『草枕』論 −「憐れ」と「非人情」をめぐって           −ドストエフスキーとの比較の視点から−

                          

               (初出:「江古田文学」482001

  

『草枕』は明治三九年、漱石四〇歳、『猫』、『坊ちゃん』を発表して、文壇に認められ、朝日新聞お抱えの職業的な作家として出発する直前の作品である。「美を生命とする俳句的小説」(漱石自身の評:「余が『草枕』」)とか、「非人情」の境地で書かれて小説であるとかいわれている。

俗世間に嫌気がさして、九州の山奥の温泉場にやってきた画家(畫工)が、対象にとらわれない非人情の目で世の中を見ようと心がけながら、逗留することになった温泉場の一軒宿の出戻り娘、那美さんに興味を持つ。彼は画家として彼女を画面に描こうと思うのだが、どうしても絵にならない。人の話から聞く彼女の過去といい、畫工に対しての振舞いといい、人を驚かす奇矯なところがあり、彼女にはいわば、妖女の趣がある。畫工は思案したあげくに、こう気づく。

「多くある情緒(じゃうしょ)のうちで、(あは)れという字があるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ(じゃう)で、しかも神に尤も近き人間の(じゃう)である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟(とっさ)の衝動で、此(じゃう)があの女の眉宇(びう)にひらめいた瞬時に、わがは()は成就するであらう。然し ー 何時(いつ)それが見られるか解らない。あの女の顔に普段(ふだん)充満して居るものは、人を馬鹿にする微笑(うすわらひ)と、勝たう、勝たうと(あせ)る八の字のみである。あれ(だけ)では、とても物にならない。」

 ここで「憐れ」という語に重要な意味が与えられているが、この語はここで唐突に出てきた言葉ではない。そのすこし前の叙述で、伏線として深山椿と雨中の梨花が対比されている。深山椿についてはこうである。

「余は深山(みやま)椿(つばき)を見る度にいつでも妖女(えうじょ)の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然(えんぜん)たる(どく)を血管に吹く。(あざむ)かれたと(さと)つた頃は既に遅い。」

これに対置されるのは梨花で、叙述によると、

悄然(せううぜん)として(しを)れる雨中(うちゅう)梨花(りくわ)には、(ただ)憐れ(・・・・・)な感じがする。冷やかに(えん)なる月下(げっか)海棠(かいどう)には、只愛らしい気持ちがする。椿の沈んで居るのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし()帯びた調子である」(傍点・筆者、以下同じ)

ここに、明瞭に漱石の美意識がうかがわれよう。これを裏付けるもう一つの例に注目したい。『草枕』のあと、漱石は朝日新聞の連載小説第一作『虞美人草』を翌明治40年に発表するが、そこに描かれる二人の女性、藤尾と小夜子の対置に、漱石の好みがはっきりとうかがわれる。藤尾は我の強い女性で、語り手の叙述によると、「藤尾は丙午(ひのえうま)である。藤尾は(おのれ)の為にする愛を解する。人の為にする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣味はある。道義はない」 こういう女性である。そして、藤尾の腹違いの兄、甲野さんは「藤尾が一人出ると昨夜(ゆうべ)の様な女を五人殺します」とのべるが、「昨夜のような女」というのは小夜子のことで、彼はそこの場面で、庭先の鷺草とも菫ともつかぬ小さな花を見て、「憐れ(・・・・)な花だ」といい、「昨夜の女のような花だ」と重ねていう。

さらに小夜子に関しては、「憐れ」というリフレンがほかにも見られる。次は語り手の記述である。

「色白く、傾く月の影に生まれて、小夜(さよ)と云ふ。母なきを、つゞまやかに暮らす親一人子一人の京の住居(すまひ)に、盂蘭盆(うらぼん)の燈篭を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊(しゃうりゃう)を、東京の芋殻(をがら)で迎へる事と、長袖の右左(みぎひだり)に開くなかヽら、白い手を尋常に重ねている。(・・・)()憐れ(・・・)(ちひ)さき人の肩にあつまる。()(かゝ)(いかり)は、撫で下す絹しなやかに(なさけ)の裾に滑り込む」

さらに、語り手(作者)のシンパシーがどれほど小夜子に寄せられているかは、作中人物にも分からない視点から小夜子を引き立てている点にもうかがわれる。

「小夜子は何と答へていヽか分からない。膝に手を置いた儘、下を向いている。小さい耳朶(みゝたぶ)が、行儀よく、(びん)の末を(くゞ)り抜けて、頬と顎の続目(つぎめ)が、(ぼか)した様に曲線を陰に曳いて去る。見事(・・・)()()である。惜しい事に真向(まむき)に座つた小野さんには分からない。…・

小野さんは只面白味のない詩趣に乏しい女だと思つた。同時に波を打つて鼻の先に翻へる袖の()が、濃き紫の眉間(みけん)(かす)めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなつた」

作中人物の視点を超えた眼差しからのこの美の捉えかたに、『草枕』の畫工の言葉に込められた「憐れ」と美、画の成立の関係が予測されよう。畫工は那美さんの表情に「憐れ」を感じることができなかったために、彼女を絵にできなかったのである。その畫工は小説の最後の場面で、一瞬のうちに那美さんの絵のイメージを成就させるのだが、そのいきさつはこうである。時代背景に日露戦争があり、那美さんの従兄弟の久一という青年に招集令状がきて、戦地に赴くことになる。画工は那美さんにお供して、山を下り、駅まで久一青年を見送りに行く。列車が動き出して、久一青年の車両が遠ざかり、最後の車両が来た時に、髭だらけの野武士風の男が車窓から「名残(なごり)惜気(おしげ)に首を出した」。それは那美さんの別れた元の亭主で、満州へ旅立つところだった。それを見た那美さんは茫然として、立ちすくむ。その時、畫工は那美さんの顔に「(あは)れ」の表情を読み取る。そこの叙述はこうである。「野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然(ぼうぜん)として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。

「それだ! それだ! それが出れば()になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声で云つた。余が胸中の画面は此咄嗟(とっさ)の際に成就(じゃうじゅ)したのである」

美の問題を考える時に、「憐れ」や「同情・憐憫」を重要概念と考えるのは、送り手と受けての相互交流、交感にアクセントを置くからであろう。感情移入を抜きにして、誰から見ても常識的な意味で美と見られる観念がないわけではない。畫工にいわせれば、能や芝居の中の人物を見るような眼鏡で見れば、「あの女は、今迄見た女のうちで尤もうつくしい所作をする」 これは畫工が徹底して「非人情」の立場で見た場合である。『虞美人草』おいても、語り手(作者)からの「憐れ」の印象が感じられない藤尾が美女でないわけではない。作中人物(宗近)の言葉によると、小夜子は美人であるが「藤尾さんよりわるいが、糸公よりよいようだ」と、藤尾の下に置かれる。「糸公」とはこの人物の妹の名である。これが語り手の主観を排した世間的な見方なのであろう。

しかし、作者漱石は藤尾に対して容赦がなく、その分、小夜子に好意的である。こうのべている。「藤尾といふ女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは黙目な人間になる。最後に哲学をつける。此哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリーを説明する為めに全篇を書いているのである。だから決してあんな女をいヽと思つちゃいけない。小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない」(小宮豊隆宛て書簡・明40・7・19)

実際に小説では、藤尾は小野という青年をめぐって小夜子と三角関係になり、義理に挟まれて小夜子を選んだ小野に藤尾は失恋、敗北の結果、唐突に自殺して物語は閉じられる。

エゴの強い女性の一方通行的な、圧迫感のある美の印象は美を美として受け手に感じさせず、むしろ受け手(男性)の人格を破壊する妖女的、魔女的な作用を及ぼすことになろう。畫工もそのことを承知しているから、「憐れ」の概念を意味づけるのに先立って、「雨中の梨花」と対照的に「深山椿」の妖女的な妖しさを強調し、また那美さんの所作の無類の美しさを述べた先程のくだりで、こうも述べるのである。

あの女の所作(しょさ)を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日も居たゝまれん。義理とか人情とか云ふ、尋常の道具立(どうぐだて)を背景にして、普通の小説家の様な観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿(てんめん)とした一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語(ごんご)に絶するだらう」

相互的な共感作用の欠如した、情欲や嫉妬を喚起する作用としての女性の美が男性を破滅させる、もしくは苦悩に陥れる例はドストエフスキーに珍しくない。例えば、『罪と罰』におけるスヴィドリガイロフに対するドゥーニヤ,『白痴』のロゴージンに対するナスターシャ、『カラマーゾフの兄弟』のドミトリーに対するグルーシェンカの例である。

ドミトリー・カラマーゾフによれば、人間の心にはマドンナの美とソドムの美という両極端が一つに共存している。美は恐ろしいばかりではなく神秘で、それは悪魔と神との戦いであり、その戦場が人間の心である。

このような美の二元性の観念はロシア文学ではおそらくゴーゴリから来ていて、ドストエフスキーが『白痴』の執筆に当たって、キリストとドン・キホーテをイメージしながら「肯定的に美しい人間」という表現を使ったのは、他方で、悪魔的な、「否定的な美」という対立概念があったからに違いない。

 

米川正夫訳「しんじつ美しい人物」(河出、20巻全集、第17巻)、小沼文彦訳「非の打ちどころのないまことに美しい人間」(筑摩、20巻全集第16巻)、原卓也訳「完全に美しい人間」(新潮、27巻全集第21巻)と訳されている形容詞「美しい」を修飾するロシア語副詞 «положительно» は「肯定的」という意味で、「肯定的に美しいという」表現は日本語として熟さないにせよ、ゴーゴリからドストエフスキーへの美意識の展開のなかで、限定された重要な意味が込められていると考えるべきである。これについては拙論「美意識の変容 ゴーゴリからドストエフスキーへ」(中森・坂井編「美と新生」、東信堂刊、一九八八)を一読していただければ幸いである。

 

そしてこの「肯定的な美」の成立要素として、送り手と受けての共感作用を喚起する「同情・憐憫」と「ユーモア」が想定されていたのである。ドストエフスキーは『白痴』を構想していた頃、一八六八年一月一日付けの姪ソーニャ・イワーノワ宛の有名な手紙で次のようにのべている。

「小説の主要な思想は、肯定的に美しい人間を描くこと。<・・・>この世に一人だけ肯定的に美しい人物がいます。それはキリストです。だからこの計り知れない無限に美しい人物の出現はむろん、永遠の奇跡です。<・・・>キリスト教文学のなかの美しい人物達のなかで、最も完成されたものはドン・キホーテです。しかし、彼が美しいのは、同時に滑稽であるからです。<・・・> 人に笑われながら、自分の価値を知らない美しい者への憐憫(サストラダーニエ)・同情(сострадание)が表現されているので、読者の内部にも共感(シムパーチヤ)(симпатия)が生まれる。この憐憫・同情(сострадание)の喚起こそユーモアの秘密です」 

『草枕』が美を主題とした小説であるなら、『白痴』もまた美を主題とした小説ということができる。「美は世界を救う」というムイシキン公爵が言ったとされるフレーズはあたかもドストエフスキーその人の言葉のように一人歩きし、美人コンテストの宣伝文句にまで使われるほど俗化しているが、厳密にいえば、作者はおろか、ムイシキン公爵自身もそう断定的にいったという証拠はない。「美は世界を救う」という言葉はイッポリートが公爵の面前で、人から間接的に耳にした公爵の言葉として、本人に確認を求めるのだが、公爵は黙っている。この事実は意味深長である。美について、公爵の口から直接に出るのは、テキストで見る限り、「美を判定するのは困難である。美は謎である」という言葉であった。これはエパンチン将軍家の客間で、公爵が三人の令嬢を相手にのべた言葉であるが、その場ではナスターシャの美が関心の的になっていて、ムイシキンはナスターシャのポートレートを見て、彼の心をとらえたものの謎を解こうとしていたのであつた。公爵の内的モノローグがこのようにのべられている。

「その美しさにおいて、またさらに何ものかによって常ならないその顔は、今やさらに一段と強く彼の心を打った。方図のないプライドとほとんど憎しみといえる侮蔑の念がその顔にはあり、また同時に何か信じやすい、おどろくべき純朴な何ものかがあった。この二つのコントラストがその顔立ちを見る者の目に何か憐憫の情のようなものさえ起こさせた。そのまばゆいばかりの美しさはたえがたいほどで、青白い顔、やや落ちくぼんだ頬と燃えるばかりの目の美しさときたら、不思議な美しさである!」

ムイシキン公爵はナスターシャの顔に表れた矛盾した要素から、彼女の苦しみを瞬時に直感的に洞察し、憐憫の情の虜になる。ちなみにこの場で、令嬢の一人アデライーダが、ナスターシャを指して、「こういう美は力です。<・・・>こんな美があれば世界をひっくり返すことができる」というのは、そこに美についてのもうひとつの正反対の視点が提示されているということができる。この視点は、「美は世界を破滅させる」という言葉に置き換えることもできる性質のものであって、それは『カラマーゾフの兄弟』においてドミトリーの口から出てくる「マドンナの美」に対するところの「ソドムの美」を暗示させるものである。

そもそもナスターシャ・フィリッポヴナという女性は、作者の視点を体現するムイシキン公爵の眼差しに照らされてこそ、悲劇的な美貌のヒロインであるが、他の主要人物達、ロゴージン、ガーニャ、トーツキイ、エパンチン将軍などの目からみれば、「ソドム的」な女性であることは明らかである。彼女のプライドと我儘は、欲得にとらわれた彼らの

駆け引きをかき回し、無に帰せしめてしまうのである。第三者的、世間的に見れば、彼女は十分に妖女的な女である。ここで、非人情の目で見た畫工の那美さんの顔の表情についての叙述を、先ほどの、ナスターシャ・フィリッポヴナの顔の印象についてのムイシキン公爵のモノローグを念頭に置きながら読むと、別の視点、つまり非人情の視点で見た場合のナスターシャの印象もまたかくやありなんと想像されるのである。

「<・・・>軽蔑の(うら)に、人に(すが)りたい景色(けしき)が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み(ぶか)分別(ぶんべつ)がほのめいている。才に任せ、気を()えば百人の男子を物の数とも思はぬ(いきほひ)の下から温和(おとな)しい(なさ)けが吾知らず涌いて出る。どうしても表情に一致がない。(さと)りと(まよ)いが一軒の(うち)に喧嘩しながらも同居して居る(てい)だ。此女の顔に統一の感じがないのは、心に統一のない証據で、心に統一がないのは、此の女の世界に統一がなかつたのだろう。不幸に壓しつけられながら、其不幸に打ち勝たうとして居る顔だ。不仕合(ふしあわせ)な女に違ない」

 もとより、ナスターシャの運命の悲劇性の度合は那美さんと比べようもなく深い。しかしその顔に表れた強烈なプライドと隣合わせのナイーブな、人を信じやすい純朴な、頼りない表情、そのコントラストは驚くほど共通している。ただ明確に違うのは、その顔の表情を見る視点の違いである。ドストエフスキーの視点を荷うムイシキンは躊躇なくナスターシャに同化し、憐憫(サストラダーニエ)・同情という主観共同の関係に入ってしまう。ドストエフスキーの長編小説においては、主題の展開とともに、作者の視点は他の人物に分散され、相対化されていくので、漱石の画工のように、「非人情」に一元的にこだわる必要はない。

 漱石の畫工は那美さんとの間に、あくまで距離を確保し、情の移るのを警戒しながら、それでいて、相手に美を見出し、心を奪われざるをえないのである。その矛盾したアンビヴァレンツな内面の葛藤を、畫工の次のような言葉が物語る。

 「現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿(てんめん)とした一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語(ごんご)に絶するだらう。余の此度の旅行は俗情を離れて、あく迄畫工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは(ことごと)()として見なければならん。能、芝居、若しくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。(この)覚悟の眼鏡(めがめ)から、あの女を(のぞ)いて見ると、あの女は、今迄見た女のうちだ尤もうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をしてみせると云ふ気がない(たけ)に役者の所作よりも(なほ)うつくしい」

ムイシキン公爵にしても、畫工にしても対象に対する作者の視点、態度を体現した存在だとすれば、両者の本質的な相違を私達に説明してくれるヒントとなるメモを漱石は残している。それは明治三九年九月三〇日付けの森田草平宛ての手紙のなかの記述で、漱石は『草枕』における主人公(畫工)の対象(那美さん)に対する関係、距離について論及している。それは感覚的美をめぐって、それを喚起する対象とそれを受ける主体との関係の考察である。

第一は「天然自然」との関係で、見る側にも見られる側にも「人情」はなく、双方とも「非人情」である。第二は人間に対する関係で、これには自然に対するのと同様に、非人情的な見方と情緒の発動を持って人情的に見る態度がある。後者の人情をもって見る態度はさらに次の二つに分かれる。(1)普通の芝居を見るときのように、自分の利害と関係なく、純粋な同情と反感をもって反応する場合。(2)現実世界で起こすような同情と反感にかられて、舞台の上の役者に殴りかかったりするような反応を起こす場合。

画工の態度を説明して漱石は、第一の「天然自然」との関係における非人情の立場と第二の1)の「人間に対する関係」における純粋な同情・反感の立場の中間にありながら、どちらかというと、第一の非人情に戻ろうとする傾向があるとし、それに比較して、『ハムレット』のシェークスピアは、非人情よりも第二の(1)の純粋な同情と反感の立場に近い。「畫工は非人情的である。沙翁は純人情的である。而して吾々日々夜々パンに汲々として喧嘩してくらす人間は俗人情的である」とのべている。

「憐れ」は「同情(サウトラダーニエ)・憐憫」と同様に、対象への同化のベクトルを持つが、畫工はそれに歯止めを掛けて、人情の介在しない自然を見るような立場で距離をとろうとする。ではドストエフスキーの場合はどうか? 漱石のこの論法からいえば、作者の立場としては、シェークスピアにより近いことは間違いないであろう。

ドストエフスキーの創作においては、作者の視点は作中の脇役にいたるまでの多くの人物に分散されていて、一元的に「同情と反感」を持って見る作者の視点は固定されえない。「同情・憐憫」の眼差からナスターシャ・フィリッポヴナの悲劇的な美に打たれたムイシキン公爵は、後半にいたると完全に彼女に同化していき、彼女をめぐる三角関係に巻き込まれ、破滅していく。ムイシキン公爵は作者の視点を代表する人物でありながら、舞台の当事者であり、この点では漱石のいう二の2の「同情、反感」の例を思わせる。小説ではその純粋無垢な人柄の破滅を悼む他の人物の彼に対する「同情・憐憫」の視点、ひいては、読者の視点と構造的に重層化されている。したがって、現象的には漱石の人情的な見方の二の2)に近く、小説構造的に、隠れた一次的な作者の存在からいえば、非人情に帰ろうとする畫工の立場に近いともいえよう。小説の最後で、隠れた作者は、脇役(エウゲーニイ)の人物の目を通して、ムイシキン公爵の「同情」(人情)を痛烈に批判させている。

「しかし同情(サストラダーニエ)のために、あの女性の満足のために、別の高潔で清純な令嬢を辱め、あの傲慢で、 あの憎悪のこもった目の前で、その令嬢を傷つけてもいいものでしょうか?そんなことをしたら、同情(サストラダーニエ)というのはどこまで行くかわかりませんよ!それは信じ難い誇張です!」

漱石のいう「人情」「非人情」の問題は、芸術家の対象に対する同化と離脱(距離の確保)の問題であろう。言換えれば、対象に対する「同情・憐憫」、同化の指向性が片方になければ、「非人情」という言葉の意味自体、成立しない性質のものなのである。

ドストエフスキーも漱石も、共通して作中人物との「同化」を創作の重要なモメントとした作家であることは間違いない。その際に重要なことは、両作家ともに、人間をとらえるのに、自然主義作家のように、主要なポイントを環境因子に支配される自然的、生物学的、社会的客体化に置くのではなく、自意識的、人格的・主観的存在としてとらえようとしたことである。そして人物を描くのに、同化と離脱という対話的アプローチを必須の要件として自覚せざるをえなかったといえよう。そのことは明治四〇年の講演エッセイ「文芸の哲学的基礎」での、「此私の正体が甚だ怪しいもので<・・・>只意識の連続して行くものに便宜上私と云ふ名を与へたので」ある。「真にあるものは、只意識ばかりである」という記述から見ても、また『文学論』第四編第八章の「間隔論」に見られる「批評的作物」と「同情的作物」の概念を、漱石の実作『彼岸過迄』、『行人』、『こゝろ』などの語りの特徴に照らし合わせて見ても明らかであると思われる。

また漱石の「写生文」の概念の本質も、「大人が小供を視るの態度」、「両親が児童に対するの態度」といった喩えから見ても、「同化」と「離脱」の機微の問題にあることをうかがわせる。そのアンビヴァレンツな関係を漱石はこうのべる。

「寫生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無體に号泣し、直角に跳躍し、一散に狂奔する底の同情ではない。傍から見て気の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかない許りである」(「寫生文」明四〇)

この一文から読みとれるのも、『草枕』の主題である「憐れ」と「非人情」のダイナミックスではなかろうか。このような写生文家の態度には、角度を変えてみれば、ドストエフスキーがドン・キホーテの形象美についてのべた「自分の価値を知らない美しい者への憐憫(サストラダーニエ)・同情が表現されているので、読者の内部にも共感(シムパーチヤ)が生まれる。この憐憫・同情

の喚起こそユーモアの秘密です」という言葉に一脈通じるものが感じられる。 

漱石、ドストエフスキーをめぐってここで論じてきた書き手と対象、そして受け手の三者関係に貫流するこうした「憐れ」あるいは「憐憫・同情」の美的価値は、日本人の伝統的美意識といわれる「もののあわれ」と比較すればどういうことがいえるのか。 例えば、平安朝の「物の憐れ」が対象物の属性に関連をもつといった岡崎義恵の指摘(『美の伝統』弘文堂書房、昭17、6頁)や漱石門下の森田草平による、『草枕』の「此の「憐れ」といふのは、所謂物の憐れを感ずるといふ「憐れ」であって」(『夏目漱石』 甲鳥書林刊 昭17303頁)といった指摘からも、その方向での検討の余地もまだのこされているように思われるのである。