「ドストエーフスキイ広場」172008 掲載

                       

芦川進一著「『罪と罰』における復活―ドストエフスキイと聖書」

             (河合文化研究所発行・河合出版刊、二〇〇七年)

                      木 下 豊 房

 

 

私たちは感動的な本と出会ったり、また深く納得させられる話を聴いたときなどには、そこにのべられていることに、まるではじめて触れたのではなく、もともと自分の内部にあって、ただ自分ではうまく言い表せなかったことを、巧みに表現してもらったかのような印象を持つものである。そうした出会いは容易にあるものではない。私は芦川氏のこの『罪と罰』論を読んで、そのような幸せを味わったのである。

 日本の仏教的風土に育った無神論者の私には聖書は鬼門である。文化記号論にかぶれた論者たちによる、知的快楽に過ぎない「謎解き」の道具としての聖書の扱い方には、かねてより抵抗感があった。といって、聖書がドストエフスキー文学のベースとして重要であろうという思いには変わりなかった。芦川氏の本書は私のその惑いを一気に解いてくれたのである。

著者は『罪と罰』への入り口として、『夏象冬記』の作者の西欧批判の意義を解き明かすことから始める。私の若い頃、一九五〇年代後半から七〇年代にかけて、ソ連時代のマルクス主義的なドストエフスキー研究・批評では、『夏象冬記』はひときわ評価が高かった。というのは、それは資本主義文明、ブルジョワ文化の批判の書としてであった。それは芦川氏も指摘しているように、ドストエフスキーの西欧批判がマルクスやボードレールのそれと同時代的に平行する位置にあったことと無縁ではない。しかしマルクス主義的観点からは、この作品で使われている「バビロン」や「黙示録」といった言葉を切り口に、その後に続く作家の創作の展望に分け入ることには無理があった。

ドストエフスキーが異教神のバールやマモンに支配されたロンドンやパリを見た時の黙示録的視点を芦川氏は「聖書的磁場」としてとらえる。そして、それがその後の作家の作品の根底を支配するものと見る。そこから「『夏象冬記』以降のドストエフスキイ文学は優れてキリスト教文学というべきもの」とする著者の基本的立場が出てくるのであるが、それはキリスト教を前提として、その枠組みで作品を切りとり、解釈するといった類のものではない。むしろ本書の真価は、著者の注意深い読みに導かれて、作品の細部が「聖書的磁場」で生命を吹き込まれて立ち上がり、逆に聖書を照らし返すにいたる壮大なドラマを実感させられることにあるといえよう。そして読み終わって、現代の私たちもまさしく『罪と罰』の人物たちと共有する「聖書的磁場」にあることを痛感させられるのである。

『罪と罰』を論じるにあたって、著者は小説には断片的、暗示的にしか描かれていないラスコーリニコフの前史からはじめる。その核心は彼の下宿のおかみザルニーツィナ夫人と今は亡きその娘で彼の婚約者であったナターリヤとの、三者のユートピア的空間(「春の夢」)が、この青年にかつて存在したという事実である。生来、弱いものを見捨てておけない「善きサマリア人」の心をもち、シルレル的理想主義に燃え、プライド高く育てられた青年の夢のような時間は、婚約者の突然の死によって断ち切られた。

ラスコーリニコフの小説の時間はこの時点から始まる。下宿経営の場所を変えたおかみと一緒に新しいアパートの屋根裏部屋に引っ越してきた青年の生活は変わった。ラスコーリニコフがナターリヤと共有した弱者救済の理想主義的な夢想は、婚約者の死により挫折、彼の内部で反転して、「犯罪論」、「ナポレオン理論」に変わっていった。著者は、その変心の底流に一貫した「シルレル的理想主義の熱い血のたぎり」を読みとることによって、主人公を「聖書的磁場」に立たせるのである。このあたりのみごとな推論に読者は引きこまれ、小説のスタート時点でのラスコーリニコフの心境をリアルに思い描くことになろう。この「前史」の叙述は芦川氏の独創であるが、テキストに誠実に寄り添ったところから生まれた推論で、なんら不自然さはなく、以後のラスコーリニコフの内面のドラマの展開を展望する上での重要なスタート台であることを読者は知らされる。

殺人によって、いわば悪魔に身を売ったラスコーリニコフの内面を支配するのが、「唖と聾の霊」であり、「ペテルブルグのパノラマ」であるとすれば、同時に、彼の内面に底流する「シルレル的理想主義の熱い血のたぎり」を察知するのが、予審判事ポルフィーリイであり、「善きサマリア人」の心を直感するのがソーニャである。ポルフィーリイによって投げかけられた「新しきエルサレムを信じるか?」、「神を信じるか?」、「ラザロの復活を信じるか?」という三つの問に対して「信じます」と答えたラスコーリニコフは、いよいよ生涯をかけた「聖書的磁場」を生きはじめることになる。それはとりもなおさず、ソーニャと共に生きる生であった。

「ラザロの復活」を「ドストエフスキイ文学を縦に貫く一本の太い織糸」と見る芦川氏は、父マルメラードフをめぐるソーニャの復活体験を、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの体験(ゾシマ長老の「腐臭」をめぐる)にも匹敵するものとして、スポットを当てる。興味深いのは「腐臭」を発したラザロの復活を思わせるかのように、父の「腐臭」を口にして遺体を墓地に葬ったソーニャが、ラスコーリニコフを訪問した同じ日に、街角で父を見たと語るエピソードである。また著者は殺害された老婆が、ラスコーリニコフの夢の中で、不死身の姿で出現したことに、死者の復活を指摘する。

さらに「ラザロの復活」の章をラスコーリニコフから頼まれてソーニャが読む時、手にした聖書がほかならぬリザベータのものであったことに、リザベータの復活を読みとる。また興味深いのは無神論者のスヴィドリガイロフでさえ、救済の道を閉ざされていないとの読みである。雨をいっぱいにふくんだ潅木の下に死に場所を求めるスヴィドリガイロフにとって、その木は彼の過去のすべての罪業を清める洗礼の水を降り注ぐ「レイン・ツリー」にほかならず、「イワーノヴィチ」という父称(ヨハネの息子の意)を持つ彼に、「父たる洗礼者ヨハネの霊」が訪れたと読み解くのである。スヴィドリガイロフの内面のドラマへのていねいな洞察を踏まえた結論だけに、記号論的な興味をはるかにしのぐ感動的な叙述となっている。

最終章第六章は「ラスコーリニコフ―復活の曙光」と題され、主人公の復活へ向けての「気の遠くなるような」長い旅路が考察される。「シルレル的な理想主義が持つ自己絶対化とヒロイズム」を抜きがたいラスコーリニコフには、「信念更正」の道は容易ではない。彼はシベリアでの終末論的・黙示録的な繊毛虫の夢を通して、はじめて「生ける神の(おそ)ろしさ」に触れる。ラスコーリニコフの聖書との出会とは、この「懼るべきもの」についての「認識と覚醒の深化のプロセス」であろうと著者はのべる。ラスコーリニコフは「懼るべきもの」を前に自己を無と悟り、「ソーニャとイエスが表現する自己無化と自己犠牲の姿勢を受け容れ、ポルフィーリイが言うように、「たとえ(はらわた)を引きちぎられても微笑を浮かべて」迫害者を見つめつつ十字架上に立ち続ける真の戦士の力を得てゆくのであろう」― 著者は主人公の「信念更正」と復活の歩みをこのように予測する。そして最後に彼が出会うのは、悪魔と対決する「荒野の問答」のイエスであろうと想定する。

ラスコーリニコフの抱えた問題が実は悪魔を前にしてのイエスの問題であったことを、芦川氏は説得力をもって語る。このあたりは大変熱のこもった叙述で、本書の核心をなし、『カラマーゾフの兄弟』までを的確に射程におさめた論述である。

「聖書的磁場」においてラスコーリニコフをはじめとする人物達の運命を丹念にたどってきた読者は、この一冊を読了して、聖書の世界が「文学的磁場」によって照り返され、リアリティをもって見事に息づいていることに感動させられるにちがいない。