女は、とかく絡みついた。私の奥底を根こそぎ探り回り、常に私が変わらぬことを望んだ。
仕事から帰り、自分の部屋の玄関を開ける度、私は女の存在感に圧倒された。
女が来てから、その部屋で私は何もすることがなかった。身の回りの悉くを女が先回りして処理したからだ。
しかし、いつかその代価が一遍に自分の肩に圧し掛かってくることになるのではないかという考えにしばしば捕らわれ、私には気の休まる閑がなかった。
だが、それでも私は女を欲した。女の肉の温か味は、唯一私の明かりであった。
歯をたてるたび快い弾力が、鎧の下に在る得体の知れない怯えを麻痺させ、刹那の悦びが、其処に在るほんとうを見極めんとする私の野暮な両眼を覆った。
屍のように横たわる私の上を女が這い摺るさまを、乖離した自分が天井から見下ろしていた。
その視線の冷たさに、ハッと覚醒させられるたび真っ赤な抑鬱が、私を闇に放った。
女の私に対する働きかけを、愛情などと呼んではいけなかった。それは、自己愛に端を発した依存心が、他者への犠牲心へ形を変えたものに過ぎなかった。
女は私に絡みつき、尽くすことで己の生に対する自責の念を慰安しているように思えた。
私を見つめているはずの視線は、一旦私の中に入り込んだあと、再び彼女自身へと戻っていった。
そんな時、私は取り残されたような気持になり、女に縋りつきたくなり、そんな自分の心の動きに戸惑った。
そのため、自分を保つために私は女に嘘ばかりつき、また自分にも嘘をついた。
ある日、女が手首を切った。昼休みが終わり、午後の仕事を始めたばかりの私に同僚が取り次いでくれた電話の向こうで、平静を欠いた女の声が甲高く捲し立てていた。
女は、あなたのせいだと言った。遺棄されることに過敏な感受性が、私の変化を察知していた。
その時の私は我ながら驚くほど冷静で、賢明だった。救急車を呼ぶ必要がないことを確認すると、とりあえず電話越しに気の済むまで毒を吐かせ、そのあと子供を扱うような薄ら優しい言葉で女を宥め、
私が帰宅するまでもうカッターは握らないことを約束させた。
帰宅後、女の傷口を見てみると、死ぬつもりで切ったわけではないことがわかった。
太い血管は意図的に避けられており、そんなに深い傷ではなかった。だがそれは、女の内側の傷の深さと必ずしも比例するものではない。
私は出来る限り優しく女を毛布にくるみ、言葉を捜した。女は、私から何らかの指示を与えられたがっていた。
それは以前からわかっていたが、そういう形で他者から寄り掛かられることが、私は死ぬほど嫌いであった。
考えあぐねた末、とにかくしばらくの間は食事をきちんと摂り、よく眠り、精神を安定させることだと言い聞かせた。
同時に、女が求めているのはそんな通り一遍の言葉などではないはずだと、感じてもいた。
それは的中し、その日を境に、女は手首切りが習慣となった。私の不在の間、残された女は部屋で独り、自身を傷つけた。そうして、女の内なる錯乱は私の個の時間をも蝕みはじめた。
それらは、決して私のせいなどではなかった。かといって、女のせいでもなかった。彼女自身、誰のせいだかわからかなったはずだ。
だからこそ、あんなに苦しんだのではないか。私は、どんなに振り回されてもその女を嫌いになることができなかった。
時折女の錯乱の中に、私は自分自身や、自分の兄弟たちの片鱗に酷似したものを見た。つまり私は、その女と関わることで過去の自分の惨めさを、或いは過去から現在へと続いている無力感を拭おうとしていたに過ぎない。
そのことをはっきりと自覚したのは、それから間もなくのことだった。
感傷に流されるまいと思った。私は、女の実家に手紙を書き、事情を説明した。
女を刺激しないよう、返事は職場に電話でくれるようにと書き添え、投函した。
私も心身共に限界であったし、もともと私一人でどうにかできる問題ではなかった。
数日後、女の母親が終業時間を見計らって職場に訪ねてきた。夕飯を一緒にした。
そしてその席で、女の、それはもう悲惨としか言いようのない生育歴を聞かされることとなった。
別れの日、女は涙も見せず、比較的落ちついていた。どちらかと言うと取り乱しそうなのは私の方だった。
女は、女の母親と私との計らいで、実家に近い病院に入院して精神的な治療を始めることになっていた。
私は、このような結末を選んだことを、内心は後ろめたく思いながらも、この女を長いあいだ苦しめた遺棄されることへの不安から開放してやるためにはこれしか方法がないのだと自分に言い聞かせた。女にとって、私は愚鈍で無力な存在だった。
もう、誰かに絡みつかなくても、生きていける。私の知らない何処かで、女がそういう実感を自分で獲得できる日がいつか来ることを信じるしかなかった。
母親と妹に付き添われ、女は去った。女を乗せた電車が、木枯とは正反対の方向へ流れて消えた。
季節は冬に向かっていた。だが私にはもう何もなかった。心に大きな空洞ができているだけだった。
頭蓋がそれを嘲笑うように軋み、右耳の奥でキーンと音がした。今日は何処にも行かず、家で温かいお風呂に入ろうと思った。
次の日からまた何事もなかったかのように、薄紙を一枚ずつ重ねる如く新たな日常を積まねばなるまい。
こみ上げる涙を抑えるために、「リスカしちゃダメよ♪」と鼻歌しながら、帰途についた。
2000-12-23
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