【煩悩二人旅U】

前夜のアルコールが抜けきらない、ぼんやりした頭で布団から這い出し、まだ眠っている彼を起こさぬようカーテンを少しだけ開ける。 稲佐山から見下ろす早朝の港は、ゆうべの電飾銀河が幻であったかのように寂しく沈みこんで見える。空には、銀灰の雲。 少しだけ興ざめして窓から離れた私は、着ていた浴衣をその場に脱ぎ捨ててバスルームへ飛び込む。身体を目覚めさすには、熱いシャワーが一番だ。 と、その時、背後に人影を感じて振り返ると、いつの間に起き出してきた彼がやはり脱衣の状態で立っている。

「どしてん、そんなとこに黙って突っ立って。」
「どぎゃんもこぎゃんもなかったい。・・・新世紀の初モノお届けに上がったとよ。」

赤面する間もなく、次の瞬間、私達は温かな湯の満ちたバスタブの中に沈んだ。 私は朦朧をたゆたう頭で前日の飛行機の中で聞いた彼の詳細な秘め初め計画を思い出しながら、しとどに濡れた。

・・・というのは嘘で、目覚めると既に午前10時を軽く回っていた。夫は横で凄まじい寝癖アタマのまま、ボンヤリとTVを眺めている。 ともあれ、今年も無事元旦の朝を迎えた。おはよう、長崎。そしてさよなら、時間切れのため食べ損ねた数々のバイキング朝食たちよ。 それでもポケットには小銭、リュックにはカステラ。身支度を整え、「これさえあれば何回乗ってもOKさ!」の路面電車一日乗車券(500円)を手に入れたら、いざ坂道の街へ。

長崎駅の新しい駅ビル、名前は「アミュ」。山波を背に堂々と立ち塞がり、視界を遮ったその建物が一瞬、私の中で香港オーシャンターミナル横の巨大ショッピングセンターとダブる。 だが、それを振り切り、市電乗り場へと歩を進めた。その路線は夫にとってかつての通学沿線、やはり慣れたものである。 私は今回ただ彼の後をついて行きさえすればいい。安心して「にわかじげもん」気分に浸れそうだと思った。

それにしても、なんだかのんびりした街だ。これだけ都市化が進んでいて、人も多いのに、すれ違う人々の顔に険がないのだ。 触れただけで何かが突き刺さってくるような、張りつめた空気も感じない。同じ日本の街でも、東京とは何かが違うらしい。 ハリが首尾良くツボに入ってくれた時みたいな感覚を味う。僧坊筋の硬直が、少しずつ解れていく。 もしかしたら東京人は僧坊筋が凝っているから皆あんなにカリカリしているのではないか、と一瞬思ったが、 それでは長崎の人は肩凝り知らずなのかといえば、決してそんなことはないだろうから、違うか。

路面電車に乗って、トロトロと街を行く。私はこの、路面電車ってやつが大好きで、大学時代の下宿もわざわざ都電荒川線で通える場所を選んだくらいだ。 妙な所でいきなり停車して「後続の電車が●●メートル近づくまで進めませんので此方で停車いたします」なんてアナウンスがあったりすると、 今や何でも「時刻表どおり」がすっかり常識と化したこの国のあらゆるシステムに、運転手が挑戦状を掲げているみたいでワクワクする。

夫の口から「懐かしかぁ〜」という呟きが漏れた。やはりどんな理由がある人間にも、故郷は優しいらしい。 私は、彼が好き好んでこの地を離れたわけではないことを知っている。 今回訪れてみて、彼が東京でも無意識のうちにこの地のペースを持ち込んで生活していたことに気付いた。 初めて訪れた私にとっても何故か懐かしい感じがするのは、多分、普段から私が彼を通して触れている空気と同じものがここに在るからだろう。

その時、彼と初めて出会った時のことを思い出した。18歳の春、自分のバンドでベースを弾いてくれる人を探していた私に、 学友・Sが紹介してくれたのが彼だった。膝の抜けたジーンズとつんつるてんのジャケットを着ているのがいかにも貧乏学生っぽかったが、 不思議と貧相な感じはしなかった。口数も少ないが、悪い印象ではない。私が出身地を訪ねると、彼はこのように答えた。

「長崎。いい所ですよ。ぜひ一度遊びに来てくださいな。」

それが、本当に来てしまった。あの彼と一緒にだ。まさか、こんなハメになるなんて・・・。いや、別に後悔しているわけではない。 運命のイタズラを楽しんでいるのだ。つい数年前まで、ただのバンド仲間でしかなかった相手と、 手をつないで今自分がここにこうしていることの謎。自分が誰かと結婚して家庭を持つなんて、正直言えば婚姻届に署名する瞬間まで、想像することができなかった。 (実は、家庭を持っているという自覚は今もない。)さらに正直を言えば、この結婚がこんなに長く続くとは(と言ってもまだ2年だが)思わなんだ。

ところで肝心の観光の方だが、この日は大浦天主堂界隈の、いわゆる観光スポットが目白押しなエリアや平和祈念公園の他、彼が通った中学・高校や行きつけだった食堂、本屋、スポーツ用品店など、 無理矢理せがんで連れて行ってもらった。それらについては彼のプライベートな事情もあるのでここには書かず、記憶だけに留めておこうと思うが、まぁ実によく歩いた。 おかげで宿に帰ってみたら、歩いている時は楽しくて感じなかったのに、腿も脹脛もパンパンに張っており、膝はけたたましく笑い、 腹筋も腰も力が入らなくなっていた。従って当然、秘め初めは延期となった。

坂道の街では足腰が命。もいちど鍛えて、出直します。

2001-01-19


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