【阿玲のこと・W】

香港の冬は、ある日突然やって来る。前日から一転して急に寒くなったその日、 私はジョルダーノで買った安物のセーターでモコモコに着ぶくれて阿玲と会った。 阿玲は、上品な黒い薄手のハーフコートを羽織っていた。

上環の古めかしい街並みをタイムスリップ感覚で味わいながら、我々は自然に手をつないで歩いていた。 阿玲は私に「今夜はウチに泊まっていけるよね?」と尋ねる。私は満面の笑顔で頷く。初めての自宅訪問。

阿玲のことが好きだった。彼女とだったら深い関係になってもいいと思っていた。 それが果たして恋愛感情と呼べるものだったかどうかは未だ以って疑問であるが、 その頃は、二人が会っていない間に彼女にどんなことが起こっているのか、 また彼女がどんなことを考えているのか、私はもっと知りたいと思っていたし、 私が話す学校や街での出来事に彼女が常にとても興味を示してくれることが当時の自分にとって、 非常な喜びであったというのは確かだった。

阿玲と自分との間に深い理解と信頼を築きたい。それによって彼女に満足と安心を与えたい。 同時に自分も満たされ、安心したい。そんな甘っちょろい理想論に魂を支配されながら、 とにかく日が暮れるまでよく歩いた。三駅、四駅は当たり前。

夜食を食べようと大牌档のテーブルに着いた時、膝がガクガク笑っていることに気付いた。 それでも彼女はまだそこから一駅ほど先にある自宅まで歩くつもりなのである。特に疲れた様子もない。 私が知る限り、この土地には健脚家が多いようだ。

そんなわけで、夜半過ぎにやっと彼女の自宅がある高層住宅に辿りついた時はホッとして涙が出そうだった。 呼び鈴を鳴らすと、彼女の母親が出迎えてくれた。小柄で可愛らしい感じのおばさんだった。 阿玲が私を紹介したので慌てて頭を下げて挨拶すると、「まぁそんなことはいいから早くお風呂に入って冷えた身体を暖めて下さい」 と言ってくれた。

阿玲はこの部屋に母親と二人、それに住み込みのフィリピン人メイド一人の合計三人で生活していた。 特別裕福な様子ではないが、そこかしこに何か容易に弛緩を許さぬような凛とした雰囲気が漂っているのは、 誇り高き客家人の家系だからなのだろうか。

順番にお風呂を使っている間、阿玲の母親がダイニングで熱いお茶を用意して待っていてくれた。 我々はテーブルに着いて、カップを片手に人生の語り部と化す母親の表情に何時間も見入った。 若かりし頃の恋愛、そして結婚、文化大革命、大陸からの移住、香港での起業、夫の病死、ビジネスの継続、一人娘である阿玲の成長・・・ 多少の誇張を交えながらも彼女の話術は元々巧みなようで、気がつくとワクワクしてすっかり聞き入っていた。 横では阿玲も「何度聞いてもママの話は面白い」と言う。そこには確実に「家庭の匂い」があった。

阿玲は母親に愛され、慈しまれ、守られている。母親は阿玲に尊敬され、感謝され、労わられている。 存在の肯定。あるがままの感情の受容。 それでも、両者の間には一定の距離がある。何気なく談笑する彼女等を見ながら、そこに互いの人生を離れた位置から見守る優しさのようなものを感じた。 私はそれらの光景を意識的に脳裏に焼き付けようとした。いつか人間に絶望した時、取り出して眺めるために。

どれぐらいそうしていただろうか。寝巻き姿のメイドが「まだ起きてたんですか。もうじき夜が明けますよ。」 と言いながらダイニングに入ってきた。そこで慌てて我々もそれぞれ部屋に戻ることにした。 だが、私も阿玲もベッドを半分ずつシェアしながら、母親の話の名残で気分が高揚してなかなか寝つけなかった。

掛布団の下で、阿玲の手を探り当てた。彼女は素直に握り返してくれた。だが、何がおかしいのか、 こちらを見てクスクス笑い出した。と同時に私は彼女に「可愛い」と言われ、抱きしめられてしまった。 嗚呼、何という至近距離。彼女の心臓の音が直に伝わってくる。私もドキドキしながら顔を上げ、 「キスしてもいいですか」と尋ねようとした。だが、まさにその時、絶妙なタイミングで発せられた彼女の言葉はこうだった。

「嬉しいなぁ。私、ずーっと妹が欲しかったから」

妹・・・妹。ガーーン。今までの阿玲の私に対する好意は、妹の代わりとしての認識によってのみ裏付けられていたのか。 私は言葉を呑み込みながら、「良いお友達でいましょう」と言われた男子のような気持になっていた。 そんな状況下に在っては、同じベッドの中に横たえた体温と彼女の髪の匂いに、混乱せざるをえなかった。

そこで、もし今「私は一体あなたにとって何なんですか!」と、あるがままの疑問をぶつけたら彼女はどんな顔をするだろうか、 と一瞬だけ考えてみた。だが、それはしなかった。否、できなかった。結果を直視させられるのが怖かったから。

間もなく、彼女の寝息が聞こえてきた。物理的に、唇を奪うことが可能となった。 何度もそうしようかと思った。どうせ彼女は気付かないだろう。だが、結局虚しい気がしてやめた。 その時点で自己満足は私にとって何の意味も持たなかった。

その代わり、彼女の無防備な寝顔を何時間も見つめ続けた。外がすっかり明るくなった頃、 「私は何ですか」と数回呟いてみた。それは今思えば、迷える自分自身に対する問い掛けでもあったのである。 (つづく)

1999-09-21


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