やめ(山女)塚
10.覆う(2/19)

「じゃあ僕にも、協力させて」
私は最近一匹でも釣れれば、場合によって満足し、釣りを止めてしまうこともある。
また圭子同様、フッキングに至らずとも、
これで釣れたんだと言う思いが、自然と浮かんでくるようになってきたし。
「えっ、でも折角週に一度、遠くからいらっしゃるのに・・・
私に付き合っていただくのは、心苦しいと言うか・・・」
私は自分の飾らない思いを彼女に伝え、そしてその上で、
「でも釣りたくなったら、たまには普通のフックを使わせてね」
圭子は優しく微笑み、大きく頷いた。
「解りました、そこまでおっしゃるのなら。
でも本当は、凄く嬉しいんです」
思いを寄せる人が理解してくれて、しかも賛同と協力が得られた。
とっても嬉しいと、満面の笑みを浮かべる圭子。
でもね、僕はもっと嬉しいよ、君のそんな姿を見られるのだから。
しかも渓を漂いながら、共通の話題を交わせるじゃないか、圭子さん。
一つまた、増えた。

「でも他の人には理解されないでしょうね、私たちは」
「そうだね、リリース自体でさえ、普通の人からは何故って言われるもんね」
「それどころか、二人してフックを折ったフライ使っていたら、
フライマンにでさえ、疑われる事間違いないですよね」
「ヘンな奴等と思われるのがオチだから、内緒だよ」
「ハイ、そうしましょう」
実際ヘンだけどね、可笑しくってしょうがない。
でも何だか幸せ、顔を見合わせ、更に深まりゆくお互いを感じあった。

「本当は釣りも勿論、誰も自然に踏み込まない方が良いんでしょうか」
ふと、圭子は呟いた。
「うん、それも正しいと思うよ。
だから我々釣り人は、本当の意味で自然保護を訴えるべきではないかも。
いや、訴える資格が無いのかも知れないね」
「そうですね」
「でも・・・」
「でも、何ですか」
圭子なら理解してくれるかもと、私は話し始めた。
自然と言うものは本来、この地に生きるもの、いや存在するもの、
全てが関わる事により、成立しているのだ。
山・川・海、植物・動物、空気・光、どれが欠けても、
どれが及ぼさなくても、自然ではない。
逆に言うとそれらが、健全に活発に及ぼし合ってこそ、自然だ。
我々人間もここに住む以上、自然に参加しなければ、自然ではない。
ただ今まではやり過ぎた、分をわきまえず。
分を知る知恵が足りないことを 理解さえ出来ないで居たのかも知れない。
ただ、それも自然であって、故に今の状態を自然とも言えないか。
しかし最近はこれを不自然と感じ始め、分に気付き始めた様だ。
いや分は自然は、何を以って正とするのか、
誰にも何時までも解らないのかも知れない。
「だから圭子さん、僕らはとりあえず動物になろうよ」
「えっ、動物、ですか」
「うん、自然に謙虚な、と言うか、当り前の一動物。
だって我々は動物でしょ、人間の前に」
「動物として、自然に参加する、と言うことですね」
「さすが圭子さん、その通りだよ」
まさか猪や熊・猿でと言う訳には行かない、が、ニュアンスとしてそれに近い感覚だ。
事によっては、釣り人のエゴと採られるかも知れない。
しかし山と渓には古くから人間が関わってきたし、文化も由緒もある。
それは正しかった事にも、間違った事にも思えるが。
ただ我々には与えられた知恵がある、だから他の動物とは違うアプローチで、
自然に参加できる、いや、参加せねばならないと思う。
考えに考えて参加するのが、我々に与えられた義務ではないか。
ただ、決して人間を振りかざしてはいけない、既に懲り懲りの筈だし。
「難しいですね」
「うん、とっても。
あっ、でも無理に同意を求めてはいないんだ、単なる僕の思いだから」
「いえ、ヘンなフライを使う仲間ですもの、
時間をかけてでも、あなたの良き理解者になりたいです」
「ハハハ、ありがとう」
「ウフフ」

これ以上、言葉は要らなかった。


「あっ、いけない、何時の間にかこんな時間だわ」
夕方の仕事に向け、店へ戻らねばならない時間、圭子は気付いた。
私は慌てて聞く、
「そうそうお店、さっき行ったけど見つからなかったよ。
村役場入り口横のガソリンスタンドから、辿ったけれど」
「えっ、村役場”裏”入り口ですよ、この前そう言ったと思いますけど」
「そ・そうだったの、”裏”って言ったっけ」
「もう、いやですよ誠二さん。あーっ、もしかしてお酒が効いてましたね」
私はあの時確かに、反復しながら頭に押し込めた筈だ、圭子の説明一句一句を。
それに近所の蕎麦屋でも、やめやは・・・
「誠二さんごめんなさい、私もう行かなくては」
「あっ、そうだったね。引き止めて悪かった」
「そうだ誠二さん、これから一緒にいらっしゃいませんか。
そうしたら間違いないですし、夕食にも丁度良いじゃないですか」
私は一瞬戸惑い、そして説明した。
渓に入ったら出来るだけそこで過ごしたい、
特に夕食時はゆっくりと呑みたい事もあって。
「ごめん、何時ものスタイルなんだ」
「ウフッ、誠二さんらしいですね。解りました」
彼女の車が走り去る光景を追いながら、思った。
圭子の言うことは全て正しい、やめやも必ず在る筈だ。
信じている。
だから怖いのだ、何かが起こりでもしたら。
起こるような予感もしたし、それは何かと問われても答えられないが。
答えられないような事が起きるかも知れないので、怖かった、これが正確か。
とにかく何一つ、壊れて欲しくなかった。

辺りは日差しを弱め、代わりに東の空では、星がぼんやりと瞬き始めていた。
雨の心配はなさそうなので、私はテーブルと椅子を車から出した。
コンロを点火し水を満たしたコッヘルを置き、コンビーフ缶のタブを捻り回す。
バーボンのコルク栓を外し、お気に入りのグラスに琥珀色の液体を注いだ。
つーんとした香りが鼻に飛び込み、その液体を口に含む。
暮れ行く赤い日が向こうの山を くっきりと黒く際立たせている。
もう一口バーボンを含むと、コッヘルが音を立て始めた。
作ると言っても夕食はお決まりのカップ麺だが、まだいいか、火を消した。
星が白から青に変わり、仲間もたくさん登場したので、ランタンを小さく燈す。
コンビーフ缶の底の部分を持ち、慎重に揺すりながら上側を分離させ、上手くいった。
ガブリと噛り付き、またバーボン、芳ばしく甘くさえなってくる。
グラスをテーブルに置き、椅子をリクライニングさせ天を仰ぐと、
眼下をミルキーウエィが貫いている。
そう、眼下にだ。
天空から私はそいつを眺めていて、ほら、流れの音も聞こえてくるではないか。
キラキラとサラサラと、そしてその周りでは草木や獣たちが光り輝いている。
ザワザワと、全てが生気に溢れ、そう、輝いているのだ。
渓で過ごすこんな時が堪らなく好きで、幸せだ。
昼間では感じられない、釣りをしていると特に。
こうやって、ここに身を委ねねば伝わってこない、煌くメロディーに乗った、
詠うような渓と生きとせもののハーモニー。

そして
目を閉じ手探りで、グラスへ手を伸ばし、地上に戻った。

ナッツ缶のプルタブを起こし、数粒口に放り込みバーボンで流した。
不思議なもので渓で呑むと、仕事や生活の事はハードディスクから出てこない。
と言うか、呼び出すアイコンすら隠しファイルに変わっている、自然と。
普段、会社の仲間と呑む際は勿論、自宅での時でさえ頼みもしないのに、
タスクトレイに常駐している厄介者が。
だから”地上”でも思うは次の日の釣りの事、圭子の事、楽しい事。
かと言って、別に大した事をではなく、ティペットは何Xを使おうか、
フライは・ロッドは、そして釣れるかな程度である。
圭子は今回どんな食事を も。
しかしこれらが堪らなく好きで、幸せなのは、”天空”同様だ。

こうしてグラスを重ねていたら、一瞬はるか遠くで閃光が走った。
徐々にそれは強さと回数を増し、エンジンの唸る音も聞こえ始めた。
どうしたのだろう、平日のこんな夜こんな場所に、
この先林道は通り抜け出来ない筈だし。
別に私のような釣り人が居たって、不思議ではないが、その類だろう。
所が近づくヘッドライトは私を照らすと、停まり消えた。
開いたドアから出てきたのは、圭子だ。
「ヘヘヘ、来ちゃいました。
お店終わったから、急いで」
呆気にとられる私を尻目に
「田舎だから終わるの早いんです、平日だし。
ハイこれ差し入れ、余りものじゃないですよ」
何でも、今日は暇だったので、閉店間際に山菜てんぷらを揚げたらしい。
まだ暖かく、サクサクとして見える。
「あ・ありがとう、でも大丈夫なの」
彼女が持ってきたざるに、てんぷらを盛る姿を眺めながら、嬉しかった。
「ええ、明日は休みですし。えーと、汁はっと。
ああっいけない、大根おろしと生姜、忘れちゃった」
そんなことは良いんだよ、圭子さん。
本当に大丈夫なの・・・いや、いいかな、これ以上は。
「どうしよう、私ってあわてものだなぁ、もう。
ごめんなさい誠二さん、ちょっと取りに行ってきます」
そう言うと、本当に車へ行きかけた。
私は圭子の手を掴み、首を大きく横に振った。
「いいよ、十分さ。うん、過ぎるほどね」
君が来てくれただけでも、そこまで言わせないでよ、を込めて。

「本当に良いですか、じゃあこのままで。
だけど、そのー・・・早く逢いたくて・・・だから・・・
エヘッ、あわてものの言い訳でした」
こう言ってペロリ舌を出す、そして何時も通りコロコロと笑っている。
私は彼女の手を取り、外した、その笑っている口元を覆う。
代わりに私の唇で覆うと、圭子はその大きな瞳が飛び出さんばかりに瞼を広げ、
一瞬にして表情を強張らせた。
そしてゆっくりと目を閉じ、もたれかかるよう、全身を私に預ける圭子。
私はそんな彼女をしっかりと受け止め、そして、額に額をコツンと当てた。
「あわてものさん、ありがとう」
「いえ、そんな」
圭子は真白な首筋まで赤く染め、うつむいたまま、やっと喋った。
その後も暫くうつむき加減のまま、
「はい、割り箸をどうぞ」
照れくさそうに、素っ気無く渡してくれた。
そして
「汁、あれっ、汁を入れる器まで忘れている」
更にうつむいて、おばか!なんて言いながら、自分の頭を叩く。
笑っちゃいけないのは解っているよ、圭子さん。
でも、何だかとっても笑っちゃいたいんだけど、ゴメン。

私は手持ちの中でも、小さ目のコッヘルを取り出し、瓶に詰められていた汁を注いだ。
しかし小さめとは言えコッヘルだ、てんぷらに対してはあまりにも大きく深く、
そしてアルマイト製のそれに風情は全く無い。
コッヘルの底に薄く広がる汁、そこへ圭子の揚げた山菜てんぷらを浸すと、
本当に間が抜けていて、堪らなく可笑しかった。
それを見ていた圭子が、こらえ切れずに大笑いし始めたものだから、
私もついに可笑しさが怒涛の様に押し寄せ、堰を切り、顔を歪め、笑った。
「ワハハハ、うーん、お腹が痛い」
「お腹捩れますね、あー、ハハハ」
全くもって他愛なく、何がそんなに可笑しいのか解らないほどだが。
一応一段落息をつき、呼吸を荒げながらも促した。
「圭子さんも、はい、これを使って」
今度は彼女が浸そうと、てんぷらを箸で摘みコッヘルに入れ始めたところで、
手を震わせ中に落としてしまった。
またもや、こみ上げてきてしまう可笑しさ。
圭子は崩れるように腹を抱え、声も出せず笑っている、頭を振り悶えながら。
私も声にはならず、苦し紛れに喉を鳴らすのが精一杯だ。
何でこんなにも可笑しく、楽しいのか。

絶句して見上げる星が、霞んでいたのは、何故だろう。

-つづく-


9.やめ塚 (2/12)

何時もの年以上、比較にならないほど、月日の流れは早かった。
いや、逢えるまでの日常、それはそれこそ長く異常、な、程だったが。
それでもだ、総合して鑑めば、早いに変わりは無かった。
しかし、この頃を偲ぶ今から思うと、その異常も充実故であり、
そう、これほど満たされた日々は後にも、恐らくこの先も無いと断言できる。


季節は移ろい葉桜の新緑も眩しい初夏、生命の躍動感溢れる若々しい時期になっていた。
毎週、圭子と2人渓を歩くのが、習慣と言うか当たり前と言うか、
少なくとも私にとって、釣りに行くと言う感覚ではなくなっていた。
特別な事では無くなった、こんな感じかもしれない。
朝から雨が降りしきる日など、挨拶を交わすと直ぐにタープを張り、にこやかにも。
お茶を飲みトランプゲーム等に興じ、食事をして昼寝をして、
端から見れば何ともつまらない過ごし方、かも知れない。
しかし、我々にとっては、掛け替えの無い楽しくも和やかな、2人だけの空間なのだ。


この度に限って私は、約束の前日昼過ぎ、何時もの村に着いた。
偶然打ち合わせ場所が、ここから1時間程の距離の所で、
午前中に仕事が片付き、直帰せずそのまま圭子の住む地へと、向かったからだ。
実は彼女の店”やめや”へ突然伺い、驚かせてやろうかと思っていた常々を
実現させたかったのだ。
所が思いがけない事態に遭遇し、こんなはかりごとは適わなかったのだが。

仕事を終え、かの地へ向かう車中、
「それにしても、そろそろ他の釣り場に」
と考えていた。
例年、何時もの場所はせいぜい4月中のみで、残った魚影を求め奥を探り、
イワナを追い高度を稼ぎ、各地を転釣するのだが。
別に圭子と逢えればそれだけで、勿論良い、何時もの場所が飽きた訳ではないし、
特に魚を釣りたい訳でもない。
しかし、気分転換も兼ねて、彼女に魚を釣り上げる体験もさせてみたかった。
そう、未だただの一匹も圭子はネットに納めていない。
それは技術の進歩が無いからではなく、逆に舌を巻くほど、短期間に上達していた。
上達、それも明らかに経験を伴ったにしか思えない、であるから不思議だ。
もう彼女の場合、こんな不思議は然程でない様にさえ、感じるが。
じゃあ、魚が居なくなったのか。
ただ、これも不思議なことに、魚影は驚くほど残っていて、
それは過去を思うに全く信じられないが、この時期でも渓を歩く度にヤマメが走る。
しかし、私でさえ手を焼くほどヤマメは学習し、そして選択眼を研ぎ澄ましていた。
かなり慎重に近づいても感付かれるし、ドラグを含めた不自然さにも敏感、
全てに”決まった”と思われても、容易にフッキングしないのだ。
もう、誰に教わったのと聞きたくなるほどで、流石の圭子にも辛い状況に思えた。
まあ、相変わらず本人は、辛いどころか、全く気にも留めない様子なのだが、
ただ、一度でも魚を自分の手にしたら、多少は何らかの変化がと、考えていた。
初めてヤマメを釣り上げた際、その美しい姿態に感動すらした、私だから。
圭子にも、1度は、と。
そんな事を考えているうち、何時もの支流を過ぎ、車は本村に入った。

「村役場入り口横のガソリンスタンド、その数件隣で農協のはす向かい」
圭子のふくよかな唇がそう動くのを思い出し、ガソリンスタンドが見えると、
車のスピードを押さえ、やめやを探し始めた。
ガソリンスタンドから、一軒二軒・・・民家が続くのみだ。
右には農協があるし、左側は民家にしか見えないが続き、そのうち土産物屋が現れ、
首を捻っていると、後ろからクラクションが短く数度鳴った。
ハザードを点け後続車をやり過ごし、バックミラーで確認するが良く解らない。
見過ごしたかなと思い、先で一旦Uターンし、村役場の駐車場に車を停め、
歩いて確認することにした。
「ガソリンスタンドだろ、えーっと、一軒二軒と・・・」
やはりそれらしきは無いのである。
「農協はそこ、で、そのはす・・・」
と、振り返ると、本当に見過ごしてしまうほどの小さな、空き地があった。
そのまま視線を真っ直ぐ向こうにやると、本流の流勢も見て取れる。
そして空き地を再びよく見ると、風化した小さな石の塚と、
解説のこれも古ぼけた木の立て札が、ひっそりと佇んでいた。
石にはたてに大きく[山女塚]と刻まれ、他の細かい旧書体は殆ど読み取れない。
解説板も負けずの状態だったが、拾い読しこう判断出来た。

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山女塚-やめ塚
江戸時代初期、寛永年、この地方を襲った干ばつが原因で大飢饉となり、
多数の犠牲者を出した。
特に山間に位置する部落ほど酷く、しかしこの豊かな本流に沿う本村では、
大減水するも干上がるまでに至らずの流れで、人々の喉を癒す程度が叶った。
そして手掴みも容易になったヤマメが、空腹さえも和らげ数多くの村人を救った。
以来この界隈の民はヤマメに感謝し、その霊をこれに葬り手厚く保護するようになった。
尚、この地では山女を やめっこ と、感謝と親しみを込め、呼ぶ。
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こみ上げて来る熱いものを感じ、暫く動けなかった。
自分は、釣った全てをリリースするとは言え、言い知れぬ深き罪悪感に襲われてしまう。
そして。
圭子が以前言っていた、父親も含めた村人は、殆ど釣りをしない理由も、解った。
しかし、みずくさいじゃないか、圭子さん、話してくれても。
同時に、彼女の気遣いか、とも思った。
かつては、秘境とも陸の孤島とも言われ、然したる産業の無い過疎化傾向の村だ。
やはり観光収入に重きを置き、釣りもまた止む無し、が、皆の心境なのだろう。
だからそれを 私にだけその理由を 伝えるのが辛い圭子だったのか。
しかし、解っている筈で、しかも、心優しく思慮深い彼女が、何故自ら釣りを
結果的には今の所、一尾も傷付けてはいないが。
店を見つけられなかったのは、私の聞き違いかもと、無理にでも納得出来るが、
何故圭子が釣りをかは、理解に苦しむばかりだ。
店が解らず、相変わらず携帯も繋がらない圭子と、
話せないジレンマに陥っていた。
更にその後、近くの蕎麦屋で遅い昼食を取った時、やめやの事を聞いてみたが、
返答はつれなく、「聞いたこと無い、勘違いでは」だった。
「あっ、やめ塚だったら・・・」を後に、振り返る力も無く、店を出た。
圭子さん、何がいったいどうなっているの、君は何処に居るの。

所が圭子は居た、何時もの支流の何時もの場所に。
肩を落としながら、とりあえずその待ち合わせ場所に行ったら、
圭子の軽自動車を発見し、流れを見ると彼女はロッドを振っているのだ。
錯乱していた、彼女を見付けた安堵、しかし何故ここに、何故釣りを 何時もなのか、
他にも何故が多すぎて、暫く立ちすくんでいた。
さてどうしたものか、最近は彼女を困らせる問い掛け、自然と避けてきたし。
だが、彼女を失いたくない故、なら、尚更、聞くべきは然りとも思った。
今日の出来事を無かった事にし、それは長き向こうを望めば、不自然極まる。
意を決し私は、ウエーダーを履き林道から降り、圭子の背後へと近づく。
出来るだけ驚かさないように、優しく声の段階を上げていった。
「圭子さん、おーい、圭子さーん」
辺りを見回し、やがて彼女は私に気付き、会釈した、不思議そうに。
ばつが悪そうにも見え、何だか慌てるように、フックキーパーへフライを掛けている。
それが上手く掛からない様子で、何度も外れては風に流されるフライ。
まるでシャボン玉を追う子供の様に、圭子は空を掴んでいた。
近づいた私がそれを捕らえ、圭子に手渡そうとした時、愕然とした。
私は今まで気付かなかった、フックが折られている事を。
そう”折れて”ではなく、一目で意図的に”折られて”と解るのだ。
これでは魚をフッキングさせる事など、不可能に近い。
自分も過去に何度か、何かにフライをぶつけた際、フックを折ってしまった事がある。
しかしそんな不慮の場合、負担のかかるゲイプからポッキリばかりで、
彼女のフックの様に、キーパーへの掛かりを部を残してなど、ほぼ有り得ない。
しかも明らかに工具を使い、切断した形跡がある。
益々解らない、錯乱混乱言葉が出ない。
しかし圭子は妙に落ち着いていて、潮時を感じているようにも見えた。
「誠二さん、上がってゆっくりと、お話させてください」
私はただ頷き、一緒に林道へ戻った。

まず簡単な、私がここに今居る訳を話した。
「そうだったんですか、何かあったのかと思いましたよ」
圭子は至って普通だった。
そして、深く頭を下げ
「ごめんなさい、別に隠すつもりは無かったんです」
仕込みが終わり、お店が忙しくなるお昼前。
お昼のピークが過ぎ、夕方再びお客さんが来る前。
それぞれ1・2時間づつ、ほぼ毎日ここへ来ていたそうだ。
飲食店の場合よく聞く休憩の取り方で、それについてはごく普通だ。
また、だからあんなに上達が早いのかと、この件も納得した。
が、それ程釣りが好きなら、尚更理解出来ない、フックを折るなど。
彼女は勿論お話しますと言った風情で、身を乗り出す私に頷きで応えた。
そして
「村の人が好きな、何より父の愛したやめっこを 守りたいのです」
フライフィッシングは楽しそうだ、生まれ育った大好きなこの地を自然を
肌で感じる事が出来そうだし。
しかしヤマメを傷付けたくはない。
もっと言えば昔より格段に減ったヤマメ、
さらには未だイクラやブドウ虫で次々と抜き去られ、新子までも・・・不憫で悲しい。
かと言って観光資源の重要な1つである事も解せるし、予てより葛藤は続いた。
その結論が、フックを折ったフライでのフライフィッシングなのだと。
そして自分が出来る範囲だけでも、こうやって毎日通えば、逞しく利口になり、
魚たちは残るではないか。
訪れる人も、難しいなりにも魚が居れば、長く来てくれる筈だとも。
そして、
「私にとっては、やめっこがフライに飛び付いてくれる、だけで良いんです。
そう、釣れたも同じ、うーん、これで釣れたんだと、思っています。
ヘンですか」
そう言って小首を傾げる圭子、何時も通り可憐だ。
「ヘンじゃない、これで釣れたんだは、僕も全く一緒だ」
私は自分の想像を越えた圭子の殊勝さ思慮深さ、ヤマメや父親への変わらぬ愛慕を感じ、
ひたすら感銘し敬いさえ覚える。
そして、とりあえずフッキングしなくとも、{これで釣れたんだ}が、
そんな彼女の口から出てきて、ことのほか嬉しかった。
「やはり誠二さんもですね、良かった、思った通りです」
「いやいや、多分圭子さんの域には達していないよ。
だって、空振りの連続だと悔しいし、フックだって・・・」
「フフフ、何度もあなたの釣りを見て、
解ってくれるのではと、薄々ですが感じていました。
良かった、本当に。
ただ、私の方がチョッと普通でないだけ、と、思います」
「うん、チョッと、ね」
「あっ、正直ですね。本当は変わり者だと、思ってらっしゃるんでしょう」
「うーん、かな。ハハハ」
「もー、酷いなぁ。普通、そこまではとか、フォローしてくださいますよ」
圭子はわざと大袈裟に怒り、両手を小さく拳にし私の胸を叩く。
私はそんな彼女を包むように、抱いた。
彼女はそのまま腕を畳み、私に抱かれ見上げる。
「ごめんなさい、今まで黙っていて、秘密にするつもりは無かったんです。
ただ・・・理解されなかったらどうしようと、怖くって・・・」
私は目を閉じ、ただ首を 横に振った。
不安げな表情が薄れた圭子は、
「ヘンな私ですけど、良いですか」
訴えるような、潤んだ視線を投げかける。
私はもう一度目を閉じ、今度は大きく首を 縦に振った。
肩に重さとふっくらした香りを感じ、目を開けると、
私の肩に鼻を押し当て、目だけを出した圭子が居た。

もう一度強く、しかし柔らかく、圭子を抱きしめた。

しかし、釣りを始めていきなり直ぐ、こんな境地に、たどり着くものだろうか。
いや、始める動機にさえ含んでいたらしいのだから、驚くばかりだ。
しかも、この若さにしてだ。恐れ入る。
私など、これだけの歳になってやっと、少し、だのに。
かなりの部分で納得出来たが、疑問の全て解決には、到底達しなかった。
でも、これで何もかも納得しよう、圭子の全てを受け入れると、誓ったではないか。
何より、こんな事を思い続けると、それが繊細な彼女に伝わり、感じ取られるかも。
それだけは何としても避けたい、だから、もう疑わない。
信じる事こそが、次を産む。

戸惑いを払拭するように、私も圭子の肩に顎を乗せ、更に彼女を引き寄せた。
圭子の息遣いが近くになり、吐息で肩が、暖かい。
彼女の瞬きする音も、聞こえた。

-つづく-

8.契り (2/6)

蕎麦を肴にも悪くない、ピリリと辛目の薬味を効かせ。
でも、少し呑むペースを押さえないと、酒が水の様に感じられてきたから。
「そうそう、圭子さん、月一で連休があるんだよね」
「ええ、丁度来週がそうです。
誠二さんも月に何度かは、泊りがけでお出かけになるんでしたっけ」
「うん、僕もね、丁度来週がその予定」
咄嗟に合わせてしまったが、何とかなるだろう、多分。
「わー、じゃあ来週は、2日続けてご一緒頂けますか」
勿論そのつもりで言ったのだが、嬉しすぎる思い通りだ。
「ハイハイ、こちらこそ、よろしくお願いします」
「あっ、でも・・・そうだ・・・」
彼女は何かを思い出した様子、右斜め上空に瞬きをしている。
「夕方はチョッと早めに切り上げて、次の朝も少し遅くなると思います。
ごめんなさい、私から言っておいて」
何でもほぼ毎月、連休の場合、友達の家へ泊まりに行くそうだ。
高校時代の同級生、とても仲がよく、気の合う。
「私って休めるのが平日のみじゃないですか、
それで夕方その人の職場へ迎えに行き、一緒にご飯食べたりするんです」
”その人”は毎週日曜日に、圭子の店へ遊びに来てくれるので、
月に一度は逆に訪ねるのだ、と話してくれた。
「毎回夜遅くまで話し込むので、寝不足になっちゃうんです。
それで何時もお寝坊さん」
クスクス、楽しそうだ。
「バスに間に合わないので、会社まで私が送るんですよ、また今回もだねって」
「へー、良いよね、昔からの友達って。
何度でも同じ話題で、話が弾むし」
「そうなんですよ、こーんなちっちゃな事、何時までも笑えたり」
思い出し、無邪気に笑い、楽しそうだね、圭子さん。
でも、僕はちょっと嫉妬するよ、それに・・・
多分話の感じからして、女の子だとは思うが。

聞けない、”その人”の性別を
はっきりとさせるのが怖かった、から。

ぐっと3杯目を飲み干すと、圭子が瓶の蓋を開けた。
「あっ、いや、もうこれくらいで・・・」
「酔いが回ってきましたか」
「うん、ちょっとだけど」
「でも、呑みたいんでしょ」
彼女はお見通しと言った感じだ。
「うん、そうなんだけど、午後からの釣りが・・・」
「ゆっくりとお昼寝、なされば」
一瞬、まるで母親に諭されているようだった。
ぐい呑みを差し出すと、瓶は心地よく、とくとく、と謡った。
「ありがとう、じゃあ圭子さんも」
「あ、はい」
そう言うと、酒が底に2割程残ったぐい呑みを
左手で摘むように持ち、途中から右人差し指と中指を添え、
すうーっと、口に移した。
彼女の頬は一足早く、開花間近だ。
「ヘヘヘ、美味しいですね」
「おっ、やっぱり飲兵衛さんだ」
「ヘヘヘ、かな」
笑いは肩から腕へ伝い、手を瓶を揺らしながら、
圭子のぐい呑みに、私が注いだ。

丁度饒舌を促す酒量で、私は色々と話しをした。
この先、睡夢が迫り来ることを 解っていたし。
「あー、僕も四十過ぎたし、後十年ほどの命だ」
圭子は喉を詰まらせたように
「えっ、何でですか、まだまだお若いじゃないですか。
平均寿命からしても」
「うん、それ、それが違うんだ」
「違うって、何かご病気でも」
彼女に心配されるのも悪くないな
「そうなんだ、現代医療でも治癒不可能な」
「本当ですか、まさか癌とか・・・」
冗談が過ぎたようだ、でも、何だか嬉しい。
「ごめんごめん、病気なんかじゃないよ」
「じゃあ、何ですか」
「人間の平均寿命って、今では7〜80年だけど、
哺乳類として見た場合、近代医療確立前の50年が、妥当らしいんだ」
圭子は、ただ呆気に取られた様子で
「へぇー、そうなんですか」
「うん、哺乳類最小のネズミと最大のゾウ、
平常時心拍数×平均寿命、この値は奇事くもほぼ一緒なんだって。
そして存在する全ての哺乳類に、これが当てはまるらしいよ」
「人間だけが例外、と、言うことですか」
「そうらしい、医療発達のお陰だね。
だから四十過ぎると顕著に老化が始まり、僕なんかも正にだよ」
そう言って、最近目立つ白髪を見せた。
「携帯のディスプレーなんかも、こーんな離さないと、よく見えないし」
圭子は安心したと言った表情で、大きく息をついている。
「もおー、脅かさないで下さいよ。
でも本当に誠二さんは、とても四十過ぎになんて見えません。
きっとこの先、ロマンスグレーの、素敵なおじさまになられると思います」
「圭子さん、お酒が回ってきたね、舌が滑らかだよ」
「私は若いですから、まだまだ酔ってませんよーだ。
素直じゃないんだから、もー」
嬉しいに決まってるじゃないか
「ハハハ、ごめん、ありがとう」
圭子はぽつりと、呟いた。

「今で、良かった」

冷ややかな風を感じ、数度瞬いた。
やはり寝てしまったようだ、でも身体は何だか温い。
椅子から身を起こし、よく見ると毛布がかけられていて、
それもカラフルな花模様のだ。
それは、甘い香り、圭子の香りがする。
「ありがとう、気遣ってくれて」
と、見ると、彼女は読みかけの本を お腹の辺りに抱き抱えるよう、寝ていた。
すーすーと、形の良い鼻からの寝息が聞こえる。
頭がこっくりと下を向き、通ったうなじが晒されていて、ぞくっとしてしまう。
既にテーブルは後片付けが済み、コーヒーセットが用意されていた。
「ごちそうさま」そう語りかけながら、私にかけられていた毛布で、
彼女を包み始めると、気付いた。
「あっ、すみません、私も寝ちゃったみたいですね」
寝起きの瞼が妙に艶っぽく、また、ぞくっと、した。
「毛布かけてくれたんだね、ありがとう」
「いえ、出掛けに気付いたので、慌てて自分のを持ってきちゃいました。
先週誠二さんの寝ている姿を見て、
これじゃたまに、風邪引いたりするかもと、思ったもので」
「はい、その通りでーす、ハハハ」
「フフフ」手で顔を覆う様に、両目をこする仕草も、実に良い。

こんな娘もまだ居たんだ。
[本当に、ありがとう]優しく気の利く圭子に、心で感謝した。

それにしても時刻は16時近く、風もかなり冷えてきている。
もう釣りと言う言葉を発するのも、その気になれず、
しかしこれで分かれるなど、微塵も湧かない。
「これからどうしようか」
「そうですね、とりあえず、コーヒーは如何ですか」
「うん、いただきます」
カチカチとコンロのツマミを捻り、圭子はホーローのポットを置いた。
ガスのシューッと言う音と、渓のざわめき。
時折風が木々に話をさせ、テーブルではポットの長い陰が、
コンロの熱気で揺らされている。
特に何も無いが、時の流れ方は、まったりと、優しい。
お台場やディズニーランド、山下公園や江ノ島、比べる気にもならない。
「あのー、誠二さん」
圭子が発した。
「えっ、なんだい」
「あ、いや、いいです」
「なーんだ、ヘンなの」
ポットから湯気が出始めた。
今度は私が
「えーと」
「はい」
「圭子さん、そのー」
「何ですか」
「うーん、なんでもない」
「どうしたんですか、あなたこそ、ヘン」

カゲロウが、はたはたと舞っていた。
「カゲロウって、水面から飛び立つと、数日から1週間の命なんだ」
「へー、名前に似て、儚いんですね」
「うん、そうだね」
「飛び方も、その姿も、ですね」
「そう、幻想的に見える事も、あるね」
「ええ」

「はっとうは、昔、位の高い人に献上したところ、
あまりの美味しさに驚かれたんですって」
「へぇー、昔は大変なご馳走だったんだね」
「ええ、それで村人が食べることを 御法度としたらしいです」
「なんだ、身勝手な話だなぁ」
「そうなんですよ、あくまで言い伝えですけれど」
「でも、はっとうの美味しさを物語るような、言い伝えだね」
「はい、ウチのは蕎麦粉を多めにして、喜ばれてます」
「うん、とっても美味しかったよ」
「そうですか、良かったわ」

時折、会話を挟み、自分達だけの時を 染み感じていた。

ポットが勢いよく沸騰し、肌寒くさえなった辺りを和ませる。
マグカップにフィルターを乗せ、そこへ圭子が湯を注ぐ。
芳しい空気が漂い、受け取ったカップを両手で揉むように、ゆっくりと転がした。
彼女も無意識にそうしていて、お互いそれに気付き、笑った。
「だよね、陶器のだと、丁度良い温さだものね」
「ええ、温かいです」
また少し、コーヒーが飲み頃になるまで、ゆるゆると、時が流れた。
ふーふーと息を吹きかけ、啜り始めると
「誠二さん、あのー」
私はあえてカップへの視線を外さず、言った
「うん、この先も、ずーっと、だよね」
「えっ、あっ、はい」
私はカップを置き、圭子のカップをそっと彼女の手から、抜いた。
そして、包むような形になったままの手を
更に私が外側より包み、ささやいた。
「毎週来るけど、良いかな」
彼女は包まれた手元を じっと見つめたまま
「はい」と頷いた。
そして、次に私を見上げ、にっこりと微笑み、そう、片笑窪を作って、
「良いかなじゃありません、来るぞ、って言って下さい」
今度は圭子が私の手を 包み返す。
同じ温度を 感じた。

「毎週、来るぞ」
「はい、毎週、お待ちしてます」

-つづく-

7.やめや (2/4)

「所で今日は、何を用意してくれたの」
坂を登りきった所で、息を弾ませ聞いた。
「お蕎麦なんです、お店に出しているのと同じ。
誠二さんお好きですか。」
特に食には拘りの無い私だが、蕎麦に関しては話は別である。
この地も蕎麦が名産であるから、より良く来るほどだ。
「うんうん、大好きですよ。
ここの本村に沢山ある蕎麦屋さんも、殆ど食べ歩いた程だからね」
「わー良かった、じゃあ蕎麦通の誠二さんに、ご意見を伺わなくては。
ウチの蕎麦って、結構評判が良いんですよ」
嬉しそうに車のドアを開け、支度を始める圭子。
生き生きとしたその姿は、何よりだ。
まず先週と同じテーブルを組み立て、今回は勿論私が手伝う。
よいしょとテーブルを起こす、圭子がその上にテーブルクロスをかけた。
「あれっ、今回は違うと言うか、変わったクロスだね」
さっぱりと清潔ではあるが、ややくたびれ藍色もくすんでいる。
そしてなにやら、大きな文字が染め抜かれていた。
「これ、お店の古い暖簾を再利用したんです。
捨てるのが忍びないので、こんな風に」
「へー、これはこれでお洒落だね、うん、風情があるよ」
そう言えば”屋”の一部が読み取れるので、聞いた。
「圭子さん、お店の名前は」
にっこり微笑む彼女、よく聞いてくれた、と言った様にも見えた。

「はい、やめや、と言います」

「今回は支度に時間がかかるので、椅子に座ってお待ちください。
その間、お酒如何ですか」
こう言って圭子はぐい呑みを差し出し、とくとくと注いでくれた。
辺りに凛とした甘酸っぱさが漂う、口当たりは非常に透明だ。
それでいて舌に残る切れ味は絶妙である、旨い。
「いや、美味しいね、このお酒。
こんな繊細なお酒は、久し振りだよ」
「ね、言った通りでしょ、一般には殆ど出回らないらしいんです」
「へーそうなんだ、でも注意しないと、呑み過ぎてしまいそうだ。
最近直ぐに眠くなっちゃうし、ね」
「アハハ、そうでしたね。
蕎麦が茹で上がらないうちに、出来あがっちゃったりして」
ハハハ、アハハ、渓音を笑い声が遮った。

「で、屋号なんだけど、やめや、由来とか意味とか、
差し支えなかったら、聞かせて」
「はい、父が決めたそうです」
この辺りの農家では、昔から蕎麦の栽培をごく普通に行う。
それだけ界隈は厳しい環境とも言えるが。
その後、玄蕎麦の粉挽き、捏ね、延ばし、切り、
各家庭の色をもちながら、当たり前の様にこなされてきた。
特に切りに関しては、布を裁つように切ることから裁ちと言い、
よってこの地方の蕎麦は、独特の”裁ち蕎麦”と呼ばれ久しい。
「父もそんな普通の村人でしたが、蕎麦が、蕎麦打ちが好きだったみたいです。
所が、昔ほど各家庭で、蕎麦打ちが行われなくなったこともあって、
父の蕎麦は近所の方に求められ、その美味しさは評判だったようです。
それで、自然とお店を出すようになった、母は何時も懐かしそうに話します」
ここで圭子は、吹き出しそうに
「お店の名を決めるとき、父の事で、今でも母と笑っちゃうんです」
そう言いながら、2杯目を注いでくれる圭子。
軽く会釈し
「圭子さんも、どう」
私はまだ、用意がありますから、と瓶を持つ私を制した。
「ある日突然{店の名、やめやにする}、こう言うだけで、
訳を聞いても、何も話してくれなかったんですって、お父さん。
普段から無口なんですけど、この時は特に」
何だか解るなーと言いながら、笑う圭子。
勿論私には、彼女の家族関係など解らないし、可笑さも同様だ。
でも、圭子が楽しく可笑しいのは、私もだ。
「お父さん、無口だけど、優しくって、いい人だったんだね」
「はい、とても」
伏せ目がちに、彼女は呟いた。
私は注がれた2杯目に口をつけ、暫し間を置く。

空気を読み、私は聞いた。
「でも最後の、や、は屋でしょ、やめ、は?」
私の気配りに圭子は気付き、軽く頭を下げながら「はい、それは」と言った。
繊細で感受性豊か、奥ゆかしさも彼女は持ち合わせている様だ。
「この辺りでは古くからヤマメの事を 
やめ、親しみを込めやめっこ、と呼んでいます。
最近、特に年寄以外は、普通にヤマメと言うようになりましたけど」
「あっ、やめっこね、それなら聞いたことがあるよ。
そうそう、山女をヤマメでなく」
確か以前聞いたことを微かに思い出した。
「やはり誠二さん、ご存知でしたね。
何故父がそんなにヤマメ・・・やめっこが好きなのか、
とうとう最後まで聞けず仕舞でしたけれど。
とにかく山女屋と書いて、やめやとルビを振った暖簾、これがそうなんです」
話しながら出してくれた肴、はっとうの小鉢辺りを指差す圭子。
霞んでいるが、やめやと読めた。
はっとうを口に運び、ぐい呑みを煽る。
「ふぅー、何だか温度を感じるね、この暖簾」

お湯が沸騰し、蓋がカタカタ鳴った。

新聞紙に包まれた蕎麦をテーブルに広げ、煮立った鍋に一束入れた。
茹で上がるまでの間に、手際よく汁や薬味を並べ、素早くネギを刻む圭子。
何かを手伝おうにも、私が手を出す余地が見当たらず
「ごめん、鮮やか過ぎて見ているばかりで」
「何時もの事で慣れてますから」
こう言って、今度は蕎麦を冷水で絞め、ざるに移し替えた。
「どうぞ、お召し上がりください」
まずは汁のみで何も入れず、一気に啜ってみた。
そば粉の素朴で芳ばしい香りと、ざくざくとした歯ごたえ。
それでいて絶妙な柔らかい粘り腰がある。
そして口の中でも蕎麦の香りが弾けた、これもまた実に旨い。
立て続けに次から次へ、啜る。
あっという間に一束分が無くなり
「お、美味しい、本当に美味しいよ、圭子さん」
「ホントですか、良かった。そう言ってもらえると」
「これ、つなぎは使ってないね。蕎麦粉100%でしょ」
「さすがですね誠二さん、その通りです。
父の意志を頑なに継いでますから、打ち粉にも蕎麦粉しか使いません。
ただ私にはまだ無理な作業があって、全ては出来ませんけど。
力が足りないと言うか、捏ねに時間がかかり過ぎるんです」
父親が元気な頃、伸ばしや裁ちは母親らにやらせても、
捏ねだけは頑として、誰にもやらせなかったらしい。
ところが亡くなる数年前、今から思うとまるで自分の運命を知っていたかのように、
捏ねを母親に教え始めた。
それが優しい父とは思えない厳しさで、一切の妥協なく母親を鍛えた。
水加減、そのタイミング、もみ、菊練り、へそだし、
全てに拘り、更に時間と常に戦わせたらしい。
「あんな怖いお父さんを見たのは、あの時だけでした」
それほどだったらしい。
しかしそのお陰で完全に父親の蕎麦を受け継ぎ、父亡き後も変わらぬ評判を得ている。
「古くからの常連さんが誉めてくれるんですよ、
受け継いだ母は勿論ですけど、教えた父も」
「そうか、今度機会があったら、是非ともお店に寄らせてもらいたいな」
「はい、大歓迎です。いらっしゃるのを楽しみにしてます。
えーと、場所はですね・・・」
村役場入り口横のガソリンスタンド、その数件隣で農協のはす向かい。
こんな圭子の説明を聞いて、空に地図を描き、頭へ仕舞い込んだ。
[えっ、まてよ、そんな店、あったか]
自問自答したが、何度もこの地へ来た私にも、答えは出なかった。
「あのー・・・」、私が問いかけようとすると同時に、圭子が
「気に入ってもらえて安心しました。
もう一束、如何ですか」
店の場所は私の勘違いかも知れない、今度確かめよう。
「勿論、出来ればもう二束、お願いしたいな。
そうそう圭子さん、自分の分は」
「そうですね、今度はまとめてにします」
数束の包みがテーブルに広げられ、彼女はまた手際よく茹で始めた。
[だけどあの辺りの蕎麦屋、殆ど巡ったよな。
うーん、やめや、有ったかぁ]、ぐい呑みの残りを煽り思った。
「出来ましたよ、今度はネギや薬味も、ご一緒に如何ですか」
そう言うと空になったぐい呑みに、3杯目を注ぐ圭子。
「困ったな、空きっ腹に効いて来たぞ」
「はい、酔って頂きます」
注ぎ終わると、悪戯っぽく微笑む圭子。
「こんなオジサン酔わせて、どうするの」
「えーとですね、あーんな事や、こーんな事、しちゃおうかな」
酒瓶を抱き、私の鼻先にまで顔を近づけ、口を閉じたまま、声を立てず笑っている。
蕎麦と地酒と圭子の香り、目眩すら覚えた。
彼女のまつげ一本一本まで、鮮やかに見て取れる。
そして一筋の曇り無く輝く瞳に、吸い寄せられた。

「そ、そうだ、圭子さんも呑まなくっちゃ」
「はーい、では私も頂きます」
左手でぐい呑みを持ち、右手を底に添える彼女、私が注いだ。
そのままの格好で、口へ運び、なんと一気に飲み干す圭子。
唖然とする私に向かい、にっこりとし、
「エヘヘ、どうです」
「す・凄いじゃない、良い呑みっぷりだ。
さあ、もう一杯」
「あ、いや、実はこれでかなり来てるんです。
驚かそうと思って、ちょっと無理をしちゃいました」
一応、注ぐだけ、注いだ。
「あれれ、呑まないの」
「だから、かなり・・・あらっ、一気になんて初めてだから・・・
それもそうだけど、お蕎麦、食べましょうよ」
一つのざる、互いに箸を伸ばす。
蕎麦が絡んでいると言っては、圭子は笑い、
摘んだネギを落しても、笑う。
「楽しそうだね」
「はい、なんだかとっても」
そう言っては、またころころと笑っている。
そう、そんな君が可笑しくて、だけど、いとおしく可愛い。
彼女の笑顔を肴に、私は3杯目を口に含み、思った。
[このままずーっと、このままで良い。そう、このままで]

顔が火照るのは、酒だけのせいで、なかった。

-つづく-

6.進展 (1/30)

車のドアを開けると、既に圭子は椅子に座り本を読んでいた。
ごそごそと起きだした私に気付き
「あっ、おはようございます」
一瞬にして辺り一帯が、彼女につられ華やいだ様に感じた。
「お、おはよう」
この時期は然程早起きする必要が無いので、目覚ましでなく、
日差しを頼り目覚めることにしている。
まあ、待ち合わせの時間までは特に決めてなかったが、
早く来たのなら起こしてくれてもと思い、
「かなり待ちました?知らせてもらっても、良かったけど」
「それほどではないですけど、良く寝てらっしゃいましたし。
それに・・・加藤さんが近くにいらっしゃるだけで、落ち着くと言うか・・・
良いんです、あなたの側に居られるだけで、私」
こう言ってはにかむ圭子、通じるものがある。
「僕も似たような気持ちですよ、昨晩ここに着いてはっきりした。
君に近づけば近づくほど、安堵するというか、嬉しいと言うか・・・」
多少の照れはあり、すらすらとは出てこないが、気負い無く、
共に自然と正直な気持ちを 明かしあった。
まだお互いに知らない事ばかりだが、それはそうだ、これで逢うのは2回目だし。
生まれも育ちも環境も、年齢なんて倍も、違う。
しかし今の2人にとって、一緒に居たいと言う気持ちが全てに優先し、
別に良いではないか、そう感じあえるのなら。
時間なんかで量りたくないし、恋愛感情とかで説明したくない、
そう、杓子定規にさえ思えるから。
基本があれば、他は自ずとじゃないか。

ただ、一緒に居たい。

圭子がここに来る途中、一つ下の駐車スペースには車が無かったと言うので、
先週同様そこから入渓し、お昼にここへ戻って来る事にした。
「どちらかの車で、行こうか」2台以上で来て釣る場合、
入渓点と退渓点に車を配す、こんな場合が多いのだ。
歩くのが省けるので楽でしょ、と私は説明した。
「加藤さん、この前下までは15分程って言ってましたよね」
「あれは・・・ちょっと嘘、本当は30分程かかるんだ」
「えっ、だって先週、戻ってくるの、そんな遅くなかったじゃないですか」
「ハハハ、早く戻らないと、何だか君が居なくなっちゃう、なんて思って。
小走りで下りました」
「なーんだ、そうだったんですか」
クスクス笑いながら圭子は
「でも、何故そんな事思ったんですか」
「うーん、自分でも何でだか解らないけど・・・良いじゃないの」
「ヘンなの、誠二さんたら」
名で呼ばれ、一瞬ドキッとしたが、
彼女はさらりと自然で、何時もの片笑窪と共に微笑んでいる。
そして
「歩いて行くのも・・・」やや小声で言った。
「そうだね、それも良いね」
[ゆっくり話せるもの]、言葉には出さないが、共通していた。
車のドアをロックし、2人は、歩き始める。

山間の移ろいは早い、ほんの1週間の間に辺りはHigh Colorへ移りつつある。
後半月もすれば山桜が更に彩りを添え、True Colorの世界へと導くだろう。
「そーだ、これが圭子式釣り上がり方だったね」
茶化してみた。
「あっ、恥ずかしいなー、忘れてくださいよー」
圭子はちょっぴり口を尖らせ、手のひらで軽く私の肩を 叩いた。
「ハハハ、ごめんごめん」
今度は圭子が反撃に出た
「でも、良いんですか、こんな釣り上がり方して」
「えっ、何で」
「だって、私たちが入渓しているの、他の人には解らないじゃないですか」
「足跡で解ってもらえるかも・・・それに今日は平日だし、大丈夫だって」
「だけど、もし気難しい人が来て、延々と釣った後気付いたら、
紛らわしいぞとか、文句言われませんか」
「うーん、まあ平日だし、多分・・・それに頭ハネとは・・・」
「怖い人が来なければ良いなぁ、私ね、先週すっごく怒られましたのよ。
勿論、常識を知らない、私が悪かったのですけど」
そう言って圭子は、先生に怒られた小学生然の素振りをした。
状況が先週と、多少違う事を言うのも忘れ、
「そ、そんなに怖かった?」
私はやや戸惑い、真面目に聞いた
「ハイ、とっても・・・ヘヘヘ、冗談ですよ。
ちょっと驚いただけ、でーす」
そう言って、困惑している私を見て、悪戯っぽく笑った。
「こ、こいつめー」
私は安堵し、しかし圭子の頭を抱きかかえるように言った。
彼女も「許してー」と言いながら大笑いしている。
「目なんか、こーんな三角にして」
「そんなには、してないって」
子猫が兄弟とそうするようなじゃれ合い、無邪気に、楽しそうに繰り返す。
何度目か、圭子と絡んだ時、風が流れ、彼女の黒髪が私の顔を撫でた。
ほのかに甘く柔らかな香りに誘われて、思わず圭子を抱きしめる。

彼女の力が抜けて行く、はっきりと、解った。

言葉無く、ゆっくりと離れた。
しかし圭子は私の手を取り、しっかり握り私を見つめる。
そのまま、何事も無かったように、また歩き始める2人。
時々握った手に力を入れられ、私も返す。
小さくって壊れそうな、だが、柔らかくも暖かい。
そうこうするうち入渓場所、手を離すのも自然だった。
「本当に30分ですね」
「でしょ、先週は15分で来ちゃったけどね」
2人は笑いながら林道から降り、流れに立った。
私は早速ライズを見つけ
「ほらあそこ、居るね。圭子さんからどうぞ」
「ハーイ、じゃあ失礼してお先に」
彼女は小柄な姿態をより丸め、近づく。
時折こちらを振り向き、口を”コ”の字にして足元をトントンと指差す。
立ち位置を 確認したいのだなと解した私は、
もう少し奥と、指を何度か空中に突き、促した。
何度目かのトントンに私は大きく頷き、圭子はラインを繰り出し始めた。
オレンジ色のラインが引き出される度、リールのクリック音が渓に響く。
[良いな、やはりフライフッシングって、人の様を見ているだけでも]
しみじみ思った。
所が突然ループが乱れ、悪い事に水面を叩いてしまったのだ。
案の定ライズはピタリと止み、圭子はラインを手繰り寄せる。
私が近寄ると
「後ろの木に引っ掛かけたみたいで、ヘヘヘまだまだ下手ですね」
そう言って屈託無く笑っている、残念さ等は相変わらず、全く感じさせない。
「うん、大丈夫、次があるさ。
まだ始まったばかりなんだしね、ほら、あの辺も良さそうだよ」
「でも、次は誠二さんが釣ってくださいませんか。
先生お願いです!今日も勉強させてください、ね」
小首を傾げ、上目遣い、圭子には敵わない。
「そうだな、交代で釣るのが一般的だし」
私は、ややぶっきらぼうだった。
「うーん、何だか誠二さんのこと、また解って来たぞ。
照れ屋さん」
「こらこら、オジサンをからかわないの」
こう言って私は、クスクス笑う圭子に、背を向けた。
緩んだ顔を隠すように。

また今回も、あっという間に退渓点に到達してしまった。
時刻も丁度お昼で、タイミングは良いのだが、
結局交代で釣ったにもかかわらず、圭子はとうとう釣れなかった。
正確に言うと前回同様、反応自体は何度も有ったが、
掛かったかに見えても、やはり一度もフッキングには至らなかったのだ。
「もうお昼ですね、上がりますか。
今回も食事の用意してきましたので、宜しかったら」
こう言う圭子をやや制すように
「しかし、残念ばかりで一度も釣れなかったね。
何だか責任感じちゃうなぁ」
「何をおっしゃいますか、私が下手なだけですよ。
教えていただいて、ただ感謝してますから」
本当に圭子は釣り上げる事に、全く執着が無い素振りだ。
私は感じた事を素直に、
「だけど不思議だな、圭子さんって、
フッキングしなくても、悔しさや残念さが、全然感じられないんだもん」
彼女はチョッと戸惑いながら
「はい、そんな気は起こらないです。
ヘンですか」と聞いた。
「うん、普通釣り人って悔しがるよ。
特に反応があっても、空振りばかりだと」
「そうなんですか・・・」
圭子は、何故か、声をトーンダウンさせてきた。
「何で?釣り上げたく・・・」
私は途中で気付き、これ以上理由を求めるのは止めた。
また圭子を塞ぎ込むと言うか、
考え込む姿へと追込んでしまいそうに、感じたからだ。
彼女の不思議に問うた場合、何故そうなるのかは、疑問だったが。

急に、ややわざとらしく、話題を変えた。
「そ・そうだ、嬉しいなー、圭子さんまた食事を用意してくれたんだね。
今度はどんなだろう、楽しみだな」
圭子は声の調子を戻しながら
「お口に合うか解りませんが・・・」
「合う合う、きっと合うよ」
「そうだと良いんですが、
あっ、実はですね、お酒も持ってきたんです
誠二さん、お好きだって言ってたから」
「おっと、更に嬉しいじゃないの、ヘヘヘ」
彼女は完全に元へ戻り、
「地酒を近所の方に、別けて頂きましたの。
これが美味しいんです、毎年頂くんですけど。
私こう見えても、結構イケるんですよ」
こう言って、得意げなポーズだ。
安心した、良かった。
「そうかそうか、君に負けるかもね、最近の僕じゃ」
負けたい、負けてみたい、圭子に。

「お酒は燗が好き?それとも冷?」
「何と言っても、冷に限りますね」
「おおっ、結構飲兵衛だな、圭子さん」
「冗談ですよー」
「そうかな、ハハハ」

歓声が、林道へ戻る、坂を登った。

-つづく-

5.記憶(1/25)

「それじゃあまた来週、ここで」
私がこう言うと、圭子は何か思い出した様子で。
「あっ、ちょっと待ってください」
慌てて車のドアを開け、ごそごそ探し物を始めた。
やがて一抱えは有ろうかという紙包みを取り出し、
「山菜なんですけど、良かったら受け取っていただけませんか。
田舎なのでお土産と言っても、こんな程度でお恥ずかしいのですけれど」
ふきのとう、こごみ、やぶかんぞう、せり、うるい、みつば・・・
説明を続ける彼女を制するように、
「わ、わかりました。僕ってあまり山菜に詳しくないんですよ。
でも、ありがたく頂きます」
これも本心だが、もっと聞きたい事が、と言うか、また疑問が湧いたから。
明らかに他人用の土産と思われる包装に、だ。
自家用ならこんな凝った事は考え難い。
「しかし、あのー・・・もしかして、誰かに渡す予定だったんですか。
こんな綺麗なラッピングだし」
こう言い終わると、別に聞かなくても良かった様に思えた。
ある程度、返答が想像できたから。

「だから、加藤さんにですよ。さっきも言ったじゃないですか、
今日はきっと素敵な方と、お逢いできると思いましたのって」
こう言ってにっこりの圭子、やはりか・・・
もうこうなったら、幾つかの納得し難い不可思議も含め、彼女の全てを受け入れよう。
何がどうであれ、目の前の現実はこうやって確かに存在しているし、
それもあろうことか私に対し、全て好意的なのだから。
これ以上何を求む。
多少のことは圭子の笑顔が、殆ど払拭してしまうのだ。
こう言った方が、手っ取り早い、かも知れない。

「そ・それじゃあ、本当にこれで」
もう一度、なんだか先ほどより未練がわいたが、言った。
「ハイ、それでは来週を楽しみにしてます。
今日はありがとうございました」
「僕の方こそ返って食事やら、お土産やらありがとう」
互いに別れの挨拶を交わすが、動けなくなっていた。
と言うより、圭子は其処に佇み、ただ微笑んでいる。
自分の車に向かう素振りも無く。
「それじゃあ」
またそう言って、私は再度車に向きかけたが圭子は
「ハイ」と言うだけで、相変わらずであった。
後ろ髪を引かれるとは正にこの事、拳を握り圭子に背を向け、車に乗り込んだ。
車を発進させルームミラーを見ると、黄金色に染まった圭子が、
右手を肩の辺りで広げ、左右に振っている。
段々鏡の中で小さくなる彼女は、同じ場所で手を振り続け、微笑んでいた。
「あれっ・・・うーん、何処かで・・・」
突然思い出した、何時だったかこんな雰囲気の場面を。
何時までも何時までも、私を見送る視線・・・
しかし具体的はこれ以上思い出せなく、引っ掛かりだけが残った。
そしてこの引っ掛かりも、圭子との別れの際に、解るのだ。

が、とりあえず。
この後も、圭子のこんな見送りや、昼食・お土産も毎回同様だった。
何故か律儀に、謝意さえ感じた。


見積書をキーボードで、打ち込む手が止まっていたのを
取引先からの電話の呼び出し音で知った。
用件が済み受話器を戻し
「ふぅー、また彼女を思い出してたな」
大きくため息をついた。
あれ以来殆ど病気のように、いや、完全に病んでいる、圭子に。
仕事中だろうと関係なく、ふっと意識が飛んでしまう。
もう一つ変わった事と言えば、しきりに時計を気にする。
「何だ、まだこんな時間か」
どうやら圭子は、時計の針を遅らせることも出来るらしい。
更にまた逢える日が近づくと、カウントダウンは秒単位にも感じられ、
一秒までも非常に長く思えた。
とうとう約束の2日前、特に用も無いのに圭子の携帯へ電話をかける。
[何を話そうかな、天気の事でも良いや]
本当にドキドキした。
中学生の時思いを寄せていた娘、たまたまクラス連絡網の順番が次になり、
受話器を握る手が汗ばむばかりで、なかなかダイヤル出来ないで居たのを 思い出した。
メモリーを呼び出し、じっとディスプレイを眺め、{星 圭子 090・・・}
こんな表示を出しては切り、出しては切り、何度も。
所が意を決し発信ボタンを押すと、
「お客様のおかけになった番号は、現在電源が入っていないか・・・」
大きく息をつき、キーボードを払いのけ、机に伏せた。
「何だよー、やっぱりなのか」
残念なのだが、何故か安堵さえしている。
「あー、疲れた」

昼食後は車で客先を数件周り、社の駐車場に戻った時携帯が振動した。
何時もの例で着信表示を見ると、圭子ではないか。
電話がかかってくる嬉しさなんて、なんとも久し振りだ。
「ハイ、加藤です」明るく弾み答える。
「あっ、星です。先日はお世話様でした。
今、大丈夫でしょうか」
圭子だ、あの声だ、間違いなく、ちょっと甘くも澄みやかな。
でも、まてよ、都合が悪くなったら、連絡をと言っていた筈だ。
まさか・・・一気に気分は重く、暗くなりかけていた。
「あのー、申し訳ないのですが・・・」
来たか、やはり、悲しくなったが勉めて冷静に、
「なんでしょう、急用が出来ましたか」こう聞いた。
所が違っていた、圭子はやや臆しながら
「そうじゃなく・・・
加藤さん、お近くにFFショップが在るって、この前言ってらっしゃいましたね。
それでお願いがあるのですが、良いでしょうか」
「えっと、何でしょうか、言ってみてください」
「ハックルが欲しいんです。
今までは通販ばかりで、何度も思ったものと違う品が届いたので」
そんな事、お安い御用もなにも、お任せください喜んで、だ。
「解りました。じゃあ圭子さんの希望を聞かせて。
明日、いや、まだ明後日だね、持って行きますよ」
「わー、本当ですか、ありがとうございます」
圭子は本当に喜んでいた。

君が嬉しいと、僕はもっと嬉しい。

次の日の長さは尋常でなく、いらいらしていた。
幸いこの日は、午後からの打ち合わせ後直帰出来るので、
自分の車で昼一番に社を飛び出た。
助手席には昨日買っておいたハックル、運転中も気になって仕様が無い。
信号で止まる度に、[何やってんだよー、早く変われって]だし。
客先の会議室でも、[早く来いよー]で、担当者を待ち侘びた。
「加藤さん、約束の時間より、随分と早いじゃないですか」
「すみません、今日は出来るだけ早く、社に戻りたいので」と、嘘をつく。
別に早く出発し早く当地に着いても、圭子と逢えるのは、明日朝だ。
どんなに何を急こうと、こればかりは変わらず、勿論解っている。
解っているのだが、出来るだけ早く彼女の近くへ行きたい。
そう、それだけでも価値がある。
だから全てを急いていた。
やっと仕事から解放され、釣りの道具を車へ放り込み、とりあえず出発した。
途中コンビニで色々と買い込み、夕食は運転しながらだ。
所が高速に乗るとやや落ち着いてきて、急に幸せと言うか嬉しくなってきた。
[もう直ぐだ]、そう、後少し。
先週来始めてかも、こんな気分は。
だって、ずーっと[まだかまだか、長いな]ばかりだったもの。
もう直ぐ、何と素敵な響きだ。

先週圭子との昼食の際に停めた場所、寸分違わず車を置いた。

ヘッドライトを消すと、ミルキーウェイが貫く満点の星空だった。
饒舌なる星達の話題は、互いの輝き具合を評する事か。
森に目をやれば、こちらで饒舌なのは渓。
岩をも削る水も、生きる者には事の他優しく、草木を育みそれを糧とする虫を育むと、
次には渓魚へと餌とし運び、彼らをも育むのだ。
そんな水を集めた流れ、だからそれを主に据えた渓のざわめきは、
生きとせ生けるものの礼賛なのかも知れない。
そして。
今頃、彼女は何をしているのだろう、ここまで来るとより強く、思い巡らせられる。
[丁度零時だし、とっくに寝ているよな]、私も寝よう。
ふと、明日圭子に渡す予定の、ハックルが目にとまり、手にとった。
彼女の思いにこれで間違いない筈。
「これですよ、これ、ありがとうございます。
私ってまだ良く解らないから、欲しいものの色や雰囲気でしか、説明できないんです。
今まではインターネット通販の写真を見て、注文していたのですけど。
何だか、ヘンなんですよね、実際に来るのが」
圭子はきっとこう言って笑う筈。
「じゃあ、ショップに電話で説明して、送って貰えば良いのに」
言った後、しまった、私の楽しみが減るじゃないか、圭子の為の買い物が。
言わなきゃ良かったと思う筈。
所が
「だって・・・、恥ずかしいじゃないですか。
田舎者で初心者の、ちんぷんかんぷんな説明じゃ、多分解ってもらえないと思うし」
そして笑いながら
「えーと、まだらに黒くって、ちょっとやわらかいの。
先日加藤さんに説明した、こんな程度にしか言えないですから」
そう言って更に笑う筈だ。

圭子さん、笑っている君が、好きだ。

何時の間にか、夢の世界を漂っていた。

-つづく-

4.繋がり(1/18)

「えっ、本当に解るの」
わざとらしい程大袈裟に言ったかも知れない。
薄々ながらも、解っているのではと感じていたので、自らそう思ったのだろう。
所で圭子は、然程追い詰められた様子ではなく、
返す言葉を慎重に選んび、順序を組み立てていた、からの様だ。
[そうだよな、そんなにきつい冗談じゃないし]
考えてみれば彼女だって、結構お茶目な所が有った筈だ。
「ふうー」、必要以上に気を使うなと自分に言い聞かせ、天を仰いだ。

「小さい頃・・・」
圭子は大きな瞳を一度空に泳がせ、言葉の間隔を取りつつ、話し始めた。
物心ついた頃から、圭子の父親は彼女をバイクに乗せ、度々この渓へ来たらしい。
春には、
川原の石で遊ぶ圭子を気遣いながら、父親はちょっとだけ、そして何度か藪に入る。
そんな短時間づつでも、山菜を沢山抱え、彼女の元へ戻っては、
緩やかな流れに群れるヤマメの新子を指差し微笑んだ。
夏には、
浅瀬で遊び、はしゃぐ圭子を細めた目で見守る父親。
「ヤマメはね、こんな日は白泡の下で、涼んでいるんだよ」
彼女の濡れた髪をタオルで拭きながら、そう教えてくれた。
秋には、
圭子の手を引き、少しだけ沢筋に分け入る父親。
一緒になってきのこを摘んだら、あっという間に籠から溢れた。
時々沢を覗き込んでは、何かを見つけると立ち止まる。
「ほら、あそこに見えるのはヤマメの夫婦、仲が良さそうだね」
寄り添うペアを暫く眺め、そして、静かに遠巻き去る様促された。
冬には、
コタツで茶を啜りながら、時々視線を遠くへ飛ばす父親。
「雪の下で、ヤマメとその子供たち、寒いのに偉いね」
そう圭子に語りかけた。
だけどヤマメを釣る事は無かった、らしい。

「とってもヤマメが好きで、優しかったんですよ、お父さん」
圭子の二重の瞼が、少し、赤らんだ。
「だめだめ、あーもうー」
小さく拳を作り、軽く何度か自分の頭を叩く彼女、
霧が去る様に表情が明るくなって行く。
「だから解るんです、ヤマメの居場所が、凄いでしょ」
えへん、とばかりにおどけ、そして笑った。
「そうか、そんな小さな頃からここに通っていれば、解っちゃうよね」
私も大きく笑い、しかし八割ほどの納得だった。
残りのうち一割は、それでも完璧に言い当てる事への疑問。
そしてもう一割は、圭子の理由を言い切った笑いに、結構押しを感じたのだ。
あと、少し言えば、何故こんな理由を話すのに、あれほど慎重になっていたのだろう。

これらの本当の訳を知るのはずっと後、圭子との別れの時だった。
しかしこの時点で私は、八割を頼り、全てにすることとした。

気がつくと辺りは黄昏かけていた。
林道に上がり雑談を交わしながら、車に向かい並んで歩く。
時々立ち止まっては、大袈裟に発見した振りをし、傍らの草木の名を圭子に問う。
車よまだ現れるなと願いつつ。
そんな見え見えの私にも、一つ一つ丁寧に答える圭子。
「えーと、これはヒナウスユキソウと言って、この辺りでは5月頃開花しますね」
白くて細くて長い指が葉をもたげ、説明を終えるとこちらに振り向き、
例の片笑窪を作り微笑む。
そんな姿を見ると、こんな時間も終わりが近いことに、悲しくなってくる。
幾ら明るく振舞っても、トーンダウンしている自分を押さえられなかった。
そして稜線の突き出たカーブを曲がると、車が見えた。
「あのー、加藤さんは、良くここに来られるんですか」
と、突然圭子が聞く
「ええ、4月中だったらもう1・2回くらいはね。
でもその後は他の各地を巡りますよ」
何も考えず、やや重く答える。
お終いが直ぐそこに迫り来る事もあり、気は殆ど此処に在らずだった。
「じゃあ、来週も来られますか。
もしそうで、しかもご迷惑でなかったらまた・・・」
圭子は途中で急に口をつぐんだ。
理解に少々時間がかかった私だが、
「えっ!」、と奇声を発してしまった。

「ごめんなさい、初対面の方にまた失礼なお願いをするところでした」
圭子は、首をすくめた。
慌てた、本当に私は慌てた。
何から何をどうやって話そうか、次から次へと沸いてくる言葉と、
急速に昂ぶる感情とが複雑に絡み合い、
悪い事に自分の立場や年齢が混乱に拍車をかけた。
目をぱちくりさせ、口を色んな形にするが、
えーとか、んーとか、しか発しない、私の顔を覗き込むように
「あのー」、と圭子が不思議がった。
「いや、大丈夫です」
大丈夫でない私がとりあえず、突然大声で、言ったものだから彼女はクスクス笑った。
「どうしたんですか、加藤さん」、もう一度、今度は優しく笑われた。

自分の中で感情制御レバーを最低限近くに設定し、
言語選択範囲を十分の一程度に絞り、言った。
「ま、また来週もきますから」、聞く圭子の表情で恐る恐る判定してみた。
良かった、普通に喋れたようだ。
「本当ですか、でも・・・」
ついに設定も絞りも効かなくなり、圭子を遮るように言った。
「僕なんかで良ければ、こちらこそまたお願いします。
勿論、迷惑なんて事無いですから。
どうせ来週も釣りに出かける予定だったので、あっ、ホントですよ。
場所もまたここに来るつもりだったし、うん、そうそう。
だから特に圭子さんに合わせてじゃなく・・・
あっ、いや、別に合わせたくないって訳じゃないですよ」
確かこんな内容だったと、思う。
私に圧倒されたのか、圭子は何度も瞬きしながら聞いていた。
そして吹き出しそうになりながら
「解りました、また来週もよろしくお願いします。
でも、くれぐれも無理をなさらないで下さいね」
こう言って頭を下げた。

人生の中で、飛び上りたいほど嬉しい事って、どれ位有るだろう。
大体嫌な事や辛い事ばかりで、楽しい事はそれらより確実に少ないけれど、やや有る。
だけど嬉しかった事は、殆ど子供の頃のしか浮かんで来ないな。
どうしよう。
とりあえず”どうしよう”、であった。
頭は”どうしよう”だが、身体は正直で、盛んに手足は動きたがり、
表情などは、自分でも見たくないほどだっただろう、多分。

圭子が「あのー」とまた何かを話し始めたので、
はっと我に返り、顔面筋に活を入れるよう、手のひらで顔を数度叩いた。
そんな私を見て、何をしてるのだろうと言った面持ちで
「携帯、お持ちですよね。番号、教えて頂けませんか」と、聞いた。
続けて
「今思ったんですけど、もしも急用が出来て来られなかったら、失礼じゃないですか。
そんな場合連絡させて頂きたいので」
「ああ、そうだね。じゃあ圭子さんのも・・・」
私は急に言葉を止めた。
つい何時もの癖で聞き返したのだが、失礼な質問かもと感じたのだ。
この村では、確かに2年前より携帯が使えるようになったが、
しかしアンテナは本村に一箇所だけで、山間のこの界隈では直ぐに圏外となってしまう。
だから携帯は、民宿が集中する本村へ来る観光客向けの色合いが濃く、
村人自体は殆ど持ってない。
と、去年地元の商店で聞いていた事を 思い出したからだ。
そんな私を察し圭子は言った。
「良いんですよ、こんな田舎じゃ持ってるほうが珍しいですもの」
そして何やらポケットに手を入れ
「だけど、ほら、ジャーン!」
パステルカラーの携帯を突き出した。
「ヘヘヘ、一応持ってます」
何でも母親が新しい物好きらしく、
またTVで最近の若い人は、殆ど携帯を持っている事を知ったのもあり、
去年の誕生日に買ってくれたらしい。
「どうせ使わないから要らないって言ったんですよ、何度も」
そう言いながら圭子は電源ボタンを押し
「じゃあ、教え合いっこですね。わー初めての経験です」
TVドラマで見るのと一緒だと、はしゃいだ。

私から番号を告げると、圭子はとりあえず打ち込んだ。
次に圭子が「えーと、090の・・・」、と言う、たどたどしく、思い出しながら。
番号を入力し、彼女の名前を打ち確定すると、例のピー音が鳴った。
所が先に打ち始めた圭子の携帯から、何時まで経っても終了音が聞こえてこない。
えーと、とか、あれっ、とか、ばかり言いながらついに
「すみません、登録の仕方忘れちゃって、助けてください」
えっ、何で、と思ったが、嬉しくもあり、彼女の携帯を受け取った。
機種は違うが大体同じ手順なので、だけど自分の名前を打ち込むのも妙な感じだな、
そう思いながらも最後の確定ボタンを押すと、ディスプレイにこう表示された。

{No.8に登録しました。残り492件}

「えーっ、登録たったこれだけ」少々驚いた。
「そうなんですよ、全然使わないんです」圭子はそういって笑った。
最初は物珍しさもあり、何時も持ち歩いていたが、かかってこないしかけないし、
何時の間にか電源さえ入れなくなったらしい。
「だから珍しく電源を入れると、切るのを忘れて電池が無くなっちゃうんです」
そう言って笑っている、君らしいような気がする。
「でも、せっかく買ってくれたお母さんに悪いので、一応持ち歩いてるんです。
だけど何時も電源入れてないから、持ってる意味無いですよね。
あっ、入れてても、殆ど圏外だから同じ事だわ」
そう言って一人ケラケラ笑っている。
眩しいほど、笑っている。

風が吹き、圭子の黒髪に夕日が映った。

-つづく-

3.天才(1/16)

時刻は15時近かった。

何時もであれば萎えてしまい、近くの共同浴場にでも行こうかな、
と言う気分になる頃合だ。
だが、やや寝過ごしてしまった事に後悔さえして、
直ぐにでも釣りを再開したく思っていた。
いや、正確には釣りがしたいのではなく、
圭子と出来るだけ、一緒の時間を過ごしたいのが本音なのだが。
大きく伸びをし、言った。
「星さん、遅くなりましたけど、午後の部、行きましょうか」
圭子はにっこりと頷き、開いているページに枝折をはさんだ。

日差しはとうにピークを過ぎていたが、流石に4月ともなればまだまだ明るく、
特に水温は、ユスリカに代わりカゲロウを羽化させていた。
カゲロウとはよく言ったものだ。
逆光に透かすと本当に陽炎の如く、まだ小型ばかりの其れだが、
はたはたと儚く舞う姿は幻想的でさえある。
所々で待望のライズも見受けられ、しかし結構難しい状況に思えた。
しかもそんなライズにやや緊張した私へ、圭子は追うように、
「加藤さん、頑張ってくださいね」
と、打った。

只でさえ人の視線を感じながら釣るのが苦手で、なのに・・・
とりあえずラインを宙に舞わせるが、めろめろなループに自身苦笑し、
とんでもない方向に落ちたフライを うつむき加減で手繰り寄せた。
[ライズに集中するんだ]、自らを叱咤するように思った。
ぽつんぽつんと繰り返すライズ、それが生んだリングを凝視し他には何も考えない。
するすると伸びるラインの先で、くるっとフライがターンした。
ふわふわと流れに乗ったフライ目掛け、突進する矢のような影が水中を切り、
次の瞬間水面に飛沫が上がった。
一連の行動はほぼ無意識で、勝手に身体が反応しラインを跳ね上げていた。
半年振りに感じる生感は実に心地よい、ぷるぷるとロッドを通しそれは。
[良かった、上手く行き過ぎだが]、汗が引くのを感じた。
暫くして私が差し出すネットにヤマメが納まると、
圭子が駆け寄り
「わー、綺麗なヤマメ、流石ですね」目を輝かせ言った。
勿論嬉しいこの言葉の方が、釣った事よりも。

幾つかのポイントを過ぎ渓は左に折れた。
流れの中央に大石が構え、左右に分割されたほぼ同格の大場所が現れる。
この時期にしてはやや急流かなとも思えたが、それぞれ底に幾つもの身隠し岩を配し、
流下してくる羽化前のカゲロウを捕らえるには、絶好だ。
しかし問題は両方を順々に狙えない事。
それぞれの中央に立つと、折れたばかりの場所なので、直ぐ後ろに木が立ちはだかり、
いわゆるバックが取れないのだ。
流れを利用したロールキャストも、方向から考えると無理だ。
ボウ・アンド・アロウで太刀打ち出来る距離でもないし。
どちらかのポイントに近づき、少々流れに立ち込まねばならない。
それは一つをほぼ捨てることを意味した。
右を選んだ。

多少の期待を残すため、慎重に左側の流れへ立ちこんだが、直ぐに影が走った。
それも手前の魚影が上流に飛ぶと、先に居たもう一つの影もつられて、
落ち込み際の泡に潜り込んでしまう。
[まっ、本命は右さ]、と気を取り直し、フライを投じた。
所が何も起きないのである、何投しようと。
諦めて今狙っていた場所へ踏み込んでみたが、魚影は無く、
特にその理由は解らなかった。
[良くあることさ]、何時も的中など有り得ないので、然程気にせず、次に向かう。

また直ぐに、今度は右に折れた。
方向は違うがほぼ同じ状況に出くわす。
その後も紆余曲折を繰り返す渓、中てが当たる確立はほぼ半々で、
釣れたのは更にその半分程だから、こんなものである。
しかし次第にリズムを得て、釣りに集中している快感を久しぶりに堪能していた。
所が次にまた同様の場面で、今まで歓声程度しか発しなかった圭子が、
「あのー、今度は左側だと思うんですけど」
すぐさま
「あっ、ごめんなさい、初心者がでしゃばって」
と言って、舌をちょっぴり出し、頭に手を当てた。
和んだ、と、同時に少々後悔した。
暫く釣りに没頭し、圭子を忘れていた事に。
もう私は十分だし、何より彼女の後姿をまた見ていたい。
「そろそろ交代しませんか」
私の提案に圭子は片手を小さく広げ、胸のあたりで細かく振った。
「まだ1時間も経ってないじゃないですか、
それともう少し見学させて欲しいんです」
「お願い」と動いた唇に、合わせた両手を押し当て、上目遣いで見つめられたら、
とろけてしまった。
「そ、そうですか・・・」
ハハハと照れ笑い、するしかなかった。

圭子の言うように、左側のポイントを狙うことにした。
別にもうどちらでも良かった、正直なところ。
彼女の言うことが当たっても外れても、言う通りにして結果を話題にしたかったのだ。
しかし的中した、たまたまだろう、とりあえず確率は二分の一だし。
でも、なんだか嬉しくて、ネットに収めたヤマメを掲げながら、言った。
「やったね、大当たりだよ」
「エヘヘ、まぐれですよ」はにかむ姿も実にいとおしい。
「圭子さん天才だ」
名で言う。
「止めてくださいよー」
他愛ないが、馴染み弾んだ。
「次も頼みますよ」
以後全て彼女に選んでもらった。

所がまぐれではなかった。
フッキングしなかったりも有ったが、また反応が無くても、魚影は走った。
最初は天才とか透視能力抜群とかで盛り上がっていたが、徐々に懐疑心さえ沸いてきた。
何しろ百発百中で、しかも居ない場合は、はっきりと居ないを宣告するのだから。
事実そんな場合魚影は皆無であった。
ついに、ある場所で圭子が、
「ここは居ませんね、次に行きましょうか」
こう言ったので、とうとうロッドを置いた。
やや真剣になった私、
「ねえ、何でそんなに解るの?」
はっとする圭子
「あっ、いや、単なる偶然ですよ」
そうだな、そんな事も有るか・・・と思いつつも私は、
「偶然はこんなに続きませんって。
ははーん、何か秘密を隠しているな、正直に答えなさい」
おどけて、冗談交じりに言ったつもりだった。
だから「やだなー、だから偶然ですよー」を期待し、「そっか、やはり圭子さん天才!」
と結ばせる予定だった。
しかし、だ。

「えーと、あの、その・・・」
意に反し急に黙ってしまった圭子、何かを思い悩んでるようにも見えた。
しまった、また思いがけず彼女を追い詰めたか。
しかしそんな困惑する圭子を またもや抱きしめたい衝動に駆られた。
「ごめん、冗談が過ぎたね」、やんわり囁きながら。
だが・・・実際は、邪まな愚想を押さえ言った。
「あっ、別に良いんだ。
そんな人も居るんだよね、生まれ持った能力って言うか。
あまりにも良く当たるから、ね、ちょっと」
慌てて繕った。
しかし、単に圭子は純粋すぎるのか、それだけでは説明しきれない気もするが。
もはや想像を越える謎めいた雰囲気すら、私の中で膨らんでいた。
とにかく彼女との接し方に戸惑い、遠い過去の経験を辿ってみたが参考にもならない。
それにしても何故こんな自分なのだろう、何かを失うのではないかと恐れてさえいた。

圭子は気を取り直したように、さらりと呟く、
「実は、解るんです」気負いなど全く感じない、飽く迄自然だ。
午前中の彼女が釣る様を見て、感じたことを思い出した。
そう、解っているとしか思えない彼女を。

-つづく-

2.芽生え(1/8)

「あっ、ここです」
彼女が指差す方向には、軽クロカン車が停まっていた。
私が入渓した場所からすると、最初の退渓地点に当たり、
ややきつい斜面を登れば、車2台分程の駐車スペースが有る。
時計で確認するとお昼を過ぎていた。
渋々だが勉めて何気なく、
「そろそろ上がりましょうか」、普通に言えた、と思う。

[それにしても早かったな]
別に急いで来た訳ではなく、逆に彼女ばかり釣っていたので、
普段より非常にのんびりしたペースだったのだが。
正に”楽しい出来事の過ぎ去り”の例に漏れずである。
この先の事をどう切り出そうか迷っていたら、
何と彼女は思いもかけない事を言った。
「あのー・・・教えて頂いたお礼に、良かったらお食事を如何ですか。
サンドイッチなんですけど、沢山作ってきましたので」
良かったら何てものではない、二つ返事を堪え、一つ、返事をした。

すっかり舞い上がっていたが、いやまてよ。
”お礼に”と言うことは、これを最後と言うことで、
午後からは単独で釣りたいのか、若しくは帰ってしまうか。
また悲しくなった。
それにしてもいいオジサンが、少年のように喜怒哀楽を繰り返す日だ、
等と思っていると。
「午後からはあなたが釣ってくださいね、ここまでは私ばかりでしたから。
上手な人の釣り方を見て、勉強させて頂きたいし」
こんなことを言う彼女。

おいおい、これは出来すぎだよ、嬉しいのは間違いないが。


彼女は車のバックドアを開け昼食の準備を始めた。
が、直ぐ何かに気づいた様子で、
「すみません、椅子一つしか持ってなくて・・・」
私が、積んである椅子やビール等も持って来たいので、
自分の車を取りに行くと伝えると、
「あっ、それでは私の車で取りに行きましょうか。
ここでしたら2台停められますものね」
これに対し慌てて
「いや、ほんの15分程度ですから、その間に準備をお願いします」
遠慮なのか失礼な事なのか、判断もしない(出来ない)うちに言った。

本当は、普通に歩くと幾ら下り坂とは言え、
30分近くかかるのだが、咄嗟にそう言い放ち歩き始めた。
実はちょっと冷静になってみたかったのだ。
「しかし、雰囲気も含め、不思議な娘だなぁ」
先ほどの釣りのことや、私を虜にする片笑窪の笑顔を思い出し、
こんな事を呟く。
跳ねるほど嬉しい、何十年前か忘れてしまったが、
思い悩み焦がれた時期、そのセピアがフルカラーで蘇った。
何だ、ちっとも冷静にならないではないか。

しかも本当に15分で着いてしまった。
知らず知らずのうちに小走りで林道を下り、
車のドアを急いで開けるとキーを捻る。
この時ほどグローヒートを 長く恨めしく思ったことは無いのでは。
スターティング・モーターを回し、林道へ飛び出すように発進させる。
何故か早く戻らないと、彼女が居なくなってしまうと焦っていた。
「あー良かった、居たよ」
支度をする彼女を遠くに認めると、スピードを緩める。
またもや繕う自分が居た。

「ごめんね、手伝いもしないで」
こう言って近づくと、ただ微笑む彼女。
テーブルにはタータンチェック柄のクロス、その上に籐のバスケットが置かれ、
薄いピンクのハンカチーフに包まれた小さ目のサンドウィッチが有った。
セロリ等の野菜スティックが入ったクリスタルグラス、
そしてウサギの縫い包みカバーがかかった、ウエットティッシュも添えられていた。
私のマグカップにバジルティーを注ぐ彼女、次に自分のにも注ぐ。
ややメルヘンチックに臆する。
だって何時もの渓で取る昼食なんて、カップ麺かレトルト品ばかりだし、
良くてプラス缶詰やコンビニのおにぎり程度だもの。
それに、間違ってもテーブルクロスなんて無いし。
だけど良く見るとサンドウイッチの量は、本当に彼女が言う通り、沢山あるのだ。
優に2人分は有ろうかと思えたので聞いた。
「失礼ですけど、何時もこんなに沢山食べるんですか。
それとも誰かの分?」
彼女はにっこりしながら
「今日はきっと素敵な方と、お逢いできると思いましたの」
本当に不思議な娘だ。
でも、この際どうでも良くなっていた。

私は自分を加藤誠二であると名乗った。
私が差し出すビールを 少々ためらいながらも受け取り、
思ったより大らかに口にした彼女は、返した。
「星 圭子です」と。
私の
「星と言う姓は奥会津に多いですよね」、がきっかけとなり、
ビールがすすむほど軽やかに会話が交わされた。
自分は妻も子供も居たが、数年前に離婚した40過ぎのバツイチである事。
東京近郊で設備関係の仕事に就き、平日休みが殆どだと言う事、等を話した。

圭子は21歳であった。
今居る川の本流筋に沿う街道、そこで家業の蕎麦屋を手伝っている。
今日のように水曜日が休みで、月に一度は木曜日と連休する事。
高校時代に父親を亡くし、卒業後直ぐ母を手伝うようになった事。
「だから修学旅行なんか以外は、この村から殆ど出ていない、
生粋の田舎者でーす」
おどけた表情もまた、実に可愛い。
「東京にだって、キミ程の美しい人は居ないよ」、
アルコールも手伝い滑らか言った。
「もう、田舎者をからかわないで下さい」、頬をちょっぴり膨らませる圭子、
どんな表情も絵になるばかりだ。

[いや、真面目な話、本当に可愛いよ]、
これだけは幾らアルコールの力を借りても、言えなかった。


私はリクライニングさせた椅子で、寝ていたようだ。
気がつくと圭子は本を広げ、読んでいた。
「ごめん、寝ちゃったね」照れ笑う私。
クスッと圭子も笑い、
「気持ち良さそうに、寝てらっしゃいましたね」
私は何時もこんなスタイルで、昼食後は昼寝するのだ。
場合によっては寝すぎてしまい、暗くなった頃気づき、
そのまま帰ってしまうことも有る、と話した。
「良いじゃないですか、あくせくしてないで。
私もせせらぎを聞きながら、こうやって小説を読むのが好きなんです」
[うんうん、似合いますよ]また心で呟いた。

空になったバスケットの脇には、圭子が飲んだビールの空き缶1本。
対する私側には3本、3本か・・・
「以前はこれくらいで、眠くはならなかったんだけどね、嫌だな歳って」
呟くように何気なく言うと、圭子は真面目な顔で、
「でも加藤さんは、実際に10年は若く見えるし、とっても素敵ですよ」
更に今度は茶目っ気を効かせ
「私はからかってませーん」、と口を真一文字に閉じて見せた後、
両手の先を鼻頭に宛がい、なでやかな肩を震わせクスクスと笑った。

今すぐ抱きしめたい、何かが芽生えるのを感じた。

-つづく-

1.出会い(1/3)

「何だよ、それはないぜ」
つい、憎しみと落胆交じりに吐き捨てた。

*******************************************************

4月、今年も待ちおおせたる解禁、して数日後。
その前晩より移動し深眠適わぬまま迎えた朝、
車のイグニッションキーを捻る。
ダッシュボードの内外気温計がぼやっと表示され、
マイナス2℃の外気を確認すると、キーを戻し再び寝袋に滑り込んだ。

「まだ早いや、魚にしたってね」

不思議なもので二度寝って熟睡してしまう。
再び目覚めたとき既に10時を過ぎていて、
二度寝後のぼーっとした頭でさえ、すぐさま不覚を理解できた。

この川は超が冠される程の有名河川で、沿った林道は完璧に舗装され、
駐車スペースも随所にある。
首都圏よりのアプローチも楽な、典型的成魚放流依存河川だ。
解禁日になるとイクラやブドウ虫を携えた釣り人が押し寄せ、
煽るようなローカルTV局のカメラは、
続々と釣り鉤にかかったいかにも成魚放流のヤマメやニジマスと、
それに狂喜する沢山の釣り人達や、
魚が詰まったクーラーボックスをメディアに収めてゆく。
だから解禁後2週間もすると極端に、
魚影も釣り人も激減する所謂”お祭り”川だ。

そんな訳でフライマンにはほぼ見捨てられ、
よって過去にこの川で釣りをしてて出会うは稀だった。
ただ救いは僅かに残された漁協の良心からか、
毎年微々たるものだが発眼卵が放流され、
また元々豊富な支流を持つため種沢も数多く存在する。
大場所に隠れた取って置きの場所、早期から大きなドライフライが使えるので、
私は毎年解禁当初に必ずここを訪れていた。

と言っても、のんびりとFFが楽しめるのは、
私のような平日休暇者に限られるし、
また取って置きと言っても入渓が困難な訳ではないので、
”お祭り”区間よりは日持ちする、と言った程度だが・・・

ところで、10時を過ぎていた事にやや慌てたが、
再び気温をチェックしたら落ち着きを取り戻した。
やっと期待できそうな条件へのなりかけだし、
なんと言っても平日なんだ、のんびりで良い、と。
それとここには昨晩より駐車しているのだから、
この先可能な入渓地点までは私が独占している筈、とも。

支度を整え渓に降り立つと、ほぼ半年ぶりに聞く渓音が、
心を洗い脳を解し全身の毛穴に呼吸を始めさせた。
ベージュのラインがそんな空間を這い行き、
そして渓のエッセンスをたっぷり纏い私へと収束する。
何度迎えてもこの時期は特別だ、全てが新鮮で生気に溢れている。

暫くはこんな酔い痴れで十分なのだが、
やはり釣り人魚を釣りたい、が、釣れないのだ。
初物を焦る気持ちもあるにはあるけど、自分の過去の実績からしても腑に落ちず、
反応すら示さない流れに何時しか荒っぽくさえフライを舞わせていた。

ふと視線を先に投げると前方に人影らしきを認め、
冒頭の「何だよ・・・」である。
期待を踏みにじられたのと、自分の腹積もりを見事に覆されたのとで、
急激に頭へ血液が集中するのを感じた。

途中からの入渓は不可能な筈だ、
とすると私が二度寝している最中にか。
等と思いながらずんずん進むと、
オレンジ色のラインが木漏れ日に浮かんだ。
「珍しいなフライマンか、それにしても華奢な体格・・・ん」
少年程の背丈だが、ベストやウエーダー越しにもふくよかさが窺え、
頼りない二の腕でロッドを操る様は間違いなく女性だった。

それが解ると辺りを見渡し同行者を探した。
女性の場合まず単独釣行は考えられなく、
殆どの場合野朗が一緒だからだ。
文句を言うならエスコート役にである。
しかしこれもまた珍しく、なんと彼女は一人で、
しかもフライフィッシングを目の前で展開しているではないか。
しばしフライ”マン”仲間で話題になる、
正に夢の光景である事が判明し、
しかし現実に晒されると、
立ち振る舞いのマニュアルが存在しない事に気づいた。

いや、別に普通で良いのだ、
何と言っても頭ハネされた事へ抗議せねば気が済まない。
彼女に近づき戸惑いを隠すかのようにやや声を荒げ言った。
「こんにちは」
振り向いた彼女はきょとんとしながらも小声で「こんにちは」と返す。
帽子と偏光グラスで表情は良く解らないが、
20代前半らしき色白の小さな顔だった。

一瞬狼狽した、だって平日にしかも女一人でフライフィッシングだよ、
何か訳有りの筈だと、失礼なことだが悪い方向に思っていたから。
そんな不埒を隠す場合の常で、わざとぶっきらぼうになり抗議を始めた。
最初は理解に窮する彼女だったが、徐々に自らの責を感じたのか、
帽子とグラスを外し・・・

黒くて細く長い髪が棚引き、くっきりとした二重の瞼が大きな瞳を覆い、
深く頭をたれ「ごめんなさい」、怯えたように呟いた。
再び戻した顔はやや曇っていたが、最近見かけない清楚さに満ちている。
遠い昔に思いを寄せていた同級生、新たに赴任の凛とした憧れの先生。
そんな初々しかったあの頃に抱いた、甘酸っぱさを蘇させるほどの可憐な彼女。
何だか放って置けない小柄で華奢な姿態、透けるような頬をやや上気させていた。
しかも黒髪が彼女の瀟洒さを 一層引き立たせるように風に乗っているのだ。

純粋に見惚れてしまった。

意を決し、私は言葉を発する。
「いや、それ程の事じゃないですよ」
わざと無粋に振舞った自分を心から後悔した。
しかしこれほど追い詰めるとは予想だにせず、
逆に彼女の純真さを即座に解し態度を改めた。
「もしかすると釣りを始めて間もないのですか」
柔らかに聞く。

「ええ、実は去年あるきっかけでFFに興味を持ち、
つい先日実際にロッドを振り始めたばかりなんです」
入門書やビデオが頼りで、釣具もインターネット通販である事。
釣り上がりと言うのは、車を停めた場所より一旦道を下り、
川通しで元の場所まで戻ってくるのだと思っていた事。
だから私の車の所から入渓したのだ、と言う事等を話してくれた。

話しながら徐々に曇りが去り行く表情は愛らしさを帯びてきて、
最期には勘違いだった自分を笑い、片笑窪を作り唇を緩ませる。
実に新鮮な可憐さだ、本当に最近忘れかけていた、こんな女性の存在を。
彼女の片笑窪と薄紅色の口元に吸い込まれるよう、
微笑みながら自分の無知さを語る、一つ一つの仕草に見入っていた。

「ですから本当にごめんなさい」、今度は短くぴょこんと頭を下げた。
私は漸く我に返り
「いやいや、そんなに気にしないでください」
こう言うのが精一杯だった。

かえって緊張した面持ちの私が不思議なのか、
「クスッ」と笑い、
「さっきは怒ってらっしゃるように見えましたが」
続けて
「許して下さるんですね」、と加えた。
ちょっと悪戯っぽく微笑む彼女だが、
飽く迄爽やかにして毒気など微塵も感じない。

乱暴に詰め寄った経緯の釈明を繰り返すほどに、
更に緊張する自分を感じ、終いには意味不明なことを言っていた、と思う。
もう私も笑うしかなかった。
40もとうに越したと言うのに、若い女性を前にあがっている自分に対しても。

下心は皆無かと問われれば全く自信は無いが、一応まだ男だ。
しかしこんなオジサンでと躊躇しながらも、
これも何かの縁とこじつけ、僭越にもFFの指南役を買って出てみた。
すると意外にも呆気無く喜びさえする彼女、
「ええっ、お願いできるんですか」、
またしても片笑窪が愛らしい、眩しいほどの笑顔で弾んでいる。
再度緊張してしまった。
「ハハハ、私で良ければ」、赤面さえしていたかも知れない。

彼女は思ったより上手くフライを操れた。
一応ビデオ等を参考に練習したらしいが、
それ程の時間は費やしてないと言う事なので、
筋が良いのか飲み込みが早いのか。
しかしそれはそれ、やはり経験不足からフライを木に絡ませたりが多く、
それは実際に釣っている時間より長いくらいだった。
その度に私はフライを解いてやり、しかし彼女の笑顔を拝めるのだから、
不謹慎だがこのまま上達しないで、とも思っていた。

そんな事を繰り返しているうち、ふとある事に気づいた。
魚が居ると思われるポイント、そこを的確に判っているとしか思えない、
彼女の狙い方にだ。
勿論まだ思い通りに投じられていないが、移動するたび瞬時に向けられる視線は、
長年渓流釣りを経験した老練ささえ感じる、素晴らしく確実なものだった。
それが証拠に、何度かに一度だが、
フライが視線通りの場所に落ちると、何らかの反応があるのだ。

しかし不思議な事に何度も魚がフライを咥えたのに、
一度もフッキングには至らず、初めての一尾を経験させたい私は困る一方だ。
勿論初心者故のドラグや、アワセのタイミングが遅れたりも原因だが、
どう見てもといった時でも魚はかからなかった。
一応出来る限りのアドバイスをしたが、感謝する彼女が気の毒になるほど、
空振りの連続である。
ところが当の彼女は全く残念がっていないし、
それどころか何故か釣り上げる事への拘りなどが感じ取れない。
それは救いでもあり、更に加わる不可思議でもあったが。

-つづく-

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