【阿玲のこと・U】

電話でやりとりするようになってから1ヶ月半ぐらい後の某日、我々は会う約束をした。

待ち合わせ場所として彼女が指定したのは、尖東の日航酒店のラウンジだった。約束時間の5分前に到着した時、 彼女はまだ来ていなかった。小心者の私は、オーダーを取りにきたウェイターにホットミルクを注文した。 緊張を落ちつけ、呼吸を整えるために。

周りでは、小奇麗な格好をした若い女性達が心持はしゃいだ声で囀っていた。一見しただけで日本人観光客だとわかる。 何故、旅行中の身でそんなに着飾る余裕があるのだろうか。あれでは「スリの皆さん、 私達はお金たくさん持ってまーす」と言わんばかりだよなぁ、なんて少々意地悪く考えたりする。 同じ日本人でも現地在住者の中には、小奇麗な格好で出歩く人は少ないのだが。

待ち合わせ時間を20分ほど経過して私が不安になりはじめた頃、その女性・・・阿玲(アリン)は到着した。「すみません、あなたが尹小姐ですか?」と声を掛けられ、「はい」 と返事しながら見上げると、彼女は前日の電話で約束したエビ茶のワンピースを着て立っており、 眼鏡ごしに真っ直ぐの視線で私を捉えていた。

私は立ち上がり、「はじめまして。お会いできて嬉しいです。よろしく。」と覚えたての酷い広東語で挨拶した。 が、彼女はそんな通り一遍の挨拶には頓着せず、いきなり具体的な話に入った。「色々考えましたが、今日はお互い初めてですし、 綺麗でお洒落な所がいいかと思って蘭桂坊(ランカイフォン)のお店を予約しました。 今から行きましょう。地下鉄がいいですか?それともスターフェリーで?」

結局、まだ明るかったので地下鉄で行くことにした。車中、軽い会話の合間に私は阿玲をこっそり観察した。 彼女は、香港人にしては身長はあまり高くない。私より少し大きいくらい。だが手足がスラリと細長く、 顔が小さいのでバランスが取れている。実際の年齢より幼く見えるのは、肉厚の頬とおかっぱ頭の仕業だ。

分厚い眼鏡が彼女の艶を影の薄いものにしていたが、その代わりそれは口を開いた時、 美しい声を余分に印象づける要素となって活躍した。また、彼女の英語は中華圏独特の訛りがあるものの流暢であり、 話し方にも時々ほんのちょっとした気遣いを見せ、育ちの良さを感じさせるのだった。

目的地の店内は彼女の予告通り綺麗でお洒落な造りになっており、また、適度な賑やかさが食事も話もしやすい雰囲気を醸していた。 そこで我々は出逢って初めての「飲杯(ヤムプイ)」をし、軽い食事を摂りながらお互いの印象について話しはじめた。

私が彼女から受けた印象は、電話でも実際に会ってからでも変わらず好意的なものだったので、それらを率直に語った。 彼女は私について、「電話の声から想像していた通りの人」だと言った。「ちょっと用心深げというか、 あまり容易に他人に自分をさらけ出さない感じがしましたよ。もっとも、だからこそ興味をそそられたわけであって、 もしその逆のタイプの人だったら、会いたいとは思わなかったでしょうね。」

しばらくその調子で話し、店内が満員になった頃、我々は店を変えた。今度は街外れの、もっと静かな気取らない場所だった。 可愛らしい給仕の小姐に、阿玲が飲み物とサラダを注文した。

「尹小姐、さっきはあまり食べてなかったでしょう。ここのサラダはドレッシングが美味しいし、 カロリーも他に比べて抑え目なんですよ。もしよかったら一緒にいただきましょうね。」

どうやらダイエットをしていると思われたらしい。実は、その日の私は緊張がなかなかとれず、 その為に食が進まなかっただけなのだが。まぁいいや、と思っていると、阿玲は話題を他に移した。

「ところで、いつまでも"尹小姐"って呼ぶのは他人行儀ですね。下の名前は何ていうの?」
「R美っていいます。」
「そう、じゃぁ"阿美"(アメイ)かな。いや、顔立ちが北方系だから"亞美"(ヤーメイ)の方がいいか。」
「あ、なんかそういう決まりごとみたいなものがあるんですか?」
「別にそういうわけじゃないんだけど何となくね。うん、決めた。"亞美"にしましょう。いい?」
「は、はぁ・・。」

そんなこんなで本人もよくわからないまま、次の瞬間から阿玲はまるで子供の時からの知己であるかのように、 私を「亞美」と呼んだ。その間、お互いの間に置かれたボウル山盛りのサラダをフォークでつつき合う。 不思議と、嫌な感じはしなかった。

「ねぇ亞美、ここの店はサラダも美味しいけど、ほら見て。給仕の小姐たちがみんな可愛いでしょう。」
「本当ですね。まるで申し合わせたように。人事担当者の好みが窺い知れるようです。」
「その人が男か女かはわからないけど、少なからず美少女コレクターね。」
「お蔭で私達もその恩恵にあずかれるというわけで、良いんじゃないでしょうか。」
「亞美もそう思う?うん、多分気に入ってくれるんじゃないかしらと思ってた。」

阿玲は無防備にキャラキャラと声を出して笑った。二人で共有できる感覚を探り当ててホッとしたという感じだった。 彼女のそんな様子を見ながら私は「阿玲っていい人なんだなぁ」と漠然と考えていた。 後々、この出逢いがお互いにとってどのような意味を持つものになるかについては、全く知る由もなく。(つづく)

1999-07-22


(C) 尹HM. 版権所有・不准転載.