【用務員は二度クラクションを鳴らす】

仕事帰りの道すがら、後ろからクラクションを鳴らされたので振り向くと、彼がいた。「よぉ、新婚の奥さん、デートしようぜぇ。」そう言って、時任三郎に似た彼は軽トラックのドアを開け、「乗れよ」とでも言うように顎を動かして合図した。私はもう「新婚の奥さん」ではないのだが、「あ、嬉しいなー。ラッキー♪」と言って彼の運転する車に乗り込んだ。

「今日はどこ行こうかー。いつものコースはもう飽きたなぁ。そろそろいけない所にでも連れ込んじゃったりしてー?」
「いいよ。天気もいいし、気分もいいし、アガタさん(仮名)はハンサムだし、連れてってくれるならどこにでも行っちゃうよ。」
「お、嬉しいこと言ってくれるねぇ。こうなったらホントに連れ込んじまうぞ。」

彼は、大通りを避けて住宅街の抜け道へとハンドルを切った。カーラジオは其の時、男女のいけない関係について唄っていた。私はサイドシートの上で、彼の無骨な感じの指や、Tシャツの捲り上げた袖からのぞくがっしりとした上腕などを横目で観察していた。そして、その腕に抱かれ慣れているであろう彼の妻や子供たちのことを思った。

抜け道を出た所は、予想に反して混んでいた。不意に彼が訊いた。「旦那さんとは相変わらずラブラブかい。」私は答えた。「うん、毎日ベタベタくっついてるよー。」それを境に、彼は急に無口になった。気まずい雰囲気に耐え難くなった私が「アガタさん(仮名)、どしたの?」と尋ねると、彼は溜め息まじりにこう洩らした。「うちはチビどものことでケンカばっかりだ。なんでこうなっちゃったのかねぇ。」

カーラジオは相変わらず男女のいけない関係について唄っていた。「図書館司書、妻子ある男と夕暮れの逃避行」「いっしょに文学しない?・・・誘ったのは私から」・・・女性週刊誌の見出しのようなフレーズが脳裏に浮かんでは消えていった。私はわざと、その場とは全く関係の無い広東ポップスを唄って気を紛らわせた。

やがて車は混雑を抜け、目的地に到着した。其処は私がいつも利用する最寄の駅だった。「じゃあ、また来週な。気をつけて帰れよ、新婚の奥さん。」と彼は言い、手を振った。私は軽トラックから飛び降りることに最近ようやく慣れた。「お疲れさまー。アリガトねー、アガタさん(仮名)。」私も手を振った。走り出した軽トラックは、ププッと二度、軽くクラクションを鳴らして去った。ちなみにその軽トラックは、その日、市役所から借りてきたものであった。

彼は、市役所から軽トラックを借りてきた日は大概こんな風にして駅まで送ってくれる(←市役所の方々ごめんなさい)。そんな時、「よぉ、新婚の奥さん、デートしようぜぇ。」というのが彼のお決まりのセリフだ。きっと、「尹さん、送ってやるよ」というのが押し付けがましくて恥ずかしいのだと思う。だとしたら、見掛けによらず奥ゆかしい人なんである。


2003-10-03


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