水が合わない、という言い回しが、日本語にはある。
例えば、ある人が新しい土地で新しい生活を始めたとしよう。すると、どうもこの部屋は使いづらい、
近所の人が必要以上によそよそしい、近くのスーパーには自分の生活に不可欠であったXX社製のプリンが置いてない、
通勤に使うXX鉄道は明らかに以前の土地と比べて客層のガラが悪い、他にも色々、なーんかここの生活にはストレスを感じるなぁ
・・・といったことに気付くことがある。一言で言えば、生活しづらい。
このような状態が長く続いた場合、「どうもここの水は自分には合わないようだ」なんて言ってみたりする。
私にとっては今住んでいるこの土地がそうだ。水が合わない、というより、その水がダイオキシンで汚染されているというのだから危険極まりない。
日本の中では今まで住んだ街で(自分にとって)一番生活しづらいと思う。交通の便とか、表面的なことだけを見れば便利な街かもしれないが、
何か、住んでいる人間が一様にギスギスしているのだ。私にはこれが一番耐えられない。
過去、物理的に「水が合わない」ということは何度かあった。旅行で行ったベトナムやミャンマーでは水のおかげで幻覚を見るほどのひどい下痢をしたし、
タイランドでは、道で若い女性が剥いてくれた果物を食べただけで10分後には吐いていた。天竺へ行きたしと思えども未だ躊躇してやまないのは、
この辺に理由があったりする。
実際に住んだことのある旧ソや香港では、下痢はしなかったものの水道水は飲用に適さないので、家でシャワーを浴びる時ですらいつも飲みこまないようにビクビクしていた。
ことに一人暮らしをしていた香港では週末になると最寄の百佳超級市場(パーク・スーパーマーケット)でミネラルウォーターのまとめ買いをせねばならず、
もやしっ子の私にとってはこれが意外とキツイ肉体労働であった。
それでも、心情的に「水が合わない」と感じた記憶は不思議とないのである。
基本的に、自分が今まで居たことのある(または行ったことのある)日本以外の国は、生水は飲めないが人と人とが接触する時においては精神的にバリアフリーに近い状態であることが多い。
香港の都会などではバリアバリバリな人も居るには居たが、決して大多数ではなかった。
親しくなった者同士が、相手の領域に踏み込み過ぎたり踏み込まれすぎたりすることが
(過剰になりさえしなければ)、人間関係に特に水をさされることはないという在り方。
知り合いになれば相手のことに興味を持つのは当たり前のことで、自分が知りたいことは何でもズケズケと遠慮無く聞く。
答えたくなければ「そんなこと聞かないでよっ」と言えばいい。相手は当然ムッとするが、数分後にはケロっとしているので心配は不要。
他人への干渉を嫌う日本の人々は嫌がりそうだが、行く先々で誰が余計なことを言ったの言わないのでケンカになったり、世話好きなおじちゃんおばちゃん連中にあれこれとおせっかいを焼かれて過ごす毎日は、
私にとってはなかなか心地良いものだった。
というわけで、最近「あっちの水」を焦がれている。まだ、どこかはわからない、自分が最終的に落ち着く場所のことである。
「シドニーはよかったよ」と相棒が言い、「シンガポールもいいなぁ」と私は言う。もしかしたらそうやって一生、
どこかを求めて移動を続けるかもしれない。それもいいかな、と思う。とにかく一番イヤなのは、イヤだと言いつつここで死ぬことだ。
と、そう言い切る私を「水」もしたたるイイ女である・・・とは、誰も言わないが。
1999-06-02
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