「ドストエーフスキイ広場」212012 掲載

 

芦川進一 著 『ゴルゴタへの道 ―ドストエフスキイと十人の日本人』

(新教出版社 二〇一一年)

 

                         木 下 豊 房 

 

私が若い頃、左翼学生運動の最中であったか、幾度か耳にして記憶に残っている言葉がある。それは「思想、あるいは観念が人間を捕らえた時、ひとつの情熱と化す」というフレーズである。その後、ロシア文学に親しむようになって、プーシキンの『スペードの女王』、ゴーゴリの『外套』や『狂人日記』、レールモントフの『現代の英雄』の主人公たちの描かれ方に触れるにつけ、私はそのことを実感し、ロシア文学のリアリズムの本質をそこに見る思いをしてきた。いうまでもなく、文学史的にも、ドストエフスキーはこの流れの頂点に位置する作家である。先人の優れた批評家や作家、研究者もそれぞれの言葉で、おなじことを語ってきた。

 小林秀雄は昭和八年のエッセイ「『未成年』の独創性について」でこうのべている。「彼(ドストエフスキー)程人間と思想との問題に深く突き入った作家は、彼以前にもなかつたし、彼以後にもないという点が大切なのだ。人間達が思想によって生き死にする有様を、彼程明瞭に描いた作家はいない。人間は思想に捉へられた時に初めて真に具体的に生き、思想は人間に捉へられた時に真の現実的な姿を現すといふことを彼程大胆率直に信じた小説家はないのである。どの場面をとり上げてももいゝ、諸人物は思想のやうに普遍化されて生き、思想は肉体のやうに個別化されて生きてゐる」。また椎名麟三は小説修行中の昭和一七年、「ドストエフスキーの作品構成についての瞥見」というエッセイで、「ドストエフスキー的人物とは一つの観念に憑かれている人物というより、一つの観念の生命がその人物の生命となっているところの人物なのである」とのべた。さらにM・バフチンによれば、ドストエフスキーのすべての主要主人公は「未解決の思想」を抱え、その解決にこそ「彼らの真の生活と独自の未完成性のすべてが含まれている」

 これら先人達の指摘を捉えなおして、私はドストエフスキーの小説の特徴を、「人間の情熱、あるいは生命と化した思想のドラマ」というふうに、特徴づけたい。その際、これを「観念のロボット」、「思想の図式化」というふうに単純化して捉える向きには、生身の人間にとって、観念や思想が何たるや、理解できていないと、釘を刺しておきたい。今回、本書を評するにあたり、あらためてこの視点を踏まえることは重要ではないかと思う。

 本書は、副題にあるように、芦川氏がドストエフスキーと思想上、精神上、共鳴関係を見出した日本人十人について論じたもので、すでに雑誌に発表した第一部と、そこで論じつくせなかった問題を深める傍ら、さらに派生したテーマを考究した第二部から構成されている。全体を通じての大きな主題は何か? 奇しくも一八六二年という同じ年に西欧に旅立ち、ロンドンをはじめとするヨーロッパ近代の社会事情を目撃したドストエフスキーと福沢諭吉の対比から出てくる問題である。帰国して、前者はその見聞記『夏象冬記』を書き、一八八六年に『罪と罰』を発表した。片や後者は同じ年に『西洋事情』を発表した。芦川氏はこの事実にくりかえし象徴的な意味を見出している。西欧近代の大都会、ロンドンとパリで、バアルやマモンといった「異教神」への崇拝、いいかえれば金銭に対する物神崇拝の思想が支配する社会の人間の生き様に批判的な目を向けたロシアの作家は、その観念がすでにロシアをも侵食しはじめた一八六〇年代、烈しい嫌悪感、拒否感にさいなまれながらもその誘惑に抗いがたく身をゆだねて、情熱化した観念の動体として自己貫徹せざるをえない青年・ラスコリニコフを描いた。他方、一身独立、一国独立の思想を説いた日本の思想家は、文明開化の名の下に、物質文明優先の思想が、日本民族という肉体を通して、情熱化し、自己貫徹するにいたる動因を作った。「大審問官・福沢」はいまや日本の紙幣の最高位に就き、「「銭金の支配する社会」のマモン神として君臨するに到った。しかしドストエフスキイが訴えたのは、このマモンとバアルへの「何世紀にもわたる精神的抵抗と否定」だったのである」(1718、以下カッコ内数字は引用頁)

本書の大きな主題はここにある。

 ラスコリニコフの情熱と化した権力思想・ナポレオン思想の自己貫徹と破産を受けて、その克服と再生へと誘うイデー、すなわちソーニャによって体現されるこのイデーの考察こそが、本書の中心に据えられている主題である。そして、このソーニャのイデーとは、芦川氏にとって、実にキリストのイデーにほかならず、キリスト像はソーニャとキリストの出会いを通し、ソーニャ像を通して描出されている。すなわち、ドストエフスキーがその創作を通して描き出そうとしたキリスト像の極北は、ソーニャ像を通して浮かび上がる十字架上のキリストであるというのが、芦川氏の洞察である。そこで、小林秀雄が河上徹太郎との対談で、『白痴』を論じても「トルソになって「頭」ができない」、「頭」はすでに『罪と罰』にあるとのべたことの意味を、「ソーニャ像」の完成に見ていることは、興味深いし、うなづける。

 「ソーニャ像」=「キリスト像」を本書の中心的な主題の山顛とするならば、芦川氏の考察の裾野は二手に分かれる。一つは、福沢諭吉以降の日本近代国家の富国強兵、金銭・権力崇拝思想の帰趨としての太平洋戦争敗戦、さらにその延長上、より身近には、東日本大震災、原発事故にいたる黙示録的な運命の日本民族の歴史に並行して、はたして日本には過去に、「ソーニャ像」=「キリスト像」を模索する自前の思想的営為はなかったのか、という問いである。

この考察は第二部第一章「「自己の永遠の死」から「イエス像の構成」へ」でなされているが、ある意味でこの章にこそ、本書の真骨頂があるといえよう。その論脈は、西田幾太郎が『カラマーゾフの兄弟』での大審問官へのキリストへの接吻に見た「内在的超越のキリスト」像から、西田の弟子で宗教学者の小出次雄によって展開される「ユダ的人間論」を踏まえた「キリスト像」の構成である。本書の表題ともなっている「ゴルゴタ」はキリスト磔刑の場であるが、そこでの出来事は、キリストの一方的な受難ではなく、小出によれば「イエスと我々ユダ的人間の二重の死、相互扼殺の場」と意味づけられる。それは聖書におけるユダのキリストへの裏切りの接吻の意味が、『カラマーゾフの兄弟』では大審問官へのキリストからの接吻によって裏返しに切り返される場面に対応する。ゴルゴタでの「相互扼殺」とはレトリカルな表現だと思われるが、その意味するところは、キリストの「無条件の愛」、神の「超絶的な愛」にほかならない。小林秀雄の目も大審問官へのキリストの接吻に、同様の意味を鋭く見出していたことを、芦川氏は指摘している。

 中心的な主題・「ソーニャ像」=「キリスト像」の考察のもう一つの裾野は、第二部第二章「「イエス像の構成」から「ソーニャ像の構成」へ」にあり、使徒が残したどの福音書に即してソーニャ像はよりよく理解されるかの問題である。芦川氏は聖書学者・荒井献の研究に基づいて、マルコ伝で描かれたイエスとその死、復活をめぐるマグダラのマリヤを始めとする女弟子たちの信頼と従を中心にした関係こそ、「ソーニャの愛と信[]の生を核にし、『罪と罰』における死と復活のテーマを描くドストエフスキイの筆とパラレルをなす」(174)と指摘する。荒井献の分析によるところの、マルコ伝で描かれたキリスト像こそ、ドストエフスキーが捉えようとした「ユダ的人間の肯定と否定、その矛盾の全てを包みこんで愛し憐れみ、そして赦し受け容れるイエス像」であり、西田幾太郎の「内在的超越のキリスト」、小出次雄の「十字架の逆説」、「ゴルゴタの論理」、またゴルゴタへの道にあるイエスに「無条件な美しさ」を見た小林秀雄の目と重なり合う、というのである。

 ソーニャはこのようなキリスト像のイデーの忠実な映し手であり、彼女の信仰の堅固さはこのイデーが情熱化したものにほかならない。そのイデーとは「一人ゴルゴタ丘の十字架に上ったイエスに倣っての共苦、「全人類の全ての苦悩」に心を開く(リュボービ)」(181)であり、ラスコーリニコフの甦りから『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老、アリョーシャに、さらにはイワンにまで受け継がれていく「絶対「肯定」の炎の系譜」に具象化されていくことになる。

芦川氏はラスコーリニコフの復活を描くドストエフスキーの手法について、「「天上のこと」を「地上」に映し出す独自のリアリズム」(190)といい、その特徴と魅力を、「一つのモナドが全宇宙と存在を映し象徴するように、主人公の魂の死と復活のドラマがそのまま、人間と文明の死と復活の運命を担い展開するところに」(190)見ている。

これはドストエフスキーのポエチカ(詩学=創作方法)、つまりそのリアリズムの本質に触れる表現であって、先に紹介した諸家の言葉に即しても、また一個人や民族の情熱と化したイデー(観念・思想)のドラマという、私自身がドストエフスキーに感じるリアリズムの感覚に照らしても、共感するところである。前著書『「罪と罰」における復活―ドストエフスキイと聖書』以来、聖書を磁場としてドストエフスキーを読み解く芦川氏の試みはさらなる深まりを見せている。そしてこれは、ひるがえって、ドストエフスキーを磁場として聖書を読み解くという、対称的な試みになっているところがユニークであり、読者に重層的な感動を与えるゆえんである。

芦川氏が本書で「聖書的磁場」としてとり上げているのは、新約聖書、つまり福音書の世界である。ドストエフスキーが晩年回想して、幼時、子供向けの「聖書」読本で、忘れがたい印象を受けたと感慨深くのべている旧約の「ヨブ記」、『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老に子供の時の記憶として詳しく紹介している旧約のこの篇は、さしあたり、視野に入っていない。論及された十人の日本人には、道元、親鸞、芭蕉も入っているが、これらの仏教的世界の人物の宗教感覚にも通底させるためには、旧約の「磁場」も欠かせないのではないだろうか。ヨブ=キリストのコンテクスト如何、また、ゾシマの自然感覚との類比をめぐって、私はそう感じた。