【独り】

結婚して以来、人間が丸くなりましたねと或る人から言われた。其の理由として、其の人は、私が好きな人と毎日一緒に暮らせて、あれやこれや様々なものを二人で分かち合い、シアワセの味を識り、精神的に安定して心のギスギスがとれたからでしょうね、というような分析をしてみせた。ありがちな見方だなぁとは思い乍ら、私は否定も肯定もせず黙って笑ってやり過ごした。

確かに私は丸くなった。従来と違って少々のことで腹を立てることはなくなったし、気に入らない層との摩擦や衝突も激減した。だが、それは、残念ながら上述のように結婚によってシアワセの味を識ったからとかいうことではないと思う。結婚によって私が識ったのは、もっと別のことだった。それは、端的に言えば、人は、誰と一緒に居ても孤独で寂しいのだなぁという、何処かの擦り傷に湯がしみるような実感であった。

恒常的に孤独であることは傍目に見て惨めなことだというのが、この国の一般的な認識であるようだ。ちなみに隣の中国には「孤独な奴は恥を知れ」なんていう歌まであったりしてドキドキしてしまう。実は私も以前、そうした認識に囚われ、かなり長期に渡ってもがき苦しんだ経験がある。次々と相手を変えて恋愛の真似事を繰り返してもみた。そしてそれらは結果的に、絶望感とか無力感といったものをますます深めていった。

しかし数年前、現在夫となっている男と一緒に暮らし始めて間もなくの頃、或る日を境にぼんやりとわかってきた。所詮、一人でいようが二人でいようが私は独りだし相手も独りなのだ。(決して不貞腐れて言っているのではなく、実に自然にそう思った。)此処にある感情も肉体も、誰かと分かち合える種類のものではないし、分かち合う必要もない。一生自分一人で抱えて生きていくものなのではないか。それでももし二人で一緒にできることがあるとすれば、人間は元々どうしようもなく孤独なものだと認識した上で互いの寂寥をいたわり合っていくことぐらいじゃなかろうか。

結婚が私に教えてくれたのは、そうした意味で、「己の寂寥には己で責任を持つ」ということだったのかもしれない。人間が二人もしくは二人以上で生きていく上で、それができないと、その関係は歪むか、破綻する。子供の頃、両親や兄弟達を通じてイヤというほど見せつけられてきたはずの事実ではないか。世間一般に言うところの「シアワセの味」なんて、おそらくは幻想に過ぎない。友達も恋人も、自分の寂寥を鎮めてくれる道具ではないし、私もまた、彼等の寂寥をどうしてやることもできない。

話が回りくどくなったが、つまり、私は結婚を通じて「孤独でなくなる」という幻想から逃れることができ、孤独なまま生きていけばいいのだとわかり、心底楽になったのである。その結果、精神的にも安定し、無いものを求めてギスギスする必要がなくなったのだと思う。願わくば心のみならず身体の方ももう少し丸くなりたいところだが・・・。

ちなみに、上述の認識には「けだるい諦念」という妙に大人びたオマケまでついてくる。


2002-01-22


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