「ドストエーフスキイ広場」142005 掲載

 

清水正著『遠藤周作とドストエフスキー

―「沈黙」と「真昼の悪魔」を読む』

          (D文学研究会発行、星雲社刊、二〇〇四年)

木 下 豊 房

                        

 「ドストエフスキイ(エコール)というのは確かにわが国にある」とは、『悪霊』をめぐる「近代文学」座談会での、埴谷雄高の言葉だが、第一次戦後派の埴谷、椎名、武田泰淳などはさしずめそうであるとして、第三の新人では遠藤周作あたりが、その系列に属しはしないかと、私は漠然と考えていた。それを探る意味でも清水正氏の本書を関心をもって読んだ。

 本書は『沈黙』論と『真昼の悪魔』論の二部構成で、主人公の人物像をあたかも注解するごとくに、詳細に論じたものである。その際、清水氏は対比的視点を駆使しながら読み進めていくのだが、その視点に用いられるのは、総じて、ドストエフスキー小説の人物描写の深層にまで透徹せんとする氏の長年の読みの経験であり、さらに、『沈黙』論においては主人公ロドリゴの信仰の実態をあぶりだす上での、旧約の「神」についての氏の観念(信仰?)、そして『真昼の悪魔』論においては、動機無き殺人を描いて有名なカミユの『異邦人』である。

 結論からいえば、私は長編ともいえる本論部分よりもむしろ、あとがき(「あとがきに代えて」)に興味を引かれた。清水氏はまず、「遠藤周作はキリスト者なのか、それとも小説家なのか」、あるいは「キリスト信者であると同時に小説家なのであろうか」という問いかけで、最後の一章を書きおこしているが、まさにこの問こそが、本書の主題であったろうと、私は了解したのである。

 実をいうと、『沈黙』、『真昼の悪魔』論を読み進む間、私は論者の意図を測りかねていた。これは小説の主人公についての人物論であろうか、小説論であろうか、と。

著者は冒頭で、「『沈黙』が小説としてずいぶん完成度の高いすぐれた作品であることを思い知らされた」とのべ、「私は『沈黙』に関する一切の研究を読まずに自分なりの『沈黙』論を書きすすめていくことにする」として、作品解読に、真っ向から無欲に立ち向かうのである。その姿勢は、鑿を片手に彫像を刻まんとする芸術家の姿を思わせるものがあり、一定の角度からの照明のあて方と、その結果浮かびあがる人物像(宣教師ロドリゴ)のイメージには、通常の評論を超えた迫力を感じさせるものがある。原作に近い、あるいはそれを超えるスペースを用いて書き込まれる人物像はもはや「創造的批評」というべきものであり、ドストエフスキーがこのテーマに迫ったら、どのような掘り下げ方をしたであろうかを、十分に想像させ、いわば追体験させるような領域に読者を導く。無論、読者には、この長編評論を読み抜くかなりの根気が要求されるのだが。

 キリスト教禁制の江戸時代、長崎の隠れキリシタンの里に潜入したポルトガル人宣教師ロドリゴが、日本側役人に捕まって、踏絵を強制される。この宣教師にとって、神はキリストとしてしか存在せず、ヨブ記に見られるような、旧約の神ではないことに、この人物の信仰の根底にかかわる問題として、清水氏はくりかえし疑問をなげかける。暗い海中での水磔で殉教した村人や同僚の外人神父に比べても、ロドリゴがいかに卑小な自己を抱え、時には神=キリストの沈黙に懐疑したり、時には、自分の苦難をキリストになぞらえたり、裏切り者キチジロウを嫌悪したりする自分の姿に盲目であることを、著者は執拗に糾弾する。清水氏がキリスト者であるかどうかは、私は知らないが、そこには、論者の存在の重みすらかかっているように思えるのだ。あるいは清水氏に乗り移ったドストエフスキーがいわせる業なのか。

 『真昼の悪魔』論でも、主人公(女医)による『悪霊』や『罪と罰』、『異邦人』の読書体験を下敷きにした犯行の動機、告白の甘さ、浅薄さを、著者はくりかえし批判する。女医がもてあます「空虚感」について、清水氏はこうのべる。「女医の空虚感など現代に生きる人間なら誰だって抱いている感情である。問題は女医の空虚感ではなく、その空虚感を小説の中で相対化しなかった作者の側にある」。

 ここでやはり問題になるのは、清水氏が作者と主人公の距離をどう見ているか、ということだろう。『沈黙』論においは、はじめのうち、ロドリゴの眼と作者の視点の区別、作者の「厳しいアイロニーの眼差し」の指摘があるのだが、主人公の信仰の問題にいたると、論者の批判は熱気をおびる。糾弾するあまりに、論者は主人公に入れ込み過ぎて、作者のモチーフが見えなくなってしまったのではなかろうか、と私には思えたのだが・・・

 佐藤泰正氏のエッセイ『沈黙』(「佐藤泰正著作集」7 翰林書房)を読むにいたって、これは深刻な思想的対立の問題だと感じた。遠藤周作の認識では、日本にキリスト教が土着化していくためには、いかめしい旧約の神やキリストではなく、母性的なキリストの顔が必要だという、明確な「布教意識」を持って筆を執ったという。これが「明らかに一個のイデオローグたることを辞せぬ姿勢」(佐藤泰正)ということになると、信仰の本質を旧約の神に求める清水氏とは、作品のモチーフのレベルでの、いわば「イデオロギー」的な対立にならざるをえないだろう。そうなると、小説論としてはもはや一歩も踏み出しえないことになりはしないか。

 「あとがきに代えて」で、「遠藤周作はキリスト者なのか、それとも小説家なのか」と清水氏があらためて問い直さざるをえなかったのも、論理的必然であったろう。さらに「遠藤周作はキリスト者というより、母親教の信者のように思える」と氏はいう。

佐藤氏が「見事な解釈」として紹介している江藤淳の説によると、この作品には作者独自の母子体験があって、宗教的枠組みを使ってはいるが、信仰問題の解釈には何の意味もなく、「一篇の文学作品として読まれる以外にはない」ということになる。

 はじめに『沈黙』を「ずいぶん完成度の高い優れた作品」と見た清水氏であってみれば、あまり宗教論議に深入りすることなく、小説家としての遠藤周作に焦点を当ててもらいたかった。とはいえ、主人公の内面のメタフォアとしての光や静寂、蝉の声など自然現象との照応関係などの解釈に、目を見開かされ、文学的な感動を受けるる個所は数々あった。

 遠藤周作が「わが国のドストエフスキー(エコール)」の系列であるかどうかという私の問への一義的な答えを本書からえることは出来なかったが、間接的な意味では教えられるところ、刺激を受けるところが多々あった。