女と私と男は、重苦しい空気の中でメイドが運んできた夕食を摂った。
味がよくわからなかった。久し振りに阿玲と囲むテーブルがこんなにも気まずいのは、明らかに私が連れてきた男の所為だった。
しかし私はそのことに目を瞑ろうとした。彼女は二言三言短い言葉を発したが、それらは完璧に男の存在を無視したものだった。
食事の後、彼女が私に「渡したいものがある」と言うので、男をダイニングに残して彼女の部屋に入っていった。
ドアを閉めるや否や、彼女は「あなたの言ってた"好きな人"って、あの男なの?」と尋問した。その口調には剣があった。
曖昧な返事を漂わせるしかない私に対し、彼女は毅然としていた。
「悪いけど、あの男があなたにとって何らかの良い結果をもたらすとは全く思えない。」
「阿玲、それは失礼でしょう。さっき会ったばかりで何がわかるの?」
「ただの私のカンでしかないけど・・・あの男とは深く関わらない方がいいと思う。」
「でもね、今回のことで色々と世話を焼いてくれたのは彼なんです。」
「それはあなたを"落とす"ための手段だったのかもしれないじゃない。」
「そんなこと言ってたら誰も信じられなくなりますよ。」
「ねぇ、必要な物は私から借りなさいよ。あの男からはもう何も借りないで。」
一瞬、阿玲は私と男の間柄に嫉妬しているのだろうか、と思った。だがそれは私の思い過ごしであり、
彼女は男に対して本当に何かしら危機感のようなものを抱いているようだった。
その時ふと、阿玲の言っていることは間違っていないような気がした。
そして、後になってみるとそれは正しかった。阿玲に揺り起こされるまで、
私の防衛本能は盗難事件の後のパニックで一時的に麻痺していたのだ。
(つづく)
1999-10-07
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