「ドストエーフスキイ広場」162007 掲載

 

『ドストエフスキイ『地下室の手記』を読む』

(リチャード・ピース著、池田和彦訳、高橋誠一郎編 /のべる出版/ 2006

                            木下豊房 

 

本書の著者、リチャード・ピース氏は、1980年代から国際ドストエフスキー・シンポジュウムを通じて、私にもなじみのあるイギリスのドストエフスキー研究者であり、2000年に千葉大学で開かれた国際学会「ドストエフスキーの眼でみる21世紀人類の展望」にも参加してくれた国際ドストエフスキー学会(IDS)の重鎮である。編者、高橋誠一郎氏の後書きにもあるように、在外研究でピース氏のプリストル大學に滞在した高橋氏が著者と親交を深める中で、その結実として生まれてきたのが、本書の日本語訳の企画であり、英語版からの翻訳を達成したのが、比較文学研究者の池田和彦氏、また高橋夫人の蔭の助力もあったようにうかがえる。ともあれ、ドストエーフスキイの会の担い手として活躍されてきた両氏の手になる本書の刊行を心から喜ばずにはおれない。

本書の構成は、冒頭に日本の読者へのピース氏のメッセージ、つづいて「序論 ロシアにおける自由の概念」という独立したエッセイ、そして本論、「『地下室の手記』を読む」、付論として、池田和彦氏による力作「日本における『地下室の手記』―初期の紹介とシェストフ論争前後」、最後に高橋氏の「『地下室の現代性』−後書きにかえて」という章立てで作られている。

「序論 ロシアにおける自由の概念」は『地下室の手記』の基本概念である「自由」のロシア的な特性を考察したもので、興味深い論文である。これを序論に持ってきたのは編者の見識である。ピース氏はこの論文でロシア語の「自由」(ヴォーリャ)の二重の意味に注目する。民衆語に根ざすこの言葉は「自由・解放」の意味と同時に、「意思」の意味を持っている。ここに「自由の追求」が「個人の意思の追及」に転移し。「自由と自己中心的な意思の結びつき」に転化する可能性が潜んでいる。この「自由(ヴォーリャ)」の特性は、プーシキン、レールモントフ、ゴーリキイの作品の主人公、民衆の伝説的な英雄、ステンカ・ラージン、プガチョフのイメージにもつながるもので、地下室人に体現される自由と我意の二重性もロシアの文化史的・精神史的文脈に即してこそ正当に理解されるであろう。ラスコリニコフのナポレオン崇拝も、「究極の自由から出発して、究極の専制にいたる」という『悪霊』のシガリョフ主義もこうしたロシア的「自由」のスペクトルと見ることができるのである。「自由(ヴォーリャ)」がこのように否定的、犯罪的要素を含むがゆえに、西欧のように、自由の重心が個人にではなく、社会化に向かい、そこからチェルヌイシェフスキイの「啓蒙化された利己主義」=「理性的エゴイズム」論が出てきたとする指摘には説得力がある。また保守派のスラブ主義の思想でも、「共同性」=「ソボールノスチ」が先行する理由がそこにあり、個人の自由を統制したソ連時代のマルクス主義にもつながっていくという見方は興味深い。

本論「『地下室の手記』を読む」は、「序」、1、「作品の背景」2、「注解」(「第一部注解」、「第二部注解」)、3、「批評史・研究案内」)から成っている。「序」で著者は第一部の構成原理を「クモの巣状の織物」に例え、十一の節があって、それぞれの節には中心的な観念やイメージがあって、議論の糸はほかの結び目とつながりながら、他の節に向かって伸びていく、とする。そして、それぞれの節の十一の主題はこうである。1、悪意 2、意識 3、壁 4、病、苦痛 5、責任と原因 6、すべて美にして崇高なもの 7、利己利益 8、欲望 9、二かける二 10、水晶宮 11、作者対読者

著者の見解によると、地下室人は理性、合理性に反発していながら、「奇妙なことに合理性と論理性をひどく重視していて、理性を打ち負かすのに理性を用いている」 そこで著者はこうした構成原理の機能をあきらかにするために、結び目と各節の織物の相互関係を追っかけていくことになる。それに先立つ「作品の背景」では、「文学的背景」としてレールモントフの『現代の英雄』のペチョーリやツルゲーネフの余計者の形象、ゲルツエンのペシミズムなど、文化史の文脈での位置づけが試みられている。また「論争の背景」として、いうまでもなく、イギリスの功利主義思想とその影響であるチェルヌイシェフスキイの『何をなすべきか』の思想が検討されている。

「第一部注解」の章に入り、十一の節と織物の追跡が始まるのだが、著者の分析方法のこまかさと独自性を評価しながらも、私はその論述には若干の退屈さ、平板さを禁じ得なかった。その理由について考えると、私の見解ではロマン的アイロニストである地下室人の保留と逆説の言説を、合理的、論理的に解きほごそうとする方向に著者の論述が向かっているせいではないかと思われたのである。地下室人は反合理的でありながら論理的である、反理性的でありながら理性的であるという著者の視点に、一つの混乱がありはしないかと感じた。

いささか我田引水で恐縮だが、地下室人の自意識の独我論的な展開は、彼がうそぶくロシアのロマン主義者についての規定からいっても、明らかにロマン的アイロニーのそれであり、その矛盾を、隠れた作者の目がもう一つの作者のアイロニーによって、対話的にあぶり出し暴露していくのが『手記』の対話的叙述の特徴だと、私に思われる。作者と主人公の関係についてのピース氏の無関心は、3の「批評史」の章での、バフチンの過小評価(と私には思われる)にも現れているように思われる。何しろバフチンのドストエフスキー論における最大の功績は、作者と主人公の関係・距離についての問題提起であったと私は思うのである。ピース氏の視点にはこのクッションがないために、地下室人の過激なロマン主義的言辞が、作者の理性的、論理的目によって挑発され、展開されるという作品の二重の構造が見えてこず、主人公の言辞を平面に置いて、その展開の論理的矛盾の追跡に終始しているように思うのである。ともあれ、作品を丁寧に読んだ読者には、一部、二部にわたる章から、いろんな文学史的、思想史的糸が見えてくるのは確かであり、注解としての本来の目的は十分に果たされていることは間違いない。

最後に付論である池田和彦氏の「日本における『地下室の手記』」は一読する価値のある優れた論文である。この作品の日本での翻訳受容の歴史をたどったうえで、この作品を翻案した森田草平の『(みぞれ)』についての詳しい紹介、またシェストフの『悲劇の哲学』の翻訳者阿部六郎の内的転向の問題についての照明など、この論文で私もはじめて貴重な知識をあたえられた。本書公刊の値打ちを高める労作である。

翻訳についても、内容からいって、決して訳しやすいものとは思えないが、ドストエフスキーを知悉した上での危なげない訳業で、安心して読み通すことができた。

このような質の高い研究書が一般の読者に届きにくい出版業界の現況は嘆かわしいものといわざるをえない。心あるドストエフスキー読者には是非一読をお薦めしたい。