【汝、ワンゲルを愛す】

山が好きである。夏山だろうと冬山だろうと、もし、こちらが少しでも気の緩みやいい加減な態度を見せようものなら、 遠慮なくお命頂戴するぞとでも言いたげな鋭い眼差しのような冷気、あの凛と張りつめた、 仙人然とした厳しさのようなものに何故か惹かれてしまうのだ。

などと書いてはみたものの、その本人は一年中、老朽化したゴムひものようにボヨヨン然とした明け暮れを営んでおり、 およそ厳しさなどというものとは無縁の人間であるはずなのだが、気がつくと山に足が向いている。 つまり、山派か海派か?と聞かれれば迷わず山派である。

もちろん、海が嫌いというわけではない。だが、私はどうもあの、夏の海の夕刻になるとどこからともなく現れて怪しい目つきで浜をデモる、 例の兄ちゃん達が苦手なのである。「とりあえず若くて穴が開いてりゃ誰でもいいっす」 と、奴等の顔には書いてある。一番関わりたくない人種だ。が、目を合わせないようにさり気なく避けて通ったつもりでも、 ふと気づくと心霊写真の如く見覚えのない手が我が肩に!ということもある。一度目をつけられると、とにかくしつこいのだ。 「んネーんネー逃げなくたっていいジャーン」と粘着質なルフランが、いつまでも張りついてくる。

その点、山は安心である。チャラチャラした兄ちゃんは、何故か山にはやって来ない。 従って自ずと、化粧の濃いクネクネした姉ちゃんもやって来ない。そう言えば、 「海でナンパされちゃって」という話はよく聞くが、「山でナンパされちゃって」 というのは聞いたことがない。特に冬は。

確かに、考えてみたら冬山でのナンパは危険極まりない。一夜の快楽のためにそこまで命を張れる人間などそうそう居まい。 もし仮にいたとしても、テントの中で事の最中に雪崩にのまれ、雪解けの季節に屈曲位のまま発見されたりなどしたら、 あの世へ行ってからもご先祖さまに会わせる顔がない。

ところで、山は緊張を、海は解放を人の心にもたらすというが、以前、友人がこんなことを言っていた。 「人間は、海に向かっては失望の言葉を叫ぶが、山に登ると希望の言葉を叫ぶ。」と。

確かにその通りかもしれない。実際に海に向かって叫ぶ人を目にしたことはほとんどないが、 ドラマや映画だと、「青春のバカヤロー」とか「もう二度と恋なんてしない」とか 「あんなヤツ大嫌いよ」とか「ああ爺さんや早く私を迎えに来ておくれ」とか、思わずこちらのテンションまで ロウに持っていかれそうなものが多い。おそらく、「人類の母」と象徴されるところの海には、 弱さや憎しみといった人間の負の部分をさらけ出させる、優しい懐のような何かがあるのだろう。

では、山はどうか。山の頂では通常、人は夥しい疲れの最中にも「ここまで登ってきた!」という喜びで鼻息ムフムフである。 負の感情が沸き起こることは、よほどの事情がない限りあり得ないだろう。第一、こんな所で 「誰の子供かわからないのよーっ!」とか「死ぬまでつきまとってやるーっ!」とかエコーされても、 周りの者は一体どういう顔をしていいものやら、困ってしまう。やはりここでは、「ついにここまで来たぞー!」 「ワンゲル万歳!」「ヤッホー!」ぐらいにまとめておくのが、シンプルで望ましい。

と言うより本来、言葉など要らないのかもしれない。きつい傾斜を「もう下りようか」と何度も思いながら、 見知らぬ人に「あと一キロだって。頑張ろうね。」と声をかけられ、結局頂上まで登りきった時の、 あの希望に満ち満ちた瞬間の気持は筆舌に尽くし難い。ため息だけが口に上り、声もない。 無理矢理言葉を発しようとすれば、嘘が混じるだろう。眼下には、リアルな雲海が広がっている。 それを見ているうちに、自分という人間もなかなか捨てたものではないのではという、 妙に寛大な気持になってくる。この気持を忘れないで生きていこうと、胸を熱くしたりもする。

ある年の夏、富士の頂上で私の隣に立った人もやはり私と同じく、そんな気持ちになったらしい。 彼女の場合は、それを敢えて凱歌として下界に放った。曰く、

「これからも死ぬまで生きてやるぅぅぅぅぅーっ!!」

当たり前である。言いたいことはよくわかるのだが、周りの人々の顔には何故か一様に縦線が入っていた。 眩過ぎるほどの希望の直中に在る人の言葉は、時に、意味不明である。 だが、私もまた意味不明な熱情に背中を押され、あの気分に浸りたい。 今年の夏は、山へ行こうと思う。

2000-05-07


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