【お宝おじさん危機一髪】

大学時代、私は一時期通学に西武池袋線を使っていたのだが、当時その沿線には「お宝おじさん」が出没するという噂があった。 人づてに聞いた話によればそのおじさんの年の頃は40代後半くらい、中肉中背、髪は七三に分け、眼鏡をかけ、いつも暗い色のスーツを着て茶色い肩掛けカバンを携帯している、ということだった。 正に日本の中高年サラリーマンのステレオタイプそのものである。で、その「お宝おじさん」が一体何をするのかというと、電車の中で美しい女性を見つけてはその前に立ちはだかり、己の“お宝”を惜しげもなく披露するのだという。 その際、「お宝べろーん!」という決めセリフ(?)を発するというのでその名前がついたらしい。 当時の友人の中には実際彼の“お宝”を拝まされてしまったという女の子もいたし、私の弟も予備校の帰りに一度見たことがある、と言っていた。

さらに、噂によれば「お宝おじさん」は結構女性を見る目があるそうで 本当に美しい女性にしか“お宝披露”をしないのだそうだ。 だから、「あたし、お宝おじさんに拝まされちゃったー。」と言う女性は明らかに自分の美貌を自慢しているということになる。(か?) ウザい男兄弟に囲まれて育ち、いい加減男にはウンザリしていた自分は、今更そんな余所のおじさんのモノなんて見たかねーよ、という心境だったが、話の種に一度どんなヤツか会ってみたいものだ、とは思っていた。

そんな私の希望はわりとすぐに叶えられた。大学のサークルの飲み会でいつもより帰りが遅くなったある日、23時ちょっと過ぎ 池袋発の電車に乗った私は、車両の一番端っこの席で仮眠をとろうとしていた。すると後ろの車両から「・・べろーん・・」という低い男性の声が聞こえてくるではないか。 まさかと思い、身を乗り出してそちらを見ると、たしかにそれらしき中年男性がズボンを下げて立っている。その前に座っているロングヘアーの女性は顔を横に背けている。 やめろ、などと止めに入る者は誰もいない。さらにしばらくするとお宝おじさんはズボンを上げ、こちらの車両に乗り移って来るではないか。 だが、「わっ、来た!」と思い、一瞬身をすくませたのは私の思い上がりであった。おじさんは私と目があったものの、まるで何も見ていないような顔で酒臭い息を振りまきながら素通りしていった、のだが・・。

その顔に、私は見覚えがあったのである。驚くべきことだった。「お宝おじさん」とは、毎朝私と同じ時間に同じ駅から、同じ電車の同じ車両の同じドアから乗る中年男性のことだったのだ。 私は以前ラッシュの車中で貧血を起こして倒れ、彼に一度席を譲ってもらったことがあり、「ああ有り難や」ということで覚えていたのだった。 「朝は普通のおじさんなのに・・・」と絶句していたところ、車両の前の方で中年の婦人らしき勇敢な怒号が聞こえた。 よく見えなかったが、どうやらおじさんの破廉恥行為に腹を立てたご婦人が、おじさんの手首をひねりあげているらしかった。

「ほら、見せたいんでしょ?!見せなさいよ、みーんなに見せてごらんなさいよっ!!」

婦人の怒号が車内に響く。そして次の駅に着くと、お宝おじさんは無理矢理電車から引きずりだされた。 ドアが閉まる瞬間、外から「あああーーっ!カバンーー!!」という悲痛な声がした。電車の中にカバンを残したままだったらしい。 だが、電車は無情にも発車してしまった。

時々、お酒が入ると人格が反転してしまう人がいるようだが、本人にはその時、そんな意識はないのだろう。 そのような人が自分の反転した人格を知ってしまった時、一体どのような驚愕に打ちのめされることか、酒を飲まぬ私に想像することは難しい。 引きずり出された駅のホームで夜風に吹かれながら、お宝おじさんはハッと我に返ったりしたのだろうか、それは知る由もないが、それ以来「お宝おじさん」の噂を次第に聞かなくなってしまった。 もしかするとあの日の彼を見ていた乗客は、彼の歴史の節目に立ち会ってしまったのかもしれない。

1997-09-01


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