武田泰淳とドストエフスキー

 

           (初出:「ドストエーフスキイ広場」152006

 

埴谷雄高は一九七一(昭・四六)年のエッセイで、「戦後、何処からともなく現れたパルチザン達が次第に一ヵ所に集まってくると、同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるをえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった」とのべ、椎名麟三、武田泰淳、野間宏の名をあげながら、特に、武田の小説『風媒花』で展開される現代の殺人論が「ドストエフスキイの深い殺人論の延長線上」にあることを指摘した注1。埴谷は「ドストエフスキイ(エコール)注2という言葉も使って、過去の日本文学への影響に触れているが、埴谷には、自分を含めて、椎名、武田の三人こそが、戦後文学の「ドストエフスキイ族」あるいは「(エコール)」の代表という思いがあったであろう。

 椎名のドストエフスキー受容の特徴は彼自身のエッセイの表題「矛盾の背後の光」が端的に示すように、実存主義的なものであったとすれば(「ドストエフスキー広場」一二号の拙論参照)、武田泰淳の場合は、「作家的な自我・私」の拡大、深化への関心であったといえよう。

 昭和一〇年前後、文学界・ジャーナリズムで「シェストフ論争」が起こり、「純粋小説」、「私小説」をめぐって議論が盛んになされていた時期、椎名や武田はまだ無名の文学青年であった。武田は中国文学の研究者、翻訳者であり、一九三七年一〇月には召集を受けて、中国へ一兵卒として派遣された。二年後の三九年一〇月には上等兵で除隊、その後四三年まで、中国関係の評論や翻訳に従事。一九四四年、上海に渡り、中日文化協会の出版機関で日本図書の中国訳に従事。日本の敗戦を上海で迎えた。

 一九四六年に帰国して、『審判』(一九四七・四)、『秘密』(一九四七・六)、『蝮のすえ』(一九四七・八)といった一連の問題作を発表していく。『審判』と『蝮のすえ』のテーマは「殺人のための殺人」と罪の意識の問題であり、ドストエフスキーの『罪と罰』につながる。『審判』では作者とおぼしき語り手が、戦後の中国に残留する旧日本軍兵士であった一人の不幸な若者について語る。日本の敗戦後、上海の日本人居留地に復員した二郎は、日本への集団帰国を前にして、突然に帰国の意志をひるがえし、姿を消してしまう。そして、語り手のもとに手紙を寄こして、その翻意の秘密を告白する。彼には、何の理由もなく、ただ人を殺したいがために、二度にわたって無実の中国人農民を銃で殺害した過去があった。彼はその時の情景を詳しく語りながら、自分が農民にねらいを定めて、銃のひきがねを引いた最後の瞬間の心理を次のように分析してみせる。

「私はこれを引きしぼるかどうかが、私の心のはずみ一つにかかっていることを知りました。止めてしまえば何事も起こらないのです。ひきがねを引けば私はもとの私でなくなるのです。その間に無理をするという決意が働くだけ、それで決まるのです。もとの私でなくなってみること、それが私を誘いました」(2-19注3(傍点―筆者)

 このようにして彼は自分の衝動を実行に移し、二人目の殺人を行った。その後、戦争が終るまでの半年間、この殺人については誰にも知られず、誰にも咎められはしなかった。しかし時が来て、罰せられなければならなくなった。彼はこう告白する。「しかし罰は下りました。殺人者の罰せられる日が来たのです。私は考えました。自分は少なくとも二回は全く不必要な殺人を行った。第一回は集団に組して命令を受けたのだとしても、第二回は完全に自分の意志で、一人対一人で行ったものだ。しかも無抵抗な老人を殺した。自分は犯罪者だ、裁かれるべき人間だ、と。しかし私は平然としている自分に驚かねばなりませんでした」(2-21

 二郎には鈴子という婚約者があった。二郎は日本に帰国して、鈴子との幸せな未来を夢見ていた。しかし彼は射殺した老人夫婦のことを思い出すにつけ、自分達の未来が脅かされるのを感じた。何も知らない鈴子に打ち明けないではおれない気持に突き動かされた。「話さないでおけばそのままです。だがそのままではすまされない不思議な衝動がありました」(2-21)二郎はついに鈴子に自分の過去を打ち明ける。その時の鈴子の反応は、ラスコーリニコフがソーニャに自分の犯行を打ち明けた時、ソーニャの表情がリザベータの反応と折り重なって見えた場面を、読者に容易に連想させる。「「もうおやめになって!」彼女は悲しげな声で叫びました。それは意地悪された少女、ひどい仕打ちをうけた幼女のようにいたましげでした。私は自分が予想外に強い打撃をあたえてしまったことを知りました」(2-23)(「彼女は片手を前に突き出し、幼い子供そっくりに、顔に子供らしいおびえの表情を浮かべて・・・」『罪と罰』 )

 二郎は鈴子が彼の告白に激しいショックを受けたのを見て、彼女と別れることを決意する。彼は彼女が愛し続けてくれることは疑わないものの、告白を聴く以前の彼女とはもはや違うと思うのである。「明日にでも会えば、ことさらいそいそと私をいたわってくれるかもしれない。しかしそれはすでに今までの彼女ではありますまい。明日をも知れぬ病人を見守るけなげな看護婦、嫌われ者の子をなぐさめる気の良い母親も同様ではありませんか。真情とともに技巧が、恋のかわりに忍耐が彼女を支えるだけのこと。彼女の眼中には銃口を老人の頭に擬した私の姿が永久に消えないのです。私は彼女に犠牲を強いるのはいやです。私の裁判官であるとともに弁護士でもあるような妻と暮らすのがどんなに堪えがたいか」(2-23

 こうして二郎は鈴子に婚約破棄を通告する。恋人を失った悲しみとともに、「今までにない明確な罪の意識の自覚が生まれているのに気づきました。罪の自覚、たえずこびりつく罪の自覚だけがわたしの救いなのだとさえ思いはじめました」 彼は自分の犯罪の場所、つまり中国にとどまって、老人の同胞の顔を見ながら、「裁きの場所をうろつくことにします」と決意し、その一部始終を語り手に手紙で告白する。その二郎の手紙で小説は終わる。

 ラスコーリニコフと二郎に共通する心理の一つは、自己の現状変更の衝動ともいうべきもので、「もとの私でなくなってみること、それが私を誘いました」という二郎の告白は、ラスコーリニコフがソーニャへののっぴきならない告白の場で、「ぼくはただ殺したのだ。自分のために殺したのだ。自分だけのために殺したのだ」という言葉につながる。「ぼくは何もかも忘れて、新しく始めたかったのだよ」(6-412)注4 といい、自分が「しらみか人間か」それを知らなければならなかった、というラスコーリニコフのせりふは、彼が理屈を越えて、現状を否定し、新しい自己確認の衝動にかられたことを意味する。次に両者に共通する「他者への告白への衝動」は、人間は他者との関係性を排除しては生きられないことを意味する。ラスコーリニコフが犯行直後、マルメラードフ一家と出会う以前から、警察へ出頭して告白したい強い衝動にかられていたことを思い出そう。その場面はこうであった。

「「さて行ったものか、やめたものか?」ラスコーリニコフは四つつじのまん中に立ち止まって、だれかから最後の言葉でも待つように、あたりを見まわしながら考えた。がどこからも何ひとつ応じてくれるものはなかった。すべては、彼の踏んでいる石のように、がらんとしていた。彼にとって、ただ彼にとって、死んでいるのであった」(6-169

) このような荒涼とした心象風景を、私達は地下室人である『おとなしい女』の主人公にも見ることになるが、こうした無限の孤独感のなかでは、衝動を行為に移させる促しが、決定的に欠けている。

ラスコーリニコフはソーニャとの出会いにおいて、告白の契機を見出す。『審判』の二郎は、鈴子との結婚を前にして、リスクを犯してまで告白する。その結果としての、両者の違いの現れはあまりにも歴然としている。告白―懺悔―赦しー再生というキリスト教文化の風土に支えられた<ラスコーリニコフーソーニャ>の世界と違い、二郎は救われることのない罪人として、被害者の世界の眼差しにさらされながら、同一の平面をいつまでも彷徨し続けざるをえない。注5

 殺人のための殺人、動機なき殺人のテーマは次に続く小説『蝮のすえ』で、さらにはっきりとラスコーリニコフを意識しながら展開される。ちなみに、『蝮のすえ』という題名は聖書のルカ伝三‐七からとられたものである。

 これは主人公が一人称で語るスタイルの小説であるが、主人公の「私」は中国語が堪能で、日本敗戦後の上海で、旧上海居留地の残留日本人相手に、中国政府機関に提出する書類の代書人の仕事をしている。彼は、病人の夫を持つ女性顧客と、夫の上役で、その女性に強引に言い寄り、身体を奪った旧日本軍関係の男性との間のトラブルに巻き込まれ、その女性顧客の依頼によって、その暴行した男の殺害を引き受けることになる。彼が決意した理由は、そのトラブル、事件のなかで、ゼロになることをおそれたことである。「私は事件から身をひくことは自分がゼロになることに気づいた。<・・・>私はゼロになることはできなかった。<・・・>私は自分がゼロになるのを拒否する人間だという発見に驚いた」(2-88

 かって友人に「この部屋は罪と罰のラスコールニコフの住みそうなところだな」といわれた下宿の部屋を出て犯行に向かう直前、彼はこう考える。「私にはラスコールニコフのような強靭な思想はなかった。セイゼイ子供じみた衝動があるにすぎなかった。また彼のような緊密な計算も、冷静な用意もなかった。そしてなによりもあの深さがなかった。あまりにも他人まかせ、あまりにもその場限りであった<・・・>やはり私は代書屋なのだ。人の依頼で書類をつくる。それを金にする。いつも本気にならない。事件は他人のものだ。私は主人公ではない。わき役のまたわき役なのだ。それを想うと私は私がこれから為そうとする仕事が、たちまち自分から遠くはなれさり、それをつかもうとする自分の目がくらみ、足もとが揺れ動き、力がなえるのを感じた」(2-91

 彼は家を出る時に、下宿の主婦の台所から斧を持ち出し、外套のポケットにしのばせて、目的地へ向かった。路上で男を待ち伏せて襲いかかった。格闘の末、男の首筋に一撃をあたえた。しかしその刹那、すでに男の背中には別の刃物が一本突き刺さっており、致命傷をあたえたのはその肉切刀であることが明らかだった。依頼人の女性は主人公以外の他の外国人殺し屋にも頼んでいて、とどめをさしたのは、その殺し屋の一撃だったのである。「私は斧と、肉切刀を外套のポケットにしまって帰った。その二つの刃物の血を、私はラスコールニコフのしたように、水で洗い落した」(2-94)と、主人公は『罪と罰』のイメージをくりかえしながら語る。

 この作品のテーマも、つねに人生のわき役で生きてきた男が、自己確認の衝動にかりたてられて、自己の現状変更を試みるために、殺人のための殺人の行動に踏み切ろうとした話しである。

 一九四八年一月二六日夕方、東京で衝撃的な事件が発生した。いわゆる帝銀事件である。東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に、都衛生局の職員を装う中年の男が現れ、集団赤痢発生を理由に、その予防のためと称して、青酸カリの溶液を行員に飲ませ、一二人を殺害した。この事件はこれまでラスコーリニコフを参照しながら殺人の動機を考えてきた武田に大きな衝撃をあたえた。彼はその年、一九四八年五月、エッセイ「無感覚なボタン―帝銀事件について―」(「文芸時代」)を発表して、犯人と被害者の間の非情な無関係性を指摘しながら、ラスコーリニコフの犯行とはまったく異質な殺人の時代の到来を予言した。ラスコーリニコフの場合、「この斧によって行われたこの殺人にはまだあの時代の犯罪の単純性、つまり犯人の持っていた一対一的必死さ、いいかえれば殺人の人間らしさが表現されている。人を殺すことの重大性、危険性、困難、苦しさがあの斧の一撃にはこもっている」(12-107108)それにひきかえ、帝銀事件に見られる犯行には、「ラスコルニコフの場合のごとき、殺人の困難さのあたえるおそろしさのかわりに、殺人のたやすさのあたえるおそろしさがある。被害者をえらばぬこと、人数に無関心なこと、殺人の無意味さを問題にせぬこと、何気なくなしうること、これらの犯行のたやすさ、この犯人の無感覚状態は我々に何を教えるのであろうか」(12-107)武田はボタン一つで犯行が完成する「殺人ボタン」の可能性を想定し、多数の住民を殺す場合の「無感覚、及びボタン式無自覚」の危険性を警告しながら、この種の犯罪のおぞましさを次のように描写する。

「戦場の戦場らしさ、血なまぐさくもすさまじき光景を目撃することさえなく、叫びも音も光も、すべて起こりつつある悲惨事にふれることなしに、簡単に、それは終わるのである。被害者の人数、被害の結果の無意味さ、被害者の容貌、性格、運命などとは全く無関係に、ただ莫大な破壊がボタン一つで行われる。犯行者と被害者の間には、大きな空間があり、科学的機械という非情な物体があり、光線や原子や、その他一般人には原因不明、抵抗不可能な作用があって、すべてのことは複雑なだんどりで、あらゆる人間関係を断ち切った場で、いわば天災のように行われる」(12-109

 原爆を頂点とする大量殺戮の兵器が常備のものとなりはじめたこの時期、武田はこのような「近代的無感覚」がごく普通の市民の間にも一般化していくきざしを早くも読みとっていた。そしてこの問題を、人間のわかりにくさ、人間と人間の関係のわかりにくさ、複雑さとしてとらえた。『風媒花』(一九五二、昭・二七)でも、武田は主人公の一人にこう語らせている。「『罪と罰』のラスコールニコフじゃ、欲ばり婆さん一人殺すまでに、おそろしくむずかしい哲学をひねくり廻して、毎日悩んだものです。彼は斧を振りあげて婆さんの頭を割るときには、脂汗も流しています。ところがいまやラスコールニコフは旧式きわまる殺人者にすぎない。当節では殺人犯人と被害者の関係はよほどわかりにくくなっている。加害者と被害者はもはや一対一で面と向かってはいないのです。さっき僕は、人間のわかりにくさが最近ひどくなっていると申上げましたが、それは人間と人間の関係がわかりにくくなっているからです。殺す者と殺される者の関係が、実に複雑かつあいまいになりつつあります」(4-182183)

 武田はこのように、ラスコーリニコフの殺人の動機を現代の無差別殺人の動機のあいまいさと対比しながら、現代の複雑な状況をとらえる作家の自我<>の問題に注意を向けていく。この点で、彼が目標としたのはドストエフスキーの創作であった。

武田が文学青年であった昭和一〇年前後の時期、転向問題、シェストフ論争が起きるなかで、日本的な自然主義的私小説の克服が横光利一や小林秀雄ら若手文学者によって提起されていた。知識人が直面した新たな状況のもとで、彼らの分裂した自意識の問題を文学化する方法を日本の文学伝統はもたなかった。そこでドストエフスキーの文学が大きな存在として迫り、作家的自我の問題が議論された。横光の「純粋小説論」の四人称の問題もその一つであるが、小林秀雄は正宗白鳥との「思想と実生活論争」において、芸術家の創造的自我とでもいうべきものを、次のように表現していた。

「ドストエフスキイが生活の驚くべき無秩序を平然と生きたのも、たゞ一つ芸術創造の秩序が信じられた為である。創造の魔神にとり憑かれたかういう天才等には、実生活とは恐らく架空の国であつたに相違ないのだ」(「思想と実生活」一九三六、昭・一一年、 165注6

小林はまた「スタヴロオギンにして同時にゾシマである様な人間の真相とは何か」(162)というふうにも設問し、また作者像の私小説的、心境小説的解釈を批判して、「ドストエフスキイは「地下室の男」ではない。これを書いた人である。作者である」(163) と強調している。芸術家にとって実生活とは、自ずと芸術創造に吸収され、回収されていく性質のもので、創造行為を離れて論じられる芸術家の人生とは確かに一つのフィクションに過ぎないであろう。論じられるべきは芸術家の創造的自我の容量の問題である。

 武田泰淳は作家的もしくは創造的自我「私」の問題をめぐって、数多くのエッセイで言及している。彼は「小説らしいものがともかく書けるようになったのは日本が敗けてからである」(「文学雑感」一九六七、昭・四二、16-211)とのべ、敗戦前のことを、「小説家として、まだひどく初歩的な段階にとどまっている私は、第二の「私」を設定し、確立するだけで、かなり仕事の余地があった」とした上で、「それに敗戦。この爆発と逆転は、そのすさまじい光芒で、第三第四の「私」を照らし出してくれた。世界に於ける一日本人の位置と恰好が、全身にライトを浴びる舞台の裸身に似て、私の前途に灼きつけられた。私はそれを嫌悪したが、同時にそれに魅惑された。その濃厚な運命的な臭気の中へのめり込み、窒息しかかった」(「作家と作品」一九五一、昭・二六、12-185)とのべている。ここには作家主体にとっての戦前と戦後の劇的な状況の変化が語られているが、武田にとってはそれは受け身の観照的変化ではなく、むしろ、作家主体の能動的な情熱の増殖を触発する変化であった。

武田は戦後派の作家が遭遇した第一の難問として、「この「私」なるものが、一定不変のものではなくて、たいへんつかみにくい何物かであることであった」(「文学雑感」16-209)とのべ、複雑な状況のなかで、矛盾に充ちた存在であることこそ、本格的な小説家の要件であるとの認識を次のようにのべる。「「私」はたんに一個の独立人ではなくて、複雑な社会の中に置かれてある。また広大な自然の中へ投げ出されている、奇妙な生物である。しかも「文章など書きたがるやっかいな生物」であるからには、自分の中に、さまざまな矛盾や対立をかかえこんでいる。「私トハ、コンナ、ミニクイ人間デゴザイマス」と、ただ涙ながらに訴えるだけでは、この矛盾や対立の、せっかくの重みを大切にしないことになる。社会科学者だったら、あんまり自己の内心の矛盾や対立をさらけ出していたのでは、学会の信用を失うことになるから、ほどほどにしなければなるまいが、小説家はむしろ、自分で解決できないほどの矛盾や対立を背負いこんでいる方が、たのもしいのである。もしも、このように扱いにくい矛盾と対立が、自分の中にかくされていなかったら、作家はどうやって長編の中の人物たちに、火花をちらす対話をやらせることができるだろうか」(同)

このように作家の創造的自我の容量を問う武田にとって、ドストエフスキーは最も偉大な鑑であったことは間違いない。次に長さを顧みずに引用する武田の一文には、その深い思いが感じられる。

「小説には、告白や記録の要素がふくまれている。たった一人の人間が「おれはこうだったんだ」と、告白し記録するのも貴重な行為だ。だが、多数の人間の、告白と記録とが、入りまじって、大きなドラマを形成したら、どんなにすばらしいことだろう。その悪魔のごとき、すばらしさに、魅せられてこそ、小説家たるものの本懐なのだ。「ボクハ誠実ニ、コウ感得イタシマシタ」だけでは、いかにも作家として、楽しみが少ないのである。

「私ハ、私ノ日常生活ヲ、ココニ、誠実ニ告白シ、記録イタシマシタ」と言ったところで、その「私」「日常」「誠実」は、決してうねりくねる現実社会の大きな渦と、無関係に存在しているはずはない。その「私」は、たえず変化の可能性をはらんだ、不可思議なモノであり、その「誠実」は、無数の無関心と、ひとりよがりに虫ばまれている。

たとえば、ドストエフスキーの「私」を考えてみるがいい。その「私」が誠実だったことを、だれもうたがうことはできない。だが、「カラマーゾフの兄弟」の三兄弟、その父親が生み出されるためには彼の「私」は鉄をも溶かすほどに過熱されたり、さわる者の心を凍らせ、しびらせる最低温まで、降下したりしなければならなかったのだ。彼の「私」は、冷徹なイワン、情熱的で動物的なドミトリー、神を信ずるアリョーシャだけでは、表わすことができなかった。あの気味のわるい、スメルジャコフまで登場させても、まだまだ、十分ではなかったのだ。

おまけに、あの複雑な殺人事件の全過程に対して、彼の「私」は、責任をもたなければならなかった。

「カラマーゾフ」を読みはじめるが早いか、私たちはドストエフスキーの広大な「私」の、天国と地獄の奥底ふかくみちびかれてゆく。あまりにも、ふかく、ひろい彼の「私」に、吸いこまれ、分解され、ふくれあがってしまうので、この偉大な作品に「私」があったことまで、忘れてしまうほどだ。

作家の「私」とは、本来、そのようなものでなければならないのではないか。目がくらむほど深遠な、人生の豊富さに向かって、ひらかれた戸口、それが、作家の「私」であってほしいものだ」(16-208)

批評家・小林秀雄が戦前、アフォリズム風にのべた、ドストエフスキーのような「創造の魔神にとり憑かれたかういう天才等には、実生活とは恐らく架空の国であつたに相違ない」ということの意味を、武田はここに解き明かしているように思われる。小説は架空の世界であって、作家の実生活にこそ創作の秘密があると見るのが、並の批評家、論者の常識で、この常識を疑ってみないところに多くの精神分析学的な方法やテキストの記号論的な分析は安住しており、彼らの描き出す作者の伝記的実生活こそフィクションにほかならないというアイロニカルな構図を、武田の言葉は示唆しているように思われる。

武田泰淳が自分の創作の問題に引きつけて理解するドストエフスキーの作家的自我「私」の拡大・深化へ関心は、両者の人間学的共通性と無関係ではない。ドストエフスキーに関する武田のもう一つのエッセイ「カラマーゾフ的世界ばんざい!」はそれをうかがわせるものとして、興味深い。

小説の最後の場面で、コーリヤと少年達が「カラマーゾフばんざい!」と叫ぶのは、一応、アリョーシャに向けられたものと読者には理解されるが、武田によると、「しかし私としては、この「カラマーゾフばんざい!」という叫びの中には、殺された父親、父殺しと疑われたドミートリー、哲学的な怪物イワンも含まれていると感じます。含まれていなければならないのです。血のつながりがあるからには、かの悪漢スメルジャコフでさえも含まれていなければ、作者ドストエフスキーは満足しなかったはずです」

そして、これは大方の読者にも納得のいくところであろうが、「しかし、やはりこの長編をていねいに読み、まだ興奮のさめやらぬ読者は、「このカラマーゾフばんざい!」の叫びの中には、カラマーゾフ家全員のみならず、全登場人物が含まれていると信じないわけにはいかなくなるのです」と武田は指摘し、さらに大きな空間的な広がりをもった解釈を提示する。「したがって、カラマーゾフ的なものとは「全人類的なもの」にほかなりません」(16-70)「いろんなものに触れて無垢でなくなっているのは、一家族カラマーゾフのみではない。そう悟ることがカラマーゾフ的思考法なのです。いやカラマーゾフ的自分自身をまず発見し、たしかめ、こころみることによって、無数のカラマーゾフ的人類と結びついていく。それがカラマーゾフ的であり、それは「理解」というよりは、むしろ情熱、行動、宿命といったような困ったこと、息苦しいこと、取り扱いにくいもの、救いようのない矛盾の中で救いを求める衝動とも称すべきものなのです」(16-71

こうしたドストエフスキー理解からうかがえるのは、武田がドストエフスキーの人間学的思想に深く透徹していたであろうことである。武田にとって人間は、ドストエフスキーにとってそうであったように、一義的にはつかみえない複雑きわまりない存在であった。彼の人間理解はその半生の体験によって培われたものであった。彼は大学の宗教学の教授で僧侶であった父のもとで、寺に生まれたが、少年の頃から、宗教が職業であることに疑問を抱いていた。学生時代には左翼思想の洗礼を受けて、一九三一年(昭・六)東京帝大支那哲学支那文学科一年の時、中央郵便局にゼネスト呼びかけのビラをまく活動に参加し、逮捕され一ヶ月ほど拘留された。さらにその後も、新聞配布の活動で、三回逮捕され、在学一年にして、退学する。その後、同人誌に参加して冒険小説を発表するが、一九三四年(昭・九)竹内好らとの中国文学研究会発足を機に、現代中国文学の動向などを紹介する論文、エッセイを多数発表。一九三七(昭一二)年、召集を受け、一兵卒として、中国に派遣される。一九三九年(昭一四)、上等兵で除隊。その後も現代中国文学に関するエッセイ、翻訳を発表するが、一九四三(昭・一八)年、彼の作家としてのスプリングボードとでもいうべき、『司馬遷』を発表した。その後、彼は日本敗戦の一九四五年八月を間にはさんで、上海に滞在。四六年四月、引き揚げ船で帰国した後、翌四七(昭・二二)年から矢つぎ早に小説を発表した。

小説家・武田泰淳の誕生にあたって、大きなバネとなったのは、戦前戦後の中国での彼の体験とともに、中国の歴史家・司馬遷の評伝に取り組むことによって目を開かされた歴史観・人間観の広がりであった。武田は司馬遷の生きざまと世界認識、歴史認識から、「歴史を横に眺めて空間的に考える」物の見方を学んだという。それは「歴史を縦に見て、はかなく消えていく『平家物語』のような考えかた」とは別なものであった注7。物事を空間的に見るという武田のこの獲得形質は、軍隊経験、敗戦後の混乱をくぐる中で、彼に作家的眼の増殖をうながしたにちがいない。その自覚は日本の伝統的文学風土のなかでも、特筆すべき現象であった。

ちなみに、日本の文学風土のタテ系列の優越と、横からの相対的人間関係の認識の欠如を、繰り返し指摘していたのが、武田泰淳よりも七歳年長の伊藤整であった。伊藤は転向問題が起きた昭和一〇年前後の頃の現象にふれてこうのべている。

「体験的伝統的な発想形式としては日本になかった社会的生活認識が、突然純粋図式のマルクス主義によって継木されたのである。それが弾圧されたとき、転向者は急速にそれから離れて破滅者として無の認識に落ちて行った。そうでないものは、その図式をそのまま絶対君主制と結びつけて侵略的政治思想に転化し、近代思想以前の軍国主義に容易に変化した。それは日本の伝統的発想においては、人間関係は対等即ち横の等質の組み合わせで考えられず、タテの支配と従属の関係としてしか存在しなかったからである。日本では横の人間関係が厳しく考えられる時は、人間相互を結びつけるようにならず、遊離、遁走という離反関係を呼び起しがちなのである。私小説という孤立した人間のイメージにのみ強い真実がこめられる真原因はこれであろう。それゆえ日本人の強い個我は他の人格から離れて無の上に孤立せる我である」(57)注8

横光利一や小林秀雄らによって、シェストフ現象後の私小説の克服が課題として提起されていた時期にかかわる伊藤整のこの指摘は、武田泰淳の戦後に爆発的に開花する作家的自我の意味を照射してくれているように見える。伊藤のもう一つのパッセージにも注目しておこう。

「このような人間存在の相対性の認識は、日本では、人間の組み合わせのグループから起るものとして考えられず、時間の経過という並列の形で把握される。即ちそれは、個なる存在が無に落ちてゆくことを次々と反復させることで、タテ系列の存在の相対性をさぐる方法であった。はかなさ、無常という種類の観念によるものである。グループとして考えることは、ヨーロッパ的である。そこには、人間が他の人間と結びつく形で、即ち人間の相互認識が根本にあるところで行われる」(69)

武田と伊藤では、比較の対象が中国と西欧の違いこそあれ、日本人のメンタリティにおける空間感覚、相対的意識の希薄さを指摘する点では同じである。

 ここでM.バフチンがドストエフスキーの芸術的眼を特徴づけている言葉が想起されよう。「ドストエフスキーの芸術的眼の基本的カテゴリーは形成ではなくて、共存と相互作用である。彼は自分の世界を主として、時間においてではなく、空間において見、かつ思考した」その結果、バフチンが指摘するには、「一人の人間の内的な矛盾、発達の内面的な段階でさえも、彼は主人公たちを自分の分身、悪魔、自分のalter ego、自分のカルカチュアと対話させることによって、空間において劇的に表現している(イワンと悪魔、イワンとスメルジャコフ、ラスコリニコフとスヴィドリガイロフなど)。ドストエフスキーにおいて、人物が一対で登場する通常の現象は、この特性から来ている。端的に言えば、ドストエフスキーは一人の人間内部のそれぞれの矛盾から、その矛盾をドラマ化し、拡大するために、二人の人物を造り出すことをめざした」注9

 小説家として、日本の自然主義的・私小説的風土からの脱却を志向し、物事を空間的に見るという方向に賭けた武田泰淳が、戦後のデヴュー作『審判』で、「もとの私ではなくなってみること」に殺人の動機をすえ、第三作『蝮のすえ』で、「ゼロになるのを拒否する人間」に焦点を置いたのも、同一空間における別人格の潜在的可能性への眼差しに導かれてのことであったろう。武田は第二作『秘密』(一九四七)で、また『「愛」のかたち』(一九四八)で、さらに最終作『富士』(一九六九)で、バフチンのドストエフスキーに関する指摘を思わせる、登場人物の分身関係を描いている。

 『秘密』は一人称の告白スタイルの小説で、女性をめぐる主人公「私」とライバル関係にある男とのかけひきが、表向きの主題となっているが、私小説に対する武田のスタンスを構造化したような作品で、同時に小説論としても読めるような、二重のプランから構成されている。

 主人公の「私」は会社の年下の同僚、八木の運命を陰で支配する悪な人物であるが、次のような言葉で、二人の関係を表現している。「彼は私小説論者であり、自己の苦悩をあくまで追求するのを目的としているが、その苦悩の一つとして私の知らぬものはない。何故なら八木の苦悩のほとんどすべてのものに私が関係を持っているからだ。私は彼の苦悩を眺めつくし味わいつくしているばかりではない。それを創作しているのだ。彼が必死で書こうとあせっていることは、いわばすでに私によって創作され、記録されていることなのだ。これは別だん私が非凡な作家であるわけではない。彼に比べて年長であり、ホンのちょっと悪人であるからにすぎない。実にホンのちょっと、ごくわずかの悪人性なのに、それを持っているために私は優位にたち、彼を人物として、彼以上に小説の書ける状態にたち至った」

 主人公「私」は自分の悪行を披瀝し懺悔しようとしてこの小説を書くのではない。私小説的な狭い生活空間で、この年長の友人「私」を信頼し、家庭問題や恋愛問題について打ち明け、相談する八木を、「私」は相手に気づかれないように陰で裏切り、八木の恋愛相手の女性、彼の妻、姉にまで、触手を延ばして関係を結び、私小説作家、八木の苦悩を高めることに喜びを見出している。

「八木は苦悩を行為し、私は冷やかにそれを眺めた。苦悩する者と、それを眺めるもの、そのいずれが文学の本質を保持することになるのであろうか。この問いに対し、人はすべて「苦悩するものこそ!」と叫ぶであろう。それでは私は?私は文学の世界に縁のない、のけ者にならねばならぬのか。私はこの恐怖に対して、性来の自信を以って反撥した。私は八木に勝たねばならなかった」(2- 36

ここに、私小説に対峙する武田の自己の創作意識への問いかけが読みとれるように思われる。そもそもこの作品を書く動機を、主人公の「私」は「こんな小説を書くのは、小説を書くという行為が、真実如何なる行為であるかを試してみたいからだ」とのべている。そして、小説を書く行為に付随する「ある一つの絶対性」、「かまっていられない性格、非情というか純客観というか、非倫理というか、ともかくある一種のたまらなさ、作者の知慧のいやらしさ」、それを説明するためには、八木と自分の態度を「小説風に語るのが一番ピッタリしていると思う」とのべ、「作者としての私のいやらしさが、人物としての彼の良さと対比され、問題はハッキリして来ると考える」と表明する。「懺悔や告白が小説になるなら、私は小説なるものを、さまでおそろしいとは思わない。だが小説創作には何かそれ以外の虚偽、一種の非人間的行為が含まれていないか」(2-27

 武田は私小説的な創作意識を翻弄する、悪人的、悪魔的とでもいえる創作意識への志向を、この作品ではっきりと打ち出している。「竹を割ったような生一本の純情男の文学と、曲がりくねった陰性の秘密男の文学。<・・・>しかし私はいつもそんな時、なに八木の路が俺より正しいとしても、しかし俺は八木より遠くへ進みつつあるのだという自信を棄てないでいた」(2-33

 武田はこのように、「いやらしい智慧のうごめき」、非情さをいわば創作衝動として積極的に活用し、創作の広いパースペクチブを獲得するための必須要素として重要視していたと思われる。これはドストエフスキー文学と引き比べた時に、『虐げられし人々』のワルコフスキー公爵や『悪霊』のスタヴローギンなどを想起させるもので、いわば視野の狭い他の自然主義的な人物たちの上に君臨し、彼らの運命を翻弄したり、指嗾したりする人物の創作方法上の位置を考えさせる手がかりになるといえよう。武田はさらに、この「いやらしい智慧」を神の業に類推する。「しかし神よ。(私はこの文字を使うのは嫌いだ。もし神が存在したら私はどんなに困るであろう)あなたのやりかたは実に複雑微妙ですね。その秘密の深さ、それは私の秘密など及びもつかぬはげしさ」(2-44)「私のいやらしい智慧は、あなたと無関係に、あなたの智慧をまなぶことなくして生まれたのでしょうか。あなたこそ地上の微小なるわれら創作家のはたらきを、自由に生み、そだて、うごかし、やがて消し去る大いなる非情にして秘密の力ではないのですか」(2-45

 自己を神の位置にまで高めようとするドストエフスキーの小説の一連の無神論者たちは、武田流に読めば、ドストエフスキーという創作家の「いやらしい智慧」の断面と解することもできよう。

 『秘密』の延長上に位置づけられる『「愛」のかたち』(一九四八)は三人称小説で、これも男女間の問題をテーマにしているが、この作品でももう一つの主題が並行していて、作家の創作衝動のアナロジーを読みとることができる。主人公である光雄は小説家で、『秘密』と同じく、他の登場人物に対して全能者として振舞う。夫のある町子は性的不感症の女性で、夫に満足をあたえられず、夫婦間は冷めているが、彼女は光雄に愛してもらいたいばかりに、彼に美しい肉体を投げ出し、光雄は光雄で、町子の肉体にふれることで満足をえていた。町子は夫、光雄以外の男性Mとも過去に交渉があり、町子を追いかけるMは、信頼する光雄にすべてを打ち明けていたが、光雄は陰で町子を自分に惹きつけ、Mを裏切っていた(ここに先行作『秘密』のバージョンが埋め込まれている)。

光雄の裏切りを知ったMは絶縁状をたたきつけ、光雄を「利口な野獣」だとののしった。それに触発されて、光雄は『利口な野獣』という短編小説を書き、発表した。この作品に彼は「私と『私』の話」というサブタイトルをつけたが、それは「Mが発見した光雄の性格と、自分自身が発見した性格との間に、くいちがいがあったからであった。Mは光雄をその恋愛行為において「利口な野獣」とみとめ、光雄自身は「危険な物質」とみとめている、その二つの「私」が、光雄にも解決つかなかったためであった」(2-232)

 この作中小説の中で、「私」の内部のもう一つの陋劣な『私』を描くために、一つのエピソードが語られる。作家仲間が集う飲み屋で、「お前はいつも『私』を出さんぞ。よくないね、そんなお前の小説はよくないね」、「お前はすこし利口すぎるぞ。利口で書こうとするからいけないんだ。ばかになれ。馬鹿になって自分を出すんだ」(2-233)と批判された主人公は、自分の内部の陋劣な「私」の存在を確証する行為におよぶ。酔った勢いでの蛮行とはいえ、主人公によると、「私に実行力なるものがありとすれば、それはただこの私の内部の愚劣なばかげたものの働きなのだ」(2-232)というわけで、作家仲間に批判され、恋人、町子とのデートの時間が近づいたころ、この「陋劣なもの」の衝動に突き動かされる。「ことに無意義な冒険を無意識になすのは陋劣な「私」の最も好むところであった」(2-235)

 主人公はつと飲み屋を出ると、ガード下あたりのせまい横丁の路地で、ズボンをおろして脱糞するのである。「脱糞しようとしたのは私ではなく「私」なのだ」(2-236)。通行人に見咎められ、現場に引き戻された彼は、自分のQを手づかみにしてゴミ箱に捨て、水で手を洗って、その直後に現れた町子の肩を抱いて、何食わぬ顔で、飲み屋を立ち去る。その様子を見ていた木村ことM(町子を恋していた)は、非難の手紙を寄こす。「あなたは利口なひとだ。利口な野獣だ。あなたは ―おそらくこれも強者のみのすることでしょうが―可能性が生まれてからのみ、行動する。きわめて確実に、可能性のあとを巧みに追う」(2-242)、「あなたには実行力がある。卑しさの根源をなす野獣的な実行力がある。ぼくにはそれがない。僕は野獣が妹を連れ去るのを眺めるごとく、あなたたちが人混みの中に没するのを呆然と見送ってから、夢中で附近の友人の家へたどりついた」(2-243)、「いかなる行為も、それが人間がするものである以上、人間的なのだ、これはあなたのおきまりの文句だった<・・・>それはあなた自身の行為、昨晩のごとき野獣的な行為に対する弁明にしかすぎなかったのです」(2-244)

 まったく太刀打ちできない自分の偶像に批判の矢を投げつける木村(M)に対して、優位に立つ光雄自身の自己認識は次のように示される。

「動物的エネルギーが強いことから生まれる悪、それを光雄が保持していると推定して、Mは彼を「利口な野獣」と呼んだ。また動物的エネルギーが弱いことから生まれる悪、それが自分に付与されていると推定して、光雄は自分を「危険な物質」と呼んだ。この一見相反するような二つの悪が自分の生命にまつわりついていることは、光雄とても不快である。しかしそれを意識しても、光雄は徹底的に苦しまない。苦しめるはずがない。なぜなら、呼名や概念が規定され、いよいよそうと決定断定されたところで、どこかでこれをくぐり抜け、ちがった本質を見せる用意があるのが、「利口な野獣」だし、規定され決定された自分の本質をまるでひとごとのように、自分の外に立って呆然と眺めたり、あるいはそんな風をするのが、「危険な物質」だからである」(2-250)

ここで何がいわれているのか?一義的には理解しがたい、二重、三重の意味がこめられている文章であるが、これを試みにM・バフチンの「作者像の問題」の概念を借りて解釈してみよう10。光雄が作者の分身であるとして、しかも、他の人物たちを翻弄する我意の強さを付与されているとすれば、彼は小説家という職業からいっても、M・バフチンのいう、「創造され創造する自然   (natura creata quae creat)」としての「二次的作者」の位置をあたえられているであろう。しかし創作衝動ともいうべき「動物的エネルギー」を相対化し、制御するもう一つの要素(それを「動物的エネルギーが弱いことから生まれる悪」としている)が作家の創作意識の内奥にはあって、「創造し創造されない自然(natura non creata quae creat)」としての一次的作者の領域がそこに存在することを暗示しているように読みとれる。一方では呼び名や概念をくぐりぬける「利口な野獣」、他方では規定され、決定された自分の本質をまるでひとごとのように、自分の外に立って呆然と眺めることのできる「危険な物質」とは、融通無碍の存在であり、時空間の因果関係によってはその像を固定しえないものだからである。M・バフチンはこのような深奥の作者の存在についてこうのべている。

「一次的作者は像になりえない。彼は、どんな像を想像しようとしても、逃れ去る」、「一次的作者は、直接の言葉で登場するとき、まったく作家ではない」、「真の作者というものは形象となることがない。作者は作品のなかにあらゆる像、あらゆる形象の創造者なのだから」11

このようなバフチンの指摘は、ドストエフスキーの作家像を論じる際に、きわめて有効な概念として機能すると思われるが、ドストエフスキーを仰ぎ見ながら自己の作家的自我の容量の拡大を追求してきた武田泰淳の作家像の理解にも、示唆をあたえると思われる。

武田は一九四八年、『「愛」のかたち』を発表する同じ時期に、「私を求めて」(「文芸首都」、一九四八・八)と題する二頁ばかりの短いエッセイを書いている。そこで武田は、作家的自我の私がいかに無数の「私」から成っているか、究極的な作者の私の像とは何かについて、こうのべている。

「「私」は第二、第三の私であり、無限の私であり、私の部分であることによって、かえって私の全体である。そこに描かれた「私」は、捕らえられ、ストーリーの運びに都合よき足どりをあたえられた、或る限定された私ではあるが、それはまた私の全可能性をほのめかし、それに向かって突進せんとする「私」である」(12-115)、「作家が彼自身であろうとする努力と、そこから脱出しようとする努力。これら作家の苦しいいとなみが、ただそれのみが、彼をして「私」を生み出させる。作家が自己の生み出した多数の「私」にとりまかれている姿は、福々しい老翁が多数の子孫にとりまかれている状態よりは、全身の傷口からはい出した(うじ)を自ら眺めている負傷者の形に似ているかもしれぬ。おそらく作家は、自己の作品中の「私」から、この負傷者の感ずる如き戦慄をうけとるであろう。しかしその戦慄によって、彼はふたたび眼をひらき、腰をもちあげ、重き手をとりあげて、彼の苦しいいとなみをつづける。そしてその彼のいとなみを最後まではげまし、強くひきだし、見守るものは、彼の傷口から生まれた「私」たちなのである。「私」とは、作家にとって、それほど運命的なものなのである」(12-115

 創作家の私が、分身としての無数の「私」にとりまかれ、圧倒されそうになりながらも、そこから脱出し、無限の超越的な境地を求めて格闘する運命にあることを、武田のこれらの言葉は語っている。武田が自分について語るこのような作家像は、前記のバフチンの作家像についての言葉と通底しながら、明らかに、ドストエフスキーの作家像についての理解につながるものであった。それはすでに先に引用した『カラマーゾフの兄弟』についての彼の言葉が見事に語っていよう。

 武田泰淳は創作活動の最後を飾る作品として、長編大作『富士』を残した。ドストエフスキーの長編にも匹敵するこの大作では、人物たちの幾重にもおり重なる分身関係が描かれている。語り手である精神科医の主人公が、終戦後二十五年経った時点で、過去を回想して書いた手記という体裁であるが、舞台は戦争末期の富士の裾野にある精神病院、医者と患者、患者同士、病院関係者、憲兵軍曹、村人たちの交錯した関係を描いている。社会的には正常と狂気に分けられる世界でありながら、軍国主義時代の社会の異常さによって、その境界はあいまいになり、むしろ正と狂が逆転する気配すら濃厚に感じさせる。時代に対する一種のアレゴリー性を濃密に漂わせながら、正常者と異常者の分身関係の暗示によって、同一空間内における人間の肉と精神の極限的なありようが読者に伝わってくる。

 例えば、院長、甘野は『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の信奉者で、長老とその弟子アリョーシャが持つ「宗教的やさしさ」を生きる道しるべとしている。他方、元陸軍省勤務の患者、大木戸は、食欲以外には無関心の男であるが、その姿かたちが院長そっくりで、精神と肉体のそれぞれの代表者のように、語り手には思われるのである。

 語り手の青年医師、大島自身、同じ精神医学を勉強していた同級生でありながら、自分は宮様であるという妄想にとりつかれ、虚言症患者として病院に収容されている一条という美青年のそっくりさん、というふうに見られている。院長の言によると、「君たち二人は、一人の躁鬱患者の、躁の部分と鬱の部分を二人して分けあって、背中と腹のように、表裏ぴったりくっつきあっているように見えることがあるんだから」(10- 151

このように明白な分身性の記述がない場合でも、妄想による他者への同一化のもたらす主客転倒した混乱が主題となっていて、猥雑でありながら、濃密な人間臭とメタフィジカルな詩想(ポエジー)が混淆したスケールの大きい文学空間が創造されている。これは確かに、かって日本文学になかった質の小説であり、埴谷雄高の『死霊』に近接する武田風バリエーションといった趣すら感じられる。いずれの場合にも、ドストエフスキーによって触発され、創造された文学空間ということができよう。長編『富士』については、さらに詳細に再論される必要があろうが、とりあえずこの稿では、次の諸点が確認出来れば十分である。武田泰淳のドストエフスキー受容が、「私小説の克服」という昭和一〇年代からの日本文学の本質的な課題を継承しながら、作家の「私」の問題についての洞察に、画期的な地平を開く契機となったこと、そしてそれが武田文学自体の作家像の在りようを示すとともに、私たち現在の読者がドストエフスキーの作家像を理解する場合にも、とかくあり勝ちな、フィクショナルな自然主義的・私小説的伝記像に傾くことなく、創作行為の巨大な容器としてとらえること。そのためには、テキストにどのようにアプローチするかが、読者に厳しく問われることはあらためていうまでもない。

 

 

 



注1 「ドストエフスキイと私達」(「埴谷雄高ドストエフスキイ全論集 一六六頁 講談社、一九七九」

注2 討論「『悪霊』をめぐって」の報告(同右、九〇一頁)

注3 武田泰淳全集全二一巻、筑摩書房、一九七一、以降、作品からの引用末尾のカッコ内数字は巻と頁を示す)

注4 以下、『罪と罰』からの引用は米川正夫訳(河出書房愛蔵決定版、カッコ内は巻と頁)

注5 ちなみに、井桁貞義氏は著書『ドストエフスキイ 言葉の生命』(群像社)で、ラスコーリニコフのソーニャ、二郎の鈴子への告白に共通する「ひどい仕打ちをうけた幼女」のイメージを指摘するとともに、両者のフィナーレの違いについて、武田がソーニャにすがりつくラスコーリニコフを甘いとし、批判していたのではないかとしている。同書三九九頁参照。

注6 新訂小林秀雄全集第四巻(新潮社)一九七八、同書からの引用末尾カツコ内のアラビア数字は頁を示す。

注7 「文学と私」(武田泰淳『身心快楽自伝』)創樹社、一九七七、九頁

注8 伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』、岩波文庫、同書からの引用末尾カツコ内のアラビア数字は頁を示す。

М.Бахтин «Проблемы поэтики Достоевского» М.,1963, с.38-39

 

10 ミハイル・バフチン「一九七〇〜七一年の覚書」(新谷敬三郎訳)「ことば対話テキスト」(著作集8)、新時代社、三〇八〜三〇九頁

11 同 「人文科学方法論ノート」三二六頁