自然と渓魚の保護及びブラックバス問題を考える。
アウトドアでの遊びが好きで、フライフィッシングと共にバスフィッシングも。
こんな私が最近思い考えるのは・・・(Oct/00)
野尻川水系
第一章
自然と渓魚の保護
聞く所によりますと南米アマゾン奥地に住むインディオのある一族には、
「自然」と言う言葉が存在しないようです。
彼らの周りの物全てがごく当たり前であり、ことさら名をつける必要が無いからなのでしょうか。
我々が呼吸する何時もの空気に、特別な意識を持たず生活しているのと同様なのかも。

所謂文明人は次第なる必要性に迫られ、自然と言う言葉を創ったと考えられます。
何故必要になったのか、そしてこの必要性から生まれた自然とは、
具体的に何を指すのだろうか。
もはや地球上に於いて、存在自体が不自然にも思える人間が、定義する所のそれとは。
一般的と思える解釈・自然=何も手を加えないこと、
この観点からすると、北米の国立公園等に見られる徹底した策は「ほぼ」合致しています。
が、人間の侵入をゼロにしている訳ではなく、
更に言えば大気は地球上に於いて共通無二なのだから「ほぼ」だと思われます。
極論すれば自然という言葉を創った我々が、
全てこの世から消え失せる事が自然なのではないでしょうか。
また逆の見かたをすれば、文明を得させられた生き物が、
今日のような環境に変化させた現状も自然と考えられます。

こう考えると非常に曖昧な言葉「自然」、
しかし今日の我々にとって無くては不便な言葉でもあります。
私は釣り人の立場から自然と渓魚の保護について考えました。

先に結論有りきですが、出来るだけそれらを保護したいのであれば、
川に行かない・釣りをしない、です。
至極当然であり紛れも無い事実、しかしこれでは大好きな釣りが出来ません。
ですから現在色々な表現で謳われている保護の方法は、
釣りがしたいが故生まれた妥協案の数々であると思います。
妥協案であってもより良い策とは何だろう、各方法を吟味し私なりに常々考えます。
しかしなかなか完全に賛同できる策も無いし、
困りながらも何とかとならないかと思う日々ですが。

ここに各所で見掛ける例を記し、色々と考えてみました。

1:「○cm以下の魚は持ち帰り禁止」
大きく育つ優秀なDNAを持つ魚をより保護する、海外ではこんな逆の考えがあります。
大きく育つ魚が少ない我が国においては馴染まない、ある程度分かりますが・・・
しかし釣りを渓魚を知るほどに、片手落ちと感じてしまいます。

2:「沢山の魚を持ち帰るのは止めましょう」
いったい沢山とは何匹からなのでしょうか、受け取る人によっても違います。
一匹なら良くて十匹はダメ?これこそ五十歩百歩に他ならないのでは。
何もせずともと言う意見も分かります、しかしこの呼び掛けがマイナスに働く危惧も否めません。
私は一匹しか持ち帰らない、これに対する反感は予想出来ないでしょうか。

3:「釣った魚は全てリリースしましょう」
例えばこれを唱えるのが完全C&R派のフライマンであったとします、
彼は絶対に魚の命を奪っていないのでしょうか。
釣り鉤で魚を釣る以上、リリースが100%成功することは有り得ません。
勿論そんなことは承知の上で、「出来るだけを目指し、逃がしてやりましょうよ」、
こんなニュアンスを伝えられたらが本心だと思いますが。

しかし不幸にも前述の例と同様、反感によるマイナス効果が無いとも言い切れません
それでも現在に於いては、最も効果的な方法であると感じます、妥協案なのは確かですが・・・

繰り返すようですがこれらのことを釣り人が唱えると、
「じゃあお前はどうなんだ」こんな感情を持つ人が現れる様です。
何も働きかけないよりは良いのでは、そんな思いから言ったつもりでもです。
真意を汲み取られず意に反して、偽善と採られてしまう悲しい事例もあるようです。
出来るだけささやかな侵略者である在りたいと願う釣り人が、
最も現状を把握していると思えても・・・

今度はこれらを放流主である漁協が唱えた場合、
「俺は金を払ってるんだ」この反論には即答出来ません、
(C&R区間に設定された場所では通りませんが)。
驚く事に中には「俺たちはお客さんだ、漁協のやつらが掃除しろ」、
こう言ってゴミを捨てていく人も居ます。
ちょっとニュアンスは違いますが、「漁協に放流を頼んだ覚えは無い」と言う意見も耳にします。
本来公共の川に何時の間にか漁協が放流を始め、入漁料を徴収する事は我慢なら無い、
一理有るとも感じました。

自然と渓魚の為にどの様な呼びかけが理想なのかは、
この先の情勢によっても変わるでしょう。
とりあえず以下私事ですが、
「釣り人である私は草木を踏みつけ渓魚たちの住処に侵略し、
遊びのために彼らを傷つけている」
「こういったスタンスを保ち、常に謙虚な姿勢で赴かねば」
こんな思いを抱きつつ釣りをしよう、そしてこんなニュアンスを伝えたい。
偽善と採られる事を恐れては居ませんが、
マイナス効果にだけは働いて欲しくないと願います。

美しい環境に美しい渓魚が居て欲しい・・・何時までも、
こんな思いが根底に有り矛盾との葛藤はこの先も続きそうです。
私のバス仲間の一人*本文の内容とは全く関係有りません。
第二章
ブラックバス問題
最近東北ではブラックバスの違法放流が問題となり、
各メディアもストップ・ザ・バスを掲げたり撲滅運動を提唱したりです。
私はバスに関わって30年程経ちますが、
20年程前に琵琶湖や富士五湖で本格的な問題となったのを始めとして、
現在に至るまで各地で同様の展開を何度も見聞きしました。
ここでも結論から言ってしまうと、どんな策を講じようがバスの拡散は阻止できなく思います。

ご存知の方も多いと思いますが、ブラックバスはある先人の先見が発端となり輸入されました。
大正時代のことですが公的機関も関与し、
なんと当時においてゲームフィッシングの対象として研究されています。
そして更に害魚論にも言及し、
真の功罪はバスその物の価値が決める事と結んでいます・・・今から80年程前の話。
この先人は「害魚の{害}とは何か、それは人間の為にならない事」、こうも言っています。

一部の渓魚派からすると実に苦々しい存在ブラックバス、
彼らの間でバスを叩く人は賞賛されます。
過去にバスフィッシングを経験し、
渓流釣りに移行した人でさえ「間違った釣りをしてました」、と。
ある渓魚派にとって何故にバスのみが、高らかに害魚と謳われるでしょうか。
まず綺麗な環境に似つかわしく無く、釣れて欲しくない魚・ハヤやウグイ等の場合。
フライマンの中には釣れてしまったハヤを 
触るのも嫌だとティペットから切り捨てる人も居るほどです。
同じ環境に住む生き物であっても、自分に釣れて欲しいヤマメやイワナ以外は邪魔者、
保護うんぬんの対象にはほど遠い彼らです。
そんな人達にとって邪魔では有っても、初めから居たハヤやウグイはしょうがない。
しかしフィッシュイーターでもある外来のバスは、
彼らの為にならない{害}の最たる物なのでしょう。

もう一つの理由が「違法放流により住み着いた魚を釣るのは違法」、です。
どこぞの釣具メーカーが・釣具店が、売上を伸ばさんが為にバスを放った。
昔からまことしやかに聞きますが、明らかになった事はほとんど有りません。
あっても何故か放流業者のみ、肝心の依頼主が分からない・・・不思議です。
この件は不明快な事例ばかりですので、これ以上の掘り下げは止めておきます。

また個人レベルの違法放流、これは確かに多いと思います。
特別な思慮もなく「うちの近くでも釣れたら」、こんな気軽な思いからの放流も有った事でしょう。
だから「バスを他の水系に移す事は違法です、在来種の絶滅する恐れが有ります」、
法規制の下呼びかけが本格的になりました。
しかし残念な事に過去の例を見れば明らか、ほとんど効力を発揮してなく思います。
逆にバスの繁殖法を教えていたり・愉快犯を煽っていたり、
逆効果になっているのではと思うのは私だけでしょうか。
騒げば騒ぐほど模倣犯が増えたりしないか、こんな心配もします。

それと私自身どうしても解せない事があります、琵琶湖に次いでバスが繁殖した霞ヶ浦です。
何故かバスと時を同じくして、琵琶湖の固有種であるワタカやハスが確認されました。
霞ヶ浦水系水系に放流された、琵琶湖産のコアユに混じってこれらが繁殖したらしい・・・
それではバスは?それは・・・違法放流じゃあ・・・???です。
また新設されるダム湖で何時も問題になるのは、
満水後2・3年で決まって同サイズの綺麗なバスが関係者の怒りを買う事。
当該漁協関係者は違法放流を嘆き、
撲滅を試みますが何処も何時の間にかトーンダウンです。
漁業補償の為に放流される、コイやフナ等には混じってなかったのでしょうか・・・

こう見てみると不明快な事も多いバスの拡散理由、違法な事由ばかりが原因とは思えません。
しかし疑いのある以上バスフィッシングは止めよう、こう唱える一部の渓魚派の声も耳にします。
多くのバサーは居る魚で楽しんでるだけ、ほとんどが罪の意識など有りません。
ましてや河口湖の様にバスを魚種認定し、積極的に放流・そして入漁料で潤う、
ここの例は良いのでしょうか。

「真の功罪はバスその物の価値が決める事」、
今日バスフィッシングの隆盛を見るにつければ「功」なのかもです。
ゲーム&スポーツフィッシングを定着させ、それにより目覚しくタックルも進化しましたし。
またある地域では未だ「罪」であるバス、利害関係を含むとは思えこれもまた事実です。
ただ、ブラックバスの拡散は、誰にも・どんな方法をもっても止められない、
これが現実だと思います。

我が国においてはバスに限らず、他の動植物でも似た様な例が沢山有ります。
ハブの撲滅を目論んで放たれたマングースが、ヤンバルクイナを脅かす・・・ごく一例ですが。

日本の古来種以外全て我が国から消え失せる事、
それが本来の自然な姿なのは間違いないと思います。
しかしその上で、我々が生物の繁殖をコントロールする術を身に付けた故、
今日のような生態系に変化させてしまった。
時の流れを自然とするなら、これもまた自然と考えられないでしょうか。

どうやら「自然」と言う言葉は、永遠に確固たる定義を得られそうも無い気がします。
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