【蒼と銀輪の頃】

その自転車で最後に遠出をしたのは、社会人になって初めての年末であった。 休暇を利用して房総半島南端の館山まで走り、海辺で初陽の出を見る計画を立てていたのだ。 最初は一人で行くつもりだったが、当時付き合っていた彼女の希望で二人旅をすることとなった。 実に嬉しい予感がした。私は出発何週間も前から、水平線を輝かせながら昇ってくる朝日や、 それを見る彼女の嬉しそうな表情などを勝手に想像しながら、旅への想いを膨らませた。

出発の日は風が強かったが、天気は上々であった。私も彼女も約束の時間前に待ち合わせ場所に現れた。 その日の予定コースは市街地が多く、起伏が少ない道なので比較的楽だった。都内から14号で船橋へ入り、 ファミレスで夕食を食べた後、宿を特に決めていなかった我々は行き当たりのラブホに一泊した。 隣に彼女が寝ていて妖しい気持になったが、翌日のことを考えてその晩はシャワーだけ浴びてさっさと眠った。

二日目の朝。起きて窓を開けると外は薄曇り。だが前日までの風も止み、走りやすそうだと思った。 ただ、彼女の様子が何となくおかしい。話しかけてもごく短い返事しか返ってこない。 寝起きが悪い人ではなかったはずなのに、もしや疲れがとれなかったのだろうかと心配になったが、 とりあえず身支度を整え、フロントの後ろめたい小窓で精算を済ませ、出発した。

この日は船橋を出た後、八幡宿から297号に入り、房総半島中央部を縫うように走った。 後半から山道が多くなり、体力的にはかなりきついコースだ。最初はヘラヘラしていた気分もどこへやら、 私はいつしかまったく無言になっていた。昼過ぎから彼女の機嫌が本格的に悪くなりだしたのも気になる。 途中、小まめに休憩をとり、荷物を軽くしてあげたり、飲み物を分けてあげたりしたが、変化はない。 そして何度目かの休憩の時、彼女はとうとう「戻りたい」と言い出したのである。

「何で。せっかくここまできたのに。明日の午後はもう館山やで。」
「うん・・でも何か急に興味なくなっちゃったし。」
「朝から様子がおかしーなぁ思てたんよ。何でもっと早く言わへんのん。」
「ごめん。ほんと言うとさ・・昨日から色々考えちゃってね。」
「何を。」
「私達の関係のこと。この旅が象徴してる気がしてさ。尹ちゃんは何をするにも一人で決めて、 一人でどんどん実行しちゃうでしょ。私はいつも、ついていくだけ。これからもずっとこうなのかと思ったら、いやんなっちゃった。」

意味深な指摘を残して、彼女は本当に戻って行ってしまった。私はくねった坂道の手前でぽつねんと取り残された。 後を追うべきかどうかしばらく迷ったが、結局は予定通り一人で目的地へ向かうことに決めた。 ペダルをこぎながら、心の中で彼女を責めた。ついて来るだけが嫌なら、最初から自分でしたいこと見つけたらええやんか。 人の計画に途中から便乗しといて、自分の思い通りにならんからってヘソ曲げよって。きーっ。頭くるっ。

私はぶりぶり怒りながらヘアピンカーブの山道を一心に登った。同じ道を走る車が何台か、 私の横へ来るとクラクションを鳴らしてから通り過ぎた。わざわざ窓を開けて「お姉さん頑張って!」 と言ってくれる人もあったが、この時ばかりは却って腹が立った。一応会釈は返したものの、顔は憮然としていたに違いない。

三日目、大晦日の夕刻、予定通り館山に到着。安宿の部屋に荷物を下ろし、紅白歌合戦が始まるまで仮眠をとろうと横になったが、 疲れ過ぎてなかなか眠りの入口に辿り着けない。もう怒りは感じておらず、その代わりジクジクと湿っぽい感傷がドップラー効果を伴って去来した。 泣いたらスッキリするだろうかと思ったが、必要な体力が残っていない気がしたのでやめた。 彼女はもう私に愛想を尽かしたかもしれない、私は彼女を失うかもしれない、と思いながら、 そうなっても仕方ない理由が自分の中に何となく思い当たった。実を言えば、前日の彼女の言葉は痛かったのだ。

それからいつの間にぐっすり眠りこんでしまったらしく、目覚ましの音で目を覚ました時はもうとっくに年が明け、 午前4時だった。日の出は6時45分頃の予定。私は慌てて体を起こし、ポットのお湯でカップ麺を作って腹ごしらえをし、 外出の準備をした。

この後、海沿いの路上で見た朝日を、私は一生忘れない。真冬のささくれ立った海原を宥めるように光が拡がると、 そこはもう一面が活きのいいオレンジマーマレードであった。十数人の観光客が、車の中から、 浜の焚き火の向こうから、それぞれ歓声を上げた。

想像以上に大きな太陽だった。それは確かに、私という存在の内側にどこまでもギラギラと射し込んでくる強烈な直光だった。 それまでTVや映画でしか見たことのなかったその光景を意識的に脳裏に焼き付けながら、 私は今この場所に、自転車に乗って自分の足でこいでやってきたのだなぁと思うと、言葉に尽くせぬ感慨が込み上げた。 過ぎて行く一瞬一瞬が例えようもなく愛しいもののように感じられ、 やはりここには一人で来るべきだったのだと確信した。越冬隊ばりの防寒着にブーツ・帽子・手袋の重装備で白い息を吐きながら、 私は太陽が昇りきった後もその場を名残惜しんでなかなか離れられなかった。

いったい、あんなに心揺さぶられる瞬間が、生きているうちにあと何回あるだろうか。 あの時乗っていた自転車は、五段階ギア付きの、いかしたヤツだった。 高校時代、どうしても欲しくなって、バイト代を貯めて買ったものだ。その後も数年に渡り、 私はその自転車をいたく愛重し、日々の通勤や買物にも使っていた。だが、悔しいことに、先日何者かに盗まれた。 慌てて警察に盗難届を出したが、担当の警官は「まぁ一応探してみますけど見つからないと思いますよぉ。」 と、日本の警察組織の体質を言語化してみせただけであった。たかが一庶民の安物自転車、 ハナから探す気などないのはわかっている。かくして私の手元に残るのは、 胸の詰まるような思い出と悲しみだけとなった。間もなく新しい自転車がやって来ることになるだろう。

2000-03-21


返回目録】  (C) 尹HM. 版権所有・不准転載.