因果論のコードか、不確定性のコードか

―『こゝろ』を読むの問題―

 

      (初出:「江古田文学」522003

                                 

 

私はこれまでに漱石について、ドストエフスキーの創作理念との比較・対比の視点から、舌足らずのことを幾つかのエッセイで書いてきたが、このたび『こゝろ』を論じるにあたって、研究の現状に目を向けてみた。読んだのは、おおかた一九九〇年代に書かれたものだったが、[平川祐弘 鶴田欣也編『漱石の『こゝろ』をどうよむか、どう読まれてきたか』(新曜社、1992)、小森陽一 中村三春 宮川健郎編『総力討論・漱石の『こゝろ』』(翰林書房、1994)その他]、総じて記号論、脱構築論(解体批評)をベースにした作品分析が主流をなしているように思えた。いうならば「作者の死」、「作者不在」を前提とする解読である。そうした傾向を代表する小森陽一氏や石原千秋氏の論に慎重な口調で危惧を表明しているのが佐藤泰正氏であつた。佐藤氏は「作品解読のモチーフ」、「論者のモチーフ」が一方的にコード化されることによって、「作家自身のモチーフ」が疎外されていはしないか。それではたして「テクストの<深層>」に迫れるのか、と問うているのであった。そこで、佐藤氏はいまひとたびテクストを作家に還す意味についてこうのべるのである。

「テクストを作家に還すには、その人格や思想や伝記的事実といった実体的なものではあるまい。テクスト内部に無数の<言葉>が<意識>がひしめいているとすれば、その<言葉>を紡ぎ、繰り出す作家内面の意識の無数のひしめきも見えて来るはずだ」(「『こゝろ』再見―テクスト論的解読へのひとつの問い」)注1

 佐藤氏の危惧とこの指摘に、私は全面的に同意する。作者追放後の祝祭劇のような多彩、きらびやかな解読ショウは、それ自体に内在する論理によって、論者自体のアリバイを問い返えさざるをえないことになるのではなかろうか。読者の特権を行使する読者の独我論的立場がいかにアイロニーにみちたものであるかは、例えば小森氏の『総力討論』におけるパネラーとしての発言(「「私」という他者」)に見られよう。氏はかって『こゝろ』の読みに新機軸を打ち出し、研究者の間で衝撃をあたえた自分の論(「『こゝろ』を生成する『心臓(ハート)』」)をマルチン・ブーバー的な解釈だとして自己否定する形でこうのべる。二人称的な関わりを求める「私」は独我論的な発想のなかで<手記>を書いているのであって、実は先生との生前の関係においては、「私」は「先生を脅かし続ける他者として先生の前に姿を現していたのではないか」と。これは過去の自分の視点を完全に逆転させる論調であり、この逆転する小森氏によれば、「私」は先生の「過去に隠された罪を暴き立てる存在」、「探偵」として先生の前に現れ、その結果、Kの「黒い影」との二重写しのなかで、「絶対的他者としての相貌」をもってしまった「私」の存在こそが先生を自殺に追いやったというのである。

小説中の「私」の実体を暴露しようとするもうひとつの試みを石原千秋氏の論(「『こゝろ』のオイディプス 反転する語り」)にも見ることができよう。小説冒頭の「私」による先生についての回想形式のスタイルのなかでの二人称的な意味づけ、すなわち、「私は其人を常に先生と呼んでいた。<・・・> 私は其人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字(など)はとても使ふ気にならない」の一節 ― 私にいわせれば『こゝろ』という小説のポエジー(詩想)のエッセンスといってもよい、このこの全くけれんみのない一節 − が、石原氏によれば、「K」という「余所々々しい頭文字」で友人を呼んでいた先生への「敬愛の情の表明を借りた隠微な批判」注2というふうな解釈へ「反転」するのである。『こゝろ』を「青年と先生の葛藤の劇として読み換える」というのが石原論文の主題であるらしいが、そこに作者漱石の意図、モチーフ、まなざしとの整合性がどの程度顧みられているであろうか。作者を追放した後のテキスト解読の危うさは、論者の絶対的な主観性のもとに、テクストの細部が別の物語を構成するファクターに恣意的に読み替えられてしまうことにある。

佐藤泰正氏がこの点に関して、漱石の「論理は実質から湧き出すから生きてくるのである。ころ柿が甘ひ白砂糖を内部から吹き出すやうなものである」という言葉を引いて、いみじくも文学研究者への戒めとしている次の言葉に、私は謙虚に耳を傾けたい。

「これは作家のありよう、覚悟を語ったものだが、同時に批評、研究の場にもまたあい通ずる。テクストあるいは作品の解読なるものもまた、その作品自体の「実質から湧き出す」もの、吹き出てくるものから汲みとるほかはなく、外側からの理論の押しつけや恣意なる読みとりでは、作品自体は動かず、発光(、、)する(、、)こともあるまい」注3

 ここで佐藤氏のいう「作品自体の“実質から湧き出す”もの」とは、精神分析学的、あるいは心理学的、あるいは社会学的といった分析方法の無反省な適用ではないだろう。それはテクスト内部にひしめく言葉や意識と作家内面の意識のひしめきの照応、相関関係を注視することによって浮かびあがってくるものであろう。その意味で「作家に還す」必要性を佐藤氏は問うているのである。

 『こゝろ』の解読において、青年「私」の人物像に比重が置かれるようになったのは、先生の「遺書」を中心とするかつての読みの流行への反動があり、また「語り手としての私は作者と一体不可分な代弁者であり、傀儡でしかない」注4といった三好行雄氏らの評価に対する反発からきているらしいが、その結果として、「私」の実体を過度に虚構化して、いわば自然主義的な虚像を造りあげ、明らかに作者が意図したと思われる青年「私」の語り手としての機能、およびそれを支えるイデーへの省察を欠いた議論に傾斜しているように思われるのである。

 『こゝろ』が、これに先行する作品『行人』、『彼岸過迄』とともに、主要主人公に対する副主人公の独特の配置と意味づけを持った小説であることを、否定することはできまい。似たような構図を持つ作品としては、『野分』を挙げることもできよう。『野分』は周知のように、漱石が朝日新聞のお抱え作家として登場する直前の作品であって、イギリス時代からおよそ五年余にわたって取り組んできた『文学論』の仕上げの時期の相応する。私は「『文学論』を漱石作品理解に援用しようという姿勢」を明確に打ち出した木村直人氏のエッセイ(「漱石 山歩きー『文学論』を片手に」 江古田文学48 特集「夏目漱石」所収)には目を開かせられるものがあったが、私もまた木村氏に習って、『こゝろ』理解のベースを『文学論』に置きたいのである。すでに私は自分の短いエッセイで幾度か援用してきたことの繰り返しだが、注5 それは『文学論』第四編第八章の「間隔論」である。漱石はそこで、いかにして作中人物と読者の間隔を短縮し、読者に作者の存在を意識せずして人物と直に面接させるか、の工夫を論じているのだが、それはとりもなおさず、作者の位置に関する問題設定であった。この工夫を漱石は「空間短縮法」と称し、「中間に介在する著者の影を隠して、読者と篇中の人物とをして当面に対座せしむるにあり。之を成就するに二法あり」とのべて、一つは「読者を著者の傍に引きつけて、両者を同立脚地に置く」方法、もう一つは「著者自から動いて篇中の人物と融化し、毫も其介在して独存するの痕迹を留めざるが如き手段を用ふ。此時に当たって其著者は篇中の主人公たり、若しくは副主人公なり、もしくは篇中の空気を呼吸して生息する一員たり。従つて読者は第三者なる作家の指揮干渉を受けずして、作物と直接に感触するの便宜を有す」とのべている。

 この一節を読んで、『彼岸過迄』の敬太郎や『行人』の二郎、Hさん、そして『こゝろ』の青年「私」が作者との関係で、このような副主人公の役割を担っているであろうことは容易に想像されよう。しかし、「形式的間隔論」と漱石が名づけたこの方法を単なる創作技術論とかたづけるならば、漱石のこの提唱についての理解は皮相にとどまるだろうし、『こゝろ』論への通路は開けないであろう。主要主人公の人間関係図や言動、手記の伝達者としての機能に限定された敬太郎や二郎、Hさんに比べる時、『こゝろ』の副主人公(「私」)は主要主人公(「先生」)に人格的に深く入り込んでおり、作者漱石の人間学的イデーが色濃く投影されていると見なければならない。

漱石は「形式的間隔論」を論じる際に、「哲理的間隔論」なる領域が存在することを暗示していた。読者を作者と同立脚地に置いて、作中人物を客観的に見る方法で書かれた作品を「批評的作物」と名づけ、作者が作中人物に同化する方法で書かれた作品」を「同情的作物」と名づけた漱石は、この類別が「哲理的間隔論」に発展する可能性をこうのべる。

「形式的間隔論をなさんが為に挙げたる二方法は是に於てか逆行して作家の態度となり、心的状況となり、主義となり、人生観となり、発して小説の二大区別となる」

ここに漱石は「哲理的間隔論」なるものの領域を想定しているのだが、この問題を議論するには、「余が現在の知識と見解とは此点にむかって、一箸をだに下し能はず。徒に此大問題を提供して研究の余地を青年の学徒に向かつて指示するに過ぎざるは遺憾なり」として、

それ以上は発展させてはいない。しかし、創作方法論としての「形式的間隔論」には思想的、哲学的背景があること予想させるには十分の証拠である。

 それでは漱石のこの「哲理的間隔論」の真髄として想定されるものは何かといえば、それは、ドストエフスキーに共通するものとしてすでに私が指摘してきた、「対話的人間観」ではなかろうか。漱石は、ドストエフスキーそうであったように、人間を自然主義的、客体的存在として把握し、描くことを拒否し、あくまで人間を自意識において、不確定的な存在としてとらえ、描こうとしたことは、『こゝろ』の「先生」をはじめ、一連の主要主人公達が、自分も他者も信じきれぬ、「疑ってやまない」心性の持主であり、エッセイ「文芸の哲学的基礎」でのべているように、「此私の正体が甚だ怪しいもので」、「真にあるものは、只意識ばかりである」、「只意識の連続して行くものに便宜上私という名を与えたのであります」という作者自身の認識からも明らかであろう。

人間の心や性格がいかに決定論になじまず、不確定性に支配され、両義性に充ちたものであるかは、漱石の若き頃からの一貫した認識であった。友人・子規宛に「人間は善悪二種の原素を持つて此世界に飛び出したるものなればなり」とのべて、「慈憐主義」を説く漱石二四歳(明二四)の時の手紙の一節、また「良心は不断の主権者にあらず、<・・・>」、「不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る」とのべるエッセイ「人生」(明二六)、「性格なんて纏つたものはありやしない。<・・・>本当の人間は妙に纏めにくいものだ」とのべる小説『坑夫』の一節、「然し悪い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。<・・・>平生はみんな善人なんです、<・・・>それが、いざといふ間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」とのべる『こゝろ』の「先生」の言葉 − このような叙述を通して、漱石は人間の内面の定まりなさにつねに留意してきた。

このような捉えがたい他者の内面、意識を描くにあたってどのような配慮が必要であるかを、ミハイル・バフチンはドストエフスキーの小説のポリフォニー的性格についてのべる際に次のように指摘している。

「他者の意識は客体として、モノ(物)として眺め、分析し、規定することのできないもので、対話的に交流することだけが可能である。他者の意識について考えるとは、すなわち他者の意識と語るということである。さもなくば、それらは私達にその客体的な側面を向けてしまうだろう。それらは沈黙し、閉じこもり、完結した客体的な形象と化して凍結する」(M・バフチン『ドストエフスキーの詩学の諸問題』 1963年ロシア語版 九二頁)。そこで作者にとって必要とされるのは、「とてつもなく緊張した対話的な能動性」である。バフチンのこの指摘は漱石の『こゝろ』を分析する上でも有効であるにちがいない。

 青年「私」が過敏な自意識家である「先生」の内面を対話的に開かせる副主人公として登場していることは、確かなことではないだろうか。しかも彼は読者に対して、「先生」を直に対面させる役割を担わされているのである。小説冒頭の「私は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此所でもたゞ先生と書く丈で本名は打ち明けない。<・・・>

私は其人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」といいたくなる。<・・・>余所々々しい頭文字抔とても使ふ気にならない」という有名な一節にしても、またよく知られた次のような「私」の回想 −

「私は先生を研究する気で其宅へ出入りするのではなかった。<・・・>今考えると其時の私の態度は、私の生活のうちで寧ろ(たっと)むべきものゝ一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際(つきあひ)が出来たのだと思ふ。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向つて、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなく其時ふつりと切れて仕舞つたらう。若い私は全く自分の態度を自覚してゐなかった。それだから(たっと)いのかも知れないが、もし間違へて裏へ出たとしたら、何んな結果が二人の仲に落ちて来たらう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい(まなこ)で研究されるのを絶えず恐れてゐたのである」(上―七)

にしても、「私」の言葉は作者のイデーに支えられた心からなる対話的態度の表明にほかならない。この点をどう踏まえるかによって、おそらく『こゝろ』の構造をめぐる解釈は大きく分かれる。

  回想のなかで、「先生」を現在に蘇らせる思いをこめて二人称的に呼びかけ、また過去の自分の先生に対する態度が客体化(研究的に働きかける)のそれではなく、無意識のうち対話的な<われー汝>の関係であったことを安堵の思いで想起する「私」の言葉に、「先生」への隠微な批判や脅迫者を想定することがはたして可能だろうか。小森氏は先の『総力討論』の発言で、自分のかつての解釈をマルチン・ブーバー的であったとして、それを撤回する形で、「私」の言説が「すでに死んでしまったものを対象としたエクリチュ−ルであり」、「「私」がどのように呼び掛けたとしても、「私」の書いたあの手記に対して、先生が反論することは一切ゆるされていないのです。そのような関係において、はたして二人称性がありうるのだろうか」と自問し、「「先生」という言葉は、すでに死者として三人称化されてしまったものを名付けていたものにすぎず、「私」の語る一人称にすでに回収されてしまった他者の死体でしかない」と言い切っている。そしてさらに、「私」の<手記>は「「私」の決定的な自己同一性の中で、そしてまた、揺るぎない独我論的な発想のなかで書かれている」としている。

 こうした推論が出てくる所以は、「間隔論」から類推されるような、副主人公「私」の背後に存在する作者の人間学的な、また方法論的なイデーとまなざしを排除、切断してしまったことにある。この先は論者自身がクリエーターとなって、「私」を虚構的に客体化し、自然主義的な人間像の暴露へと突き進むことになる。

ところで、ブーバーは小森氏が考えるように、「われ―汝」の成立する前提として、「言語を媒介とする伝達、或いはコミュニケーション」の領域だけを想定しているわけではない。言葉の通じえない自然との交わりも想定しているし、精神的存在(芸術や思想など人間の精神的行為の産物)との交わりをも想定している。また肝心なことだが、ブーバーによると、「わたしが<汝>と呼ぶひとが、「自分の「経験」の中にとどまっているために、<汝>と呼んでいるのに気づかなくても、<われー汝>の関係は成り立ちうる」。客体化に閉じ込められている<それ>へ呼びかける「<汝>は、<それ>が知っている以上のものだからである」(『我と汝・対話』植田重雄訳 岩波文庫 一六頁)

 ブーバーのこのような思想の真髄に立つならば、すでに自然主義的、物理的には遺骸として<それ>の状態にある一人物を、回想のなかでの<汝>としての呼びかけ、その人物を<モノ化=死>から蘇らせ、現前させることは精神的行為として可能なことである。ましてこれが「私」を通しての、作者のまなざしによる読者に向かっての「先生」像の創造行為である以上、その文学的な意味は大きい。青年「私」が作者の人間学的理念に支えられて、一中年紳士の精神的苦悩の全過程を読者の前に立ち上がらせ、現前させるべく、二人称的に、対話的にアプローチする − 「私」という人物が作品の中で持つ存在価値の比重は、それ以上でも以下でもない。

 一体、「先生」とは世間的には何者か? 一般的、常識的な見方を示す記述が小説には書きこまれている。それは「中」に見られる「私」の故郷の父親と兄の考えである。

「父の考へでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働らいてゐる。必竟やくざだから遊んでゐるのだと結論してゐるらしかつた」(中―六)

「先生々々と私が尊敬する以上、其人は必ず著名の士でなくてはならないやうに兄は考えてゐた。少なくとも大学の教授位だらうと推察したゐた。名もない人、何もしてゐない人、それが何処に価値を有つてゐるだらう。兄の腹は此点に於て、父と全く同じものであつた。けれども父が何も出来ないから遊んでゐるのだと速断するのに引きかへて、兄は何か遣れる能力があるのに、ぶらぶらしてゐるのは詰らん人間に限ると云つた風の口吻を洩らした」(中-十五)

「私」は、「先生」と父を「正反対の印象」を与えるものとして比較、連想し、ほとんどすべてを知り尽くしている父と離れても、「情合の上に親子の心残りがある丈であった」が、「先生の多くがまだわからず、薄暗かった。私は是非とも其所を通り越して、明るい所迄行かなければ気がすまなかつた。先生との関係の絶えるのは私にとつておおいなる苦痛であつた」(中-八)と、「先生」の方へ強く惹かれる自分の気持ちをのべる。これは利益社会の客体化の論理優先で物事を見る肉親よりも、「先生」との間の<われー汝>の二人称的な人格関係に生きる意味を見出そうとする「私」の姿勢を強く印象づけるものである。「先生」の遺書を受け取った「私」が危篤の父を置き去りにして東京へかけつける動機はここに十分に示されているといえよう。

「上 先生と私」は、「私」の「先生」との出会いからその時々の交際の過程を回想のスタイルで現前化する叙述にほかならない。すでに事後のものとしてあるプロセスを、読者にとっては未知のものに引き戻すことで読者の興味を惹き付ける創作家の戦略が背景にはあるとはいうものの、前景化されているのはあくまで、作者の人間学から発する立場であって、「私」は「先生」との出会いの場面々々を予断のないレポーターとして記述し、読者の臨場感のなかで、「先生」の生きたイメージを再現しようと努めるのである。「人間の行為の原因は私たちがつねに事後に説明するよりは、普通、はるかに複雑で多様で、はっきりと輪郭を描くこと出来るのはまれである。語り手としては事件の単なる叙述に止めておくことがましなことがある」−これはドストエフスキーの『白痴』の語り手の言葉であるが、『こゝろ』の「私」の基本的な叙述の立場もここにあったであろう。人間を不確定性の存在と見る人間学においてドストエフスキーと漱石は共通しており、出来事は常に突発的な様相を呈して起きることがめずらしくないのである。

すでに以前、短いエッセイで私は指摘したことだが、そうした特徴を示すものとして、『こゝろ』では行為や事件の突発性を表現する「副詞」が頻発する。しかもそれは「上 先生と私」、「下 先生と遺書」に集中する。私の計算によると、計四四回であるが、その内「上」が一三回、「中」が二回、「下」が二九回を数える。注6 興味深いことに、ドストエフスキーの『罪と罰』に「突然」( «вдруг»が頻発することを多くの人が指摘してきた。具体的な数字をいえば、記号論者のトポローフが五六〇回という数字をあげている。注7 『罪と罰』でも頻度は一部の個所に集中しており、「心理状態の転換を記述した個所」に多く見られるとしているが、これは記述する語りのスタイルが出来事を因果論的な予断をもって説明しようとする姿勢がないことに関連する。同様に語り手としての「私」は「先生」の行動や反応の原因を先走って説明したり解釈したりしない。また「先生」の遺書に頻発するこの種の表現は「移り流れる現実への郷愁」(«тоска по текущему» -ドストエフスキーの表現)においては出来事はつねに突発的な様相を呈するのであって、因果関係はポストファクトム(事後)にのみ意味づけられるという認識(作者および主人公の)表現であろう。そのかわりに、「今日になってはじめてわかった」とか「後になって証拠だてられた」、「今から回顧すると」といった記述が多用され、因果関係が示されることになる。この点でも、『罪と罰』との共通性が見られる。このような叙述のスタイルの結果として、語り手が先回りして説明しないために、謎は謎として残されるが、そのことによって、読者にとっては臨場感が強調されこそすれ、語り手の信頼性がなくなるわけではない。

ところで、現在、いろんな議論を呼んでいる「私」像は、基本的にレポーターとしての「私」の記述の信頼性に疑問を抱くところからきている。「上」「中」の「私」はすでに「先生」の遺書も読み、すべてを承知したうえで書いているということを前提に、因果論的な推論がなされるのである。小説冒頭の「私」の「先生」への呼びかけを、「敬愛の情の表明を借りた隠微な批判」という石原氏の解釈や、「私」が「中」を書くと時にはすでに「先生」の遺書を読んでいて、「先生」が電報を打ったのは「私」の手紙を読んだ後だと知っているにもかかわらず、電報は手紙が着く前に出されたに違いないと「私」が母に対してのべていることをとらえて、「私」の「強弁は<・・・>それが「先生」の「自殺」の原因になったかもしれない、という責任を逃れるためのものではなかったか」とする小森氏のうがった解釈注8などは、「私」の虚像を因果論的なコードでもって、いわば自然主義的に実体化することにより、もたらされたものにほかならない。

 「不確定性のコード」とでもいうべき漱石の人間学的理念に支えられた語り手として「私」が意味づけられるのではなく、「先生」の遺書で結果のすべてを知り尽くしたうえでの書き手として虚構化される時、作者との靭帯は切り離され、「私」はあたかも全知の自然主義的な架空の作者のごときものとして論者の「因果論的コード」を体現し、「先生」を自殺にいたらしめたその責任さえ追求されることになる。

 作者・漱石のまなざしによって促された語り手「私」の「先生」に対する態度が一貫して対話的問いかけであるのに対して、その応答にあたる「先生」の遺書は、友人の自殺の原因を自分の責任に引き受けようとする罪責のモチーフで貫かれている。そもそもお節介とさえいえる同情心を持ってKを自分の下宿に迎え入れ、Kの心をなごませるために、「奥さん」と「お嬢さん」に協力を要請する「先生」に始めから何かの魂胆があったとは思われない。むしろ「先生」には「共同体的な一体感」注9を求める夢想家的な側面が強かったのではないか。自己をも他者をも客体化して分析する「遺書」のスタイルとは裏腹に、「先生」には<われー汝>の二人称的関係への希求が強く作用していたのではないか。他者との同化、一体化の願望が強ければ強いほど、時空間の因果関係の中ではたやすく客体化にさらされ、退落していく運命について、私はドストエフスキーの『白痴』のムイシキン公爵の例で論じたことがある。注10「当初、「先生」と「K」の間にあったのは、兄弟的な親和であった。そこの亀裂が入るのは、「K」の欲望を見て「先生」が自らの欲望の形に目覚めたからである。鏡像段階の自我と他者の同一化は、欲望と嫉妬の侵入により、社会に開かれることになったのだ」とは木股知史氏の言であるが、注11これは<われー汝>から<われーそれ>への関係性の変化を説明するものにほかならない。

人間について「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざとい間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」(上―二八)という不確定性の認識は、それ自体、決定論の拘束を否定し、人間の自由と人格に目を向けさせるものではあるが、過去に財産問題で叔父に欺かれた傷を今にひきずり、「私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日迄背負はされてゐる。<・・・>私は彼等を憎む(ばかり)ぢやない、彼等が代表している人間といふものを、一般に憎む事を覚えたのだ」」(上―三〇)とのべる「先生」がこれを自他を裁く倫理的尺度に変え、自分とKの関係に当てはめた時、「先生」にはもはや自裁の道以外にはなかったといえよう。「世間は()うあらうとも此(おれ)は立派な人間だといふ信念」を「Kのために美事に破壊されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。(ひと)に愛想を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなったのです」(下―五二)。それまで叔父に向けていた批判と憎しみの刃を他ならぬ自分に向けざるをえなかった事情がここに告白されている。「先生」の自己剔抉の出発点はまさにここに見られる。このあと「私はただゞ人間の罪といふものを深く感じたのです」と罪の意識に苛まれる「先生」は「死んだ気で生きていかう」と決意するが、いつも「私の心を握り締めに来るその恐ろしい不可思議な力」があって、「私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです」(下―五五)と告白するにいたる。もはや「先生」の自殺の理由は明らかであろう。「先生」を自殺に追いこんだもの、それは「心を握り締めに来る恐ろしい不可思議な力」、いいかえれば、自分の内なる敵への敗北感であり、寂寥感(「Kが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方なくなつた結果、急に所決したのだはなかろうか」(下―五三) )であり、それらの表現としての「良心の責苦」というものであろう。それは「先生」に罪の意識を感じさせる「恐ろしい影」が、最初は外部から来るもののごとくであったが、しまいには、「自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して来たのです」(下―五四)という叙述からもうかがわれる。

そもそもKの自殺の原因にしても、「先生」自らが疑っているように、失恋の故か、「理想と現実の衝突」からか、それとも「たった一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果」なのか(下―五三)一義的には決めがたい性格のものである。にもかかわらず「先生」が罪の意識に捉えられたのは、Kの自殺という事実を前に、自分の善意と友情、同情から出発した行為が、反転してKへの裏切りと結果してしまったたことに慄然としたことにあろう。人間は何時どこでどういう行動に出るか分からないという不確定性の認識は、倫理の問題として見た場合には、その主体の自由と責任を問うことにつながる。人間の行動はすべて因果によって決定されるという因果論的認識を前提とするならば、主体の自由も責任も問うことはできない。12漱石が「私」の眼を通して「先生」像に描こうとしたものは、そのような「人格」の悲劇ではなかったろうか。

「思想上の問題に就いて、大いなる利益を先生から受けた」とのべる「私」の「先生」に対する態度は、再び『野分』の高柳君の白井道也先生に対する態度を想起させる。道也先生と『こゝろ』の先生は人間像としては全く対照的な存在ではあるが、名もなく地位もなく世間に受け入れられないという境遇において共通する。そのような無名の孤高の士のもとに、「同類に対する愛憐の念より生ずる真正の御辞儀」(『野分』)をもって副主人公ともいうべき青年が伺候する。両作品ともに、副主人公の青年は大学を卒業して、これから社会に出ようとする、いわばモラトリアム的存在で、あらゆる偏見から自由であり、主要主人公の写し手としては格好の境遇にある。

 『野分』の場合、貧乏学生・高柳君が道也先生の売れない「人格論」を買い取るという形で、二人を繋ぐ「人格」の意味が象徴的に表現されるが、『こゝろ』では「人格」という語の多用こそないものの、「私」が「先生」を知ろうと欲し、「先生」が遺書の形でそれに答えようとしたのは、まさしく人格的なレベルでの出会いであったことは間違いない。無気力に「死んだ気で」生きるのではなく、一つの倫理的精神として自らの人格を若き友人の前に立ち上がらせようと決意した時、「先生」には自決以外に選ぶ道がなかったという悲劇の構造がこの作品を根底において規定している。探偵小説風な解読を誘う「追跡と隠蔽」の構図は表面的な形式に過ぎないであろう。

 

 



注1 佐藤泰正著作集1 『漱石以後T』(翰林書房 1994)八二頁

注2 石原千秋 「『こゝろ』のオイディプス 反転する語り」(『反転する漱石』青土社 1997)一八五頁

注3 前掲書 七八頁 

注4 鑑賞日本現代文学 第五巻 『夏目漱石』(角川書店、1984 204

注5  拙論 「ドストエフスキーで漱石を読む」(『近代日本文学とドストエフスキー −夢と自意識にドラマ』(成文社 1993)、「漱石とドストエフスキー − ポリフォニー小説の概念をめぐって」(『ドストエフスキー −その対話的世界』(成文社 2002

注6 私は前掲論文「ドストエフスキーで漱石を読む」で四一回と書いているが、数え落しがあり四四回に訂正。(内訳は「突然」二二回、「不意に」九回、「急に」五回、「不図」四回、「卒然」二回、「出し抜けに」一1回、「思はず」一回)。

 

注7 V.N.トポローフ「ドストエフスキーの詩学と神話的思考の古式の図式」(北岡誠司訳 「現代思想」<特集ドストエフスキー> 19799)一三一頁 

小森陽一『世紀末の預言者・夏目漱石』(講談社 1999)二二六頁

注9 これは相原和邦氏の表現であるが(『漱石文学―その表現と思想』 塙書房 1980 四一、五二頁)、氏は破綻した叔父との関係にのみこの表現を使っている。しかし叔父の自分への裏切りを自分のKへの裏切りに重ね合わせて見ていることからも、この表現はKとの関係にも当てはまるであろう。

注10 「『白痴』論―“貧しき騎士”ムイシキン公爵の“運命の高貴な悲しみ”」(『ドストエフスキー その対話的世界』 成文社 2002 

注11 木股知史 「『こゝろ』−<私>の物語」(浅田 隆編 『漱石―作品の誕生』 世界思想社 1995

二二五頁

注12 この問題が『カラマーゾフの兄弟』のイワンの良心の苦しみのテーマであることについて、拙訳・ゴロソフケル著『ドストエフスキーとカント』(みすず書房、1988)に詳しい。