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「群れ」という単位が持つ目に見えない力が、日本ほど強大な国も地球上では珍しいだろう。ひとりの人間として日本で生きていくことは即ち、在るがままの「我」をできるだけ内側に抑え、環境ごとに自分が属すべき群れやルールを見つけ、其処に自分を同化させながら暮らすことだと言っても、おそらく過言ではない。
この国で「孤独を好む」「ひとりでいる」ということは傍目には「孤立している」ということであり、たとえそれをその人が意思によって選択したのだとしても周囲は、「あの人は群れに属せない」「社会性に欠ける」「変わり者」といった憶測を下す。だから人は自分が好む・好まざるに限らず、いずれかの群れに繋がっておくことで安心を得ようと、常に顔は平然としながら水面下では結構マジで足掻いていたりする(ように私には見える)。>
さらに、群れからはみ出ないように自分を保っておくこととは、その群れの色を自分の色だと錯覚しながら生きることに等しい。自分が本来持っていた色がどんなに綺麗な虹色であっても、属する群れの色が紫色なら、溜め息が出るほど見事なスペクトルの上をわざわざ紫一色に塗り潰すことに時間とエネルギーを注がなければならない。
もし、この国にそれとは逆のこと(虹色を覆っていた紫色を洗い流すこと)が突如ブームとして起こり、「きょうび、群れに同化しなきゃ社会で生きていけないなんてダサい」ということにでもなってくれたら、結果として政治的にも文化的にももっと柔軟で味わい深い社会が期待できそうな気がするし、私のように群れで行動する習性を持たない人間にとっても少しは呼吸のし易い世の中になるのではなかろうかと時々考える。
初めて日本の地を踏んだ時も、故国でしばらく過ごしたあと日本に戻った時も、私は毎回のように内的な不適応を起こして混乱する。たったいま私が改めて感じている閉塞感も、「群れ」の圧力によるものが大きい。特に私達のような姿・形が日本人によく似た民族は、普段から無言裡に同化を強いられることが多いため、余計にそれを強く感じるのだろう。だが、抗おうとしても無駄だということは経験からよく識っている。此処で生きていくためには目下、多少の譲歩を示さないわけにはいかないのである。
それに比べて故国の教育は素晴らしかったなどとは決して思わないが、協調性の大切さや集団尊上主義みたいなものを子供の頃に必要以上に刷り込まれなかったことについては幸いだったと思っている。加えて、初等学校で触れた「孤独を恐れるな」という内容の教材には今も深く肯けるものがある。「優れた芸術はすべてが深い孤独から生まれる。だから孤独と真剣に向き合えない人間に芸術を語る資格はない。」のだそうだ。今思えば、私の孤独観はこの教材によって培われたのかもしれない。
私も夫も日頃から、飼主のいない、特定の群れを持たない「野良人間」を目指して生きているのだが、それらしい暮らしが本格的に実現するのは一体いつになることだろう。
2001-04-24
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