(初出「ドストエーフスキイ広場」23号、2014

 

第一五回国際ドストエフスキー・シンポジュウム(二〇一三・七・八−七・一四 モスクワ)参加記 ―エピソード、うら話をあみだ籤式に交えて−

 

一九七一年九月、まだ東側、西側という概念で、ソ連・東欧諸国とアメリカ・西欧諸国の陣営が分断されていた時代に、北米ドストエフスキー協会(NADS)のイニシアチブにより、「国際ドストエフスキー学会」(IDS)が結成され、第一回国際ドストエフスキー・シンポジュウムがドイツのバッド・エムスで開かれた。それから四三年目、数えて一五回目のシンポジュウムがようやく作家の母国・生誕の地モスクワで開催される運びとなった。会期は二〇一三年七月八日〜一四日、会場はタガンカ劇場近くののソルジェニツイン記念「在外ロシア会館」。

 

ソ連時代の一九六三年にバフチンのドストエフスキー論が再刊され、一九七二年に科学アカデミー版三〇巻全集刊行がスタートを切った時期、いまだ公式イデオロギーの社会主義リアリズム論が表層を覆っていたとはいえ、底流には確実に学術的な文学研究の伝統を踏まえたドストエフスキー研究の台頭があった。西側の研究者たちはこの動きに呼応し、連帯する形で、七〇年代〜八〇年代にかけてウオルフガング(オーストリア)、コペンハーゲン(デンマーク)、ベルガモ(イタリア)、ノルマンジー(フランス)、ノッチンガム(イギリス)でシンポジュウムを継続的に組織し、ソ連からの研究者をゲストとして、招聘していた。しかし経済的な自立性を奪われ、官僚のコントロール下にあった当時のロシアの研究者は、外貨の持ち出しはおろか、出発間際まで自分を含めて誰が参加できるかわからないという閉鎖的な状況に苦しんでいた。

思い出されるのは、一九八六年のノッチンガムのシンポジュウムの際に、私がペテルブルグ、モスクワ経由でイギリスに向かった時のこと、著名なドストエフスキー研究者でアカデミー版「全集」編集の指導者であったフリードレンデル氏が参加にあたって置かれた状況である。氏はモスクワの空港でのチェックインの段階にいたってようやく、複数の研究者が招聘されたはずのソ連の仲間の中で行けるのは自分ひとりだとわかり、当てにしていたロンドンの空港での関係者の出迎えもなく、また支給された外貨に見合う宿探しも闇雲で、すでにご老体であったフリードレンデル氏はロンドンでの一泊、翌日のバス旅の手配と、安旅行に経験を積んだ若い私の行動力に頼らざるをえなくなった。はからずも道中での心細い彼のお手伝いができて、大いに感謝された覚えがある。

一九九一年一二月二五日にゴルバチョフ退陣。ソ連が崩壊した後の一九九二年にノルウェー・オスロで第八回シンポジュウムが開かれた。この時を境に状況は一転し、トゥニマーノフ、サラースキナ、ヴォルギン、ザハーロフ、ドゥートキンといった、その後のシンポジュウムの常連となり、二〇〇〇年の千葉大国際研究集会にもそろって来日した研究者たちが、鎖かから解き放たれたように、参加するようになった。曾孫のドミトリー・ドストエフスキーが現れたのもこの時であった。

ただロシアの研究者たちは、体制崩壊に伴って、出入国の自由とは引き換えに、経済的な裏付けは失い、旅費、宿泊滞在費は主催者(IDS)を通じての、西側スポンサーや基金の支援に頼らざるをえなかった。支援者としてアメリカのヘッジファンドのジョージ・ソロスの名前がロシア人研究者の間で取沙汰されていたのもこの頃である。西側の研究者たちは、作家本国の中堅研究者たちの参加によって、シンポジュウムが活性化したことを歓迎した。一九九五年のガミング(オーストリア)、九八年のニューヨークと、ロシアからの参加者数はかってなく増えた。ロシア・ドストエフスキー協会も結成され、初代会長にモスクワ大学のイーゴリ・ヴォルギン氏が就いた。

問題は一九九八年のニューヨークでの総会で次期開催地を決める際に起きた。ヴォルギン氏は二〇〇一年の次期開催地としてモスクワを提案したのである。この提案は国内の仲間の研究者の合意をえたものではなく、彼の独断だったらしい。ヴォルギン氏は政治力、行動力のあるジャーナリスト肌の研究者で、当時の政界の大物、ルシコフ・モスクワ市長にも近く、政治経済の混乱期に、政治力を生かして資金調達も可能と考えたのではないかと思われる。ことごとに「予測不可能」という言葉が発せられていた当時のロシアの地道で地味な研究者たちにとっては、あまりに唐突な提案であったらしく、総会の場で、仲間から口々に反対や疑問の声が発せられた。ヴォルギン氏は大いに面目をつぶされたわけである。

この時の本命は新会長に選ばれたドイツのゲーリック氏の地元バーデン・バーデンであったが、ほかに、副会長のキライ氏のブタペストと日本の私の千葉が立候補した。ブタペストはやはり社会主義体制崩壊後の混乱で、財政基盤の見通しが危ぶまれたし、千葉の場合、ヴォルギン氏に劣らない私の独断専行の提案ではあったが、当時すでに大学の施設や事務方の支援体制、成田国際空港からの地の利など勘案して、文部省管轄の日本学術振興会の国際会議助成金と国際交流基金の援助が得られれば可能だと私は確信をもっていたのである。ただし国際会議助成金の場合、施行のせいぜい一年半前ぐらいにしか、採否は判明せず、三年後の確たる見通しは無理だった。なぜ無理を承知で私が提案したかについては、「広場」一九号(二〇一〇)に日本からの参加者の歴史に触れて書いた。

要するに、ロシアからの参加者が増えたのと同じ一九九五年(オーストリア・ガミング)と一九九八年(ニューヨーク)の時、日本からの参加が七名、九名と急増し、ガミングの時、理由もわからず、私は複数いる副会長の一人にされてしまったのであった。IDSの場合、副会長の肩書きが名誉職であるわけがなく、他の副会長の実績から推して、これは日本での開催企画を期待するサインと私には受けとれた。大勢参加するようになった日本の研究者の面子のために、この時私はあえてドン・キホーテ的な行動に出たのであった。

ニューヨークの後の次期開催地はバーデン・バーデンと決まった。そのあと、駄目元で私が試みた国際会議助成金の申請が幸運にも採用され、二〇〇〇年ミレニアムのIDSシンポ番外編として、小規模ながら国際研究集会が千葉大で開催された。IDS新会長のゲーリック氏やIDS創設者のナトワ氏(アメリカ)も参加して、オーソライズしてくれたことの詳細は、「広場」一九号の拙文にゆずる。[i]

ところでニューヨークの後、ロシア人研究者の間では、ヴォルギン氏との対立が深まり、彼は欠席裁判で、ロシア・ドストエフスキー協会会長の座を追われる。彼は同じくジャーナリスト肌のサラースキナ氏とも、仕事の評価をめぐって対立し、氏は著名な文化人たちを呼びかけ人とする自前のドストエフスキー・フォンドを設立して、独自の活動を始める。テーマをドストエフスキーに限定しないロシア文化の国際会議をこれまでに何回か開いて、手腕を発揮している。

二〇〇年の千葉の会議の時、ロシアから一六名の研究者が参加したなかで、国際交流基金から大方には航空券、宿泊費を保証したが、裕福と見たヴォルギン氏には他の外国人参加者同様に、宿泊費のみ保証、航空券は自前という条件で招待した。研究者の間の対立を聞いていた私は、ヴォルギン氏の参加を危うんだが、彼は深夜にファックスを送ってきて、参加を申し込んだ。後日聞いたところによると、千葉で彼等の間でかなりの激論があったらしい。そして成田からの帰国の機内で和解した、日本はわれらを和解させてくれたという話を、別のロシア人研究者から聞かされた。おそらくこのあたりから、今回のモスクワ・シンポジュームにつながる芽が出てきたのではないか、と私は見ている。

ニューヨークのシンポから一五年、バーデン・バーデン、ジュネーブ、ブタペスト、ナポリを経て、二〇一三年のモスクワに至るわけだが、ナポリでの総会の際、モスクワかペテルブルグか、あるいは両方にまたがって開催するかも議論になった。結局、モスクワに集約され、今回、ペテルブルグの研究者たちも、外国人研究者同様に、ゲストのような趣で参加していた。モスクワ・シンポジュウムはサラースキナ、ヴォルギン、ザハーロフのトロイカの協力態勢で準備されたのではないかと推測される。会場がソルジェニツイン記念「在外ロシア会館」ということは、サラースキナの線を置いて考えられない。彼女はドストエフスキーのほかにソルジェニツインに関するすぐれた仕事を多くしていて、ソルジェニツイン国際会議の中心的な組織者である。二〇〇八年一二月の国際会議に私は招待されて、「ソルジェニツインの語りのスタイルとドストエフスキーのポエチカ」という報告をした。[ii] この時の会場はロシア国立図書館(旧称レーニン図書館)裏手のパシュコフ館で、今回のシンポジュームではレセプション会場に使われた。あの時のソルジェニツイン夫人ナターリヤさんの話で、夫がソビエト体制により祖国を追われたロシア人のために、生活費もふくめて援助を惜しまなかったと聞いていた私は、その活動の拠点としての「在外ロシア人会館」を感慨深く眺めた。

このところの国際シンポジュームの定型となっているスタイル−旅費、宿泊費は参加者負担、会議中の昼食、エックスカーションなどのプログラム、レセプションは主催者負担というのがモスクワでも踏襲された。こうした費用の調達には、サラースキナ、ヴォルギン、ザハーロフのトロイカの協力があったと思われる。

ザハーロフ氏は本拠地がペテルブルグより北のペトロパヴロフスクが本拠地で、大学の出版局からスキャナーを活用した雑誌掲載版の新たな「ドストエフスキー全集」の刊行を主導して評価されている研究者である。そしていま彼は同時にモスクワで、研究者支援の学術フォンドの副所長の要職にもあるらしい。その彼が今回、IDS新会長に選ばれた。

一九八〇年以来の私のような古参の参加者の目で見て、今回痛感したのは、明らかな時代の推移と世代の交代である。一九七一年のIDS創立メンバーの中心的存在であったアメリカのナトワ女史、テラス氏、イタリアのカウチシヴィリ女史、ハンガリーのキライ氏はすでに亡く、やはり創設当時からの有力メンバーであった、イギリスのディアーン・トンプソン夫人とピース氏は、シンポの前後に相次いで亡くなった。二人の名前と報告テーゼはプログラムにも記載されていて、前者はすでに黒枠づけであったが、後者は欠席で、訃報を知らされたのはごく最近、昨年一二月のことであった。前回のナポリ・シンポのあと、ほかに他界したのがギューラ・シチェンコフ(ロシアの研究者を結集した『ドストエフスキー辞典』の編集者で、信望厚い八〇歳近い長老格の研究者)とナターリヤ・ジヴォルーポワである。ナターリヤ・ジヴォルーポワはニージニイ・ノヴゴロド言語大学の研究者で、私にとっては、一九九三年五月にスターラヤ・ルッサで出会って以来、研究者としての交流にとどまらず、大学間交流、家族ぐるみの付き合いと、多面的な友情関係のパートナーだった。彼女は二〇一二年二月に六〇歳そこそこで、ガンで急逝した。誰からも親しまれ愛された女性で、チェーホフ研究者でもあった彼女には親しかった日本人研究者として、木村敦夫氏、中本信幸氏がいる。

モスクワの会議では四日目の総会の場で、左記三人の追悼がおこなわれた。シチェンコフ氏については、夫人でやはり研究者のリュドミーラ・シチェンコワ、トンプソン夫人いついては、IDS会長のデボラ・マルテンセン、ナターリヤ・ジヴォルーポワについては、ニージニイ・ノヴゴロド国立大学での彼女の先輩で、コロムナ教育大学のウラジ−ミル・ヴィクトロヴィチがスピーチした。ヴィクトロヴィチは二〇〇〇年の千葉での国際会議の際、木村敦夫氏が撮影してくれたCDアルバム(これを私は今回、かっての千葉の参加者たちに、思い出の品として、ダビングしてプレゼントした)からの、東京の街角でのナターシャのスナップ写真をスライドで写しながら彼女の人柄や業績を語った。

今回の国際会議のプログラムのうち、ハイライトというべきものは、六日目のダラヴォーエへの一日旅行だった。このプログラムを主催し、陣頭指揮をしたのがヴィクトロヴィチだった。ダラヴォーエは父親ミハイル・ドストエフスキーの領地で、作家のフョードルが一〇歳から一五歳の多感な少年期にロシアの自然と親しんだ唯一の場所であり、モスクワから一六〇キロほどのザライスク市から、一二キロほど行った村である。ヴィクトロヴィチの勤めるコロムナ教育大学はもう少しモスクワ寄りのコロムナ市にあり、彼はドストエフスキー研究者として、ザライスクの郷土博物館と協力しながら、ドストエフスキー家の領地屋敷の復元プランの作成作業に当たっている。領地ではフョードルが一一歳の頃(一八三二年)に一度火事で屋敷は焼け、父親が一八三九年に亡くなった後は弟や妹の所有に移り、作家が少年時代に過ごした屋敷は様変わりしてしまった。ヴィクトロヴィチは学生を動員して、現在は消滅して空地となっている土地の地層調査から始めて、発掘品から時代と状況の特定をおこない、フョードルの少年時代の屋敷のプランの復元を目指している。

この屋敷の復元プランといえば、もう一人独自に実現を夢見ている人物がいる。それはタチャーナ・ビリュコワという人で、亀山郁夫の『ドストエフスキイ父殺しの文学』の冒頭部分に、ダラヴォーエを訪れた著者の案内役として出てくる女性である。彼女はソ連時代に版画芸術家としてロシア文学を題材に数多くの作品を残したコンスタンチノフ氏(一九一〇‐一九九七)の妻で、ソ連崩壊直後の一九九二年の夏、私はロシア思想史研究家の御子柴道夫、下里俊行と三人で、初めてザライスク−ダラヴォーエを訪れた時に会っている。この時、コンスタチノフ氏の肝いりで、思わぬ歓待を受けたことを、私は短いエッセイで書いた。[iii] その時、すでに八〇歳を越していた芸術家の妻が三〇歳ぐらいの若い女性で、一〇歳ぐらいの娘が一人いるのに驚いた。夫の死後、タチャーナは旧姓に戻り、いまドストエフスキー家の屋敷の復元プランに情熱を傾けているのである。ところが彼女の描く復元プランは、地質学的な調査までおこなって科学的な復元を目指すヴィクトロヴィチとは大きく違っていて、彼はビリュコワの熱意は買いながらも、その性急なアマチュアリズムを厳しく批判している。

このことがわかったのは、ダラヴォーエで私を待ち構えてプレゼントしてくれたタチャーナの美麗本『ダラヴォーエ−ドストエフスキー家の領地、復元 歴史的再現』と、ヴィクトロヴィチが訪問者全員にプレゼントしてくれた『ダラヴォーエ夏季研究集会―二〇一一年八月二六−二八、学術会議資料』読んでのことであった。ヴィクトロヴィチは後者の論集でビリュコワの著書を書評していて、彼女の復元プランを批判しているのである。

ビリュコワの著書を読むと、彼女はコロムナの生まれで、郷土愛、しかも「ロシア地主領地文化」とでもいうべきユートピア的世界にあこがれを持っているらしい。作家フョードルにかかわるダラヴォーエは少年時代、一八三二年から三六年、ないし三九年(父の死)までで、その後は妹のヴェーラ・イワノヴナの所有になり、増改築がなされたので、元型は変形している。ヴィクトロヴィチはあくまで作家フョードルの少年期の領地屋敷の復元を目指すのに対し、ビリュコワはその枠にこだわらず、妹ヴェーラの所有の時代をもふくめて、プーシキンの系譜に連なる一九世紀ロシアの貴族の巣としての領地にダラヴォーエを位置づけたいという思いにうながされているらしい。ビリュコワは自著を二冊持参してきて、一冊を私に、一冊を亀山郁夫氏に渡して欲しいと頼んだ。ただ私はこのところのいきさつからして、この依頼は望月哲男氏に託した。

私は二〇〇六年八月の第一回ダラヴォーエ夏季研究集会に参加して、一四年ぶりにビリュコワと再会したのもその時であったが、その時撮った写真を私は会ホームページに公開していて、現地の情景はいまもほとんど変わらない。[iv] 

二〇〇六年の集会の時、開発業者から環境を守るべき緊急課題として論議されていた保護地域指定が実現されて、環境の保全が保証されるようになったことは喜ばしい。ほかに、道路が舗装され、バスでも現地に乗り入れられるようになって便利になった反面、モノガロヴォの高台のバス停から、かって下って行った時のあの鄙びた田舎道の趣が失われたのは惜しい。当日はホームページのアルバムのような静かな環境ではなかった。草地では音楽が鳴り響き、ロシア民族衣装での地元の女性たちの舞踊があり、ドストエフスキー兄弟がインデアン遊びをしたとされる場所には、それらしい趣向がこらされていたり、要所々々にはヴィクトロヴィチのコロムナ教育大学の学生が配置されていて、案内を買って出るなど、なかなか賑やかであった。草地の乾草を小袋に詰めたお土産が印象的だった。

この一日旅行での私にとっての収穫は、夕方、モスクワへの帰途、ザライスクの「預言者ヨハネ大聖堂」で母親マリアの棺に対面したことである。父親の墓の所在については、ロシアのソ連時代では無神論の影響で、また西側では俗流フロイド主義的な「父殺し」のイメージで、ほとんど顧みられなかつたといってよい。一九九〇年代後半からロシア正教の復興もあり、ソ連時代に荒廃させられ、消滅させられていた隣村モノガロヴォの「聖霊寺院」に父親の仮の墓が建てられた。二〇〇六年研究集会の時、その墓前で祈祷式もおこなわれた。私がその話をドストエーフスキイの会でした後で、会員の熊谷さんから、母親の墓はどうなっているのかと質問された。その頃、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが僧院に入ったきっかけは母親の墓探しであったというデテールに彼の指摘で気づかされていて、この質問はゆるがせにできないと、私は思った。年譜で調べて、モスクワのラザレエフ墓地に埋葬されたという事実だけは確認できたが、それ以上のことはわからなかった。

ネット検索の資料によると、この墓地はスターリン時代の一九三四年から三七年にかけて、平坦化され、ブルドーザーをかけて消滅させられた。現在はモスクワ第三環状道路の下になっているらしい。ザライスク大聖堂の棺の傍らの説明を読んでわかったことは、モスクワの墓地閉鎖後、母親の遺骸は棺とともにモスクワ大学人類学研究所・博物館に移管され、最近までそこに保存されていた。現在、一時的にこの大聖堂に移されているのであって、近い将来、夫ミハイルの正式の墓が建立され次第、その傍らに埋葬される予定とのことである。

さて本題とでもいうべき、シンポジュウム自体の内容であるが、七月八日の全体会議のほか、七月九日〜一二日までは午前、午後を通じて、四つの時間帯で、三つのセクションに分かれ、各セクション三本ずつの発表がおこなわれた。報告は合計で一三〇本前後であったろうか(参加者登録は一四一)。

今回のシンポジュウムの表題は、「ドストエフスキーとジャーナリズム」であったが、直接にこれにかかわる報告は必ずしも多くはなかった。例えばザハーロフの論題「ドストエフスキーの規範(кодекс)−作家の創作理念としてのジャーナリズム」のような、作家の創作のジャーナリズム的要素、あるいは、雑誌編集者としての、または『作家の日記』など時評的記事・論文の作者としての、論争者としてのドストエフスキーに触れる報告もあったが、多くは作品論に属する個別テーマ、比較文学的テーマだった。これはシンポジュウム参加の呼びかけでも許容されているので、逸脱した現象とはいえない。この学会では多くのスペクトルが求められているのである。

「ドストエフスキーとジャーナリズム」というテーマでは、現代のジャーナリズムとドストエフスキーとの関係も想定され、私自身の報告はそのようなものであったが、もう一本、イタリアの研究者ステファノ・アロエの「大審問官と<ベルルスコーニ時代>のイタリアの政治倫理の生命」という興味深い報告があった。元大統領でいまも話題のつきないベルルスコーニは、ジャーナリズムで敵味方の両陣営からイワンの大審問官の現代版と目され、「奇跡、秘密、権威」でもって民衆の「弱者の自由」(左翼陣営の)の重みを除去してやった政治家と評されていて、イタリアではこの政治家をめぐって、現代の政治倫理の問題が議論の的となっているとのことである。彼は一九八〇年、実業家でテレビ局のオーナーに成りたてのころ、イタリア語訳で出たドストエフスキーの創作ノートに興味深い序文を書いていて、そこでドストエフスキーの現代的意義を強調し、共感を寄せているとのことである。その後、このロシアの作家を引用しての目だった発言はないものの、この序文の思想が政治家ベルルスコーニと無関係ではないというのである。

私自身は「過去数十年のポストモダニズムの動向におけるドストエフスキー作家像の解釈の問題」という題目でエントリイして報告したが、実際の内容は、「広場」二二号(二〇一三)に書いた「商品としてのドストエフスキー」の前半「評言の歴史」を除いた後半、すなわち近年のロシアと日本のジャーナリズムを舞台とした俗流フロイド主義者による恣意的なテクスト解釈の批判だった。私のテクストは、二〇分の枠内では報告できなかった分も付け加えて、目下、ロシアで編集中の「ドストエフスキーとジャーナリズム」と題するIDS編集シリーズ第四号で遠からず公刊される予定である。(本書は20146月現在既刊 −筆者)

日本からの参加者はほかに、清水孝純、望月哲男、木寺律子の三人で、清水さんは「話題からフィクションへ―『作家の日記』における自殺のポエティクス」、望月さんは「ドストエフスキーにおけるジェスイット主義:イメージ、フィクション、典拠」、木寺さんは「『作家の日記』のコンテクストにおける『おとなしい女』と『おかしな人間の夢』」という題目で報告した。

七月一二日にはセクションでの報告終了後、「円卓会議」のスタイルで、「ドストエフスキー研究の現代的傾向」と題して、各国の参加者が任意で数分ずつ報告した。私は商業主義的な安手のドストエフスキー論が市場で喧伝される一方、質の高い地道な研究は日陰に置かれている日本の事情を手短に報告した。

次回、二〇一六年の国際シンポジュウムの開催地はスペインのグラナダと決まった。なお、望月さんが副会長の一人として決められた。これは、グラナダの次、二〇一九年に日本開催を期待するサインであろうか。日本のジャーナリズム村での「ドストエフスキー・ブーム」とは裏腹に、国際的な研究場への日本参加者が減少しているのが気がかりである。清水さんも私も高齢者で、グラナダへの参加すらもおぼつかない。これからは若い堅実なドストエフスキー研究者の奮起を望むばかりである。

なお各国別の連絡役、国内研究者のコージネーターとして、新たに高橋誠一郎さんにお願いすることになった。高橋さんは一九九五年、オーストリアのガミングで私が副会長の一人にされた時、後任のコージネーターをお願いしたが、当時、科研費をもとに国内研究者をとりまとめていたのが安藤厚氏であっことから、間もなく交代した。その意味で高橋さんは再登場である。

以上、無駄話の多いこの報告を、若い研究者の視野に役立つところもあろうかと思いながら書いた。

 

 

 



[i] 200年千葉大での「国際ドストエフスキー・研究集会」のプログラムは、本会ホームページの「活動の記録」から見ることができる。http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost008.htm

[ii] この報告の内容は同じ題名の論文で、「ドストエフスキー広場」一八号に掲載

[iii] エッセイ「天国への旅」(初出・「江古田文学」<一九九三・一>、『ドストエフスキー・その対話的世界』<成文社・二〇〇二>所収)

[iv]表紙のメニューから入れる。http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost014_htm_htm.htm