やめ(山女)塚
20.秘境の宴(3/18)

「誠二さん、起きてください、ねぇ、誠二さん」
最初は柔らかく、気持ち良いほど、そして、次第に強く私は揺り動かされた。
夢から覚めても、居るのは、やはり圭子だ。
「あっ、ああ、ど、どうしたの・・・」
何処から現実に戻ったのか、なかなか境が、はっきりとしない。
「何だか空の様子が、変わったと言うか、雷が・・・」
私は直ぐに、跳ね起きた。
「あっ、遠くでだけど、ゴロゴロと鳴っているじゃないか。
まずい、圭子、直ぐに撤収だ」
「撤収・・・ですか、そんなに慌てて、どうしたんですか」
「説明は、歩きながらだ、とにかく急いで」
「は、はあ・・・」
圭子は呆気に取られていたが、私の慌て様に何かを感じ、荷物を纏める。
そうしているうちにも、雷は近づき、稲妻も光りだした。
私はロッドを手近の崖上、溝状の場所を見つけ、そこへ隠すように置いた。
今後の雷と、機動性を考慮し、また何時の日か、取りに来れば良い。
そして、雨具を探した。
無い、ベストのポケットを探すが、この時期持ち歩く、携帯用のそれが、何処にも無い。
今回の釣行は全てに不意で、急遽、忘れてしまったようだ。
圭子も勿論の様に、持ち合わせていず、
「これから土砂降りだと思う、でも雨宿りしている余裕は無い。
雨が降り出したら、さっき使ったシートで凌ぐんだ」
只ならぬ私の様子に、圭子も口を真一文字に、閉じた。
「さっ、行くよ、まさかこんなに天候が、急変するとは思わなかった。
深く寝てしまった俺、それもそうだが、もう少し君に、言っておくべきだった」
「誠二さん、そんなに急を要するんですか、雨宿りは駄目なんですか」

とにかく歩き出し、訳を少しづつ、話した。
雨もぽつぽつと、落ち出す。

「何時頃から、天気が崩れ始めたの」
「えーと、1時間前ほどです、何だか雲の様子が、変だなーって」
「そっか、その時だったら、十分だったが。
ごめん、圭子、俺の不覚だ」
山の、特に標高が高いほど、天候は急変し易く、荒れ易い。
雷が鳴り始め、この様に雨が落ちる、すると途端に、バケツをひっくり返したようにだ。
激しく急に、大粒の雨が降り出す。
私はシートを広げ、二人で、被った。
「そうなんですか、だけど何故、やり過ごさないのですか」
圭子がそう言うと、正に絵に書いたよう、大粒の雨が我々を叩き始める。
「雨宿りも、時と場合によるんだ」
私は圭子を引き寄せ、歩きながら言った。
何時去りゆくか解らない、このような暗雲、今の時間からだと、下手をすると真っ暗だ。
それと、何箇所もある渡渉地点、増水がそれを 不可能にする場合もある。
何よりこんな、急峻かつ狭窄な渓で恐いのは、鉄砲水、だ。
「そ、そうなんですか、鉄砲水ってそんなに」
「ああ、逃げ場の無いところで、襲われる可能性もある。
雨が激しく降り続くと、何処かで引っ掛かるように溜まり、一気にどっと押し寄せ・・・
前兆は有るらしいが、あくまで聞いた話でしかない、何より早く戻るのが一番だ」
歩きながら手短に、要点中心にだが話す。
それでも、尋常でない緊張感を 圭子は感じ取ってくれたようだ。
シートを被ったままでは下りられない、手足を使う場が、出現した。
圭子にそれを被らせたまま、私は一旦下り、圭子を受け止める。
そうこうするうち、吹き荒れる強風が、圭子の手から、シートを奪った。
「ああっ、上の方に、シートが・・・」
「仕様が無い、あれに拘ってると危ないから、かえって良かったと思おう」
「はい、濡れるのは、平気です、私」
気丈にも微笑む、救われる、本当に圭子には。
私も、にっこりと
「うん、濡れたら拭くだけさ、足を踏み外すより、マシだね」
心配したほど雷は接近せず、とりあえずは安心、
だが、衰えを知らぬ豪雨で、明らかに水が笹濁り、勢いもみるみる増してきた。
かなり下ってきたが、今度は逆に、渡渉が多くなる。
私が、ある程度まで流れに立ちこみ、圭子の手を取り、引き寄せ、送る。
二人とも、とっくにずぶ濡れで、滴る雨がウエーダーの中にも、溜まり始めた。
相変わらず大粒のそれが、激しく我々を叩く、帽子を通しても、痛いほど。
それ以上に、二人ともTシャツ1枚だ、剥き出しの肌に、水のつぶては容赦ない。
圭子の、ほんのりと日焼けした二の腕が、可哀相なほど、赤く痛々しい。
並んで歩ける場合は、私が、圭子に被さった。
「誠二さん、大丈夫ですよ」
「うん、気にするな」
歩きながら、目と目を合わせ、微笑み、軽く唇を合わせる。

[君となら、この先、何があっても、乗り越えられる]

もう少しで元に戻れると思えたとき、水の色に、只ならぬ、異常を感じた。
明らかに違う、流量は急激に増えていないのに、土や枯葉が混じる。
[これが、話に聞く前兆か]、背筋が凍った。
「圭子、走るんだ」
私は圭子の手を引き、振り返らず、走った。
そして最後にして、最難の渡渉個所、流れを渡り坂を登れば、助かる。
ほんの目の前に、退渓点がある。
ふと上流を見ると、ゴーッと地を揺るがす轟音とともに、
泥流が、岩を木を いとも簡単に、跳ね除け荒れ狂っていた。 
「圭子、前だけを見るんだ」
「はい、誠二さん」
私は、圭子を下流側に導き、抱えるよう流れに突入した。
来た時の、ほぼ3倍にまでなった濁流が、腰の辺りを押し、
流されるようにじりじり進む、精一杯だ。
私が圭子を引き寄せ、圭子が私を支える、何度も流れに、足を掬われそうになりながら。
木の葉の次は流木だ、最初は細い枝程度だが、徐々に数を増し、襲い掛かる。
やがて、電柱程の木片を 辛うじて避けた時に、激痛が走った。
腕の太さ程度だが、急流に乗った古木が、私の右大腿部を 直撃したのだ。
「誠二さん、大丈夫ですか」
圭子はその頼りない腕を 後ろから私の胸に回し、肩で受け止める、
ぶるぶると渾身の力を震わせ。
カッと目を見開き、この上なく奮い立つ、山に叫んだ。
「こ・この野朗、なめんなよ」
これしきで、負けてたまるか、拳を握り締め、全身に力を漲らせた。
ギリギリと、奥歯を鳴らし、前に前に、濁流を蹴散らせ、圭子を引き進んだ。
やっと渡りきり、しかし、休む間も無く、坂を攀じ登る。
歩を運ぶ毎に、走る激痛、しかし、進む力は衰えず、
圭子を抱き上げるように、坂を登りきった。
ヘナヘナと座り込む二人、正しくその瞬間、眼下を鉄砲水が、
這い響く唸りと共に、川幅を覆い尽くし、襲い掛かる。
信じられぬほどの大きな岩を跳ね上げ、一抱えは有りそうな大木を木の葉の様に舞わせ、
褐色の悪魔は、己の力を誇示するよう、突き進む。
遥か上流、馬鹿らしいほどの理由で造られた、砂防堰堤に、怒り狂った山を見た。
人間の愚かさを 嫌と言うほど晒している、としか思えない。
恐怖で、ガチガチと歯を鳴らす圭子、それに気付き、私は彼女を抱き寄せる。
恐怖だけではなかった、歯を鳴らさせたのは。
長時間雨に、打たれ、続け、体中が冷え切り、震えていた。
もっと抱きしめ、私が暖めようとも思ったが、自分も、大差なく、
冷え切っていることに、気付いた。
「圭子、とにかく車だ」
「・・・」
声も出せずの、圭子、小さく頷くのみ。
雨はようやく峠を越え、しかし、日は殆ど暮れていた。

車のドアロックを開けながら、気付き、またも血の気が引いた。
あの、崩れかけた、崖・・・
「圭子、また訳は後で話す、とにかく後席に乗って、タオルで身体を拭け。
直ぐに車を 出すぞ」
「私も助手席で良いです、私だけなんか、あなただって。
それに、こんなびしょ濡れだし・・・」
「何を言ってる、早く・・・」
しかし、圭子は、転がるように、助手席へ乗り込む。
「全く、君は」
「誠二さん、急ぐのでしょう、さ、私に構わないで」
「仕様が無いな、とりあえずそこのタオルで、拭いていてよ」
「はい、解りました」
2・3分下ると、来た時に少々崩れていた個所、悪い予感が的中だ、大きく崩れている。
「参ったな、難しいぞ」
「越えられないですか」
「全く不可能じゃない、でも、見てごらん」
崖よりパラパラと、相変わらず、小石や土塊が剥がれ落ち、所々水も吹き出ていた。
「このままの状態だと、何とかなるかも知れない。
でも、越えている最中、その振動で、いや、そうでなくても、
何時また崩れ落ちるか解らない、それに、こんなに暗くては、何かあったら、危険だ」
「・・・そうなんですか、どうしたら・・・」
私は、考え抜いた。
一旦戻り登れば、他のルートもある。
しかしそこは、別尾根をぐるりと回るため、非常に遠回りだ。
それにそこも、大丈夫だと言う保証は無い、何より、あまりウロウロ出来ない。
燃料が、事もあろうに、残り少ないのだ。
何時もここに来るときは、必ず里で、燃料を満たしてから、来るのに。
今日は、今回は、全てに於いて、悔やまれる事ばかりだ。
拳で、自分の頭を 何度も叩いた。
「誠二さん、あまり思い詰めないで。
何であろうと話してください、私たち、この先ずーっと、一緒なんですから、ね」
そう言って、紫色の唇をも緩ませ、圭子が微笑んでいる。
またも、救われる、いや、和み力を与えられた、その圭子に。
[独りじゃ、ないんだ]

そう、ずーっと一緒に、照る日も、陰る日も、だったね。

私は、自分の見解を話し、その上で、判断した。
「安全な場所、さっきの広い空き地で、夜を明かそう。
暗くなってしまった今、動くのは止めた方が良い」
「はい、誠二さんの判断に、お任せします」
空き地に戻ると、殆ど雨は収まっていた。
後席へ乗り込む前、外で、素早く身に付けたものを 脱ぎ去る。
これ以上乾いた場所を 無くしては、自分たちを 更に追い詰めるばかりだから。
今後の事、そして燃料の事を思うと、車のヒーターは、出来るだけ使いたくないし。
前席へ脱いだものを放り込み、とにかく後席へ、飛び込んだ。
二人とも震えながら、1枚のタオルで交互に、身体を拭いた。
この前の温泉の事もあり、お互いに羞恥心は全く無い、拭き難い背を拭いあう。
そして1つの寝袋、抱き合いながら、潜り込む。
暫く震えながら、互いの身体をさすりあった。

やがて、体温と笑みが、湧いてくる。
「あっ、星、星が出ていますよ」
「本当だ、さっきの事は、何だったんだろうね」
「神様が、こうしろと、導いてくださったんですよ」
「ハハハ、そうか、そうだったんだ」
「ウフッ、ええ」
強く強く、抱き合い、互いに温もりを感じ、笑った。
「あっ、だけど、圭子大丈夫かい」
「えっ、何がです」
「今晩、ここで過ごしちゃって」
「はい、今回は連休ですから」
「そうか、でも・・・」
「それに、ここは友達の家、ですよね」
「あっ・・またか、悪い子だ」
「何でですか、ここは違うのですか」
「あっ、いや、そのとおりだね、うん」
「そう言えば、誠二さんは・・・」
「うん、大丈夫だ、俺も今回は、ちゃんと休暇を貰ってる」
「そうですか、安心」
「うん、ハハハ」
「フフッ」
何時しか、満点の星が、二人の顔を照らしていた。

殆ど体温が戻ってきたので、私はふと思い、寝袋から起き出し、
車内灯を点け着るものを探した。
何時も、車内に忍ばせてある、バックを取り。
軽い、焦る、そう言えば前回・・・またもや不覚だ、洗濯に取り出し、そのままだった。
見付かったのは、Tシャツ2枚と、トランクス1枚、それにタオル、だけ。
「あー、全くもう、本当に今回は、何から何までだ」
「誠二さん、それがあるだけでも、良い位じゃないですか。
別に私は、このままでも、良いですよ」
そう言って、ちょこんと正座し、屈託無く微笑む圭子。
「うん、そうだけど、着ないよりはね、一応有るだけでもさ」
そう言って私は、Tシャツとトランクスを圭子に渡し、自分はとりあえず、Tシャツを着た。
「Tシャツ着て、下だけはそのまま、って言うのも、何だか・・・」
「上を着ると、やはりヘンです」
「でしょ、ハハハ」
「もう、誠二さん、何だか可笑しい、フフフッ」
ただ可笑しいだけ、他に何も無い、私は腰に、残ったタオルを巻いた。
「ハハハ・・・おっ、そうそう、おなかが空いた、食べるものはっと」
「私もお菓子くらいなら、持ってきています」
私は、車内に常備してある、缶詰や、ミネラルウオーター、カップ麺を取り出し、並べた。
「ワアー、十分じゃないですか、流石ですね」
「うん、こんな時のため、食べ物がないと、ね。
更にほら、ジャジャーン」
私は、ウイスキーのボトルを得意げに、掲げた。
「あちゃー、凄すぎます、誠二さん」
「どうだ、参ったか」
「ハイハイ、何もいえません、完敗です」
「よっし、よし、じゃあ、その完敗に乾杯しよう」
「もうー、お気楽ですね、あなたって」
「だって、もう大丈夫だし、思い悩んでも仕方が無い、
明日は明日にならないと、来ないんだ。
どうせならパーっと、楽しく過ごそうよ」
「うーん、そうですね、その通りだわ」
「はい、ほら、圭子のは、水で割ったよ」
「あっ、ありがとうございます」
「じゃあ、乾杯」
「ウフッ、乾杯」

神が導きし宴、誠二と圭子の為に。

缶詰をスナック菓子を開き、窓を開け湯を沸かし、カップ麺を啜り、また呑む。
ここは間違いなく、山奥の、誰もいない、かつての秘境だ。
二人だと、二人でだと、何処であろうと、関係ない。
綺麗な衣装も、豪華な食事も、要らない。
レストランも、ホテルも、敵わない。
殆ど裸に近く、車の中でも、楽しくって仕様が無い。
「あーでも、さっきは驚いたね」
「本当に恐かったです」
「うん、俺も実際には、初めてだ、鉄砲水。
これほどの天候急変も、同じくだよ」
「雲が白から黒へ、あっという間にでした」
「そうか、でも、ここまでではなくても、山はこんな感じだ」
「そうなんですか、里とは随分違うのですね」
「うん、山は本当に恐い、そんな所で遊ばせてもらうのだから、
気を引き締めて、なんだけど」
「緩んじゃいましたね、フフッ」
「ああ、完全に、緩みきっていたよ」
「誠二さんの寝顔なんて、こーんなでしたよ、よだれ出して」
圭子はだらしなく口をあけ、情けない表情を して見せた。
「ううっ、本当に、そんなだったの、恥ずかしい」
「うっそー、よだれまでは」
「ああ、こらこらぁー」
「エヘヘッ、許してー、でも、可愛い寝顔でしたよ」
「あっ、ああ・・・、やめろよ」
「あれ、照れちゃって、カワイイ」
「もう、やめてってば」
「ウフフフ」
「ハハハ」

終わり無き宴、繰り返し。

しかし、話しながらも、先程から妙な気分が、高まる。
圭子が男物のトランクスや、胸が透けているTシャツを 盛んに気にしだしたから。
Tシャツの胸の辺りを 摘んでは、うつむき、摘んでは、うつむき、しているから。
裸の時とは、比べ様も無く、悩ましい光景だ。

エロチックって、いったい、何なんだろう。

-つづく-

19.指輪(3/13)

やはり遠足だった、誠二と圭子の。
手を繋ぎ、じゃれるよう坂を下り、滑りそうになった、と言っては笑い、
虫が頭に停まっている、と言っても笑った。
やがて流れの音が間近になり、大岩の散在する河原に下りた。
「ここは、かなり上流部だから、結構登りがきついよ。
そしてそれを 30分程行くのだけど、圭子さん、大丈夫かな」
「誠二さんは、何度も行かれているのですよね」
「うん、更にもっと上まで、何度も」
「じゃあ、多分大丈夫です」
「でも、男の足とは違うし、疲れてきたら、教えてね」
「ぜーんぜん、へっちゃらだと、思います」
「えっ、何で」
「だって、私の方が、ずーっと若いから、ウフッ」
「あー、何がウフッ、だよー、オジサンを 侮らないように」
「誠二さん、疲れてきたら、言って下さいね、私がオンブしますから」
「ハイハイ、その時は、お願いしますよ」
ウフフ、ハハハ、私は圭子の肩に、圭子は私の背に、腕を回し、
とにかく、何もかもが、楽しくって仕方が無い。

歓声を渓に木霊せ、登り始めた。

里から来たそのままのスタイル、二人ともTシャツ1枚の姿で、
流れの飛沫を腕に感じながら、時には、岩に足をかけ、流木に手をかけ、登る。
里よりも少々近くなった太陽、頭上に鎮座し照るが、汗は吹き出すほどでなく、
時々額に現れるそれを 涼風がさらい、流れ出すまでにさせない。
そして、日陰に入ればひんやりと、涼しくも爽快な山岳渓流だ。
私は圭子の背丈を前方に描き、無理の無いルートを選び、時折振り返った。
華奢な彼女が一生懸命、私の後をついて来る、何をするも、思うも、健気で可愛い。
顔を上げたとき、そんな私に気付くと、圭子は晴れやかに微笑む。
「エヘヘ、結構大変なんですね」
「あれれ、ぜーんぜん、へっちゃら、じゃなかった」
「うっ、いやー、エヘッ」
「あっ、何だか俺、疲れたなー、オンブしてよ、圭子さん」
「あん、もうイジワル」
「ワハハ、どうだい、オジサンを見直したか」
「はい、参りました」
「ハハハ、素直で宜しい。
まあ、慣れも結構大きいんだ、ほら、もう少しだ、圭子さん」
「はあ、でも・・・もう・・・さん、は」
「あっ、うん、そうか・・・頑張れ、圭子」
「はいっ、誠二さん」
私は無言で、圭子の背にある、デイバッグを軽く引いた。
「あっ、いや、大丈夫です」
今度は、微笑みだけかけると、圭子はコクンと頷き、肩のベルトを外した。
私は二つのベルトを 左手で纏めて握り、右腕を通し、再びロッドを掴んだ。

右肩に圭子の温もりが伝わり、圭子が、香った。

暫くすると、水の落ちる音が響き、少々開けた河原と小滝が見えた。
岩肌を突き破った清水が、ちょっと見上げる高さから湧き出す程度、
それが一抱えほどの溜まりに落ち、そしてそこから暫く流れ、川に注いでいる。
あくまで透明にして清冽、手を入れると、刺すような冷ややかさだ。
「うーん、清々しくって、素晴らしい所ですね。
どこかの庭園・・・いえ、そんな作り物とは違いますけれど、
何て言うか、誰かが、何かが、造ったようにさえ感じます」
圭子は、腕を大きく上空に広げ、伸びた。
「そうだね、それは神、神が創ったのかもしれない」
「あー、神ですか、そんな気もしますね」
「そして、これもフライフィッシングだよ、圭子」
「えっ、これも、ですか」
「うん、こんな事を思ったり、感じるのも、なんだ」
「へぇー、そんなものなのですか。
やっぱり難しいな、大人は、エヘッ」
「ハハハ、そのうち解るよ、君にも」
「はい、解るまで、何度でも、ついて行かせてくださいね」
気負わず、自然に、湧く、そして言葉が流れる。
「ああ、勿論だ、一生かかってでも」
「一生・・・そんなにかかるのですか、解るのに」
「そうだ、一生かけて、教えたい、伝えたい、俺を
そして、一生かけて、知りたい、受け止めたい、圭子を」
圭子は、はっと気付き、そして、その大きな瞳を潤ませ、言った。
「はい、一生、ついて行きます」
「一生だぞ、死ぬまでだぞ、圭子」
「はい、あなたに、誠二さんに、私・・・」
圭子の、震える声が、途絶えた。
「必ず、必ず、迎えに来る」
圭子は満面の笑み、しかし、何かを堪えていた。
「私もう泣きません、絶対に。
あなたが迎えに来るまでは、何があっても、絶対に泣きません」
「ああ、俺もそうする、そしてもう、絶対に立ち止まらず、前を向く」
唇を重ねた、深く長く・・・今までになく。

渓が一瞬ざわついたのは、祝福して、くれたのだろうか。

「そろそろ」
「はい」
私がデイバッグを降ろすと、圭子は口を解いた。
中からコッヘルを取り出し、清水溜まりに水を汲む。
「誠二さん、大事なもの」
「おっ、そうそう、ビールだ」
「何をおいても、でしょ、フフ」
「そうだね、これは心のごはん、だし」
「えっ、ごはんって、そんなに沢山の、種類がありましたか」
「焼酎に、ウイスキー・・・、うん、嬉しいな」
「ウフフ、良かったですね、さあ、後は私にお任せください」
そう言うと、私がベストの、背ポケットから取り出した、
数本のビールを 溜まりに沈めた。
「うん、じゃあ、ちょっと」
「はい」
私はロッドにラインを通し、テレストリアル・パターンを結んだ。
ロッドを振るのも久し振り、1月以上握ってもいなかった。
少しだけ歩き、大きな岩の脇から、落ち込みに続くプールを覗くと、ジンクリアな水、
底の方でイワナが悠々、クルージングしていた。
[久し振りの俺に、難題をか、よしよしデカイの、知恵比べだ]
腕を高く掲げ、斜め後方でサイドフォルス、身を低くし、反転し、フライを送った。
白泡が消えかかる辺り、狙った所よりやや手前で、
フライは小さな波紋を 作り広げた。
息を殺し、岩陰から成り行きを凝視、時々ラインを慎重に手繰った。
緊張感溢れる、こんな雰囲気が堪らない。
ゆるゆるとフライは流され、イワナの行動とは逆に。
そろそろピックアップを感じた時、イワナはフライに気付き、身を翻した。
スーッと真下に構え、フライを 品定めているかのように。
[来い、ほら、来るんだ]
イワナはゆっくりと浮き上がり、私のフライを これもまたゆっくりと、咥えた。
一瞬にして、静から動へ、ラインが跳ね上げられると、辺りは別種の緊張に変わる。
ロッドは軋み悲鳴をあげ、ラインは綱引きに耐え、私は両腕で臨んだ。
岩陰を離れ、プール際に降り、ラインを更に手繰り寄せる。
ようやく観念したイワナは、差し出すネットに収まった。
ネット内で私を見上げるイワナ、ずっしりとしたそれを 高く掲げ叫んだ
「おーい、釣れたよ、圭子ー」
気付いた圭子は、両手を上げ、拍手した。
「良かったですねー、誠二さーん」
私は大きく頷き、手を振って応えた。
「もうこれで十分だ、楽しませてくれて、ありがとう」
イワナに感謝し、フックを外し、プールへ戻した。
矢の様に白泡下へと、戻るイワナを見届けたら、フライを外しラインを巻き取る。

渓は緊張を 解いた。

圭子の所へ戻ると、お湯がぐつぐつと沸いている。
「あらっ、もうビールが、恋しくなったのですか」
「うん、もう釣りは十分だし、何より君が恋しいから」
「まあ、お上手なこと、ウフッ」
そう言って、清水溜まりから、ビールを取り出し、私に渡す圭子。
プルタブを起こすと、シュワーっと弾ける音が、一層涼感を引き立てる。
一気に呑む、ビールにはこれが流儀だ。
ビール缶を口から離すと、目を硬く瞑り眉間に皺を寄せる、が、口元は緩んでるのだ。
圭子の小さな肩を、バンバンと叩き、やっと言葉が出る
「ウハー、うんまい、いやー、生きてて良かった」
圭子はクスクス笑い
「大袈裟ですね、チョッと、解りますけれど」
「いや、これが、旨いんだ、この瞬間の為に、
生きてるのかも知れないと、思うほどね」
「ハイハイ、良かったですね、フフフ。
もう直ぐ素麺ができますよ、はい、汁をどうぞ」
「おおっ、今回はちゃんとした、ガラスの器だね」
「また、コッヘルでに、なさいますか」
「いや、こっちの方がいい、笑い転げなくて、済むしね」
「ハハハ、そうでした」
「でしょ、ワハハ」
楽しい、何気なく話すだけで、嬉し楽し。

圭子は菜箸で素麺をざるに移し、清水溜まりで冷やす。
ザッザッ、手馴れた手際で、水を切る。
そして、冷水を満たした別のコッヘルに、素麺を入れた。
私はまた、ビールをあおり思った。
[一緒に、暮らすようになれば、毎日、毎日、こんな風だ]
思い浮かべしみじみ、ニコニコ
「どうしたんですか、気分良さそうですね、はい、出来上がりましたよ」
「うん、何だかね、そうそう、圭子も飲めば」
「はい、では、私も」
「俺のほうが先に、呑み始めちゃったけど、改めて乾杯」
「何にしますか、乾杯は」
「決まっているじゃないか」
「ええ、フフッ」
「二人の未来に、乾杯」
「乾杯」

所が・・・こんな二人に、望む未来は来ないのだ。
勿論この時点では、知る由もない、が。

私は2本めのビール、圭子も顔を少々赤らめ始めた。
「ねっねっ、素麺流しやろうよ」
「ええ、何処でですか」
「ほら、そこの溜まり辺りから流せば、ね、良い感じでしょ、
川に入る前までの間に、すくえば」
「もう、大丈夫ですか」
「うん、君の作った素麺、1本たりとも、
イワナの餌にさせないから、ねぇ、ねぇ」
「あらっ、イワナは、素麺なんか、食べるのですか」
「うっ、ハハハ、うっそー、バレバレだー」
「もう、困った人、子供みたい」
「いや、本当に、取り逃がしはしないから」
「解りました、じゃあ、行きますよ」
圭子は、清水溜まりからの流れ出しに、素麺を一撮み流した。
私は左手にガラスの器、右手の箸で必死に素麺をすくう。
膝をつき、素麺を追い、何度も箸を流れに突っ込む。
時々、コケそうに、転びそうに、なりながら。
やっと全部がすくえ、器から素麺を啜る
「う、旨い!」
振り返って圭子を見ると、おなかを抱え、笑っている。
「ど、どうしたのさ、ねっ」
「だって、なんだか可笑しくって、あーハハハ」
「あっ、そう、ヘヘヘ」
「あー、本当に可笑しい、誠二さんったら。
もう一度、やりますか」
「うー、もういい」
「えっ、何でですか」
「だってさ、膝が、膝が痛くって」
「もう、子供地味たことを やるからですよ、フフッ。
大丈夫ですか、見せてください」
そう言うと、私の膝を その白くて小さくて柔らかい、手の平でさすった。
私は、ビールを口にし、まどろんだ。
実に気持ち良い、これまでの疲れが、一気に吹っ飛びそうなほど。

私は、ぼんやりしながらも、ふと、気づいた。
そして、ビールの空き缶からプルタブを折り取り、フォーセップを使い形を整え、
フックシャープナーで鋭利な所を削った。
片づけを終えた圭子が、近寄り、覗き込む
「あら、何を作っているんですか」
「ああ、ちょっと気づいて」
「何をですか」
「うん、今日みたいな日に、必要なもの」
「必要・・・、えっ、それ、まさか指輪ですか」
「あっ、ああ、だけど良く考えると、ダメだ、こんなの」
「もう、今日は何だか、子供みたいですよ、誠二さん、ウフッ」
「ハハハ、本当に、それも幼児レベルだ。
眠くってさ、ボーッとしてて、こんなもの、捨てちゃおう」
「でも、待って、ちょっと見せてください」
「いいって、ポイだよ、これ」
「良いですから、ね、ちょっと」
そう言うと、半ば奪うように、私の手から、”プルタブ”を取った。
そしてそれを左薬指、しなやかで柔らかなに、はめた。
「やめなよー、圭子」
私の言葉に、耳を傾けることなく、圭子は左手を 空でかざす。
「元までは、全然入らないけど、ウフフ、ほら誠二さん」
キラキラと笑い、爪の根元辺りに、はめたそれを 私に見せる。
「後で捨ててよ、ね、圭子」
私は目を細め、そう言い、思った
[綺麗だ、何よりその輝く笑顔が]
「フフ、誠二さんからの、指輪」
何時までも、まるで、宝物を見ているかのようだ。
残ったビールを一気に呑み、今をかみ締めた。

君は太陽だ、頭上のそれより、はるかに輝き煌く。

ビールが空になると、更なる眠気が、私の自由を奪う。
圭子は、日陰にある、テーブル状の大きな岩に、
持ってきたシートを敷き、私を呼ぶ。
「誠二さん、ここはひんやりと、気持ちよく寝られますよ」
私は、ふらつく足を引きずるように、向かった。
圭子は既に、シートの端で、足を投げ出し座っている。
「枕に代わる物が無いので、よろしかったら」
「えっ、な・何」
「私の、足でよかったら」
それで足を投げ出して・・・全く君は、本当に。
「あっ、そんな、痺れちゃうよ」
「大丈夫です、さあ早く、眠くって仕様がないんでしょ」
今日は私が、圭子の子供だ、甘える。
「うん、じゃあ、ちょっと」
そう言って、圭子の太ももに頭を乗せ、横たわった。
ふくよかで、柔らかな感触が、更に眠気を誘う、包まれ、安らぎ。
私の頭を 手櫛ですく圭子、細く長く、折れそうなほどのその指。
「こんなにお疲れで、ゆっくりなさって。
あなたは、私の大切な・・・」
意識が薄れ、言葉が遠のく。

子守唄、圭子の囁きは。

-つづく-

18.叱咤(3/7)

ヘッドライトを消し、イグニッション・キーを戻すと、
東の森が浮かび上がり、鳥の囀りが聞こえた。
[ああ、明けるも暮れるも、輝きの始まりは、東の空だな]、ぼんやりと思う。
そして、囀りが遠く微かに去ってゆき、何も解らなくなった。

どれほど経ったのだろう、息苦しいほどの暑さと、腕の痛さに気付き、目を覚ます。
どうやら、ハンドルに伏せて、寝てしまったようだ、疲れ果て。
腕時計で確認すると、10時を過ぎていて、締め切った車内の熱気に、むせた。
ふと、顔を上げると、フロントガラス越しに、日傘が架かり、
それを高く持ち微笑む圭子が居た。
醒めきらぬ頭で、事態が理解出来ず、とりあえずドアロックを解き、表に出てようやく解った。
何と圭子が、日傘を高く掲げ、真夏の日差しを 私に刺しかかるを 防いでいてくれたのだ。
私は、引っ手繰るように、日傘を彼女の手から奪い取り、
猛然と、壊れるほど強く激しく、圭子を抱きしめた。
「せ、誠二さん、痛いです」
そして、汗だくで、火照った、圭子を感じた。
私は、力を緩め、彼女の顔を正面に、置く。
帽子の中から伝った汗、額いっぱいの汗を認めると、こみ上げるものを精一杯押さえ、
またしても圭子を抱いた、頬をその汗の額に、何度も擦りつけ。
炎天下で、自分の事は構いもせず、俺を 俺をかばったのか。
暑かっただろう、腕が疲れただろう。
[泣くな加藤、男だろ]
里見に戒められ、堪え、歯を食い縛った。
「誠二さん、誠二さん、どうしたんですか、ちょっと苦しいです」
昂ぶりを押さえ、頭を何度か振り、強く目を見開き、圭子に相対した。
「ただいま、圭子」
溢れ弾む笑顔で、圭子は大きく頷き、そして、膝に手を伸ばし、
腰を折り、深く頭を下げ、健気に慎ましく、言った。
「おかえりなさい、誠二さん、お疲れ様です」
私は何も答えられず、話せず、しかし、思うだけは、辛うじて出来た。
[俺の帰る場所があった、待っていてくれる、女が、圭子が、居た。
里見、許せ]
圭子の頭を両腕で抱きかかえ、こみ上げるものを 開放した。

圭子の帽子が、汗で以上に、濡れた。

時間が二人を 再び融け合わせ、通い、交わる。
私は圭子の手を取り、木陰に向かい、そして、大きな切り株、一緒に座った。
「クスッ、誠二さんって、意外と泣き虫なんですね。
この前は笑い過ぎで、今度は・・・」
圭子は突然顔をグシャグシャにし、声を詰まらせ、私の胸に伏せこみ、叫び泣いた。
「もう、もう、2度と来ていただけないのかと、
私を忘れてしまったのかと、寂しくて、辛くて・・・」
それ以上喋れず、また、泣いた。
私は圭子の帽子を取り、黒く艶やかな、髪を撫でた。
「ごめん、許してくれ、本当に忙しかったんだ。
これほどまで自らを 忙しくしたこの俺は、どうしようもない、馬鹿で、許してくれ」
私は後悔し始めた、こんな俺につき合わせ、待たせ、
愛する圭子に辛く寂しい思いをさせ、こんなにも泣かせてしまい。
そんなに大切か、仕事が、圭子以上にか、仕事が。
揺らぎ、彷徨い、もう訳が解らないほど。
圭子は、真っ赤な目を擦りながら、明るく振舞った。
「ヘヘヘ、こんなに泣いたの、父が亡くなった時以来です」
「ごめん、圭子、俺さ・・・」
「でも、良いんです、そんな馬鹿な誠二さんが、好きなんですから。
ほら、私も、おばかだし」
こう言って、舌を出し、コロコロと笑っている。
私は罪悪感さえ抱き
「もう、いいや、そうだよ、うん、今度からまた毎週来るよ」
「えっ、いいって・・・来れるんですか」
圭子は喜び、晴れやかに驚き、私を見つめた。
「うん、大丈夫だ、毎週」
「お仕事が終わるのですね、わー、どうしましょ、ウフッ」
「いや、終わりはしないけど・・・」
「終わりは・・・って」
「うん、今取り掛かっている仕事は、まだまだ休みなく、終わらないけどね。
でも、もういい、どうにかなるさ」
圭子は急に、表情を険しく変えた、意に反し。
「逃げるんですね」
「えっ」私はよく理解できなかった。
「うっ、うーん、逃げるって・・・」
「お仕事が終わらないのに、いっらっしゃる訳ですか、誠二さん」
「あ、ああ、そうだけど・・・良いじゃないか、仕事の話は」
「嫌です」
「だって、君のために・・・」
「だから駄目です、嫌です、私の為になら、尚更。
そんな誠二さんは、大嫌いです」
また女性だ、母親だ、厳しく正面を見据え、背筋を伸ばした圭子。
「私が好きで止まないのは、馬鹿な誠二さんです。
そうでないあなたは、大嫌いなんです」
やっぱりだ、圭子には敵う訳が無い。
「あなたはこの前私に、何とおっしゃいましたか。
待っていろ、こうおっしゃいませんでしたか、誠二さん。
嘘だったのですか、あれは」
「いや、嘘なんかじゃない」
「私は、はい、と、お返事しました。
もういいとか、投げやりで、逃げるようなのは、誠二さんらしくありません。
だから、あなたが堂々と強く、来てくれるまで、お待ちします。」
「ごめん・・・あっ・・・」
圭子は、これまでに無い笑顔で、促した。
「誠二さん」
「うん、解った、もう一度だ、改めて」
「はい」
「待っていろ、圭子」
「はい、来て頂けるのを 楽しみに、お待ちしてます」

総べてを見透かし、諭さし、奮い立たせる、圭子。
君には、本当に、敵わない。

既に日は頭上高くに位置し、燃え盛り、地を 気を 焦がしていた。
木陰とは言え里の暑さは、堪らないほどだ、蝉の騒ぎ声も一役買い。
「ねぇ圭子さん、何時からああしていたの」
「えーと、いいじゃないですか」
「もう、起こしてくれれば良かったのに」
「だって、疲れて、熟睡されていたし」
「こんなに汗をかいて、暑かっただろうに。
日射病で倒れちゃうぞ、本当に」
「あっ、それも良いですね、誠二さんに、介抱してもらえて」
「何言ってるんだよ、もう」
「ヘヘヘ、おばかですね」
「うん」
「あっ、今日ははっきりと、言いますね」
「俺も、おばかだから」
「ハハハ、そうでしたね」
「君も、はっきりしてるな、ワハハ」
「ヘヘ」
「ありがとう、圭子」
私はしょっぱい彼女の額に、唇で触れた。
相変わらず首筋まで紅い、圭子。

蝉が、一瞬、たじろいだ。

「そうだ、涼しい所に行こう、ほら、イワナの渓」
「あっ、良いですね、この前の所ですね」
「うん、まだ11時前だし、これからもっと暑くなるよ、ここに居ると」
「そうですね、ヘヘヘ、今日はですね、こんな日にピッタリなのを 用意してきました」
「何だろう、昼食に、なの」
「はい、何だと思います」
「えーと、寄せ鍋」
「もう、ちゃんとですよ、鍋焼きうどんも、ナシですからね」
「ハハハ、ごめん、うーん、ピッタリのって・・・ヒントは」
「そうですね、あっ、沖縄」
「お、沖縄・・・」
「ええ、いらっしゃいませ」
「うーん、わかんないな」
「ようこそ」
「ここへ、クッククック、私の青い鳥ー
じゃないよね」
「ハハハ、純子で〜すって、もう、訳わかんないなー。
違います、メンソーレですよ」
「メ・メンソーレ・・・
あのさ、圭子ちゃん、ちょっと寒いかも、それ」
「エヘッ、でしたね、自分でも、何だか急に恥ずかしいわ」
「とにかく、旨そうだ、うん、嬉しい」
「素麺食べに、メンソーレ奥会津へ」
「歓迎いただき、ありがとうございます、圭子さん」
「フフフ」
「ハハハ」
思った、こうして毎週、何かと昼食を準備し、あそこで待っていてくれたんだ、と。
「本当にありがとう、圭子、君には頭が、下がる思いだ」
これだけで十分伝わる、気持ちが、今は。
「いえ」
圭子の唇に、私が、重ねた。
彼女の、圭子の、唇は、甘かった。

今度は太陽が、たじろぐ。

エンジンが唸り、坂を駆け上る。
途中で窓を開けると、エアコンが必要ない事に気付いた。
段々と道幅が狭まり、所々、梅雨の末期降雨でだろう、崖が崩れていた。
シフトレバーを4駆に切替、更に高度を稼いだ。
あそこの支流に落ち込む小滝、清水だからきっと素麺を冷やせば、旨いはず。
ニコニコしながらステアリングを 操作した。
「誠二さん、この前より、高い所に来ていますね」
「うん、素麺を冷やせる、良い清水が湧いているんだ、もう少し先で」
「へー、良いですね、でも素麺を ですか」
「ハハハ、も、でした」
「ビールを オマケで素麺も、でしょ」
「はいはい、解っちゃったね」
「勿論ですよ、ウフッ」
「負けた、ハハハ」
「フフ、でも空気の香りが違いますね、なんかこう、キーンと」
「うん、そうだね、あっ、ほら、そこだ、着いたよ。
ここから川に降りて、ちょっと歩くけど、冷え冷えの清水があるんだ」
「わー、楽しみです。
誠二さん、私が素麺の準備をしている間、またイワナ釣りなされば」
「ああ、じゃあ、そうさせてもらうね」
うかれ楽しい、圭子は小振りのデイバッグに、色々を詰め、
まるで遠足気分の、子供だ。
私も久し振りに継ぐ、フライロッドで、
ベストの背ポケットに、数本詰めたビールで、はしゃいだ。

しかし、この数時間後、思いもかけない事態に遭遇し、
一晩を ここで過ごす事となるのだ。

-つづく-

17.内線電話(3/7)

「しかし、そこまでおまえを奮い立たせる、圭子さん、だっけ。
凄い人だ、恐れ入るな」
「ああ、圭子は素晴らしい、純真無垢、一筋の曇りさえない。
眩しすぎて、飾らなくって、時々たじろいでしまうほどだ。
だから、曇った俺を 鮮やかに映し出す」
「もう腹は決めたんだろう」
「うん、何をだ」
「一緒になるって」
「ああ、勿論だ、彼女を早く迎えに行きたい」
「直ぐ行け、今直ぐにでも、彼女も待っているはずだ」
「解っている、痛いほど感じ解っている、だが・・・まだ」
「何がまだなんだ、もたもたするな」
「まだ駄目なんだ、今の俺では。
圭子にも、そう伝えてある」
「何にがだよ、おまえの何処が駄目なんだ」
「さっきも言っただろ、これからなんだって」
「とりあえず、特に障害が無ければ、今のおまえでも良いじゃないか。
彼女も今のおまえを 求めているんだろ」
「うん、けれど・・・けじめが残っている、俺なりの、大切な」
「あっ、ああ、そう言う事か、全くおまえらしいよ。
ハハハ、大馬鹿加藤ここに在り、か・・・
これから、まず最初の大変が、待ち受けていたな」
「そうだ、社が営業部長の木島さんが、どう出るか」
「何となく予想がつくな、平穏に済むはずが無い。
俺の範疇を 遥かに超えそうだ」
「改めて里見には、迷惑掛けてすまん。
おまえの顔を 根回しを 潰してしまって」
「気にするなよ、おまえに、加藤のこれからに、
俺も大いに楽しませて、もらっているんだから」

先を思い、武者震いした。

事実上、取締役就任を延期、若しくは白紙に戻されたかにも思える、営業の木島部長は、
この上なく激高し、頭を下げるも無く、反発さえする私に、
あらゆる人脈や手段を なりふり構わず駆使し、怒りをぶつけた。
まず、里見の後釜に、自分の息のかかった中でも、最も優秀な沢田を就ける。
そして、沢田の抜けた穴に、やっと使えるまでに育った、私の部下2名を充てた。
勿論私の所へは、補充無しだ。
未だに表向きは、最も軽んじられ、雑用係りにとしか、
位置付けられていない、営業技術課には。
更に今までは、営業でこなしていた、つまらないが、
手間のかかる雑用まで、私に押し付け始めた。
虐めに近い・・・いや、完全に虐めだ。
激務はより一層、深夜にまで及ぶ残業も珍しくなくなる。
残った部下に背負わせは出来ない、私が全てを受けなくてはならない、
逃げてはいけない。
絶対にまだ何かしらがある筈だ、ここで逃げたら、今までは何なんだ。
毅然と臨んだ、俺を曲げずに。
こんな調子だから、圭子から電話があっても、ただ急がしいを理由に、断りを続けた。
「そうなんですか、お忙しいのですね。
あっ、私でしたら全然平気です、気になさらないで下さい。
ただ、もしも、ほんの1時間でも・・・私は待って・・・
あらっ、ごめんなさい、何でもないですから、本当に」
辛かった、仕事の辛さとは、比べるべくも無く。
今の自分を支える、圭子と逢えないのは、骨身に染みる、辛さだった。

そんな折、近年稀に見る受注を 鼻高々と木島部長自らがとりつけた。
何でも顧客の事業部長に取り入り、その子会社の大々的設備改革を
我が社のライバル会社を差し置き、かっさらって来たと触れ回っていた。
私には勿論、設計の西山課長に、大した相談もせずだ。
しかも着工はほぼ1月後、お盆休みを絡め、全てを完成させなくてはならない。
その仕様書が回ってきて、愕然とし、血の気が引いた。
量と言い、規模と言い、納期と言い、今の我が社のキャパを 
遥かに凌駕していたからだ。
大体からして、どう考えても、予算が不足だ。
直ぐ西山課長が青い顔で、私の所へ現れた。
「加藤君、可笑しいと思わないかね」
「はい、思います」
「それに、裏話があるんだ。
例の事業部長は、私が昔居た社よりの付き合いだから、本音を教えてくれた」
「ええっ、仕様以外にも、何か」
「うん、子会社を 業績不振の子会社を 潰したいだけなんだ」
「どうしても無理な仕事を ウチに押し付け、生産再開不能を誘い、ですね。
改革及び生産計画のずさんさを突き、責任の所在を子会社に、でしょうか」
「おお、やっぱり加藤だ、その通りだよ。
その上、そのギャランティーやペナルティーを ウチから取って、一石二鳥のハラだ」
「しかしよく話しましたね、そんな事をベラベラと」
「あの事業部長は、本当にやり手だ、いざとなればウチの木島なんか、手玉だ。
あたかも、仕様が無いな、じゃあ御社に、木島さんに任せるか、だろう。
ウチのライバルの、でっち上げ見積もりでも、ちらつかせてな。
ウチと子会社の共倒れを解っているから、注文請け書をとりつけたら、
気前良く話したさ」
「我が社も見限られ、た、ですね」
「ああ、仁義も情も無いが、鮮やか過ぎるほど、辣腕だ」
「それで西山課長、全く逃れる術は、無いのですか」
「だから私が、ここに来たんじゃないか、里見君も呼んである」
やがて里見も現れ、社内で最も軽んじられた課の、小さな会議室に、
かつて社を伸し上げ、盛り上げた技術屋3人が、集結した。

仕様書、契約書を事細かに検討し、凡その結論が出たのは、深夜だった。
工期は3週間、1週間遅れまでは、日割りでペナルティー、
そして、それを過ぎたら、要するに9月になれば、
我が社がギャランティーを払い、全てがお終いだ。
「普通、こんな契約は無いでしょう、工期遅れで全てお終いなんて」
里見が、声を震わせ、呟いた。
「ああ、膨大な書類に紛れ込ませるよう、本当に見逃しやすく、小さく書いてある。
木島の奴、ただお得意だ、古い付き合いだ、何時も飲み食いさせている、
こんな軽い感じに、あの部長を見くびったんだ。
その上、自分は特別扱い・・・思い込まされて、いたんだろうな。
こんな時期に俺は凄いだろ、有頂天、だったんだろう、基本を忘れて。
だが、契約書に社判が押された以上、約束は守らねばならない、
例えどんな内容であろうと。
見落としたは、単なる恥でしかない」
「しかし情けない話ですね、あまりにもお粗末です」
私も落胆甚だしかった。
「そうだな、あんなのを営業部長に、据えつづけた、
しっぺ返しが来たのかも、知れないな、手痛すぎる。
ややしらけたり、目先を追ったり、我々にも責任はあるが。
どうする、加藤、里見、私が見る限り、絶対に無理な仕事とは思えん。
昔の様に、我々が奮起すれば、可能性はある」
私と里見は、ただ目を見合わせ、そして通じたそれを 
エネルギッシュ覚めやらぬ、西山課長に向き託した。
「よーし解った、もう何も聞かない、十分だ。
出来るだけの事は、全力でやるぞ。
だから最後まで木島には何も言うな、無言で見返せ、技術屋の力を思い知らせろ」
3人は硬く握手を交わす、小さな会議室で。

まずは着工期からの逆算だ、そして分析。
出来ること、今の職務を維持しながらを 分担し合った。
各自忙しさは想像を絶し、自宅へ帰れない日々が続く。
しかし、何故だか充実していた、里見もらしい。
「おい、加藤、大丈夫か、でも何だか懐かしいな」
「そうだな、昔は、こんな時期も、あったな。
勿論まだまだ俺は大丈夫だ、おまえこそ倒れるな、もうオヤジだし」
「何言ってる、それはおまえも一緒だ、体力じゃまだ加藤に負けんぞ」
「おっ、威勢が良いな、頑張れよ」
「ああ、お互いにな」
こんな、1・2分の内線会話で、眠気が飛んだ。
力が漲った。
そして2・3日に1度、西山課長を交え、進捗報告と労いを重ねる。
皆疲労困憊、でも笑顔が溢れ、気力が充満していた。
こんな部署を超えたやり取りに、木島部長も非常事態を感じ、
見て見ぬ振りを決め込んでいた。

そんな無休、残業が続く中、里見は突然、こんなことを言い出した。
「おい、奥会津へ行け、圭子さんと逢って来い。
もう1月以上逢ってないだろ」
何時の間にか8月になっていた。
「馬鹿言うな、無理に決まってるじゃないか。
たとえ1時間でも、今、無駄な時間はゼロの筈だ」
「ああ、何か、おまえ圭子さんと逢うの、無駄と言うのか」
「そんなことは言ってない、もう来週だぞ、着工。
おまえ解っていて言うのか、おい」
「勿論だ、だから言うんだ。
現場が始まったら、最も忙しいのは、加藤、おまえだろ。
着工したら、それこそおまえが事実上の指揮官だ、プライベートは全くなくなるぞ」
「そんな事は解っている、ただ、今休むのは、女を理由に休むのは、
おまえや、西山さんに申し訳が。
何よりそんな時間、ある訳無いだろう。
だから工事が終わってから、圭子に・・・」
「工事を順調に進めて欲しいから、あえて今言う、逢って来い」
「おいおい、里見」
「実はな、加藤」
里見は先週水曜日、出張のついでに、奥会津の圭子と私の待ち合わせ場所、
何時もの渓の、何時もの駐車スペースに、寄ったらしい。
そこに午後の日差しを避け、木陰で椅子に座り本を読む、若い子を見た。
「直ぐに圭子さんと解った、素晴らしく清楚で利発、
絶対におまえが惚れた、圭子さんだと。
俺さ、年甲斐も無く、泣けて泣けて、仕方なかったぜ」
圭子は毎週、そこで、来る確信もない私を 
待ち続けていた様に、思えたそうだ。
「誠二さんの、負担になってはいけませんので、
お願いですから、この事は黙っていて下さいませんか。
私は、ただ、たまたま今日だけ読書に、来ているだけですので」
その事を屈託も無く、微笑みすら浮かべ、明るく話す圭子。
そして更に、
「誠二さんのお仕事に、万が一でも差し障りが出ては、困ります、こんな事のせいで。
本当に久し振りに、何だか気が向いたので、読書に来ただけですから。
どうかお察し、いただけませんでしょうか」
とまで懇願したそうだ。
里見は声を震わせ、叫ぶように言った。
「おい、加藤、その日だけか、読書にか、思うか」
そう言えば最近、圭子からの電話が無い。
あっ、電話をかける事すら、気遣ったのか、負担になっては、差し障りが、と。
私は気付き、受話器を握ったまま、おえつした。
それが解った里見も、ボロボロだった。

深夜の内線が、泣いていた。

「行け加藤、明日は水曜だろ。
明日から3日行って来い、俺が寝ないででも、それくらいの時間は創ってやる。
親友の加藤と、おまえが愛する圭子さんの為に」
「さ、里見」
「良いから、もう何も言うな」
「解った、1日だけ時間をくれ」
「馬鹿野朗、1日でどうする、また1月は逢えないんだぞ。
あれほど健気な圭子さんに、また寂しい思いをさせるんだ。
おまえの為になんかじゃないぞ、おまえ以上に辛く、そして黙って待ち続ける、
慎ましい圭子さんを思えばだ。
だから、俺が3日と言ったら、3日だ」
「里見、本当に・・・」
「泣くな加藤、男だろ」
そう言って、里見は声を上げ、泣きながら、電話を切った。

俺は全く何て奴だ、一途もいい加減にしろ。
忙しさに負け、圭子に、圭子の気遣いに、
気付かなくなっていた自分を 激しく叱りつけた。
拳を硬く握り、力任せに、自分を殴り、机に頭を叩きつける。

溢れ出るものが、止まらなかった。

-つづく-

16.とわの夢(3/7)

私もかなり上せてきたので、普通に立ち上がり、圭子の直ぐ横に腰掛けた。
何だ、いとも簡単に普通が出来る、正直自分に驚くほど。
こうしてみると、何でもない事を 邪心に満ちて、考えていただけなのかもしれない。
何だか、またヒントが出されたよう思えた。
自分が最近感じていた何か、取り戻したいもの、
やはり圭子が優しく、無言のうちに私を諭している、改めて強く感じた。
何時の間にか、考え方の変化にすら、気づかないでいらっしゃるわよ、
そう言っているかのようだ。
その原因が、求めるものが、薄っすらながら、解って来た。
「どうしたんですか誠二さん、上せてボーッとに見えますけど」
「うん、あっ、あー、そうかも知れない」
「クスッ、最近何だか多いですね、そんなあなた」
「そうだね、色々とあって」
「お仕事、ですか」
「ああ、それもだ」
二人は並んで足を伸ばし、湯面を両足裏で軽く叩き、波紋を刻み戯れる、特に意味無く。
ただ、こうしているだけで、無性に楽しい。
時が二人のためだけに、流れているようだ。

湯煙が二人を包み、恐いほど静寂だ。

そんな時不意に、携帯が鳴った。
いきなり現実へと、引き降ろすように。
「ええっ、あっ、そうか、ここには電波が届くんだ」
「はい、せいぜいここまでですけれど」
「おいおい、誰が何なんだ。
そうだ、電源切るのを忘れていたよ」
「どうぞ、急用かも知れませんから」
「うん、ゴメン」
私は急いで脱衣所に行く、ディスプレーには里見の名だ。
「はい、加藤」
「おお、すまん、里見だ」
「何だよ、急用か」
「本当に休みのところ、悪いと思っている。
それに、ほら、しっぽりを 邪魔したんじゃないかって」
「あー、大いに邪魔だ、早く用件を言え」
「ハハハ、そう怒るな。
実はな、例の件も、急遽明日朝一の取締役会に、かかることになった。
それでさ、明日じゃ話が出来ないから、今確認しておきたい。
おまえのOKをな」
「えっ、何がだ」
「おいおい、何言ってるんだ。
例の調達移動の件だよ、この前話した。
で、勿論OKだろ」
「あっ、うーん、今じゃなきゃ、ダメか返事は」
「いや、ダメとは言わないが、こう言う事は、決めるなら早めにと思ってな。
何だよ、てっきり即OKかと思っていたが・・・
まあ、お前も長年の、遺恨めいた思いもあるだろうし。
適当に訳を話して、来週に延ばしてもらうか」
「本当に申し訳ない、里見」
「何を言う、お安い御用だ」
「いや、そうじゃなく・・・」
「うん、どういう意味だ、加藤」
「これから戻るから、俺に、付き合ってくれないか」
「えっ、折角の休み、途中で切り上げてまでか」
「とっくに俺の腹は決まっている、もう何時までもこの件を 引きずりたくないんだ。
何時もの居酒屋、そう、また7時には行ける。
俺の話を聞いてくれないか」
「ああ、解ったけど・・・でも、何だか嫌な予感が・・・」
「全てをおまえに話す、悪いけど、聞いてくれ」
「おう、悪いけどは余計だぞ。
じゃあ、例の居酒屋7時な」
「うん、頼むわ」

大きくため息をつき、浴場へのガラス戸を開けると、圭子が立っていた。

「ごめんなさい、聞こえてしまって、心配で。
深刻そうでしたね、お仕事の・・・ですか」
「あ、うん、悪いんだけど、急に戻らなくては、ならなくなった」
「そうなんですか、何だかお忙しそう・・・」
「ゴメン、途中で帰るなんて」
「いいえ、それは別に仕様が無いのですけれど、
もしかすると、あなたが、戻ってこないような」
「ハハハ、今日は無理だけど」
「いえ、だから今日は良いんです、この先・・・」
「な、何言ってるんだ、そんな訳無いだろう。
また来週にでも、来るさ」
「そうですか、それなら。
でも、よく解らないですけれど、とっても不安なんです。
変な胸騒ぎがして・・・」
何かを感じたのか怯えるような圭子、私は彼女を抱き寄せた。
「こんなに体が冷えちゃって、もう一度湯船につかろうか」
黙って頷く圭子の肩を抱えるように、湯船へ向かった。
「本当に、戻って来てくださいね」
「うん、大丈夫だ、何だかチョッと大袈裟だぞ、来週にもまた来れるって」

何故こんなにも不安げな圭子か、しかし、当たった。
圭子の予感は、大いに当たったのだ。
しかも別れ際、本当に小さくか細く
「私には、あまり時間が・・・」
良く聞き取れず、意味も解らず、急いでいた私は、奥会津を後にした。

帰りの高速道路が、事故渋滞だったことも有り、
居酒屋の暖簾をくぐったのは、9時を過ぎていた。
里見は独りカウンターに座り、焼酎を呑んでいる。
「ゴメン里見、渋滞でさ」
「おう、構わんよ。
所で店を変わろうか」
「えっ、どうして、何処へ」
「うん、ちょっとな、で、昔よく行ったパブ、ほら学生時代に。
今の時間だと、タクシー飛ばせば、30分だし」
そのパブとは、部室を持たず、金もない我々が、よく溜まった所だ。
酒もつまみも安物ばかりだが、何時もざわついた雰囲気で、活気があった。
そう、ナンパという言葉が、流行りだしたあの頃、一気呑みもだ。
安い焼酎をあおっては、女の子を口説き、騒ぎ。
時には、青臭い議論をぶつけ合い、喧嘩腰で唾を飛ばしあった、所だ。
行きの車中、里見はとにかくお喋りで、昔を懐かしみ、笑った。
私もそれに乗じ、馬鹿笑い、里見の肩を嫌というほど、叩いてやった。
二人とも、仕事を 例の件を まるで避けるかのように。
痛いほど良く解っていた、互いに。
「おっ、嬉しいね、まだ健在だ」
「おお、ちょいと、くたびれてはいるけどな」
「ハハハ、我々に合わせたんだろ」
「かもな、ワハハ」
自然と肩を組み、店内に入った。

平日とは言え、まだまだ賑わっていて良い時間だ、けれどやや寂しい。
「何だか客が少ないな」
「うん、今の時代に、合わなくなっているのかも、ここは」
急に二人とも黙り、沈んでしまった、何かを感じ。
沈黙を破り、私はテーブルに額を擦りつけた。
「すまん里見、本当に申し訳ない」
「何やってんだ、加藤、頭を上げろ」
「おまえの気遣い、根回し、何もかも、俺は・・・」
「解った、加藤、もういい、もういい。
それ以上は何も言うな」
「いや、里見、本当に」
里見は私の頭を 手の平で、ポンポンと叩いた。
「加藤、おまえって本当に、大馬鹿野朗だよ」
そう言って優しく、里見は微笑んだ。
「ああ、解っている、望み様も無いほどの話を蹴る、大馬鹿だ、俺は」
「うん、それもそうだが、この先の辛さ、大変さまでをも
おまえは解っていながら、それでもだ、加藤、おまえって」
「救い様の無い、大馬鹿だな」
「いや、素晴らしい俺の親友だ、本当にありがとう」
こう言って、私の手を ガッチリと握り、振った。
「おいおい、何で俺がおまえに、感謝されるんだ。
よせよ、こら」
「駄目だ、礼を言わせろ、加藤、ありがとう」
私は、そう言って握手し続ける里見の顔に、20年前を見た。
あの頃の里見だ、俺だ、そう、金も地位も、責任も貫禄も、全く無い。
有ったのは、若さ、馬鹿がつくほど、熱く、若く純粋だった。
疑うことを 恐れることを 知らない、ただ前しか見えない、見られない。
社会に出てからはどうだ、俺は、事ある毎に、やれ情熱だ、夢だ、叫んでいる。
昔と同じか、いや、違う気がする、青臭い議論には使ったが、
夢や情熱の、深い訳も意味もわからず。
じゃあ、社会に出てからは解ったのか、どうだろう。
今でも本当の意味で、解ってない、理解出来ていないかも・・・
ただ、少なくともあの頃は、そうやって、今みたいに、安っぽく話さなかった筈だ。
もっともっと、大切に、憧れめいてさえいた筈だ、それらの言葉を重く感じ。
話す度に、安っぽくしていた、失っていく若さ、純粋さと引き換えるように。
それらを失い続けているのを 認めたくなかったから、か。
本当に地位も名誉も金も、欲しく求めずだったか、いや、そんな事出来る訳が無い。
疑い恐れず、振り返らず、歩んできたか、違うだろ、
だから斜に構えたり、何かというと技術に、しがみついていた筈だ。
若き純粋さを 失いながら。

「加藤、今おまえが思っていること、解る、よーく解る。
程度の差はあるだろうが、俺も同じ思いだ、いや、おまえが気付かせてくれたんだ」
「そうか、しかし何時の間に、俺たちは」
「そうだな、歳を重ねるに連れ、だな。
別にこれで普通だし、気付かなくても、構わない事かも知れない。
でも、気付いた方が余程素晴らしい、少なくとも俺にとっては」
「さすがだよ、里見、やっぱりおまえは、まだ熱い」
「いや、加藤が熱くさせてくれた、思い起こさせてくれたんだ。
最低限のものだけは、失っていなかった、おまえが」
「えっ、何だそれ」
「加藤のその、馬鹿さだよ、一途さだよ」
「ああ、それは自分でも思う、曲げないで、損ばかりだったけどな」
「そんなおまえが、取り戻したいもの、それは・・・」
「純粋さだ、今日圭子が教えてくれた」
「ああ、圭子さんって言うのか、彼女。
そうだそれ、もっと言えば若いも欲しいが、それこそ無理というものだ」
「無理かな、本当に」
「何言ってんだ、もうとっくに四十を過ぎているんだぞ、俺たち」
「それは当たり前だ、そうじゃなく、気持ち的な、だ」
「青春って、抱きつづけること、そうあれば何時までも、か」
「ああ、昔良く言い合ったじゃないか、やっと本当の意味が、見えて来たように思う」
「うーん、心情的には良く解るが、実際大変で難しいぞ」
「それも解る、だけど、俺たちが、昔から憧れつづけた人。
幾つになっても、素晴らしいものを 生みつづけた人」
「そうだ、本田宗一郎、エジソン、アインシュタイン。
彼らは幾つになっても、まるで少年の様、輝きを保っていたよな」
「うん、他にも少年であり続けた人、皆素晴らしい生き方に思える、俺にとっては。
実際彼らの全てを 見てないし、解ってないから、
自分流に美化しすぎかも知れないが、良いじゃないか、憧れられるだけでも」
「確かに良く解る、だけど、繰り返すが、大変だぞ、難しいぞ」
「承知の上だ」
「しかし何故そこまで」
「ああ、今からでも、悔いの無い人生を と思った」
「そうか、それが加藤にとって、悔いが無ければ、そうするしかないか」
「誰のためでもない、俺の人生、自分で思うを貫く、結局これが自分の幸せなんだ。
人が大変、難しい、と言っても、純粋に何時までも、青春であり続けたい。
少年の心を保ち、輝いていたいんだ」
「だけど・・・」
「んん」
「だけど、それが出来た人だからこそ、歴史に名を残す程だ、彼らは。
普通の人は、なかなか出来るもんじゃあない。
誤解するな、決して加藤を 軽んじるでも、侮るでもない」
「良いじゃないか、別に」
「えっ」
「俺らしく、俺に相応程度でも。
結果はどうであれ、そこに向かって行くだけでも、価値があるんだ、俺にとって」
里見の表情が、スーッと、穏やか変わった。
「俺、良かったよ、しみじみと思う。
おまえと出会えて、友達で、本当に良かった、加藤」
「俺こそだ、里見、こんな青臭く、
いや、アホ臭いことを理解してくれる、おまえと友達で、里見」
「何言ってんだよ、おれなんか、加藤の足元にも及ばない。
そんな生き方、恐くって自信が無くて、やろうとさえ思わない。
いや、今更、多分気付きもしないよ」
「いい意味で、おまえは利口だからさ。
俺みたいなのは、本当に珍しい、自分で思うよ、大馬鹿なんだ」
「何言うんだ、惚れる、そう、男だったら惚れるよ。
おまえみたいな奴には、少なくともこの俺は、な」
「おいおい、まだ口先だけだぞ、俺なんか。
これからが、そうなっていくよう、頑張らなくては、意味が無い」
「ああ、出来るとも、加藤なら」
「そうかな、やってみるよ」
「おお、頑張れ」
例え里見だけでも、良い、こんな自分を理解してくれるのが。
いや、圭子も勿論のはずだ、俺を しか見てない、圭子なら。

-つづく-

15.自然体(3/7)

先週の約束通り、私は圭子を助手席に乗せ、峠を1つ越えた。
待ち合わせは何時もの空き地、荷物を移し積み、彼女の車を残し、
私が好きなイワナの渓へと向かう。
再び上りに転じ始めた道を駆けると、車内の高度計は600Mを超え、
イワナの匂いが辺りにプンプンしてきた。
更に800・1000と、周りの景色は険しさを増し、イワナのみを許す流れは、
過酷で荘厳な広葉樹林を縫う。
季節は梅雨の真っ只中、朝から細々とだが降り敷く冷雨が、
その厳しさを一層演出していた。
私はとある渓の横で、車のサイドブレーキを引く。
「どう、圭子さん、この雰囲気」
「ええ、私の住む地から、ほんの1時間ほどで、
これほど変わってしまうとは・・・信じられない位です」
「でしょ、これが所謂山岳渓流、何時もの場所は、里川だね」
「私って本当に、知らない事が多すぎます。
田舎の中の、田舎者、ですね」
「ハハハ、普通の人は、こんな所まで来ないから。
来る必要ないし、君が普通だよ」
「だけどイワナって凄いです、こんな環境でも、暮らして行けるのですね」
「うん、全くだ。
これを見ると所詮人間なんて、イワナにも敵わない」
「はい、何だか謙虚になります」
「うんうん」
会津は東北は、2000Mを 少々ばかり超えた山が珍しいほど、
だから標高千数百を数えると、一転厳しい情景になる場合も多い。
ただ厳しいといっても会津は・・・
日本アルプス等に見受けられる、荒々しい男性的さは余り感じず、
女性的・・・いや、母親的懐深さを持って、戒めている様、思う。
襟を正し、シャキッとしなさい、最後は微笑みを伴い、言い聞かす。

「今日は、とりあえず1匹釣るまでは、普通のフックを使うよ」
「はい、全く気にしないでください」
そう言ってニッコリの圭子、今回はロッドを持ってくる事すらしていない。
ただ私を後ろから見ていたい、そう言って、ウエーダーとレインジャケット、
後はコーヒーを詰めたポット程度を 私の車に移していた。
そんな圭子のために、何としてもイワナを釣りたい、
彼女に会津のイワナを見せたい、一心だった。
圭子の手を引き流れに降りると、巨岩を避けるような流勢、やや増水を感じた。
私は試しに聞いてみた、圭子にイワナの居場所を
「圭子さん、イワナが何処に居るか、解るかな」
「うーん、初めての場所だし、それにイワナは・・・」
「そうだった、君はヤマメ、ヤマメの生れ変わりだったね」
「はい、いえ、違った・・・嫌だなぁ、ハハハ、まだそれを」
うん、どうしたんだ、何だか不意に聞かれ、凄く慌てた様子に見えたが。
上手く言えないけれど、久し振りに、圭子の不思議な面を感じた。

まさかね・・・いやそうとも・・・一瞬、言い知れぬ不安に、襲われた。

うん、有り得ないよ、気を取り直し、私は説明した。
「多分、勿論多分だよ、あそこの落ち込み際、
あのとろっとした緩流に、イワナは居ると思うんだ」
「へぇー、ヤマメとは、居る所が違うのですね」
「うん、じゃあ見ていて」
「はい」
私は岩に隠れながら、そこへ近づき、左斜めに据えた。
やや右上空へ向かい、ラインを延ばし、十分な距離に達したら、
後方へ大きくラインを跳ね上げ、次のフォワードで、緩流手前にフライを落とす。
巻く流れに乗せ、イワナの鼻っ面へ、フライを送る算段だ。
黒い底より、もっと黒い影が浮上し、それもスローモーションの様に。
私はアワセを急き、イワナがフライに食い付くのと、
同時くらいにラインを引いてしまった。
宙を舞うフライを見つめ思う。
[そう言えば最近、ヤマメ、
それも圭子に鍛え抜かれたのばかり、相手にしていたから]
すぐさま、そんな場合じゃと、
[言い訳は、やめだ]
そして、振り返ると圭子は、ただ微笑んでいた。
私は舌を出し頭に手を当てる、すると彼女は小声を手の平に乗せ
「がんばってー」と。
嬉しい、ただ。
これだけで十分じゃないか、俺って、とっても幸せ。
単純だ、本当に、俺は、男は、幾つになっても。
何だか独り照れてしまう・・・が。
もう一度先程のポイントを見ると、イワナが餌を見失った然、ウロウロしている。
よし、もう一度だ、もう一度同じ動作を イワナへ送り込んだ。
巻き流れてくるフライを何の疑いも無く、イワナはパクリと咥える。
今度はそれを確認してから、彼に合わせるよう、ゆっくりとラインを跳ね引いた。
らしい、トルク溢れる、イワナらしい力強さだ。
ネットを差し出しイワナを収めると、私は圭子に頷きを送った。
それを見た圭子、まるで自分の事の様に、はしゃぎ、飛び、駆け寄る。
「うわー、何て綺麗なんでしょう。
イワナはイワナで、また違った美しさです」

[君のその輝く瞳には、全く敵わないけれどね]
心底思ったが、あまりにも恥ずかし過ぎて、勿論言えなかった。

「ヤマメもそうだけれど、会津のイワナってこんな風に綺麗だよ。
木目細やかで、しっとりと」
まるで君の柔肌・・・またしてもだ、何思っている、心に留めた。
「そうなんですか、私は勿論今ここで初めて見たし、他も知りませんけれど。
でも、何となく解ります、本当に綺麗ですから」
「うんうん、やっぱり連れて来て良かった。
これを圭子さんに、見せたかったんだ」
「嬉しい、ありがとうございます」
君が嬉しいと、ね、僕の方が、だよ。
私は大きく頷き、微笑んだ。
その後もぼちぼちと釣れ、二人はふと目を合わせる。

もう良いよね、はい・・・無言で、通じた。

しかし梅雨寒で吐く息は白く、凍えるほど身体は冷え切っていた。
握る圭子の手は、可愛そうなほど、かじかんでいる。
川通しで入渓地点に戻り向かいながら、私は無意識に言った。
「やけに寒いね、もう釣りは本当にいいから、温泉にでも浸かりたいな」
「はいはい、そうですね、それは良いです」
圭子は二つ返事だった。
「何処か有ったかなぁ」
「そうですね・・・そうだ、私の車を置いた所に、一度戻っていただけませんか。
手拭やら、色々と取り出したいので。
そうしたら、結構近くに有るじゃないですか、共同浴場が」
「あっ、本村外れのかい、本流に降りるような」
「やはり誠二さん、ご存知でしたか。
あそこ、一般にはあまり知られて、いないのですけれど」
「うん、殆ど地元の人ばかりだよね、本当に久し振りだ」
「ええ、私も最近はたまにですけど、行っています」
そう思い出しながら、私は気付いた。
あそこって、混浴・・・
それに、地元の人と言っても、圭子みたいな若い娘と、出会ったこと無いぞ。
その共同浴場は、村人が管理清掃していて、協力金100円で利用させてもらえる。
脱衣所は男女別なのだが、中は、一緒だ。
圭子みたいなは、タイミング的なのが、あったのだろう。
しかし、夕方等は地元の人で賑わう、開放的で呆気羅漢とした、暖かい雰囲気の温泉だ。
殆どお年寄ばかり、だが、過去には。
だけど私は大いに、困った。
だって平日のお昼前だよ、他に誰も居なかったらと。
「ねっ、圭子さん、他に無かったかな、温泉。
手拭くらいなら僕の予備を貸すし、圭子さんの車を置いた場所に、戻る途中にでも」
「さっきも言ったように、私はこちら方面、よく解らないんです。
何処か他に、有りましたか。
返って誠二さんのほうが、お詳しいのでは・・・それとも何か」
そう言えば、他に最寄は無いし、ヘンに気を回し、考える自分が可笑しいかも。
それに、手拭やら、色々、色々って、身体を覆う大きなタオルの事だよな。
そうそう、最近はスッポリと被るようなのが、普通だし、
うん、タオルを筒状に縫い合わせた。
「そうだね、他には無いよね、ハハハ。
いや、別に・・・別にじゃなくって、あそこで十分。
いや、十分すぎるくらいだよね。
何と言っても、本流が直ぐそこを流れる、景色を楽しめるし。
うんうん、あそこは最高だよね、うん」
こんな慌て繕う私、圭子はただ、不思議そうに覗き込んでいた。
「じゃあ、良いですか」
「も、勿論さ、あそこで。
温泉だけに、あ・洗って、いいとも!なんて・・・ハハハ」
言わなきゃ良かった、訳の解らぬ、下らな過ぎる、オヤジギャグ。
さすがの圭子も、やや呆れ気味だ。
ただ、先週の事も有るし、妙に気を回してしまった、のだ。

まだ時刻は10時過ぎ、車は3時間ほど前に、来たばかりの道を 引き返す。
もう6月も終わるというのに、ヒーターはフル稼働だ。
山が泣き続けると、本当に寒い、この時期身体は初夏に慣れてるから、余計。
圭子の車が見えて来た頃、やっと少し、温んできた。
「このまま2台で行きましょうか」
「ああ、そうだね、最近は行ってないので、圭子さんがお先に」
「はい、解りました」
圭子は車を発進させ、私はその後ろにつき暫く行くと、本村に入る少し手前、
本流に向かう細い路地に折れた、うんうん、そう、ここだ。
突き当たりに車5・6台分の駐車スペースがあり、そこから階段を下り行くと、
本流の流れる音が高まり、共同浴場が現れた。
木造の素朴さは変わらない、硫黄の香がつーんと漂う。
何だか安心する、懐かしくもあった。
「それじゃあ、中で」
「はい」
そう言って互いに、別々の木戸を開け、脱衣所へ入った。
木の床は歴史を感じさせ、ぬるっと滑りやすく、生暖かい。
私は手拭を取ると、ガラス戸を引く。
前面で本流の大パノラマが展開し、ほのぼのとした湯気が、浴槽の檜の香が、
無色透明の豊かな湯が、冷気を寸断するよう、ゆらゆらしていた。
そうそう、これだよね、ここは。
手拭を頭に載せ、桶を取り・・・やっぱりまだケロリンか、
何だか全てが、桶までも変わっていなく、可笑しい程だった。
かけ湯をしていると、後方で戸を閉める音がした。
私は笑いながら振り返えり
「圭子さん、やっぱり・・・」
全身が一瞬にして、固まってしまった。
何と纏めた黒髪に手拭を巻きつつ、
そしてそれを両手で押さえながら、入ってくる、圭子に。
「えっ、何ですか、ううー、寒いですね」
タオルも隠すも何もない、正に呆気羅漢、一糸纏わぬ、だ。
私は崩れるように湯船へ落ち、目を見開き圭子を眺めた。
美しい、過ぎる、透いた静脈までも全身に浮かせ、それで、ちょっぴり鳥肌気味だ。
絶句、のみ。
ただ、不思議と性的なものは、殆ど感じなかった。
なんと言ったら良いのか、作品、そう、
在り来りだが、芸術的な作品でも、眺めているようだ。
下手に隠し立てするより、余程健康的で、清々しく美しい。

片膝をつき、肩から湯を流すその姿に、震えさえ覚えた。

「あれっ、誠二さん、何かおっしゃいましたよね」
私の目の前を堂々と、圭子も湯船に入ってきて、腰を沈め、微笑みながらそう聞く。
何時も通りの片笑窪、髪を纏めたその顔がより小さく、軽く目眩、意識が遠のく気さえした。
[おいおい、これは何だ、何なんだ、どうしたら良いんだ]
こんな時の男って、まるっきり駄目だ。
普段の野朗同士だと、平気で・大声で、こんな事が起こらないか、
男冥利に尽きる、だの、永遠の夢、だの、話すくせに。
実際、こんな場面に遭遇すると、視線が定まらず、目も合わせられない。
「誠二さん、どうかしましたか」
もう一度聞かれ
「ケロリン・・・何言ってるんだ俺、いや、別に、何も」
こう返すのが、やっと。
恥ずかしい事に、目を合わせるどころか、顔を上げられない。
「ヘンなの、どうしたんでしょ」
そう言って私に向ったまま、湯の中で手足を伸ばし、実に気持ち良さそうだ。
相変わらず何処かを隠す、素振りすら感じない、全く当たり前で自然だ。
あっ、そうか、圭子にとって、いや、ここに来る人にとって、ごく普通なんだ、これで。
そう言えば、東北の村々、地元の人が集まる共同浴場は、こんな感じが多いな。
男も女も無く、特に意識せず、談笑し、湯を掛け合う姿、何度も目にしてきた。
ここでも、そんなのを何度も見かけたし、ある程度解っていたじゃないか。
ただ、それが圭子だから、二人きりだから、そして予想を覆されたから、だ。
そう思うと、徐々にだが、少し冷静になってきた。
うん、男も女も有るべきが有り、無いものは無い、皆同じさ。
気にする方が不自然、当たり前を気にするから、当たり前が出来ないんだ、と。
返って圭子の屈託無さに、救われた。
「ふうー、暖かい、生気が戻るね」
「ええ、本当に」
「だけど、圭子さんがさっき言ってた、最近はたまにって、どう言う事」
「はい、以前、各家庭にまでは、温泉が引かれていなかったのです。
それが10年程前、本村の殆どの家に温泉が行き渡り、
村の社交場だったここへ、皆さんあまり来なくなりました」
「そうか、そうだったんだ」
「ええ、でもお年寄を中心に、相変わらずここが好きな人も居ます。
私も月に何度か程度ですが、利用しては、お年寄りに、昔話を聞かされています」
「孫のような君に話を聞いてもらって、おじいちゃん、
おばあちゃん、嬉しいのだろうね」
「そうみたいです、なかなか、帰してくれないんですよ」
そう言って微笑む、君はやっぱり、君だ。
「子供の頃から当たり前の様に、昔は家族で、良く来たんですけどね。
と言うか、お父さんが亡くなる、3年程前までは」
「家に温泉が引かれても、だったの」
「ええ、父がここを好きだったので、温泉が家に来た後でも
二人で良く来ました」
[そうか、それだからより当然か、ここは裸で過ごすのが、ごく普通のことなんだよね]
私は、深く納得していた。

「少し、上せてきちゃいました」
そう言うと、またもやごく当たり前、私の目の前で立ち上がり、
そのまま歩き、湯船の縁に腰掛けた。

全身を 上気させ。
実に自然だ、辺りに、湯煙に溶け込み。

-つづく-

14.社(3/3)

「加藤課長、内線7番、調達の里見課長からです」
私は久し振りのコピー機に、やや手間取っていた。
何だ、何時の間に新機種なんかに変えたんだ、ボタン多すぎだよ。
そこへ女子事務員がやってきて、
「課長、早く電話お願いします。
コピーなんか言ってくれれば、私がやるのに。
それで、1枚づつで良いですか」
おっ、この子なんだか今日は機嫌が良いな、
いつもなんかコピー頼むと、露骨に嫌な顔するくせに。
ははーん、さては昨晩、彼氏と良い事でもあったな。
おっと、こんな事うっかり口を滑らすと、セクハラだって大騒ぎされるぞ。
普段はこんな程度のオヤジである、私は。

でも調達、里見のやつ、また何か文句でもあるのか。

私の社は東京に隣接した小都市、半ベットタウンに本社工場を構える、
食品工場等に収めるのが主な、生産設備機械の中堅メーカーだ。
先代が小さな機械商社を興し、それが私の入社10年ほど前から急成長、
メーカーに成り上がった、地元では有名な企業だ。
私はこれもまた、東京の中堅大学を卒業後、生まれ育った地元でここに入社した。
調達課長の里見とは、腐れ縁から大学・入社を共にする。
更に二人とも、設計課に配属され、我が社をメーカーとして急成長させた、
西山課長の下、情熱を注ぎ仕事に取り組んだ。

元々西山課長は、別のメーカーで設計に携わっていたが、
先代に見込まれ、招かれ、その能力を存分に発揮、社をここまでに伸し上げた。
私が入社した時点では、やや急成長期を過ぎてはいたが、
エネルギッシュで才能溢れる課長に憧れ、がむしゃらに働いた。
よく里見と二人、現場サイドから設計ミスで怒られ、
営業から仕様違いを指摘され、泣きながら現場や工場や客先を走り回ったものだ。
そんな時でも西山課長は、
「技術は人を助ける、助けるになるまでは、相応の苦労が必要だよ」
こう言って目を細めた。
こんな課長に応えたく、認められたく、我々は常に熱くたぎっていた。
やがて仕事にも生活にも、自信が持てるようになり、約束通り前の女房と結婚する。
一人だが子供にも恵まれ、公私にわたり幸せで、充実した時期だった。

我々がビックプロジェクトの開発を ほぼ終えようとしていた頃、
バブルが、弾ける。
何時しか我が社の象徴にもなっていた設計部門、それを設計課と開発課に分け、
更にそれらを統括するため、技術部創設を計った。
そしてそこの部長に、西山課長が就く事も、ほぼ決まっていたのに。
悪い事に同時期、先代が健康を害し、急遽長男が社長の座に就いた。
この長男も我々と同期入社の杉坂、社のもう1つの柱、営業に配属されたが、
同期のよしみで、昔はしょちゅう飲みに行き、熱く激論を交し合った仲だ。
社長の息子である事等、微塵も出さない、感じさせない
里見同様気の合う、心許せる、奴だった。
社長が退くと言っても、会長として非常勤ながら指揮する訳だし、
帝王学を早めに息子へと言う感もあり、それ程の心配はしていなかった。

所が、ここから何かが狂い始めた、全て、公私にわたり。

我々の業界は設備投資に頼るので、バブル崩壊はすぐさま響いてきた。
まず、例のプロジェクトは即刻凍結、技術部創設も撤回された。
更に有ろうことか、業務縮小の矛先を 設計部門主に向けてきたのだ。
それも余剰人員の幾らかを 営業部門強化のために回す、と言った。
我等の設計課にも営業配転者を募り、将来性をいち早く読んだ西山課長は、
私と里見を呼び寄せこう言った、
「こんな時期だから仕様が無い、元々ウチは商社だったんだし。
その営業力もあって、ここまでになったんだ」
私は激しく反発した
「お言葉ですが課長、技術は人を助けるのではないですか、
我々はそれを信じて疑いません、違いますか。
それと誰が見ても、課長の功労で、技術力で、ここまでに」
「解った、加藤、もういい、黙って聞いてくれ。
君達は本当に良くやった、想像以上にだ。
私の自慢の部下だよ、何処に出しても恥ずかしく無い。
だからだ、まだまだ将来ある君たちには、
相応しい部門、勿論我が社内での話だが。
将来性が望める、営業に行けと言っているんだ。
先代の気質を知るだけに、私には解る、この先の展開が。
幸い客先との折衝まで、君たちはこなして来た、例え設計の事であろうと。
君たちの能力と、何よりその情熱があれば、大丈夫。
今なら十分間に合う、営業に行くんだ」

私は納得出来ず、頭に血が上ったまま、社長室に駆け込んだ。
杉坂はニコニコしながら招き入れてくれ、昔からの変わらぬ絆を感じた。
が、そこまでだった、話が改変に及ぶと、人が変わったように、
会長と自分の決定を 変更は出来ない、の、一点張りだ。
「おい、技術はどうする、こんな時だからこそ、逆に強化すべきだろ」
「おまえなぁ、開発費って莫大なんだぞ、見返りの保証も無いし」
「だからって短絡的に、設計の何もかもを ここまで縮小したら、
メーカーとして、取り残されるぞ。
例のプロジェクトだって、一躍業界トップクラスに食い込む新技術だ。
おまえも解っている筈だ」
「そりゃあ解るよ、だけどさあ、100%の保証はあるか」
「なんだなんだ、いきなり守りにかよ、おまえ変わったなぁ」
「変わらない加藤の方が、それこそ変わりモンだぜ。
だからおまえも心機一転、営業に来いよ。
設計トップの実力者、加藤が来てくれれば、営業が大幅に強化されるし。
まあ、技術もそこそこ必要だけど、これからは営業で凌ぐ時代さ」
私はついに怒りが爆発し、テーブルを激しく叩き
「何だとこの野郎、杉坂もう一度言ってみろ、技術もそこそこだと、貴様」
それは周りに居た取締役の目を集め、大変な顰蹙を買う剣幕だった。
杉坂は一瞬にして顔色を変え、言葉を荒げた。
「加藤君、言葉を慎みなさい。ここは何処か、自分の立場、解っているのか」
私は我に帰り、深く頭を下げた。
「社長、ご無礼をお許しください、失礼します」
こう言って、社長室を後にした。
救いは、追って来た杉坂の言葉だった。
「すまん加藤、許してくれ。
お前に来て欲しい事も有って、つい、その・・・決して技術を軽んじては居ない。
ただ、もう少しで良いから、俺の立場も解ってくれ。
それに、営業畑しか知らない俺なんだ、その上まだまだオヤジは強い、
解ってくれ、力を貸してくれよ」
私は空返事を返し、それでも納得がいかなかった。

里見も里見で、私は大いに落胆した。
「なあ、加藤、一緒に営業へ行こうよ。
西山課長も、あそこまで勧めてくれたんだし」
「おいおい里見、おまえまでもかよ。
今までの俺たちを捨てるのか、がむしゃらにエンジニアリングを追求した」
「そうじゃない、営業でだって活かせる筈だ、俺たちを
情熱は陰ってないだろ二人とも、情熱は俺たちを救う、だ」
私は情けなくさえなっていた
「陳腐だよ、お笑い沙汰だ、おまえ。
なんだその馬鹿馬鹿しい、情熱は俺たちを って。
技術のみが人を 会社を 救うんだ。
そのために情熱を持って、だろ、そんな事も解らなくなったのか」
「加藤、おまえこそ、何時までそんな事を
もう少し現実を直視しろ、俺たちには家族と生活があるんだ。
おまえの言っている事は、正しいし、俺もそうであってと願う。
だけど、今を 先を 見るんだ、逃げるんじゃない」
私は自分自身微かに感じていたことを 里見に突かれ、
しかし、絶対に認めたくなかった。
「里見、もうおまえと俺は、違う気がする。
おまえはおまえ、俺は俺、だ」
「それで良いのか、加藤、本当に」
「ああ、俺は根っからの、技術馬鹿だし。
これからもずっと、西山課長を支えていくよ」

それは課長の負担とも、気付いていたが、
そうするしか、なかった。

各部署の優秀な人材が集まり、再編された営業部は活気を帯び、
逆に設計課は事実上営業傘下に置かれた。
大幅に削られた開発予算、本格的なコンピューターCADシステム導入、
ドラフターや消しゴムのアナログ音に換わり、プロッターの機械音が響く。
必要が少なくなった会話、女子事務員の鮮やかなブラインドタッチ、
彼女たちが図面を”描く”姿に、寂しさと空しさを感じる日々だった。
時々西山課長がぼやく
「図面を”描く”事が設計じゃない、創るのが設計だ」
何時しかこんな事を理解できるのは、課内でほぼ私だけ、
殆どの皆は、PCに乗り遅れた、負け惜しみとしか聞いていなかった。
新たな開発などほぼしなくなった、今までの技術の化粧直し程度で十分、
この様に変わった社風では、当然の事かも知れない、が。
そしてこんな状況下において、会社にとって課長は、
課長にとって私は、煙たがられ、お荷物にさえなっていた。
しかし、過去の技術資産を 全てデータベース化出来る状況でなく、
また、客先の既納品、への改造、との増設、
そして新たな要望にも、スムーズに応えきれなくなっていた。
それはそうだ、図面程度はそう出来たとしても、それ以外の大切なもの、
何と言っても客先と仲間と、人間同士でぶつかり合い、創るんだ、技術は、
キーボードを叩くだけじゃ無理、おのれを叩き上げなきゃ、無理だよ。
更に機械や状況を熟知した上で可能な、折衝、工程、発注、施工管理、
営業と設計間での揉め事が、絶えなくなっていた、擦り合いに近い。
そんな事、俺たちは泣きながら、駆けずり回って、こなして来たんだ。
しかし変わってしまったものは、おいそれと、戻せない。

それで、雑用課、営業技術課、なんともワケの解らぬ・・・
その新設された部署の課長になった、私が。
技術の名に一筋の望みを託し、渋々とだが。

同時期、里見も課長に就いた、調達課のだ。
営業部と太いパイプで繋がれたここは、発注や購買の大本で、
道の約束された里見に、とりあえず買う方も見て来い、程度だった。

そして、5年が過ぎた。

「はい、加藤」私は電話に出た。
「おお、里見だ、実はこの前の、施工業者に関する稟議書。
あれ、おまえの推挙した業者が、営業部長にひっくり返された」
「またか、今度も大鹿設備にだろ、どうせ」
「ああ、残念だけどな、部長の決定には逆らえない」
「だけど、おまえも知ってる筈だ。
あそこを使うと、仕事がいい加減だから、
現場は大変だし、結局客先に迷惑をかけ、そのうち信頼も失うぞ」
「それを上手く纏め上げるのが、加藤、おまえの仕事じゃないか。
今まで何回も、そうしてきただろう」
「おいおい里見、人の苦労も知らないで、全く。
たまには俺の言う通り、竹水機設を使わせろよ。
あそこなら仕事は間違いないし、見積もりだって、妥当なの出してきたぞ」
「それが・・・大鹿の方が安いんだ」
「チッ、きな臭いな、どうせまた、部長が取り計らって」
「おい、言葉に気をつけろ、ここは社だぞ」
「えーえー、そうで御座いましたね」
「ふー、おまえってやつは。
所で、今日付き合わないか、久し振りに、何時もの居酒屋」
「おっ、どーゆー風の吹き回しだろう。
そうか、躍進著しい調達課長さんが、
おちこぼれ雑用・名ばかり課長を 慰労してくださる訳ですか。
あっ、失礼しました、もう直ぐ営業次長さんでしたね」
「加藤、何だかおまえ、最近ヘンだ・・・
で、どうなんだ、今日は暇か」
「へいへい、ワタシャ独り身、何時でも暇でございます。
おまえも知っての通り」
「ったくもう、じゃあ、7時にな、良いか」
「はいはい、伺いますよ」

最近の私は、何時もこんな風、斜に構えていた。

「そうそう、毎晩酒を飲んで、テレビを見る程度。
俺は負け犬、おちこぼれサラリーマンさ」
圭子が居ない、圭子を思っていない私の現実は、この程度だ。
女房に愛想を尽かされても、当然だった。

「ねえ、あなた、今日里見さん職場から、電話くれたのよ」
そう、今から10年程前、例の社内改変で揺れ動いていた時期、
この頃から、女房とも上手くいかなくなった。
「おーなんだ、おまえにか、珍しいじゃない。
久し振りにOB・OG会でも、やろうって言うのか」

女房だった由美は大学時代の後輩で、私や里見と同じ、サークルの仲間だった。
このサークル・アウドドアファンは、実にミーハーな集まりであった。
ワンゲルのような、汗臭さを嫌った先輩が、そこを抜け出してつくった。
ハイキング程度の山歩き、それも殆ど、
バーベキューと女の子が目的な、軟派さだ。
何時の間にか山歩きすら、かったるい、ダサイになり、
夏は海、冬はスキー、要するに女の子と、楽しく遊ぶのが目的で、
当時流行っていたディスコへも、頻繁に繰り出すと言った、
何処がアウトドア、と、疑いたくなる場合も多いサークルである。
ただ、ミーハーな匂いのするものには敏感で、バスフィッシングや、
フライフィッシングも、ファッション感覚で、手をつけていた。
勿論暇は有っても金はなし、専ら専門書を読み漁っては、
似非バサーやフライマンを気取っていた。
それが女の子にウケちゃうもんだから、より愚かさを深めていたが、
その当時は有頂天、モテれば、カッコ良ければ、何でもOKだった。
正し・・・毎日が楽しく充実していたのは、今とは比べるべくも無く、
寝る間も惜しむように、遊び呆け、笑い、弾み、謳歌した。
そして卒業時には、由美と結婚の約束までしていた。

「何を呑気な事言ってるのよ、聞いたわよ、あなた設計に残るんですって」

あ、里見のバカ、おしゃべりだな、時期が来たら話そうと思っていたのに。
「ああ、そうだ、西山課長について行くと、決めていたのは知ってるだろ。
それに、俺は技術屋だ、絶対にもう一度来るべき時が来る。
その時に備え・・・」
由美はややヒステリックに私を制し
「あなたねぇ、何時来るのよ、その時って。
大体、技術部創設は撤回なんでしょ、潰しの利かない西山さんに、
何で何時までも、ついてなきゃならないの」
「おまえな、俺の信頼する上司を 事もあろうに潰しが、だと。
それに俺は、利害や優遇ばかりを追うのは・・・」
由美は更に、強い調子で、
「ええ、そうでしょ、あの人他に何が出来るの。
もう直ぐ50で、今更、気の毒な気もするけど。
それと、あなたはサラリ−マンよ、駆け引きや、世渡りも重要でなくって。
仕事の事だけ考えていれば、良いの、違うでしょ、里見さんを見習えば」
私は返す言葉が無かった、由美の方が余程冷静に、見ていた。
「じゃあ何かい、裏切れ、寝返れって言うのか」
私はもう感情的にしか、話せなくなっていた。
「何言ってるのよ、その信頼する上司が、西山課長が、
営業に行けと薦めてくれたんでしょ。
これからは営業だって、里見さんに聞いたわよ。
新社長だって営業派だし、それもあなたたちと同期で、
親しい杉坂さんだから、何かと優遇されるかもって」
「そうやって、良い所・良い所へ、尻尾を振って歩けと言うのか」
「もう、あなたのため、家族のためを思うから、言ってるのに。
仕様が無い事って、目をつぶらなきゃならない事って、有るでしょ」
既に女房にまで、俺の一途さを解って貰えないのか、
暴言・精神論まで飛び出す、ついに
「ふざけるな、女に何が解る。
もうこの俺が決めたんだ、文句有るか」
「有るわよ、この分からず屋」
「なにぃ、おまえ忘れたのか、あなたに一生ついて行く、
あれは嘘だったのか。
俺は今でもこうして、一途で、情熱に溢れている。
男はなぁ、夢や情熱を失ったら、お終いだぞ。
そして、俺がそれを注げるのは、技術畑のみなんだ」
由美はただ呆れていた、しかし望みを繋ぐように
「自分の言った事は忘れていないし、直向なあなたが好きなのも確かよ。
でもね、現実を見てよ、私と娘も。
夢や情熱だけでは、駄目でしょ、世間を上手に、渡って行けないでしょ」
「全く、どいつもこいつも、何かつーと、やれ現実だ、上手く渡れだ。
おまえとも誓い合ったはずだ、夢や情熱を学生時代に、違うか」
「あーもー、あなたは何時まで、学生気分や青臭さが抜けないのよ」
「あ・青臭いだと、おい」
「えーそうよ、何度でも言ってやる、あー青臭い」

取り返しのつかない事態への、序曲、
序曲なのに、大差なくその後何度も繰り返す、が。

やがて、営業技術に配属され、更に由美との溝は深まった。
公私に渡り、情熱を失い、しらけ、逃げて、
ばかりだと思っていた、自らを。

営業技術課長、課長、聞こえは良いが、
部下は畑違いから掻き集められた5名程と、
それこそ何も出来ない、新卒女子社員の腰掛け場所だった。
チョッと出来そうな奴は、直ぐに他部署から引き抜かれ、
気の利く女子社員すら、同様だ。
だから何時までも、私が実際の現場を飛び回った。
大体客先は生産工場なので、施工は限られた時間内を求められる。
土日や連休、そう、工場の生産が止まる休日。
主に改造や増設の場合が多く、新設であっても取り合いの都合上、
普通の人が休みの時に、工事が行われる。
ましてや、時代は出口の見えぬ大不況、自由に工程を組める、
完全な新設など殆ど無く、客先次第の工程に振り回された。
そんな訳で、ゴールデンウィークや、お盆休みは絶好の工事期、
女房や子供を遊びに連れて行く事が、ままならなくなった。
普段の土日は、現場を駆け回り施工管理、社に戻った月火は、
報告書や会議、発注処理や見積書の纏め。
そして週末の現場に向けて、木金と準備に忙しい。
だから休めるのは殆ど週中の、それも大体水曜日で、たまに木曜もと言った感じだ。
休みの日は疲れ果てた身体を休めたい、家でゴロゴロ寝たり、
その辺を散歩したり、パチンコしたり、したかった。
しかし、それも許されなかった。

許されなくさせたのは、私自身、そう、それは間違いない、が。

家でゴロゴロしてると、必ずと言っていいほど、女房と険悪になる。
その辺を散歩してると「平日に、ご近所の手前みっともない」、
パチンコに行くと「あそこの奥さんに、旦那さん大丈夫と聞かれる」、だ。
「おい、おまえは俺が、この日しか休めないの、知ってるだろ」
そう言うと
「前はこんなんじゃなかったでしょ、もう、何処にも連れて行ってくれないし」
「仕様が無いだろ、今の部署に変わったんだから、今更なに言ってるんだ。
それに、何処か気晴らしにでも行こうと、何回も言ったじゃないか」
「えっ、あなたと二人きりで、子供抜きで、冗談でしょ」
その後はお決まりの、言い争い、ののしり合い、空しく、取り付く島も無い。

それで、フライフィッシングだ、学生時代にかじった。
再開したら、とにかく素晴らしかった。
学生の時には解らず感じなかった数々、
こんなにも寛げ、清々しいものだったのか、と。
心が脳が洗われ、全てが輝き、生きている自分を堪らなく感じた。
直ぐ夢中になり、毎週渓へと足繁く通う、まあ、釣り自体はそこそこだが。
釣りをして、酒を呑み、温泉に浸かり、昼寝する、自分の居場所が見付かった。
逃避先が、見付かった、生き生きとした。

休みの日は必ず釣りに出かけ、家でもフライやロッド作りばかり、
FFにのめり込む事で全てを紛らわし、何時しか家庭を省みなくもなった。
そんな私に、呆れ果て見放した由美は、三行半をつきつけた、当然の如く。
私は正直安堵さえしていた、が、今度は養育費を含めた、
財産、金々、追い討ちをかけるように、泥沼が待ち受けていたのだ。
何もかも嫌になった私は、ローンを全て背負うことで家を渡し、
養育費も出来るだけ負担することで、月に一回は娘と会うことを許された。
それも・・・高校進学を睨み、会うのを控えろと由美は言い始めた。
「何でだよ、まだ中二だぞ、高校なんて先の話だろ」
「だから加藤さんは駄目なんです、もう中二ですよ、遅いくらいだわ。
娘を思えば、思い遣るのが父親で、大人でなくって、か・と・う、さん」
私は「勝手にしろ」と、電話を叩き置くのが、精一杯だった。

そんな時出逢ったのが、圭子。
私は消えかかった自分を しかし完全には消え失せていない、を感じた。
再び燃え上がるべく、情熱を注ぐべく、何かを得た。
圭子と出逢い。

報告書をやっと作り終え 時計を見るともう直ぐ7時だった。
私は誰も居なくなった、営業技術課の照明を消し、小走りで社を後にした。
暖簾をくぐると、里見は既にカウンターに座り、手を振っている。
「お疲れさん、今日も独りで残業かい」
「ああ、今日なんか早い方だよ、最近ウチの連中はとっとと帰るから、
俺が雑用を片付ける訳さ、まあどうせ、帰ってもやること無いしな、ハハ」
こう言って空笑いする私に里見は、コップを持たせビールを注いだ。
「だけど、何だか最近のおまえ、自暴自棄にさえ感じるぞ。
まあ、色々と有るのは解るけど」
「順風満帆な里見課長さんには、解らないですよ。
色々程度じゃありませんって、表舞台からは、見えないでしょうけど」
「ほら、それ、それを何とかしろよ、おまえらしくないぞ。
それとも、まだ俺を裏切り者と、恨んでいるのか、いい加減解ってくれよ」
私は里見のコップに、ビールを注いだ。
「すまんな、里見、なんかさ俺、染み付いちゃって。
自分でも解るんだよ、これじゃあ駄目だって」
「うん、加藤はまだ死にきっていない、だろ。
今、社は、おまえの所にかつて無いほど、頼っているんだ。
表向きは皆軽んじているが、もし加藤が居なくなったら、
滅茶苦茶な事になるって、上の方ほど解っている。
勿論おまえの苦労、大変さもだ、よくやってるよ。
特に使えない連中を どうにかやりくりしてまでだ。
俺は思う、加藤は辛い仕打ちに耐え、頑張り続け、
過去に見放した奴らを見返している、既に十分。
だからそうやって斜に構えるな、堂々と強く、昔の加藤に戻れ」
あっ、なんだか圭子にも、ついこの前、こんな事言われたな。
ふと、思い出し、苦笑した。
だけど心底嬉しかった、こうやって人に認められるのなんて、
本当に久し振りだ、それも無二の親友に。
しかし、今はそれが、素直に出せなくなっているんだ。
圭子にだと出来るのに、仕事絡みだと、特に。
「おっ、今日は何だか、随分と持ち上げるじゃないか。
さすが次期次長さん、人の扱いも上手いね。
おっと、あの悪名高き、営業部長さん仕込みだったな、
うん、そりゃあ上手くなる筈だ」
里見はわなわなと、握り拳を震わせ、
そして私のむなぐらを掴みかかった。
「加藤!貴様ぁ、腐りきったか、人間が。
それで、それで良いのか、おい、はっきり答えろ」

「里見ぃ、殴れよ、俺を殴れ」
私は、望んでいたのかも知れない、それを

回りの客が驚き、冷静になった里見は、手を解いた。
「今のおまえなんて、そんな加藤なんて、殴る価値も無い」
里見は寂しそうに、私のネクタイを直した。
「なあ、加藤、もう一度聞く、それで良いのか」
「悪かった、本当に。
最近の俺、ヘンだよな。
でも、これで良いとは思ってない、どうにかしなきゃ。
正直言えば、昔の俺に戻りたい、
当時同様に戻れないのは無理、それも解っている。
だけど、せめて、何かを取り戻したいんだ」
「何かを取り戻すか・・・その何かって、何となく解るけどさ、俺も。
でも、難しそうな気も、する、上手く言えんけどな」
「うん、そうなんだ、難しい事であるのは解る、
でも最近そう思うようになってきた、取り戻したいと」
「うーん、まあそれは置いといて。
とりあえず、おまえの能力を日の当たる所で、もう一度生かしてみないか。
加藤がその気にさえなれば、チョッと足踏みしたけど、また一線に戻れるぞ」
「どう言う事だ、それは」
「おお、俺が調達を去った後、おまえがやれと、言いたいんだ」
「えっ、里見の後を俺がか」
「そうだ、加藤の実力は、社長も、営業部長も買っている。
それに・・・ここだけの話、俺が次長を経て、部長にはまだ解らん。
そう、加藤が調達に来れば、おまえの可能性もあるからな」
「おいおい、お人よしだな、相変わらず里見は。
昔営業に移る時も、俺や、前の女房にまで、お節介焼いたし」
「長い付き合いじゃないか、加藤のことは、この俺が一番良く知っている。
相応しい人間が、相応しい地位に就く、
結局は社の、俺らの為にもなる、だろ」
「おまえは何時でもそうだな、冷静に物事を判断できる、羨ましいよ」
「判断できてもな、器がな、能力がな、おまえには敵わないよ。
それに部長の希望でもあるんだ、ほら、あの人って実力はそこそこだけど、
政治力でのし上がっただろ、ブレーンに、おまえが欲しいんだよ」
「取締役か、ケッ、あのイカサマ野朗がね」
「おいおい、そんな大声で、気をつけろよ。
それにイカサマは止めろって、サラリーマンには必要な政治力だ。
おまえは・・・能力があるから、許せないかも知れないけど。
俺には良く解るんだ、まあ、あそこまでは、真似たくないけどな」
「当たり前だ、里見がそんなだったら、友達を止めるって」
「ハハハ、そうだな」
「だろ、ワハハ」

この飲み屋で、こんな風に笑うのは、本当に久し振りだった。

「だけど、大鹿設備の社長、北島さんは、本当にえげつないよな、
なりふり構わないって言うか、相当だろ、特に部長には」
「あ、あぁ、コンペにも熱心に出るし、まっ、あれも営業だよ」
「そんな暇があったら、もっと自分の所の、技術を磨けって。
そんな取り繕った、営業なんかしてないで」
「解るけどさ、だけどそれも有りだぜ、加藤。
だって竹水機設なんか、あの頑固社長のお陰で、ジリ貧じゃないか最近は」
「ちょいとね、頑なだけどな、岩井さんは。
でも我々も若い頃、あの人に随分と世話になったし、教えられたよな」
「うん、職人気質の、根は良い人だ」
「せっかく良い仕事出来るのに、今は見るに忍びないよ」
「まっ、少しは北島さんを見習えば、かなり違うと思うけど」
「取り繕った営業か、無理だろうあの人には、岩井さんには。
今のウチに相応しいのは、取り繕った会社同士、大鹿設備がお似合いさ」
「まあ、仕方ないって、時代の流れも、じゃないか」
「だけど、それはそれとしても、ウチはこのままで良いと思うか、里見」
「うーん、加藤の言いたいのは、技術だろ。
営業部門ばかり、力を入れてるけど、って」
「そう、西山課長も、もう直ぐ定年だ。
部下もロクなの居ないしさ、あんな状態じゃ、お終いが目に見えている」
「そう言えば、西山さん、本当に不運だったなぁ。
後少し、ほんの少しバブルが持てば、部長になって発言権も、なのに。
会社の立役者が、見放された課長止まり、本当に寂しい限りだ。
だけどさ、それも会社の、もっと言えば、会長と社長の方針、
我々には、どうすることも出来ないよ、だろ」
「出来ないよで良いのか、里見。
我々の力で、出来ることが、あるかも知れないぞ。
世話になった岩井さんや、何よりあれほど憧れた、西山さんのためにも」
「おっ、嬉しいね、それが加藤だ、おまえはそうでなくっちゃ」
「おいおい、とりあえず俺の事は良いから、なっ里見、どうにかさ」
「おまえ正気か、出来ると思うか」
「うっ、うーん・・・だけど指をくわえて、見てるだけって言うのもさ。
大体設計だけの問題でなく、社全体に響くことだぜ」
「ああ、確かにそうだ。
加藤や俺が最後だモンな、本当の技術屋って。
他に誰も居ないよ、今のウチには、技術の無いメーカーは終わりだ」
「だろ、だから俺らにはまだ、20年近く時間が残っているんだ。
何とかなるかもしれないぞ」
「加藤、もう良いじゃないか、十分やったよ、この会社の為に」
「会社の為だぁ、おいおい、違うだろ。
会社を 飽くまでも舞台に、じゃなかったか。
それを 俺たちがたぎった舞台を 無くしたくないだろ。
情熱と夢、我々はそれで臨み、叶える為・・・」
「解った、解ったよ加藤、やっぱりおまえは素晴らしい。
俺が誇れる親友だ。
だけどおまえほどの奴が、解らない訳が無い、もう十分だ。
俺たちがそんな先の事まで、被ることなんか、無い」
「被るって、おまえ」
「会社人間も、折り返しを過ぎたんだ、俺たちは。
ここまでやってきた加藤、今のおまえを見ると特に思う。
もう十分やった、後は本来の会社人間になろうぜ」
「社長や、部長に、へ−こらするか、嫌だぜ俺は」
「馬鹿野朗、おまえのために言ってるんだ。
今の加藤は、見ている俺が、辛いほどだよ。
なあ、加藤、少しは小利口になって、楽に生きろ」
「西山課長の功績、何より俺たちが熱かった舞台、
消えてなくなる可能性が、高いぞ、このままだと」
「フッ、それは俺たちの定年後だ、それくらいのコントロールは出来るさ。
なめんなよ加藤、おまえには敵わないが、俺だって設計ナンバー2だった男、
今や営業は勿論、取締役連中にだって、実力を評価されてるんだ。
その俺が、したたかさくらいは、持ち合わせているさ」
「俺だって里見を認める、でもそのおまえの口から、
定年後だ、が出てくるとは・・・」
「仕様が無いさ、俺たちゃサラリーマン、所詮」
「まあ、そうだけどさ、杉坂なんかとは、住む世界が最初から違う、
単なる一サラリーマンだけどな」
「そう、だから少しは利口に・・・
おまえにとっちゃあ気が進まない、会社人間かもだけど、
もっとこの先くらいは、楽に楽しく行こうぜ、プライベート重視で。
それに、俺たちの人生だって、もう残り半分以下だ」
「うーん、プライベートね、再婚でもしてか」
「おー、そうだよ、それ、まだまだおまえだって男だろ。
どうだ最近、女の方は」
「あっ、ああ」
「おっ、コイツめ、否定しないな」
「ハハハ、恥ずかしいから、止めておく」
「こらこら加藤、そりゃないぜ、親友だろ俺たちは」
「ゴメン、じゃあ笑うなよ」
「おう、大丈夫だって」

学生気分、いや、何時までも男は、餓鬼。

「実はな、釣り、フライフィッシングを またやっているんだ」
「かーっ、懐かしいな、チョークストリームか、フリーストーンか」
「里見ぃ、そう言うのはだけは、覚えているな」
「そりゃそうさ、何たって、小難しい用語を並べ立てると、モテたじゃん」
「ハハハ、そうだったな、争うように覚えたモンな」
「で、フライと女、何の関係が」
「うん、釣りに行って、女の子と知り合った」
「そうか、そいつは良かったな、おいおい、もっと聞かせろ。
幾つくらいの子だ、可愛いのか、おい」
里見は自分の事の様に、喜び身を乗り出した。
「聞いて驚くなよ、笑うなよ、里見」
「解ったから、じらすなよ」
「21歳、飛びっ切りの美人」
「に・21ぃ、美人だぁ」
「おぅ、美人って言うか、もの凄く可愛い」
「コイツ、羨ましすぎるぞ、そんな若い子。
しかもぬけぬけと、物凄く可愛いだと、それで、もう長いのか」
「うーん、3ヶ月かな、出逢ってから」
「ほーほー、で、やったのか、その子と」
「あん、おまえは全く、もう」
「だからどうなんだ、あっちの方、良いのか」
「バーカ、やってねーよ、まだ」
「何だよ、おまえらしくないな。
手の早い加藤さんで、通ってたのに」
「勘弁してくれよ、昔の話は」
「いや、駄目だ、大体由美ちゃんと別れたのも、
未だに許してないんだぞ」
「またそれを言う」
「今だから話せるけど、俺だって、いや他に何人も、彼女を狙っていたんだ。
だからおまえらの結婚式の時、由美ちゃんを泣かせでもしたら、
殴り込みに行くって皆言ってただろ、あれって、かなりのマジだぜ」
「そ、そうだったの、ワリイ」
「ったく、他に何人か女居たくせに、あっさり由美ちゃんと、やりやがって」
「ハハハ、忘れてくれよー、頼む」
「まあ、良いか、許してやるかな。
で、なんでやらないの、その子とは」
「だからおまえ、さっきから、やるのやらないのって」
「だってさ、当然じゃん」

いい歳のオヤジ、2人の課長、ただの野朗に戻っていた。

私は、圭子と出逢ってからこれまでを 事細かに話した。
里見に、親友に、解って欲しい一心で。

「ふーっ、おまえの一途、何だか解るな、純愛だな」
「やめろって、何が純愛だ、この歳で」
「いや、やっと男になったのかも、加藤は。
男の純情、素晴らしいじゃないか」
「男の純情ね、ハハハ、何となく良いな、それ」
「だろ、本当はそうしたくっても、出来なかったんだ。
出来ないと言うか、解らなかったと言うか、ただただ、若かったんだ。
性欲ばかりが優先し、俺たちは、昔は。
特に加藤、おまえはな」
「おいおい、それって、萎えて来た、とも聞こえるぞ」
「うん、萎えるはチョッとあれだけど、
丁度バランスが取れてきたんじゃないか、今は。
ただ、これを理解して、受け入れてくれる若い子なんて、殆ど居ないけどな」
「腹は出てるし、オヤジ臭いし、か」
「ハハハ、俺はそうだけど、加藤はまだまだイケるぞ」
「そ、そうかぁ。
しかし、まあ、何と言うか、焦らず騒がず、なんだか物事が良く見える。
そんな感じかなー、で、あっちの方も、まだ現役だと」
「そう、そうだよ、無駄に歳はとってなかったんだ」
「無駄の方が多いけど、なっ」
「ハハハ、言えてる」
「歳をとるのも、悪くない、かも」
「うん、だけど、おまえをそこまでにさせる娘、会ってみたいな」
「ああ、時期が来たら、里見にだけでも、必ずだ」
「頼むぜ、しっかし良いな、羨ましいよ、ホント。
俺もフライフィッシング再開するか」
「おいおい、邪な道具に使うなよ」
「チョッとくらい、良いだろ。
なっ加藤、今度連れて行けよ。
そうだ、その子の友達とか・・・」
「えーっと、里見の家は」
「な、なに携帯なんか出して」
「あー里見さん、あっ、奥さんですか。
お久し振り、加藤です」
「あっ、この野朗、まて」
「うっそー、ほら、電源入ってないし」
「ふーっ、驚かせやがって、止めろよな、冗談なのに」
「ワハハハッ、そんなに奥さんが恐いか」
「ハハハ、ちょっと、かな」
「ノロケやがって、このぉ」

ハハハ、ワハハ・・・

腹が出て 頭薄くも 男友

酒が旨い、仕事帰りに呑むそれが。
昔は結構・・・いかん、またそれだ、前を向いたはずだろ、俺。
圭子が向かせて、だろ。

それにしても、そろそろいい時間になっていた。
「里見、そんな可愛い奥さん、あんまり待たせるな」
「おっ、もうこんな時間か、じゃあそろそろ」
「うん、今日は楽しかった」
「ああ、くれぐれも調達の件、良い方向に考えておけ」
「うん、解った、ありがとう」
「チッチッ、水臭いぜ、礼なんか。
おまえが居なくなった場合の、営業技術の事は、心配するな」
俺とおまえで、他部署からでも何とか出来るし」
「うんうん、そうだな」
私は友のありがたさ、変わらぬ友情が嬉しかった。
だから、どうしても気が進まない移動の件も、
とりあえず、こんな返事をしておいた。

プライベート重視か、そのためには俺が最も嫌う道、
それしか残されてないのだろうか。
妻に家庭に、一時期は会社にまで、見放され、しかめっ面のここ10年、
そんな、掛け替えのないものを失ってまで、貫いてきた俺。
貫けなくなりそうだと、逃げてきた、そう、やっと解った。
逃げるなと言われるほど、逃げたのは、
自分を俺を 曲げたくなかったからだ。
逃げていたんじゃない、世間が言うほど、俺は卑怯じゃなかった。
理解されないから、理解しない奴から、
逃げていたのか、違う、逆に俺の方が見放していたんだ、そいつ等を。
自己本位な解釈と、言われても構わない。
だから、寂しさに耐え、幾たびの辛さも、凌いできたんじゃないか。
やっと、解った。

しかし、それを今更捨てろと言うのか、会社は、世間は。
いや、捨てろとまでは言ってない、伏せろ隠せとだ。
でも嫌だ、それを利口と言うのなら、俺は今まで通りの、馬鹿で良い。
別に良い、誰に何と言われようと、
俺にとっては、伏せるも隠すも、捨てるに等しい。
馬鹿は生きられない、世の中なのか、生きてちゃいけないのか。
いや、そんな事は無いはずだ、現にこうして生きている、
こんな大馬鹿野朗だが。
だけどこの先、それを貫くと、これまで以上に辛いのは、
俺みたいな馬鹿でも解る。
身体は正直で、そろそろ悲鳴を上げ始めた。
何年持つか、何時耐えられなくなるかは、
解らない、絶対に屈したくはないが。

ただ、今は力が漲る、圭子が与えてくれた。
こんな馬鹿でも、慕ってくれる、女が居る。
早く何かを掴み、堂々と強く、迎えに行くため、
利口になってはいけない、なっては俺で無くなる。
そう、俺でなくて、何なのだ。

遠く、奥会津を 思った。


-つづく-
13.女性(3/3)

車のスライドドアを開け、車内灯を点けた。
2人で寝ることを思うと、邪魔に感じる荷物等を 助手席や運転席に移す。
マットを広げその上に寝袋、だが、これでは広々したとは言え、
やはり1人で寝るスタイルだ、どうしよう。
そんな所へ圭子が毛布を抱え、やや息を弾ませ戻ってきた。
「何だか殺風景な感じですね、こう言うことは女にお任せください」
そう言と楽しそうに、寝袋のジッパーを引き、広げ、
その上に持ってきた毛布を一旦かけ、三つ折りにした。
私はランタンの燈を消し、バーボンが残ったグラスとカップを持ち、
右手のグラスを口にしながら眺めていた。
[いいなー、こんな光景]
彼女が膝をつきながら、毛布を折る背、堪らなく女性を感じた。
そしてジャンパーを脱ぐと、敷いた寝袋の頭が当たる部分、下に潜り込ませる。
「これで枕OKね、ほら誠二さん、あなたのジャンパーも」
圭子はこう言って私の手から、グラスとカップを取り去ると、
車内のカップホルダーに置き、背伸びしながらジャンパーの肩を引く。
私は腕を後方に伸ばし、今度は母親を感じた。
[寒々とした夕方家に戻ると、よくお袋が、こんな風に脱がせてくれたな。
「こんなに冷たくなって、風邪引くよ、この子は」なんて]
よく男女平等とか、女性の社会進出、とか、聞くけれど・・・私としては勘弁して欲しい。
男は男、女は女、そして男は所詮どう足掻いても、女には敵わない、から。
敵わない、そう、女性に守られ、見守られ、
常にそれを感じているから、虚勢を張り生きている。
だけじゃないのか。
女が居るから、男をやっていられる、それだけだ。
女性は一人でも、強く歩めるよう思える、確信は無いが男から見て、思う。
だけども男はからきし駄目だ、独だと必ず何かに走る、逃げる。
まるで今の自分じゃないか、そう、駄目な俺。
またこんな事を思っている、だから駄目なんだな、苦笑するしかなかった。

「何をボーッとしているのですか、誠二さん、中は暖かいですよ」
圭子は膝をたたみ座り、右手の平を口に宛がい、私を呼ぶ。
私も車内に入り、スライドドアを閉じると、漂う甘い空気、
圭子の香りが充満していた。
「直ぐ寝られるように着替えますから、チョッと失礼します」
私は慌ててグラスを持ち、圭子に背を向け、ダッシュボードの時計を眺めた。
デジタルのドットが点滅し、後方からは衣服が擦れる音、
そして更に圭子の甘酸っぱさが、車内に広がった。
グラスをちびりとやり、手探りでジャージを取り、私も着替えた。
振り返るとそこには、やはりジャージを着、ちょこんと正座した圭子。
「エヘヘ、お揃いですね、色は違いますけど」
あくまで屈託無い、まるで修学旅行気分然の彼女だ。
もしかして、私は、余計な事を 考え過ぎていたのかも知れない。
堪らなく、押し倒し、抱きしめて・・・したい、のは、言うまでも無い。
心底、圭子の暖い、所へ・・・馬鹿、何を考えているんだ。

だから、酔いたかった、出来ないと解っていても。

「さあ、これで何の心配も無いぞ、呑みなおそうか」
「もお、大丈夫ですか、明日もあるのですからね」
「ぜーんぜん平気さ、ほら、君も研究が残っているだろう」
「仕様が無いなぁ、解りました、少しだけですよ」
私はクーラーボックスを思いだし、助手席へ手を伸ばす。
蓋を開けると、まだロックアイスが半分ほど融け残っていたので、
大きめのを摘み、圭子のカップへ入れた。
「これがオンザロック。
早く気付けばよかったね、一番口当たりが良いかも知れないから」
氷の上にバーボンを注いぐと、圭子はカップを鼻へ近づける。
「本当ですね、今までとは違います。
何て言うか、こうばしく、柔らかな感じです」
「氷がアルコールを封じるからね。
さあ、呑んでごらん」
「舐めるように、吸うように、でしたね、フフ」
「うんうん」
私は興味津々で、圭子の表情を覗き込んだ。
目をパチパチさせ、口の中で転がしていたが、
やがて揉むように喉を通し、微笑む。
「嬉しーぃ、やっと飲めました、誠二さんみたいに。
まだ美味しいとかまでは解りませんけれど、なんとなく」
「なんとなく」
「はい、なんかこう、トロッとした」
「そうだね、トウモロコシを感じなかったかな」
「えっ、トウモロコシ、ですか」
「うん、そう、それはトウモロコシから造るんだ」
「へぇー、そうだったんですか」
「日本酒は米から、知っているよね」
「はい」
「ワインは葡萄、焼酎は米・芋・蕎麦、色々だね」
「蕎麦からも、お酒が造れるのですか」
「うん、ウイスキーは麦からだしね。
お酒は人間の居るところ、必ず有るんだ。
ニューギニアの奥深い地、そこでもタロイモからのがあって、
何処から伝来したのか、そこでの独自なのか、はっきりとしないけれど、
人間の住む所、酒とタバコは必ずだ」
「タバコは害ばかりらしいですけれど、お酒は適量なら、百薬の長なんですよね」
「おっ、知ってるな、まあ、タバコも悪いのみではないけれど、近いね。
タバコは置いといて、酒は人間に必要不可欠、とまで言い切っちゃうよ」
「フフッ、人間にじゃなく、あなたに、でしょ」
「そうとも言う、ハハハ」
「くれぐれも、お薬程度に、ですよ」
「はーい、解りました」
「本当かな、もう。
だけどどうして、必ず有るのでしょう、お酒って」
「そうだね、人間の脳に許された、唯一無害の精神開放剤じゃないかな」
「許された・・・ですか」
「うん、脳って身体の中で一番、外敵からの防衛能力があるんだ。
勿論血液を通してだけれど、異物に対して強固な。
しかし、アルコールは、すんなりと受け入れられる、
それも違和感を感じず」
「へー、そうなんですか、脳も身体も、麻痺しちゃいますけれど」
「そうだね、だけど普段とは、違った気分になれるでしょ」
「確かに、脳よ身体よ休め、と言われてる感じですね」
「何処かの精神医が、言ってたよ。
アルコールは、副作用の無い、人間にとって最高の精神安定剤と」
「何かを忘れていませんか」
「えっ、何かって」
「量を間違えなければ、でしょ」
「ハハハ、やっぱり解っちゃったか」
「肝心なことを 省いてはいけませんよ。
本当に、身体を大切になさってくださいね、誠二さん」
私を思い気遣ってくれる、そんな女性が一人でも、
いや、圭子一人で十分過ぎるほどだが、居てくれる。
これ以上何を望む。
私もバーボンを含み、深謝した。

ふわふわと夢心地、この上なく。

ガラス越しに外を眺めると、車の燈に、トビケラが舞っていた。
もうそんな季節なのか、彼女と出会ってから、既に3月が流れた。
単に3月と言っても、毎週、濃密さを伴ってだからこそ、早かったが。
正にあっという間の、3ヶ月間だ。
私は昼間考えていたことを 圭子に話した。
「そうだ、そろそろ気分転換も兼ねて、
来週は別な場所に行ってみようか、もうここのヤマメは大丈夫だと思うし」
「そうですね、いつもここばかりでしたから。
でも、ヤマメ、大丈夫ですか」
「うん、あれだけ鍛えられていたら、多分ね。
圭子さんの考えは、当たっていたよ」
「あなたがそう言うのなら、そうなんでしょう。
だけど最近、すっごく長い竿を持った人も、来てますけれど」
「だよね、ここの川幅にしては、驚くほどの。
それで極細ハリスに川虫の、ナチュラルドリフトだもん、
そこまでって言うか、恐れ入るよね」
「ええ、だからチョッと心配です」
「だけどね、餌釣りではどうしても、仕掛け操作のために、
ある程度竿がポイントに近づくんだ。
その点FFは上手くやれば、ほぼティペットだけでしょ、ポイントに被るのは。
このFFで臨んでもここのヤマメは、ラインが近づくだけで逃げ出すのだから、
大したもんだよ、多分大丈夫だ。
絶対とまでは、言えないけれどね」
「はい、解りました、何だか安心です」
「それじゃあ明日は暫く分を 念入りに教えておこうか」
「フフッ、誠二さんがそう言ってくれると、心強いです。
何しろベテランで、エキスパートで、達人でらっしゃるし」
「おいおい、持ち上げすぎだよ。
それに僕なんかまだまだ、もっと上手い人はたくさん居るよ」
「良いんです、私にとっては、なんですから」
「うっ、返す言葉が無い」
「でしょ、参ったか!」
「はい」
ワハハ・・・

トビケラが、高らかな笑い声に、押されていた。

一頻り笑い終わると、私は圭子の肩を引き寄せるよう、一緒に寝転んだ。
車内灯を消し、毛布をかける、二人とも天井を見つめていた。
段々と目が慣れてくると、思いの他明るく、半分ほどの月と星明りで、
彼女の表情もはっきりと、映った。
「という事は、君は実際に近くでヤマメを見たの、今まで無いって事だよね」
「はい、誠二さんと出会った日、あれが初めてです。
今までは川で泳ぐ姿や、水槽で、でしたから」
「で、感想は、初めて見た」
「綺麗でした、想像以上に」
「でしょ、僕も初めての時は、感動したもん」
「はい、生きているからこそ、と言う感じでした」
「うん、君が守りたくなる気持ちも、よーく解るよね。
でも、圭子さんの場合、何かチョッと雰囲気が、
違うと言うか、変わっていると言うか」
「えっ、何が、どんな風にですか」
「うん、上手く伝わるか解らないけど、僕らは人間として、ヤマメに接している。
だけど、君の場合、何だか、仲間とのような感じ、かな」
「あっ、解っちゃいましたか、私ってヤマメの生まれ代わりなんです」
「そうだね、多分そうだよ」
「じょ・冗談ですよ、やだなー、そんな真面目な顔で」
「いや、そうとは言い切れないかも。
だって君は、ヤマメ同様、流れるようなスタイルだし、美しいし。
うん、ヤマメ以上かもしれないな」
「何でしょう、お口がお上手。
でも、明日になれば忘れているんでしょ、それは酔っていたからだって」
「ハハハ、その通りだ、よく解るね」
「お見通しですよ、誠二さん」
そう言って微笑む圭子の顔が、直ぐ横だ。
渓のざわめき、饒舌なる星、手が届く。
2人で船に横たわり、ミルキーウェイで揺られている、ようだ。
それをもっと感じたく、手探りでグラスを求め、残ったバーボンを口にした・・・が。

どうしても、酔えない。
いや、酔ってはいけない、私には義務がある、から。
しかし、夢との境界線が、薄れ始めた。

「もう、寝ちゃいましたか」
「あ、いや、でも少し」
何だか訴えるような圭子の、その大きな瞳。
「このまま、寝るんですよね」
「えっ、眠くないの」
私は、とぼけた。
「そうじゃなくって、もう良いです」
「どうしたのさ」
「だって、あのー・・・
私って魅力、無いですか」
「な・何を突然、さっきも言ったじゃないか、ヤマメ以上だって」
「ヤマメはいいですから、女として」
本当にゴメン圭子さん、君の口からそんなことまでを言わせて、
もしかすると俺、最低かも・・・
納得は得られずも、きちんと話さねば、そう、最低なのは間違いないが。
「だから、何を言うんだ、君ほどの魅力的な女性、他に居るもんか」
「じゃあ、何でですか、男の人って、その・・・」
「普通は我慢できないし、僕も苦しいほど押さえている。
だけど・・・」
「はい」
「だけど、まだって言うか、ものすごく抱きたいから、
逆にいまそうであっては、いけない気がするんだ」
圭子は本当に小さな声で、視線を外し、呟いた。
「私が、経験無いからですか」
「いや、例の友達とのやり取りを 聞かせてもらって、薄々は解っていたけれど、
それは全く関係ない、君が処女であろうと、なかろうと」
「じゃあ、何故」
「うん、君を抱きたいのが、性欲からなのか、
そうでないのか、はっきりとしていない事も有るんだ、僕の中で」
「・・・欲でも・・・」
「そう、それも言えるし、自然かもしれない。
このままの流れで、今君を抱くのは容易い。
別にそれも良い、君がそこまで言ってくれて、申し訳ないほどだし。
だけど解って欲しい、圭子さんを愛し始めたんだ。
いや、愛し行けると、強く解ったんだ。
それもまだ始まったばかり、今はこの事を大切にしたい。
ただ決して君に、こんな事の押し付けだけはしたくない。
出来れば口に出したくも無い、愛などと。
言ってる僕自身が、薄っぺらに思えてくるし。
これは言葉ではなく、湧いてくるべきものだと思う。
そして、もっと言えば。
君を抱く以前に、まだまだ大切なものが、有るような気がするんだ。
それが見付かってから、いや、見付けてから・・・
今君を抱く事以上に、圭子さんへの思いは強い。
だから、それまで、待っていてくれないか、圭子さん。
今の僕じゃ、まだ駄目なんだ、解って欲しい」

圭子は目を見開いたまま、大粒の涙を流していた。
俺って、とんでもない馬鹿なのかもしれない。
でも男の馬鹿、虚勢を張った馬鹿さを 見守って欲しい。
甘えているのかも知れない、それも解っている、つもりだ。

「今のあなたって、駄目なんですか。
何が、どのように。
私には解りません、誠二さんしか見えていない、私には。
解らない私って、やはり子供なんですか」
言葉が出なかった、ただ、圭子の頬を撫でるばかりで。
「それに、見付かるのは何時なんですか。
きっと、解らない、と、おっしゃるでしょうけれど」
圭子は、頬にある私の手に、手を重ねた。
「女は、私は、あなたに抱かれたいと、
思っている事だけは、忘れないで下さいね」
「うん、忘れるものか。
だから、その・・・ごめん、待っていて、くれないかな」
「嫌です」
「えっ、駄目かい」
「はい、ごめんとか、くれないかな、なんて。
前にもお話したように、殿方は堂々と強く。
待っていろ、でしょ、誠二さん」

凛として諭される、だから女性には、圭子には、敵わない。

「待っていろ、圭子」
「はい、誠二さん」

-つづく-

12.決心(2/27)

こんな調子で戯れ、楽しんでいたら、結構酔いが回ってきた。
それも丁度良い加減で、会話は更に流れた。
「そうそう圭子さん、さっき話したように、
結局やめやは見付からなかったけれど、やめ塚なんて発見しちゃったよ」
「あっ、しちゃいましたか、あれを」
やはりのリアクションだ、多くを語りたくなさそうな。
私はとぼけて更に加えた
「うん、暫く動けなくなるほど、読んだ後立ちすくんだ。
しかし何故あんなに風化するほど、放ったままなの、あれほどの美談を」
「誠二さんはあれを見て、他に何か感じませんでしたか」
自分は今晩、なんて意地悪なんだろう、と思いながらも、
圭子なりの説明、そしてそれを話す姿を見たい一心で、とぼけ続けた。
「そうだね、何だか後ろめたさを感じた、ヤマメを釣ることに。
とりあえずこの辺りでは、釣るのをためらいそうだ」
「やはり誠二さんなら、そう思われるでしょうね。
それほどでなくても、釣り人なら、
何かしら感じると思うんですよ、あの塚を知ると」
「うん、それぞれだとしてもね」
「誠二さんはある程度、この村の実情をご存知ですよね。
観光観光と唱えるのも解るし、うちもお店をやっている訳ですから、
複雑な心境なんです、けど・・・」
やめ塚の話は、代々年寄りから子供たちへ、
自然や生き物へ、感謝と敬いの啓蒙も兼ね、
脈々と語り継がれてきた。
自然の懐奥深くに暮らす村人にとって、それは必須で常識なほどであった。
ところが押し寄せる観光化の波は、この地へも例外なく及び、
平凡な温泉しか謳えないのではと言う事で、渓流釣りも絡めた。
当然多くの猛反対も出たが、過疎化阻止と村民生活向上等大義名分の下、
何時しか、やめ塚の話をすることすら、気まずくなってしまった。
観光者、特に釣り人には。
「私も子供の頃、おばあちゃんにこの話を聞いた時、
他所から来たおじちゃん達は、やっめこ釣って良いの。
なんて聞いて、困らせたこと有りますし」
「だよね、子供に理解させるのは、難しいかな」
「でも、多少風化しようとも、この話を絶やしてはいけないと思うのです。
現実は現実、矛盾も矛盾、その上でも」
「矛盾だらけの現実だけれど、真理是強し、だよ圭子さん」
「はい、そうですね」
「ここにも一人、理解者が増えたじゃないか」
「ええ、私の最も・・・」
「最も?」
「うーん、慕う人、と言うか・・・エヘッ」
君の気持ちは、言いたい事は、僕も同じだ、圭子さん。

何口目だろうバーボンは。
この酒の場合、何杯と言うのは、似合わないような気がする。
とにかく甘く、円やかにさえ感じられてきた。
圭子はと言えば、ストレートを諦め、何で割るのが良いか、色々と試している。
水から始まり、お湯・ウーロン茶、自分で持ってきた炭酸飲料等を。
量はカップにほんの少しづつ、そして口に含む度、多彩な表情を作る。
相変わらず、吹き出したいほど可笑しいことも有るが。
「何か合うのが見付かった?圭子さん。
だけど、お酒が好きなんだね」
「なかなか一長一短で・・・
でも、嫌いじゃないですけど、特に好きな訳ではないですよ。
あなたが美味しいと言うのだから、私にも解らないかなって。
それだけです」
私は目を細め
「そうかそうか、でも、日本酒と違い、バーボンも含めた蒸留酒は、
アルコール度数の高さから、多様な飲み方が有るんだ。
無理の無い範囲で、徐々に、ね」
「はい、徐々に、ですね」
「うん、うん」
こんな健気で素直な娘、最近居ないな、しみじみ思った。
数がわからなくなった、バーボンを含み。

社のOLなんか、圭子と同年代の、短大を出て配属されいきなり、
「私はお茶くみや、コピーのために、来ている訳じゃありません」
的態度も居たし、恐れ入るよ。
そのくせ飲みに連れて行くと、奢って貰って当然、か。
タバコなんか、プカプカだしさ、笑っちゃうね。
「ああっ!」突然圭子は、素っ頓狂な大声を出した。
「誠二さん、やめ塚を発見したから、
フックを折ったフライ、私に付き合う気になったのですか」
もうその話題は、一段落したんじゃぁ・・・
そうかそうか、今思い出したんだものね、圭子さん。
うん、全く君らしいよ、楽しい人だね。
「うーん、全く影響ないとは言わないけれど、
それはそれ、これはこれ、じゃないかな」
「そうですか、それはそれ・・・ですか。
相変わらず難しいな、大人って」
「何言っているんだい、圭子さんだって21、
大人じゃないのかい」
また私は、ちょっぴり、意地悪だった。
「あーもー、さっきは子供扱いしたくせに。
私はまだまだ子供です、特にあなたの前だと。
と言うか・・・
あなたの前では、そんな感じにしていただけたら・・・」
勿論さ、何時までも君を守り続けたいし。
でも、照れくささもあり、また意地悪したくなった。
何だか、遠い昔、好きな子にわざとそうだったように。
「ええっ、そんなにお酒呑む子供を!
僕の子は、飲兵衛なの」
「ああっ、そこまで言いますか、飲兵衛だなんて、酷すぎる。
だから、あなたが美味しいのならって・・・」
そう言うと圭子はテーブルに伏せ、激しく泣き出した。
私は急激に血の気が引いた、しまった、度を越してしまったか。
慌てふためき彼女に駆け寄り、肩をゆすりながら
「ごめん、冗談だよ、冗談。
チョッと言い過ぎた、ごめん圭子さん」
圭子は、泣きじゃくりながらも、はっきりと
「私って、飲兵衛ですか」
と聞く、普通ならここで、あれっと思うのだろうが。
酔いも手伝い、やや動転していた私、
「勿論だよ、実際そんなに飲んでないし。
だから、冗談だってば、許してよ」
圭子は伏せた腕の間から、チラッと目を覗かせ
「じゃあ、許してあげるから、
何でも言うことを聞いてくれますか」
さすがにいくらなんでも解った、やっと嘘泣きが。
やっぱりまだまだ無邪気だ、私の可愛い子供、でもいいか。
だからこのまま、圭子の術中に陥ってみるのも、楽しそう。
「うん、何でも聞くから、ね、この通り」
私は大袈裟に手を合わせ、謝った。
圭子は涙をふき取る振りをし、立ち上がり
「そこまで言うのなら、許してあげます。
じゃあ、何してもらおうかな、フフッ」
何を言い始めるのか、ワクワクした。
所が、何も言わず、ただ微笑んでいたかと思うと、
私を見上げ、スッと目を閉じた。
鼻筋が長い影を頬に落とし、そこが耳たぶが首筋まで、
見る見る間に紅を引いた。
美しい、吸い込まれそうなほど、端麗・麗美この上なかった。
何時までも眺めていたかったが、もうこれ以上君を困らせてはいけない。

唇を合わせると、炭酸の香りが、した。

「少し眠くなってきました」
私の腕の中、圭子はうつむき加減で、そう、呟く。
どちらかからにしろ、そんな時間は必ずくるし、
彼女が外泊で来た事を 知った時点よりあぐねていた。
さて、どうしたものか。
私の車はワンボックスだから、小柄な彼女となら十分に寝られる。
じゃあ、そろそろ寝ようかと、私が切り出して普通。
その場合、はいそうですねで、圭子が自分の車に向かえば、問題は何も無い。
が、もし、私の腕の中に留まり、待つような仕草の場合が、困る。
私の車に誘わねば、彼女を傷付ける。
しかも同じ屋根の下で一晩過ごし、何も無ければ・・・
いや、私から求めるのが自然だし、それに躊躇さえしてくれれば、そのままだ。
だが、もしも、応じてくれたら・・・その上で、そのままは有り得ない。
と言うか、そんな事は、致命的な失礼だ。
だから、なにもせず、求めもせず、そのまま寝てしまえば良いのか。
世間話でもしながら、眠りにつくのも、別に構わない。
それが出来る可能性も、有るとは思えるが、しかし空気を読むと・・・
多分状況からしても、誘う方になりそうだし。

もしかして俺、彼女を抱きたくないのか、そんな訳ないだろう。
抱きたいに決まっている、今すぐにでも。
ただでさえ魅力的な圭子だぜ、押さえるのが苦しいほどだよ。
じゃあ何なんだ、問題ないのに。
それとも大切にしたいとか、歳が離れすぎているからとか、
もしや、もっと相応しい場所、高級ホテルでなんて思っているのか。
何言ってんだよ、全然違う、そんなんじゃない。
まだとか、もうとか、時間的なでも、何でもない。
抱かなくとも良いじゃないか、確かにこれまでの流れから、
今日のこの雰囲気からしても、抱くのも自然だが。
抱くのと同じかそれ以上が、必ずあると思う。
それは圭子への強い思いを より伝えられるのではないか。

腹は決まった、もう、どんな状況に直面しても、迷わない。

「そうだね、明日もあることだし、そろそろ寝ようか」
「はい、そうですね、このままだと、
誠二さん何時もの様に、椅子で寝てしまいそうですし」
「ハハハ、よーく解っているね。自分でも思うもの」
「クスッ、完全に風邪引きますよ、私はあなたを運べないですから。
それに・・・何より・・・寂しいです、私一人にだと」
「うん、うん、解った、もう寝ようね」
「はい」
私が腕を解くと、圭子は歩き始めたので、正直安堵した。
何と言ってもこれが一番だ、これ以上気を使わず済むし。
でも、ちょっぴり、残念なのも確かだ。
所が2・3歩進んだ先はテーブル、片づけを始めた。
ああ、そうだよな、と思いながら私も手伝う。
そして十分綺麗に片付いた、のに、
何時までも、テーブルを拭き続ける圭子、またもうつむき加減だ。
解った、解ったよ圭子さん。
私はテーブルを拭く彼女の手を取り、囁いた。
「圭子さん、良かったら僕の車で、一緒に寝ようか」
晴れ晴れと彼女は言った、何時も通りの眩しい笑顔、片笑窪の愛らしい
「はい、お願いします。
じゃあ、自分の毛布を、持ってきますね」

弾む、全身で弾む圭子、歩き離れて行きながら。
ランタンの燈が届かずとも、はっきりと、解った。

-つづく-

11.誓い(2/25)

「フーッ、苦しいよー」
「もー、お腹痛い」
頭の中はすっからかんである。
何が原因でこんなに笑ったのか、一瞬解らなくなった。
「だけど久し振りです、こんなに、涙が出るほど笑ったのは」
圭子はまだ全身を振るわせながら、目をパチパチさせ涙を拭っている。
そう言えば私も本当に久し振りだ、何時以来か記憶に無いほど。
だから懐かしいと言うか新鮮ささえ覚え、腹筋の淡い痛みを爽やかに感じていた。
特にここ5年程は、仕事のストレスやプレッシャー、前の女房との離婚騒動で、
笑うどころか楽しかった記憶も殆ど無い。
[そう言えば別れた女房、あいつと一緒になったばかりの頃は、毎日楽しかったな。
どうして、何時の間に、ののしり合うまでになったんだろう]
ふと、こんな事を思い出してしまった。
何だか圭子に、簡単なことを教えてもらって、
それが出来ないでいた自分に気付いた、から、なのだろうか。
「ワッ!」
圭子が突然私の耳元で、こんな大声を発し驚かすものだから、
椅子から落ちそうになった。
「うおっ、驚いた、止めてよー」
「ヘヘッ、笑いすぎて、どうにかなっちゃったのかと思いましたよ。
ボーっとしちゃって、大丈夫ですか」
そこには悪戯っぽく笑う圭子、瞳をキラキラとさせ。
純真無垢、そんな彼女の笑顔を見ると、軽い罪悪感を覚えた。
別れた女房とは言え、一瞬でも、しかもこの場で、
他の女性のことを思った自分を なんだか恥じた。
「ハハハ、大丈夫・・・じゃないかもね。
笑いすぎで、頭ん中真っ白だよ」
「あーやっぱりですか、フフフッ」
そう、やっぱりだよ、今は君しか見えない。

私は殆ど落ち着いてきたのだが、圭子はまだ楽しそうであった。
笑いながら、コッヘルに落としたてんぷらを摘んでは、
「見てー、こんなにふやけちゃった」
まるで子供の様に私に示し、また笑う。
肩を震わせ、かじるように口にしては
「汁が垂れるぅー」
掌で受けながら、また笑う。
極上の場面だ、どんな映画もドラマも、決して敵いやしない。
自然と、湧くように、微笑んでしまう。
私はグラスからバーボンをちょっぴり口に移し、心地よい酔感を噛み締めた。
そんなニコニコしている私を見て
「あのー、それお酒ですよね。
私も少し頂いて良いですか」
「えっ、だって車で来たんでしょ、それにこんな時間だし。
これってバーボンだから、直ぐには醒めないよ」
「大丈夫です、ここは友達の家だから」
「友達?家?」
「はい、たまにですけど、休日の前の晩にも、
この前お話した友達のところへ、遊びに行くことがあるんです」
「ええっ、じゃあ、お母さんには嘘を言って、出てきたの」
「嘘なんかじゃありません、だからここは友達の家です」
「アハハ、友達の家ね。でも、後でばれたりしない」
「彼女には、本当のことを・・・」
あー良かった、やはり友達って女の子だったんだ。
こんな時に以前の不安が解消して、安堵する自分が居た。
そんな場合じゃないだろう、何考えてるんだ俺、そう思いながらも聞いた。
「で、彼女は快く協力してくれたの」
「はい、圭子もやっとそんな嘘を頼むような、大人になったね。
なんて、からかわれましたけど」
高まり始めていた鼓動が、更に激しさを増し、生唾を飲み込んでしまう。
こんな場合、どんな返答をしたら良いのか、正直困っていた。
いや、困ること自体が邪だ、そう、別に困ることでも何でもないのだ。
友達である私のところへ、遊びに来ただけなのだから。
そう、友達・・・歳の離れた、それで良い。

私は黙ったまま、自分のグラスにバーボンを注ぎ足し、圭子へ手渡した。
「ストレートだからきついよ、飲み難かったら何かで割ろうか」
「ありがとうございます、チョッと試してみますね」
そう言うと、まるで以前の日本酒を飲む要領で、クイッとやってしまった。
「あっ、だから・・・」
私が驚き言うのと同時に、むせ返った圭子は喉を押さえ、激しく咳き込んだ。
私は彼女の手からグラスを取り、背中を軽くトントン叩きながら
「だから、きついって言ったのに、大丈夫」
掌で口を押さえながら、まだ軽くだが咳を続け、苦笑いながら大きく頷いた圭子。
「あー、凄いですね、さっきは喉と胸の辺りが、
今は胃が燃えそうに熱いです」
「もう、怖いもの知らずと言うか、大胆と言うか。
見ている僕の方が驚くよ、この酒はそんな呑み方じゃないんだ」
「そうなんですか、バーボンなんて初めてだから。
匂いも味も強烈ですね」
「うん、しかし・・・よくもまあ、日本酒の様に呑んだものだ。
大体普通匂いで躊躇するけどね、本当に君って」
「ヘヘッ、おばかですね」
「ハハハ、ノーコメント」
「あっ、なんでしょ、そうだねって聞こえましたけれど」
と言いながら、何だか楽しそう、可笑しそう。
自分自身を笑う圭子が、堪らなく可愛い。

私は車からマグカップを取り出し、そこに5分の1ほどバーボンを注ぎ、
彼女の目の前に置いた。
「いいかい、まずカップを持ち、鼻から20cm程の所でゆらゆら回す」
「はい、回します」
「うん、そうしたら、舐めるように吸うように、ちょっぴり口に含む」
「はい、含みます」
「次に、舌で転がすように、そして揉むように、口全体に行き渡らせる」
圭子は頷いた。
「そうすると、唾液と交じり合い、ふくよかな味わいがパァーッと広がる」
圭子は眉間にしわを寄せ、小首を傾げた
「ハハハ、それから、舌で徐々に送り込むよう、喉へ流す」
圭子は、ゴックンと音が聞こえてきそうなほど、一気に飲み込んだ。
「その後も、口の中に残った芳醇な芳しさを 暫く楽しめる訳さ。
どう?」
「ハーハー、熱い、ただ熱いです。
だけど、訳さ、なんて言われても、解りませんよ」
「ただきついし、熱いし?」
「はい、そうです」
「ワハハ、そうかそうか」
「だけど誠二さん、こんなものと言っては失礼ですけど、
おっしゃるように楽しめると言うか、本当に美味しいのですか」
「美味しいですよ、勿論。
でも、圭子ちゃんには、解らないかもね」
「ああっ、どーせ私は、まだまだ子供ですよーだ。
良いんだもん、解らなくったって」
そう言って頬を膨らませ、すねるような圭子。
私の思い通りを 楽しんで、みたかった。
チョッと意地悪しちゃったね、圭子さん、ごめん。
でも、何かをブツブツ言いながら、またカップを口にする彼女。
なんだなんだ、鼻をつまんでいるぞ、おーい圭子さん、今度は大丈夫かい。
「舐めるように吸うように・・・よね」、そう言いながら口に含み、
そして眉をしかめ、相変わらずゴックンしている。
またまた案の定、口を大きく開け、舌を出し、ハーハーと熱そうだ。
「あーん、どうしてもゴックンしちゃうわ」と、涙目でこんな事を言うものだから。
私は左手で腹をかかえ、右手を圭子に指差し、先程と同様声も出せず笑った。
身体を折るように息苦しく、痛めた腹筋が辛く感じるほど。
「あっ、酷ーい、何が可笑しいの。
私なりに、頑張ってみただけですよ、そんなに笑うほど可笑しかったですか。
ねぇ、誠二さん、誠二さんってば、もう」
足で地面をドンドンと数度踏み、悶絶する私の背を 圭子は拳で叩く。
彼女としては、結構強く叩いているつもりに見受けたが、
私には、ただただ、心地よいだけだった。

何故か突然涙が溢れ、止まらない。

私は突然立ち上がり、圭子に背を向け、暗闇へ向かい歩いた。
顔は相変わらず笑っているのに、溢れる熱いものが、止め処なく流れる。
本当に忘れていた、心から笑えるのだ、自分はまだ。
しかめっ面ばかりして歩んできた、ここ10年程の出来事が、
次々と浮かんでは去り、次々と浮かんでは、去った。
学生時代は何時も仲間と、女房になった彼女と、馬鹿が付くほど笑っていた。
入社後も暫くは、エンジニア精神に燃え、熱くたぎる情熱が溢れていたのに。
しかし、それが、何時の間にか・・・
結婚って、社会って、何なんだ、苦く辛いだけのもの、そんな思いばかり漂う。
いや、楽しい事だって有った、しかし何かが違う、今はっきりと解った気がする。
心の底から楽しく可笑しい、この事、実は非常に難しく、困難なのでは、と。
余計なものを省き、全てが素、
しがらみも欲も・・・出来なかった、出来る筈も無かった。
いや、段々と出来なくなっていった、何時の間にか。
気がついたら、今の自分だ、何か残っているか、何か出来たか。
何もじゃないのか、それで毎週毎週、特に行きたく無くとも
フライフィッシングに、出かけていたんじゃないのか。
そう、逃げることで、辛うじて生きてきた。
逃げないと、生きられない、染み付いた”何か”で。
その”何か”については、大体説明が出来るようになった、気がする。
余計なもの・しがらみ・欲、あくまでまだ大体だ。
そう、気がするだけだし、大体なのだ。
でも、圭子とこうして逢っていると、楽しく嬉しく幸せだ。
何よりこうして、心の底から笑える。
これが必ず何かをもたらせてくれる、そう強く思えた。
結婚して、彼女と生活を共にしていないからか、
いや全然違う、次元すら違う。
ただ、今言えるのは、この先もずっと一緒に居たい、圭子と。
そして彼女が何かをもたらせてくれる事で、
その”何か”の答えを 導いてくれると確信する。
しかし、それを圭子に期待する訳では全くない、自ら引き出し探すのだ。
残された人生のためにも、何より私を虜にして止まない、
素敵な彼女のためにも、今ここに誓う。
そうでないとまた、つまらない自分に、嫌悪しながら暮らすだけだ。

深く純粋に愛し尽くしてみたい、圭子を
決して期待してはいけない、与え続けること、それが愛すること。
愛する事で”何か”も探し当てたい。
圭子さえ居てくれれば、必ず出来る。

おいおい、何だか妙に芝居がかっていないか、俺。
ヘンだぞ、突然何を言い出すのだ。
急に自分自身が照れくさくなり、一人で繕っていると
「誠二さん」
心配そうな小声で、私に歩み寄った圭子が囁く。
「どうしたんですか、私は別に、怒っていないですよ」
私は悟られぬよう袖で涙を拭い、勉めて明るく振り返った。
「ああ、そうかそうか、ただチョッと」
「なんですか」
「恥ずかしいのだけど、何だか、泣けちゃって」
「あーっ、それは笑いすぎですよ。
もう、酷いなー、本当に怒っちゃうぞ」
そ・そう取ってくれるのか、いや、天然だ圭子さん。
稀に見る天然だよ、全く君は。
私は圭子の手を取り、強く握った。
「やっぱり君は、圭子さんは最高だ」
彼女は目をパチクリさせ、やや戸惑っていた。
「はあ、良く解らないけど、怒って欲しい訳では、ないですよね」
私はまた可笑しくって、仕様が無くなり、笑った。
「ハハハ、うんうん、怒って欲しくなんてないさ、ワハハハ」
「あっ、そう言ってるそばから、また笑う。
もう怒る気もしません、ヘンな人。
誠二さんあなたの事ですよ、ヘンな人って」
私は、彼女のなでやかな肩を抱き寄せ、歩き始めた。
「テーブルに戻ろうか」
圭子はわざと返事をしない。
やや憮然とした様子だが、テーブルに近づくとランタンの燈で、
彼女の横顔が表情がくっきりと映った。
きりっと凛々しく、しかしほんのりと紅く頬を染めていて、耳たぶまで。
その白く薄い耳たぶが燈に透けて、より一層悩ましかった。
私は、圭子の額にかかる黒髪を両手で分け、
その生え際辺りを 唇で軽く触れた。
そして
「圭子さんを笑ってなんかいない、君に笑っていたんだ」
彼女はまた首筋までを 今度はチョッとだけ赤らめ、うつむき加減だ。
「何だかよく解りません、誠二さんの言う事が、私はまだ子供だし。
でも・・・とりあえずあなたが楽しいのなら、いいかな。
誠二さんが楽しいと、私も楽しいですから」
「それなら僕の方が負けていないよ、君が楽しいと、僕はもっと楽しいからね」
「そうなんですか、私なんか何時も、
ケラケラ笑ってばかりですけど、意味も無く」
「それが良い、うん、良いんだ」
「やっぱりヘンな人ですね。
でも・・・」
「でも?」
「いえ、その、フフッ」
「何さ、その含み笑いは」
圭子は突然私の胸に、結構強く頭をぶつけ、両腕を背中に回した。
「暫く、暫くこうしていても、良いですか」
「うん」

時が、全てが、止まったのに、ランタンの燈だけが、揺れていた。

-つづく-

「Webに捕われしフライマン」の目次へ