やめ(山女)塚
26.片笑窪(4/22)

圭子と一緒に巡った場所を とにかく手当たり次第、朦朧としながら、彷徨った。
イワナの渓、共同浴場、そして最後は、何時もの渓へと、戻るように。
流れに降り立つと、何もかもが懐かしいくらいに感じる、あそこであんな話を
ここで大きく笑ったな、鮮やかに蘇った。
ここに居ると安らぐ、何かに包まれるようだ、本当にこの渓は。

そして暫く行くと、圭子が、佇んで居た。

頬に唇に紅を引き、これまでに無く美しく艶やかな。
私は駆け寄り近寄り、言葉が出なかった。
圭子は、あの何時もの片笑窪を作り、何時も通り、微笑んだ。
「おかえりなさい、誠二さん」
私は圭子を抱きしめ、思いの全てを 思いつく限りの言葉と、感情をぶつけた。
「どうしたんだ、何処にいたんだ、圭子。
探したんだ、散々探したんだ、やっと迎えに来たのに、何処に行っていたんだ。
本当に遅くなって申し訳ない、許してくれ、怒らないでくれ、圭子」
圭子は、特に変わった様子も無く、
「遅くなった事を 怒ってなんかいません。
私は、そんな誠二さんを待つと、お約束しましたから。
思った事を最後まで貫く、一途なあなただからこそ、何かと時間がかかったのでしょう。
それでこそ、私が心に決めた、私の大切な人、誠二さんです。
私はそんなあなたが、好きなんです、それは今でも変わりません。
でも、今年は寒くなるのが早すぎました、予想以上に。
実は誠二さんの気配を感じ、先程沢から、一旦戻って来たのです」
私には、圭子の言っている事が、良く理解できなかった。
「沢からって、戻るって・・・」
圭子は、急に表情を曇らせ
「もう既に、私の相手が決まりました。
争いを勝ち抜いた、勝ち残った、相手です。
でも、これは恋愛感情とかでなく、人間で言う結婚とも、多少異なります。
あくまで、遠い過去から脈々と続いた、私たちの子孫繁栄法です」
私は更に混乱し、叫ぶように言った
「な、何だって、相手が決まっただと、他に好きな人が出来たのか。
どう言う事だい、圭子、俺が遅すぎたのか。
それと、人間で言うって、何よ、解んないよ」
圭子は再び、普通の表情に戻り
「だから、恋愛とかではなく、本能です。
それと・・・誠二さんが遅かった、多少はありますが、何より季節のせいです。
沢へ向かう、産卵に向かう、私たちのこれも本能です、水温と日照を感じ取り」
な、何を言っている、圭子、ただ呆然と、そんな彼女を見つめるのみ。
「誠二さん、本当にありがとうございました、楽しかったです。
フライフィッシングを教えていただき、感謝しています。
あなたが、私に、フライフィッシングを 始めさせてくれたのですから。
そのお陰で、誠二さんと、一緒に楽しく過ごせたのですもの」
何を言っているんだ圭子、冗談は止めてくれ。

「け、圭子、俺には何が何だか解らない、
大体何時、俺がおまえに、フライを始めさせたんだ。
確か去年あるきっかけで、フライフィッシングに興味を と言っていただろう。
俺は、去年圭子とは出会ってないぞ、今年初めてだった筈だ、この渓で」
「誠二さんと去年、お会いしていますよ。
そしてその後、あなたがロッドを振る姿を ずーっと眺めていたのです」
「えっ、何処で何時」
「ほら、去年の今頃、ここにお出でになったでしょ、その時ヤマメを 釣りませんでしたか」
そう言えば・・・去年の今頃、思い出したように、ここに来て、釣りをした。
他の川が、平日にもかかわらず、混雑していたこともあり。
そして、確かに、それはそれは美しいヤマメを釣った、婚姻色も麗しい、今までに無い。
「誠二さんは、私を優しくリリースした後、
またゆっくりとロッドを振りながら、回りの景色を眺め、優雅に去っていかれましたね」
「け、圭子をリリース、何処で、ええっ、何なのそれは」
「ほらそこですよ、そこの弛みに、私を放してくれたじゃないですか。
私は、フライマンなんか初めて見たし、その優しさと、優雅さに、驚いたくらい。
毎年この頃、仲間は沢山抜かれてしまっていて、寂しかったですから。
それが当たり前の釣り人と、思っていました、それまでは。
だから絶対に御礼を言いに、感謝を伝えなければ、と、その時心に決めました。
そこの弛みから、去ってゆく誠二さんを、何時までも見ていて」
私は圭子の指差す方を 振り返り、見渡した。
そうだ、ここだ、ここで釣ったんだ、あのヤマメを
そして、そうだ、そこの弛みに、ヤマメをリリースしたんだ。
そのヤマメは、なんとも不思議なことに、私を見守るように、そこを離れなかった。
普通、リリースしたヤマメは、急いで物陰へと、逃げ隠れるのに。
あの時の美しいヤマメは、何かを言いたげに、ただ、そこに佇んでいた。
私が去った後も、何時までも、何時までも、そこに居たように感じた。
「圭子、まさか君は、あの時のヤマメだと・・・」
再び、圭子の方を振り向いたが、そこには誰もいなかった。
私は辺りを見回し、狂ったように、叫び続ける
「圭子、何処に行ったんだ、圭子、君は誰なんだ」

暫く、力の限り叫び、走り回り、圭子を探した。

[誠二さん、私は何処にも行っていませんよ、ここに居ますよ]
ふと、何処からか、圭子の声が聞こえたような、気がした。
足元を 例の弛みを見ると、1匹のヤマメが佇んでいる。
去年のあの時と、全く同じだ、婚姻色は去年より、一段と強く鮮やかな。
そしてひざまずき、ヤマメを見つめ、愕然とする。
唇の横に、私が去年傷つけた、フックの跡、
「圭子、これが、このフックの跡が、おまえの片笑窪なのか。
お願いだ、答えてくれ」

私の震える声に、そのヤマメは、頷くように、ゆらりと、頭を振った。

こんな事が有っていいものか、21世紀のこの世に。
確かに、これまで数多くの不思議、神秘的でさえあった圭子、
おまえがヤマメだと言うのなら、ここに居るヤマメだと言うのなら、全てに辻褄が合う。
やめやもやめ塚も、お圭と圭子も、全て接点がある。
しかし、それを信じろと・・・到底出来ない、圭子がヤマメ、冗談じゃない。
先程のお圭の話と、目の前の出来事・・・そうだ、
俺は信じられぬような事を聞き、ただ夢を見ているのだ。
こんな馬鹿な話は、誰がどう考えても、有り得る訳が無い。

そしてもう一度、ヤマメを 見て、全身から血液が失せ、冷水を頭から浴びた。

胸鰭の、左胸鰭の辺り下に、鈍く輝く金属片。
俺が圭子を 迎えに来ると誓った、あの日、小滝が鳴り響く渓で、
眠気を押し作った、プルタブの指輪じゃないか。
こんな物を まだ持っていたのか、いや、こんな物を何時までも、大切に持ちつづけるのは、
ころころと光り輝き笑う、健気で慎ましやかな、圭子、圭子しか居ない。
圭子に、間違いない、このヤマメが。

私は、全身の震えが止まらず、ただ、両手をそのヤマメに差し向け、
そして拳を握り、堪えた。

何でおまえはおまえなんだ、何時までもそんな指輪を持って、待ちつづけたのか。
こんな日が来ることを知っていて、そしてそれの想像以上に早き到来を感じながら、
恐れ怯えつつも。
俺の事ばかり気にかけ、自分は、圭子は良かったのか、こんな結末でも。
何故だ、どうしてそんなにも健気なんだ、一言言ってくれれば・・・
そう言えば盛んに、季節を気にしだして・・・だけど、解らなかったよ、解る訳も無かった。
俺がもう少し、気を使えば、圭子の健気さを一番知っている、この俺が。
やっぱり俺は馬鹿だ、最後の最後まで大馬鹿野朗だ。
もう少し普通になれないのか、この大馬鹿加藤。
私は土下座するように、地面に頭を擦りつけ、そして額で何度もそこを叩いた。
湧き上がる、込み上がる、熱くたぎるものを 必死で堪えながら。
まだ忘れていない、おまえを迎えるまで、誓った筈だ堪えると。
俺は、しがらみを全てを捨て、おまえ同様真澄で戻ってきた、迎えに来たんだ圭子を。
微塵の迷い無く、おまえを迎えられる、俺になって。
まだ、それは叶っていない、迎え入れるまで、あの時の誓いは守る。

何時しか、弛みのそこに圭子が映った。

教えて欲しい事が、聞きたい事が、嫌と言うほどある。
俺への数々、心嵩なる食事や土産は、何より、俺への思いは、
おまえをリリースした事への、御礼や感謝だったのか。
単に、感謝を伝えたくて現れ、一緒に過ごし、契ったのか。
違うだろ、そんな事は無いだろ、例えきっかけはそうであろうと。
おまえの、あくまで俺に対する、圭子の本心だろ。
おまえも俺を 愛してくれていたんだろ、なぁお願いだ、圭子、答えてくれ。

もう一度、そのヤマメは、頷くように、頭を揺るがせた。

圭子はこのままなのか、もう一度あの姿に、戻ることは無いのか。
どうしたら元の圭子に、戻れる、戻せる、何をどうしたら出来るんだ。
そして、俺はどうしたら良いんだ、待ち続ければ良いのか、おまえを。
お願いだ圭子、おまえに、あの意味も無いほど、明るく笑う圭子に、戻ってくれ。

私は、何度も繰り返し、問い掛け、懇願した。

大きな瞳を輝かせ、しかしヤマメは何も答えなかった。

どれくらい、そうしていただろう、ここは全てが止まっているのに、地は回っていた。
辺りは夕闇に包まれ、だが相変わらず、ヤマメは静かに佇むのみ。
まるで何時も、俺を見送る圭子の様・・・
あっ、あれもか、何時も何時までも佇み、俺を静かに見送った圭子。
去年このヤマメを リリースした時も、何時までも、何時までも、そこに居たように感じた。
これもあれも全く同じ感じだ、圭子はヤマメは佇み、俺はただ去るのみだった。
だから、俺に何時もと変わりなく、ここを去れと言うのか、何時までも見送るから。
なあ、圭子、これくらいは答えてくれ、このまま、ここを去らなくてはならないのか、俺は。
お願いだ、答えてくれ、圭子。

ヤマメは、再び、大きく、揺らいだ。

ここは人間の為の場所じゃない、我々はただ、謙虚に遊ばせて貰うだけだ。
自然に参加させていただき、感謝し慈しみ、そして分をわきまえなくてはならない。

私は立ち上がり、渓の子が棲む、渓を後にした。
何時も喜びと感動を与えてくれ、教え、諭す、渓を

         -完-

25.悲恋やめ塚(4/14)

水曜の朝、何時もの渓の、何時もの場所で、目覚めた。
もう既に奥会津は、晩秋の気配が漂う、9月の下旬だというのに。

所が、幾ら待っても圭子は現れない。
携帯の電波が通じる本村に向かい、メモリーを呼び出し、発信
「お客様のおかけになった電話番号は、電源が・・・」
空しくそう繰り返すのを 立ちすくみ、聞いた。
[そうだ、やめや]
やめやの事を思い出す
[村役場”裏”入り口だったな]
何時かそうしたのと同様、村役場の駐車場に車を停め、歩いて裏へ回る。
そこには、本流に面した壁が立ちはだかり、一箇所だけ古く錆付いた鉄の扉、
鎖でがんじがらめにされ、大きな錠前で硬く閉ざされ、が有った。
格子越しに眺めると、本流へ下りる急な階段が、崩れかけ佇んでいる。
[何だよ、裏にもやめやは無いぞ、河原にでも有ると言うのか]
私は、どうしたら良いのかも解らず、錯乱し困惑し、
だが、やめやの電話番号を聞けなかった、自分に気付いた。
恐かった、聞くのが、本当はやめやなんて無いのかも、だけど現実に圭子は居る。
圭子が嘘をつく、それは有り得ない、じゃあ、何がどうなっているんだ。
携帯なら繋がらない理由が、何とでも思い浮かぶ、しかし・・・
心の奥何処かで、そんな不安を常に抱き、それを掻き消すように、考えない様に努めていた。
そんな自分に、気付いた。
もしかすると圭子も、そんな俺を感じ、何も言わなかったのかも知れない。
いや、解らない、しかし電話をかけてくるのが、彼女の役目のようだった、いつしか。
圭子に逢いたい、ここまで仕事を追い、全てにけじめをつけたのは、
自分の為であるのは勿論、何より彼女と俺らしく暮らすため、圭子を幸せにしたいため、だ。
解ってくれていた筈だ、感じてくれていた、圭子は。
だから全てを 俺の全てを 待つと言ってくれたんだ。
この前の約束より、3週間程遅くなったが、今ここに、堂々と強く迎えられる、俺が居る。
何処に居るんだ、何故現れないんだ、本流の流れをきつく見つめ、祈るように思った。

今微かにある手がかりは、やめや、それを頼るには・・・考える、探す、方法を

とりあえず役場裏の扉、これも何かのきっかけになるかも、以前”表”から探した時、
やめ塚を発見したのを思い出し、村役場内を訪ねる。
受付窓口で職員に、ワラをも掴む気持ちで、言葉を投げかけた。
「あのー、裏にある古い扉、何故閉じられているのですか。
せっかく階段まであるのに、長い事使われていないようですが」
直ぐ近くに居た年配の職員は、困ったような顔で、私を見つめ
「えーと、観光の方ですよね、私にはチョッと・・・」
それを聞いていた、奥の若い職員が
「あー、古い事でしたら、観光課の橘さんに聞くと解りますよ」
慌てた、年配の職員が
「これこれ、余計なことをあんたは・・・」
若い職員が窘められるのを 横目で見ながら観光課へと向かった。
観光課には、3人の職員、のんびりと事務処理をしている、が居た。
「すみません、橘さんはいらっしゃいますか」
奥のほうで、老眼鏡を鼻に落とし、上目遣いでジロリと私を見る初老の職員
「何か用ですか」
「実は、裏の扉が硬く閉ざされている、訳をお伺いしたいのですが」
橘さんは更に私を睨みつけ、怪訝な表情で、私の前まで来た。
「何で知りたいの、あんたは観光の人ですか、それとも何かの取材かね」
「はい、単に何度もこの村へ、釣りに来ている者です。
取材とか、マスコミ関係でも、何でも有りません」
”釣り”に、ピクリと反応した橘さん
「釣り人か・・・なら殆ど同じ事だ、話すことは有りません」
そう言うと、自分の席に戻りかける
「待ってください、やめ塚の件なら知っています、やめやを探しているのです」
橘さんは、くるりと振り向き、驚いたように
「やめやまで、あんたやめやを知っているんですか、誰から聞いたんだ」
「ええ、実は、ある人が家業を手伝っていると、それがやめやだと」
橘さんは更に驚き、
「此処で立ち話もなんだ、他の部屋に行こうか」
そう言うと、別室に私を招き、椅子に座るよう促した。
何故あんなに驚いたのだろう、やめやが、なのか。
何か有るのだろうか、口を閉ざし、首を捻りながら、
なかなか話し出さない、橘さんを見て思った。

重い口をようやく開き、橘さんは
「所であんたの名前、教えてもらえないですか」
「加藤と申します、加藤誠二と」
「えっ、誠二・・・どんな字ですか、ああ、その字ね、でも・・・
まあいいか、加藤さんね、さてまず、何から話そうか」
橘さんは、何故か私の名に引っ掛かり、しかしポツリポツリ、
思い出し順序を組み立て、話し始める。
今から30年ほど前、村が観光促進のため、渓流釣りもアピールし始めた。
温泉とヤマメの里、謳い文句にし、村を上げて。
所が観光協会から、ある要望が出された。
本村界隈の本流は、深く刻まれた峡谷状を流れるため、容易に入渓できないのだ。
この辺りに立ち並ぶ民宿の温泉客が、気軽に釣りでもしようと思っても、
こんな近くを流れる川へ、簡単に降りられない。
それと、辺りの土産物屋や飲食店も、入漁券を扱う以上、
出来るだけ近くに釣り場が欲しい。
もっと言えば釣り客に、買い物や飲み食いで、お金を落として貰いたい、なのだ。
それで、村役場の駐車場を開放し、裏の壁に扉を 
そしてそこから川に降りる、階段を設けた。
「最初は、全てが上手く行ってるように、思えたんだ」
橘さんは、やや顔を曇らせ続けた。
週末になると温泉客が、釣り客が、沢山押し寄せ、辺りの民宿や商店は、繁盛した。
漁協も全面的に協力し、この辺り中心に、毎週の様に、養殖ヤマメ放流を繰り返す。
数が減っては、放流、釣り人が持ち帰っては、追加放流と。
釣れれば噂が広まり、釣り人が増え、
更にヤマメは、まるで物のように、撒かれ、釣られ・・・
所が間も無く、無視出来ない、事故が相次いだ。
釣り人が川から引き上げる際、階段で足を滑らしたり、
つまづいたり、小さな怪我が頻発する。
特に沢山のヤマメを 魚篭いっぱいにした人ほど、顕著だったらしい。
村としては、滑り止めを設けたり、手すりを増設したり、対策を講じたが、
一向に事故は減らなかった。
ついにある時、階段から転げ落ちる、重傷者が出てしまう。
幸い命にまでは別状無かったが、老人たちは静かに、しかし重く警告を発した。
[やっめっこを玩具にした、崇りだ、村の宝を粗末にした]
当然馬鹿馬鹿しいと、観光協会は反発したが、
死亡者でも出て、変な噂が広まる方を恐れた。
しかし表向きは、階段が急すぎて危険と、裏の扉を硬く閉ざす。
「そう、あの頃以来です、例のやめ塚が、見てみぬ振りされだしたのは。
由来が由来でしょ、それも役場の直ぐ近くに有るし」
「これ以上、釣り客が減っては困る、と、ですね」
「ああ、その通りです」
「だけど橘さん、事故とやめっこ、やめ塚、本当はどうなんでしょう」
「うーん、全く関係ない、とは言い切れない・・・加藤さんはどう思いますか」
「この現代に於いて、有り得ない事・・・決め付けてしまうのは、如何なものかと。
それだけの事例を 突きつけられると」
「そうでしょ」
「ええ・・・」

何故か突然、ヤマメの、圭子の、叫び声が聞こえた。

「所で加藤さん、あんた何で、やめやを知っているんですか。
やめ塚と深い関係がある・・・実は裏の扉が閉ざされた背景には、
村人の心の奥にある、昔からの言い伝えも、見逃せない後押しになっていたのです。
やめ塚が立つ空き地に、昔あった蕎麦屋、やめやの件も」
私は言葉が出なかった、昔ってどう言うことだ、
あそこにあったやめやって・・・現在は何処にも無いのか。
くらくらと目眩を感じ、返事の言葉が出てこない、やっと、やっと喉の奥から絞り出し
「昔って、昔あった蕎麦屋って」
「あれ、知らなかったのかい、やめやは、江戸時代末期に、あそこで繁盛していたんですよ。
そして、やめやの主人寛三と、その娘の一件で、あの石のやめ塚が立てられたんです。
やめ塚本来の由来は、現在横に立っている看板通り、江戸初期で間違いないけどね」
江戸時代末期だと・・・寛三と娘・・・何だ、何が何なんだ。
私は焦り、戸惑いながらも何かを感じ、恐る恐る聞いた
「その娘の名って、圭子じゃないですか」
橘さんは、また驚き
「あんた、何か知ってるのかい、圭子じゃあないけど、お圭って言うんだ、その娘は」
私は、背に走る、幾筋もの汗を感じ、青ざめた
「お圭ですか・・・もう少し話を 詳しい話を聞かせてくださいませんか」
私の尋常でない様を感じ、橘さんは、質問を止め話を続けた。
「これは、この事は、観光化促進と共に、封じ込められつつある話です。
やめ塚ですら、何度も撤去、若しくは移動の危機に、瀕しましたから。
私の立場を理解して、お願いだから他言しないと、誓ってくださいね」
私は身を乗り出し、大きく頷いた。

江戸時代末期、評判の蕎麦屋[寛三]に、女の子が授かった。
しかし、病弱な母親は、産後の肥立ちに回復を見せずもあり、出産1年後に亡くなった。
そして、お圭と名づけられたその娘は、美しく、清楚に育ってゆく。
この世のものとは思えぬ美しい娘、お圭が手伝う寛三の店は、
娘目当ての客も増え、それは賑い活気溢れた。
お圭は誰にでも明るくしかも純真、その美しさを 鼻にかける事など素振りも見せず
老若男女に好かれ、愛され、村で評判の娘だった。
所で、村に代々語り継がれるやめ塚の話は、寛三も例外なく、
子供の頃から知っていたし、勿論お圭も然りであった。
ただ、当時木で作られたという塚自体は、何処にあるのか、風化したのか、
誰も実物を知らなかった。
そして、寛三は自慢の娘お圭に、美しいヤマメを重ね見ていたのか、
やめ塚の美談を髣髴させてか、ある時店の名を[寛三]から[山女屋]に変えた。
屋号の実際はお圭の事、やめやは皆にそう捉えられていたし、寛三もそのつもりだった。

ある事件がおき、この親子は、不幸な結末を迎える。

「村に入って直ぐ、綺麗な支流があるでしょう、あそこで悲劇が起きました」
あっ、そこは、私と圭子の渓、何時もの渓だ。
この村の一山手前に在る、大きく由緒在る湯治場、そこで鮮魚を扱う男たちが居た。
山の中とは言え、特に蛋白源は不足していなかったが、近くで捕らえたヤマメを売り歩くと、
物珍しさと新鮮さ美味しさで、大変な評判となった。
しかし、好き放題獲りまくったので、直ぐにヤマメが居なくなり、
男たちは山を越え、この村でヤマメを捕らえはじめる。
特に多くのヤマメが居る、例の支流で。
「この村が、やめっこを大切にしている事を そいつらは重々承知の上でです」
それに気付いた寛三は、仕事の合間や、休みの日を利用し、支流へ通った。
木の枝を持ち、水面を叩きながら
[やっめっこよ、用心せぇ]、と、まるでお桂を守るかのように。
うっ、何だ圭子じゃないか、フックを折った、圭子とそっくりな事を

昔話と、圭子が、頭の中で複雑に、掻き回された。

そのうち、お圭も寛三を手伝い、父親が蕎麦を打つ間などは、お圭が支流に向かった。
そんな時、渓でマタギの青年に、お圭は出会う、正治と名乗る。

またも汗が走る、体中が凍りついたというのに、生々し過ぎて。

「加藤さん、あんたとは字が違うけど、同じ読みだ、
本当にあんたって不思議だよ、この件に何らかの関わりが、ある様にさえ思えます」
「うーん、何と言いますか、すみませんそれは後で話します、続きをお聞かせ願えませんか」
「ふぅー・・・解りました、お話しましょう」

マタギの青年正治は、殆どが猪や熊・鹿を追い、東北の山々を巡り生計を立てていた。
ただ、自分が食べる程度は、ヤマメを獲ることもあった。
しかし、お圭と出会い、この村の言い伝えを知り、何時しかお圭と二人、
支流を歩き、木の枝を振った。
正治は月に何度か村を訪れては、お圭と逢引を重ね、お互いに深く愛し合うようになる。
所が、お圭の美しさを聞きつけた代官が、執拗に寛三へ、妾の申し入れをしだした。
父親である寛三は、憤慨し、あらゆる妨害にも屈しなかった。
店への嫌がらせ、蕎麦粉の仕入れを邪魔したり、ごろつき連中を何度も、店に居座らせたり。
正治との、仲を知っていた寛三は危険を感じ、ある時お圭に言った。
「お圭、正治を好いているな」
「はい」
「それでは、正治に付いて行け、この村を出るんだ」
「でも、父上一人に・・・それは出来ません」
「大丈夫、昔は殆ど一人でやっていたんだ、店は」
「お店はそうでも、身の回りの事とか・・・大切な父上を置いてなどは、考えたくも有りません」
寛三は目を細め、お圭の頭を撫で
「なぁお圭、おまえを代官なんかに、妾奉公させる訳にはいかない、間違っても。
そんな事になったら、亡くなったおっかあに申し訳ない。
何よりも、俺を悲しませないでくれ、自慢の娘のそんな哀れな姿を 見たくもない。
おまえが好いた相手と幸せなら、俺にとっても、これ以上の幸せはないんだよ。
お願いだから、正治と二人、幸せに暮らしておくれ、お圭」
「父上・・・」
既に二人で、夫婦の契りを交わしていたお圭は、複雑ながらも喜び、正治に話した。
正治も、責任を感じつつ喜び、しかし何かを思い出し、こう言った
「お圭さん、1つだけ心残りが在る、それを済ませたら、必ず迎えに来る」
「はい、正治さん、お待ちしております」
健気なお圭は、何も聞かず、待ちつづけた。

私は、話を聞き進むほど、更なる昂ぶりを覚え、混乱に拍車がかかった。
どう言う事だ、そっくりじゃないか、圭子がお圭で、俺が正治だと言うのか。
冗談じゃない、何が江戸末期だ、俺は圭子と、何度も逢っていたんだ、平成の今。

そしてある日、寛三が何時もの渓で、木の枝を振っていた時、ヤマメ獲りの連中と出くわした。
ヤマメ獲りとはされていたが、もしかすると、
代官が仕向けた、ごろつき連中だったのかも知れない。
散々ヤマメ獲りを 妨害された連中は、逆上し、寛三を 切り捨てる。
そして、お圭はさらわれるように、代官所へと連れ去られた。
透きを見て、命からがら逃げ出したお圭は、正治と出会い、逢引を重ねた、渓で待つ。
そこへ代官の差し向けた、追っ手が現れ、父を 逃げ場を 失ったお圭は、
咄嗟に大きな淵へ、身を投げた。
そして、何とその数時間後、お圭を追った連中が、諦め去った直後、そこに現れた正治は、
信じ難いほどの場面に出くわす。
まるで絨毯の様に、沢山のヤマメが群れとなり、お圭を上流へと、運ぶ光景を目にしたのだ。
追った、お圭を必死に追う正治
「お圭さーん、待ってくれ、いったい何があったんだ」
しかし、とうとう、見失う。

私は、そこに座っているのがやっと、胸を痛いほど締め付けられる。
俺が来るの遅すぎて、圭子は・・・何考えているんだ、これは昔話じゃないか。

しかし、その後が、話の続きが妙に気になり、聞いた。
「その後、正治はどうしたんです、橘さん」
「ああ、はっきりした話しは、ここまでです。
後は、語り手によって様々だ、要するに尾鰭が、後世に色々と付いたように思えますね。
ただ、村としての続きは、石のやめ塚については、ほぼ確実な話が残ってます」

何だ、俺の処遇は・・・だからこれは昔話だって。
混乱の度合いは、更に深まった。

誰も居なくなり、取り潰されたやめや、寛三のやめっこに対する愛慕、
それを見習ったお圭、そしてその悲哀に満ちた結末。
やめっこを守り、不幸にも最後は身を投げた、健気で純真なお圭を 
やめっこが天国へと導いた。
村人の間には、このやめやとお圭の話が、静かに広まった。
そして、村人に愛された、やめやとお圭の為に、美し過ぎた故の悲恋に、
居た堪れずの人々は、せめて慰所をと考えた。
しかし、やめやを潰した、逆恨みの代官を思うと、村人は苦慮する。
やがて、それらにゆかりの深い、象徴的でもあるやめ塚が、石碑として、
お圭の魂も一緒に葬るよう、やめや跡地に小さく立てられた。
その後、村人が交代で、寛三やお圭に倣いやめっこを守ると、
豊作が、息災が、驚くほど続いた、らしい。
人々は、何か有るたびに、やめ塚へ花を供え物を手向け、豊作に息災に感謝した。

「飽くまでも言い伝えですから、何処までが本当かは、解りません。
しかし、自然と生き物、それらに感謝し、健気に謙虚に暮らす。
これらの話をすることで、子供たちに、戒め諭してきたんでしょう。
今では、自由に話す雰囲気さえ、気まずくなってしまって・・・
いや、やめやとお圭の話は、知る人すら今や稀で、残念だ」
「そうなんですか、しかし、あのやめ塚には、そんな話が・・・」
「加藤さん、そろそろ教えてくださいよ、何故色々と知っているのか。
家業を手伝っている人に聞いた、とおっしゃってましたが、今お話した通り・・・」
「あっ、ああ・・・以前村の老人に、少し聞いたんです」
私は本当の事を話す、勇気も気力も無く、嘘をついた。
「えっ、それは誰だい、この話を知っているのは、今では殆ど居ないですよ。
私はこんな立場だから、昔から村の老人を尋ね回り、知っているけれど」
「えーと、誰だったかな・・・すみません、忘れてしまったようです。
とにかく色々と、お話頂きありがとうございました」
「ちょっと待ってよ、加藤さん、何でやめやを探して・・・」
私は、橘さんの引きとめようとする声に、振り向きも出来ず、村役場を後にした。

圭子、君はお圭なの、まさかだろう、フライロッドを振る、圭子じゃないのか。
正治に逢いたい一心で、俺を重ね見て、
現代に現れたとでも言うのか、長年の無念を晴らすべく。
お圭がやめやなら、やめやは圭子自身、そしてやめ塚も・・・
頭が割れる程痛い、考えれば考えるほど、そのうち思考する事が、苦痛になってきた。
自分自身すら、何が何だか、解らなくなってくる。

ふらふらと、夢遊病者のように、辺りを彷徨った。

-つづく-

24.けじめ(4/10)

やがて社から、佐伯工場長を始め山さんらも、応援に駆けつけてくれた。
皆忙しく、疲労しているが、緊張感の中にも、活気ある笑い声が響く。
小野課長も、全面的に協力してくれ、真夜中の試運転にも、立ち会ってくれた。
最初は思ったほどの、能力が出なくとも
「加藤さんよ、どうせなら良い物造りてえな、とことん付き合うよ」
岩井さんはこう言って、何度もやり直しに応じてくれた。
どうせ造るならば、より良いものを それは我々技術屋の、基本中の基本だ。
まだ全てが、誰もかれもが、死んでしまった訳ではなかった。
それは決して、スマートではないかも知れない、泥臭く汗臭く、汗と涙の演歌調にも思える。
時代に取り残され、求められず、忘れ去られそうな、男の浪花節。
それを生かせられた、生かしているんだ、男達は、熱く、嬉しかった。
8月も終わろうという頃は、全員意気を奮い立たせ、夜を徹して最終調整に入った。

そして、9月1日、親会社の検査官が、やって来る。

この子会社を陥れようと企てた、事業部長と工場長も一緒に、
だが、困惑を隠しきれない表情だ。
全く持って、信じられない面持ち、夢でも見るかのような様子の2人。
私や、小野課長は、堂々と検査風景を眺める。
全ての項目がチェックされ、検査官が、何やら事業部長とヒソヒソと話す。
堪り兼ねた事業部長、この場を忘れ叫ぶ
「何だと、全て問題ない所か、仕様以上の生産能力だと。
おい、検査ミスじゃないのか」
私は小野課長と、顔を見合わせ大きく頷き、微笑みあう。
これだけの面前で、これだけの結果、揺るぎ様の無い事実であった。
事業部長は工場長に顎で指示し、この場を去ろうとする
「おい、今後を検討する、行くぞ」
検査官が追うように、声をかけた
「部長、製造ラインはこれで良いですか」
「良いも何も、問題すらないんだろ、勝手に検収印を押しておけ」
次の瞬間、現場を創り上げた男たちの、歓声が炸裂した。
皆手を取り合い、小躍りし、肩を叩き合う。
大島が駆け寄ってきた
「加藤課長、本当にありがとうございます。
自分はやっと、技術と言うものが、解って来たように思います」
「ああ、大島、良くやった、うん、頑張ったな」
「はい、加藤課長」
次に里見も来た
「加藤、やっぱりおまえだ、全社を いや、会長や岩井さんまでも動かし、
誰もが思う不可能すら可能にした、全くおまえって奴は」
「里見、みんなのお陰だ、協力してくれた。
所で社長は、杉坂はどうしている」
「この件はお前から、直ぐに報告しろよ、喜ぶぞ杉坂も。
あいつはな、社に残って、金策や今後の方針を苦慮する毎日だ、ほら連絡してやれ」

私は杉坂の携帯に、すぐさま連絡した。
「本当か加藤、やったな、生き残ったな」
「おお、お前を安心させたくて、つい先ほどOKがでたんだ」
「そうか、本当にご苦労さん、さあ、ゆっくりと休め。
待たせてある、彼女の所へ、迎えに行け」
「あっ、ああ・・・所で社は大丈夫なのか、里見から聞いたぞ」
「うん、このままではだめだ、何とか乗り切るには、大幅な縮小も必要だ。
近いうちに、希望退職を募ろうと思っている」
「そうか、それでどうにか、なりそうなのか」
「ああ、お前らが頑張ってくれたお陰で、最悪の事態だけは、避けられそうだ」
「それは良かった・・・」
「何だ加藤、元気が無いな、どうした」
「いや、別に、疲れているだけさ」
「そうか、ゆっくりと休め、本当にご苦労さん」

私は、”何か”が解った。

「加藤、どうだった、杉坂も喜んでいただろう」
「ああ、とってもな」
「おい、早く圭子さんの所へ行け、けじめも済んだだろう。
困難な仕事を終え、更に一段と社を動かしたんだ、技術を思い起こさせたんだ」
「うん、どう言うことだ」
「あのな、杉坂の言う業務縮小、あれは営業や事務系中心だ。
今度は、技術を前面に押し出した、大幅な改革をやると、杉坂は話していた」
「そうなのか・・・」
「な、何だ、もっと喜べよ、元気が無いぞ。
まあいい、お前も疲れているんだろう、休んでからゆっくりと話そう、この件は。
まずは圭子さんを 迎えに行け」
「里見、俺はまだけじめが終わっていない、さっき気付いた」
「何だと、何で、何が終わっていないんだ」
「もう少しはっきりしたら話す、もう少し、待ってくれ」
「おいおい、圭子さんはどうする」
「彼女なら大丈夫だ、迎えに行くまで、待っていると、約束してくれた」
「おまえな、女心を・・・」
「いや、大丈夫」

私は、最後のけじめを悟り、決心した。

里見を制し、私は残務処理のため、現場に残った。
実生産に入り、ラインの稼動状況を確認し、合間には完成図書の作成。
相変わらず深夜にまで、残りつづけた。
[全て、全てを終わらせる、そう圭子に約束した、俺は]
そんな、一心だった。
相変わらず、2・3日毎に、圭子は電話をくれる。
「あのー、9月になりましたけれど、お仕事は如何ですか」
「うん、峠は越えたけれど、まだやるべきことが残っている。
申し訳ないが、もう少し待ってくれ」
「申し訳ないなんて、あなたをお待ちすると言った筈です。
全て気の済むように・・・ただ、今年は寒くなるのが早いですね」
何だか、声に張りが無いというか、徐々にトーンダウンしていた。
「そうだね、確かに今年は寒くなるのが早いけれど、それが何か」
「いえいえ、別に、単なる世間話みたいなものです」
慌てて繕う、最近忘れていた、言い知れぬ、圭子の不思議さを感じた。

寒さの話題が、何故急に出てきたのか、この時点では解らなかった、不幸にも。

9月も既に下旬、私はようやく社に戻り、社長室へ直行した。
「失礼します、ただ今戻りました」
「おお、加藤、良くやってくれた、小野課長から、
最後まで面倒見てもらったと、感謝の連絡が有ったぞ」
「そうですか、それは良かった。
所で社長、折り入ってお話が有るのですが、お時間は如何でしょう」
「うん、何だ、おおっ、そうだ、俺からも重要な話がある。
場所を変えよう、里見も交えてだ、加藤の所の会議室、使わせてもらうぞ」
「はあ、構いませんが」
そして、社内を移動する私は、行き交う社員皆から、労われ、賞賛される。
あれほどまで、かつて見放された、お荷物だったこの俺が。

私は自分の決心に、再度確信を感じた。

「加藤、里見、技術屋に聞いて貰いたい、俺の改革案を」
駆けつけた里見は、身を乗り出し頷く。
まず、今までの営業は、大幅に人員を削減し、少数精鋭とする。
例の木島部長は、居たたまれなくなり、また、他社の条件が良い事もあり、
とっとと退職したそうだ。
「全く情けない話だ、そんなのを見抜けなかった俺が、余程・・・
まあ、良い、手間が省けたと考えよう、先を見なくてはならない。
なっ、加藤、里見」
「ああ、勿論だ杉坂、なあ、加藤も思うだろ」
私は返事を カラ返事を 力なく返した。
「ああ・・・そうだ・・・」
更に杉坂の、ビジョンは続いた。
そして設計は、根本的に見直し、次世代の技術者を育てたい。
多少の人員調整は、避けられないが、最小限とし。
「そのために、里見、おまえが西山さんの後を継いでくれ。
設計に戻って、課長を引き受けて欲しいんだ。
西山さんにも、嘱託顧問として、残ってもらうつもりだ」
里見は、大きく頷き、杉坂の手を握った
「杉坂、任せろ俺に、全力で社を復活させる」
「ああ、里見頼んだぞ、期待しているぞ。
そして、加藤、おまえにも頼みたい事がある」
技術を伴った営業を強化する、本当の技術を知った上で、我が社を売り込む。
そのためには、営業技術を部に、部に昇格して、設計と営業を統括する部署としたい。
営業技術部に、設計と営業を纏め上げ、管理発展させて欲しいと。
「営業技術部を加藤、おまえがやってくれないか、営業技術部部長を」
里見は飛び上がらんばかりに、驚き喜んだ
「さすがだ杉坂、よーく解っているじゃないか、うん、加藤なら、正に適材だ」
「いやいや、今回の事でようやく解ったんだ、俺も、
このままじゃメーカーとしてお終いだって。
オヤジも言ってくれた、もうおまえたちの時代だ、好きなようにやれと。
なあ、加藤、受けてくれるよな」
杉坂と、里見は、満面の笑みで、私を見つめる。

私は静かに、退職願を 提出した。

凍りつくような時間が、雰囲気が、小さな営業技術課の、小さな会議室を支配する。
杉坂は手を震わせ、私の退職願を手にとった
「か、加藤、これはどう言う事だ、さっぱり訳が解らん」
「俺の、けじめだ」
「けじめだぁ・・・何か社に不満が有るのか、仕事が部長要請が、嫌なのか」
「いや、不満も嫌も無い、俺の身勝手なけじめだ、許せ、受け取ってくれ」
「だから、けじめって何だ、解るように話してくれ」
「技術に、何より会社にしがみついた、俺への決別だ。
中途半端な、会社人間加藤を 終わらせたい。
申し訳ない本当に、今まで散々世話になって、しかもこんな身勝手で」
里見は、穏やかに、喋り始めた
「なあ加藤、やっぱりおまえだな、大馬鹿のおまえだ。
俺は何となく、こんな日が来るんじゃないかと、感じていた」
杉坂は急に怒り出し
「何を言ってる、加藤、里見、おまえら親友同士にしか、解らん話か。
こんなものは受け取れない、加藤、おまえは疲れているだけだ、暫く休んで頭を冷やせ」
そう言って、退職願いを テーブルに叩きつけ、会議室を飛び出た。

電話のベルが、会議室のドア越しに、響いた。

「加藤、これは俺が一旦預かっておく、頃合を見て杉坂に渡すよ」
そう言って里見は、退職願を内ポケットに納めた。
「すまん里見、最後まで面倒かけて」
「何言ってる、親友だろう、俺たちは。
で、今後はどうする、もう決めたのか」
「いや、まだ何も、ただ、もう勤め人だけは止める、自分を見失う・・・
ダメなんだ、組織に縛られて過ごすのが、俺って、今回はたまたま上手く行っただけだ。
また何時どう変わるのか、いや、何らかの変化が有って当然だ、会社組織なら。
常にそれを感じながら続けるのは、夢を純粋さを 失い続けるだけ、そう感じた。
何のために勤めているのか、それらと引き換えるほど、重要なものか、と」
「ああ、解るよ、しかし普通はそうやって、歳を取っていくもんだ。
普通の人は、地位や財産を築くため、日々の生活のため、
引き換えにそれらを失って行くんだ。
別に失うことは悪くない、引き換えに得たものが、十分幸福感をもたらせてくれるし。
普通はそんな幸福を望み、一喜一憂し、死んでゆく、普通の人はな、加藤」
「そうだな、普通でない俺には無理、と言うか、俺にとっての幸福は、違うんだ。
俺らしく、何時までも、夢を抱いた少年で居たい、偽り無く純粋に生き抜いてみたい。
そのためには・・・結局俺は、何だかんだ言っても、中途半端な会社人間だった。
それを断ち切る事だと、圭子が教えてくれた、
そのための勇気を 圭子が与えてくれたんだ。
そう感じ、思え、圭子同様無垢になり、迎えに行きたいと、
そして二人で歩きたい何時までも。
圭子もそんな俺を待つと言った、俺の全てを待つと約束してくれたんだ」
里見は微笑み大きく頷く、そして晴れやかに
「加藤、とりあえず圭子さんを迎えに行け、そして身の振り方を二人で話し合え。
何か有ったら、俺だけにでも、連絡しろよ」
「勿論だ里見、おまえには必ず伝える」
「うん、待ってるぞ・・・所でまだ、けじめが残っていないか」
「解っている、前の女房と娘の事だろ、希望退職を適用させて貰って、
その退職金で家のローンを 残額全て支払う。
それでも金利分が浮くから、養育費に渡すつもりだ」
「おまえの生活は、当面大丈夫なのか」
「ああ、少ないながら蓄えが有るし、それに、圭子と二人なら、何とでもなる」
「そうだ、そうだな、圭子さんとなら、な」
「うん、何とかなる」

私は、社を去り、奥会津へ向かった、最近圭子から電話が無い、少々不安を抱きつつ。

-つづく-

23.プロの業(4/4)

「加藤課長、着きましたよ、課長起きてください」
私は、大島の運転する車で、どうやら寝てしまっていたようだ。
昨晩は出荷を見送り、その後最終の書類作りに追われ、徹夜明けで社を出た。
ここが今回の納入先、雪永飲料の生産課課長をまずは訪ねた。
「小野課長、本日よりお世話になります」
「これは加藤さん、どうぞお座りください。
しかし、本当に間に合ってしまいましたね、いやー驚くばかりだ」
「はい、全社一丸で望みましたので。
所で工場長のお姿を 見かけないのですが、一言挨拶だけでも」
これを聞いた小野課長は、突然顔を歪めた。
「あー、あの人にとって、今回の工事はどうでもいいんです。
既に夏期休暇をとっているし」
「ええっ、ここの最高責任者が、ですか」
「ああ、やっとドサ回りが終わるんで、親会社に戻る前の、羽伸ばしですよ」
小野課長は、はき捨てるように話す。
工場長は親会社よりの出向で、結局のところ、ここを潰すのが任務だったらしい。
だから、事が上手く行く、殆ど確信に近い、現在、約束された本社の席だけを 考えている。
要するに、もうここは関係ない、潰れたも同然と、思っているらしい。
親会社の事業部長の命を受け、無理難題、いや不可能に限りなく近い、仕様を作成・承認し。
「酷い話ですね、それでも子会社の責任なんですか」
「事業部長にとって、業績不振を理由には、自分の責になりかねない。
あくまでも、子会社のずさんな計画、それを理由にしたいのです。
まあ、殆どの人がある程度真相を解っています、しかし、メジャーライン上に乗った、
事業部長には誰も逆らえません」
「そうだったのですか、でも、小野課長、
そんな親会社を 事業部長を 見返してやりましょうよ」
「加藤さん・・・確かに機械が間に合ったのは、驚異的なほどです。
しかし、これからの工事が、もっと大変なのは、あなたが一番ご存知のはずだ。
もう、良いんじゃないですか、これ以上苦労しなくても、結果は解っているんだし」
「な、何をおっしゃいます、私は間に合わせる為に、来たんです。
小野課長はそれで良いのですか、自分の社がなくなっても」
「ハハハ、もうとっくに諦めてますよ、あの仕様が出た時点で。
まあ、この件でなくても、いずれ何らかの方法で、お取り潰しなんですから」
「だったら、逆にチャンスじゃないですか、間に合わせれば、取り潰されなくなる」
「あなたねぇ、自分の社を 思っても有るのでしょうけど、引き際も肝心ですよ」
「私は別に、社のためでは・・・」
「まあ、お好きにどうぞ」

小野課長を始め、取り潰しに巻き込まれる、この子会社の社員は、
ほぼ全員がこんな諦めムードだった。

確かにだ、小野課長に言われるまでもなく、これからが大変である。
機械は図面さえあれば造れるが、現場は、総べてを図面ではこなせない。
始めてみると、思いもかけない事、人為的物理的な要因が複雑に絡み合い、
その場での早急な判断、経験に基づいた対策が必要だ。
ましてや今回のように、準備期間も、工事工程も、無謀とも思える短期間では、
誰が見ても尋常に納まるとは思えない。
が、やるしかない、ほんの少しでも、可能性が有る限り、
自分の何かを 探し当てるためにも。

すっかり取り払われた古い設備、そして新たに、ウチの機械類を何台も接続し、
最終的には1つのラインとして、製品を生産できるまでにせねばならない。
新しい機械の搬入・接続及び用力一式の設置・接続、
今回も施工業者は、北島社長率いる大鹿設備だ。
私としては気が進まないが、予算と最近の付き合い頻度から、
大鹿への発注に渋々納得していた。
「加藤さん、今回もよろしくお願いしますよ」
「ああ、北島さん、今回は残業等無理を言いますが、お願いします」
「うーん、解るんだけどねぇ、残業は程ほどで、カンベンして下さいよ。
何より職人は、体使うんだ、無理しすぎは怪我の元、加藤さんも解っているでしょ」
「勿論です、重々解っています、が、今回は特別と言う事で」
「今回は、と言われてもなぁ、ウチはまだ明日が有るしね、おたくと違って」
「どう言う意味ですか、北島さん、聞き捨てなりませんね」
「おっと、つい、気にしないで下さい、まあ、出来るだけ頑張りますから」
このタヌキめ、こいつまである程度ウチを 見限っているのか。
私はワナワナと拳を震わせた、が、その悔しさを仕事にぶつけよう、
結果を必ず出してやる、心に固く誓った。

案の定大鹿設備は、1〜2時間ほどの残業で、帰ってしまう。
仕様がない、全くやってくれないよりはマシ、私は皆が帰った後も、
大島と出来るだけの事を 毎晩遅くまで作業した。
仮にも長年現場に携わった為、みようみまねで、ある程度は、出来るようになっていた。
大島を宿に帰した後は、一人残って、進行状況を睨み、
次の日の予定を立てる、こんな毎日が続いた。
そんな訳で、現場事務所に泊まる事も、珍しくなく、救いはやはり圭子だった。
誰も居なくなった、現場、事務所、ほぼ2・3日毎に、かかってくる深夜の電話がだ。
「こんばんは、誠二さん」
もう、この声を聞くだけで、疲れが、眠気が、暫く分吹っ飛ぶ。
「ああ、俺に付き合って、深夜の電話、何時もありがとう」
「何をおっしゃいます、私だってあなたの声を聞けるから、嬉しくって、嬉しくって。
落ち着けるとおっしゃっていたこの時間を 私も楽しみにしているんです」
内容は特にこれと言ったものではないが、
お互いの近況、晴れた、曇った、実に充実する。
そして最後に決まって、圭子は聞く
「誠二さん順調ですか、お体は大丈夫ですか」
「うん、全てに順調で元気だ」
暫く笑いあう声のみが、電話線を行き来する。
「おやすみなさい、誠二さん」
「ああ、おやすみ、圭子」

身体はボロボロに疲れていても、全く辛さ無き、深夜の現場事務所。

所で、傍目には、驚異的なほどの進行を見せる、工事だ。
しかし、実情を知り憂う私にとっては、やや遅れ気味、
毎日の様に北島社長と、言い合いになる。
「北島さん、少し急いでくれませんか、もう直ぐペナルティ期間だ」
「ウチとしては精一杯やっている、それに、期間は全部使って良いって約束でしょう」
「それはそうだけど、最終的にちゃんと出来れば、ですよ。
しかし、今回は全てに無理がある、何か有ったら困るんですよ。
ペナルティー期間まで全部使ってから、あれがダメ、これがダメでは」
「ウチはおたくの図面を 元にやっているんだ、見積もりも工程も。
その通りにやって、ダメなのは、ウチの責任じゃない筈ですよ」
「北島さん、何年我が社と付き合っているの、こう言うものは、現場は、
思ったように行かないのが、当たり前なほどだったでしょ。
特に今回は、無理難題の状況を 北島さんもわかっている筈だ、何か有ったら・・・
いや、必ず何かある、そのためにも、早め早めに進めたい、
最後になってダメだは、許されないんだ」
「うーん、何でそんなに、ウチが無理しなきゃならないの。
飽くまでも、工程通りにやらせてもらいますよ。
じゃなきゃ、何のための見積もりなのよ」
当初通り、北島社長は見限り気味、これまでの付き合いは、一体なんだったのだろう。

しかし、あの冷ややかだった、生産課の小野課長が、徐々に変化してきた。
私と大島の遅くまでの作業、その後更なる私の居残りに気付き。
そして、それらのお陰もあり、課長の目には、驚異的なはかどりを見せる工事に、
あの小野課長が、協力的にさえなってきたのだ。
「加藤さん、さっさと諦めてしまった、自分が恥ずかしいくらいです。
こんな少ない可能性でも、疑う事無く突き進む、加藤さんに教えられました。
最後まで、可能性のある限り、出来るだけの事をやらなくては、と。
今からでも、私に協力出来る事があれば、なんなりとやらせてください」
結果がどうであれ、私は嬉しかった、深々と頭を下げ
「小野課長、本当にありがとうございます」

客先も、ついに、動いた。

ペナルティー期間突入朝、泣いても笑っても、残された時間は、後1週間だ。
私の口煩さもあり、何とかほぼ完成までになった時、大島が顔を青くして、謝る
「加藤課長、申し訳有りません、このままだと、生産能力倍増は無理です」
「何だと、仕様通りの設計じゃないのか」
「はい、配管径のミスを 計算違いを 発見しました」
「何でまた今ごろなんだ、おい、大島」
「昨晩小野課長と見て回った時に、おかしくないかと指摘され、
お恥ずかしいのですが・・・
宿に戻ってから、必死に計算し直しました、先程やっと結論が出て・・・」
大島だけを責められない、過酷なほど忙しかった設計期間、
チェックも満足に出来なかったのだろう。
また、こんな初歩的なミスであれば、普通は製作サイドでも簡単に気付くはずだ。
出荷時点でも・・・何より、これまで気付かなかった、私自身にも責任がある。
心配していた不安が、現実となって現れた。
誰の責任でもない、無謀に近い短期間の仕事だ、ここまできたのも奇跡的なほど。
しかしだ、指摘していただいた、小野課長には心から御礼を言う、
まだ時間が無い訳でない、逆に良かったと思わなければと。
問題は、大鹿設備だ
「北島さん、本当に申し訳ない、設計ミスが発覚しました」
「ええっ、困りますね、ウチは図面通りにやったんだ、もう直ぐ完成だって言うのに」
「解っています、あくまで設計の間違と、言ってるじゃないですか。
これまでだって何度も、似たような事が有ったじゃないですか、現場で。
だけどこのままじゃ、仕様に適合しない、やり直してもらえませんか」
「加藤さん、もう間に合わないよ、それに、追加予算は有るのかい。
ただでさえ、貰えない覚悟で、やっているのに」
「な、何を言う、金ならちゃんと払う、馬鹿にするな」
「ほー、それはちゃんと生産再開できたら、の話でしょ、どう考えても無理だよ、もう。
実を言うとね、加藤さん、ウチは今回、ただの付き合いで来ているんだ。
ハナから無理と解っていてね、こんな事も含めてだよ、
これだけ無理すりゃあ何か有って当然さ。
ここまでになっただけでも、流石加藤さんだ、
でもね、あんたにだって不可能を可能には出来ない。
木島部長も言ってたよ、まずダメだろうってね、勿論着工のかなり前に。
だから今回は、ボランティア、せめて今までお世話になった、恩返し、かな」
「何だと木島め、よりによってあいつがそんな事を 責任も何も感じてないのか」
「加藤さん、少しは利口になりなよ、木島さんなんか、既に身の振り方を決めているよ。
もう何処か、良い感触を得ているらしいね、さすが木島部長だ。
ウチも、これ以上のお付き合いは、勘弁して欲しいな。
後残り少々、図面通りには、終わらせていくからさ」

何と言う事だ、ここまで来て・・・歯軋りを繰り返し、天を仰ぐ。

「おう、北島、久し振りじゃねえか、とっとと荷物纏めて、帰りな」
懐かしい太い声、振り返ると、竹水機設の岩井社長が居た。
その後ろでは、里見が微笑んでいる。
「小野課長から、昨晩連絡があった、西山課長に。
西山さん、直ぐに状況を察し、会長に知らせたそうだ。
で、会長が、岩井さんに、だ」
それで杉坂社長から託され、里見は昨晩徹夜で岩井さんに、工事内容を説明したらしい。
「さ、里見、おまえ」
「だから言っただろ加藤、皆が動き山が動けば、何でも出来る。
岩井さんも、こうして先の定かでない、我々に快く付き合ってくれるんだ」
「加藤さんよ、後は任せな、ウチがやれば、
北島なんかが無理なのを 纏め上げてみせるぜ」
「岩井さん、本当に感謝します」
こんなやり取りを見ていた、北島社長は
「おーおー、皆さん立派だねぇ、後はよろしくですよ。
おっと、少し残った仕事だけは、片付けていくかな、
もしかすると金が貰えるかも知れないし」
私はいきり立ち
「あんたはプライドが無いのか、金・金だけなのか」
そんな私を制した里見が
「まぁ、加藤、良いじゃないか。
北島さん、工事完了届証に私がサインしますよ、勿論残った仕事はもう良い。
書類を持って、今直ぐにお帰りください」

そして、かつて社を飛躍的に発展させた、里見が、私が、それを支えた岩井社長が、残った。

竹水機設は、未だ衰えぬ手際よさで、猛然と工事準備を始める。
それを見ていた里見も、ネクタイを外し、靴を履き替え、ヘルメットを被る。
「おいおい里見、何をする気だ、おまえはここ10年現場から、遠ざかっていただろう。
無理をすると・・・」
「加藤、力仕事程度は、俺にも出来る、さあ、何を運んだら良いか指示しろ」
「知らないぞ、筋肉痛で動けなくなっても。
何よりその出っ張ったハラ、邪魔だろう」
「えーい、うるさい、やると言ったら、やるんだ、ほれ、もたもたするな、何したら良いんだ」
「里見・・・、よーし、こき使ってやるぞ」
「おお、望むところだ」
大島はと言えば、早くも岩井さんに怒鳴られている
「何言ってやがんでぇ、だから、そんなやり方じゃ、時間がかかって仕様がねえ。
現状をよく見てみろ、頭で考えてばかりいないで」
「えーとですね、じゃあここをこうして・・・」
「おい、石筆貸してやるから、そこに書け」
「ええっ、それは・・・事務所に行って、CADで・・・」
「なんだとこら、書けねえのか」
見かねた私が、割って入った
「まあまあ、岩井さん、俺が書くからさ、石筆貸して」
「おうおう、加藤さんよ、あんたとこうするの、久し振りだな。
おっ、さすがだねぇ、スラスラ書きやがるぜ」
「お互いまだまだ、イケますね、おっと、岩井さんは歳か」
「馬鹿言ってんじゃねえよ、まだまだ現役だ、見てな」
生き生きと職人たちに、指示を出す岩井社長、指示される側も質が違う。
要点だけを聞くと、素早くも的確に作業をこなし、
監督する私や大島が、慌てふためくほど、次を要求してくる。
これだ、この活気だ、かつて何時も溢れていた。

プロが求められ、プロの仕事をする、最近忘れかけていた、不要とされつつも、あるが。
各自、プロとしての意地とプライドをかけ、休む間も惜しみ、仕事に没頭した。

-つづく-

22.動く(3/29)

何度かマットの上で洗濯物を反し、木の枝に吊るしたそれも、日当たりを見て移動させた。
乾いた衣服を身に着け、イワナの渓を後にする。
林道を下り切り、再び登る峠を越えたら、圭子の里だ。
私は早く戻るためにも、ここへ圭子を迎えに来るために、
終わらせるべきを 終わらせたかった。
「あのー、圭子、俺さ、そろそろ」
「はい、解っています、バリッとやってきて下さいね」
ああ、既に多くを語らずも、解ってくれるんだな。
「うん、俺の代わりに、頑張ってくれている、親友のためにも。
早く行って、ガツンと、やっつけてくるよ」
「はい、あのお友達ですね、ありがとうございますと、お伝え願えますでしょうか」
「ああ、解った、いい奴なんだ、あいつ、里見って言うんだ」
「里見さん、ですね、クスッ、何だか一本気な、頼もしいお父さんって感じでした」
「ワハハ、俺と似て、単純なんだ、奴は」
「羨ましいな、古いお付き合いなんですか」
「うん、学生時代からの、腐れ縁ってやつだよ」
「楽しそうですね、お二人だと」
「ハハハ、この歳になっても、バカみたいに、だけどさ」
「ウフフ、良いですね」
「ああ、本当だ」
何と言っても今回は、里見に感謝するばかり、本当にあいつのお陰だ。

「あのー誠二さん、誤解しないで下さいね」
「えっ、うん」
「次に来られるのは、何時頃なのでしょうか。
あっ、本当に、ただ何となくですから」
「解っている、立ち止まらず、前をのみと決めたから、俺はもう大丈夫だ。
そうだなー、9月になれば、うん、8月いっぱいで、片付けないとだから。
来月早々には、多分大丈夫だ」
「9月、ですか・・・」
圭子は遠い空を暫く眺め、何かを思い考えている。
そして、確認するように
「上旬、ですよね、9月の」
「ああ、9月になれば、直ぐにだよ」
「上旬・・・直ぐに・・・」
ぶつぶつと、繰り返す圭子、上目遣いで考え
「どうしたの、何かあるのかい」
はっと、何だか我に帰った様子、圭子はやや不自然に微笑んだ
「いえ、何も、うん、そうそう、大丈夫です」
何が大丈夫なのか、どうして大丈夫なのか、聞こうか聞くまいか。
久し振りに、あの不思議な圭子を感じた。
「あっ、全然気にしないで下さいね、ただ、何となく、聞きたくなっただけですから。
お仕事に、差し障りが出ては、困りますので」
何となくとは、思えなかったが・・・
「ああ、解っている、全てを とにかく終わらせてくる。
それから、迎えに来る、圭子、おまえを」
「はい、お待ちしています」
何時もの渓の、何時もの駐車場所、圭子の車に荷物を戻す。
そして、何時もの様に圭子は佇み、手の平を肩の辺りで、小さく振り私を見送る。

そう、何時もの様に、何時か何処かで感じた雰囲気を 引きずりながら、奥会津を去った。

高速道路を下り、自然と社に向かってしまう。
もう10時、だが10時、里見や西山課長は、まだ居る筈だ、と。
守衛に挨拶し、外から自分の課を見ると、やはり照明が点いていた。
営業技術課のドアを開けると、里見と杉坂が振り返る。
「おっ、加藤、何だ早いじゃないか、どうした」
「里見、ありがとう、全て約束してきた、事が済んだら迎えに行くと、
だからもう休暇は十分だ」
「そ、そうか、そいつは良かった、うん、おめでとう」
「ああ、おまえのお陰だ、本当に感謝している。
所で、社長、どうなさったのですか」
杉坂は私の肩をポーンと叩き、こう言った。
「おいおい、加藤、社長はやめろ、俺たちだけのときは。
里見から全て聞いた、まずは、おめでとう」
私の手を握り、握手する杉坂、そう、昔よく呑みに行った、あの杉坂だ。
「あ、ありがとう、杉坂まで、本当に。
だけど、おまえがどうしてここに居るんだ」
「水臭いな、加藤、俺にも手伝わせろ」
「えっ」
杉坂の向こうで、里見も微笑んでいる。
「俺にも手伝わせろと言ってるんだ。
おまえや里見を 西山さんを だ。
里見から全て聞いたと言っただろ、まあ、おまえらの仕事、俺には無理なのが多いけど。
コピーやら雑用、沢山あるだろう、俺にもできる事。
何なら、お茶でも汲んで来ましょうか、加藤課長」
「す、杉坂、おまえ・・・」
「何も言うな、ここは俺にとっても大切な社だ、おまえらだけ、苦労させるわけにはいかん。
それに、俺は俺なりに、出来る限りの手段を講じた。
後はもう、一直線に走るのみだ」
里見が付け加えた
「加藤、おまえが動かした、山を動かしたんだ。
おまえの曲げなかった一途さが、再び社を 俺たち皆を 動かした。
もう、止まらないぞ、全社一丸だ」

私が、入社した当時の熱を感じた、蘇ったように。

杉坂は、これまでの経緯、経営面でのを 話した。
「俺だって、何もしていなかった訳じゃない、例の仕様書が回って来た時、
一目散で、西山課長の所に行った。
加藤や里見よりは、気付くの遅かったけどな」
そして、原価計算書を持って、走り回ったそうだ。
「どう考えても、予算不足だろ、杉坂」
「ああ、想像を絶する、だ。
こんな時期、ウチだってギリギリで推移しているんだ、経営状態は」
まず、ギャランティーは、どう足掻いても、社をお終にする。
ペナルティーならなんとか、そんな仮定で、今後の予算を組んでみたそうだ。
正規の納期内はまず無理、逆にそれを敢行しようとすると、品質が仕様を満たさない。
それは、勿論契約不履行、期限切れ同様の結果しか待ってない。
だから、ペナルティー期間いっぱいを使って考えろ、これは西山課長のアドバイスだった。
だが、社のあらゆる資産、運用財、融資、全てを充てても、絶望的な結果しか見えない。
「で、俺の最も嫌うやり方、オヤジに相談した。
例えワラでも良い、何かないかって、所が何かどころじゃ、なかったけどな」
「ええっ、会長にか」
「ああ、木島部長を見抜けなかった、据えつづけた、結局の責任は俺にあるし」
「でも、あれほど、オヤジさん・・・いや、会長にだけは、
頼りたくないと言ってた、おまえが」
「そうだ、だが、実を言うと、本当はオヤジの奴、全て解っていて、
俺の来るのを待っていたんだ。
だから、逆にオヤジを見直せた、と言うか、まだまだ敵わないと知り、
勉強になったさ、加藤、ありがとう」
「おいおい、何で俺が、ここでおまえに、感謝されるんだ、杉坂」
「加藤が、寝ていたオヤジまで、起こしたんだよ、創業者の熱さを蘇らせたのさ」
「殆ど隠居だっただろう、最近の会長は、それが何故」
「ああ、我々にはそう見えたけれど、西山さんからは結構マメに、話を聞いていたらしい」
「あの二人は、長い付き合い、だったな」
「うん、何がどう変わっても、最も信頼するのは、西山さんだったようだ。
その西山さんから、おまえのこれまで、そして社の現状を聞き、オヤジも燃えちゃったんだ。
創業者の独立魂を 熱く復活させたんだ」
会長は、自宅をはじめ全ての財産を 杉坂に任せたそうだ。
それで、どうにかやっていけそうだ、最終期限内に納めれば、
何とかなりそうだ、確信できたらしい。
「オヤジも長年働いて、苦労して、やっと折角、悠悠自適の隠居生活を 手に出来た筈だ。
どうするつもりだ、上手く行かなかったら、全部がパーだって言うのに。
馬鹿だよ、本当に馬鹿だ、加藤、大馬鹿のおまえが、皆を馬鹿にしちまった」
「杉坂・・・」
「だから、金の事は心配するな、加藤、後はおまえの得意とするところだ。
全力で突っ走れ、止まり振り向くな、支え守るのは、俺に任せろ」

私には何も無いと、思う時期、斜に構えた時期さえ、あった。
ただ、曲げたくなきは、そうで、やるべきも、そうだった。
それが、こんな・・・いや、これからだ、結果を出して、だ。

「おい加藤、3日後は着工だ、明日にでも工場長の佐伯さんと、話をしておけ。
あの人もここの所、寝る間も惜しんで、協力してくれているし」
最後に杉坂は、こう付け加えた。

翌朝、私は出荷直前の機械を 確認も兼ね佐伯工場長の所、製作棟に向かった。
「おはようございます、工場長」
「おお、加藤久し振りだな、おはよう」
「今回は、製作課も大変だったようですね」
「ああ、本当に、しかし、こんなに張り切ったのは、久し振りだよ。
何だか嬉しいくらいだ、充実しているさ」
「工場長」
「うん、そうだ、昔おまえや里見の図面に、良く悩まされ、残業させられて以来かもな。
おまえらの画いたのには、本当に苦労させられた、ワハハ」
「ハハハ、ご苦労をかけましたね、とんでもない事、画いてましたから」
「全くだ、理解し難いほど、でもな、文句言いながら、みんなワクワクしていた、
おまえたちが画く図面に、西山さん以来だってな」
「よく怒られましたよ、製作課の皆さんに、間違いも多かったし」
「うん、しかし最近は心配していた、ウチの機械を
ここ10年進歩無しだ、基本は何も変わっていなく、ただ、化粧直し程度だったし。
西山さんが創った偉大な基礎、それを飛躍的に発展させた加藤と里見、
だから10年も、小手先の手法でも、続いてきた、ウチは。
あの頃悩まされ、苦しまされたのが、結局は我々を救い続けたんだ」
「工場長・・・でも、今回はこれからが・・・」
「解っているさ、加藤、おまえがこの先一番大変だ。
いつでも電話しろ、社で待機している、必要なものがあれば、直ぐに造ってやる」
「えっ、でも、工場は夏休みに・・・」
「馬鹿言うな、おまえらが頑張っている時に、休める筈ないだろう。
心配しないで、思い切り、指揮してこい、困ったら電話しろ」
「ありがとうございます、工場長」
「ほら、あそこにもう一人居るぞ、俺と一緒に待機したいってのが、山さんだ」
山さん、山崎さんだ、最古参の職人だ、昔よく俺を怒鳴りつけた、気難しいが気風の良い。
「ちょっと見てやってくれ、現在設計のトップ、大島に悩まされている山さんを
悩まされると言っても、おまえの頃とは、全く話が違うけどな。
情けないくらいに、あれが現在ウチの設計トップ、何をかいわんや、だな」

クレーンの、電動工具の、一つ一つの音が、懐かしい、製作現場も久し振りだ。

「だから、あそこの機械は今のタイプと違うんだ、これじゃ接続できないぞ」
「えーと、仕様書は、昔の図面はっと・・・あっ、本当だ、
だけど山さん、よく解りますね」
「馬鹿野朗、おまえが生まれる前からここで、旋盤回しているんだ。
何処に何が納まるか、客先の気持ちになって、1つ1つ造ってきたんだ。
大島、おまえらのように、ボタン押して、ハイ出来上がり、そんなのとは訳が違うぞ」
「ボタン押してって、山さん・・・あれはキーだよ」
「ボタンでもキーでもいい、だから、どうして欲しいんだ」
「えーとですね、ここをこうして・・・」
「おまえ設計屋、技術屋だろう、画で説明しろ」
「あ、ああ、えーとPCは・・・」
「ほれ、そこにあるのに画け」
「えっ、何処」
「直ぐそこにあるだろう」
「あっ、何だ、黒板じゃないですか、ダメだよ山さん、PCじゃなければ」
「全くもう、それで、何時図面が出来るんだ」
「えーと、課に戻って・・・新しく画かないとならないから、大変だぞ。
えーっと・・・」
「何言ってるんだ、とにかく早くしろ、出荷待ちなんだぞ」
「そんな事言っても、データが入っていない場合は、大変なんだよ」
「かーっ、情けねえなぁ」

そんな古い職人と、CADの若き実力者が、やり取りをしていた所へ、私が現れた。

「山さん、お久し振りです」
「おおっ、加藤じゃないか、おめー最近、ツラ出さないと思ってたら、
とうとうカミさんに、逃げられたらしいな」
「止めてくれよ、山さん、もう2年も前の事。
それより山さん元気そうだね、でも酒のせいで、そろそろ手が震えてるんじゃ」
「相変わらずだな、口の減らねー野朗だ、ほれ見ろ、腕は衰えちゃいねえ」
そう言って、削りだした部品を私に見せた。
「やっぱり山さんだ、研磨が必要ないくらいだね」
「あたりめーだ、おっと、所で加藤、丁度良い所に来た、ちょっと画いてくれ、急いでいるんだ」
「えっ、何ですか」
山さんは、大島から図面を取り、私に示した。
懐かしい、私が書いた図面だ、深夜泣きながら書いた、図面だ。
「これと、今のを機械を 接続したいらしいんだ、加藤解るか」
「うーん・・・大島、今の図面を見せてみろ」
大島は、図面を私に渡しながら、冷ややかに、
「あれあれ、加藤サンは、CAD苦手でしたよね、大丈夫ですか」
山さんは、声を荒げ
「こら、大島、誰に向かって・・・」
「いいよ、山さん、黒板あったよね」
「ったく、最近の若い奴は、おお、加藤、黒板ならそこだ」

新旧の図面を1・2分検討し、チョークで黒板に、画を書き始める。
怪訝な顔の大島と、楽しそうに、ワクワク見守る山さんの前で、私は久し振りの感触、
そう、考えて生む、新しいものを創造する、嬉しくさえあった、ちっぽけな部品でも。
「この部品を作れば、上手く接続できるはずだ、山さん、これで解るかな」
「さっすが加藤だ、相変わらず鮮やかだな、本当におまえの頭ん中、どうなってるんだ」
「ハハハ、錆付いた、不要な技術だよ、山さん」
「不要ねぇ・・・だから最近のウチは、ダメなんだ。
おい、大島、これが技術屋だ、おめーのは、お絵かきだ、解るか」
大島は、何も返せず、ただ、感心していた。
「山さん、大島だけを責められないよ、体質が、社が変わったんだから」
「ああ、そうだな、かえって可哀相だ、今の若いのは。
加藤や里見みたく、駆け回らなくって済むのが、かえってな」
「よく山さんにも、怒鳴られたよね」
「おめーが、とんでもない事ばかりやるからだ、だけど、それで良いんだ」
こんなやり取りを 見ていた佐伯工場長が、微笑みながら言った。
「加藤、大島を今度の現場に、連れて行ってくれないか。
勿論、西山課長もそう言っている、今からでも遅くない、社長も気付き始めているし」
「そうですか、解りました、よーし大島、今年は夏休み無しだ、良いか」
「はい、加藤課長、よろしくお願いします」

やはり、山が動いている、里見の言った通りだ。

-つづく-

21.絆(3/26)

「そうそう、明日はどうしようか」
私は、チラチラと圭子の胸を 横目で見ながらも、気をそらしたかった。
しかし、そう思えば思うほど、逆の自分に陥ってゆく。
白く無地のTシャツ、くっきりとその形が浮かび上がり、鼓動が高まる。
圭子も私の視線を感じ、更にTシャツを摘むものだから、余計気になって仕様が無い。
私は、ウイスキーの入ったグラスを 邪念を消すようにあおった。
圭子は頬を上気させ、冷静を装い
「うーん、お任せします、何よりここを出なくては、でしょ」
「うん、ハハハ、そうだったね」
圭子が、胸元を気にしながら、水割りのグラスを 口に運んだとき、
「あっ」
少々口を逸れた水割りが、胸の辺りにこぼれて、濡れた。
私は、思考を昂ぶりに跳ね除けられ、圭子のグラスを奪い置くと、押し倒すように被さる。
強く深く唇を 圭子の唇に押し付け、胸を手で覆った。
柔らかく、私の手に応えるそれは、息をしている。
単独の生き物の様に、私の手の平の中で、大きく息づいていた。
圭子は、全身の力を抜き去り、身を委ね、目を閉じ、横たわっている。
私がもう一度手を指を 優しく動かすと、圭子が微かに、ほんのちょっぴり、ビクッと動いた。
それを感じ突然、思考が昂ぶりを押さえ込むと、急にスーッと頭が晴れる。
そしてゆっくりと、圭子の胸に置かれていた、手を離す。
「ごめん、何だか俺、たまらなく・・・」
圭子は視線を合わせられず、しかしはっきりと
「私は全く構いません、誠二さんが思う通りを で」
「だから、本能で、剥き出しにして、なんだ今は」
「それは関係有りません、あなたが今なら今だし、先なら先です」
「えっ、どう言う事」
今度は私の目を見据え、優しくもしっかりと
「あなたが、私を抱く前に、やるべきことが有る。
そう思うのなら、あなたがそう思い貫きたいのなら、私はそれでも構いません」
こう言って、何の躊躇いも無く、微笑む圭子
「け・圭子、こんな、途中で・・・本当に、ごめん」
「ウフッ、何度も言いますけれど、ごめんは必要ありません。
私は、誠二さんを待つと、約束しましたから。
それは全てです、あなたの全てをお待ちする、そうさせて下さい」
私は頭が、ただ頭が下がった。

弁解も飾りもしない、正直に話す。
「これが男、仕様が無い奴だね、でも自然だし当然だとまで、言い切っちゃう」
「はい、その通りなんでしょう、あなたがそう言うのなら、何となく解りますけれど」
「だけど、貫くと決めたら貫く、馬鹿なようだけど、これも、男だ・・・俺か、ハハハ」
「クスッ、私もおばかだから、よーく解ります、ウフフッ」
私は、今だかつて無いほど、自分の年齢に、感謝した。
昔だったら、あの若い頃だったら、こうはいかない筈だ。
「圭子」
「誠二さん」
二人は身を起こし、見つめあった。
そして、何気なく、お互いに体勢を変えたとき、圭子が短く叫んだ
「キャッ」
圭子は突然両手で顔を覆う、私はタオルを肌蹴た、自分自身に気付いた。
身体こそが、ごく自然に反応している。
慌てふためき、寝袋を掴むと、腰に巻き、思い切り恥ずかしかった。
もう笑うしか、なかった。
「ハハハ、正直者でしょ、こいつは俺の意思に、おかまいなしだから、ハハハ・・・」
圭子は、今までに無い程、顔を首筋を真っ紅にし、
しかし、以外にも微笑みながら、はっきりと喋る。
「あー、もう、驚きました、始めて見るので」
「ハハハ、本当に失礼」
「いえ、別に、でもチョッと」
「えっ、チョッと、何」
「うーん、いいじゃないですか」
「あ、ああ・・・」
何だか圭子は打って変わって、嬉しそう、楽しそう。
女って、やっぱり、何時まで経っても、解らないなぁ・・・
「まっ、いいや、さあ呑み直そう」
「もう、またですね、大丈夫ですか」
「うっ、もう少し、ね、良いだろ」
「うーん、少しだけですよ、明日の事も考えて」
「はーい、解りました、少しだけね」
「本当かな、あなたの少しは、怪しいし」
「まあ、固い事言わずに、さあ」
「はい、くれぐれも、ですからね」

既に敷かれたか・・・悪くない、グラスを片手に、思った。

今夜は新月前か、星明りのみに照らされ、浮かぶ二人の佇む車。
豪雨が洗い去った天空は、事の他澄み渡り、金属的に光輝くスターダスト、無数に遥かに。
俺の貫きたいものって何だろう、私は、それらを見つめ、ふと思った。
けじめか、それは仕事だ、しかしそれもまだ、はっきりとは解らない。
はっきりとは解らないが、もう直ぐそこに、見えている、掴みかかっている。
それは確実だ、間違いない、具体的な姿は、やはりまだ解らないが。
とにかくそれを 明らかにしたい、でなければ駄目、そんな思いをとりあえず貫きたい。
ただ、何時までも、圭子を待たせたくはない、帰ってからを思い、グラスを口にした。
「誠二さん、遠くを見つめて、どうしたんですか」
「あっ、いや、色々とね」
「そうですか、私にはお仕事の事、よく解りませんけれど。
どうか、お体を大事になさって」
「うん、解った」
「もう、お休みになったら」
「ああ、そうだね、寝ようか」
「はい、じゃあ私も」
車内灯を消し、寝袋のジッパーを解き、広げ、二人は下に潜り込んだ。
頬と頬を合わせ、遠く遠く、遥か彼方へ・・・

空に、星屑が二つ、増えた。

真夏の日差しが、直接私の瞼を焦がし、更に眼球の奥、毛細血管にまで達した。
横を見ると、鼻筋の通った、長いまつげの圭子が、小さな寝息を立てている。
白く絹のような頬、指で触ると、ぷるんとした。
右肘をつき頭を支え、暫くそんな圭子を眺めていた。
やがて、瞼を折り、圭子の瞳が現れる。
「おはよう」
「あっ、おはようございます」
そう言うと、大きくあくび、まだとろんとし、より一層深く刻まれた、二重瞼が実に美しい。
「よく眠れたかな」
「はい、ウフッ」
圭子が前席に置かれた、まだびしょ濡れのデイバッグ、そこからビニール袋を取り出す。
「ああ良かった、中のパンは大丈夫だわ」
袋を開くと、菓子パンが4個、クリームの入ったが、あった。
それを朝食とし、時間を惜しむように、ペットボトルに残った水を飲み、腹を満たす。
「さあ、とにかくここを出よう」
「はい、解りました」
下着も衣服も昨日のまま、濡れたままで、前席に放り込んだまま。
しかし、今の格好では如何ともしがたい、とりあえず、ウエーダーを逆さにし、
溜まった雨水を出し、ぞくっとしながらも、二人は足を通した。
「いや、冷たいね」
「はい、なんかこう、素肌に張り付くようで、気持ち悪いです」
そして、運転席と助手席も、背中をつけると、ひやっとする。
エンジンをかけ、下り、例の場所に着いた。
車から降り、様子を窺う。
「良かった、あの後それほど、崩れなかったみたいだ」
「本当ですね、それで誠二さん、どうしますか」
「別なルートも有るけれど、そこも大丈夫かは解らない。
だったら、落ち着いたここを 通れるようにした方が、色んな意味で確実だ」
「はい、解りました」
私は、辺りを探し、適当な木片を持ってきた。
そして、振り返り、車の幅を確かめて、崩れた土砂上に線を引く。
車高を思い描きながら、木片で、土砂を掘り起こし、谷側へ送り落とした。
圭子も、自分に合った木片を手に取り、私に続く。
特に言葉は交わさず、が、目を見合わせる度に、微笑み、力が湧いた。
あれほどまで、冷ややかに感じたウエーダーが、何時しか蒸れ返り、大粒の汗が滴り落ちる。
圭子も汗だく、額もTシャツも、そして全身泥だらけだ。
汗を腕で拭うと、額にも、頬にも、こびり付き、二人とも泥まみれ。
ふと、互いの顔を見て、大笑い
「誠二さん、頭にまで泥がついていますよ、ウフフ」
「圭子だって、顔中泥パックだよ、ハハハ」
こんな事が、可笑しく、楽しい、なにをしても二人は。

小一時間は経っただろうか、私は運転席が汚れぬようにマットを敷き、4駆レバーを入れた。
一度バックしハブをロックさせ、しかし思い留まり、レバーを4駆ロー側に入れ直す。
「圭子、向こう側に下がっていて」
私は窓を開け、声をかけた。
圭子が崩れた個所を登り越え、向こうに離れたのを確認し、やや勢いをつけ、
小山へ突入する。
エンジンが唸り、リミッテッド・スリップ・デフが、ぐっと効くのを感じた。
小石を泥を跳ね上げ、ゴムの焼ける臭いを発散し、タイヤはギュルギュルと回転する。
景色が空から地に変わり、車は、崖崩れ個所を越えた。
向こうで、圭子の喜び跳ねる姿が、はっきりと見える。
「誠二さん、良かったですね」
飛び跳ね、駆け寄る圭子と、私は車を降り、喜び抱き合った。
「うん、本当に良かった、うん、良かった」
安堵した二人は、泥だらけの互いを見て、また、笑った。
「そうだこの先、道が安定した先に、チョッと右へ入ると、小さな沢があるんだ。
そこで、泥を洗い流そう、ね、泥パックのお嬢さん」
「はい、泥だらけの旦那様」
だんな・・・ドキッとさせられたが、ただ無邪気なだけの圭子に、大きく微笑んだ。
「さあ、行こう」
助手席にも、マットを敷き、できるだけ泥を振り払い、車に乗り込んだ。
道幅は徐々に復活し、路面も安定してきた頃、右に折れる林道が現れた。
そこをほんの少し分け入ると、小さな橋、渡りきった所に駐車スペースがある。
窓から流れを見ると、まだ、やや増水しているが、濁りは然程認められない。
車を停め、濡れた衣服をマットを取り出し、橋際から沢に下りた。
とりあえず、泥だらけのマットやウエーダーを洗い、河原にマットを広げ置いた。
次にどちらのか解らぬ、山に盛った衣服や下着を 無意識に掴み、洗う。
「あっ、これ、誠二さんのぱんつ」
「ハハハ、こっちのは、圭子のぱんつだ」
次々と洗い終わり、マットの上に、広げてゆく。
そして、圭子は着ているウエーダーを脱ぎ、河原に広げた。
更に、Tシャツやトランクスをまで、何の躊躇いもなく、脱ぎ、洗い始めた。
「うわー、汗だくで、びしょびしょ」
と言いながら、何を気にするでもなく、ごく当り前のように。
私は、そんな圭子を見て私は、うんうんと、心で大きく頷く
[君は、やっぱり君だ。一筋の曇りなき、朗らかな太陽だ]
私もウエーダーを、Tシャツを脱ぎ、洗った。
ふと、洗う手を止めると、真夏の日差しにキラキラと煌く、
水飛沫より透明で眩しい圭子の裸体。
うっとりする、素晴らしく美しい。
「何を見てるのですか、えい」
ぼーっと見惚れる私に、圭子は水をかけた。
「あー、やったな、ほら」
「キャッ、冷たい、よーし、えい」
「ハハハ、負けるもんか、やあ」
「フフフ、やったわね、どうだ」
ハハハ、フフフ、一糸纏わぬ、少年少女の如き戯れ。

タオルに水をたっぷりと含ませ、圭子は私の背を流す。
次に私が、圭子の小さくも頼りない、肩から背に流した。
よく絞ったタオルで、身体を拭き、流れから出る。
そして、衣服の乗っていない、乾いたマットを日陰に移動し、二人で座った。
「考えてみれば、圭子、乾くまでこのままだよ」
「あっ、そうでしたね、深く考えず、洗っちゃいました、エヘッ」
「もう、君らしいよ、ハハハ」
「でも、誰かが来たりしませんか」
「とりあえず、上の道からここまでは見えないし、そこに車を停めてあるから、誰も来ないよ」
例え車が来ても音でわかる、何より平日の、こんな場所だしね」
「フフッ、安心しました、誠二さんになら、全然構わないけれど、
誰か他の人が来たら、恥ずかしいなって、思っていたから」
「ハハハ、こんな河原でね、怪しまれると言うか、ね」
「はい、やはりヘンですもの、ウフッ」
圭子はそう言うと、両腕を後方に伸ばし、体を支え、足を投げ出すように、した。
私も、天を仰ぐように、そうした。

沢を伝った、流れを纏った風が、実にすがすがしく、心地よかった。

圭子は、ふと、何かに気付いた様子
「誠二さん、今日は、大丈夫なんですね」
「えっ、何が」
「エヘヘ、その、おいたさん」
「あっ、ああ、何を突然」
「不思議なんですもの、よく解らないわ」
「昨晩は、妙に君のその・・・気になって」
「ええ、自分でも何であんなに、恥ずかしかったのか、解らないほどでした。
そのせいで、だったのですか」
「ああ、無性にむらむらしちゃって、何だか恥ずかしがる姿にね」
「そう言うものなのですか、ふーん。
でも誠二さんに、胸を触られて、自分でも驚きました、あんな感じは初めてなので」
「ああ、それに気付いて、何だか駄目だと」
「駄目・・・なんですか」
「うん、あれ以上だと、最後まで行かないと、それこそ、申し訳ないと言うか失礼だし。
止めるのなら、今直ぐにと直感した」
「へー、自分では、良く解りませんけれど・・・
ああ、そうか、うん、何となく解ります、熱くなったし、エヘヘ」

明るい、このような場面でも、君は太陽の様に、明るく邪心ない。

「でも、極めて健康な証拠だよ、あんな感じとか、熱く、になるのは」
「そうなんですか、誠二さんも健康、でしたね、クスッ」
「うん、年甲斐も無く、とにかく、失礼しちゃったね」
「な、何をおっしゃいます、失礼だなんて。
元気で安心しました、ちょっぴり嬉しかったんです」
「ええっ、何で」
「だって、私に女を感じてくださったのでしょ」
「ああ、そう言う事か、何言ってるの、いつも魅力を感じているって」
「はい、それは何度も、聞かせてもらっていますけど、でも」
「でも、なんだい」
「でも、やっぱり見ると、安心しました、嬉しかった」
「ふーん、そんなもんなんだ、実際に見ると、なんだ」
「はい、だけど、ちょっと驚いたのも確かです、クスッ」
「ああ、やっぱりヘンだよね」
「ヘンと言うか、だって、共同浴場で、あんなの見たことないし。
話だけは、友達から、聞いていましたけれど」
「そうだよね、共同浴場でなんか、あんなになったの、見ないものね、ハハハ」
「ウフフッ、じゃあ今は、お風呂の時と、同じような感じなんですか」
「うん、そんな感じかな、勿論君の身体を美しいと、
女性を感じているのは、間違いないけれど」
「わー、何だか照れちゃいます、でも、ああなっちゃう時とは、違うんですね」
「うん、そうだね、圭子だってそうだろ、お風呂や、今ここでは」
「ええ、共同浴場は、当たり前すぎて、ああ、男の人だな、くらいしか思いません。
今も・・・チョッとは違うかな、全然恥ずかしく、無い訳じゃないですよ。
何と言っても河原だし、それに昨日の事が、まだ頭から離れないし」
「うう、忘れてよ・・・と言っても、無理だよね」
「はい、でも他の人はともかく、誠二さんには、殆ど抵抗無いです、ここでこうしていても」
「うん、君のその、開放的な明るさ、朗らかさが、俺にも伝わる。
別に、どうって事ないじゃないか、汚れたから洗うんだ、圭子とだし、こんな感じだよ」
「ウフフ、嬉しい・・・だけど、こんな話し、照れもせず話す私。
自分でも不思議なくらいです、でもよく考えると、はしたないですね、私って」
「いや、全く自然だよ、君らしい。
だって性の事って、当たり前だし、その上お互いに、不思議なものだから。
それを陰湿に話すのと、圭子の様に話すのと、同じ事でも、まるっきり、別物になるからね」
「まだ、経験が無いから、余計興味あるんでしょうか、私。
何も知らないから、かえって大胆に、でしょうか」
「いや、俺だって、この歳になっても、わからない事だらけさ」

まさかここに来て、こんな話題になろうとは、思ってもみなかった。
でも、男と女、特に、永く暮らしてゆくのなら、とっても大切なことじゃないか。

「そんなに、誠二さんでも、解らないものなのですか」
「そうだね、昔・・・若い頃に比べれば、多少は、解って来たように思うけど」
「ああっ、昔は沢山女の人を 泣かせたんでしょうね、フフッ」
「いやいや、そんなに経験は無いよ。
ただ、昔と大きく違うのは、自分はある程度、よくなってきたんだ」
「自分は・・・ですか」
「うん、女性のあの姿を見て、満足してしまう事もあるんだ。
それで、お終いでも、あまり拘らなくなった、自分の・・・が無くても」
「へー、そうなんですか、そうなると生殖行動とは違いますね・・・
あら、いやだ、私ったら、エヘッ」
全く屈託無い、明るく健康的、変に身構えもしない。
私も、圭子のお陰で、自然と微塵の邪無く、ごく当たり前に話せる。
「うん、その通りだね、人間だけに与えられた、快楽を伴った、疎通法だと思う。
男と女、二人が通じ合って、初めて成し得る。
生殖を意識しなければ、しないほどに、お互いが交わり合い、お互いを確認しあう。
どんなに忙しくても、表面的には上手く行って無くても、確認できるんだ、お互いを」
「うーん、深いんですね」
「それもそうだけど、楽しいと言うか、嬉しい、気持ち良い、やっぱりこれだね」
「へぇー、いいものですね、そんな気持ちに、ですか」
「うん、とっても、お互いに」
「私たちも、そうなれるのでしょうか」
「ああ、間違いなくだ、ただ女性・・・圭子の場合、直ぐには無理かもしれないけど」
「あっ、らしいですね、でも、自信ないな・・・」
「大丈夫、ずーっと、一緒だろ、俺たち」
「はい、それはもう、お願いします」
「うん、こちらこそ。
だから、絶対に大丈夫だ、経験がないと、不安なのは解る。
でも、必ず俺が、おまえを だ、圭子」
「はい、解りました」
「ずーっと、一緒に、だよ、圭子」
「はい、死ぬまで、ご一緒させて下さい、誠二さん」

身体を合わせるより、深く強い絆を生む、この歳にして、初めて解った。
何だか圭子に、教わったようにさえ思う。

-つづく-

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