その年の3月、文通友達のニニを訪ねて初めてマレーシアのクアラルンプールを訪れた時のことだ。
空港の到着ホールで「ミス・ユン?」と私に声を掛けてきたのは、
ニニと一緒に出迎えてくれた彼女の父親であったが、その青年のように羞恥を含んだ笑顔が、
異国に降り立ったばかりでまだ何の準備もできていない私の劣情にいきなり噛みついたのである。
おかげで私は初対面の二人を前にノボせたような挨拶を曝すはめになり、同時に、遠い昔、肉欲に耽り、自我の境界を破壊し合うことでしか互いの愛情を計れず、
ボロボロになって別れたかつての恋人に何十年ぶりかで再会した老婆のような気持になった。だがそんなことには露ほども気付かぬ「南国の山内賢」
は、私達の先に立って颯爽と自家用車に乗りこんだ。
繁華街を外れた山沿いのニニの家には、3日間泊めていただく予定でお邪魔した。
ニニ父母やニニ祖母は、時間の許す限り何かと面倒をみてくれ、突然異国から訪れた怪しげな客を少しも訝ることはなかった。
ニニと妹のワワは、2日目には早速街を案内してくれた。彼女等は人懐っこくて、ずっと前からの友達と一緒にいるような錯覚を何度も私に起こさせた。
そのせいか、クアラルンプールという街が何となく日本の宮崎や鹿児島で見た大通りの風景と重なったりするのだった。
そして、その日の晩のこと。ニニ父が、市場で生のパイナップルを買ってきた。
食事の後に特製ジュースを作るのだという。その晩のおかずが中華風の辛い魚料理だったので、
舌をクールダウンするにはうってつけだと思った。食事が済むとニニ母が、パイナップルを切った。
甲羅のような皮から果肉を削ぎ落とすたび、もったいないくらい果汁が溢れ出た。
ニニ父がミキサーに氷と果肉とスパイスのような葉っぱを数枚詰め込み、スイッチを入れた。
やがて薄黄色の半透明のジュースが、大きなタンブラーに各々注がれると、喉が渇いていた私は、まるで水でも飲むように一気にそれを空にした。
すると、しばらくして奇妙な感じがした。鎖骨の下あたりがジンジンと熱くなり、なんだか関節に力がこもらない。
そこへ妙に投げやりな気持も上から被さってくる。しかし、酒を混ぜたわけではないのを作る時に見ているので、
これはきっと隠し味的に使ったスパイス類の効果なのだろうと勝手に解釈した。そんな折、「真的好吃!」と親指を立てて見つめる先には、
初対面の時と同じ清涼感あふれるニニ父の笑顔。ああ、来てよかった。あなたが「南国の山内賢」なら、私は「北国の和泉雅子」よ。
などと50代・60代の日本人&一部のマニアにしかわからないような妄想に浮かれていると、後ろめたいほど脈が速くなるのを感じた。
その時、多分私は顔色が変っていたのだろう。気付くと一家をあげて「大丈夫・・?」と私の様子を心配げにのぞきこんでいた。
私はガクンガクンと乱暴にうなずいてみせたが、天井を見上げるとそこにはあらゆる煩悩がだらしなく溶け合い、マーブル模様を描いていた。
ニニ祖母が、「慣れない場所で体が疲れて、臓器のリズムが狂ったんでしょう」と言い、遠慮せずそのままカウチに横になるよう促した。
言われるままそこに体を投げ出すと、ニニとワワは、近くにあった雑誌で私をパタパタと扇いでくれた。
それにしてもどうしてみんなは平気なのだろう。・・何だかとても心細くなり、嫌な予感がした。そして記憶は一旦途切れる。
次に気がついた時、私はそれまで経験したこともないような猛烈な便意に襲われていた。
「ト、トトトトト、トイレに行かせて下さいっ!」と、何故か突然どもりキャラに転じながら、
すったばったと様々な障害物に体をぶつけた挙げ句トイレへ飛び込む当時20歳の私は、それでもやはり恋する乙女であった。
いかにも粘液まじりな排便の音をニニ父に聞かれてはなるまいと、便器に座るなりひたすら孤独な拍手を繰り返した。
その後、一晩中「カウチ→トイレ→拍手&排便→カウチ」のルーティンワークを律儀に遂行した私は、
さながら真夜中の神社でお百度を踏む与次郎のおカミさんのようでもあったが、やがて出るものもなくなると、
今度はすかさず発熱して動けなくなった。ニニとワワは泣きそうな顔で無言になり、
ニニ母は蒸留水を沸かしたものを何度も私に飲ませてくれた。ニニ父を見ると「南国の山内賢」の表情は今や、「友情と恋愛の二者択一を迫られ煩悶する山内賢」の様相を呈しており、
「ごめんね。私が悪いんだ。私がパイナップルなど買ってこなければ」と自分を責めながら蒼ざめているだけだった。
翌日、這うようにして辿りついた病院で下された診断は「細菌性の大腸炎」であった。
医師は、「多分、飲み物に使った氷に当たったのでしょう。それと、ハーブか何かにアレルギー反応を起こしたのかもしれません。」
というような意味のことを言っていた。念のため点滴を打ったが、「安全な水分をたくさんとって、大小便ジャンジャン出しなさい」
とのタイヘン原始的なアドバイスをいただくと、茶緑色の粉薬とともにその日は帰された。
後で知ったことだが、日本は世界有数の無菌大国であり、普段から殺菌された食物ばかり摂取しているので、
外国人でも長いこと日本に住んでいると雑菌に対する免疫力が弱くなるのだとか。
そんなわけで、結局ニニの家には7日間も滞在し、すっかり迷惑をかけてしまった。
幸い下痢も発熱もそれ以上ひどくはならず、数日で引いたが、同時にニニ父への一方的な想いもきれいさっぱり引いてしまった。
あのトキメキは一体何だったのだろうという謎と共に、あとは夥しい疲れだけが残り、当初はペナンやマラッカの方へも行ってみる予定だったのだが、
もうそんな気力も体力も失せていた。私はなにも一般家庭のトイレを占拠するために、わざわざマレーくんだりまで行ったわけではないのに。非常に悔しい。
ちなみに、ニニとの文通は、それから6年ぐらいして彼女の結婚・出産を機に途絶えたが、
今でも「マレーシア」と聞くと、あの時の便意が甦ってきてどうにも落ちつかない気分になる。
2000-10-11
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