【なんとなく桃色草子・1】
「・・・奥さん!」
「・・・郵便屋さん!」(抱)
といったシチュエーションが実際に存在するのかどうか、最近知り合った郵便業界の人達にのべつまくなくリサーチしているのだが、「そんなの有り得ないでしょう」というのが、今のところほぼ全員一致の見解のようである。
しかし、これが運送業界全般が対象となると、また事情は違ってくるらしい。実は、うちのバンドの加藤さんが以前、S川急便のセールスドライバーをしていた頃、配達先の「奥さん」に誘われるまま断れずに家に上がり込んだ経験が一度だけあるという話を小耳に挟んだので、今日はその時のことについて書かせてもらおうと思う。
ある暑い夏の日、加藤さんはいつものように例の横縞のユニフォームに身をつつみ、トラックを走らせ、配達業に勤しんでいた。そんな中、立ち寄った一軒の邸。荷物を抱え、玄関のインターホンを鳴らし、「S川急便で〜す!お荷物の配達に参りました!」と爽やかに(←本人談)呼びかけた。すると玄関が開き、そこに立っていたのはスケスケのキャミソール姿の女性。目のやり場に困った加藤さんは、気を取り直して「こちらに印鑑お願いします!」と、あくまでも爽やかに(←本人談)配達票を差し出した。すると女性は印鑑を押しながら加藤さんの手をむんずと掴んで玄関の中に引き入れた。
カチャ、と音がして玄関のドアが閉まる。女性は加藤さんの手を掴んだまま、「お兄さんキレイな顔してるわね。」と妖しい笑みを浮かべながら少ししゃがれた感じの声で囁いた。それまでに経験したことのない状況に困惑した加藤さんは、「自分、まだ配達が残ってますので!」と爽やかに(←本人談)言い放ち、女性の手を半ば強引に振り払った。すると、女性の表情は俄に悲しそうに曇り、眦には大粒の涙。「お兄さん、ちょっとだけ上がって行って。暑いから冷たいものでも飲んで行きなさいよ。ね。ちょっとだけだから・・・。」
さあどうする加藤さん。私なら泣かれても喚かれても断る状況だが、加藤さんはそこまで冷徹にはなれなかった。「じゃあ、お言葉に甘えて本当にちょっとだけ・・・。」
数分後、エアコンの効いた涼しいリビングに通された加藤さんは、女性に見守られながら冷たいグレープジュースを飲んでいた。「歳は幾つ?」「結婚してるの?」といったいかにもな質問をのらりくらりと交わしながら、配達の残りが気になって仕方ない加藤さん。「自分、本当に急いでますので。ごちそうさまでした!」と立ち上がろうとした時、女性が突然ガバチョと抱きついてきた。
「お願い!ギューって抱いて!去年ダンナが死んだの!私ひとりなの!毎日さびしいの!」女性はこれでも女性かというほど強い力で加藤さんを押さえつけた。「ひー。助けてー。」と心の中で叫ぶ加藤さんの目に、仏壇の中で微笑む男性の遺影が飛び込んできた。と、ふとした隙をついて女性の手を逃れ、玄関へと猛ダッシュする加藤さんの背後から、「どうして逃げちゃうの?私って魅力ない?私ってお婆さん?」という声が追ってきた。その声に答える余裕もなく、加藤さんはそそくさと靴を履き、トラックに乗り込み、エンジンをかけ、邸を立ち去った。
女性からの誘惑を振り切って業務に戻ったのは仕事人としての使命感から?という質問に、加藤さんは「使命感というより・・・いくら物好きな俺だってオフクロより年上の女は抱けないよ・・・」と片方の眉毛を上げて笑いながら、煙草の火を消したのであった。
2006-09-06
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